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2015/10/25

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 峠村

[やぶちゃん注:本日より、ブログ・カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」にて最大の難敵「新編相模國風土記稿」の鎌倉郡及び関連地域パートの電子化に突入することとする。「新編相模國風土記稿」江戸幕府が編纂した相模国(現在の神奈川県)の地誌で百二十六巻の大部から成る。大学頭林述斎の建議により幕府学問所昌平黌(しょうへいこう)に於いて、「新編武蔵国風土記稿」が完成した天保元(一八三〇)年頃に引き続き編纂に着手され,同十二年に幕府に提出された。幕府はこの二冊を皮切りに全国の地誌を企図していたが、結局、この二冊きりで終わってしまった。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系第三十九巻」及び「大日本地誌大系第四十巻」の「新編相模國風土記稿」の画像を視認することとする。

 但し、「鎌倉郡巻之三十」・同「三十一」・同「三十六」・同「三十七」の一部については、時間を節約するため(正直、鎌倉郡のただの全電子化だけでも私の生きているうちに出来るかどうかも怪しい)、所持する昭和六〇(一九八五)年吉川弘文館刊「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に載る抄出された新字版(一段組で二十八頁分)のものをOCRで読み取り、それを加工用に国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認確認して正字化した箇所があることをお断りしておく(但し、言っておくと「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」のそれは抄出である以上に、注記なしに割注の一部が有意にごっそり省略された非常に不完全なものである)。

 まずは、「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」から入る。これは従来の近代までの鎌倉地誌や案内書に於いて殆んど語られないか、簡略な説のみで御終っている周縁部の地域(朝比奈の峠村から鼻欠地蔵や山崎・台・小袋谷・大船・岩瀬・今泉の各村落部)から先に電子化したいからである。たまたま、そうした私の意向と「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」の抄出版の編集企図(末尾「解説」にそうした私と同じ意図で抄出したと書かれてある。しかし正直言わせてもらうと、「鎌倉郡」全部の同市史での掲載は分量的に出来ないからに他あるまい)が一致したものであって、実際には少し前から独自に電子化を始めていた。しかし、国立国会図書館のPDF画像からは私のソフトでは読取が限界を越えてしまっていて、読み取らせても暗号文みたようなものにしかならず(私は書籍としての「新編相模國風土記稿」を所持していない)、二段組の底本画像と純粋にタイピングで目が格闘したものの、遅々として進まぬため、諦めてかくの如き仕儀を経ることと敢えてしたものである。「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」の本文と以下の私の電子テクストを比べて戴ければ、私の仕儀が、決して「安易」なものではないことがお分かり戴けるものと存ずる(それほど市史抄出版は省略が多いのである)。

 二行割注は同ポイントで〔 〕で示した。総標題箇所以外の項目記載は底本では二行目以降が一字下げになっているが、原則、無視した。判読の邪魔にならぬ箇所にオリジナルな注を配し、注の有る無しに限らず、「〇」で示された独立項(そうでない「〇」もある。後述)の後は総て一行空けて読み易くした。また「〇」で項立てされていても、改行されずに本文に続くところの中途半端な従属節(項)があるが、底本に先行する別の刊行本である「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」(後述)を見ると、これらも全部、行頭に改行されあるので、ここでもすっきりと改行して独立させた。一部漢字に字体の不統一が底本には見られるが、区別する必要性を感じないので、原則、正字で統一した(例えば「衞」・「衛」が混在するが「衞」で統一するということである)。

 なお、国立国会図書館デジタルコレクションには別に明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年に鳥跡蟹行社というところが刊行した「新編相模國風土記稿」(本文漢字カタカナ交り)が存在し、こちらにしかない挿絵やこちらの方が見やすいそれがかなりあることが判った。そこで挿絵(すべて国立国会図書館が『インターネット公開(保護期間満了)』とする無許可での自由使用可のパブリック・ドメイン画像)についてはそちら(例えば新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」など)からも引く予定でいる(それぞれの箇所で引用元を明記する)。

