フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (四) | トップページ | 夏の旅   立原道造 »

2015/10/10

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (五) / 第十四章~了

       五

 

 この古い森は――樹木が非常に欝蒼として、明るい處からこの蔭へ始めて入ると、一切眞黑く見える――巨大なる杉や松、それに竹、椿及び神道で尊ぶ靈木の榊が交つて出來てゐる。暗いのは主として巨竹のためである。大漑の社林には、竹が繁く樹間に植ゑてあつて、その羽毛のやうな葉が、樹々のもつと重い梢頭の高い隙間を塞いで、全く日光を遮斷してゐる。すべて藪の中は他の樹がなくとも、いつも深い薄明を呈してゐる。

 眼がこの綠色の薄暗に慣れてくると、樹間に一道の通路が浮んでくる。それは天鵝絨の如く滑らかで柔かく、且つ美しい靑綠の苔で蔽はれてゐる。以前、參拜者が此社林へ入る際、履物を脱がねばならなかつた頃は、この天然の毛氈は疲れた足に取つて、一の恩惠であつた。第二に目につくのは多くの大木の幹が七八尺の高さまで、厚い藺蓆で包んであつて、處々蓆を破つて穴が明いてゐることである。こゝの巨木は一切神聖だから、靈驗の功德があると信じられてゐる木の皮を、蓆で卷いて、參詣人に剝取らせぬやうにしたのであるが、正直よりも熱心の方が勝つて、皮に達せんが爲めに蓆を裂くのを敢て辭せぬ連中が隨分あるのである。第三の珍らしい事實は、大きな竹の莖には字が一面に書いてあることで、これは戀人の祈願と少女の名である。植物界に於て、竹の滑らかな皮面ほど情人の名を書くによいものはない。いくら初め輕く書いた文字でも、一字一字が皮の成長に伴つて擴大して黑くなり、決して消え失せない。

 苔深い徑路は、森の中心にある小さな池まで傾斜して行く。これは出雲で有名な池である。蠑螈が澤山居る。五寸位の長さで腹は赤い。こゝは木蔭の最も深い處であつて、竹の莖は娘の名で最も濃密に黥がしてある。八重垣の神聖な池の蠑螈の肉は、催戀的性質と有するものと信ぜられてゐる。昔はその肉を燒いて、粉にしたのを戀藥としたのであつた。この習慣に就いて、小さな歌がある。

 

    惚れ藥、外にはないかと、いもりに問へば、

              指を圓めて、こればかり。

 

 池の水は澄んでゐて、澤山蠑螈が見える。戀人は紙で小舟を作り、一厘錢を乘せ、水に浮べて、注視するといふ習慣である。紙に水が滲み込むと、銅貨の重さで底へ沈んでも、水が澄んでゐるから判然見える。若し蠑螈が近寄つて來て、それに觸れると、戀人は自分の幸福は神意で保證されたものと信ずる。しかし若し蠑螈が近寄つて來なければ不吉の兆である。一つの小さな紙舟は可哀相にも、どうしでも沈み得ないで居るものを私は目擊した。それは人が寄りつかれない方の側へ流れて行つて、水際から樹木が立上がつて、幹で作りあげた固い壁のやうになつてゐる處で、垂れた小枝に引懸つてゐた。その紙舟を流した戀人は悲しい思ひを懷いて去つたに相違ない。

 池に近く、路傍に椿の叢林が澤山ある。その枝端を二つづゝ白紙の紐で結んである。これは占ひの森だ。誠實な戀人は二本の枝を一緒に曲げて、緊かりと紙を結んで、それを合はせることが――片手の指で――出來ねばならぬ。これが立派に出來るのは、吉兆だ。紙片には何も書いてない。

 しかし藪の竹には、その幹の表面に澤山の文字が書いてあつて、蚊が居るのにも拘はらず、幾時間でも好奇心を働かせるに足りる。大部分の名は、女の綺麗な呼び名であるが、また男の實名【註】もある。

 

    註。日本の人名には少くとも十一の

    主要なる種類がある。實名は西洋の

    受洗名に當る。この複雜且つ趣味あ

    る問題について、讀者はチエムバレ

    ン教授の名著『日本のことども』第

    二五〇頁――二五五頁を參照するが

    よい。

 

