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2015/10/05

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一二) / 第十一章~了

        一二

 

 さて今、私共は豐年踊を見物することとなつた。夜の八時に始まるのだ。月が無く、空は眞暗だ。しかし百個も提燈が點ぜられ、吊るしてあるので、宮司邸の廣庭には充分に明りがある)私と私の友人は、庭に向つた大きな亭に、心地よい席を設けられ、また宮司は旨い晩餐を私共に準備した。

 既に亭前には、杵築の靑年や、附近から出た百姓の若者や、女に子供、幾百といふ娘どもが群集してゐた。非常な人込みで、踊れさうにもない。燈光に照らされて、光景は非常に綺麗で、謝肉祭のやうな晴れ着の美觀だ。無論百姓共は古風な服裝で來た。黄色の藁の外套、即ち蓑をきたものもあり、靑手拭を頭に卷いたのもある。大きな松蕈形の笠を被つたのが澤山ある――すべて彼等の紺の衣服を充分捲くり上げてゐる。が、町の若衆達は、いろいろの服裝や、また假裝をしてきた。女裝をしたのが夥しい。巡査の如く白帆(ズツク)布をきたのもある。マントを着たものや、墨西哥人が着けるやうな肩掛をつけたのもある。若い職人には、働く時と殆ど同じ輕快な服裝で、臀まで脚を露はし、肩まで腕を出したのもゐる。娘の中に、なかく驚くべき衣裳が見られた――紅玉の色や、濃い灰色や、褐色や、紫色の衣を精巧な帶で結んでゐる。が、最も優れた趣味は、上流の少女達が着てゐる、單純でしかも頗る優美な、黑と白の衣裳だ――踊のため特に調製したもので、他の場合には着けない。幅廣い藁帽の柔靭なる兩緣まで引下ろして、結ひつけて、全く顏を隱せる内氣な娘もあつた。私は子供等の美しい着物に就いては、敢て説明しかねる。蝴蝶や蛾の變幻萬態の美を、繪の具なしに描かうとするに等しいから。

 この群集の眞中に、大きな米臼が倒まに伏せてある。やがて、草履を穿いた一人の百姓が、輕くその上へ飛び上つて、そこに立つた――頭の上には紙傘を擴げて、しかし雨は降つてゐない。それは音頭取りの男で、出雲中で評判の謠ひ手である。舊慣によつて、豐年踊の音頭取りは、歌をふときにいつも傘を差すことになつてゐる。

 突然、今しも亭へきて席に就いた宮司の合圖で、音頭取りの豐年感謝の歌は、群集の低い騷音の上を銀の喇叭のやうに鳴り渡つた。驚くべき聲、また驚くべき歌だ。名狀し難い顫音と震聲に滿ちて、また美はしさと眞の音樂的好調に滿ちてゐる。して、彼は歌ひ乍ら、いつも傘は頭の上に擴げて、彼の高い足臺の上で、ゆるりと廻はる。右から左への轉廻の 間、決して停まりはしないが、たゞ歌は二節毎に一定の休みをおく。すると、群集は愉快さうに『や、は、と、ない!や、は、と、ない!』と叫んで應ずる。同時に、群集の間に非常に敏速な分離運動が起こつた。踊り手が大きな二重の輪となつて、他のものは悉く踊のために場所を讓つて、後方へ押し寄せて退いた。それから、この優に五百人の踊り手から出來てゐる大きな二重の輪もまた右から左へと廻轉し始める――輕やかに、また奇異にすべての腕の上がるのも、足の白くちらちら動くのも、歌の拍子としつくり合つてゐる。踊は音頭取りを中心とした巨大なる車輪だ。彼はいつもゆるりと米臼の上で傘を差して廻り乍ら歌ふ――

    一には――出雲の大社樣へ、

    二には――新潟の色神樣へ、

    三には――讃岐の金比羅樣へ、

    四には――信濃の善光寺樣へ、

    五には――一畑御藥師樣へ、

    六には――六角堂の御地藏樣へ、

    七には――七浦の御惠比壽樣へ、

    八には――八幡の八幡樣へ、

    九には――高野のお寺々へ、

    十には――所の氏神樣へ、

 して、すべての踊り手が、一齊に盛んに合唱する――

    や、は、と、ない!

