フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五) | トップページ | 騎士夢 »

2015/10/24

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (六)

         六

 

 木には、少くとも日本の木には、魂があるといふ事は、ウメノキとサクラノキの花を見たことのある者には、不自然な空想とは得思はれぬ。この事は出雲や他の地方での普通の信仰である。これは佛教の哲理には一致しないが、或る意味に於て、木は『人間の用の爲めに創造された物』といふ西洋の古の正統思想よりも、遙かに宇宙眞理に近いものと誰しも感ずる。その上亦、責重な森林の絶滅を防ぐ上に於て、大いに效のあつた或る種の西印度信仰に似ぬでも無い、數々の妙な迷信が特殊の樹木に就いて存在して居る。日本には、熱帶世界と同樣に、化物の木がある。そのうちで、エノキ(學名セルチス・ヰルダノヰアナ)とヤナギ(枝の垂れるヰロウ)とが、殊に靈的なものと考へられて居る。で、古風の日本庭に見らるゝことは今は稀である。兩方とも化ける力を有つて居ると信ぜられて居る。『エノキ ガ バケル』と出雲で云ふ。諸君は日本字書に『バケル』といふ語が『姿を變へる』とか、『變態する』とか『變はる』とかいふ言葉で、反譯されて居るのを見らるゝであらう。が、此二つの木に就いての信仰は頗る特殊なもので、『バケル』といふ動詞の、そんな翻譯では説明が出來ぬ。木そのものが形や場所を變へるのでは無くて、木のお化けといふ妖怪が木から放れて、樣々な姿【註】を執つて歩き廻るのである。

 

    註。サトウ氏は、これが或る程度ま

    でその同類かとも思へる、或る信仰

    を――珍らしい神道の教を――平田

    に發見して居る。『その教に據れば、

    神は自己の部分を分裂の方法により

    て脱ぎ棄て、斯くして所謂ワキミタ

    マ――各異れる機能を具へたる分き

    魂――を生ず』るのだといふ。出雲

    の大神、大國主之神は、平田の説に

    據ると、こんな『分き魂』を三つ具

    へて居らるるといふ。罰するその荒

    い魂(アラミタマ)、赦すその和い魂

    (ニギミタマ)、及び惠を與へる、そ

    の祝福的或は慈善的な魂(サキミタ

    マ)それである。この神の荒塊がさ

    うとは知らずに、一度和魂に遭つた

    といふ神道物語がある。

 

最も屢々此幽靈が執る姿は美人のそれである。この木の妖怪は滅多に物を言はぬ、また滅多にその水から餘程の遠方へ行くことを敢てせぬ。人が近寄ると直ぐと幹か簇葉かの中へ退きすさる。古い柳でも若い柳でも、伐ると血がその傷口から流れ出るといふ。こんな木は極く若い時は、超自然的な習慣を有つて居るとは信ぜられて居ないが、年をとればとる程危險となる。

 京都の或るサムラヒの庭に生えて居た柳に就いて――ドライアツド〔譯者曰、木に棲むニムフ〕についての昔の希臘人の夢を想はせる――やゝ可憐な傳説がある。その木に氣味の惡るい評判があるが爲めに、其家の借家人はそれを伐り倒さうと思つた。が、別な一人のサムラヒが諫めて『自分の庭に植ゑるから、それを自分に賣つて呉れ』と言つた。斯くて購はれ移し植ゑられて、その柳は、その新しい家で能く繁茂し、そしてその魂が、感謝の念からして、美しい女の姿を執り、自分を助けて呉れたそのサムラヒの妻となつた。可愛らしい男の兒が、その結婚の結果であつた。四五年經つて、その地面の持主であつたダイミヤウが、その木を伐り倒せと命じた。すると妻は甚(いた)く泣き悲しんで、始めてその夫に事の仔細を洩らした。そして『私は死なねばならぬ事は分つて居ゐます。でも私共の子供は生きて居ませうし、またあなたはいつも可愛がつてやつて下さるでせう。さう思ふことが私のたつた一つの慰めであります』と言ひ足した。驚きまた怖れた夫は、女を引留めようとしたが徒勞であつた。永久の訣を夫に告げて女は、その木の中へ消え失せた。その士は己が力の及ぶ一切を盡して、その目的を棄てるやう大名に説き勸めたことは言ふに及ばぬ。その大名はサンジフサンゲンダウ【註】といふ大きな佛寺の修繕に、その木が要るのであつた。その木は伐られた。が、倒れてしまふと、三百人の力もそれを動かすことが出來ぬ程の重さに突然成つた。その時その子が、その小さな手に一枝を持つて『おいで』と言つた。するとその子に隨(つ)いて、その寺の庭まで大地を辻つて行つた。

