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2015/10/09

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (一)

     第十四章 八重垣神社

 

       一

 

 出雲國意宇郡佐草村に鎭座まします八重垣神社へ、戀愛を感じてゐる、すべての靑年男女は參詣するのが習慣となつてゐる。何故となれば、こゝに猛速素戔鳴尊とその妻稻田姫、及びその子佐草命が祀られてゐるからだ。彼等は夫婦の道と戀愛の神なので獨身者を娶はせて家庭を作らしめ、人の生まれ落ちた時から配偶の運を定め玉ふのだ。だから、夙くの昔に取返しのつかぬやう、決まつてゐることについて、祈るためこゝへ參るのは、全く時間の浪費と思ふ人もあるだらう。しかし何れの國に於て宗教的實行と神學の一致した乙とがあるだらうか?神學者と僧侶は教理及び宗義を作つたり、發布したりするが、善良なる民衆は、いつも必ず彼等自身の好むやうな神々を作らねぱ止まない――して、かやうな神はなかなか善い種類の神なのだ。加之、慓悍猛烈なる男神、素戔嗚尊の歷史は、運命が彼の特別痙なる場合と何等の關係あつたことを示してゐない。彼は櫛稻田姫を一見して戀ひそめたのであつた。古事記によれば――

 

 故(かれ)、避追(やら)はえて、出雲國の肥河上、名は鳥髮といふ地(ところ)に降りたましき。此の時(をり)しも、箸其河より流れ下りき。是(こゝ)に須佐之男命其の河上に人有りけりと以爲ほして、尋覓(ま)ぎ上(のぼ)り往てましゝかば、老夫(おきな)と老女(をみな)と二人在りて、童女を中に置ゑて泣くなり。「汝等(いましたち)は誰ぞ」と問ひ賜へば、その老夫「僕(あ)は國神大山津見神の子なり。僕(あ)が名は足名椎と謂ひ、妻(め)が名は手名椎、女(むすめ)が名は櫛名田比賣と謂す」と答言(まを)す。

 亦「汝の哭く由(ゆゑ)は何ぞ」と問ひたまへば、「我が女は本より八稚女在りき。この高志(こし)の八俣遠呂智なも、年毎に來て喫ふなり。今其(それ)來るべき時なるが故に泣く」と答へ白言(まを)す。爾ち「其形は如何」と問ひたまへば、「彼(それ)が目は赤加賀如(な)して、身一つに、頭八つ、尾八つ有り。亦其の身に蘿(こけ)、及(また)檜、榲生ひ、其の長は谿八谷、峽(を)八尾を度りて、その腹を見れば、常(いつ)も血爛(あえたゞ)れたり」と答白す。

 爾(かれ)、速須佐之男命、その老夫に、「是、汝が女をば吾に奉らむや」と詔りたまふに「恐けれども御名を覺(し)らず」と答白せば「吾(あ)は天照大御神の伊呂勢なり。故、今天より降り坐しつ」と答詔(こた)へたまひき。

 爾(こゝ)に足名椎、手名椎神「然坐さば恐し。立奉らむ」と白しき。爾に速須佐之男命、乃ち其の童女を湯津爪櫛に取り成して、御美豆良に刺さして、其の足名椎、手名椎神に告りたまはく「汝等、八鹽折の酒を釀み、且(また)、垣を作り廻(もとほ)し、其の垣に八つの門を作り、門毎に八つの佐受岐を結ひ、其の佐受岐毎に酒船を置きて、船毎に其の八鹽折の酒を盛りて待ちてよ」とのりたまひき。故、告りたまへる隨(まにま)にして、此く設け備へて待つ時に、其(か)の八俣遠呂智信(まこと)に言ひしが如來つ。乃ち船毎に己が頭を垂れ入れて、其酒を飮みき。是(こゝ)に、飮み醉ひて留り伏し寢たり。爾ち、速須佐之男命、その御佩せる十拳劔を拔きて、其の蛇(をろち)を切り散(はふ)りたまへば、肥河血に變(な)りて流れき。

 故、是を以て、其の速須佐之男命宮造作るべき地(ところ)を出雲ノ國に求ぎたまひき。玆の大神初め須賀宮作らしゝ時、其地より雲立ち騰りき。爾ち御歌を作(よ)みたまふ。

其の歌は

 