 では――また――永い孤独な戦い――を始めることとしようか。……【2015年10月25日 藪野直史】]

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十八〕

 

 村里部 鎌倉郡卷之三十

 

   山之内庄

 

峠村〔多不牙牟良〕 江戸より行程十二里小坂郷に屬す、家數十八、東西七町半、南北八町許〔東、寺分村、南、平分村、北、宿村、以上三村、皆武州久良岐郡の屬、西、郡内十二所村、〕、新田〔高六石七斗九升二合、〕あり、今松平大和守矩典領分及御料〔右は御料所、後私領となり屢迁替ありて金子覺右衞門・加藤太郎左衞門等知行し後又御料に復し、文化八年松平平肥後守容衆領分となり、文政二年大和守矩典に賜ふ〕及御料少しく交れり〔高纔に八石餘〕往還一條あり村の中程を西東に達す〔巾六尺〕武州金澤より鎌倉への路なり、

[やぶちゃん注:「多不牙牟良」「たふげむら(とうげむら)」の音を示す。以下、この注は略す。

「十二里」四十七・一三キロメートル。

「松平大和守矩典」「矩典」は「とものり」と読む。武蔵国川越藩第四代藩主松平斉典(なりつね 寛政九(一七九七)年~嘉永三(一八五〇)年)のことであろう。ウィキの「松平斉典」によれば、『家督を継ぎ、将軍徳川家斉から偏諱を受けて矩典(とものり)から斉典と改名した』とある。

「御料所」江戸幕府直轄領。

「迁替」の「迁」は「遷」の俗字。「遷替(せんたい)は「遷代」とも書き、任期を終えて他の官職に転ずることで、通常は栄転である上級職に転ずることを言うようであるが、ここはフラットな意である。

「松平平肥後守容衆」陸奥会津藩第七代藩主松平容衆(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)。

「六尺」一・八二メートル。]

 

○高札場

[やぶちゃん注:「高札場」「かうさつば(こうさつば)」と読む。江戸期に於いて法度・禁令・犯罪者の罪状(なお文字情報だけで時代劇でよく見かける人相書きの張り出しは事実ではない)などを記して一般に告示するため、町辻や広場などに高く掲げた板の札。明治六(一八七三)年廃止。以下、この注は略す。]

 

○小名 △上庭 △中 △下

[やぶちゃん注:「小名」は「こな」で村内や町内を更に小分けした際のそれぞれの地名。小字(こあざ)に同じい。大名(おおな)即ち大字(おおあざ)の対語である。]

 

○朝比名切通 鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村界にあるを大切通と云ふ〔道巾四間許、〕大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ〔道巾二間許〕共に鎌倉より六浦への往還に値れり、仁治元年三月始て道路を開かんこと議定あり〔【東鑑】曰、十一月卅日、鎌倉與六浦津之中間、始可被始可被當道路之由有議定、今日曳繩打丈尺、被配分御家人等、明春三月以後、可造之由被仰付、〕二年四月經營の事始ありて執權北條泰時躬づから監臨し、或時は懈怠の人夫を促さんが爲、己が乘馬をもて土石を運致し速成を勵せしとぞ〔四月五日六浦道被造始、是可有急速沙汰之由、去年冬雖被經評議、被始新路爲大犯土之間、明春三月以後可被造之旨、重治定云々、仍今日前武州令監臨其所給之間、諸人群集各運土石云々、五月十四日、六浦路造事、此間頗懈緩今日前武州監臨給、以乘馬令運土石給、仍觀者莫不奔營、〕其後土石路を理むにより建長二年六月再修造の沙汰あり〔六月三日、山内並六浦等道路事、先年輙爲令融通鎌倉、雖被直險阻、當時又土石埋其閭巷云々、仍如故可致沙汰之由、今日被仰下、〕

