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2015/10/14

北條九代記 卷第七 北條時賴元服 付 弓矢評論

      ○北條時賴元服 付 弓矢評論

嘉頑三年四月二十二日、將軍家既に、左京權大夫泰時の第に入御し給ふ。豫てより、この御料(ごれう)として、御所を新造あり。檜皮葺(ひはだぶき)棟門(むねもん)を付けて、内の躰(てい)、金銀を鏤(ちりば)めらる。これのみならず、御儲事(まうけこと)毎(ごと)、過差(くわさ)を盡さる。御出(ぎよしゆつ)の粧(よそほひ)、又、殊に花を飾り給ふ。寢殿の南面に於いて、終日(ひねもす)御酒宴あり。夜に入りて、泰時の孫戒壽丸(かいじゆまる)、御前に於いて、元服の儀を遂げらる。是は故修理亮(しゆりのすけ)時氏の二男なり。駿河前司義村、理髮に候(こう)じ、將軍家、加冠(かくわん)し給ふ。北條〔の〕五郎時賴とぞ號せられける。同七月下旬に、來月鶴ヶ岡八幡宮、放生會の流鏑馬(やぶさめ)の議定(ぎぢやう)あり。五郎時賴、初(はじめ)て、射らるべきに定められ、鶴ヶ岡の馬場に於いて稽古の事を催し、泰時、既に、流鏑馬屋(やぶさめや)に出で給へば、駿河〔の〕前司以下の宿老、参集(さんじふ)せらる。海野(うんのゝ)左衞門尉幸氏は、舊勞(きうらう)にて、故實堪能(こじつかんのう)の射手(いて)なり。仰(おほせ)に依て、射藝の事を計(はから)ひ申す。時賴殿は、生得(しやうとく)の堪能、その躰(てい)、神妙の(しんべう)由を感じ申す。但し、矢を挾(さしはさ)むの時に、弓を一文字に持ち給ふ事、その説なきにはあらず候へども、故右大將家の御前にして、弓箭談議の時、一文字に弓を持つ事、諸人一同の儀たりし所に、佐藤兵衞尉憲淸入道西行法師申しけるは、弓は拳(こぶし)より押立(おした)てて引くべきやうに持つべし。流鏑馬に矢を挾(さしはさ)むの時、一文字に持つは失禮なりと、候ひき。一文字に持(もち)候へば、弓をひく躰(てい)、聊か遅く見え候。上を少し揚(あげ)られ、水走(みづばしり)に掛けて、射たるぞ然るべけれ、と申さる。下河邊行平、工藤景光、和田義盛、望月重隆、藤澤淸親、諏訪〔の〕太郎盛隆、愛甲(あいかふの)三郎季隆等、皆、以て甘心承伏して、異議に及ばず。「是計は、五郎殿にも直され候はばや」と申しければ、三浦義村、打聞きて、「誠にこの説を聞きて候を、只今の仰に付けて、思出でて面白く候」とぞ感ぜられける。泰時、入興(じゆきやう)あり。「向後、弓の持樣(もちやう)は、この故實を守るべきなり」とて、この後、種々弓箭の事、流鏑馬、笠懸以下の作物(つくりもの)の故實、的草鹿(まとくさじし)等の才覺、大略(おほむね)、淵源を究め、燭を取る程に、各々退散せられたり。斯(かく)て八月十五日、放生會(はうじやうゑ)の事、將軍家、御參宮あり。行粧(かうさう)、頻る嚴密なり。北條五郎時賴、流鏑馬の射手(いて)、その役めでたく勤められしかば、泰時を初(はじめ)て、貴賤、感嘆し奉る。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎三(一二三七)年四月二十二日、七月十九日、八月十五日・十六日の条に基づく。

「御料」御料所の謂いで、ここは御所(その附属物としての門)と同じい。

「棟門」「むなもん」「むねかどなどとも読み、二本の柱とその上部を連結する冠木(かぶき)によって切妻造りの屋根を支えた平入り(ひらいり:建物の大棟に平行な側を「平」と呼び、その真正面の入口をかく言う)の門。公家・武家などの門として用いられた。

「故修理亮時氏の二男」北条時氏は泰時の長男で嫡子であったが、六波羅探題在職中に病に倒れて鎌倉へ戻り、享年二十八で亡くなった。時頼には同母(松下禅尼。安達景盛娘)の兄で第四代執権経時がおり、巻第八で後述されるように、この五年後の仁治三(一二四二)年六月十五日の泰時の死去に伴って十九歳で執権となったものの、僅か四年後の寛元四年(一二四六)年に二十三の若さで病没してしまい、その直前に『神秘の御沙汰』と呼ばれる秘密会議が幕閣内で行われ、時頼(二十歳)は兄経時から執権職を譲られる形で第五代執権となる。

