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2015/10/10

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (三)

      三

 

 佐草へ行く途中は、少くとも最後の一哩間は、非常に狹い。そこへ信心深い人、の寄附によつて、約一尺づゝの間隔を置いて、平らな大きな岩が鋪かれ、飛び石の限りなき線路をなしてゐる。その石と石の間を歩くことも、石の側を歩くことも出來ないし、石の上を歩くと、ほどなく倦きてくる。しかしそれは道しるべの價値がある。幾十の小徑が到る處の角で、本道から分岐してゐるから、これがために曲り角で、途方に暮れる憂のないだけ、少からざる助けだ。谷間の田や藪などの間で、いろいろの迷路をこの飛び石に導かれて無事に通つた後、かやうな線路を寄附した百姓達に對し有難く感じた。路傍の森の中には風變りの小祠が幾つもあつた――そこの龍や獅子の頭や、小川などの珍らしい彫刻は、すベて多年の昔、立派な欅の樹の製作で、石のやうな色になつてゐる。しかし龍や獅子の眼は盜まれてゐ。それは精良な水晶で作られ、しかも番人はなく、また法律も神々も、今は明治以前ほどには怖れられてゐないから。

 佐草村は森の間際にある八重垣神社の前に、百姓家が小さな集團としてゐるのである。參詣道の踏石は境内の鋪石に邊して終を告げてゐる。鳥居と支那式の門から入つた内苑の間には、數株の老幹が生えてゐて、異樣な碑などもある。

 大きな門路の兩側に、祠室があつて、重い木桐柵で室の兩面を團んである。その中に二個の完全に武裝せる獰猛な像があつて、手に弓を持ち、背に箭筒を負つてゐる――これは神神の家來、且つ門の番人なる隨身だ。杵築を除いて、出雲の殆どあらゆる神社の前で、是等の隨身は恐ろしい見張――をしてゐる。多分佛教から起こつたのであらうが、神道の歷史と神道の名を有してゐる。もとは豐櫛岩間戸命といつて、隨身の神は唯一人であつたが、或る時代にその神とその名は、共に二つに分けられた――恐らくは裝飾的の考へからであらう。で、今は左方に立つのは、豐岩間戸命で、右の方が櫛岩間戸命だ。

 

    註。出雲に於ける神道は佛教に起原す

    る唐獅子を全く占有して了つたので、

    佛寺の前では滅多にそれを見ることが

    無い。狐の神が唐獅子を印度から、日

    本へ持つてきたといふ神道の神話さへ

    もある!

 

 門の手前の左側に、石碑がある。朝雲といふ人の詠んだ俳句、即ち十七文字の詩が刻まれてある。

 

    木枯や神の御幸の山の跡

 

 私の伴侶がその文字を飜譯してくれた。

 附近に石燈籠と唐獅子がある。今一つの石碑は、五角形の扁板岩で漢字を以て地神の名が彫んである――宇賀御魂命、天照大御神、大己貴神、垣安姫命、少彦名神。して、宇賀御魂命の名の前には、一匹の狐の石像が坐つてゐる。

 社殿は極く小さい。此地方の大抵の神社よりも小さく、薄黑く、古くなつて汚れてゐる。しかし出雲の神社の中では、杵築に次で最も有名だ。素戔嗚尊と稻田姫、並にその子を祀れる本殿の左右兩側には、幾つかの小祠がある。その一つには稻田姫の父、足名椎、今一つには母の手名推の靈が住むと思はれてゐる。また太陽の女神の小祠もある。が、是等の宮には別に特徴がない。これに反して、本殿は頗る珍らしい興味を與へる。

 灰色で風雨に曝らされた社殿の格子戸に、無數の柔かな白紙の片を結んで節が作つてある。何も書いてないが、一つ一つ心願と熱禱を表したものである。實際戀の祈ほど熱烈なものはない。また竹を節の下の處で截つて水筒となるやうにした切片が、澤山吊るしてある。これは小さな藁繩で一對づゝに束ねてあつて、その繩は吊る役にも立つ。水筒には可なり遠方から汲んで來て献げた海水で充たされてある。それから、結び附けた紙片が白く亂れてゐるのと交じつて、少女の髮毛の束――戀の献げ物【註】――と、纎維のやうに細かく且つ日に焦げ黑ずんで、少々遠方から切つた長い髮束と、區別のつかないやうな澤山の海草の献げ物とが、格子戸から垂下してゐる。して、戸といふ戸、格子といふ格子の一切木細工の部分には、献上品の下にも、中間にも、彫刻した文字や書いた文字が一面に散らばつてゐる。これは參拜者の名である。して、私の伴侶はよく覺えてゐた名――晃の名――を聲高く讀み上げた!