[やぶちゃん注:「朝比名」はママ。

「四間」七・二七メートル。

「大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ」「大(をほ)切通」「小(こ)切通」と読む。「一町程」約百九メートル。この記述では明らかに切通しが二つあるように読めるが、現在の通説では峠の頂上付近(鎌倉市と横浜市市境に相当)を「大(おお)切通し」と呼称し、そこから六浦寄りの下る部分を「小(こ)切通し」と呼ぶようである。ここに読めるような二箇所説をとる研究家もおり、「大切通し」に向かう右手を奥に入ったルートを「小切通し」の候補としているのを見かけたことはある。但し、あったとしても現在は廃道化している。私はかつてこの右手ルートから入って、池子の弾薬庫の監視塔が見える位置まで山中に分け入った上、金沢側の熊野神社へ下ったことがあるが、それらしい「切通し」遺構は発見出来なかった

「二間」三・六四メートル。

「仁治元年」一二四〇年。

「鎌倉與六浦津之中間、始可被始可被當道路之由有議定、今日曳繩打丈尺、被配分御家人等、明春三月以後、可造之由被仰付」書き下す。

鎌倉と六浦(むつら)の津(つ)との中間に、始めて道路を當(あ)てらるべきの由、議定(ぎぢやう)有り。今日、繩を曳き、丈尺(ぢやうしやく)を打ち、御家人等(ら)に配分せらる。明春三月以後、造るべきの由、仰せ付けらる。

「四月五日六浦道被造始、是可有急速沙汰之由、去年冬雖被經評議、被始新路爲大犯土之間、明春三月以後可被造之旨、重治定云々、仍今日前武州令監臨其所給之間、諸人群集各運土石云々、五月十四日、六浦路造事、此間頗懈緩今日前武州監臨給、以乘馬令運土石給、仍觀者莫不奔營」書き下す。

四月五日、六浦の道を造り始めらる。是れ、急速の沙汰有る可べきの由、去年の冬、評議を經らると雖も、新路を始めらるること、大犯土(だいぼんど)爲たるの間、明春三月以後に造らるべきの旨、重ねて治定(ぢぢやう)すと云々。仍つて今日(けふ)、前武州、其の所に監臨せしめ給ふの間、諸人群集し、各々、土石を運ぶと云々。五月十四日、六浦の路造りの事、此の間、頗る懈緩(けくわん)す。今日、前武州、監臨し給ひ、乘馬を以つて土石を運ばせめ給ふ。仍つて觀(み)る者、奔營(はんえい)せずといふこと莫し。]

この「大犯土」というのは新人物往来社一九七九年刊貴志正造編著「全譯 吾妻鏡 別巻」の用語注解によれば、「犯土(ぼんど)」とは『土の神の領域を犯すこと。またそれについての陰陽道の禁忌および祭儀をいう。土の神(土公)の居を占める期間中、地ならし・土の移動・穴掘りなど、すべて土地に変化を与える行為を「土を犯す」「犯土」と称して、陰陽道では重い禁忌と』した、とある。「大犯土」はその禁忌抵触が激しいものを言う。「方違へ」と同様、専ら土公の方位と滞留時間が問題なのであって、必ずしも掘削土木作業が大規模であったからではあるまい。

「建長二年」一二五〇年。

「六月三日、山内並六浦等道路事、先年輙爲令融通鎌倉、雖被直險阻、當時又土石埋其閭巷云々、仍如故可致沙汰之由、今日被仰下」書き下す。

六月三日、山内(やまのうち)並びに六浦等の道路の事、先年、輙(たやす)く鎌倉へ融通(ゆづう)せしめんが爲に、險阻を直(なほ)さると雖も、當時、又、土石、其の閭巷(りよかう)を埋むと云々。仍つて故(もと)のごとく沙汰致すべきの由、今日、仰せ下さる。

併記される「山内」は巨福呂(こぶくろ)坂切通のことである。]

 

 

○峠坂 村中より大切通に達する坂なり、延寶の比淨譽向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人難苦を免ると云〔此僧延寶三年十月十五日死、坂側に立る地藏の石像に、此年月を刻せしと【鎌倉志】に見ゆれど、今文字剝落す、〕

