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2015/11/21

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十章 二つの珍しい祭日 (三)

         三

 

 私が話さうと思ふ今一つの祝日は、節分である。それは日本の舊曆に從ふので、太陽年の始――冬が和ぎそめて春となる季節――に當る。チエムバリン教授の話を藉りて云へば、一種の期日不定の祭日といふべきものである。して、主として惡魔拂ひの儀式のため有名だ。節分の宵には、日が暮れて間もなく、『厄落し』即ち惡魔を追拂ふ人が、錫杖を鳴らし、奇異な聲を振り立て、『鬼は外、福は内!』と叫びながら、町中を巡る。彼は呼び入れられると、その家で少許の料金で以て、簡單なお祓ひを行ふ。このお祓ひは佛教の經文の或る部分を誦するのと、錫杖をがらがら鳴らすだけである。

 

    註。この錫杖は奇異な形の杖である。

    地藏の像は普通それを持つら形に現

    はされてゐる。今猶ほ托鉢僧はそれ

    を携へる。大いさは數種ある。厄落

    しの持つのは頗る短い。傳説による

    と、錫杖が發明されたのは佛教の巡

    禮者の途上で、昆蟲又に他の小動物

    が、知らずに蹈まれぬやう警戒を與

    へるためであつた。

 

 それから、白豆が四方へ向って家中で投げられる。ある不可思議な道理で惡魔は白豆を好かない――して、それを避けて逃げ出す。かやうにして撒かれた豆は、後に掃き集めて、春の初雷の鳴るまで入念に保存して置いて、その一時に及んで食べる習慣である。しかし何故さするのか私にはわからない。また惡魔が白豆を嫌ふ由來をも、私は發見することが出來ない。が、この嫌惡の點については、白狀すれば私も惡魔と同感だ。

 惡魔がすつかり追拂はれた後、まだ戻つて來ないやう、小さな呪(まじな)ひの物が、家のすべての入口の上に置かれる。これは燒串ほどの長さと厚さのある、小さな一本の竹條と、一枚の柊の葉と、乾鰯の頭から成立つてゐる。竹條を柊の葉の中央に突き刺し、鰯の頭を竹條の一端の割け目へ挾み、他の一端は戸の直ぐ上の柱の接ぎ目へ入れてある。しかし何故に惡魔は柊の葉と鰯の頭を恐れるのか、誰人も知らないやうだ。坊間に於ては、凡て是等珍しい習慣の起原は、全く忘れられてゐるらしい。して、今猶ほかゝる習慣を維持してゐる上流家庭も、この祝節に關する迷信を信じないのは、今日の英人が寄生木とか、蔦の魔力を信じないと同樣である。

 この年々惡魔を追拂ふ、古い面白い習慣は、代々日本の藝術家に取つて感興の源泉であつた。外國人が幾多の藝術品の微妙なる氣分を味ふやうになるのは、ただ民衆の習慣と思想を相應に曉つた後のことである。その藝術品を實際買つて見ようと思ふのは、ただそれが非常に奇異にも人目を惹くからであるが、日本人の生活を知らない以上は、かゝる作品は、少くとも、その内的意味に關しては、不可解に終はらざるを得ない。過日ある友人が、私に香ばしい革の、小さな名剌入れを呉れた。一方の側面には惡魔の顏を浮かして印してあつた。惡魔の廣く開いた口の孔を通して、内部の絹裏地にまかれたる、愉快なる幸運の女神、お多福の圓ぽちやの笑顏が見えた。それだけ見てもこれは珍しい、綺麗なものであつたが、その意匠の眞價は、新年を祝する滑稽的象徴――『鬼は外!福は内!』であつた。

 

[やぶちゃん注:「節分」ウィキの「節分」より引く。節分は『雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春』(毎年二月四日頃)『の前日を指す場合が多い。この場合、節切月日の大晦日にあたる』。この日は「大寒」の最後の日に当たるため、一般には『寒さはこの日がピークである』と言われる。『一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ』(或いは一つ多くともする)『豆を食べる厄除けを行う。また、邪気除けの柊鰯』(ひいらぎいわし:後注する)『などを飾る』。『季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われ』たが、元来、『節分の行事は宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた』。『「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ』二尺(六〇・六センチメートル)で、方一尺五寸(四五・四五センチメートル)・厚さ二寸(六・〇六センチメートル)の板に立て、土牛は高さ二尺・長さ三尺(九〇・九センチメートル)で、長さ三尺五寸(一メートル六〇・五センチメートル)・広さ一尺五寸・厚さ二寸の板に立てる。『陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門および朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のものを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とあ』り、『これは、平安時代頃から行われている』「追儺(ついな)」から生まれたもので、「節分」の濫觴はこの年末の邪気祓いの儀式である「追儺」に他ならない。「続日本紀」の慶雲三(ユリウス暦七〇六年)十二月の条に「是年天下諸國疫疾百姓多死始作土牛大儺」とあることから、これを本格的な祓いの行事としての「追儺」の始まりと見做し、後『室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰』を経て、『炒った豆で鬼を追い払う行事と』変化していったものとされる。室町中期の臨済宗夢窓派の僧瑞渓周鳳の「臥雲日件録」によると、室町時代の文安四(一四四七)年に「鬼外福内」を唱えたと記されている、とある。『近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった』とする。

