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2015/11/18

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (二十四)/第十九章~了

       二四   一八九一、十二月二十三日

 

 洞光寺の大梵鐘は横木の追悼會【譯者註一】のために徐ろに規則正しく分時砲(弔砲)のやうに鳴つて居る。その豐かな靑銅のうねりの幾しきりが湖の上で動搖し、街の屋根の上に漲つてそして四方の綠の山々に對し深い哀音となつて消える。

 古風な儀式のこの追悼會は哀れの深い會である、これは餘程以前日本の佛教で採用されたが、支那から由來した美はしい物である。又費用のかかる儀式である、そして横木の兩親は甚が貧しい、しかし凡ての費用は學生と教師の進んで寄附した物で辨じた。出雲の禪宗の各寺院から來た僧侶は洞光寺に參集した。市中の教師及び學生全部は、この大寺院の本堂に入つて高い祭壇の左右に座を取つた、外側の長い廣い階段に一千の靴と草履をぬいで疊の上に坐つた。

 正面玄關の前に、高い佛壇に面して新しい佛壇が置かれた、その開いた戸のうちに漆と金の故人の位牌が光つて居る。佛壇の前の小さい臺の上に線香の束の入つた香爐と、果物、菓子、米飯、及び花の供物が置いてある。佛壇の兩方にある丈の高い美事な花瓶には花の枝が一杯に巧みにさしてある。本尊の前には大きな蠟燭立――その光つた眞鍮の臺は卷きついた怪物、上り龍下り龍になつて居る大きな蠟燭立に蠟燭が燃えて居る。佛説にある神鹿のやうな、神龜のやうな、三昧に入つた鶴のやうな形の香爐から香が卷き上つて居る。そしてこの向うに、大きな奧の間のほの暗き處に、佛は圓滿具足の微笑をもらし給ふ。

 佛壇と本尊との間に小さい机が置いてある、その兩側に僧侶が相對して列をなして坐る、圓頂の列、朱の絹の僧衣、金の縫のある袈娑の立派さ。

 大きな鐘が鳴り止む、靈魂に對する食物の供養の讀經である施餓鬼が行はれる、急に朗かな、音調のよい打ち物の音に件はれた哀音の讀經で、音樂的な法會が始まる。その打ち物は木魚の音である、木で造つて漆を塗つて金箔を置いた大きな魚の頭である、妙な理想化した海豚(イルカ)の頭のやうである。これで拍子を取るのである、法華經の觀世音菩薩普門品を誦んで居る【譯者註二】、それにはかくの如き廣大な祈りがある。

 

  眞觀淸淨觀、廣大智觀、悲觀及慈觀、常願常瞻仰、無垢淸淨光、慧日破諸暗、能伏風火、普明照世間

 

 導師等の聲々がひびき渡る同音で明らかに高く歌ふと共に、その他の一同の僧の合唱はこの有難い經文を深い低音で唱へる、そして彼等の讀經のひびきは寄波のつぶやきに似て居る。

 木魚はその鈍いひびきを止める、深き感動を與ふる讀經が終る、そこで重なる司會者即ち名高き寺々の高僧は一人づつ位牌に近づく。銘々ひくく頭を垂れて線香に火を點じ、これを靑銅の小さい鉢に眞直に立てる。銘々はしばらく經文を唱へる、その始めの音は故人の戒名の文字の音である、そしてこの位牌の文字の順序によつて唱へられた經文は、聖い折句になる、それを香語と云ふ。

 それから僧侶は席にかへる、暫らくの沈默のあとで祭文の朗讀、即ち故人の靈に告ぐる文の朗讀が始まる。各級から選擧されて一人づつ出た學生が始めに述べる。選ばれた學生は起立して、高い壇の前の小さい机に近づき本尊を拜し、懷から紙を取り出し、漢文を朗讀する時の節のよい朗々たる哀調で讀み上げる。かく銘々が愛の滿ちた悲しみと希望の言葉で死者に對して生者の愛情を語る。そして最後に學生のうちから、一人のやさしい少女(師範學校の女生徒)が出て、小鳥のやうに柔和な調子で述べるがために起立する。祭文を讀み終つた時、銘々は本尊の前の机の上に紙を置いて禮して退く。