[やぶちゃん注:「延寶の比」「比」は「ころ」(頃)。一六七三年から一六八一年で幕府将軍は第四代徳川家綱及び第五代綱吉である。

「淨譽向入」詳細不詳。

「新編鎌倉志」「卷之八」に以下のように載る。以下、読まれると一瞬にして判るが、実は本「新編相模國風土記稿」はそのかなりの部分を「新編鎌倉志」に依拠しており、そこに載る誤認が無批判にそのまま移されていることがあるので注意が必要である。

   *

〇朝夷名切通〔附上總介石塔 梶原太刀洗水〕 朝夷名(あさいな)〔或作比奈(或は比奈に作る)。〕の切通(きりとほし)は、鎌倉より六浦(むつら)へ出る道なり。大(をほ)切通・小(こ)切通とて二つあり。【東鑑】に、仁治元年十一月三十日。鎌倉と六浦の津(つ)の中間を、始て當道の路(みち)とせらるべきの由評定有りて、今日繩を引く。同じく二年四月五日、大浦の道を造り始めらる。前の武州泰時、其の所に監臨せしめ給ふの間(あひだ)、諸人羣集、各々土石を運ぶ。仍つて觀者犇營(ほんえい)せずと云事なしとあり。此の道の事なるべし。土俗の云く、朝夷名(あさいな)の三郎義秀(よしひで)、一夜の内に切り拔きたり。故に名くと。未だ考へず。此の坂道を峠(とうげ)の坂と云ふ、坂の下六浦の方を峠村(とうげむら)と云ふ。近き比も淨譽向入と云道心者、此道を平(たいら)げ、往還の惱みをやむるとなり。延寶三年十月十五日に死すと、石地藏に切付てあり。鶴が岡鳥居の前より、こゝに至までの路程、關東道六里なり。

   *

最後の「關東道六里」の「關東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位を用いていることを意味する。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、「六里」は約三・八七キロメートルとなる。

「此年月を刻せしと【鎌倉志】に見ゆれど、今文字剝落す」とあるが、この人物、本当に再調査したのかどうかすこぶる怪しい。何故なら、現在も路傍に石仏が残り、向かって左手に「延宝三年十月十五日」と刻み、右手の欠け残った上部に「淨譽」の刻字をはっきりと現認出来るからである。「北道倶楽部」の「六浦道と朝比奈切通し 3」の上から二枚目の写真を参照されるがよい。写真でも歴然としている!]

 

○松林 西北の山上にあり、領主の林なり〔一町三畝程、〕

[やぶちゃん注:「一町三畝」凡そ一ヘクタール。]

 

○川 村内所々の淸水合し一條となり、村の中程を流る〔巾三尺より五尺に至る〕東流して武州六浦に至り、侍從川と云へり、此水を延て村内の水田に灌漑す、

[やぶちゃん注:「三尺より五尺」九十一センチメートルから一・五メートル。]

 

○熊野社 村の鎭守なり、元祿八年地頭加藤太郎左衞門再建の棟札あり、淨林寺持、下同、

[やぶちゃん注:現在は横浜市金沢区朝比奈町で熊野神社と呼称する。鎌倉の鬼門封じとして建てられたとも伝える。

「元祿八年」一六九五年。

「淨林寺」次項に出る。]

 

○山王社

[やぶちゃん注:位置不詳。「淨林寺」の私の注を参照のこと。「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。

 

○諏訪社 村持

[やぶちゃん注:位置不詳。「淨林寺」の私の注を参照のこと。「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。

 

○淨林寺 見谷山と號す、臨濟宗〔武州久良岐郡宿村東光寺末〕開山葦航〔本山中興の僧なり、正安三年十二月六日寂す、大興禪師と諡す、〕後年村民五右衞門中興開基す〔法名梅意淨林、寛文二年三月三日死す、〕阿彌陀を本尊とせり、