    やくもたつ  いづもやへがき

    つまごみに  やへがきつくる

    そのやへがきを

 

 さて、八重垣神社は、尊い歌の八重垣といふ言葉から、その名を取つたものだ。して、昔の古典註釋者達は、出雲といふ名も、また、その神樣の歌から取られたものだと云つてゐる。

    註。チエムバレン教授は立派な理由を

    擧げて、出雲に關するこの語原を駁し

    てゐる。しかし出雲の國では、依然と

    この昔の語原が承認されてゐる。また

    日本古典に於ける外國學者の研究の結

    論が、猶一層廣く知られるまでは、こ

    の語原説が繼續して行くだらう。

 

[やぶちゃん注:底本では第一段落の後、「古事記」に入る部分は行空けがないが、原文を見ると有意な行空けがあることが判ったので、例外的に一行空けて読み易くした。

「八重垣神社」現在の松江市佐草町(さくさちょう)にある神社。旧称は佐久佐神社(さくさじんじゃ)で、ハーンが冷たく何ら有意な関連を認めていないと記すものの、一応、素盞嗚尊と櫛稲田姫が結ばれた故事に基づいて、現在も縁結びの神社として信仰を集めている。ウィキの「八重垣神社によれば、『素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし』、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主)、及び「出雲国風土記」の意宇(おう)郡大草(おおくさ)郷の条で須佐乎命(すさのおのみこと)の子として記載されている『青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ)を配祀する』(下線やぶちゃん)。『社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建され、後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座したという。佐久佐神社という名前は延喜式神名帳に記載されているが、式内・佐久佐神社は当社の他、同市大草町の六所神社も論社となっている』。元慶二(八七八)年に『正五位上の神階を授かった。佐草氏が神職として奉仕し、近世には八重垣大明神と称された』が、明治五(一八七二)年に『佐久佐神社は八重垣神社を合祀して郷社に列格』され、明治九(一八七六)年になって県社に昇格、三年後の明治一一(一八七八)年になって現在の『八重垣神社に改称』された(これはハーンの訪問したと推定される明治二四(一八九一)年かその前年からはたかだか一二、三年前のことに過ぎない)。『社殿後方には「奥の院」が鎮座し、「鏡の池」と呼ばれる神池や「夫婦杉」と呼ばれる』二本の『大杉、「連理の椿」がある。「鏡の池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、お告げの文字が浮かぶという手法。紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、早く縁づくといわれる。このため』、軽い一円玉を使うのを避け、十円若しくは百円で占いを行う(何だかな、と私は思う)。『また、紙の上をイモリが横切って泳いでいくと、大変な吉縁に恵まれるとい』われるが、一九七〇年代頃に、『この「鏡の池」に賽銭泥棒が出没して以来、池の底には目の大きめな金網が張られるようになった』(これもまた私は、何だかな、と思う)。

「稻田姫」櫛稲田姫と同じい。

「佐草命」前の「八重垣神社」の下線部を参照。

「慓悍」「へうかん(ひょうかん)」と音読みする。「剽悍」とも書き、素早く、且つ、荒々しく強いことをいう。

「古事記によれば――」以下は現行の読みとは一部に手が加えられているものの、原文雰囲気を壊さず、しかも非常に分かり易く「古事記」の素戔嗚の八岐大蛇退治のシークエンスを写した訳となっていると思う(私には本「古事記」訓読が何を元にしたものかは分からない。識者の御教授を乞う)。ここは「古事記」を注釈する気はないので、以下、禁欲的に注する。語注に関しては角川文庫武田祐吉訳注・中村啓信補訂「古事記」の脚注を一部参照させて戴いた。難訓と判断した箇所にはだいたい注したが、原則、私の理解出来る部分、概ね字面から意味を汲めると判断した箇所には注は附していないので、悪しからず。

「避追(やら)はえて」追放されて。

「肥河」「ひのかは」は、次の「鳥髮」の山を水源とする斐伊川(ひいかわ)と考えられ、一説に、この川は古えより甚大な被害を齎す氾濫をなしたことから、それが「八岐大蛇(やまたのおろち)にシンボライズされたとする解釈がある。

「鳥髮」「とりかみ」と清音で読む。現在の鳥取県日南町と島根県奥出雲町との県境にある標高千百四十二メートルの奥出雲町の船通山(せんつうざん)が比定されている。ウィキの「船通山」によれば、事実、出雲地方では古来より「鳥上山」「鳥髪山」「鳥上峰」「鳥髪峰」とも呼称されてきた山。