 今度は先生の順番である、そこで一人の老人が小さい机の處に席を取る、詩人として名高い教師として尊敬される、漢文の先生片山翁【譯者註三】である。學生一同父の如く愛して居るので、翁が『故島根縣尋常中學校四年生』と始める時不思議に一同水を打つたやうになる。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、漢字カナ交じりの片山尚絅(しょうけい)の祭文(追悼文)は、底本では全体が二字下げとなっている。]

 

『維レ明治二十有四年十二月二十有三日

 島根縣尋常中學校教諭 片山尚絅

 辱ク追福ノ靈場ニ侍スルヲ獲テ焄蒿悽愴(クンカウセイサウ)ノ至ニ堪へズ敢テ

故島根縣尋常中學校四年生横木富三郎君

靈ニ告グ、猶絅本校教諭ニ承乏スル前後五年其間學生ノ優秀ナルモノ鮮シト爲サザルモ其忍耐勇進勉メテ倦マズ審問愼思科(アナ)ニ盈(ミ)チテ校則ヲ遵守シ師訓ヲ服膺シ業ニ敏ニ行ニ愼ム

君ノ如キハ復タ得易カラズ冀北ノ野良馬ナケレバ盲人之ヲ馬ナシト稱ス本校尚龍駒ナカランヤ然レドモ

君ニシテ逝ク、予其尤ヲ拔クノ嘆ニ堪へズ

君ハ十七年九箇月ト聞ク、學業專修ノ好年期ニシテ前途有爲ノ基礎殆ンド六七仭ニ及ブ、而シテ病ノ爲メニ逝ク、其病因ヲ問フニ腦ニ急劇ノ症ヲ呈セリト、以テ平素ノ苦學ヲ證スべク益々半途ニ斃ルノ愛惜スべキヲ感ズ巳矣(ヤミナン)、其成業ヲ見ルニ及ハス、若シ君ヲシテ其天壽ヲ全フシ社會ニ立ツアラシメンカ必ズ其業ニ敏ニ行ヲ愼ム者以テ終始ヲ貫キ身ヲ立テ家ヲ興スヤ推テ知ルべキノミ、

君ノ教場ニ在ル手ヲ擧テ問ヲ發シ自ラ低テ筆記セル或ハ勇壯活潑銃ヲ提テ馳驅セル其聲容尚ホ目睫ヲ離レズ而シテ今再ビ之ヲ見ルニ由ナシ噫天何ゾ衰殘爲スナキノ尚絅ヲ殘シテ此進取爲スコトアルべキノ

君ヲ奪フヤ 尚絅ノ

君ニ於ケルハ職務ニ因テ師弟タルニ過ギズ尚ホ其ノ情義ノ感ズル所自ラ堪ルコト能ハズ 尚絅子アリ本年二十四歳遠ク相州横濱ニ在リ素ヨリ豚犬ニシテ

君ニ比スべキニ非ルモ老父ノ胸間夢寐(ムビ)ニ忘レズ況ヤ俊拔ナル

君ノ親父タリ慈母タリ兄弟姉妹タルモノ此不幸ニ遭遇スルニ於テオヤ其衷情以テ如何トナス思フテ此ニ到レバ涙先ズ胸ヲ衝キ復タ言ヲ爲スコト能ハス鳴呼

君ハ逝ケリ乃チ逝クト雖モ其業ヲ勉メ其行ヲ愼メルモノハ永ク本校學生ノ模範ト爲テ朽チズ是職員學友ノ感懷追慕已ム能ハズシテ玆ニ謹デ淸酌庶羞(シヨシユ)ノ典ヲ具シ敬ンデ

君ノ靈ヲ祀ル所以ナリ尚クハ

來リ饗(ウ)ケヨ

 

 それからすすりなきの聲は木魚の突然再び鳴り出したのに壓倒せられて、導師の高い調子の稱名合唱の聲が有難い涅槃經を誦し始める。生死の大海を解脱して通る凱歌である、その高い音調と木魚の反響の下に妙へなる讀經を誦する波濤の如き一百の聲の低音は大海のくだけるやうに響いて聞える。

 諸行無常 是生滅法、生滅々巳 寂滅爲樂。

 

