フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十二章 舞妓について (六) /第二十二章~了 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二) »

2015/11/27

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (一)

     第二十三章 伯耆から隱岐ヘ

 

 

       一

 

 自分は隱岐へ行くことに決心した。

 宣教師でさへそれまで一度も隱岐へ渡つたものは無かつた。そしてその海岸は、軍艦が日本海を巡航してその傍を汽走するといふそんな稀な場合を除いては、西洋人の眼に未だ嘗て觸れなかつたのである。それだけでも隱岐へ行く充分の理由となつたのであらう。だが、日本人すら隱岐のことは全く知つて居らぬといふ一層有力な理由が自分に提供せられた。日本帝國の中で一番知られて居ない部分は、異つた言語を使用して居る、稍々異つた人種が住まつて居るルウチユウ・アイランヅ即ち琉球を除いて、恐らくは隱岐であらう。これは出雲と縣を同じうして居る國であるから、新任の島根縣知事はいづれも就任後一度巡視するものと思はれて居り、縣警察部長は時折視察に出かけて行く。その上また松江や他の町の商家で、年に一度注文取を隱岐へ送るのが幾軒かある。更にまた、――それは殆んど總て小さな帆船で行ふのであるが――隱岐とは餘程盛んな取引がある。がそんな公務上並びに商業上の交通は日本歷史の中世時代に於けるよりも、大して能く隱岐を今日世間へ知らしめる性質のものでは無かつた。隱岐については、東洋の種々な人種の想像的文學にあんなに大いに出て來る彼の荒唐無稽な女護の島に就いての物語に能く似た、異常な物語が今なほ日本西海岸の普通人の間に行はれて居る。さういふ古い傳説に據ると、隱岐の國の人の道德觀念は極めて奇妙なもので、最も嚴肅な禁慾者でも此國に住んで居ては浮世の快樂に對するその冷淡さを維持して行くことは出來ぬ。そして此處へ遣つて來る他國人は、着いた時にはどんなに金持でも、女の誘惑の爲めに、やがて素裸で貧乏になつて其本國へ歸らなければならぬといふのである。自分は珍奇な國での旅行にはもう充分の經驗があることだから、そんな不思議な話に總てみな隱岐は『人の知らぬところ(テラ・インコグニタ)』といふそれだけの事實以上何も意味してゐないと確信して居た。そして隱岐の國の人の普通一般の品行は――西部諸國の普通人民の品行に依つて判斷して――自分の本國の無智階級の者共の品行よりも餘程優つて居るに相違無いと信ぜんとする氣持にさへなつて居つた。

 この事は後になつて確にさうと自分は見屆けた。

 

 暫くの間自分は自分の日本人友達のうちに、隱岐は古昔武人簒奪者が廢立した後醍醐後鳥羽兩帝の配流の地であつたといふ、自分が既に知つて居る、事實のほか、どんな知識をも與へて呉れるものを一人も見出し得なかつた。ところが到頭、全く思ひがけなくも、前に隱岐へ行つたことがあるばかりで無く、用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る一友を――前の學校の同僚を――發見した。で同行を約した。その男の隱岐に就いて語る所は今迄行つたことの無い人達の話とは著しく異つて居つた。隱岐の人達は出雲の人達と殆ど同じ程に開けて居て、好い町があり、立派な小學校がある、と言ふ。人間は甚だ質朴で信じられない程に正直で、そして他國人に極めて親切である。日本人が初めて日本へ來た時このかた、即ちもつと浪漫的な言葉で言へば『神代』このかた、その人種を變へずに居る事をその唯一の誇として居る。みな神道信者で出雲大社教を奉じて居るが、佛教も亦、主として私人の澤山な醵金に依つて、維持されて居る。そして非常に居心地の好い宿屋があるから、全く氣安く感ずるだらう、と斯う言ふのであつた。

 その男はまた隱岐の學校で使はせる爲めに出版された隱岐の事を書いた小さな本を呉れた。自分はその本からして次に記すやうな簡單な事實の摘要を得た。

 