「理髮」増淵勝一氏の訳注に、『頭髪の末を切りまた結ぶ役』とある。童子髪をやめて成人の、髻(もとどり)に結い直す役である。

「加冠」烏帽子(えぼし)を被せる役でこの役を成す者は烏帽子親と呼ばれ、普通は実父に匹敵する権威を持った。

「放生會」供養のために事前に捕らえおいた生き物を池や野に放ちやる法会。殺生戒に基づいて奈良時代より行われ、陰暦八月十五日の八幡宮の祭りに催された。

「流鏑馬屋」流鏑馬を行う射手が控えるための屋根の小屋と思われる。古地図の流鏑馬馬場のすぐ北(だったと思う)にそれを示す建物記号が記されているのを見た記憶がある。

「海野左衞門尉幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。当時、既に数え六十八である。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。『幸氏の死期については、確かな記録は無』いが、建長二(一二五〇)年三月の『吾妻鏡』に、『幸氏と思われる「海野左衛門入道」の名が登場するのが、記録の最後』であるとする。これが正しく幸氏であったとすれば、この時既に七十八で、当時としては長生きである。

「舊勞」ずっと以前より仕えて功労のあること。

「故右大將家」頼朝。

「佐藤兵衞尉憲淸入道西行法師申しける」文治二(一一八六)年八月十五・十六日両日の、かの「卷第一 西行法師談話」の折りのことである。元の「吾妻鏡」にかくあるのであるが、こういうシークエンスが戻ってくるところが素晴らしい。

「水走」不詳。平たい石を水面に投げる水切り石切りという遊びがあるが、あの跳ね上がったように上へ傾斜して走るさまか? 識者の御教授を乞うものである。

「下河邊行平……」以下はその頼朝と西行の弓矢談義の場に居合わせた面々である。

「的草鹿」草鹿的(くさじしまと)とも。歩射(ぶしゃ:徒歩(かち)で弓矢を射る実戦的射芸の一つ)の的で、板で鹿の姿を作ってそれに革や布を張って中に綿を入れて吊るしたもの。鎌倉時代に始まる。

 

 以下、「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎三(一二三七)年の七月十九日と八月十五日の条を引いておく。

   *

〇原文(〔 〕は原本では割注式のポイント落ちの挿入部)

十九日甲午。北條五郎時賴。始可被射來月放生會流鏑馬之間。此間初於鶴岳馬場有其儀。今日。武州爲扶持之。被出流鏑馬屋。駿河前司以下宿老等參集。于時招海野左衞門尉幸氏。被談子細。是舊勞之上。幕下將軍御代。爲八人射手之内歟。故實之堪能被知人之故歟。仍見射藝之失禮。可加諷諫之旨。武州被示之。射手之躰尤神妙。凡爲生得堪能由。幸氏感申之。武州猶令問其失給。縡及再三。幸氏憖申之。挾箭之時。弓〔ヲ〕一文字〔ニ〕令持給事。雖非無其説。於故右大將家御前。被凝弓箭談議之時。一文字〔ニ〕弓〔ヲ〕持〔ツ〕事。諸人一同儀歟。然而佐藤兵衞尉憲淸入道〔西行〕云。弓〔ヲバ〕拳〔ヨリ〕押立〔テ〕可引之樣〔ニ〕可持也。流鏑馬。矢〔ヲ〕挾之時。一文字〔ニ〕持事〔ハ〕非禮也者。倩案。此事殊勝也。一文字〔ニ〕持〔テバ〕。誠〔ニ〕弓〔ヲ〕引〔テ〕。即可射之躰〔ニハ〕不見。聊遲〔キ〕姿也。上〔ヲ〕少〔キ〕揚〔テ〕。水走〔リニ〕可持之由〔ヲ〕被仰下之間。下河邊〔行平〕工藤〔景光〕兩庄司。和田〔義盛〕望月〔重隆〕藤澤〔淸親〕等三金吾。幷諏方大夫〔盛隆〕愛甲三郎〔季隆〕等。頗甘心。各不及異議。承知訖。然者是計〔ヲ〕可被直歟者。義村云。此事令聞此説。思出訖。正觸耳事候〔キ〕。面白候〔ト〕云々。武州亦入興。弓持樣。向後可用此説云々。此後。閣其儀一向被談弓馬事。義村態遣使者於宿所。召寄子息等令聽之。流鏑馬笠懸以下作物故實。的草鹿等才學。大略究淵源。秉燭以後各退散云々。

〇やぶちゃんの書き下し文(【 】は私が附した)

十九日甲午。北條五郎時賴、始めて來月の放生會の流鏑馬を射らるべきの間、此の間、初めて鶴岳馬場に於いて其の儀、有り。今日、武州之を扶持せん爲、流鏑馬屋に出でらる。駿河前司以下の宿老等、參集す。時に海野左衞門尉幸氏を招き、子細を談ぜらる。是れ、舊勞の上、幕下將軍の御代に、八人の射手(いて)の内たるか、故實の堪能を知らる人の故か。仍つて射藝の失禮を見て、諷諫(ふかん)を加ふべきの旨、武州、之れを示さる。

