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2015/10/29

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (八)

       八

 第三の庭は、これは甚だ大きなもので、この蓮池のある構内を越して、この昔の士族町の北と東北の境を成して居る、森の小山の麓まで延びて居る。前(せん)にはこの廣い平坦な地面は全部竹藪が占めて居た。が、今は雜草や野花の荒地に過ぎぬ。東北の隅に素晴らしい井戸があうって、其處から極はめて器用な竹筒の小さな水道でもつて、氷と冷たい水が家へ運ばれて居る。そして西北の角には丈高い雜草に蔽ははれて、稻荷の甚だ小さな石の祠があつて、其前にそれに釣合つて小さな石の狐が二匹立つて居る、祠も狐の像も削がれ毀たれて、綠濃き苔が厚く處々に附いてゐる。が、家の東側の、庭のこの大きな區分の屬する四角な小さな一と地面は、今なほ耕作されて居る。それは、全部菊に使用されて居て、その菊は、輕い木でシヤウジのやうに、劃々(しきりしきり)に白い紙を貼つて造つた斜めな枠物の、竹の細い柱の上で天幕のやうに支へられたものでもつて、非道い雨と強い日光とに遭はぬやう庇はれて居る。日本の花卉栽培のこの驚くべき産物その物に就いては、自分は既に他人が筆にして居ることに何物をも加ふるを敢てし得ぬ。が、菊に關係のある短い物語で、自分が語つてもよからうと思ふのが一つある。

 日本のうちで、やがで判るであらう理由の爲め、菊を栽培するのは不吉だと考へられて居る處が一と處ある。その處といふのは、播磨の國の姫路といふ綺麗な小さな町である。姫路には櫓の數が三十ある、大きな城の廢趾がある。その城には祿高十五萬六千石の、或る大名が住んで居たものである。さて、その大名の重臣の一人の家に、良家の生まれの名おきくと呼ぶ女中が居た。「キク」といふは菊の花といふ意味である。その女中は責重品を澤山託されてゐて、そのうちに高價な黄金の皿が十枚あつた。そのうちの一枚が突然見えなくなつて、見つからなかつた。そこでその女の子は、それに責任を感じて、自分の身の潔白を他にどうして證明すべきかを知らなかつたから、井戸へ身を投げて死んだ。ところがそれからといふものいつも、その幽靈が夜毎歸り來ては、歔欷と共に、低い聲で皿の散を數へるのが聞かれた。

    イチマイ   ニマイ   サンマイ

    ヨマイ    ゴマイ   ロクマイ

    シチマイ   ハチマイ  クマイ――

すると絶望的な叫びと、高いわつと泣く聲とがきかれるのであつた。それからまた、その女の子の悲しさうに皿の數を數へる聲がする、『一枚――二枚――三枚――四枚――五枚――六枚――七枚――八枚――九枚――

 この女の靈魂が、その頭はふり亂した長い髮毛の幽靈の、それに微かに似て居る、妙な小さな蟲の身になつた。それはキクムシ即ち『おきくの蟲』と呼ばれて居る。そして姫路よりほか何處に居らぬといふことである。有名な脚本がおきくについて書かれて居て、ナンシウ・オキク・ノ・サラ・ヤシキ即ち『播州お菊の屋敷』と題して、民衆的な劇場何處でも今なほ演ぜられて居る。

 バンシウといふは束京(江戸)の或る古い町の名の、転訛に過ぎぬから、この話は其處へ持つて行かなければならぬと公言する人が居る。然し姫路の人はその町の一部分で、五軒屋敷と今呼ばれて居る處が、昔のその屋敷の跡だといふ。姫路のうちの五軒屋敷と呼ばれて居る處で菊を栽培するのは、おきくといふ名が『菊』を意味するが故に、不吉だと考へられて居る事は、これは確かに眞實である。その爲めに其處では誰も菊を栽培せぬ、と自分は聞いて居る。