 

    註。京都の佛寺總てのうちで、一番

    印象的なものであらう。千手觀音に

    奉獻されたもので、その像が三萬三

    千三百三十三體ある。

 

 榎は化物の木だと言はれて居るけれども、時々最高の宗教的尊敬を受けてゐる。古い人形をそれに奉納することになつて居る、荒神(くわうじん)といふ神の靈は、或る非常に古い榎の木に宿つて居ると想像されて居るからで、人々がそれに對してお祈をする、祠がその木の前に置かれて居るのである。

 

[やぶちゃん注:「西印度信仰」となると、西インド諸島のハイチを中心に広まった民間信仰ブードゥー教(英語Voodoo:ハイチや西アフリカではヴォドゥン(Vodun)と呼び慣わす。「ヴォドゥン」とは西アフリカのフォン語で「精霊」の意)であろう。奴隷貿易によってアフリカから西インド諸島へ強制連行されて使役された黒人奴隷の間に広がったアニミスティクな信仰とキリスト教が混淆して生まれた複数の精霊を信仰し、しばしば憑依儀礼が行われる。

「エノキ(學名セルチス・ヰルダノヰアナ)」原文“the enoki (Celtis Willdenowiana)”。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis(セルチス・シネンシス)。この原文の学名は英語版ウィキのCeltis sinensisによって同種のシノニムであることが判る。

「ヤナギ(枝の垂れるヰロウ)」原文“the yanagi (drooping willow)”であるから「ヰロウ」はその音写(「ウィロー」)である。この英名で引くと、我々にお馴染みのビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica を指すことが判る。

「サトウ氏は、これが或る程度までその同類かとも思へる、或る信仰を――珍らしい神道の教を――平田に發見して居る」以下は前出のアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“The revival of pure Shin-tau”(純粋神道の復活)辺りからの引用か。私はサトウの著作を読んでいないのでこれ以上の注は控える。それらしいことを述べていそうな平田篤胤の著作は所持するが、今回もすぐに指摘出来ない。そのうち、見つけたらお示しする。

「和い魂」読み不詳。「やはい(やわい)たま」? 何かヘン。

「簇葉」「そうえふ(そうよう)」で、群がった葉。

「京都の或るサムラヒの庭に生えて居た柳に就いて」「やゝ可憐な傳説がある」これは私の好きな浄瑠璃「三十三間堂棟木由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)」(これは本来は若竹笛躬(ふえみ)・中邑阿契(なかむらあけい)の合作になる宝暦一〇(一七六〇)年初演の「祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)」の三段目「平太郎住家の段」を独立させて上演した際の外題で初演は文政八(一八二五)年)の元となった伝承である。

「ドライアツド」原文“dryads”。ギリシア神話に登場する、木の精霊(ニンフ)の一族であるドリュアス(Dryas)のこと。ウィキの「ドリュアス」によれば、英語ではドライアド(Dryad)、フランス語ではドリアード(Dryad)。先に注したヒンドゥー教などに登場する木の精霊もギリシア神話のニンフの名を借りてかく呼ぶことがあるとし、『多くのニンフと同じく長命であるが、ドリュアスたち(ドリュアデス)の場合、自らの宿る木が枯れると共にその命を閉じる。このためドリュアスたちやギリシアの神々は木の精霊に敬意を払うことなく木を傷つける人間をこらしめるのである』。『ドリュアスたちは普段は人前に姿を現すことは滅多にないが、美しい男性や少年に対しては緑色の髪をした美しい娘の姿を現し、相手を誘惑して木の中に引きずり込んでしまうことがあるという。そこで一日を過ごしただけで、外では何十年、何百年もの時が経過している場合がある』。『その起源はインド・ヨーロッパ語族やケルト族のドルイド文化の中ではオークの木と密接に関係している。ギリシア人は彼らより昔の人々はオークの木の実を食べていたと想像した。女性をかたどった神殿の柱は、そのような建築に使われる前はその実を食べていたさまざまな木々と関係している』。知られたドリュアスとしては『オルペウスの妻エウリュディケー』がいる。