 

    註。これを『願解き』といふ。

 

 もしこの親切な神に向つて捧げられた祈の効果を、その懇禱者が示せる證明によつて判斷するならば、晃は頗る有望だと私は言はざるを得ない。社殿の礎石の緣端に沿つて、竹を割いて作つた小條片に、紙を貼りつけた夥しい小さな幟が、地に立ててある。是等の小さな白いものは、一つ一つ勝利の旗であり、戀人の感謝の證表なのだ。かやうな小旗が、出雲の殆どすべての大きな社殿の周圍に、地に插してある。杵築では冬の嵐の雪片の如くに、數へ切れないほどだ。

 

    註。祈の叶つた人は、普通感謝の證と

    して一本の幟を立てる。時としては黑、

    黄、赤、靑、白の五色の幟を百本又は

    千本、一人で立てるのも見受けられる。

    しかしこれは餘程特別の祈願を掛けた

    場合のみである。

 

 大抵出雲の有名な神社に見出されるのであるが、こゝにまた社殿の戸の前の柱に、一つの箱が結び附けてある。中には小さな竹片が入つてゐる。讀者がその數を計算すれば、正しく千本あることを發見するだらう。これは千度詣りの誓を立てた人に對する數取りである。千度詣りはある神社ヘ一千回參詣することを意味するが、それはなかなか困難だから、多忙なる信心家は、神に對して一種の妥協をする。即ち社殿から門の外ヘ一尺だけ歩いて出で、また社殿へ戻つて行く。これを千回繰返す。小さな紙片で數を計へ乍ら、すべて一日の中に行ふのである。

 社の背後の神聖な森へ詣る前に、今一つの有名なものを觀ねばなぬ。それは八重垣の玉椿である。神主の家に近い田の中の、出張つた壁で固めた、小高い處の上に生えてゐる。この樹に柵を作り石燈籠も供へてある。非常な老木で、頂が二本、根本が二本であるが、中央に於て二本の幹は合してゐる。この一種無類な恰好と、それから、すべて椿類に共通と信じられでゐる長命といふ美質のために、この樹は永遠易らぬ夫婦の愛の象徴として、且つまた緣結びの神が、そこに住み玉ふものとして、崇敬されてゐる。

 しかし椿の木には奇異なる迷信がある。して、この八重垣の神聖な木だけは、例外であつて、同種類の木が一般に有する、凄い性質を帶びてゐないものと思はれてゐる。椿の木は怪木で、夜問歩き廻はるものだと、普通に云はれてゐる。松江のある侍の庭園にあつた 椿は、あまり夜中に徘徊したため、切り倒されねばならなかつた。すると、その樹枝は踠いて、陰氣な唸り聲を發し、斧の一擊毎に血を散らしたのであつた。

 

[やぶちゃん注:「最後の一哩間」実は底本では「最後の一里間」となっている。ところが既に「二」の冒頭でハーンは「八重垣神社のある佐草村は、松江の南殆ど一里少しである」(原文も“ri”)と述べている訳で、おかしい。原文を見れば一目瞭然、これは「一哩」(一マイル)の誤植で、「一里」即ち三・九キロメートルの1/3強の最後の一・六キロメートルの謂いである。例外的に訂した。

「欅」老婆心乍ら、「けやき」である。バラ目ニレ科ケヤキ Zelkova serrata である。ところがハーンは原注で、この学名を“Planeca Japonica”と記している。しかし、現行ではこの学名は有効でなく、シノニムでさえない。分類体系が大きく変化して学名が廃されたのだろうか? 識者の御教授を乞う。