[やぶちゃん注:今回から原則、原本Internet Archive版)を視認して、“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の電子テクストを原文に近い形(例えば、今までも補正してきた斜体に加え、改行冒頭三字下げや一部のダッシュの長さ等)に原文を補正表示することとした(いつかはせねばならないと考えていた)。但し、本ブログでは字空きが上手く反映されない。悪しからず。

「氷と冷たい水」誤訳。原文は“ice-cold water”である。冬場なら氷交じりの水だろうが、ここは非常に冷たい水であって、「氷と冷たい水」ではない。

「菊を栽培するのは不吉だと考へられて居る處が一と處ある。その處といふのは、播磨の國の姫路といふ綺麗な小さな町である」この忌避慣習は少なくとも表立っては現在では残っていないように思われる。事実、守られている事実を御存じの方は、是非、御教授あられたい。因みに私の家系の一方である笠井家(母方の笠井家であるが、私の父方(藪野家)の祖母と母方の祖父は笠井家の兄妹であるから、私には最も濃い形で笠井家の血が流れていることになる)では朝顔を植えることを禁忌としている。いつか詳しく書こうと思うが、笠井家の先祖は加賀藩前田家の家老であったが(確認済)、後に何らかの不祥事によって改易のような処置を受け、これも理由不明乍ら、その嫡流当主が、ある時、朝顔畑の中で割腹して果てたから、と伝わる。植物禁忌伝承はよく聴くが、私自身の中の血の問題でもあり、これだけリアルな事実に裏附けられているのは比較的珍しい部類に属すると私は思っている。

「姫路には櫓の數が三十ある、大きな城の廢趾がある」城の櫓には何種もあり、どれを独立した櫓として数えるかによって城の櫓数はやや異なるようである(個人的には近世以降の城郭には私は全く興味がない)。ウィキの「姫路城」によれば、『現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等』八棟が国宝に(渡櫓(わたりやぐら)とは天守や櫓、或いは櫓と別の櫓の間を繋ぐように建てられたものを指す)、七十四棟の各種建造物(櫓・渡櫓二十七棟、門十五棟、塀三十二棟)が『重要文化財に、それぞれ指定されている』とあるから、ハーンの言いはほぼ正確であろうと思われる。

「祿高十五萬六千石の、或る大名」ここは事実のみを述べる。兵庫県西南部を治めた姫路藩の石高は当初、関ヶ原の戦いの戦功によって池田輝政が慶長五(一六〇〇)年に播磨一国を与えられた折りは五十二万石であったが、後に転封・分割、徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が入封した元和三(一六一七)年には既に十五万石となっており、その後、幕末最後の第十代藩主酒井忠邦まで十五万石であった。即ち、この文脈を厳密に読み解くとなると、以下のお菊伝承は十五万石となった元和三(一六一七)年前後から幕末までの約二百五十年の閉区間の出来事と読めることにはなる。後注参照。

「その大名の重臣の一人の家」ここも知り得た事実のみを述べる。ウィキの「姫路藩」によれば、姫路藩の知られた重臣は最後の酒井家の場合は、河合(川合)家で、先祖の『河合宗在が徳川家康に仕え』、永禄四(一五六一)年に『酒井正親に与力として附属せられて以降代々酒井家の家老職を務め』たとある。但し、酒井家初代姫路藩藩主忠恭(ただずみ)の入封は寛延二(一七四九)年であり、後に見る本伝承最大の濫觴(元凶)の一つである浄瑠璃「播州皿屋敷」の上演は元文六・寛保元(一七四一)年で八年も前あるから、とんだ無関係ではある。ただ、私が問題にしたいのは事実ではなく、流言飛語の内容に関わるの可能性の問題である/でしかない。後注参照。

「その大名の重臣の一人の家に、良家の生まれの名おきくと呼ぶ女中が居た」以下は御存じ、「皿屋敷」の伝承の典型的なラフな梗概である。ハーンの後の考証との比較も含め、少し長くなるが、ウィキの「皿屋敷」を引いて以下に見てみたい(下線やぶちゃん)。