「以爲ほして」「おもほして」。「思ほす」は「おもふ」に上代の尊敬の助動詞「す」のついた「おもはす」の変化した動詞。お思いになる。

「尋覓(ま)ぎ」底本は「尋ま覓ぎ」となっている。しかし、これでは私は訓読出来ない。通常、現行ではここは「尋(たづ)ね覓(ま)ぎ」と訓じて、尋ね求めるの意とするから、例外的に「ま」はルビの原文への錯字と断じ、かく訂した。大方の御批判を俟つ。

「童女」「をとめ」(乙女)。

「大山津見ノ神」「おほやまつみのかみ」。

「足名椎」「あしなづち」。

「手名椎」「てなづち」。武田先生の脚注には両神の名につき、「日本書紀」には『脚摩乳手摩乳とあり、いつくしみ撫でるの意』とする。

「櫛名田比賣」「くしなだひめ」。武田先生の脚注には、「日本書紀」に『奇稲田姫とある。「くし」は靈妙なの意。すぐ後に櫛と関係が生ずるため、あて字として用いられたものであろう』とある。

「八稚女」「やをとめ」。八人の娘。

「高志」武田先生は北越地方の義とすべき、と地誌学的に注されるものの、私はそれには説得力を全く感じない。博多とする者、阿波とする者など百家争鳴であるが、孰れにも私はその根拠の正当性を感じない。現在の島根県内とする説で私はよいと考えている。

「八俣遠呂智」「やまたのをろち(やまたのおろち)」。武田先生の脚注に、「遠呂智」は『凶暴な者の譬喩。また出水としてそれを処理して水田を得た意の神話ともする』とある。私は個人的には「肥河」は「火の河」であり。後で注する「赤かがち」「血垂り爛れた」る様から、古代の火山噴火で発生した幾つにも分岐した溶岩流の記憶がこの元の一つではなかったと密かに昔から思ってはいる。

「なも」強意の係助詞「なむ」の上代語。

「喫ふ」「くらふ」(喰らふ)。

「爾ち」「すなはち(すなわち)」。

「赤加賀」「古事記」本文は「赤加賀知」で、現行では「あかかがち」と訓じて、「赤酸漿(かかかがち)」と漢字を当て、ナス目ナス科ホオズキ属ホオズキ変種ホオズキ Physalis alkekengi var. franchetii の古名とする。武田先生は『タンバホオズキ』と名指されるるが、これはホオズキの別称である(なお、別にホオヅキの小型品種を「サンズンホオズキ」、早生大果品種を「タンバホオズキ」とするという記載が平凡社「世界大百科事典」にあるが、改良品種である以上、「古事記」のそれではない)。

「榲」「すぎ」(杉)。

「谿八谷」「谿」は「たに」、「八谷」は「はつこく(はっこく)」。その長さたるや、谷八つ分。

「峽(を)」「峽」は峡谷で「谷」と同義であるが、ここは一種の区別された対句表現で、谷があるということはそこを区切る尾根、高みがあることを指すから、その全長は谷八つ即ち峰八つ分をも越える、の意であろう。

「血爛(あえたゞ)れたり」武田先生は「血(ち)たり爛(ただ)れたり」と訓じられ、『血がしたたって』いる、のとされる。

「答白す」これで「まをす」(申す)と訓じているものと思う。

「爾(かれ)」「かれ」は「故」などとも表記する「古事記」の常套語の接続詞で、「それで」「そこで」の意。

「恐けれども」「かしこけれども」(畏けれども)。畏れ多いけれども。

「伊呂勢」「いろせ」。同母の姉弟。「いろ」は接頭語で、同母の、同親のの意を添え、「せ」は「いも」「いもこ」の対語で男を指し、兄弟の意を含む。ここは天照大神を姉とするその弟の意である。