    や、は、と、ない!

 このぐるぐる廻はる愉快な豐年踊は、昨年私が下市で見た幽靈の踊のやうな、盆踊と、全然異つてゐる。またこれは、説明するに一層困難である。銘々の踊り手は左と右へ交互に半圓を描く。同時に妙な具合に腰を曲げ、手を上げる――頭の上へ重いものをもたげようとするやうだ。が、まだ他に珍らしい動作がある――男の方では痙攣的で、女の方では波動的な――恰も流動せる水の如く、名狀し得られぬ運動で、全く複雜を極めてゐるが、それでも非常に整然として、五百對の手と足が、歌の拍子によく合つて行くさまは、一個の神經系統の支配の下にあるやうだ。

 日本の民謠の旋律とか、日本の舞踊の動作を記憶するのは不思議に困難である。といふのは、その歌と踊は、西洋人の音や動作に於ける拍子の審美感とは、丁度英語が支那語に對する如くに、異れる審美感を通じで進化し來たものだから。西洋人は是等の異國的拍子に對して祖先傳來の共鳴を有たぬ。それを直ぐに理解する遺傳能力はない。何等それと調和すべき人種的衝動もない。しかし東洋に永く滯在して、研究によつて慣れてくると、踊の旋回と歌の奇異なる調子が、いかに興奮を與へ恍惚たらしむること!

 この踊が八時に始まつたのは、私は知つてゐた、して音頭取りは餘程長い間、聲の衰弱も見せないで歌つた後、第二の音頭取りが交代した。が、大きな輪は決して破れない。また廻轉をも緩めない。夜が更けるに從つて、擴大するばかりであつた。今度は第三の音頭取りが代つた。しかし私はいつまでも、その踊を眺めたかつた。

 私の友は『今は何時と思ひます?』と、彼の時計を見ながら尋ねた。

 『十一時頃でせう』と私は答へた。

 『十一時ですつて!もう八分で丁度午前三時ですよ。これから、宮司さんは、夜明けまで御寢みの時間が殆どありますまい』

 

[やぶちゃん注:「八雲会」の「松江時代の略年譜」によって、ハーンがこの豊年踊りを見たのは明治二四(一八九一)年八月四日のことであったことが判る。そうした実時間的な流れを(四つ前の「八」は七月二十五日をクレジットし、それよりもしかもそれは現在の知見では事実ではないのである)この章は明らかに確信犯で朦朧とさせてようとしているのである。

「月は無く」この日は午後七時十五分が月没であったが、新月であった。

「墨西哥人」老婆心乍ら、「メキシコじん」と読む。

「名狀し難い顫音と震聲に滿ちて」原文は“full of trills and quaverings indescribable”。「顫音」は「せんおん」と読み、所謂、トリル(trill:ある音とその二度上又は下の音とを急速に反復させること)様の声で、「震聲」は前との対で音で「しんせい」と読まざるを得ないが、所謂、震え声、細かく痙攣し震えるようなビブラート(vibrato――特に「縮緬ビブラート」などと呼称する――のようなものを指していよう。そのような西洋音楽の特異な装飾音に似て非なるでなければ、それを「銀の喇叭のやうに」「驚くべき聲、また驚くべき歌」とハーンは言わないであろうと思う。

しつくり」底本では傍点「ヽ」は「しつく」にしか打たれていないが、「り」まで太字とした。

「一には――出雲の大社樣へ」数え歌で頭を踏んでいる。原文は「一(いち)は」であるから訳も「には」ではなく「は」とあるべきところである(以下同様)。この落合氏の歌詞の訳は以下、頗るよろしくない。平井氏の訳は以下の数詞の呼称に忠実で、唄としてちゃんと詠める。落合氏のこれは「唄」として最早、壊れているのである。

