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2015/10/01

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大館主從墓/袖の浦/七里濱/行合川

    ●大館主從墓

大館主從の墓は。袖ヶ浦の海濱に出(いづ)る道の左人家の間に在り。義貞鎌倉を攻(せむ)る時。極樂寺口に向ひし大館又次郞宗氏主從十一人戰死せしを。此の處に埋めしといふ。一株の松の下に一片の碑(いしぶみ)を立たり。行客豈に一掬(いつきく)の淚を漉(そゝ)かさらむや。

[やぶちゃん注:「大館又次郞宗氏」既注であるが、名将を悼んで再掲する。大館宗氏(おおだてむねうじ 正応元(一二八八)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は上野新田荘大館郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、鎌倉極楽寺切通口突破の大将として幕府軍の大仏貞直(おさらぎさだなお)軍と戦闘の末、五月十九日に壮絶な討死をした。なお、「新編鎌倉志卷之六」の「十一人塚」には、

   *

〇十一人塚 十一人塚(じふいちにんづか)は、稻村より七里へゆく道の左にあり。里民傳へて、昔し新田義貞の勇士十一人、此所にて討死したりしを、塚(つか)につきこめ、上に十一面觀音を立たる跡なりと云ふ。義貞の勇士十一人、未だ考へざるなり。昔より此濵邊は戰場なれば、いづれの人をか云ひ傳へたる。不審。

   *

とある。新田義貞の右腕であった大館宗氏は極楽寺切通からの一番乗りの鎌倉侵攻軍の大将であったが、切通への進軍の前に鎌倉方の武将本間山城左衛門が先手を打って大館の本陣に切込み、宗氏以下部下十一人が戦死、その遺髪をここに埋め、十一面観音を祀ったとされる。但し、討死した場所については鎌倉に侵入成功後の稲瀬川ともされる。私は後者が正しいように感じている。何故なら、新田義貞以下の主力軍が稲村ヶ崎を回って鎌倉市街に侵攻した際、どうも既に新田軍の先遣部隊の一部がそこに陣を敷いていたと思われる節があり、この一群は極楽寺坂からの侵攻グループとしか考えられないからである。]

 

    ●袖の浦

袖の浦は。稻村崎に連る海濱をいふ。其の狀(じやう)袖(そで)の如し。故に名く。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之六」の「袖浦」を私の注ごと引く。

   *

○袖浦 袖浦(そでがうら)は、稻村が崎の海濵、形(かたち)、袖の如し。故に袖(そで)の浦(うら)と云ふ。順德帝の御製に、「袖(そで)の浦(うら)の花の浪にも知さりき、いかなる秋の色に戀ひつゝ」。定家の歌に、「袖の浦にたまらぬ玉の碎けつゝ、よりても遠くかへる波哉」。西行が歌に、「しきなみに獨やねなん袖の浦、さはぐ湊(みなと)による舟もなし」鴨の長明が歌に、「浮身(うきみ)をば恨みて袖をぬらすとも。さしもや浪に心碎けん」。

[やぶちゃん注:この袖が浦は稲村ヶ崎の西側(七里ヶ浜側)砂浜を指している。現在、辞書などで袖ヶ浦を七里ヶ浜の別称とする記載があるが、明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でも「七里ヶ浜」を掲げた後に「行合川」を挟んで「袖ヶ浦」を揚げており、本書も次の次に「七里濵」を掲げている以上、厳然と区別すべきである。ここで西行作とする和歌は西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP「山家集の研究」「西行の京師」(MM二十一号)に、

   《引用開始》

東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、

  しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし

という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。

   《引用終了》

とある。実は本書の原資料となった「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」で、この和歌は西行作として掲げられている。……もしかするとこれって……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。なお、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の当該項(ブログ公開版)を参照されたい。

   *

 

    ●七里濱

七里濱(しちりがはま)は稻村崎より腰越(こしこえ)に至るまでの海濱をいふ。昔者阪東道は六軒を以て一里とす。此處四十二町あり。故に名く。水際(みづきは)沙(すな)深くして履(くつ)を沒せむとす。磯貝あり沙に雜(まじ)る。爛(らん)として落花の地に點ずるが如し。又鐡砂(てつさ)在り。日之に映すれば輝(かゞやき)て銀に似たり。以て鐡器を磨くベし。手を額(ひたひ)にすれは。江島(えのしま)遠く海に在り。宛として一幅(ふく)の活畫(くわつくわ)なり。近時海水に遊浴(ゆうよく)する者多し。潮頭亦脂粉の氣(き)を帶(お)ふ。久米仙人あらざるも。亦或は神通力を失ふ者あらむ。

囘顧すれは。此處(このところ)は寳德二年四月。足利成氏兩上杉の家長と戰ひし地なり。故に折刀時あらて沙中(さちう)に露出すといふ。實に折戟埋ㇾ沙恨未ㇾ消の慨あら史家は杖を停めて古を吊せざる可らす。

[やぶちゃん注:「阪東道は六軒を以て一里とす。此處四十二町あり」「阪東道」は「関東道」とも言い坂東の路、即ち田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位をも意味した。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったのである。「四十二町」は四・四八キロメートル。但し現行実測では稲村ヶ崎突端から小動の鼻までは三キロほどしかなく、江の島の大橋前まで延しても四キロメートルしかない。

「寳德二年」一四五〇年。

「足利成氏兩上杉の家長と戰ひし地なり」言うところの「江の島合戦」である。ウィキの「足利成氏」より引く。この前の永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、持氏の遺児の成氏が新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。しかし『鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善され』ず、宝徳二(一四五〇)年四月には、『山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している』。『従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる』。『難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は』同年八月四日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は』同年一〇月頃に『関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)』。

「折戟埋ㇾ沙恨未ㇾ消」「折戟(せつげき)沙に埋(うづ)み、恨み、未だ消えず」と訓じておく。「戟」は矛(ほこ)のこと。

「吊せざる可らす」「とむらひせざるべからず」と訓じておく。「吊」は「弔」の俗字。記者の懐古。ここはなかなか、いい。]

 

    ●行合川

行合川(ゆきあひかは)は。北方の山谷より出て七里濱(しちりがはま)より海に入る小流をいふ。昔者日蓮龍口に於て將さに刑せられむとせし時。注進の使者と時賴の赦免の使者と此處に會合(くわいがう)せしに因り名くといふ。一躍して超ゆベし。

[やぶちゃん注:最後の「一躍して超ゆベし」、いいね、いい子だ。]

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