[やぶちゃん注:本章の訳は底本「あとがき」から田部(たなべ)隆次氏と推定される。そこで田部氏はこの隠岐行は明治二五(一八九二)年の『七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた』とあるが、『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、隠岐の滞在は八月十日から二十三日までの十三日間で、境港へ二十四日に着き、翌二十五日には美保の関へ行っている。大澤隆幸氏「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、ハーンは隠岐を訪れた最初の西洋人であるとある。但し、本章(三一)を読むと、島後の西郷附近にはハーン滞在中もイギリスやロシアの軍艦が停泊し、西郷の町で彼等をみかけているので、厳密には隠岐を最初に訪れた西洋人はハーンではあるまい(島前では確かにそこを訪れた最初の西洋人と称してよいように思われる)。ハーンは――隠岐諸島を私人として旅目的で初めて訪れ、しかも長期間に亙って日本旅館に滞在した最初の西洋人――であったと言えばよろしいか。

「異つた言語を使用して居る、稍々異つた人種が住まつて居るルウチユウ・アイランヅ即ち琉球」「異つた言語」現在は日本語の方言である琉球方言として扱われることが多いが、ウィキの「沖縄県」には、『ユネスコなどの国際機関の間では日本語とは異なる日本語族に属した独立した言語であると』しているとある。「稍々異つた人種」についてはやはり同ウィキに『地理的・歴史的・文化的な経緯から琉球民族とする主張がある。人種的には先史時代から』十世紀に『かけて南九州から移入したとされ、分子生物学の研究でも本土と遺伝的に近いことが確かめられている。北琉球と呼ばれることもある沖縄諸島の住民は、分子生物学的(Y染色体による系統分析)にほぼ九州、本州、四国の住民と同じである』とあり、人類学的生物学的に「稍々異つた人種」という謂いには無理がある。但し、旧琉球国としてハーンが当時聴いた内容はそうした甚だ捻じ曲がったものであったことも事実であろうし、それを鵜呑みにしたハーンを責めるのも酷ではある。「ルウチユウ・アイランヅ即ち琉球」原文は“Riu-Kiu, or Loo-Choo Islands”で、「琉球」は現行の中国語では“Ruuchuu”で「ルーチュー」である。

「女護の島」「によごのしま(にょごのしま)」は、狭義には、「女護が島」とも「女人国」とも称し、女だけが住んでいるという空想上の島及びそうしたアマゾネス的な伝承を指す。本邦では八丈島が一番知られ、他にも沖繩の与那国島や奄美群島の喜界島など、実在の離島をこれに当てた話が古くから普及してはいる。但し、隠岐についてそうした奇怪な伝承を聴いたことは私は、ない。以下に続く記載も、隠岐を愛する私としては――ただ一度、四年前、母の死後のただ一度だけの長旅で訪れただけであるが――非常に不快である。因みに、ウィキの「隠岐の歴史」の「先史・古代」の項には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井』(さい)『と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前五千年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている』。『サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約二百基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長四十七メートル、長さ約八メートルの横穴式石室)がある』。『大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。六四六年(大化二年)隠岐駅鈴二個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある』。『隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道七国のうち下国で、都からの行程は上り三十五日、下り十八日と定められていた』。『日本海の孤島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。七六三年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、八二五年には渤海国使高承祖ら百三人、八六一年には渤海国使李居正ら百五人が隠岐国に来着している。日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、八六九年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、八七〇年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。八八八年には新羅国人三十五人が隠岐に漂着、九四三年には新羅船七隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた』とある。以下、「中世」の項。『建久四年(一一九三年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久三年(一二二一年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、十九年間配所で過ごし、元弘二年(一三三二年)年には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する』。『室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった』。以下、「近世」の項。『慶長五年(一六〇〇年)、堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となるが、寛永一一年(一六三四年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高に替わる。寛永一五年(一六三八年)には松平直政が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩の預かり地)となった。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせた。隠岐の総石高は一万八千石とされたが、実高は一万二千石ほどであった』。『島後の西郷港は十八世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めた。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐~美保関~安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在する』。以下、近代史。『明治元年(一八六八年)、隠岐騒動が起こり、神官と庄屋の正義党が松江藩隠岐郡代を追放し、王政復古で隠岐は朝廷御料になったと宣言して自治を行った。松江藩は隠岐に出兵して一時隠岐を奪回するが、まもなく鳥取藩が仲介して松江藩兵は撤退、自治が復活した。明治新政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける』。『明治二年(一八六九年)二月から八月まで隠岐国に隠岐県を設置して独立させるが、その後幕府の石見銀山領を前身とする大森県に統合された。新政府の方針は決まらず、隠岐地域の所属は島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治九年(一八七六年)ようやく島根県への所属に落ち着いた』。『島根県に編入された隠岐地域は古代以来の海士、知夫、周吉、穏地の四郡に分かれていたが、明治二一年(一八八八年)になって島根県庁は郡を廃止して隠岐島庁を設置、島司が行政に当たった』(ハーンの来島はこの時期)。『明治三七年(一九〇四年)に西郷町、五箇村などの町村が設置されている。翌三八年(一九〇五年)二月十五日、竹島が日本の領土として確認され、後に五箇村の所属とされた。これは西郷町の中井養三郎がアザラシ・アシカ漁のためにリャンコ島の賃貸を政府に求め、政府が島の所属について確証がないことに気付いたためである。リャンコ島は竹島と名付けられ、隠岐島司の所管となった。隠岐島庁は大正一四年(一九二五年)に隠岐支庁となっている』(以下の現代史はリンク先を参照されたい)。

