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« 明日は | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一〇) »

2015/10/04

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (九)

        九

 

 廣大な大社の境内も、今日は群集が大いに込んでゐるので、參詣者は頗る徐々と動かねばならぬ。お祭りのため、杵築の町や、附近から擧つて人出があつたからだ。堀池の中央の島に建てられた小祠へ、狹い築堤を經て、群集は悠かに進んで行く。この小祠を私は始めて見るのである(杵築大社はなかなか廣い處だから一回の參詣では總てのことど見聞する譯に行かぬ)が、これが天神宮なのだ。宮の前で手を拍つ音は、瀑布の響のやうだ。それから、幾萬の一厘錢や、一握づゝの米が、幾斗に達するほど、大きな木櫃の賽錢凾の中へ投ぜられる。幸にもこの群集は、日本のすべての詳集と同樣、非常に同情的謙讓な精神を持つてゐるから、何れの方向へでも、その中を渡つて行つて、何でも見ることが出來る。私は天神宮に私の賽錢を捧げた後、外苑に並列せる玩具店に注意を向けた。

[やぶちゃん注:この章はかなり長いので必要に応じて注を各段落末に配する。そのため、本文のみを読むのに指標となるよう、注の有る無しに限らず、各段落の後(注がある場合はその後)を一行空けることとした。

「擧つて」「こぞつて(こぞって)」と訓ずる。]

 

 日本の大抵のお祭りには、通常社寺の境内で、玩具の盛んな賣出しが行はれる――掛小舍の連れる小さな町が、この面白い商賣のため、臨時に建設せられる。すべての祭禮は子供のための休日だ。何んな母親も、お祭へ參つて子供に一個の玩具も買はないで歸ると思つてゐるものはない。最も貧しい母親でも、それを買ふことは出來る。何故といふのに、社寺の境内で賣る玩具の代價は、二厘乃至三四錢で、五錢にも達するのは、かゝる小さな店では滅多に陳べてゐないからだ。が、値段は安いけれども、是等の脆弱な玩具は、美と暗示性に滿ちてゐて、日本を知り、日本を好む者に對しては、巴里の玩其製造者の最も高價なる發明品よりも遙かに興味が多い。しかしその多くは英國の子供に取つて、全然不可解なものだらう。さて、二三のものを覗いて見よう。

 

 こゝに小さな木槌がある。柄の先端の凹窩に緩かな小さな毬がはめてある。これは赤兒がしやぶるためだ。槌先きの上下には、神祕的な巴が繪いてある――巴は支那の象徴で、一つの圓になるやうな形に二個の大きなコンマを合せたものだ。讀者はローウエル氏の美しき『東洋の靈(ザ・ソール・ヲブ・ジー・イースト)』の表題紙に、それを見たかも知れない。が、多分この小さな木槌は、讀者には唯だ小さな木槌に過ぎないで、それ以外の何でもないだらう。しかし日本の子供に取つては暗示に滿ちたものだ。それは杵築の大神、大國主神、俗に大黑樣と呼ばれる、福の神の槌で、この槌の一打で以て、崇拜者に富を與へ玉ふのだ。

[やぶちゃん注:ここに出る玩具を私は残念ながら想起出来ない。どなたか、御教授を乞う。

「ローウエル氏の美しき『東洋の靈(ザ・ソール・ヲブ・ジー・イースト』」火星人の存在を唱え、「火星の運河」を描いたことで知られる、アメリカのボストン出身の天文学者で日本研究者でもあったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)が一八八八年に刊行した“The Soul of the Far East”のこと。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」によれば、明治二二(一八八九)年から明治二六(一八九三)年にかけて、日本を五回訪れ、通算約三年間滞在した、とある。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』。『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とある。表紙画像はこちら。因みに、私はブログでE.S.モース(石川欣一訳)「日本その日その日」の電子化注釈を行っており、モースが招聘したフェノロサ、同じく日本に誘ったビゲローは勿論、チェンバレンの名もしばしば登場する。]