 一般にはまさに播州姫路を舞台とする「播州皿屋敷」、江戸番町を舞台とする浄瑠璃「番町皿屋敷」で広く知られるものの、日本各地にその『類話がみられ、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷、さらに尼崎を舞台とした(皿ではなく針にまつわる)異聞が江戸時代に記録される』。『江戸時代、歌舞伎、浄瑠璃、講談等の題材となった。明治には、数々の手によって怪談として発表されている。大正、岡本綺堂の#戯曲『番町皿屋敷』は、恋愛悲劇として仕立て直したものである』。『古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期の『竹叟夜話』にある』。これは播磨国永良荘(現在の兵庫県市川町)の永良竹叟が天正五(一五七七)年に書いた作品であるが、しかしこれは、『皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異な』っている『皿や井戸が関わる怨み話としては』、十八世紀『初頭頃から、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見され』、享保五(一七二〇)年、『大坂で歌舞伎の演目とされたことが知られ』(外題は私は不詳)、そして元文六・寛保元(一七四一)年に浄瑠璃「播州皿屋敷」が上演されるや、『お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立』した。宝暦八(一七五八)年に『講釈師の馬場文耕が『弁疑録』において、江戸の牛込御門内の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている』。『江戸の番町皿屋敷は、天樹院(千姫)の屋敷跡に住居を構えた火付盗賊改青山主膳(架空の人物)の話として定番化される。よって時代は』十七世紀『中葉以降の設定である』(場所は江戸であるが、これが姫路ならば先の注で示した、酒井家初代姫路藩藩主忠恭(ただずみ)入封の寛延二(一七四九)年と一致するのはただの偶然であろうか?)。『一方、播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される』。『播州佐用郡の春名忠成による』宝暦四(一七五四)年の『西播怪談実記』に『「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収され』ており、『お菊虫については、播州で』寛政七(一七九五)年に起った『虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である』(私の「お菊虫」に関わる後注も参照されたい)。この異虫大発生の事実を受けたものであろう、後掲する江戸後期と推定される戯作「播州皿屋敷実録」、また『同様の話が記されている』、『幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂』になる「村翁夜話集」(安政年間の成立)などがあると記す(ここは一部、後の方に記載された内容を引き上げて繋げてある)。

 以下、寛保元(一七四一)年に大阪の豊竹座で初演された為永太郎兵衛・浅田一鳥作の「播州皿屋敷」について記載があるが、例の通り、幕府の咎めを回避するため、室町時代の細川家のお家騒動の一場面として仮想されてあり、『一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである』。『細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す』。

 次に『江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であ』る「播州皿屋敷実録」(正確な成立年代は不詳)は時代背景を戦国時代とし、旧姫路城の第九代城主小寺則職(こでらのりもと 明応四(一四九五)年~天正四(一五七六)年)の『家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る』。『乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた』十枚揃えないと『意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた』。『以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえた』。『やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている』。その後三百年ほど経った後、『城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』という異虫大発生の事実を因縁話のオチとした後日談附きである(因みにこの小寺則職の子、小寺政職が黒田官兵衛の最初の主君である)。

 次に、馬場文耕「皿屋敷弁疑録」が元となったとするに浄瑠璃「番町皿屋敷」の梗概。『牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた』承応二(一六五三)年の『正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち』の一枚を『割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された』。『その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという』。省略するが、この実在する登場人名について、ウィキの筆者は全く出鱈目であることを、事実に即して記載しているので是非読まれたいが、ここでは、本外題に名前だけ登場する、かの悲劇の女性千姫は播磨姫路新田藩初代藩主本多忠刻(ほんだただとき)の元妻であったことに着目しておきたい。因みに、『東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという』。これは元文六(一七四一)年に平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったものだという、とあり、また、『市ヶ谷駅近辺、千代田区九段南四丁目と五番町の境界の靖国通りから番町方面へ上る坂は、帯坂と呼称されるが、お菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に付会されている』ともある。

