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2015/10/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(1) 尹雄烈・尹致昊父子来訪

 第二十五章 東京に関する覚書

M694

図―694

 

 十月十八日。私の部屋へ親子二人づれの朝鮮人が来た。父親は朝鮮政府の高官だったが、最近の叛乱に際して、身を以て逃れた。子息は東京の学校で日本語を勉強しつつあり、宮岡の友人である。宮岡がこの青年と相談して、父親を私のところへ連れて来させたので、私は若し出来れば彼から古物、陶器の窯、矢を射発する方法その他に関する話を聞くことにしてあった。彼等は名刺を差し出した(図694)。父親は非常に静かで威厳があったが、一種真面目な調子で深く私の質問に興味を持ち、子息は極めて秀麗で、日本人の顔の多くに現れる特異な愛くるしさを持っていた。二人とも美しい褐色の眼を持ち、二人とも、かつて日本にその芸術の多くを教えた、過去に於る租国の智的高度が、今日の如く恐しく堕落し、腐敗したことを理解しているかの如く、陰気で悲しそうであった。私が望むところの教示を受けようとする父親に質問することは、幾分困難であった。私は先ず宮岡に話し、彼がそれを日本語に訳して子息に話すと、次に子息が日本語をまるで知らぬ父親に、それを朝鮮語に訳し、答えは同様な障害の多い路筋を通って返って来る。朝鮮語と日本語との音の対照は、際立ってもいたし、興味もあった。時として朝鮮語はフランス語に似ているようにも思われたが、フランス語と支那語と日本語とを一緒にしたようなものだというのが、一番よく朝鮮語の発音を説明するであろう。子息が父親に話しかけるのに、必ず恭恭しく、且つ上品な態度を取ったことは、目立った。質問に続くに質問が発せられたが、英語、日本語、朝鮮語の全域を通じて到達し、朝鮮語、日本語、英語を通じて返事が返って来るのだから、それは如何にも遅々たるものであった。

[やぶちゃん注:明治一五(一八八二)年十月十八日。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この日には(恐らくは午前中か)学習院開院六周年記念式に出席、「蟻の話」という講演を行っている。

「最近の叛乱」同年七月二十三日に起ったクーデター壬午(じんご)事変を指す。既注

「彼等は名刺を差し出した」図から父が尹雄烈、子が尹致昊と読める。この父子はかなり有名な人物である。父の尹雄烈(ユンウンリョル/いんゆうれつ 一八四〇年~明治四四(一九一一)年)は李氏朝鮮末期から大韓帝国期の軍人で政治家で、開化派(親日)に属していたが、この時、壬午事変の勃発によって日本へ逃れていた(サイト「きままに歴史資料」の「明治開化期の日本と朝鮮(20)」に詳しい)。その後の開化派クーデター庚申事変などに関与し、後の日韓併合(一九一〇年八月)以降は日本に住み、男爵の爵位を受けたが、翌年、京都で亡くなっている(ネット上の諸情報から簡潔に纏めた)。ハーンが弓術について問うている(以前に朝鮮使節団と逢った際もハーンはしきりに弓術のことを質問しているから、よほど朝鮮のグンスルやファルソギといった古武術としての弓術に興味を持っていたらしいが、その淵源は何だろう?)のも、彼が朝鮮の軍人であるからであろう。その子尹致昊(ユンチホ/いんちこう 一八六五年~一九四五年)はウィキの「尹致昊」によれば、父と同じく、李氏朝鮮末期から連合軍軍政期に活動した韓国の政治家で、第二次世界大戦終戦直前には貴族院朝鮮勅選議員となっており、日本名を「伊東致昊(いとうちこう)」と称した。彼は『開化派の父などの影響もあり』、この前年に十七歳で『紳士遊覧団(朝士視察団)だった魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人として開化思想を吸収した。外務大臣の井上馨と謁見し、井上の斡旋で同人社に入学した。独学で日本語を勉強し』ていた。『生活の中で金玉均、徐光範、朴泳孝、兪吉濬などの開化派の人物や福沢諭吉、中村正直などの文明開化論者と親交を深めた。始め、同人社で学び、慶應義塾で語学学習をし』、『身分や嫡出、男女差別がより少ない日本社会と、欧米の文物に触れ、以降朝鮮の文明開化の必要性を信念とするようになった』。その後、アメリカ(前後二回)や清に留学(詳細はウィキの記載を見られたい。ここ以下は講談社「日本人名大辞典」に拠った)、一八九五年に帰国した後は愛国啓蒙運動を指導、韓国併合後の一九一一年に百五人事件(寺内総督暗殺未遂事件)で逮捕・投獄された。解放後には日本統治末期の対日協力活動を非難され、一九四五年十二月六日に自殺したとも病死したともされる。ウィキには『京畿道開城府松都面高麗町で脳溢血のため急死した』が、親日派として糾弾されるとともに病状が悪化したともされ、『市中では親日派としての糾弾を苦に自殺したとされた』とある。父子、特に子致昊の方はかなりのリベラリストで親日派であったが故に、悲劇的な末路を遂げざるを得なかったようである。そうした親子に、次第に変質しつつある日本――この後、朝鮮を我が物にし、中国さえも蹂躙しようとする日本をどこかで哀しく憂鬱に感じ始めながらも、それでも愛するこの国、日本が、朝鮮の、アジアの開明の力となるに違いない、とモースがお目出度くも最後の場面で述べている(後掲)――その一瞬がこうして綴られている――のを見るにつけ、何か私には奇妙な哀感を感じぬわけにはいかぬのである。]