 

 恐らくは西洋では見られぬ形のこの小さな鼓、また三つ巴の繪いてある大きな鼓は、讀者には宗教的意義がないやうに思はれるだらう。が、二つとも神道の社と佛教の寺に使はれる鼓の雛形だ。この奇異な小さな机は、小形の三寳だ。こんな臺の上にのせて、神々に献げものをするのである。この珍らしい帽は、神官帽の雛形だ。こゝには高さ四寸の玩具の宮がある。この木の柄に一朶の錫の小鈴を結附けたものは、西洋の錫の鳴り物に似てゐると思はれるだらう。しかし、これは巫女が神前で舞ふとき用ひる尊い鈴の見本だ。この丸ぽちやの娘の笑顏――額に二つの斑點が附いてゐる――即ち土燒の假面は、普通お多福と呼ばれ、彼女の賑かな笑を以て、太陽の女神を暗窟から誘ひ出した天の宇受賣命の傳説的肖像である。して、こゝには盛裝した小ささな神官がある。兩足の間のこの小さな絲を引く、祈りをしてゐるやうに拍手をする。

[やぶちゃん注:「錫の鳴り物」原文“tin rattle”。ブリキで出来た子をあやすためのガラガラ。画像(グーグル画像検索「tin rattle)を見ると、形状は寧ろ、直前に出るデンデン太鼓の方にこそ良く似ている。

「天の宇受賣命」ハーンは「あめのうずめのみこと」と音写している。因みに、彼女を「お多福」のモデルとするという叙述は、ウィキの「アメノウズメ」に、猿女君(さるめのきみ:古代より朝廷祭祀に携わってきた氏族の一つで天の宇受賣命を始祖とするという)や、猿女君をルーツとするとされる稗田(ひえだ)氏の祖とされ、稗田氏の氏神である賣太神社(売太神社 めたじんじゃ:奈良県大和郡山市の稗田環濠集落の端にある神社)では、『芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる』とある。]

 

 幾多の他の玩具がある。その譯を知らぬ歐洲人には不思議なものであるが、日本の子供に取っては愉快なる宗教的意味に滿ちてゐる。極東の是等の信仰には、あまり嚴酷又は陰凄が無い――神は祖先の靈に過ぎない。佛陀や菩薩は人間であつた。幸にも宣教師は、まだ宗教を恐わいものとするやう、日本人に教へるのに成功してゐない。是等の神々は永久に微笑してゐる。不動の如く澁面を示すのがあつても、その澁面はたゞ半ば本氣のやうに見える。やゝ人を驚愕せしめるのは、死の神、閻魔だけだ。宗教といふものは、非常に畏敬すべきもので、子供等がそれを面白がるべき性質のものでないといふ考は、一般日本人の念頭には決して起らない。だからこゝに玩其の神や聖徒の像がある――美しい書の神なる天神――笑ひ好きの宇受賣――幸福なる小學生のやうな福助――一つの群像をなせる七福神――梯子の助を藉りてのみ、理髮師が顱頂を剃り得るほどに長い頭の、長壽の神なる福老人――輕氣球の如く圓く大きな腹を有する布袋――脇の下に鯛を挾める、市場と漁師の神なる惠比壽――それから、絶間なき冥想のため兩脚が腐つて失せた、佛陀の古い弟子なる達磨。

[やぶちゃん注:「嚴酷」「げんこく」で「厳刻」とも書き、思いやりに欠け、非常に厳しくて酷(むご)いことをいう。

「陰凄」見慣れぬ熟語であるが、「いんせい」と読むか。原文は“grimness”で、これは「耐え難い苦難」或いは「身の毛のよだつほど恐ろしいという性質」と英和辞典にはある。陰慘なる凄みといった意味であろう。平井呈一氏は『凄みをもったもの』と訳しておられる。

