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2015/10/09

不思議な川邊で   立原道造

  不思議(ふしぎ)な川邊で

 

 私はおまへの死を信じる。おまへは死んだと、だれも私には告げない。また私はおまへの死の床に立ち會はなかつた。それにも拘(かかは)らず私は信じる、おまへがひとりさびしく死んで行つたと。――それはおそらく夜の明けようとするときだつたらう、おまへは前の晩なんのこともなく平常のとほりに寢床にはひつた、そしていくらか寢苦しかつたにしろ、おまへの眠りは平和だつた、そして人びとはおまへの眼ざめを待つてゐる、そんなときだつたらう、おまへは白んで來る幾分つめたい夜の明けの空氣のなかで、こときれて見出されねばならない。誰が手をくだしたのでもない、死の天使さへもが知らないだらう。しかしおまへは死んでゐる。外の晝間の光で甘い死のなかに休む姿は美しくかがやく。人びとは追憶と悔いのなかにおまへを呼びかへさうとする、しかしそれはむだだ、おまへは歸らない何の形見(かたみ)もなく‥‥私は信ずる、おまへは死んでしまつた、と。

 しらべの絶えた笛をふところにして私はいつもやつて來る。そこがおまへと出會ふ約束の場所だつた、この川のほとりに。水にその根をひたした草たちはザワザワとその葉を鳴らす、それはさびしい音樂だ。自分の心のなかに音樂を失つた私の心を、それの悲哀で慰(なぐ)めてくれるさびしい音樂だ。私はそのなかにいつまでもさまよふのをこのむ。そしてながれの水が私の姿を映すのを、また私の上の空を空ゆく雲を映すのを、ながめいるのをこのむ。いかなる時であらうと、私は誘はれる、樂しく切なかつた時々のおもひに――。朝ならば露(つゆ)に濡れて立つてゐた私たちだ、夕ならば夕やけ空に驚きの眼を見はつた私たちだ。しかし今それらのおもひは何と苦しく胸をしめつけるのであらう。……

 それは或る晝だつた。暑く灼けた日であつた。空には何か見知らないめづらしいもの心を誘ふものがあつた。私はいつものやうに水邊の草に身を横たへて高い空に眼をやつてゐた、私を蔽(おほ)ふ影をつくつてゐる樹木の葉たちのこまかいそよぎにもかたまりかけては消えてゆく雲の營みにも心はとまらなかつた。ただたつたひとつのこともし過ぎたあの時がい今かうしておもひ出されるなら今はあの時――それはいつかやつてくるあの時にはどんな風にして私におもひ返されるだらうか。友もなく、たつたひとりぼつちに、過ぎた時のおもかげを追ふ、かうして夢みながらすごされる時間は果して何かの形を持つだらうか……私はこのやうな思ひのなかばで、いつか淺い眠りにはひつて行つた。オルフエの眠りであつた。おまへと語らふ、ほんのつかの間だつた。風のさわめきがここでもとほくの歌や小鳥のさへづりにまざつてきかれた、それはサワサワと草の葉とささやいてゐた、またヒラヒラするひろい木の葉とたはむれてゐた、おまへは、生きてゐたときのやうにややよそよそしく私にほほゑんだ、……そのとき私は不意に呼びさまされた。私の名を呼ぶ聲に。見ひらいた私の眼には高い高い空があるきりだつた。だれだらう? 私の名を呼んだのは!……私は身をおこした。私は誰も見出すことは出來なかつた。私にはそれがいぶかしかつた。しかしそれ以上怪(あや)しみはしなかつた。私はしばらく夢のつづきのやうなうつとりとした氣分にひたつてゐた。

 それは私がいつもこの場所を立ち去るときにするならはしであつたが、私は水のなかをのぞきこんんだ。そこには高い高い夕ぐれ近くなつた空のいろがくろずんでうつつた、そして一かけのあはい雲がながれた。そしてややくらく私の顏がうつつた……しかしそれだけではなかつた、私の肩ごしに私の顏を覗きこむやうにおまへの顏がそこにはあるのだ、夢のつづきのやうにややよそよそしくほほゑみながら。私はふりかへつた、しかし私は誰の姿も見なかつた。――私は水の上に、おまへの顏がぢつと私を見つめてほほゑんでゐるのをふたたび見た。その底には藻草(もぐさ)がながれに搖れてゐた。水のにほひがしてゐた。私は不思議な感動にひたりながら、いつまでも、そのおまへが私にはやうやく見えなくなるまで、立ちつくしてゐた――なぜその淺いながれに身を打ちつけなかつたのだらう! ただ私はぢつと身動きもせずに、言葉もなく立つてゐたのだ。……

 

 

[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」を用いた。

 Y君の祥月命日に――僕の記憶の中の遠い日のY少年へ捧げる――]

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