「隨身」高校古文でよく試験に出した「ずいじん」で読んでおこう(実際には「ずいしん」と読んでもよい。但し、私は若い時に懲りて、二度目からは試験では『「ずいしん」意外の読みで』と注意書きを附すことにした)。平安以降、貴人の外出の際に警衛と威儀を兼ねて勅宣によって附けられた近衛府の官人を指し、「御随身 (みずいじん)」「兵仗 (ひょうじょう)」(但し、この儀仗は現行の儀仗兵で分かる通り、専ら儀式に於いて配置される儀礼上の戦闘能力のない者を称した)などとも言ったが、それがその姿に現わして、神社の左右の神門に安置され、守護神となったものである。この場合は「随神」とも表記し、「門守神(かどもりのかみ)」「看督長(かどのおさ)」「矢大神(やだいじん)」などとも称した。神社の門で門の左右にこの随身を安置した門のことを「随身門」「矢大神門」と呼ぶこともある。現行しばしば見る神社の左右に配される狛犬や獅子のルーツも合わせて、実際にそれがかく武装した人形となるには、ハーンの言うように仏教寺院に於ける仁王門の阿吽の金剛力士像の影響と考えるべきであろうと私は思う。

「豐櫛岩間戸命」「とよくしいはまとのみこと(とよくしいわまどのみこと)」と読むか。古い土着系の地神が門の神となったものであろう。

「豐岩間戸命」現代仮名遣で「とよいわまどのかみ」。

「櫛岩間戸命」現代仮名遣で「くしいわまどのかみ」。

「朝雲」不詳。江戸中期の俳人である(次注参照)。

「木枯や神の御幸の出の跡」この句碑は現存する。出雲国総社(六所神社)をHNとされる祢宜の方のブログ「亀甲紋のブログ」の――意宇六社シリーズ「八重垣神社」⑤(『知られざる日本の面影』)-4【境内の様子】②――に、本箇所を引き(引用は平井呈一氏のものである)、写真を掲げられ、『写真の様に、「古からしや/神乃□□能/山の迹」と読めますが、□□は判別できません。「御幸」なのでしょう』と書かれ、『裏面の碑文には、寛政元』(一七八九)年十月『の年号が見え』るとある。画像も見られる。原文を見ると初句は碑面に従い、「こからしや」と清音で書かれている。

「石燈籠と唐獅子」現存。前掲「亀甲紋のブログ」のリンク先の冒頭に燈籠の写真が、少し後に『社日さん(正面)』の両側に配された狛犬(唐獅子)が現認出来る。

「今一つの石碑」現存。前掲「亀甲紋のブログ」のリンク先で、『現在は、写真の様に五角柱になっており、地神も、「宇賀御魂」が「倉稲魂」に、「垣安姫」も「埴安姫」に表記が変わっていますが、これは【社日さん】と呼ばれる農業の神様です』とある。

「地神」「ちじん」で地の神・国つ神・地祇(ちぎ)のことで「天神」と対を成すが、天照大神を始めとする正統な系統に属し、伊耶那岐と伊耶那美が成して出来た原日本の国を、その後に伊耶那岐の命により実質統治した神々を特にここでは指しているようである。

「宇賀御魂命」「うかのみたまのみこと」と読む。は、「古事記」では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、「日本書紀」では「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と出る。ウィキの「ウカノミタマ」によれば、『名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた』。『伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(ミクラノカミ)として祀られた』。「古事記」では、『スサノオの系譜において登場し、スサノオがクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれている。同母の兄に大年神(オオトシ)がいる。大年神は一年の収穫を表す年穀の神である』。「日本書紀」では『本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢時、食を要することから穀物の神が生じたと考えられている』。「古事記」「日本書紀」ともに『名前が出て来るだけで事績の記述はない』。この神が稲荷神であることを知っていたハーンが、たまたまその文字を彫った前に立っていた狛犬を狐と錯覚したとしてもおかしくない。

「大己貴神」現代仮名遣で「おおあなむちのかみ/おおなむちのかみ」と読む。大国主の別名。

「垣安姫命」不詳。しかし前の「今一つの石碑」現存。前掲「亀甲紋のブログ」のリンク先で、現在の碑面には「埴安姫」とあり、これなら土の神「はにやすひめ」である。ウィキの「ハニヤス」によれば、『「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる』。『神産みにおいてイザナギとイザナミの間に産れた諸神の一柱である。『日本書紀』では埴安神と表記される。『古事記』では、火神を産んで死ぬ間際のイザナミの大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生したとする。他に、神社の祭神で埴山彦神・埴山姫神の二神を祀るとするものもあり、これは埴安神と同一の神格であり、彦・姫の二神を一神の名として称したのが埴安神であるとされる』。『地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある』とある。