「その澁面はたゞ半ば本氣のやうに見える」平井呈一氏は『それは、半分はむきになり過ぎてこわい顔をしているのだ』と訳しておられる。

「顱頂」「ろちやう(ろちょう)」と読む。頭の頂(いただき)。頭頂。

「福老人」言わずもがなであるが、寿老人、福禄寿のこと。]

 

 こゝにまた、何等宗教的意味なくて、しかも歐洲人が殆ど推測を下し得ないやうな多くの玩具がある。二本の前肢で自身の腹を叩いてゐる形をした、この小さな狸はその一つの種類だ。狸はその腹を太鼓の如くに使ひ得るものと信ぜられてゐる。坊間の迷信では、またさまざまの超自然力を有するものとなつてゐる。この玩具はある獵夫が狸の生命を宥るしたので、不思議な御馳走と、音樂の饗應を受けたといふ、美はしい御伽噺を現してゐる。こゝには兎が軸の上に水平に置かれた杵の端に坐つてゐる。小さな絲を引くと、杵は兎が動かす如くに、上つたり落ちたりするやうに作つてある。讀者がもし一週間でも日本に滯在せば、それは柄を蹈んで動かす米搗の杵だと認めるだらう。しかし兎は何者だ?この兎は『兎の米搗』と呼ばれて、月中の兎である。讀者が晴夜仰いで月を眺めると、兎の米を搗いてゐるのが見える。

[やぶちゃん注:「坊間」老婆心乍ら、「ばうかん(ぼうかん)」で、町の中、市中の意。

「宥るした」老婆心乍ら、「ゆるした」(許した)と読む。この昔話は例えばサイト「福娘童話集」の「しずが浦のタヌキ 山口県の民話」などは猟師が許すのではないものの、とてもほっとする(リンク先をトップしか許されていないのでかくした。「しずが浦のタヌキ 山口県の民話」で検索を掛けられた方が早い)。

「讀者がもし一週間でも日本に滯在せば、それは柄を蹈んで動かす米搗の杵だと認めるだらう」今や、そんな素敵な発見はまず望めぬ。何か、私はひどく淋しい気がする。]

 

 今度は安價な細工物の方面をあたつて見よう。

 

 蜻蜒。單に二本の木片を丁形に結合したもの。下方の木片はマツチほどの太さで、長

さはその二倍ある小さな圓い木條で、上方のは扁平で、色筋がついてゐる。祕訣を探がすことに馴れた人でなければ、その扁平な木片は兩側の縁に沿つて、ある角度に釣合がつけてあることを殆ど注意し得ないだらう。下方の部分を兩手の掌で挾んで、急に廻轉させ、突然それを放す。忽ちこの奇異な玩具は、空中を旋回し乍ら昇つて、それから異狀な旋轉を行つたり、また少くとも見た處では、正しく蜻蜒の徘徊するやうな動作を眞似たりして、徐々と可なり遠方へ空中を滑走して行く。上方の部分にある色筋が、今やその目的を發揮する。蜻蜒があちらこちらに突進する際、その色合までも眞正の蜻蜒のやうに見える。また玩具の飛んで行く音も、蜻蜒のぶんぶんいふ聲に似てゐる。この面白い發明の原理は飛去來器(ブーメラン 譯者註一)に似たものである。で、器用な人は、それを大きな室の向うへ飛ばせたあとで、まら自分の手へ歸らすことが出來る。が、賣つてゐるもの悉くこの通りではない。私共は運がよかつた。代價、一錢の十分の一!