 して、奇妙にも友の名と男の名が、いづれの場介に於ても併記してない。この文學上の

證明から判斷すると、日本人の戀人達は――少くとも出雲では――西洋の人よりも一層祕密的だ。戀に焦れてゐる靑年が、決して彼の實名と、彼の情人の呼び名を一緒には書かない。して、氏名を錄することは殆ど敢てしない。彼が自身の實名を記しておけば、單に彼の情人の呼び名を、神と竹に向つて囁くだけで滿足する。もし彼が彼女の呼び名を竹の表面に刻み込むならば、彼の名の代りに、單に彼の存在と年齡だけを表しておく。次の可憐なる一例の如く――

 

    高田ときと緣結び願ひ升   十八歳男

 

 この戀人は彼が慕つてゐる、娘の完全な名を書くことを儞せなかつたが、かやうな例は、私の發見し得た限りでは、無類であつた。他の戀人達は、たゞ彼等の魅惑者の呼び名だけを書いてゐる。して、とかさんとかの敬稱は、愛の無遠慮な親密に於ては亦在を示さない。お春さん、お金さん、お菊さん、お竹さん、は一つもなくて、春、金、竹、菊が無數だ。娘達は勿論彼等の戀人の名を明記することを、夢にも思つてゐない。しかしこゝに多くの藝名がある。黄金の猫を崇拜する、いたづらものの藝者が臆面もなく、樂榮、朝榮、若榮、愛吉、壽(ことぶき)、幸八、小花、玉吉、勝子、朝吉、花吉、勝吉、千代榮、千代鶴などといふ名を書いてゐる。朝榮と戀に落ちた男は、屢々自分の生まれた朝を呪はねばならぬこととなるだらう。幸八に迷つた男は、不幸の骨頂を見るだらう。また花吉を愛撫しようと望む男は、兇災を招くだらう。して、私は二十三歳といふ年齡を書いてゐる一人の靑年は、春の嫩かな葉といふ意味の名を有する、若草といふ女に魅せられてゐることを知つた。靑年よ、君が若草を戀ひそめるよりも、もつと不幸なる災難は、たゞ一つあるのみだ――それは彼女が偶然にも君に對して戀に陷ることだ。といふのは、すると、君達兩人は親戚知友へ美しい手紙を書いて、死の藥を傾け、お互の腕に抱合つて、一蓮託生の信仰を囁きつつ、この世を去るといふ破目になるから。否、君が彼女の色香に迷つてゐる魁惑が消えるやうにとこそ、神に祈るがよい――

 

    手にとるな、矢張り野におけ、げんげ花

 

 それから、こゝに戀人が英語で書いたのがある!この神が英語を知り玉ふと、勝手に考 ヘえゐるのは誰だらう。屹度ある學生が、全くの羞恥から、彼の心の祕密を外國語―この私の外國語で刻んだのだ。ある外國人の眼が、それを眺めようとは夢にも思はないで、I wish you, Haru! と、一度ならず、四度まで、否、五度!毎回前置詞を省き乍ら書いてゐる。この古い森の中で――この古い出雲の國で――最も古い神へ對して――英語で祈つてゐる!たしかに、戀愛では最も内氣な者でさへ神の寛容に附け上つてゐる。實際、猛速素戔嗚尊の忍耐が甚だしいのか、それとも、尊が帶び玉ふた十拳の劔の錆びが甚だしいのか、その孰れかであるに相違ない。

 

[やぶちゃん注:この章、ハーンの高まってゆく昂奮(憤り)がとても、いいね!

「七八尺」二・二~二・四メートル。

「藺蓆」「ゐむしろ(いむしろ)」と読む。単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属変種イグサ Juncus effusus var. decipens で編んだ莚(むしろ)のこと。

「五寸」十五センチメートルであるが、原文に即すと「五インチ」であるから、十三センチメートルでやや短い。

「蠑螈」「ゐもり(いもり)」と読む。両生綱有尾目イモリ上科イモリ科Salamandridaeの総称であるが、本邦では通常はイモリと言えばトウヨウイモリ属のアカハライモリ Cynops pyrrhogaster を指すことが多い。次注も必ず参照のこと。