「人の知らぬところ(テラ・インコグニタ)」「テラ・インコグニタ」はルビ。原文terra incognita。ラテン語でterraは「土地・陸地・国・地方・世界」、incognitaは「知られざる・未知の・認識し難い・探索されていない・未だ認められていない」の意の形容詞“incogunitus”である。個人的に好きな意味と響きの語である。

「西部諸國」西日本諸県。

「その人種を變へずに居る事をその唯一の誇として居る」どうも「人種」という訳語が気に入らない。平井呈一氏の『連綿として血筋のかわっていないことを、唯一のお国自慢にしている』で、不快なく(敢えて言うと「唯一の」は、気に障るが、これは原文がそうだから仕方がない)読める。

「一友」「前の學校の同僚」先の『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、隠岐旅行の帰りに美保の関に滞在したハーンは、松江中学時代の校長心得西田千太郎を客として宿へ迎えている(八月二十六日)。海水浴などを楽しんだ後、二十九日に西田が松江へ戻る際、『隠岐土産のスルメ二束、馬蹄石貝細工品を贈』っているところなどからも、「同僚」と言っているものの(「同僚」の「友」に拘るならば、「第十九章 英語教師の日記から (二)」に出る、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師であった中山彌一郎であるが)、これは私は西田であったと思う。但し、この「用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る」とか、「同行を約した」とし、実際に以下本章では現地にその友人と隠岐に行ったように記述しているが、事実は田部氏が「あとがき」で述べている通り、事実は『同行者は夫人だけ』であった。ハーンは実は本書に於いては、事実婚状態にあった妻セツを完全に巧妙に隠蔽している(「第十八章 女の髮について(一)」の冒頭を見よ)。それは文学的虚構以外の意識が働いていると私は読む。私は、ハーンはこの時点(明治二十五年前後)では未だセツを正式な妻として記載することにどこかで躊躇していたのではないかと感ずるのである。実際、大澤隆幸氏は「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」で、この前年十一月にハーンが熊本に転任した際の、今も残る第五高等中学校公式文書である『雇容伺文書の最後の項目では「一、妻の有無 無し」』とあって、『セツは妻ではなかった』と、明記しておられるのである。恐らくはセツへの気遣という大きな点以外にも、海外読者の中にはハーンが日本人妻を迎えていることを知った場合、こころよく思わない者がいると考え、それが本書の売り上げに影響したり、あらぬ批判の対象となったりすることを避けたかったからなのではないかと私は疑ってもいる。ともかくもハーンが『妻子の将来を考え、日本に帰化し、小泉八雲と改名する』(新潮文庫「小泉八雲集」の上田和夫氏年譜)のは、本書刊行(明治二十七年九月)の一年後の明治二八(一八九五)年の秋であった(上記大澤論文によれば、帰化手続の完了は翌明治二十九年二月十四日とある)。