[やぶちゃん注:「淨林寺」不思議なことに、この寺、位置も事蹟も廃寺年代も不明である。やっと「鎌倉廃寺事典」で見つけたものの、場所を峠村とするだけで、何と、記載総てがこの記載に依拠しているのである。なお、前の「熊野社」と「山王社」(恐らくは熊野社或は近くに弊祠と私は推定する)がこの寺の持ち分で、続く「諏訪社」が峠村の持ち分(これも同前の推理を私はする)とするなら、この寺は現在の熊野神社の境内域にあった可能性が極めて高いように私には感じられるのである。この寺に就いて何か情報をお持ちの方、是非とも御教授を乞うものである。

「葦航」「大興禪師」葦航道然(いこうどうねん 承久元(一二一九)年~正安三(一三〇二)年)は蘭渓道隆に師事、その法を嗣いだ四高弟の一人。弘安四(一二八一)年、無学祖元の下で建長寺の首座となる。円覚寺・建長寺住持。

「寛文二年」一六六二年。]

 

○鼻缼地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云〔長一丈許〕、是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缼損せし如くなれば鼻缼地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缼とは唱へしなりと云、

[やぶちゃん注:「鼻缼」「はなかけ」と読む。「鼻缼(欠)」に同じい。

「鐫たる」「ゑりたる」と訓じていよう。彫る、の意。

「一丈」三・〇三メートル。

「一間」一・八メートル。

「故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缼損せし如くなれば鼻缼地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缼とは唱へしなりと云」「新編鎌倉志卷之八」より私の注ごと引く(そこで参考に附した「江戸名所図会」の「鼻欠地蔵」の挿絵も添える)。

   *

〇鼻缺地藏 鼻缺(はなかけ)地藏は、海道の北の岩尾(いわを)に、大ひな地藏を切り付てあり。是より西は相州、束は武州なり。相・武の界にあるを以て、界(さかひ)の地藏と名く。像の鼻(はな)缺けてあり。故に卑俗、鼻缺地藏と云ふなり。北の方へ行く道あり。釜利谷(かまりや)へ出て、能見堂(のけんだう)へ登る路なり。

[やぶちゃん注:朝比奈から六浦へバス停を一つ戻った、大船方面行大道中学校前バス停の正面にあるが、風化が著しく像型のみで、仏体の確認は出来ない。現在の高さは凡そ四メートルある。天保四(一八三三)年刊の「江戸名所図会」には(ちくま学芸文庫版を底本としたが、恣意的に漢字を正字化、ルビの一部を省略した)、

界地藏 土俗、鼻缺地蔵と稱ふ。光傳寺より九丁あまり西の方、鎌倉道の傍らにあり。巨巖(こがん)の壁立(へきりふ)したるところに、この尊像を鐫(ゑ)り出だせり〔尊像の鼻、缺け損ず。ゆゑに鼻缺地藏といふ。〕。このところは武藏・相模の國界にして峠村と號(な)づく。

とあり、その図会には以下のような地蔵と思しい彫像がはっきりと見え、前の祭壇にも小仏一体、侍従川の橋の袂にはやはり石仏を乗せた道標らしきものが視認出来る。この道標から画面奥、鼻欠地蔵を回り込む山道が、本文で言う「釜利谷へ出て、能見堂へ登る路」と考えられる。]

 

[「江戸名所圖會」所収の「鼻缺地藏」の図]

Hanakake

   *]

 

○上總介墓 金澤往還南陸田間にあり、所在を字して塔島と呼り、土俗傳て北條高時滅亡の時當所にて討死せし上總介某の墓なりと云ふ、【鎌倉志】には上總介廣常が事歟と記せど、今碑の樣を見るに當今の物とも思はれず、固より文字を鐫さざれば其詳なること知るべからず、碑圖左の如し。

Kazusanosukehaka

[やぶちゃん注:実は最後の「碑圖左の如し。」は底本にはなく、図もない。この文と画像は冒頭注に示した、底本の日本地誌大系本とは別の、国立国会図書館デジタルコレクションの明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」から引いたものである。但し、当該書本文は漢字カタカナ交りであるため、こちらに合わせて平仮名に直した(句点はママとした。当該書は基本、総てが問う点ではなく句点なのである)。図は周辺の枠や汚損を可能な限り除去したが、絵本体には一切手を加えていない(既に述べた通り、この画像はパブリック・ドメインで引用元を明記した上での無許可での使用が許可されたものである)。