    譯者註一。濠洲人の用ひる木製の投

    げ道具。これを空中へ投げると、大

    曲線を描いて飛行し、またもとの投

    者の方へ歸つてくる。

[やぶちゃん注:「蜻蜒」これでも「とんぼ」と読む。「蜻蛉」に同じい。]

 

 こゝに針金を張つた、竹の弓に似た玩具がある。しかし針金は、塞子拔きの螺旋のやうに扭ぢてあり、その上に一對の小鳥が金属の弦で吊るしてある。絲の上端の鳥に對して、弓を垂直に保つてゐると、鳥は自らの重量で廻轉し乍ら、恰も互に廻はり合ふやうになつて下る。して、二羽の鳥が囀るやうな音が、螺旋形の針金に金屬の弶の、鋭く擦れるために眞似られる。一羽の鳥は頭を上にして、他の一羽は尾を上にして飛ぶ。彼等が底へ達するや否や、弓を倒さにすると、彼等はまた廻轉飛行を始める。代價、二錢――針金が高價だから。

[やぶちゃん注:この玩具も見た記憶がない。御存じの方の御教授を乞う。

「塞子拔きの螺旋」原文“a corkscrew spiral”。コルク栓抜き。一般にコルク(cork)は「木栓」であるが、ここは「塞子拔き」で単に「せんぬき」ではなく「コルクぬき」と私は読みたい。

「扭ぢて」「よじて」(捩じて)読んでいよう。]

 

 お猿。綿で作つた、靑い頭と赤い胴の小猿が、竹の棒を抱へてゐる。彼り下に竹の彈機があつて、これを押すと、彼は棒の頂上へ駈け上る。代價、一錢の八分の一。

[やぶちゃん注:「彈機」「だんき」でもよいが、ここは「バネ」と読んでおく。]

 

 この動作はやゝ複雜なので、代價一錢。彼はその尾を引くと、左右の手を交互に上げて、絲を昇つて行く。

 

 鳥籠。金色に飾つた小さな籠に、一羽の鳥と梅の花が入つてゐる。籠の底の緣を押すと、小さな風管が鳥のちようちよういふを聲を眞似る。代價、一錢。

[やぶちゃん注:「小さな風管」「ふうくわん(ふうかん)」と読むしかないか。「かざくだ」は無理がある。原文は“a minuscule wind-instrument”。仕込んだ小さな麦笛のようなものか。平井氏はスマートに『小さな風笛』と訳しておられる。『風笛』は「かざぶえ」と読みたい。]

 

 輕業師。二本の竹條を、開いた剪刀の形に合せて、中間に絲を張つて、そこへ頗る關節の緩んだ、木で作れる子供が、雨手でぶらさがつてゐる。竹條の下端を押すと、小さな輕業師は兩脚を絲の上へ投げ、その上に坐し、終には宙返りをする。代價、一錢の六分の一。

 

 木挽。腰に憚を卷いただけで、兩手で長い鋸を持つて、板の上に立てる日本の職人の形。彼の足の下の絲を引くと、一生懸命になつて板を挽き出す。西洋の大工の如く、鋸を向うへ押さないで、日本人は手前へ引くのを注意するがよい。代價、一錢の十分の一。

 

 智惠の板。約十二枚の扁平で、四角形な、白い木片を、紐で繫いだる一種の鎖。これを一端の木片で垂直に保ち、それからその木片を鎖に對して直角に向けると、忽ちすべて他 一の木片は鎖を外れないで、目醒ましい樣にばたばた倒れて行く。大人もこれを弄んで半時間娯むことが出來る。これは機械的調節に於ける全くの魔法だ。代價、一錢。

[やぶちゃん注:所謂、「ぱたぱた」のことか。但し、「智惠の板」というと、これはよく見かける提示された形を作るシルエット・パズルとして有名な、正方形をいくつかの違った形に切りわけたものを使う「タングラム」の本邦での名である。但し、これは「清少納言知恵の板」と呼ばれ、日本で生まれたシルエット・パズルとされる。因みに「タングラム」と「清少納言知恵の板」は酷似するゲームであるが、その関係性については良く分かっていない。ウィキ清少納言知恵の板を参照されたい。]

 

 狐狸。可笑しげな、扁軍な紙製の暇面で、眼を閉ぢてゐる。後ろの厚紙の小片を引くと、眼を開け、驚くばかり長い舌を出す。代價、一錢の六分の一。

 