「出雲大社教」原文は「いずもたいしゃ」と綴っているが、宗教団体としての固有名詞としては「いづもおほやしろきやう(いずもおおはしろきょう)」と読むのが正しい。間違ってもらっては困るのは、かく「出雲大社教」と書き、「いずもおおやしろきょう」と読んだ場合は、漠然とした出雲大社を親しく崇敬しているといったような一般的な謂いではなくして、実際の宗教団体としての「出雲大社教」を指しているということである。出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は明治六(一八七三)年に当時の出雲大社大宮司であった千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団で(創立に際して宮司職を「第八章 杵築――日本最古の社殿」に登場した弟尊紀に譲っている)、教派神道(神道十三派)の一つである。これについては第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)の私の注「千家尊紀」を参照されたい。]

 

 

ⅩⅩⅢ

FROM HŌKI TO OKI.

 

.

   I RESOLVED to go to Oki.

   Not even a missionary had ever been to Oki, and its shores had never been seen by European eyes, except on those rare occasions when men-of-war steamed by them, cruising about the Japanese Sea. This alone would have been a sufficient reason for going there; but a stronger one was furnished for me by the ignorance of the Japanese themselves about Oki. Excepting the far-away Riu-Kiu, or Loo-Choo Islands, inhabited by a somewhat different race with a different language, the least-known portion of the Japanese Empire is perhaps Oki. Since it belongs to the same prefectural district as Izumo, each new governor of Shimane-Ken is supposed to pay one visit to Oki after his inauguration; and the chief of police of the province sometimes goes there upon a tour of inspection. There are also some mercantile houses in Matsue and in other cities which send a commercial traveller to Oki once a year. Furthermore, there is quite a large trade with Oki,— almost all carried on by small sailing-vessels. But such official and commercial communications have not been of a nature to make Oki much better known to-day than in the medieval period of Japanese history. There are still current among the common people of the west coast extraordinary stories of Oki much like those about that fabulous Isle of Women, which figures so largely in the imaginative literature of various Oriental races. According to these old legends, the moral notions of the people of Oki were extremely fantastic: the most rigid ascetic could not dwell there and maintain his indifference to earthly pleasures; and, however wealthy at his arrival, the visiting stranger must soon return to his native land naked and poor, because of the seductions of women. I had quite sufficient experiences of travel in queer countries to feel certain that all these marvelous stories signified nothing beyond the bare fact that Oki was a terra incognita; and I even felt inclined to believe that the average morals of the people of Oki — judging by those of the common folk of the western provinces — must be very much better than the morals of our ignorant classes at home.

   Which I subsequently ascertained to be the case.

 

   For some time I could find no one among my Japanese acquaintances to give me any information about Oki, beyond the fact that in ancient times it had been a place of banishment for the Emperors Go-Daigo and Go-Toba, dethroned by military usurpers, and this I already knew. But at last, quite unexpectedly, I found a friend — a former fellow-teacher — who had not only been to Oki, but was going there again within a few days about some business matter. We agreed to go together. His accounts of Oki differed very materially from those of the people who had never been there. The Oki folks, he said, were almost as much civilized as the Izumo folks: they, had nice towns and good public schools. They were very simple and honest beyond belief, and extremely kind to strangers. Their only boast was that of having kept their race unchanged since the time that the Japanese had first come to Japan; or, in more romantic phrase, since the Age of the Gods. They were all Shintōists, members of the Izumo Taisha faith, but Buddhism was also maintained among them, chiefly through the generous subscription of private individuals. And there were very comfortable hotels, so that I would feel quite at home.

   He also gave me a little book about Oki, printed for the use of the Oki schools, from which I obtained the following brief summary of facts: —

« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十二章 舞妓について (六) /第二十二章~了 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二) »