「射手の躰(てい)、尤も神妙なり。凡そ生得の堪能たり。」

の由、幸氏、之れを感じ申す。

武州、猶ほ其の失(しつ)を問はしめ給ひ、縡(こと)、再三に及ぶ。幸氏、憖(なまじ)いに之れを申す。

「箭(や)を挾(さしはさ)むの時、弓を一文字に持たしめ給ふ事、其の説、無きに非ずと雖も、故右大將家の御前に於いて、弓箭の談議を凝らさるるの時、一文字に弓を持つ事、諸人一同の儀か。然れども、佐藤兵衞尉憲淸入道〔西行。〕云はく、

【西行】『弓をば拳(こぶし)より押し立てて引くべきの樣に持つべきなり。流鏑馬は、矢を挾(さしはさ)むの時、一文字に持つ事は禮に非ざらるなり。』

てへれば、倩(つらつら)案ずるに、此の事、殊勝なり。

【西行】『一文字に持てば、誠に弓を引きて、即ち射るべきの躰(てい)には見えず、聊か遲き姿なり。上を少しき揚げて、水走りに持つべし。』

の由を仰せ下さるるの間、下河邊〔行平〕・工藤〔景光〕兩庄司、和田〔義盛〕・望月〔重隆〕・藤澤〔淸親〕等の三金吾、幷びに諏方大夫〔盛隆〕愛甲三郎〔季隆〕等、頗る甘心して、各々異議に及ばず、承知し訖んぬ。然らば、是れ計(ばか)りを直さるるべきか。」

てへれば、義村云はく、

「此の事、此の説を聞かしめ、思い出し訖んぬ。正(まさ)しく耳に觸れる事候ひき。面白く候ふ。」

と云々。

 武州、亦、入興(じゆきよう)、

「弓の持ち樣(やう)は、向後は此の説を用ゐるべき。」

と云々。

 此の後、其の儀を閣(さしお)きて、一向に弓馬の事を談ぜらる。義村、態(わざ)と使者を宿所に遣はし、子息等を召し寄せて之を聽かしむ。流鏑馬、笠懸以下の作物(つくりもの)の故實、的草鹿(まとくさじし)等の才學(さいかく)、大略、淵源を究め、秉燭(へいしよく)以後、各々退散すと云々。

   *

文中の「縡(こと)」は「事」に同じい。二つ目の【西行】の台詞は後の敬語から頼朝の台詞とも読めるが、それでは西行の誉れが出ない気がする。

 次に「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎三(一二三七)年八月十五日の条。

   *

〇原文

大十五日癸巳。鶴岳放生會。將軍家御參宮。午刻御出。晴賢候御身固。備中藏人爲陪膳。已寄御車。前民部少輔爲御釼役。下庭上。又著直垂。令帶釼。六位十五人候階間西方。于時駿河前司申云。御出之間。帶釼之輩者。承久元年正月。於宮寺。依有事。被始此儀。是候近々可奉守護之故也。而今日。其役人内。少勇敢之類。可進于御共云々。仍次郎泰村。四男家村。五男資村。六男胤村等。改布衣行粧於直垂參進。加彼衆。駿州傍若無人沙汰。人驚耳目云々。其後御出。法會舞樂等如例。還御之後。入夜。對明月在當座和哥御會。右馬助。相摸三郎入道。主計頭。加賀前司。大夫判官定員。伊賀式部大夫入道。城太郎等候其座。又廣資〔陰陽師〕追參加。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日癸巳。鶴岳の放生會。將軍家、御參宮。午の刻、御出。晴賢、御身固めに候ず。備中藏人、陪膳たり。已に御車を寄す。前民部少輔、御釼(ぎよけん)の役として、庭上に下る。又、直垂(ひたたれ)を著し、帶釼せしむる六位、十五人、階(はし)の間の西方に候ず。時に、駿河前司、申して云はく、

「御出の間、帶釼の輩は、承久元年正月、宮寺に於いて事有るに依つて、此の儀を始めらる。是れ、近々に候じて守護奉るべきの故なり。而るに、今日、其の役の人の内、勇敢の類(たぐひ)少し。御共に進ずべきと云々。

仍つて次郎泰村・四男家村・五男資村・六男胤村等、布衣(ほい)の行粧(ぎやうさう)を直垂に改めて參進し、彼(か)の衆に加はる。

「駿州の傍若無人の沙汰。」

と、人、耳目を驚かすと云々。

 其の後、御出。法會舞樂等、例のごとし。還御の後、夜に入り、明月に對し、當座に和哥の御會在り。右馬助・相摸三郎入道・主計頭・加賀前司・大夫判官定員・伊賀式部大夫入道・城太郎等、其の座に候ず。又廣資〔陰陽師。〕、追つて參加す。

   *

文中の「承久元年正月、宮寺に於いて事有る」というのは公暁による実朝暗殺事件を指す。「階の間」は「階隠(はしがく)しの間」とも称す(「階隠し」というのは社殿や寝殿造りの殿舎に於いて正面の階段上に柱を二本立てて突出させた庇 (ひさし)で、社殿の場合には「向拝 (ごはい/こうはい) ともいう。日隠し)。庭前から階(きざはし)を上った上段の「簀子(すのこ)の間」に面するところの「庇(ひさし)の間」のことを言う。あくまで大嫌いな狸爺い三浦義村の横暴を引きたかっただけのことであれば、注は削いだ。]

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