「八重垣の神聖な池の蠑螈の肉は、催戀的性質と有するものと信ぜられてゐる。昔はその肉を燒いて、粉にしたのを戀藥とした」私の電子テクスト、寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「ゐもり 蠑螈」に、

   *

按ずるに、蠑螈は、草澤・溪澗及び野の井(いど)の中に生ず。俗に井守(いもり)と稱す。形、蜥蜴(とかげ)に似て、小さく、全體、正黑にして、止(た)ゞ、腹、微かに赤く、小さき黑點有り。頭、圓く扁たく、口、大なり。性、淫らにして、能く交(つる)む。夜-深(よふけ)、丑の時に至り、多く出づ。土人、其の時を候(まち)て之れを取り、水中に畜ふ。俗に傳へて曰く、其の合交(つる)みたる者を捕へて、雄と雌と、山を隔てて之を燒き、以て媚(こび)の藥と爲す。壮夫[やぶちゃん注:成人男性。]、争ひて之を求む。蛤蚧(やまいもり)、最も佳しと爲す。然れども未だ其の効を試さざるなり。所謂る、水に入りて、魚と合交(つる)むと云ふ者は、石斑魚(いしふし)か。又、謂ふ、靑黄色或は白斑と云ふ者の、未審(いぶか)し。

   「夫木和歌集」 ゐもりすむ山下水の秋の色はむすぶ手につく印なりけり 寂蓮

   *

とある。この「其の合交みたる者を捕へて、雄と雌と、山を隔てて之を燒き、以て媚の藥と爲す」はまさに類感呪術の最たるものである。交尾中に強制的に引き離された雌雄を、わざわざ水平方向にも垂直方向にも隔たれた山の向うと此方で焼き殺すことによって、その異性を渇する気のパワーをメーター振り切れにさせて媚薬を製剤するというのは、杜子春の逸話での仙薬や蠱毒の製造過程で見られるものだ。以下、媚薬効果が続くが、これについては私の電子テクストの南方熊楠「守宮もて女の貞を試む」を是非、参照されたい、と書いた。これ以上、私の語ることは今のところ、ない。一般にイモリの黒焼きが古くから強壮剤とされることは周知の事実であるが、これはどうも、この媚薬説は日本に伝承する際に、ヤモリからイモリに誤認されたものであるらしい。イモリは皮膚からの分泌物質にフグ毒で知られる猛毒のテトロドトキシンtetrodotoxin(TTX)に極めて近似した成分を持っていることは、近年ではよく知られるようになった。とは言え、イモリの黒焼きを食って死んだ人は聞かない。一個体の持つ毒成分の分量が少ないことや、そんなに多量に食えるもんじゃあない(真っ黒に炭化するまでかりかりに焼いているので苦い)からであろう。ちなみに平凡社一九九六年刊の千石正一他編集になる「日本動物大百科5 両生類・爬虫類・軟骨魚類」の「イモリ類」の項にの総排泄腔からの内側の毛様突起から放出されるを誘惑するフェロモンについて記載し、『最近このフェロモンは、腹部肛門腺から分泌されるアミノ酸十個からなるイモリ独特のタンパク質であることがわかり、万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「茜さす紫野行き標野行き野守は見づや君が袖振る」にちなんで、ソデフリンと名づけられた』(記号の一部を私のページに合わせて換えた)とある。やっちゃったな~あって感じだね。「総排泄腔」「腹部肛門腺」からの分泌は額田王が如何にも顔を顰めそうな命名、ソデフリン(sodefrin)、でもこれは何でも脊椎動物で初めて単離されたペプチド・フェロモンなんだそうだ。良安先生は「然れども未だ其の効を試さざるなり」なんて言っている。ともかくもだ、媚薬としてイモリの肉を食うのはやめた方がよろしいとだけは言っておく。

「黥」「いれずみ」。

「惚れ藥、外にはないかと、いもりに問へば、/指を圓めて、こればかり。」「指を圓めて」は言わずもがな、「お金」次第ということ。似た都都逸に、

 惚れ藥 他にないかといもりに聞けば 指を輪にしてみやしやんせ

を見出せる。

「緊かりと」「しつかりと」。

「チエムバレン教授の名著『日本のことども』」既注のイギリスの日本研究家で東京帝国大学文学部名誉教師バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)が書いた“Things Japanese”。当該書を私は読んでいないので、これ以上は注しない。

