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2015/10/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(3) 犂いろいろ

M698_699

図―698

図―699

[やぶちゃん注:上が698、下が699。]

 
 

M700_701

図―700

図―701

[やぶちゃん注:上が700、下が701。図―700は図―677を描き直した画である。]

 

 日本の犂(すき)に変種が多いことは、まことに興味がある。その基型は支那から来たのであるが、国々によって形に著しい相違がある。図698は日本で最も原始的な犂を示す。私は周防の国でこれが使用されるのを見た。この形は犂が耨(くわ)の進化したものであるというイー・ビー・テイラーの説を裏書している。然しながら私は、殆ど三百年前に描かれた支那画で、匙鍬(シャベル)の形をした奇妙な道具を、牡牛が曳いているのを見た事がある。これによれば、犂が匙鍬から来たのかも知れぬと考えることも出来る。この形式の匙鍬は、今日日本で使用されつつある(図699)。図700は紀州の犂で、山城や大和で使用するものと似ているし、図701は一人の学生が筑前の犂を写生したものから取った。私は日本の犂を沢山写生した。山地では犂を曳くのに牡牛を使用するが、よりやわらかい土地だと、男の子にでも仕事が出来るように、牝牛を使用する。

[やぶちゃん注:「犂」原文は“plough”(英語では“plow”とも綴る)ウィキの「プラウが世界史的発達史などに非常に詳しい。日本の箇所だけを引用しておく。『日本においてプラウは、その伝来の経緯から犂(すき)と呼ばれ、カラスキ(唐犂)とも呼ばれていた。正倉院に収蔵されている子日手辛鋤(ねのひのてからすき)は』、天平宝字二(七五八)年の『正月の行事に使われたと伝えられており、また、滋賀県草津市の中畑遺跡からは平安時代のカラスキが出土している。なお、牛馬に牽引させる犂(すき)と手に持って使う農具の鋤(すき)は異なる農具である。また、「犂」という漢字は俗字扱いであり、正字体は「犁」である』。『犂の種類には、中国から伝来し、大化の改新の時代、時の政府が推奨した長床犂と、朝鮮半島からの渡来人がもたらした無床犂があり、長床犂はプラウのヒールに相当する床が長く、安定して耕起することが出来て取り扱いやすい反面、大きな牽引力が必要で長い床の為に深く耕すことが出来なかった。一方、無床犂は床がないために深く耕すことが出来たが、取り扱いには熟練を要し、その取り扱う姿から抱持立犂(かかえもったてすき)とも呼ばれた』。『最初に犂が伝来した九州の北部をはじめ、西日本では犂を使っての耕起が盛んであった。後に明治から大正期にかけて長床犂、無床犂それぞれの長所を取り入れた日本独自の短床犂が作られ、畜力による犂耕が全国的に普及した。その後、牛や馬による畜力から、内燃機関を原動力にした』耕耘機へと変遷したとある。

「周防の国」現在の山口県東部。モースはこの直前の関西旅行の際に岩国を訪れている。

「イー・ビー・テイラー」原文“E. B. Tylor”。イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれるエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)であろう。宗教の起源に関してはアニミズムを提唱したことで知られる。

「三百年前に描かれた支那画」本書の原本が公刊されたのは一九一七年当時からだと明代の万暦年間に当たり、十七世紀初頭となる。先に引用したウィキの「プラウには、犂の起原を紀元前六世紀初頭のメソポタミアでの牛の家畜化の進行に伴い、最初期のプラウ(フレームに保持された垂直の木の棒を引きずって表土を引っ掻く形式)が生まれたと推定しつつも、『鉄製のヘビー・プラウにおいて、鉄で木を覆った物や、純粋に鉄製のプラウは』紀元前六世紀には『既に中国で使われていた。これらは世界で最初の鉄製のプラウであった』ともあるが、土を広範に引き起こすモールド・ボード(撥土板)を備えた中国の犂は十七世紀に『オランダ人の船員によってオランダに持ち込まれた。そしてその頃、イギリス人に雇われていたオランダ人がイギリス東部の沼地と、サマセット地方のムーアを排水するために、彼らは』中国でさらに発達した『犂を持ち込んだ。イギリス人は、これらの中国の犂を「中国のプラウ」と呼ぶかわりに「バスタード・ダッチ・プラウ」と呼んだ。従って、オランダ人とイギリス人は、ヨーロッパで初めて、最も効率的な中国のプラウを体験していたことになる。チャイニーズ・スタイルのプラウは、イギリスからスコットランドへと、オランダからアメリカとフランスへと広められた』とある(下線やぶちゃん)。]

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