 次に「皿屋敷伝説の発生」の項。『皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、「いずれが原拠であるかは近世(江戸時代より)の随筆類でもしかとはわからぬし、また簡単に決定できるものでもあるまい」とされる』(越智治雄「皿屋敷の末流」『文學』 第三八(九)巻・一九七〇年よりの引用)。『三田村鳶魚は、本来、皿の要素がないため播州や尼崎伝説の由来を排すが』『播州を推す者もあり、橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている』(この「太田垣家に起こった事件」については次を参照)。

 さて、次に、現存する最も古い類話「竹叟夜話」についてであるが、これは執筆時の天正五(一五七七)年より百三十年も昔の事件を語っている。(一四四一)年に起った嘉吉の乱の後のこと、小田垣主馬助『という山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた』。『ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた』。『実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった』。「竹叟夜話』の挿話によれば、『室町末と成立年代が古いが、皿ではなく盃用のアワビだったり、女性がお菊ではなく花野であり、青山氏の名もない等、後の『皿屋敷』と符合しない点も多々みられ』はするものの、印象的には現在知られる淵源の有力な一つであることは疑いないと言えると私は思う。

 以下、正徳二 (一七一二)年の宍戸円喜「当世智恵鑑」に載る「牛込の皿屋敷」を示し、ここで皿屋敷伝説の重要な要素である十枚組皿の内の一枚を損じて命を落とすモチーフが出現するという。それは、『江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが』五日経っても『死なない。ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡して骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った』二百両があると明かして命乞いするが、四人の『男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた』という筋であるとする。『三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」と』する。宝暦八(一七五八)年の馬場文耕「皿屋舗弁疑録」も江戸を舞台とした皿屋敷説話で、『その皿屋敷にまつわる前歴が綿密と語られ、その後は一般に知られる皿屋敷の内容』の話であり、『その前歴とは』、『将軍家光の代に、小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉である天樹院(千姫)に住まわせた。この「吉田御殿」の天樹院のふるまいは、酒色に耽溺するなど悪い風聞が立つほどで、そのうち愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。他にも犠牲者は累々とで、「小路町の井戸」と恐れられた。天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた』とある。『「弁疑録」では、この屋敷は、吉田屋敷からいったん空屋敷となったので、そもそも「更屋敷(サラ屋敷)」という名で、皿事件とは関係なしにそう呼ばれる所以があったのだとしている』とある。

 続く「その他の発生論」の項には、『中山太郎は播州ではないと断ずるものの、江戸説に肯定的であるわけではなく、独自の「紅皿缺皿」の民話を起源とする説を展開している。そうした民話の痕跡として、佐々木喜善が記憶からたどって中山に口述した宮城県亘理郡の言い伝えを引いて』おり、『幕末の喜多村信節『嬉遊笑覧』では、土佐の子供の鬼遊び「手々甲(セセガコウ)」の皿数えに由来をもとめている』とあって、本説話がかなり古くから全国的な広範なフィールドを持った古伝承であることを窺わせる。続く「類話」の項でも、『日本各地に類似の話が残っている』とし、『北は岩手県滝沢市や江刺市、南は鹿児島県南さつま市までと、分布は広』く、群馬県甘楽郡二町一村・滋賀県彦根市・島根県松江市・兵庫県尼崎市・高知県幡多郡二町一村・福岡県嘉麻市・宮城県亘理郡・長崎県五島列島福江島などに例がある、とする。そして、例話の冒頭に『正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来消滅した(元禄二年『本朝故事因縁集』)』という、ここで注するに興味深い例示を掲げてある。

 リンク先にも出る耳嚢 巻之五 菊蟲の事は私が電子化注しており、また、お暇な方はやはり私がつい先だって電子化した本伝承のパロディ、野葦平「をお読みになられることをお薦めする(実際には私は読みながら、哀しくなるのであるが)。