「坐しつ」「ましつ」。自敬表現。

「然坐さば」「しかまさば」と訓じていよう。

「立奉らむ」これで「たてまつらむ」と訓じていよう。

「白しき」「まをしき(もうしき)」。

「乃ち」老婆心乍ら、「すなはち(すなわち)」と読む。

「湯津爪櫛に取り成して、御美豆良に刺さして」「湯津爪櫛」は「ゆつつまぐし」と読む。「ゆつ」は「斎」で、神聖な・清浄なの意の接頭語。「爪櫛」は歯の細かな櫛をいう。素戔嗚は稲田姫を神聖な呪力を持つ櫛に変身させて(魂を込めた櫛に変容させて)「御美豆良」(「みみづら(みみずら)」と読む。鬟(みずら)のこと。「角髪」「角子」「髻」とも書き、上代の成人男子の髪の結い方・髪型を指し、髪を頭の中央から左右に分け、両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだものをいう。平安以後は主として少年の髪形となった)に挿したのである。武田先生はここに『これは婚姻の風習で、その神秘な表現。童女を櫛に変化させる古代呪術の反映とみてもよい』と注されておられる。

「八鹽折の酒」「やしほおりのさけ(やしおおりのさけ)」とは、何度も何度も繰り返して熟成発酵させて作ったアルコール度数の非常に高い濃い酒をいう。

「釀み」「かみ」。醸(かも)す。醸造する。

「廻(もとほ)し」現代仮名遣では「もとおす」と読む。文字通り、巡らす・廻すの意の上代よりの古代語である。

「門」「かど」。結界としての「門(もん)」。

「佐受岐」「さずき」と読む。「棧敷(さじき)」の語源と思われ、実際に「棧敷(さず)き」「酒船」「さかぶね」酒を入れるための箱状の容器。

「如來つ」「ごと、きつ」と訓ずる。

「御佩せる」「みはかせる」。

「十拳劔」「とつかのつるぎ」。刀身の長さが拳で十握り分ほど(凡そ六十五~七十センチメートルとされる)もある剣。なお、この直後の、素戔嗚が八岐大蛇の尾部を斬った際にこの剣が欠け、そこから後の三種の神器となる草薙の剣太刀が出現するシークエンスはまるまる省略されている。

「求ぎ」「まぎ」。先の「覓(ま)ぎ」に同じい。

「玆の大神初め須賀宮作らしゝ時」この段落も実際にはかなり省略がある。「玆」は「ここ」ではなく「こ」で、「玆の大神」で素戔嗚を指す。「須賀」(すが)は現在の島根県雲南市大東町須賀を指し、この「須賀宮」は同地にある現在の須我神社とされ、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されている。「須賀」という地名の由来は省略された箇所に「吾(あ)、此地(ここ)に來て、我(あ)が御心、淸淨(すがすが)し。」(原文は「須賀須賀斯」)と言ったとあることから、それが語源ということであろう。

「騰りき」「のぼりき」と読む。

「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」は現行では、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

と漢字を当てる。「やくもたつ」雲が数限りなく勢いよく湧き起こる様態を指す。後に「出雲」の枕詞となったが、ここはまさにリアルにして「生」と「動」のエネルギに満ちた剛毅にして健常なる嘱目吟である。「つまごみ」妻とともに二人して住まうこと。助詞「を」は一見、目的格を示す格助詞のように見えるが、実際には上代の間投助詞「を」で感動・詠嘆を表わす語として用いられていると読むべきであろう。

「出雲といふ名」私はチェンバレンの「古事記」を読んだことがないので、それを云々は出来ない(このハーンの言いはチェンバレンが正当と考えている雰囲気がありありと伝わってはくるが)。ウィキ出雲によれば、『「出雲」という国名の由来は、雲が湧き上がる様子をあらわした語「稜威母(イズモ)」という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣では「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある』とあり、「出鉄」については、ウィキ古代出雲には(アラビア数字を漢数字に代た)、古代の出雲は『邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の三分の一の記述は出雲のものであり、全国にある八割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える』とし、『鉄器については、山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっている。特に遺跡が多いのは県境付近であり、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭の確保は欠かせなかったものと考えられる。西部地方は後に衰えを見せるが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられている』とある。]

 

 