 狆。白い小犬が頸卷をつけてゐる。吠えてゐる態度だ。佛教的見地から云へば、この玩具はやゝ不徳だ。といふのは、犬の頭を打つと、苦痛を感じたやうに、鋭い叫びを發するから。代價、一錢五厘。少し高い。

 

 起き上がり小法師。負けない力士だ。これは更に高價だ。陶器で作つて、立派に色を塗つてあるから、力士がその兩腿の上に蹲つてゐる、何んな方向に倒しても、彼はいつも獨りで眞直ぐな位置に戻つてくる。代價、二錢。

 

 おろが陛下子供。天皇陛下を拜する子供。手風琴を持つて、君ケ代の國歌を歌ひつゝ、奏してゐる小學生だ。玩具の底に小さな鞴がある。それを働かせると、子供の腕は恰も樂器を奏するやうに動いて、鋭く細い聲が聞える。代價、一錢五厘。

[やぶちゃん注:「おろが陛下子供」「おろが」は「拝」の訓読みの「おろがむ」の語幹か?]

 

 磁石・前者と同じく、全く近代的玩具だ。小さな木箱に磁石と小さな獨樂が入つてゐる。獨樂は赤い木製の小さな球形體に、鐡釘を通して作つたのだ。指の廻轉によつて、獨樂をらせ、それからその釘の上へ磁石を持つて行くと、獨樂は磁石へ跳び上がつて、空中でも廻轉をつゞける 代價、一錢。

 

 すべての玩具を調べて見るには、少くとも一週間を要するだらう。こゝに絲紡車の見本がある。全然よく出來てゐる。代價一錢の五分の一。こゝには水中へ放せば泳ぎ廻はる、粘土製の小龜がある。二個で一厘だ。こゝには玩具の軍人――正裝甲冑をつけた武士――が、たゞ九厘だ。こゝには風車がある。木製の笛の息が洩れ出る穴の前に、紙製の車が張つてある。だから笛を吹くと、車が猛烈に廻はる。代價は三厘だ。こゝには扇がある。一種の小さな四つ折りの扇が、鞘に插してある。擴げると美麗な花の形になる。一厘だ。

 

 が、私に取つて、すべての中で、最も美しいのは小さな人形――お雛樣又は別嬪だ。胴體は俤に過ぎない――紙の着物で蔽はれた、扁平の枝條だ――しかし頭は眞に藝術品だ。眼尻の上つた眼に、柔かな影を含んで、羞しげに俯視せる、美しい卵形の顏――それから、立派な少女風な髮の結び方――帶形や、渦形や、楕圓形や、包旋形や、小葉のちゞれた形など、實に異常なる美觀だ。ある點では、この玩具は、日本の處女や花嫁の實際、髮の結ひ方を模してゐるから、衣裳の雛形だ。が、別嬪の顏の表情は、此玩具の非常なる妙味だと、私は考へる。羞んだ、悲しげな美はしい趣があつて、何とも名狀し難いけれども、それが日本の娘の美の典型を極めてよくほのめかしてゐる。しかも全體は、たゞ小さな皺のよつた紙で作られ、巧みな筆で色を二三回塗抹したのに過ぎない。無數のお雛樣がそれぞれ形狀を異にしてゐる。して、永く日本に滯在した人が、日本人の型に通曉してくる時、人形は披が見たことのある綺麗な顏を彼に思ひ出させるであらう。是等の玩具は少女のためで、代價五錢。

[やぶちゃん注:「包旋形」原文は“convolutions”。蛇のようにぐるぐるととぐろを巻いた形。「こゝろ」の決定的瞬間、『Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐるぐる卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろどろの中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました』の『頭の眞中に蛇のやうにぐるぐる卷きつけ』タイプであろうか(引用は電子テクスト『東京朝日新聞』初出より)。]

 

 