主は前に出た狛犬を狐に見間違えたのではないかと推測されておられる。『顔(耳・鼻)が違うんですけどね。(^^ゞ』とあって如何にも逢ってみたい禰宜さんである。

「竹を節の下の處で截つて水筒となるやうにした切片が、澤山吊るしてある。これは小さな藁繩で一對づゝに束ねてあつて、その繩は吊る役にも立つ。水筒には可なり遠方から汲んで來て献げた海水で充たされてある。それから、結び附けた紙片が白く亂れてゐるのと交じつて、少女の髮毛の束――戀の献げ物――と、纎維のやうに細かく且つ日に焦げ黑ずんで、少々遠方から切つた長い髮束と、區別のつかないやうな澤山の海草の献げ物とが、格子戸から垂下してゐる」この祈願の実体を御存じの方は是非、御教授あられたい。何故、海水なのか? それに紛うように使用されるという海藻が如何なるものであるのかも知りたいのである。

「晃」真鍋晃。これはハーンが「もしこの親切な神に向つて捧げられた祈の効果を、その懇禱者が示せる證明によつて判斷するならば、晃は頗る有望だと私は言はざるを得ない」と確信的な太鼓判を押していることから、これは真鍋晃ではないどこかの「晃」なのではなく、間違いなく、あの真鍋晃がハーンの書生として松江にいた半年の間に、ここに参り、縁結びの願掛けをしたのを、いみじくもハーンらは見出したということを意味している。

「願解き」原注を確認されたい。これで「ぐわんほどき(がんほどき)」と訓じているのである。

「多忙なる信心家は、神に對して一種の妥協をする。即ち社殿から門の外ヘ一尺だけ歩いて出で、また社殿へ戻つて行く。これを千回繰返す」別段、批判に当たらぬ。「千社札」やら「マニ車」や「転輪蔵」、経をばたばたさせて読みもしないで読んだことにする「転読」、引いては「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」も全く「転読」と同じことである。「お百度参り」よりはしかし、ややお手軽過ぎる気はしないではないが。

「八重垣の玉椿「中央に於て二本の幹は合してゐる」連理のツバキである。こちらの八重垣神社訪問のページを見ると、『木が枯れても境内に二股の椿が自生してくるらしく』、現在は境内に三本の夫婦椿があるというとあり、これは素戔嗚と夫稲田姫が二本の椿の枝を挿し木したところ、それが芽を吹いて一身同体の二股の椿として成長したもののが濫觴と伝えるものらしい。同ページに掲げられた『神社正面の空き地に植えられた連理玉椿』という写真のキャプションから見ると、これがハーンの見た椿なのであろうか?

「しかし椿の木には奇異なる迷信がある」ウィキには古椿の霊がある。『』古椿の霊、古山茶の霊(ふるつばきのれい)は、日本各地に伝わるツバキの怪異』で、鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」によると、『老いたツバキの木に精霊が宿り、怪木と化して人をたぶらかすとある。こうしたツバキの怪は文化時代から文政時代にかけての怪談流行時において広く知られており、民間伝承が多く残されている』。『現代においても、ツバキは花の落ちる様子が人の死を連想させるため、入院患者への見舞いの花には禁物とされている。このように花につきまとう怪しげなイメージが、妖怪伝承の生まれるもととなったとの説がある』。『山形県の怪談「椿女」』の項。天明年間(一七八一年~一七八九年)のことである。山形の城下を二人の『商人が歩いていた。町を過ぎて峠道にさしかかった頃、片方の商人のそばにいつしか女が歩いていた。女がその商人に息を吹きかけると、商人の姿がハチに変わってしまった』。『女は横道で毒々しく咲いているツバキの木の中へ姿を消すと、商人が変化したハチもそのツバキの花に吸い込まれた。やがて花がポトリと落ちた。もう』一人の『商人がその花を拾うと、ハチは既に死んでいた』。『商人は花を持って寺へ寄り、和尚に事情を話した。和尚が言うには、以前から街道を行く者が姿を消す話があり、その女の仕業に違いないということであった。和尚はハチにされた商人を生き返らせるために一心に経文を唱えたが、生き返ることはなかったため、ハチをツバキの花と一緒に土に埋めたという』「秋田県の伝承」から。現在の『にかほ市象潟の蚶満寺の怪異。ある者が深夜に寺付近を歩いていたところ、境内にあるツバキの木が悲しげな声を発し、通日後に寺に不幸があった。以降も同様の怪異が続き、いつしかそのツバキは寺の凶事を告げる「夜泣き椿」と呼ばれた。このツバキは現存しており』、樹齢七百年に及び、『寺の七不思議にも数えられている』。「岐阜県の伝承」から。『岐阜県不破郡青墓村(現・大垣市)でのこと。同村の円墳を発掘した際、古い鏡や骨などが発見されたが、発掘者は祟りを受けて死んでしまった。付近の者たちは円墳を元通りにして、その上にツバキを植えた』。『以来、夜にその円墳のそばを通ると、ツバキが美女に化けて路傍で光っていると言われ、後にそのツバキは化け椿と呼ばれるようになったという』。また、肥後国の妖怪に「木心坊(きしんぼう)」というのがおり、『ツバキの木を材料にしてすりこぎを作ると、ツバキの木が変化して生まれるといわれる』とある。