    譯者註一。この追悼會は、四年生横

    木富三郎、三年生志田昌吉、三年生

    妹尾丑之助三人のために催された物、

    著者は都合上横木の分にしたのであ

    る、時は明治二十四年十二月二十三

    日の事故、當時著者ヘルンは熊本高

    等中學校へ轉任したあとの事であつ

    た、この記事は全く小豆澤(藤崎大

    佐)の通信を參考として書いた物、

    當時の新聞記事によれば、會するも

    の二百餘名(中學生全部)來賓は齋

    藤師範學校長以下職員及び死者の親

    戚、僧侶は二十餘名、佛式を營み、

    終りて中學校長木村牧氏及び片山教

    諭の祭文奉讀、ついで五年級總代遠

    藤靜衞、四年級總代三浦倫吉、三年

    級總代外山林次郎、二年級總代錦織

    甚六、同窓會總代内田實、神門輔仁

    會總代今岡義一郎諸氏の祭文朗讀あ

    り、次で參拜者一同に茶菓を供し、

    散會せしは五時なりしとある。

    譯者註二。この追悼會で讀んだ經文

    は佛遺教經であつた、藤崎大佐がそ

    の全文を譯してヘルンに示したが、

    その内容は追悼會に讀む物としては

    適切でないとして法華經にかへた。

    譯者註三。片山は有名なる漢學者片

    山兼山の孫。滋賀縣師範學校長より

    轉じて松江中學の教諭となりし人。

 

[やぶちゃん注:最後の原文の注“15”(訳文では省略されている)は、底本としている英文電子テクストでは欠損しているため、原本を見ながら私がタイピングして追補した。この注は祭文の筆者片山尚絅氏が、亡くなった横木(事実は同じく亡くなった松江中学生二人を含む)のことを、自分の息子を不肖として卑下して引き合いに出すことで逆に称揚していることを説明している(ものと思う)。事実、確かに、西洋人ならずとも恐らくは現代の日本人も、ここで何故に片山氏が自分の子のことを突然語るのか、最早、分からないかも知れない。

「一八九一、十二月二十三日」再度、事実のみを記す。ハーンはこの前月、明治二四(一八九一)年十一月十五日に熊本第五高等学校に転任するために松江を去っており、ここに仔細に描かれる「横木」の「追悼會」には実は出席していない。「譯者註一」にも述べてある真相については本注の最後で述べることとする。

「横木の追悼會」岩手大学教授広瀬朝光氏の論文『八戸の「コイヅミヤクモ」』に西田千太郎の以下の日記が引かれている(恣意的に漢字を正字化した)。

   *

廿三日(時々雨霰)横木富三郎(四年級)、志田昌吉、瀬能丑之介(三年級)三子ハ共ニ中學校生徒中優秀ナル者ナリシガ、今秋以來相次デ死去セルニ付、教員生徒相謀リテ追悼會ヲ洞光寺ニ擧行ス。片山氏ノ祭文ハ數百人ヲシテ泣カシメタリ、教官中ニテハ、中村、佐藤及三好ノ三氏斡旋ノ勞ヲ執レリ(予ノ出金五十錢及菓子料二十錢)。

   *

また、同論文の末尾註の「4」には、この追悼会を報じた明治二十四年十二月二十三日附『山陰新聞』の記事の一部が掲げられている。これも引用させて戴く(同じく恣意的に漢字を正字化した)

   *

 故中學生の追悼式

豫記の如く昨日午後一時ゟ當尋常中學校の故第四学年横木富三郎洞三年志田昌吉、妹尾丑之助三氏の追悼式を松江分洞光寺に施行す會する者二百餘名來賓には齊藤師範學校長以下職員及死去の親戚にして僧侶廿餘名佛式を營み終りて中學校長木村牧氏片山教諭の祭文奉讀次て五年級總代遠藤衞四年級總代三浦倫吉二年級總代外山林次郎一年級總代錦織銘甚六同窓會總代内田實神門輔仁會總代今岡義一郎諸氏の祭文奉讀あり次て參拜者一同へ茶菓を供し散會せるは午後五時なりし中にも片山氏の祭文奉讀中は何れも悼涙を流さゞるは無かりきと(以下、長文ゆえ略す。)

   *

(最後の略注記は広瀬氏のものと思われる)。この本篇記載の内容が、合同追悼会であったことを除くと基本的には事実に基づくものであることが判る(後注参照)。

「眞觀淸淨觀、廣大智觀、悲觀及慈觀、常願常瞻仰、無垢淸淨光、慧日破諸暗、能伏風火、普明照世間」鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」観世音菩薩普門品第二十五、通称「観音経」の後半の部分で、五つ「観」が出る知られた一節である(「暗」は「闇」が普通)。通常はそのまま音で通読するが、底本では返り点が振られてあるので、以下に意味を採れるように我流で書き下しておく。