Sec. 9

Vast as the courts of the Oho-yashiro are, the crowd within them is now so dense that one must move very slowly, for the whole population of Kitzuki and its environs has been attracted here by the matsuri. All are making their way very gently toward a little shrine built upon an island in the middle of an artificial lake and approached by a narrow causeway. This little shrine, which I see now for the first time (Kitzuki temple being far too large a place to be all seen and known in a single visit), is the Shrine of Tenjin. As the sound of a waterfall is the sound of the clapping of hands before it, and myriads of nin, and bushels of handfuls of rice, are being dropped into the enormous wooden chest there placed to receive the offerings. Fortunately this crowd, like all Japanese crowds, is so sympathetically yielding that it is possible to traverse it slowly in any direction, and thus to see all there is to be seen. After contributing my mite to the coffer of Tenjin, I devote my attention to the wonderful display of toys in the outer counts.

At almost every temple festival in Japan there is a great sale of toys, usually within the count itself—a miniature street of small booths being temporarily erected for this charming commence. Every matsuri is a children's holiday. No mother would think of attending a temple-festival without buying her child a toy: even the poorest mother can afford it; for the price of the toys sold in a temple court varies from one-fifth of one sen [3] or Japanese cent, to three or four sen; toys worth so much as five sen being rarely displayed at these little shops. But cheap as they are, these frail playthings are full of beauty and suggestiveness, and, to one who knows and loves Japan, infinitely more interesting than the costliest inventions of a Parisian toy- manufacturer. Many of them, however, would be utterly incomprehensible to an English child. Suppose we peep at a few of them.

Here is a little wooden mallet, with a loose tiny ball fitted into a socket at the end of the handle. This is for the baby to suck. On either end of the head of the mallet is painted the mystic tomoye—that Chinese symbol, resembling two huge commas so united as to make a perfect circle, which you may have seen on the title-page of Mr. Lowell's beautiful Soul of the Far East. To you, however, this little wooden mallet would seem in all probability just a little wooden mallet and nothing more. But to the Japanese child it is full of suggestions. It is the mallet of the Great Deity of Kitzuki, Ohokuni-nushi-no-Kami— vulgarly called Daikoku—the God of Wealth, who, by one stroke of his hammer, gives fortune to his worshippers.

Perhaps this tiny drum, of a form never seen in the Occident (tsudzumi), or this larger drum with a mitsudomoye, or triple-comma symbol, painted on each end, might seem to you without religious signification; but both are models of drums used in the Shinto and the Buddhist temples. This queer tiny table is a miniature sambo: it is upon such a table that offerings are presented to the gods. This curious cap is a model of the cap of a Shinto priest. Here is a toy miya, or Shinto shrine, four inches high. This bunch of tiny tin bells attached to a wooden handle might seem to you something corresponding to our Occidental tin rattles; but it is a model of the sacred suzu used by the virgin priestess in her dance before the gods. This face of a smiling chubby girl, with two spots upon her forehead-a mask of baked clay—is the traditional image of Ame-no-uzume-no-mikoto, commonly called Otafuku, whose merry laughter lured the Goddess of the Sun out of the cavern of darkness. And here is a little Shinto priest in full hieratic garb: when this little string between his feet is pulled, he claps his hands as if in prayer.

Hosts of other toys are here—mysterious to the uninitiated European, but to the Japanese child full of delightful religious meaning. In these faiths of the Far East there is little of sternness or grimness—the Kami are but the spirits of the fathers of the people; the Buddhas and the Bosatsu were men. Happily the missionaries have not succeeded as yet in teaching the Japanese to make religion a dismal thing. These gods smile for ever: if you find one who frowns, like Fudo, the frown seems but half in earnest; it is only Emma, the Lord of Death, who somewhat appals. Why religion should be considered too awful a subject for children to amuse themselves decently with never occurs to the common Japanese mind. So here we have images of the gods and saints for toys— Tenjin, the Deity of Beautiful Writing—and Uzume, the laughter-loving -and Fukusuke, like a happy schoolboy—and the Seven Divinities of Good Luck, in a group—and Fukurojin, the God of Longevity, with head so elongated that only by the aid of a ladder can his barber shave the top of it—and Hotei, with a belly round and huge as a balloon—and Ebisu, the Deity of Markets and of fishermen, with a tai-fish under his arm—and Daruma, ancient disciple of Buddha, whose legs were worn off by uninterrupted meditation.