「手にとるな、矢張り野におけ、げんげ花」は俳人滝野瓢水(天和三(一六八四)年~宝暦一二(一七六二)年:船問屋。淡々及び乙由門。奇行で知られ俳画にも優れた)が詠んだ俳句。ウィキの「ゲンゲ」の「日本における利用・文化」によれば、『遊女を身請しようとした友人を止めるために詠んだ句で、蓮華(遊女)は野に咲いている(自分のものではない)から美しいので、自分のものにしてはその美しさは失われてしまうという意味。転じて、ある人物を表舞台に立つべきではなかったと評する意味合いでも使われる』とある。「げんげ花」はマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ Astragalus sinicus の花。

「嫩かな」「やはらかな(やわらかな)」。]

 

 

Sec. 5

This ancient grove—so dense that when you first pass into its shadows out of the sun all seems black—is composed of colossal cedars and pines, mingled with bamboo, tsubaki Camellia Japonica, and sakaki, the sacred and mystic tree of Shinto. The dimness is chiefly made by the huge bamboos. In nearly all sacred groves bamboos are thickly set between the trees, and their feathery foliage, filling every lofty opening between the heavier crests, entirely cuts off the sun. Even in a bamboo grove where no other trees are, there is always a deep twilight.

As the eyes become accustomed to this green gloaming, a pathway outlines itself between the trees—a pathway wholly covered with moss, velvety, soft, and beautifully verdant. In former years, when all pilgrims were required to remove their footgear before entering the sacred grove, this natural carpet was a boon to the weary. The next detail one observes is that the trunks of many of the great trees have been covered with thick rush matting to a height of seven or eight feet, and that holes have been torn through some of the mats. All the giants of the grove are sacred; and the matting was bound about them to prevent pilgrims from stripping off their bark, which is believed to possess miraculous virtues. But many, more zealous than honest, do not hesitate to tear away the matting in order to get at the bark. And the third curious fact which you notice is that the trunks of the great bamboos are covered with ideographs—with the wishes of lovers and the names of girls. There is nothing in the world of vegetation so nice to write a sweetheart's name upon as the polished bark of a bamboo: each letter, however lightly traced at first, enlarges and blackens with the growth of the bark, and never fades away.

The deeply mossed path slopes down to a little pond in the very heart of the grove—a pond famous in the land of Izumo. Here there are many imori, or water-newts, about five inches long, which have red bellies. Here the shade is deepest, and the stems of the bamboos most thickly tattooed with the names of girls. It is believed that the flesh of the newts in the sacred pond of Yaegaki possesses aphrodisiac qualities; and the body of the creature, reduced to ashes, by burning, was formerly converted into love-powders. And there is a little Japanese song referring to the practice:

'Hore-gusuri koka niwa naika to imori ni toeba, yubi-wo marumete kore bakari.' [7]

The water is very clear; and there are many of these newts to be seen. And it is the custom for lovers to make a little boat of paper, and put into it one rin, and set it afloat and watch it. So soon as the paper becomes wet through, and allows the water to enter it, the weight of the copper coin soon sends it to the bottom, where, owing to the purity of the water, it can be still seen distinctly as before. If the newts then approach and touch it, the lovers believe their happiness assured by the will of the gods; but if the newts do not come near it, the omen is evil. One poor little paper boat, I observe, could not sink at all; it simply floated to the inaccessible side of the pond, where the trees rise like a solid wall of trunks from the water's edge, and there became caught in some drooping branches. The lover who launched it must have departed sorrowing at heart.

Close to the pond, near the pathway, there are many camellia-bushes, of which the tips of the branches have been tied together, by pairs, with strips of white paper. These are shrubs of presage. The true lover must be able to bend two branches together, and to keep them united by tying a paper tightly about them—all with the fingers of one hand. To do this well is good luck. Nothing is written upon the strips of paper.