   *

 眞觀・淸淨觀・廣大智觀・悲觀及び慈觀あり。

 常に願ひ、常に瞻仰(せんがう)すべし。

 無垢たる淸淨光と慧日はこれ諸暗を破り、

 能く風火を伏せしめ、

 普(あまね)く明らかに世間を照らす。

   *

この「眞觀・淸淨觀・廣大智觀・悲觀及び慈觀」とは、正しく真実を観ること・執着せずに清らかな眼で観ること・広大無辺な智慧を以って観ること・悲しみや苦しみに対して向かい観ること、そして、無限の仏の慈しみの目を以ってあらゆる対象を観ること、を意味する(と思う)。「瞻仰」は「せんぎやう(せんぎょう)」と読も読み、仰ぎ見ること、見上げることが原義で、そこから敬い慕うことの意。

「香語」原文“The Words of Perfume”。これは「かうご(こうご)」と読み、主に禅宗で言う「拈香法語(ねんこうほうご)」のこと。法要や読経などの際に導師が香を拈じて唱える法語を指す。特に葬儀の際に用いるものは「引導香語」と言う。

「片山翁」「片山尚絅」「有名なる漢學者片山兼山の孫。滋賀縣師範學校長より轉じて松江中學の教諭となりし人」詳細事蹟不詳。祖父片山兼山(けんざん 享保一五(一七三〇)年~天明二(一七八二)年)は上野国の出身の儒学者。延享三(一七四六)年に江戸に出、服部南郭らに入門、荻生徂徠の高弟宇佐見灊水(しんすい)の養子となったが、後に徂徠の説を疑って追われた。漢宋諸家の説を採って折衷学を開き、徂徠学を排撃した人物として知られる(諸事典により記載した)。滋賀県立師範学校長から松江中学教諭というのはどう考えても降格人事である。詳細を知りたい。また、第百五十九回の『「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース』(二〇一三年十一月九日発行)によれば、田部隆次著「小泉八雲」に載る話として、『松江でハーンが英語の通じない漢文の教諭片山尚絅を訪ねた際、片山が茶菓をすすめて赤い色の羊羹を箸で取った時、近視のハーンは之を煙草の火と思い誤り、煙管を出して受けようとして気がつき、二人で大笑いしたことがあった』とあり、彼とハーンは交友があったことが知れる。

「維レ明治二十有四年十二月二十有三日」実は底本では「維レ明治二十有四年二月二十有三日」となっている。しかし原文は“the twelfth month”であり、単なる誤植か誤訳と断じて訂した。なお、あまり言いたくないのであるが、平井呈一氏の訳も何故かここが『二月』となっている。

「焄蒿悽愴(クンカウセイサウ)」現代仮名遣で「くんこうせいそう」と読み、香気が立ち昇って人の心を畏れ慄(おのの)かすことを言う。鬼神霊魂の気の形容。

「承乏」「しようばふ(しょうぼう)」と読み、「乏(とぼ)しき承(う)く」で、自らが官に任ずることの謙遜語。適当な人物がいないことから、不肖己れが暫くその空いた地位を補充し承り申し上げるという意。この「乏」は「官職の空き」の意である。

「鮮シ」「すくなし」(少なし)。「巧言令色、鮮し仁」のあれである。

「科(アナ)」読み不詳。「科」は程度・条(すじ)・掟(おきて)の意があるので、条理に「盈(ミ)チテ」いた、という謂いで意味は通る。

「服膺」「ふくよう」は、心にとどめて忘れないこと。

「冀北ノ野良馬ナケレバ盲人之ヲ馬ナシト稱ス」韓愈の「送温處士赴河陽軍序」(温處士の河陽軍に赴くを送るの序」の一節「伯樂一たび冀北(きほく)の野を過ぎて馬群(ばぐん)遂に空(むな)し」に基づく。名馬を見抜く伯楽が一たび良馬の産地冀州(きしゅう)の北部を通ると、良馬は一頭も残らなくなる、即ち、名君賢相が上にいると民間の賢人は皆、朝廷に用いられることの譬えである故事成句を参列する生徒らに辛口で捻ったものであろう。しかし「本校尚龍駒ナカランヤ」と附けてそこを留保しているのである。