「新潟の色神樣」現在の新潟県新潟市中央区一番堀通町にある、新潟総鎮守として新潟の神社を代表する白山神社のことと思われる。「色神樣」原文を見ると「いろかみさま」と濁っていない。「色神」とは「いろがみ」で男女の恋を取り持つ神、縁結びの神である。新潟の白山神社は公式サイトの由緒」を見ると、主祭神が農業及び海上の安全を守る菊理媛大神(くくりひめのおおかみ:加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる)で、「くくりひめ」の「くく」とは、「糸を括(くく)る」如く民の祈願を聞き入れるに繋がり、さらに男女の仲を「糸を括り結ぶ」ように取り持つ「縁結び」の神として現在も全国的に知られているとある。

「三には」原文通り「三(さん)は」とすべきである。

「四には」「しには」である。

「五には――一畑御藥師樣へ」「五」は「には」は原文になく、「いつつ」とあり、「いつつには」では音律が頗る気持ち悪いし、頭を踏む以上、「いつには」と読むしかない。「」複数回既出既注

「六角堂の御地藏樣」現在の群馬県渋川市伊香保町水沢にある五徳山水澤観世音水澤寺の六角堂(地蔵堂)のことか? 内部にある回転する六地蔵尊は非常に珍しいものである。私は一度だけ行ったことがあるためにここが念頭に浮かんでしまったのだが。間違いであれば、御教授あられたい。

「七には――七浦の御惠比壽樣」「七には」原文通り「七(なな)と」とすべきである。

「八には」原文通り、「八(やつ)つ」とすべきである。「七浦の御惠比壽樣」とは現在の厳島神社の管轄になる「宮島の七浦七恵比須」のことであろう。厳島神社の祭神であう市杵島姫命の廻った宮島の七浦ごとにそれぞれ神社が建てられてある。

「九には――高野のお寺々へ」原文を見れば分かる通り、「高野」に合わせて「九」は「ここのつ」と訓じており、「には」は原文になく、音律も悪い。これも外して然るべき部分である。

「十には」「十(と)には」である。なお、現行もこの詞章やハーンが見た豊年踊りが行われているかどうかは、ネット上では現認出来なかった。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

Sec. 12

And now we are to see the Honen-odori—which begins at eight o'clock. There is no moon; and the night is pitch-black overhead: but there is plenty of light in the broad court of the Guji's residence, for a hundred lanterns have been kindled and hung out. I and my friend have been provided with comfortable places in the great pavilion which opens upon the court, and the pontiff has had prepared for us a delicious little supper.

Already thousands have assembled before the pavilion—young men of Kitzuki and young peasants from the environs, and women and children in multitude, and hundreds of young girls. The court is so thronged that it is difficult to assume the possibility of any dance. Illuminated by the lantern-light, the scene is more than picturesque: it is a carnivalesque display of gala-costume. Of course the peasants come in their ancient attire: some in rain-coats (mino), or overcoats of yellow straw; others with blue towels tied round their heads; many with enormous mushroom hats—all with their blue robes well tucked up. But the young townsmen come in all guises and disguises. Many have dressed themselves in female attire; some are all in white duck, like police; some have mantles on; others wear shawls exactly as a Mexican wears his zarape; numbers of young artisans appear almost as lightly clad as in working-hours, barelegged to the hips, and barearmed to the shoulders. Among the girls some wonderful dressing is to be seen—ruby-coloured robes, and rich greys and browns and purples, confined with exquisite obi, or girdles of figured satin; but the best taste is shown in the simple and very graceful black and white costumes worn by some maidens of the better classes—dresses especially made for dancing, and not to be worn at any other time. A few shy damsels have completely masked themselves by tying down over their cheeks the flexible brims of very broad straw hats. I cannot attempt to talk about the delicious costumes of the children: as well try to describe without paint the variegated loveliness of moths and butterflies.

In the centre of this multitude I see a huge rice-mortar turned upside down; and presently a sandalled peasant leaps upon it lightly, and stands there—with an open paper umbrella above his head. Nevertheless it is not raining. That is the Ondo-tori, the leader of the dance, who is celebrated through all Izumo as a singer. According to ancient custom, the leader of the Honen-odori [8] always holds an open umbrella above his head while he sings.