But there is enough writing upon the bamboos to occupy curiosity for many an hour, in spite of the mosquitoes. Most of the names are yobi-na, -that is to say, pretty names of women; but there are likewise names of men—jitsumyo; [8] and, oddly enough, a girl's name and a man's are in no instance written together. To judge by all this ideographic testimony, lovers in Japan—or at least in Izumo—are even more secretive than in our Occident. The enamoured youth never writes his own jitsumyo and his sweetheart's yobi-na together; and the family name, or myoji, he seldom ventures to inscribe. If he writes his jitsumyo, then he contents himself with whispering the yobi-na of his sweetheart to the gods and to the bamboos. If he cuts her yobi-na into the bark, then he substitutes for his own name a mention of his existence and his age only, as in this touching instance:

 Takata-Toki-to-en-musubi-negaimas. Jiu-hassai-no-otoko. [9]

This lover presumes to write his girl's whole name; but the example, so far as I am able to discover, is unique. Other enamoured ones write only the yobi-na of their bewitchers; and the honourable prefix, 'O,' and the honourable suffix, 'San,' find no place in the familiarity of love. There is no 'O-Haru-San,' 'O-Kin-San,' 'O-Take-San,' 'O-Kiku-San'; but there are hosts of Haru, and Kin, and Take, and Kiku. Girls, of course, never dream of writing their lovers' names. But there are many geimyo here, 'artistic names,'—names of mischievous geisha who worship the Golden Kitten, written by their saucy selves: Rakue and Asa and Wakai, Aikichi and Kotabuki and Kohachi, Kohana and Tamakichi and Katsuko, and Asakichi and Hanakichi and Katsukichi, and Chiyoe and Chiyotsuru. 'Fortunate-Pleasure,' 'Happy-Dawn,' and 'Youth' such are their appellations, 'Blest-Love' and 'Length-of-Days,' and 'Blossom-Child' and 'Jewel-of-Fortune' and 'Child-of-Luck,' and 'Joyous-Sunrise' and 'Flower-of-Bliss' and 'Glorious Victory,' and 'Life-as-the-Stork's-for- a-thousand-years.' Often shall he curse the day he was born who falls in love with Happy-Dawn; thrice unlucky the wight bewitched by the Child- of-Luck; woe unto him who hopes to cherish the Flower-of-Bliss; and more than once shall he wish himself dead whose heart is snared by Life-as- the-Stork's-for-a-thou sand-years. And I see that somebody who inscribes his age as twenty and three has become enamoured of young Wakagusa, whose name signifies the tender Grass of Spring. Now there is but one possible misfortune for you, dear boy, worse than falling in love with Wakagusa—and that is that she should happen to fall in love with you. Because then you would, both of you, write some beautiful letters to your friends, and drink death, and pass away in each other's arms, murmuring your trust to rest together upon the same lotus-flower in Paradise: 'Hasu no ha no ue ni oite matsu.' Nay! pray the Deities rather to dissipate the bewitchment that is upon you:

                   Te ni toru na,

                   Yahari no ni oke

                          Gengebana. [10]

And here is a lover's inscription—in English! Who presumes to suppose that the gods know English? Some student, no doubt, who for pure shyness engraved his soul's secret in this foreign tongue of mine—never dreaming that a foreign eye would look upon it. 'I wish You, Haru!' Not once, but four—no, five times!—each time omitting the preposition. Praying—in this ancient grove—in this ancient Land of Izumo—unto the most ancient gods in English! Verily, the shyest love presumes much upon the forbearance of the gods. And great indeed must be, either the patience of Take-haya-susano-wo-no-mikoto, or the rustiness of the ten- grasp sabre that was augustly girded upon him.

 

7 'On being asked if there were any other love charm, the Newt replied, making a ring with two of his toes—"Only this." The sign signifies, "Money."'

8 There are no less than eleven principal kinds of Japanese names. The jitsumyo, or 'true name,' corresponds to our Christian name. On this intricate and interesting topic the reader should consult Professor B. H. Chamberlain's excellent little book, Things Japanese, pp. 250-5.

9 That I may be wedded to Takaki-Toki, I humbly pray.—A youth of eighteen.'

10 The gengebana also called renge-so, and in Izumo miakobana is an herb planted only for fertilizing purposes. Its flowers are extremely small, but so numerous that in their blossoming season miles of fields are coloured by them a beautiful lilaceous blue. A gentleman who wished to marry a joro despite the advice of his friends, was gently chided by them with the above little verse, which, freely translated, signifies: 'Take it not into thy hand: the flowers of the gengebans are fair to view only when left all together in the field.'

« 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (四) | トップページ | 夏の旅   立原道造 »