然レドモ

「尤ヲ拔クノ嘆ニ堪ヘズ」「尤」は「いう(ゆう)」で、優れていることを指し、これで独り群を抜いて優れていたの謂いであるが、ここは前に「逝ク」とあり、そうした稀なる俊才が逝ってしまったことの歎きに堪えられないというのであろう。

「六七仭」「仭」は深さ・高さの単位であるが、ここは満ちたそれ(重要な基礎学力全体)を「十」として、最早、七割方まで修得し得たというのであろう。

「巳矣(ヤミナン)」これはこれで独立した一文。「やんぬるかな」などとも訓じ、慨嘆や絶望の辞。「やみぬる」の音変化で、今となっては最早どうしようもないの意。

「低テ」「うなだれて」であるが、前の「擧テ」の対句としての物理的な運動の対であって、力なく首を前に垂れるのではなく、熱心に筆記をするさまを指す。

「提テ」「ささげて」。

「馳驅」「ちく」。駆け回ること。

「噫」感動詞「ああ」。

「豚犬ニシテ」原文は“worthless”で、役に立たないの意。ここは豚児(とんじ)・愚息の意。

「夢寐(ムビ)」眠って夢を見ること。また、その夢を見ている間の意。

「淸酌庶羞(シヨシユ)」「淸酌」(せいしやく(せいしゃく))は清醇なる美酒で祭祀に用いる酒、「庶羞」(しよしゆ(しょしゅ))も、もてなすための美味なる佳肴で、やはり神霊を祀るための供物である。

「敬ンデ」「つつしんで」(謹んで)。

「尚クハ」「ねがはくは」と読む。冀はくは。願わくは。

「諸行無常 是生滅法、生滅々巳 寂滅爲樂」「大乗涅槃経」の「諸行無常偈」と呼ばれるもの。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てたと伝えられることから「雪山偈」とも称される。我流の解を示す。――万物は絶えず移り変わり生滅するものであって不変なものは一つとしてなく無常なるものである――生あるものは何時か必ず滅び去って消えずにはおかない――しかしそうした見た目の「生」とか「滅」とかといった現象から完全に解き放たれた瞬間――あらゆる煩悩は完全に消滅して真の安楽が訪れる――私は解釈しただけである。そう思っている訳では――ない。総ては無限に「無」である。絶対「無」なればこそ「真」も「偽」も「苦」も「楽」もない――のであると私は思う。――横木富三郎の魂へ本注を捧げる――

「この追悼會は、四年生横木富三郎、三年生志田昌吉、三年生妹尾丑之助三人のために催された物、著者は都合上横木の分にしたのである」「時は明治二十四年十二月二十日の事故、當時著者ヘルンは熊本高等中學校へ轉任したあとの事であつた、この記事は全く小豆澤(藤崎大佐)の通信を參考として書いた物」なお、「當時の新聞記事」とある以下の部分は前の「横木の追悼會」に引いた広瀬氏の『八戸の「コイヅミヤクモ」』の引用を参照されたい。まず、この「追悼會」は横木一人のためのものではなかったことを確認されたい。それをハーンは操作して、かれの愛した教え子横木だけの追悼会であるように創作し直したのである。ということは、原本を確認出来ないが、片山尚絅氏の心打たれる祭文も完全に再現されたものではない可能性も疑われる(訳者はこれだけの美事な漢文で提示している以上、祭文の原文を確認しているものと思われ、ここに出たのは横木の追悼箇所だけを抜き出して示したとしてもおかしくはないが、こんなにすっきりと完全に手を加えることなく上手く入れ込むことが出来るのかという点では私には疑問が残るのである)

 以下、「一八」で既に注したが、繰り返し部分を厭わずに述べる。

 ハーンはこの明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも実は異人の妻となったセツに対する心ない噂なども理由の一つとしてはあったようである)として熊本第五高等学校に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、

 明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時

(大橋西桟橋より汽船にて出発)であったことが判っている

 ところが、先の「二十二」の冒頭には、

 明治二四(一八九一)年十一月二十六日のクレジット

が示された上で、

 

 翌日(十一月二十七日)には横木が志田の墓の側(そば)に葬られる

とある。いや、それどころか、「二十三」では、

 