「【鎌倉志】には上總介廣常が事歟と記せど」ここも非常に長いが、「新編鎌倉志卷之八」より私の注ごと引く。

    *

上總介(かずさのすけ)が石塔 大切通と小切通との間、田の中にあり。上總の介、未だ考へず。平の廣常(ひろつね)が事歟。廣常は、高望王九代孫にて、上總介高望(たかもち)王九代の孫に手、上總の常隆(つねたか)が子なり。武勇の名譽關東に振へり。坂東の八平氏、武林の八介(すけ)の其の一人也。賴朝卿に屬して、義兵を助け、良策戰功多し。後(のち)に讒言に因て、賴朝に疑はれ、壽永二年十二月に殺されたり。【愚管抄】に、介(すけ)の八郎廣常を、梶原景時(かじはらかげとき)をして討たせたり。景時、雙六(すごろく)打ちて、さりげなしにて、局を越へて、頓(やが)て頸(くび)をかいきりて、もてきたりけるとあり。後に廣常、謀叛にてあらざる事、支澄明白にて、賴朝これを殺したるを後悔し給ひたる事、【東鑑】に見へたり。鎌倉より切通(きりどをし)の坂へ登る左の方に、岩間(いはま)より涌出でる淸水あり。梶原(かじはら)が太刀洗水(たちあらひみづ)と名づく。或は、平三景時、廣常を討ちし時、太刀を洗ふたる水と云ふ事歟。是も鎌倉五名水の一つなり。或は此邊に上總介廣常が宅(たく)ありつるか。【東鑑】に、賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉(をほくら)の新造の御亭に御移徙(わたまし)とあり。此邊よりの事歟。

[やぶちゃん注:現在、横浜市金沢区朝比奈のバス停の横に五輪塔があり、それが「上総介塔」と呼ばれているが、これは昭和五十六(一九八一)年に県道原宿六浦線拡幅工事の際、この「上總介が石塔」が行方不明となってしまったために地元有志が再建した新しいもので、伝承の塔でも伝承の場所でもない。私が朝比奈を最初に踏査したのは一九七七年頃であったから、失われた石塔を実見しているのかも知れないが、残念なことに記憶がない。伝承上は上総介広常の墓とされるが、「新編鎌倉志」の筆者同様、信じ難い。

「平の廣常」房総平氏惣領家頭首にして東国最大の勢力を誇った上総介広常(?~寿永二(一一八四)年)の謀殺については、幾つかの伝承が残る。以下、ウィキの「上総広常」より引用すると、「吾妻鏡」治承五(一一八一)年六月十九日の条などでは、石橋山で敗退した頼朝を千葉の浜で騎乗のまま出迎えたその時から、『頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともある』ことなどが遠因とされ、謀殺についても寿永二(一一八三)年十二月に『頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である』とする。更に慈円の「愚管抄」の巻六によれば、後に頼朝が初めて京に上洛した建久元(一一九〇)年のこと、後白河法皇との対面の中で広常誅殺の話に及んで、頼朝は『広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいた為、殺させたと述べた事を記している』とある。ここで言う「関東の自立」とは所謂、同じ下総国佐倉を領した平将門のような新皇の名乗りによる完全な独立宣言を暗示させているのであろう。「吾妻鏡」では、謀殺直後の壽永三 (一一八四) 年一月小十七日の条に、以上の広常冤罪の証しとなる記事が示されている。