「チエムバリン教授の話」出典不詳。一八九〇年初版のThings Japanese(日本事物誌)辺りか。

「期日不定の祭日」ウィキの「節分」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、『節分の日付は現在は毎年二月三日であるが、これは一九八五年から二〇二四年ごろまでに限ったことであり、常にそうではない』。『一九八四年までは、四年に一度の閏年に二月四日だった。二〇二五年から(二〇二一年からになる可能性あり)は閏年の翌年に二月二日になる』。『節分の日付は数十年のスケールで徐々に前倒しになってくるが、四で割り切れても閏年とならない一九〇〇年、二一〇〇年、二二〇〇年……の翌年に一日遅れて帳消しとなる』。『節分は立春の前日であり、立春は太陽黄経が三百十五度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても節分の日付は異なるが、日本以外では節分を祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることはない』とある。そもそもが古くは年末や大晦日の「追儺」の行事であったのであり、暦上の不定性以前に宮中年末の「期日不定の祭日」であったとも言えるように思われる。

「節分の宵には、日が暮れて間もなく、『厄落し』即ち惡魔を追拂ふ人が、錫杖を鳴らし、奇異な聲を振り立て、『鬼は外、福は内!』と叫びながら、町中を巡る。彼は呼び入れられると、その家で少許の料金で以て、簡單なお祓ひを行ふ。このお祓ひは佛教の經文の或る部分を誦するのと、錫杖をがらがら鳴らすだけである」こういう怪しげな節分の専門僧形門付は私は聴いたことがないが、しかし確かにあったに違いないという強い感じがする。これは恐らく「願人坊主」とか「誓文ばらい」「すたすた坊主」と呼ばれた僧形の大道芸人の一種のように思われる。節分と彼等の繫がった何か確かな情報を見つけ次第、ここに追加する。

「錫杖」「傳説によると、錫杖が發明されたのは佛教の巡禮者の途上で、昆蟲又に他の小動物が、知らずに蹈まれぬやう警戒を與へるためであつた」ウィキの「錫杖」によれば、『遊行僧が携帯する道具(比丘十八物)の一つである杖』で『銅や鉄などで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん)が』六個又は十二個通してあり、『音が出る仕組みになっている。このシャクシャク(錫々)という音から錫杖の名がつけられたともいわれる』。『仏教の戒律をまとめた書である『四分律』『十誦律』などによれば、この音には僧が山野遊行の際、禽獣や毒蛇の害から身を守る効果があり、托鉢の際に門前で来訪を知らせる意味もあるという。教義的には煩悩を除去し智慧を得る効果があるとされる』とあり、『錫杖の長さは通常百七十センチメートル前後であるが、法会、儀礼の場で使われる梵唄(ぼんばい)作法用の柄の短いものがある(手錫杖)』と記す。ここの記載は殺生戒に基づくハーンの謂いとは正反対であるが、私は寧ろ、ハーンの方を支持したい気がする。

「白豆」ウィキの「節分」には、『邪気を追い払うために、節分には古くから豆撒きの行事が執り行われている。宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われる』。『豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある』。『豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数』より一つ『多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもある。初期においては豆は後方に撒くこともあったと言う』。『豆を撒く際には掛け声をかける』。先の『「臥雲日件録」には』「散熬豆因唱鬼外福内」(熬豆(いりまめ)を散じて因りて「鬼は外、福は内」と唱す)『とあるように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である』。『使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆(炒り豆)である。豆を神棚に供えてから撒く地方もある。炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものであるため、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるという。北海道・東北・北陸・南九州の家庭で 落花生を撒き、寺社や地域によっては餅や菓子、みかん等を投げる場合もあるが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなった』(下線やぶちゃん。以下同じ)。『かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたという。豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない』とある。

「惡魔がすつかり追拂はれた後、まだ戻つて來ないやう、小さな呪ひの物が、家のすべての入口の上に置かれる。これは燒串ほどの長さと厚さのある、小さな一本の竹條と、一枚の柊の葉と、乾鰯の頭から成立つてゐる。竹條を柊の葉の中央に突き刺し、鰯の頭を竹條の一端の割け目へ挾み、他の一端は戸の直ぐ上の柱の接ぎ目へ入れてある」節分に魔除けとして使われる柊鰯(ひいらぎいわし)のこと。ウィキの「柊鰯」によれば、『柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』。『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』(下線やぶちゃん)。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』。『鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある』とある。