 

 陶器はいまだに朝鮮でつくられる。白い石のようなものも、藍で装飾したものも、やわらかいものもあるが、すべてこの上なく貧弱な質である。製陶の窯は丘の横腹につくられ、父親が描いた怪しげな画から判断すると、日本のそれに似ているらしい。丘が無ければ、そのために斜面をつくる。その下部では熱が強すぎ、上端では不足するので、焼く時にかなり陶器が駄目になる。旋盤(ろくろ)は足で蹴るので、昔この装置が朝鮮から輸入された肥前、肥後、薩摩が使用される物と同じい。大きな甕は粘土の輪を積み上げ、それを手でくっつけ合せてつくる。内側には四角か円かの内に切り込んだ、印版を使用するが、大きな品の内部にはよく銘刻が見られる。私は父親に、古筆氏が朝鮮のものだと鑑定した、数個の陶器を見せたが、彼もそれ等をそうであると認めた。私が持っている、古い墓から出た形式のある物を、彼は朝鮮では一つしか見ていないといったが、それも古い埋葬所から出たものであった。彼はドルメンのことも貝塚のことも聞いたことが無く、更に彼は考古学の研究といったようなことは、朝鮮では耳にしたことが無く、古い物は極めて僅かしか保存されていないとつけ加えた。彼は、そのある物は大きく、人が住んだ形跡のあるという洞窟のことは聞いていた。日本の古代の埋葬場で発見される「曲玉(まがたま)」と呼ばれるコンマの形をした装飾品は、朝鮮では見たことが無いといった。

[やぶちゃん注:「古筆氏」これは好古家として知られた古筆(こひつ)家第四代の古筆了仲(りょうちゅう ?~明治二四(一八九一)年と考えられる。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の中で、丁度、この前後にモースは陶器蒐集や民具収集の過程で、この古筆了仲に逢っており、彼を『師として茶の湯も習ってもいる』とあるからである。

「ドルメン」底本では直下に石川氏による『〔卓石〕』という割注が入る。Dolmen。狭義には新石器時代の巨石記念物の一つである、数個の支石の上に一枚の大きな板石をのせたテーブル形の構造をもつ墳墓遺構を指し、世界的に分布するものの特に西ヨーロッパに多い有意に大型のものを指すが、ここでモースは環状列石は無論、古墳をも含む謂いで用いているように私は思う。

「曲玉」勾玉(まがたま)は先史及び古代日本に於ける独特の装身具の一つで、現行では縄文遺跡から発見されるものが最も古い。但し、その後、朝鮮半島へも伝播し、紀元前六世紀から三世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られるとウィキ勾玉にはある。ウィキ微斜長石(びしゃちょうせき microcline/マイクロクリン:長石グループの鉱物で三斜晶系のカリ長石)には、青緑色を呈する微斜長石を特に天河石(amazonite/アマゾナイト)と称するとし、『微量の鉛によって色付いている。北アメリカ・ブラジルで産出。古代エジプトで宝石として利用されていた』。『緑青色の強いものは翡翠に類似し、空青色の強いものはトルコ石の色に類似している』とあるのであるが、どうも産地が朝鮮とはえらく離れていて不審である。]