Here likewise are many toys which a foreigner could scarcely guess the meaning of, although they have no religious signification. Such is this little badger, represented as drumming upon its own belly with both forepaws. The badger is believed to be able to use its belly like a drum, and is credited by popular superstition with various supernatural powers. This toy illustrates a pretty fairy-tale about some hunter who spared a badger's life and was rewarded by the creature with a wonderful dinner and a musical performance. Here is a hare sitting on the end of the handle of a wooden pestle which is set horizontally upon a pivot. By pulling a little string, the pestle is made to rise and fall as if moved by the hare. If you have been even a week in Japan you will recognise the pestle as the pestle of a kometsuki, or rice-cleaner, who works it by treading on the handle. But what is the hare? This hare is the Hare- in-the-Moon, called Usagi-no-kometsuki: if you look up at the moon on a clear night you can see him cleaning his rice.

Now let us see what we can discover in the way of cheap ingenuities.

Tombo, 'the Dragon-Fly.' Merely two bits of wood joined together in the form of a T. The lower part is a little round stick, about as thick as a match, but twice as long; the upper piece is flat, and streaked with paint. Unless you are accustomed to look for secrets, you would scarcely be able to notice that the flat piece is trimmed along two edges at a particular angle. Twirl the lower piece rapidly between the palms of both hands, and suddenly let it go. At once the strange toy rises revolving in the air, and then sails away slowly to quite a distance, performing extraordinary gyrations, and imitating exactly—to the eye at least—the hovering motion of a dragon-fly. Those little streaks of paint you noticed upon the top-piece now reveal their purpose; as the tombo darts hither and thither, even the tints appear to be those of a real dragon-fly; and even the sound of the flitting toy imitates the dragon-fly's hum. The principle of this pretty invention is much like that of the boomerang; and an expert can make his tombo, after flying across a large room, return into his hand. All the tombo sold, however, are not as good as this one; we have been lucky. Price, one-tenth of one cent!

Here is a toy which looks like a bow of bamboo strung with wire. The wire, however, is twisted into a corkscrew spiral. On this spiral a pair of tiny birds are suspended by a metal loop. When the bow is held perpendicularly with the birds at the upper end of the string, they descend whirling by their own weight, as if circling round one another; and the twittering of two birds is imitated by the sharp grating of the metal loop upon the spiral wire. One bird flies head upward, and the other tail upward. As soon as they have reached the bottom, reverse the bow, and they will recommence their wheeling flight. Price, two cents— because the wire is dear.

O-Saru, the 'Honourable Monkey.' [4] A little cotton monkey, with a blue head and scarlet body, hugging a bamboo rod. Under him is a bamboo spring; and when you press it, he runs up to the top of the rod. Price, one-eighth of one cent.

O-Saru. Another Honourable Monkey. This one is somewhat more complex in his movements, and costs a cent. He runs up a string, hand over hand, when you pull his tail.

Tori-Kago. A tiny gilded cage, with a bird in it, and plum flowers. Press the edges of the bottom of the cage, and a minuscule wind-instrument imitates the chirping of the bird. Price, one cent.

Karuwazashi, the Acrobat. A very loose-jointed wooden boy clinging with both hands to a string stretched between two bamboo sticks, which are curiously rigged together in the shape of an open pair of scissors. Press the ends of the sticks at the bottom; and the acrobat tosses his legs over the string, seats himself upon it, and finally turns a somersault. Price, one-sixth of one cent.

Kobiki, the Sawyer. A figure of a Japanese workman, wearing only a fundoshi about his loins, and standing on a plank, with a long saw in his hands. If you pull a string below his feet, he will go to work in good earnest, sawing the plank. Notice that he pulls the saw towards him, like a true Japanese, instead of pushing it from him, as our own carpenters do. Price, one-tenth of one cent.

