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2015/10/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(2) 生け花その他

M695

図―695

 

 図695は、日本の床が地面から上っているところを示す図である。縦の部分にある板には、よく形板で切り込んだ竹、松その他の月並な形が装飾として用いられている。これ等の板には取り外しの出来るものが多く、床下の空所は草履(ぞうり)、傘等を置く場所にする。日本の家屋には地下室が無く、このような形を切り込んだ板や格子が、床下の通風に役立つ。

 

 日本を訪れる外国人は、先ず最初に、日本人が花を愛することの印象を受ける。どこにでも、庭内に、あるいは小さな水槽の中に、植木鉢やぶら下る花入れや立っている花入れがあり、そして外国人は、日本人が花を生ける方法の簡素さと美しさとが、いたる所に顕れていることに気がつき出す。更に調べると、人に優雅で芸術的な花の生け方を教えることのみを務めとする、先生がいるという事実が判って来る。それにはいろいろな流儀があり、卒業する者には免状を与える【*】。

 

 

*ニューヨークの、ミス・メリー・アヴェリルは、日本で生花をならい、免状を受けた。彼女は日本の生花に関する本を書いたが、これはこの問題に興味を持つ人には大きに役立つであろう。またコンダアの『日本の花と生花の芸術』と題する著書は、この間題に関する重要なものである。

[やぶちゃん注:「メリー・アヴェリル」(Mary Averill 一八六六年~一九五四年)。英語版“Wikisource”“Author:Mary Averill”に拠る。そこには“Japanese flower arrangement (Ikebana) applied to Western needs”(一九一三年(大正二年相当)刊)及び“The flower art of Japan”(一九一五年刊)の著作を見出せ、またここでは彼女が「Kwashinsai Kiyokumei」という邦名雅号を持っていることも判る。

「コンダアの『日本の花と生花の芸術』」「コンダア」はお雇い外国人で工部大学校(現現在の東京大学工学部建築学科)の教授を勤めた、イギリス人(ロンドン出身)の建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 一八五二年~一九二〇年)のこと。参照したウィキの「ジョサイア・コンドル」によれば、『政府関連の建物の設計を』手掛け、また、『辰野金吾ら創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた』とある。経歴を見ると、未だ十歳だった一八六二年に開催されたロンドン万国博覧会で見た展示物から日本美術に興味を持ち始め、二十一の時(一八七三年)に、日本美術愛好家として知られたイギリスの建築家ウィリアム・バージェス(William Burges)事務所に勤務したり、ステンドグラスを学んだりして、一八七六年には「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞、その同じ年に日本政府工部省と五年間の契約を結んで、翌明治一〇(一八七七)年に来日、工部大学校造家学教師及び工部省営繕局顧問となって麻布今井町(現在の六本木)に住んだ。その後、明治一四(一八八一)年元浮世絵師で日本画家の河鍋暁斎に入門、「大兄皇子会鎌足図」「雨中鷺」といった作品を描いたりした。の契約終了解雇後も日本に残り(帝国大学工科大学講師として官庁集中計画の一環で学生を引率してドイツへ出張後、ロンドンに一時帰国したりはしている)、明治二一(一八八八)年には大学講師を辞任して建築事務所を開設、明治二六(一八九三)年には花柳はなやぎ)流舞踊家の前波くめと結婚、大正九(一九二〇)年に麻布の自邸で脳軟化症のために亡くなった。ここで彼が連載しているというものが何かは不明であるが、当該ウィキその他を見ると、彼には、「庭造法」(マール社・発行年不詳)、来日以後のモースが指示している“The Flowers of Japan And The Art of Floral Arrangement”(明治二四(一八九一)年刊)の他にも、“Landscape Gardening in Japan”(明治二六(一八九三)年博文館出版刊)・“The Floral Art of Japan”(一八九九年)や、“Supplement to Landscape Gardening in Japan”(発行年不詳)などの著作があり、その表題を見るだけでも日本庭園やそのガーデニングに著しく執心していたことが窺われる。因みに、全くたまたま同時(同日)に電子化注した小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (二)にも彼の名が出ている(と同時にモースの名も出る!)。是非、参照されたい。]

 

M696

図―696

M697

図―697

 

 生花は決して女性のみのたしなみでは無く、大学の学生も、我国の学生が自分の手首の骨を脱臼させること無しに、他人の鼻を彼の顔の上でペシャンコにさせる芸術を稽古すると同じく、何等不自然なことなしに生花の稽古をする。図696は、若干の花を優雅に生ける懸(かけ)花入れの写生である。籠は非常に古く、署名つきである。事実籠をつくる人は、陶工、根付、印籠(いんろう)の作者、金属細工人、その他の細工人が彼等の作品に署名するのと同じく、自分の名を記す。米国に於る教義を思い出す人は、かかる事柄に関する日本人の芸術の真価をうれしく思う。古い支那学校で行われた午餐会には、床の間に三個の大きな花のかたまり、つまり花毬(ブーケ)の高さ四、五フィートのものがあった。それ等は布をかけた台の上に簡単な円筒形の花生けに入っていて松の大きな枝や小枝の間に花をあしらったものであった(図697)。

[やぶちゃん注:「他人の鼻を彼の顔の上でペシャンコにさせる芸術」底本では直下に石川氏による『〔拳闘〕』という割注が入る。こんなところでモースがボクシングを場違いな比喩で示すのは無論、彼がどこかでそれを野蛮な競技と思っているからででもあろう。しかしモースはそれをやらせたら、強そうにも見える。

「教義」原文は“cult”。ちょっと分かり難いが、自己の信ずる派閥を顕示するために、殊更にサインやネーミングをする志向を指すものか?

「古い支那学校」湯島聖堂か? 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 51 モース先生一時帰国のための第二回送別会 又は モース先生、指相撲に完敗す 又は モース先生、大いに羽目を外すを参照。

「四、五フィート」百二十二センチメートルから百五十二センチメートル。]

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