 最後に言っておくと、ハーンがここに出る松江の皿屋敷を記していないのは実は大いに不審ではある。

「キクムシ即ち『おきくの蟲』」これは一般にチョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ Byasa alcinous の蛹を指す。耳嚢 巻之五 菊蟲の事の本文にもある通り、その形状が後ろ手に縛られた女性のような姿をしていることに由来する。従って「飛馳りし」や「玉蟲こがね蟲の樣成形という冒頭の記載は不審である。勿論、飛ばないし、タマムシやコガネムシにその色や形状は全く似ていない。後の嚢 五 菊蟲再談の事」の記載(『前に聞し形とは少し違ひて』とある)で分かるように、こちら記載時には、根岸は現物を見ておらず、ここは伝聞による誤記載と考えてよい。

「五軒屋敷」現行でも何と、行政地名として兵庫県姫路市五軒邸という地名が現存し、これがその旧五軒屋敷であるという。姫路城の東凡そ四百メートル直近である。]

 

 

 

 The third garden, which is very large, extends beyond the inclosure containing the lotus pond to the foot of the wooded hills which form the northern and
north-eastern boundary of this old samurai quarter. Formerly all this broad level space was occupied by a bamboo grove; but it is now little more than a
waste of grasses and wild flowers. In the north-east corner there is a magnificent well, from which ice-cold water is brought into the house through a most ingenious little aqueduct of bamboo pipes; and in the north-western end, veiled by tall weeds, there stands a very small stone shrine of Inari with two proportionately small stone foxes sitting before it. Shrine and images are chipped and broken, and thickly patched with dark green moss. But on the east
side of the house one little square of soil belonging to this large division of the garden is still cultivated. It is devoted entirely to chrysanthemum plants, which are shielded from heavy rain and strong sun by slanting frames of light wood fashioned, like shoji with panes of white paper, and supported like awnings upon thin posts of bamboo. I can venture to add nothing to what has already been written about these marvellous products of Japanese floriculture considered in themselves; but there is a little story relating to chrysanthemums which I may presume to tell.

   There is one place in Japan where it is thought unlucky to cultivate chrysanthemums, for reasons which shall presently appear; and that place is in the pretty little city of Himeji, in the province of Harima. Himeji contains the ruins of a great castle of thirty turrets; and a daimyo used to dwell therein whose revenue was one hundred and fifty-six thousand koku of rice. Now, in the house of one of that daimyo's chief retainers there was a maid-servant, of good family, whose name was O- Kiku; and the name 'Kiku' signifies a chrysanthemum flower. Many precious things were intrusted to her charge, and among others ten costly dishes of gold. One of these was suddenly missed, and could not be found; and the girl, being responsible therefor, and knowing not how otherwise to prove her innocence, drowned herself in a well. But ever thereafter her ghost, returning nightly, could be heard counting the dishes slowly, with sobs:

    Ichi-mai, Yo-mai,
 Shichi-mai,
    Ni-mai,  Go-mai,    Hachi-mai,
    San-mai,   Roku-mai,  Ku-mai

   Then would be heard a despairing cry and a loud burst of weeping; and again the girl's voice counting the dishes plaintively: 'Onetwothreefourfivesixseveneightnine'

   Her spirit passed into the body of a strange little insect, whose head faintly resembles that of a ghost with long dishevelled hair; and it is called O-Kiku-mushi, or 'the fly of O-Kiku'; and it is found, they say, nowhere save in Himeji. A famous play was written about O-Kiku, which is still acted in all the popular theatres, entitled Banshu-O-Kiku-no-Sara- yashiki; or, The Manor of the Dish of O-Kiku of Banshu.

   Some declare that Banshu is only the corruption of the name of an ancient quarter of Tokyo (Yedo), where the story should have been laid. But the people of Himeji say that part of their city now called Go-Ken- Yashiki is identical with the site of the ancient manor. What is certainly true is that to cultivate chrysanthemum flowers in the part of Himeji called Go-KenYashiki is deemed unlucky, because the name of O- Kiku signifies 'Chrysanthemum.' Therefore, nobody, I am told, ever cultivates chrysanthemums there.

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