Chie-no-ita, the 'Intelligent Boards,' or better, perhaps, 'The Planks of Intelligence.' A sort of chain composed of about a dozen flat square pieces of white wood, linked together by ribbons. Hold the thing perpendicularly by one end-piece; then turn the piece at right angles to the chain; and immediately all the other pieces tumble over each other in the most marvellous way without unlinking. Even an adult can amuse himself for half an hour with this: it is a perfect trompe-l'oeil in mechanical adjustment. Price, one cent.

Kitsune-Tanuki. A funny flat paper mask with closed eyes. If you pull a pasteboard slip behind it, it will open its eyes and put out a tongue of surprising length. Price, one-sixth of one cent.

Chin. A little white dog, with a collar round its neck. It is in the attitude of barking. From a Buddhist point of view, I should think this toy somewhat immoral. For when you slap the dog's head, it utters a sharp yelp, as of pain. Price, one sen and five rin. Rather dear.

Fuki-agari-koboshi, the Wrestler Invincible. This is still dearer; for it is made of porcelain, and very nicely coloured The wrestler squats upon his hams. Push him down in any direction, he always returns of his own accord to an erect position. Price, two sen.

Oroga-Heika-Kodomo, the Child Reverencing His Majesty the Emperor. A Japanese schoolboy with an accordion in his hands, singing and playing the national anthem, or Kimiga. There is a little wind-bellows at the bottom of the toy; and when you operate it, the boy's arms move as if playing the instrument, and a shrill small voice is heard. Price, one cent and a half.

Jishaku. This, like the preceding, is quite a modern toy. A small wooden box containing a magnet and a tiny top made of a red wooden button with a steel nail driven through it. Set the top spinning with a twirl of the fingers; then hold the magnet over the nail, and the top will leap up to the magnet and there continue to spin, suspended in air. Price, one cent.

It would require at least a week to examine them all. Here is a model spinning-wheel, absolutely perfect, for one-fifth of one cent. Here are little clay tortoises which swim about when you put them into water— one rin for two. Here is a box of toy-soldiers—samurai in full armour —nine rin only. Here is a Kaze-Kuruma, or wind-wheel—a wooden whistle with a paper wheel mounted before the orifice by which the breath is expelled, so that the wheel turns furiously when the whistle is blown— three rin. Here is an Ogi, a sort of tiny quadruple fan sliding in a sheath. When expanded it takes the shape of a beautiful flower—one rin.

The most charming of all these things to me, however, is a tiny doll— O-Hina-San (Honourable Miss Hina)—or beppin ('beautiful woman'). The body is a phantom, only—a flat stick covered with a paper kimono—but the head is really a work of art. A pretty oval face with softly shadowed oblique eyes—looking shyly downward—and a wonderful maiden coiffure, in which the hair is arranged in bands and volutes and ellipses and convolutions and foliole curlings most beautiful and extraordinary. In some respects this toy is a costume model, for it imitates exactly the real coiffure of Japanese maidens and brides. But the expression of the face of the beppin is, I think, the great attraction of the toy; there is a shy, plaintive sweetness about it impossible to describe, but deliciously suggestive of a real Japanese type of girl-beauty. Yet the whole thing is made out of a little crumpled paper, coloured with a few dashes of the brush by an expert hand. There are no two O-Hina-San exactly alike out of millions; and when you have become familiar by long residence with Japanese types, any such doll will recall to you some pretty face that you have seen. These are for little girls. Price, five rin.

 

3 There are ten rin to one sen, and ten mon to one rin, on one hundred to one sen. The majority of the cheap toys sold at the matsuri cost from two to nine rin. The rin is a circular copper coin with a square hole in the middle for stringing purposes.

4 Why the monkey is so respectfully mentioned in polite speech, I do not exactly know; but I think that the symbolical relation of the monkey, both to Buddhism and to Shinto, may perhaps account for the use of the prefix 'O' (honourable) before its name.

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