「寄生木とか、蔦の魔力」「寄生木」はビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album ウィキの「ヤドリギ」に、一八九〇年に二巻本初版が刊行された『人類学者のジェームズ・フレイザーの著作『金枝篇』の金枝とは宿り木のことで、この書を書いた発端が、イタリアのネミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られたものである。古代ケルト族の神官ドルイドによれば、宿り木は神聖な植物で、もっとも神聖視されているオークに宿るものは何より珍重された』。『クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下でキスをすることが許される』とあり、ウィキの「金枝篇」にも『イタリアのネミの村には、ネミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキアの木立とよばれる聖なる木立があり、木立には聖なる樹(ヤドリギ)が生えていた。この樹の枝(金枝)は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた』。『ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)神をたたえたこれらの聖所には、「森の王」と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である』とある。「ネミの湖」(イタリア語:Lago di Nemi /ラテン語: Nemorensis Lacus)はイタリアのローマの南東二十五キロメートルに位置するラツィオ州のローマ県南東部にある火口湖で、湖面に月が反射すると魔法の様に美しく見えることから、古くは「ダイアナの鏡」とも呼ばれた(ここはウィキの「ネミ湖」に拠った)。「蔦の魔力」の「蔦」は原文“ivy”で、これは所謂、我々の馴染みのブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus ではなく(本邦ではツタ Parthenocissus tricuspidata のみが本州から九州に自生する)、セリ目ウコギ科キヅタ属 Hedera を指すことが多いらしい(代表種はセイヨウキヅタ Hedera helix)。納得のゆくような説明には出逢えなかったが、その強烈な繁殖力と拘束力からその呪力は概ね想像出来る。フランスでは前者のツタ属Parthenocissusの仲間をリエール(lierre)と言い、これは「変わらぬ愛情」を示すシンボルとされるという記載も管見出来た(緒方富雄氏の「西洋のツタ」(PDF))。

「曉つた」「さとつた(さとった)」。悟った。]

 

 

.

   The other festival I wish, to refer to is that of the Setsubun, which, according to the ancient Japanese calendar, corresponded with the beginning of the natural year,— the period when winter first softens into spring. It is what we might term, according to Professor Chamberlain, a sort of movable feast; and it is chiefly famous for the curious ceremony of the casting out of devils,— Oni-yarai. On the eve of the Setsubun, a little after dark, the Yaku-otoshi, or caster-out of devils, wanders through the streets from house to house, rattling his shakujō, [5] and uttering his strange professional cry: Oni wa soto!—fuku wa uchi! [Devils out! Good-fortune in!] For a trifling fee he performs his little exorcism in any house to which he is called. This simply consists in the recitation of certain parts of a Buddhist kyo, or sutra, and the rattling of the shakujō Afterwards dried peas (shiro-mame) are thrown about the house in four directions. For some mysterious reason, devils do not like dried peas — and flee therefrom. The peas thus scattered are afterward swept up and carefully preserved until the first clap of spring thunder is heard, when it is the custom to cook and eat some of them. But just why, I cannot find out; neither can I discover the origin of the dislike of devils for dried peas. On the subject of this dislike, however, I confess my sympathy with devils.

   After the devils have been properly cast out, a small charm is placed above all the entrances of the dwelling to keep them from coming back again. This consists of a little stick about the length and thickness of a skewer, a single holly-leaf, and the head of a dried iwashi,— a fish resembling a sardine. The stick is stuck through the middle of the holly-leaf; and the fishs head is fastened into a split made in one end of the stick; the other end being slipped into some joint of the timber- work immediately above a door. But why the devils are afraid of the holly-leaf and the fishs head, nobody seems to know. Among the people the origin of all these curious customs appears to be quite forgotten; and the families of the upper classes who still maintain such customs believe in the superstitions relating to the festival just as little as Englishmen to-day believe in the magical virtues of mistletoe or ivy.

   This ancient and merry annual custom of casting out devils has been for generations a source of inspiration to Japanese artists. It is only after a fair acquaintance with popular customs and ideas that the foreigner can learn to appreciate the delicious humour of many art-creations which he may wish, indeed, to buy just because they are so oddly attractive in themselves, but which must really remain enigmas to him, so far as their inner meaning is concerned, unless he knows Japanese life. The other day a friend gave me a little card-case of perfumed leather. On one side was stamped in relief the face of a devil, through the orifice of whose yawning mouth could be seen,— painted upon the silk lining of the interior,— the laughing, chubby face of Otafuku, joyful Goddess of Good Luck. In itself the thing was very curious and pretty; but the real merit of its design was this comical symbolism of good wishes for the New Year:Oni wa soto! — fuku wa uchi!

 

5 This is a curiously shaped staff with which the divinity Jizō is commonly represented. It is still carried by Buddhist mendicants, and there are several sizes of it. That carried by the Yaku-otoshj is usually very short. There is a tradition that the shakujō was first invented as a means of giving warning to insects or other little creatures in the path of the Buddhist pilgrim, so that they might not be trodden upon unawares.

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