Suddenly, at a signal from the Guji, who has just taken his place in the pavilion, the voice of the Ondo-tori, intoning the song of thanksgiving, rings out over all the murmuring of the multitude like a silver cornet. A wondrous voice, and a wondrous song, full of trills and quaverings indescribable, but full also of sweetness and true musical swing. And as he sings, he turns slowly round upon his high pedestal, with the umbrella always above his head; never halting in his rotation from right to left, but pausing for a regular interval in his singing, at the close of each two verses, when the people respond with a joyous outcry: 'Ya-ha-to-nai!-ya-ha-to-nai!' Simultaneously, an astonishingly rapid movement of segregation takes place in the crowd; two enormous rings of dancers form, one within the other, the rest of the people pressing back to make room for the odori. And then this great double-round, formed by fully five hundred dancers, begins also to revolve from right to left—lightly, fantastically—all the tossing of arms and white twinkling of feet keeping faultless time to the measured syllabification of the chant. An immense wheel the dance is, with the Ondo-tori for its axis—always turning slowly upon his rice-mortar, under his open umbrella, as he sings the song of harvest thanksgiving:

  [9] Ichi-wa—Izumo-no-Taisha-Sama-ye;

  Ni-ni-wa—Niigata-no-Irokami-Sama-ye;

  San-wa—Sanuki-no-Kompira-Sama-ye;

  Shi-ni-wa—Shinano-no-Zenkoji-Sama-ye;

  Itsutsu—Ichibata-O-Yakushi-Sama-ye;

  Roku-niwa—Rokkakudo-no-O-Jizo-Sama-ye;

  Nanatsu—Nana-ura-no-O-Ebisu-Sama-ye;

  Yattsu—Yawata-no-Hachiman-Sama-ye;

  Kokonotsu—Koya-no-O-teradera-ye;

  To-niwa—Tokoro-no-Ujigami-Sama-ye.

And the voices of all the dancers in unison roll out the chorus:

 

Ya-ha-to-nai!

Ya-ha-to-nail

Utterly different this whirling joyous Honen-odori from the Bon-odori which I witnessed last year at Shimo-Ichi, and which seemed to me a very dance of ghosts. But it is also much more difficult to describe. Each dancer makes a half-wheel alternately to left and right, with a peculiar bending of the knees and tossing up of the hands at the same time—as in the act of lifting a weight above the head; but there are other curious movements-jerky with the men, undulatory with the women—as impossible to describe as water in motion. These are decidedly complex, yet so regular that five hundred pairs of feet and hands mark the measure of the song as truly as if they were under the control of a single nervous system.

It is strangely difficult to memorise the melody of a Japanese popular song, or the movements of a Japanese dance; for the song and the dance have been evolved through an aesthetic sense of rhythm in sound and in motion as different from the corresponding Occidental sense as English is different from Chinese. We have no ancestral sympathies with these exotic rhythms, no inherited aptitudes for their instant comprehension, no racial impulses whatever in harmony with them. But when they have become familiar through study, after a long residence in the Orient, how nervously fascinant the oscillation of the dance, and the singular swing of the song!

This dance, I know, began at eight o'clock; and the Ondo-tori, after having sung without a falter in his voice for an extraordinary time, has been relieved by a second. But the great round never breaks, never slackens its whirl; it only enlarges as the night wears on. And the second Ondo-tori is relieved by a third; yet I would like to watch that dance for ever.

'What time do you think it is?' my friend asks, looking at his watch.

'Nearly eleven o'clock,' I make answer.

'Eleven o'clock! It is exactly eight minutes to three o'clock. And our host will have little time for sleep before the rising of the sun.'

 

 

8 'Literally, 'The Dance of the Fruitful Year.'

9

First,—unto the Taisha-Sama of Izunio;

Second,—to Irokami-Sama of Niigata;

Third,—unto Kompira-Sama of Sanuki;

Fourth,—unto Zenkoji-Sama of Shinano;

Fifth,—to O-Yakushi-San of Ichibata;

Sixth,—to O-Jizo-Sama of Rokkakudo;

Seventh,—to O-Ebisu-Sama of Nana-ura;

Eighth,—unto Hachiman-Sama of Yawata;

Ninth,—unto everyholy shrine of Koya;

Tenth,—to the Ujigami-Sama of our village.'

Japanese readers will appreciate the ingenious manner in which the numeral at the beginning of each phrase is repeated in the name of the sacred place sung of.

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