「踠いて」「もがいて」と読む。]

 

 

Sec. 3

The path to Sakusa, for the last mile of the journey, at least, is extremely narrow, and has been paved by piety with large flat rocks laid upon the soil at intervals of about a foot, like an interminable line of stepping-stones. You cannot walk between them nor beside them, and you soon tire of walking upon them; but they have the merit of indicating the way, a matter of no small importance where fifty rice-field paths branch off from your own at all bewildering angles. After having been safely guided by these stepping-stones through all kinds of labyrinths in rice valleys and bamboo groves, one feels grateful to the peasantry for that clue-line of rocks. There are some quaint little shrines in the groves along this path—shrines with curious carvings of dragons and of lion-heads and flowing water—all wrought ages ago in good keyaki-wood, [3] which has become the colour of stone. But the eyes of the dragons and the lions have been stolen because they were made of fine crystal- quartz, and there was none to guard them, and because neither the laws nor the gods are quite so much feared now as they were before the period of Meiji.

 

Sakusa is a very small cluster of farmers' cottages before a temple at the verge of a wood—the temple of Yaegaki. The stepping-stones of the path vanish into the pavement of the court, just before its lofty unpainted wooden torii Between the torii and the inner court, entered by a Chinese gate, some grand old trees are growing, and there are queer monuments to see.

On either side of the great gateway is a shrine compartment, inclosed by heavy wooden gratings on two sides; and in these compartments are two grim figures in complete armour, with bows in their hands and quivers of arrows upon their backs,-.-the Zuijin, or ghostly retainers of the gods, and guardians of the gate. Before nearly all the Shinto temples of Izumo, except Kitzuki, these Zuijin keep grim watch. They are probably of Buddhist origin; but they have acquired a Shinto history and Shinto names. [4] Originally, I am told, there was but one Zuijin-Kami, whose name was Toyo-kushi-iwa-mato-no-mikoto. But at a certain period both the god and his name were cut in two—perhaps for decorative purposes. And now he who sits upon the left is called Toyo-iwa-ma-to-no-mikoto; and his companion on the right, Kushi-iwa-ma- to-no-mikoto.

Before the gate, on the left side, there is a stone monument upon which is graven, in Chinese characters, a poem in Hokku, or verse of seventeen syllables, composed by Cho-un:

 Ko-ka-ra-shi-ya

  Ka-mi-no-mi-yu-ki-no

 Ya-ma-no-a-to.

My companion translates the characters thus:—'Where high heap the dead leaves, there is the holy place upon the hills, where dwell the gods.' Near by are stone lanterns and stone lions, and another monument—a great five-cornered slab set up and chiselled—bearing the names in Chinese characters of the Ji-jin, or Earth-Gods—the Deities who protect the soil: Uga-no-mitama-no-mikoto whose name signifies the August Spirit-of-Food, Ama-terasu-oho-mi-Kami, Ona-muji-no-Kami, Kaki- yasu-hime-no-Kami, Sukuna-hiko-na-no-Kami who is the Scarecrow God. And the figure of a fox in stone sits before the Name of the August Spirit-of-Food.