Chapter Fourteen Yaegaki-jinja

Sec. 1

UNTO Yaegaki-jinja, which is in the village of Sakusa in Iu, in the Land of Izumo, all youths and maidens go who are in love, and who can make the pilgrimage. For in the temple of Yaegaki at Sakusa, Take-haya-susa- no-wo-no-mikoto and his wife Inada-hime and their son Sa-ku-sa-no-mikoto are enshrined. And these are the Deities of Wedlock and of Love—and they set the solitary in families—and by their doing are destinies coupled even from the hour of birth. Wherefore one should suppose that to make pilgrimage to their temple to pray about things long since irrevocably settled were simple waste of time. But in what land did ever religious practice and theology agree? Scholiasts and priests create or promulgate doctrine and dogma; but the good people always insist upon making the gods according to their own heart—and these are by far the better class of gods. Moreover, the history of Susano-o the Impetuous Male Deity, does not indicate that destiny had anything to do with his particular case: he fell in love with the Wondrous Inada Princess at first sight—as it is written in the Kojiki:

 

'Then Take-haya-susa-no-wo-no-mikoto descended to a place called Tori- kami at the headwaters of the River Hi in the land of Idzumo. At this time a chopstick came floating down the stream. So Take-haya-susa-no-wo- no-mikoto, thinking that there must be people at the headwaters of the river, went up it in quest of them. And he came upon an old man and an old woman who had a young girl between them, and were weeping. Then he deigned to ask: "Who are ye?" So the old man replied, saying: "I am an Earthly Deity, son of the Deity Oho-yama-tsu-mi-no-Kami. I am called by the name of Ashi-nadzu-chi; my wife is called by the name of Te-nadzu- chi; and my daughter is called by the name of Kushi-Inada-hime." Again he asked: "What is the cause of your crying?" The old man answered, saying: "I had originally eight young daughters. But the eight-forked serpent of Koshi has come every year, and devoured one; and it is now its time to come, wherefore we weep." Then he asked him: "What is its form like?" The old man answered, saying: "Its eyes are like akaka- gachi; it has one body with eight heads and eight tails. Moreover, upon its body grow moss and sugi and hinoki trees. Its length extends over eight valleys and eight hills; and if one look at its belly, it is all constantly bloody and inflamed." Then Take-haya-susa-no-wo-no-mikoto said to the old man: "If this be thy daughter, wilt thou offer her to me?" He replied: "With reverence; but I know not thine august name." Then he replied, saying: "I am elder brother to Ama-terasu-oho-mi-Kami. So now I have descended from heaven." Then the Deities Ashi-nadzu-chi and Te-nadzu-chi said: "If that be so, with reverence will we offer her to thee." So Take-haya-susa-no-wo-no-mikoto, at once taking and changing the young girl into a close-toothed comb, which he stuck into his august hair-bunch, said to the Deities Ashi-nadzu-chi and Te-nadzu-chi: "Do you distil some eightfold refined liquor. Also make a fence round about; in that fence make eight gates; at each gate tie a platform; on each platform put a liquor-vat; and into each vat pour the eightfold refined liquor, and wait." So as they waited after having prepared everything in accordance with his bidding, the eight-forked serpent came and put a head into each vat and drank the liquor. Thereupon it was intoxicated, and all the heads lay down and slept. Then Take-haya-susa-no-wo-nomikoto drew the ten-grasp sabre that was augustly girded upon him, and cut the serpent in pieces, so that the River Hi flowed on changed into a river of blood.

'Then Take-haya-susa-no-wo-no-mikoto sought in the Land of Idzumo where he might build a palace.

'When this great Deity built the palace, clouds rose up thence. Then he made an august song:

          Ya-kumo tatsu:

  Idzumo ya-he-gaki;

               Tsuma-gomi ni

                 Ya-he-gaki-tsukuru:

                 Sono ya-he-gaki wo![1]

Now the temple of Yaegaki takes its name from the words of the august song Ya-he-gaki, and therefore signifies The Temple of the Eightfold Fence. And ancient commentators upon the sacred books have said that the name of Idzumo which is now Izumo, as signifying the Land of the Issuing of Clouds, was also taken from that song of the god. [2]

 

1 ''Eight clouds arise. The eightfold [or, manifold] fence of Idzumo makes an eightfold [or, manifold] fence for the spouses to retire within. Oh! that eightfold fence!' This is said to be the oldest song in the Japanese language. It has been differently translated by the great scholars and commentators. The above version and text are from Professor B. H. Chamberlain's translation of the Kojiki pp.60-64.

2 Professor Chamberlain disputes this etymology for excellent reasons. But in Izumo itself the etymology is still accepted, and will be accepted, doubtless, until the results of foreign scholarship in the study of the archaic texts is more generally known.

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