「サンジフサンゲンダウ」言わずもがなの京都市東山区三十三間堂廻り町(ちょう)にある仏堂三十三間堂。正しくは蓮華王院本堂という。たまたま偶然、同寺についての事実についは、直近で電子化した「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(4) 茸そっくりの和菓子/京の三十三間堂のこと」に注したので参照されたい。]

 

 

Sec. 6

That trees, at least Japanese trees, have souls, cannot seem an unnatural fancy to one who has seen the blossoming of the umenoki and the sakuranoki. This is a popular belief in Izumo and elsewhere. It is not in accord with Buddhist philosophy, and yet in a certain sense it strikes one as being much closer to cosmic truth than the old Western orthodox notion of trees as 'things created for the use of man.' Furthermore, there exist several odd superstitions about particular trees, not unlike certain West Indian beliefs which have had a good influence in checking the destruction of valuable timber. Japan, like the tropical world, has its goblin trees. Of these, the enoki (Celtis Willdenowiana) and the yanagi (drooping willow) are deemed especially ghostly, and are rarely now to be found in old Japanese gardens. Both are believed to have the power of haunting. 'Enoki ga bakeru,' the izumo saying is. You will find in a Japanese dictionary the word 'bakeru' translated by such terms as 'to be transformed,' 'to be metamorphosed,' 'to be changed,' etc.; but the belief about these trees is very singular, and cannot be explained by any such rendering of the verb 'bakeru.' The tree itself does not change form or place, but a spectre called Ki-no o-bake disengages itself from the tree and walks about in various guises.' [20] Most often the shape assumed by the phantom is that of a beautiful woman. The tree spectre seldom speaks, and seldom ventures to go very far away from its tree. If approached, it immediately shrinks back into the trunk or the foliage. It is said that if either an old yanagi or a young enoki be cut blood will flow from the gash. When such trees are very young it is not believed that they have supernatural habits, but they become more dangerous the older they grow.

There is a rather pretty legendrecalling the old Greek dream of dryadsabout a willow-tree which grew in the garden of a samurai of Kyoto. Owing to its weird reputation, the tenant of the homestead desired to cut it down; but another samurai dissuaded him, saying: 'Rather sell it to me, that I may plant it in my garden. That tree has a soul; it were cruel to destroy its life.' Thus purchased and transplanted, the yanagi flourished well in its new home, and its spirit, out of gratitude, took the form of a beautiful woman, and became the wife of the samurai who had befriended it. A charming boy was the result of this union. A few years later, the daimyo to whom the ground belonged gave orders that the tree should be cut down. Then the wife wept bitterly, and for the first time revealed to her husband the whole story. 'And now,' she added, 'I know that I must die; but our child will live, and you will always love him. This thought is my only solace.' Vainly the astonished and terrified husband sought to retain her. Bidding him farewell for ever, she vanished into the tree. Needless to say that the samurai did everything in his power to persuade the daimyo to forgo his purpose. The prince wanted the tree for the reparation of a great Buddhist temple, the San-jiu-san-gen-do. [21]' The tree was felled, but, having fallen, it suddenly became so heavy that three hundred men could not move it. Then the child, taking a branch in his little hand, said, 'Come,' and the tree followed him, gliding along the ground to the court of the temple.

Although said to be a bakemono-ki, the enoki sometimes receives highest religious honours; for the spirit of the god Kojin, to whom old dolls are dedicated, is supposed to dwell within certain very ancient enoki trees, and before these are placed shrines whereat people make prayers.

 

20 Mr. Satow has found in Hirata a belief to which this seems to some extent akinthe curious Shinto doctrine according to which a divine being throws off portions of itself by a process of fissure, thus producing what are called waki-mi-tamaparted spirits, with separate functions. The great god of Izumo, Oho-kuni-nushi-no-Kami, is said by Hirata to have three such parted spirits: his rough spirit (ara-mi-tama) that punishes, his gentle spirit (nigi-mi-tama) that pardons, and his benedictory or beneficent spirit (saki-mi-tama) that blesses, There is a Shinto story that the rough spirit of this god once met the gentle spirit without recognising it,

21 Perhaps the most impressive of all the Buddhist temples in Kyoto. It is dedicated to Kwannon of the Thousand Hands, and is said to contain 33,333 of her images.

« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五) | トップページ | 騎士夢 »