The miya or Shinto temple itself is quite small—smaller than most of the temples in the neighbourhood, and dingy, and begrimed with age. Yet, next to Kitzuki, this is the most famous of Izumo shrines. The main shrine, dedicated to Susano-o and Inada-hime and their son, whose name is the name of the hamlet of Sakusa, is flanked by various lesser shrines to left and right. In one of these smaller miya the spirit of Ashi-nadzu-chi, father of Inada-hime, is supposed to dwell; and in another that of Te-nadzu-chi, the mother of Inada-hime. There is also a small shrine of the Goddess of the Sun. But these shrines have no curious features. The main temple offers, on the other hand, some displays of rarest interest.

To the grey weather-worn gratings of the doors of the shrine hundreds and hundreds of strips of soft white paper have been tied in knots: there is nothing written upon them, although each represents a heart's wish and a fervent prayer. No prayers, indeed, are so fervent as those of love. Also there are suspended many little sections of bamboo, cut just below joints so as to form water receptacles: these are tied together in pairs with a small straw cord which also serves to hang them up. They contain offerings of sea-water carried here from no small distance. And mingling with the white confusion of knotted papers there dangle from the gratings many tresses of girls' hair—love-sacrifices [5]—and numerous offerings of seaweed, so filamentary and so sun- blackened that at some little distance it would not be easy to distinguish them from long shorn tresses. And all the woodwork of the doors and the gratings, both beneath and between the offerings, is covered with a speckling of characters graven or written, which are names of pilgrims.

And my companion reads aloud the well-remembered name of—AKIRA!

If one dare judge the efficacy of prayer to these kind gods of Shinto from the testimony of their worshippers, I should certainly say that Akira has good reason to hope. Planted in the soil, all round the edge of the foundations of the shrine, are multitudes of tiny paper flags of curious shape nobori, pasted upon splinters of bamboo. Each of these little white things is a banner of victory, and a lover's witness of gratitude. [6] You will find such little flags stuck into the ground about nearly all the great Shinto temples of Izumo. At Kitzuki they cannot even be counted—any more than the flakes of a snowstorm.

And here is something else that you will find at most of the famous miya in Izumo—a box of little bamboo sticks, fastened to a post before the doors. If you were to count the sticks, you would find their number to be exactly one thousand. They are counters for pilgrims who make a vow to the gods to perform a sendo-mairi. To perform a sendo-mairi means to visit the temple one thousand times. This, however, is so hard to do that busy pious men make a sort of compromise with the gods, thus: they walk from the shrine one foot beyond the gate, and back again to the shrine, one thousand times—all in one day, keeping count with the little splints of bamboo.

There is one more famous thing to be seen before visiting the holy grove behind the temple, and that is the Sacred Tama-tsubaki, or Precious- Camellia of Yaegaki. It stands upon a little knoll, fortified by a projection-wall, in a rice-field near the house of the priest; a fence has been built around it, and votive lamps of stone placed before it. It is of vast age, and has two heads and two feet; but the twin trunks grow together at the middle. Its unique shape, and the good quality of Iongevity it is believed to possess in common with all of its species, cause itto be revered as a symbol of undying wedded love, and as tenanted by the Kami who hearken to lovers' prayers—enmusubi-no-kami.

There is, however, a strange superstition, about tsubaki-trees; and this sacred tree of Yaegaki, in the opinion of some folk, is a rare exception to the general ghastliness of its species. For tsubaki-trees are goblin trees, they say, and walk about at night; and there was one in the garden of a Matsue samurai which did this so much that it had to be cut down. Then it writhed its arms and groaned, and blood spurted at every stroke of the axe.

 

3 Planeca Japonica.

4 So absolutely has Shinto in Izumo monopolised the Karashishi, or stone lions, of Buddhist origin, that it is rare in the province to find a pair before any Buddhist temple. There is even a Shinto myth about their introduction into Japan from India, by the Fox-God!

5 Such offerings are called Gwan-hodoki. Gwan wo hodoki, 'to mak a vow.'

6 A pilgrim whose prayer has been heard usually plants a single nobori as a token. Sometimes you may see nobori of five colours goshiki,— black, yellow, red, blue, and white—of which one hundred or one thousand have been planted by one person. But this is done only in pursuance of some very special vow.

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