 

 弓道では、朝鮮人は欠を引くのに、右手ばかりで無く左手も使用し、左手の方をよりよい手であると考える。方法を示すのに、父親は左手を用いた。弓はしっかりと握り、弓籠手(こて)をつける。また骨製或は金属製の拇指環をつける。朝鮮人は屢々百六十歩のところで練習をするが、これは恐らくヨークでの百ヤードの距離の定数箭放ちよりもえらいであろう。父親は紙をきりぬいて拇指環の雛型をつくった。彼は鉛筆を使うことはまるで出来ぬらしく、必ず紙の一片を取って、それをたたんだり、曲げたり、鋏で切ったりして、彼が説明しようとするところのものを示した。ドクタア・オリヴア・ウエンデル・ホルムスは、かつて私に、自分は鉛筆では何もすることが出来ぬが、鋏で紙を切れば、好き勝手な形をつくることが出来ると語った。朝鮮の弓のある物は非常に強く、朝鮮の弓術家たちは、彼等の強力な弓を引くために、各種の運動によって特に筋肉をならす。この朝鮮人が、朝鮮には考古学的の興味がまるで無いことを正直に告白した言葉は、私の哀情をそそった。彼は、彼等が持つ唯一の遺物は彼等自身だといい、そしてそれをいった時、いずれといえば悲しげに笑った。彼等は日本人を西洋文明の前衛軍とみなしているが、若し一般の朝鮮人が日本に対して持つ憎悪の念を緩和することが出来れば、それこそ朝鮮にとってはこの上なしである。日本人は東方の蛮人から得た多くの事柄を、彼等に教えることが出来る。

[やぶちゃん注:「弓籠手」「ゆごて」と読む。弓を射る際に上着の袖が弦(つる)に当たるのを防ぐために左の手首から肩にかけて蔽う皮や絹製の布などで作った筒状の籠手(こて)。

「拇指環」「ぼしかん」と音読みしておく。原文“thumb-ring”。弦を引く右手の親指を保護するための弓具のようである。そう言えば、現在の本邦の弓道でもアーチェリーでも右手にバンド状のタイで親指をカバーしているように見えるものを見かける。

「百六十歩」成人男性の一歩の平均値を約七十センチメートルとすると、百十二メートルにはなる。

「ヨーク」これはヨーク・ラウンドというブリティッシュ・ボウの射芸競技のことではないかと思われる。サム・ファラダトラディショナル・アーチェリ(PDF)によれば、少なくとも一六七三年から実践されている形式で、とあるルールによれば百ヤードの距離で七十二本、八十ヤードで四十八本、六十ヤードで二十四本の矢を射るものであったというとあるから、百十二メートルを越えて的を射る稽古というのはこれ、確かに「えらい」大変なことだとド素人でも思う。

「百ヤード」九十一・四四メートル。

「定数箭放ち」「ていすうやはなち」と読んでおく。前々注参照。

「彼は鉛筆を使うことはまるで出来ぬらしく」この訳は、鉛筆で相手に分かり易い図を書いて説明することは苦手の謂いである。念のため。スケッチ好きのモース先生には全く理解が出来ないへんちくりんなことに見えたのであろうが、私は模型を作れる方がずっと羨ましいな!

「ドクタア・オリヴア・ウエンデル・ホルムス」原文“Dr. Oliver Wendell Holmes”。モースよりも十九年上でどこで知り合ったかは分からないが、ドクターとあることから、アメリカの医学者で作家でもあったオリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア(Oliver Wendell Holmes Sr 一八〇九年~一八九四年)のことではあるまいか? ウィキの「」によれば、『マサチューセッツ州ケンブリッジ・ミドルセックス生まれ』で、一八三六年に『ハーバード大学医学部を卒業』、一九三八年から『ダートマス医科大学院の教授を務め』、一八四七年からは『母校のハーバード大学医学部の教授を務めた。彼の代表作は』「朝食テーブルの独裁者」(一八五八年刊)を始めとする『「朝食テーブル」シリーズであり、しばしば19世紀の最も優れた作家の一人として称される。また、著名な医学の改革者とも言われる』とある。]

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