〇原文

十七日丁未。藤判官代邦通。一品房。幷神主兼重等相具廣常之甲。自上総國一宮。皈參鎌倉。即召御前覽彼甲。〔小櫻皮威。〕結付一封状於高紐。武衞自令披之給。其趣所奉祈武衞御運之願書也。不存謀曲之條。已以露顯之間。被加誅罰事。雖及御後悔。於今無益。須被廻沒後之追福。兼又廣常之弟天羽庄司直胤。相馬九郎常淸等者。依緣坐爲囚人也。優亡者之忠。可被厚免之由。被定仰云々。願書云。

 敬白 上總國一宮寳前

   立申所願事

 一 三箇年中可寄進神田二十町事

 一 三箇年中可致如式造營事

 一 三箇年中可射萬度流鏑馬事

 右志者。爲前兵衞佐殿下心中祈願成就東國泰平也。如此願望令一々圓滿者。彌可奉崇神威光者也。仍立願如右。

    治承六年七月日   上總權介平朝臣廣常

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日丁未。藤の判官代邦通一品房(いつぽんばう)幷びに神主兼重等廣常の甲(よろひ)を相具し、上総國一宮より鎌倉へ皈參(きさん)す。即ち御前に召し彼(か)の甲〔小櫻皮威。〕を覽(み)る。一封の狀を高紐に結び付く。武衞自ら之を披らかしめ給ふ。其の趣は、武衞の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を存ぜざるの條、已に以て露顯するの間、誅罸を加へらるる事、御後悔に及ぶと雖も、今に於ては益無し。須らく沒後の追福を廻らさるべし、兼ては又、廣常が弟の天羽の庄司直胤・相馬の九郎常淸等は、緣座に依りて囚人(めしうど)たるなり、亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの由、定め仰せらると云々。

願書に云く、

 敬ひて白(まう)す 上總國一宮の寳前

   立て申す所願の事

 一 三箇年の中 神田二十町を寄進べき事

 一 三箇年の中 式のごとく造營を致すべき事

 一 三箇年の中 萬度の流鏑馬を射るべき事

 右志しは 前の兵衞の佐殿下の心中祈願成就 東國泰平の爲なり 此くのごときの願望 一々圓滿せしめば 彌々神の威光を崇め奉るべき者なり 仍つて立願 右のごとし

    治承六年七月日   上總權の介平の朝臣廣常

「一品房」は一品坊昌寛(生没年未詳)。頼朝の挙兵の当時からの祐筆や使者を務めた僧。「吾妻鏡」によれば治承五(一一八一)年の鶴岡八幡宮造営の、また、建久元(一一九〇)年及び建久六(一一九五)年の二度の頼朝上洛の際には宿舎造営の奉行を仕切っている。娘の一人は二代将軍頼家の側室(栄實と禅暁の母)。「高紐」は鎧の後ろ胴に続く肩上(わたがみ)の先端と前胴の胸板を繋ぐための懸け外しの鞐(こはぜ)をつけた紐。「天羽の庄司直胤」広常の弟。上総国天羽(あもう)郡天羽の庄(現在の富津市)の荘官として天羽庄司を名乗った。「相馬九郎常淸」も広常の弟。「相馬」は相馬の御厨である。彼はその内の北相馬(現在の茨城県取手市や守谷市付近)を管理していた可能性が指摘されている。

「賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉の新造の御亭に御移徙とあり。此邊よりの事歟」とあるが、私はこの十二所が個人的に大好きで、幾度となく訪れているのだが、幕府が出来る直近に、あの今でさえ山深い辺地に、かの豪将上総介広常の屋敷があったこと自体、かなり疑問に思っているのである。そもそも騙し討ちの太刀の血糊を洗った泉水が「梶原の太刀洗水」と称して後に名水となるというのも、実は穏やかならざる気がして解せない。広常邸跡と称する場所も古地図を見ると十二所の朝比奈切通の近くにあったりするのだが(三十数年前、私は半日山中を彷徨ってそれらしい高台に立ったこともある)、実際の感覚としては私には十二所に広常邸があったというのは信じ難いというのが本音である。

   *

「鐫さざれば」ここはどうも「センさざれば」と音読みしているようである。意味は無論、前に注した通り、「刻す」「刻む」「彫る」の意である。]

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