 ハーンは同日(推定)に今生の別れとして横木の死に顔をさえ見ている

としているのである。そうして、ここ「二十四」の冒頭には、

 明治二四(一八九一)十二月二十三日のクレジット

が示された上で、寺で行われた横木の追悼会――事実は既に示した通り、同じ松江中学生で先に逝った志田や今一人の生徒を含む合同の追悼会――が描かれるのであるが、そこでは、

 

 現にハーンがその場に参列した者として、現前に確かに見たものとして、その追悼会が描かれてある

 

のである。

 確認されたいのである。

 

 ハーンは明治二四(一八九一)年十一月十五日に松江を去った

のであって、

 明治二四(一八九一)年十一月二十六日も、十二月二十三日もハーンは既に熊本におり、松江には居なかった――彼は横木の死に目に逢うことも――横木の死に顔を見ることも――出来なかった――のであり――横木他二名の追悼式にも――出席していない

 

のである。それはもう、この訳者(山本啓信と推定)の注の断定表現を見れば百%確かなことである。残念乍ら、ハーンが急遽、横木急逝を受けて松江に戻ったという可能性は当時の実状及び諸情報から見てもあり得ないのである。

 即ち、少なくとも、

 

横木富三郎の死(「二二」)から「二三」でその死に顔を見、そして「彼の」「追悼會」が描かれる「二四」コーダまでの三つ話柄は、実はハーンの実体験に基づくものではなく、全くの創作である

 

と考えるべきである(横木逝去がハーンが松江を発つ以前であったと仮定し、しかもハーンがかくクレジットを大間違いしたとすれば、創作は「二四」のみに留まるが、そこまでお目出度く考えるほど私は愚かではない。第一がハーンにも失礼であろうと思う)。創作をまた強力に傍証するのが「譯者註二」で、「この追悼會で讀んだ經文は」本文に出る「法華經の觀世音菩薩普門品」ではなく、「佛遺教經であつた」事実、そして「藤崎大佐がその全文を譯してヘルンに示したが、その内容は追悼會に讀む物としては適切でないと」熊本のハーンが断じて「法華經にかへた」という下りである。これこそ、ハーンがここで偏愛した永遠の少年横木富三郎を贈るに相応しい響き渡る葬送の音楽は、確信犯で――ここは「観音経」でなくてはならぬ――と考え、それを以って《演出した》という驚愕の《事実》である。

 

 さて――

 間違えては困るのだ。

 確かに私は、若き日にこの「日本の面影」を平井呈一氏の訳で読み、この本章のすこぶる印象的な後半部を偏愛してきた。

 今回、この電子化で日附の不審に気づき、そうしてこの訳者の注を見るに及び、飛び上がらんばかりに《驚いた》ことは《事実》である。

 しかし私のこのシークエンスへの《感動》は、その創作という真相を知ったことによって――削がれたどころか――より昂まったとさえ――言えるのである。

 

 ハーンは横木富三郎を愛していたのである。

 

 ハーンは――「靈」――「魂」――に変ずることの出来る人であった。

 

 ハーンは横木を puer eternus ―― プエル・エテルヌス――「永遠の少年」として――彼自身の心で――死に顔を見――彼を送り――そうしてかの「追悼會」にも確かに出た――のであった――

 

 

ⅩⅩⅣ.

December 23, 1891.

   The great bell of Tōkōji is booming for the memorial service,—for the tsuito-kwai of Yokogi,—slowly and regularly as a minute-gun. Peal on peal of its rich bronze thunder shakes over the lake, surges over the roofs of the town, and breaks in deep sobs of sound against the green circle of the hills.

   It is a touching service, this tsuito-kwai, with quaint ceremonies which, although long since adopted into Japanese Buddhism, are of Chinese origin and are beautiful. It is also a costly ceremony; and the parents of Yokogi are very poor. But all the expenses have been paid by voluntary subscription of students and teachers. Priests from every great temple of the Zen sect in Izumo have assembled at Tōkōji. All the teachers of the city and all the students have entered the hondo of the huge temple, and taken their places to the right and to the left of the high altar,—kneeling on the matted floor, and leaving, on the long broad steps without, a thousand shoes and sandals.

   Before the main entrance, and facing the high shrine, a new butsudan has been placed, within whose open doors the ihai of the dead boy glimmers in lacquer and gilding. And upon a small stand before the butsudan have been placed an incense-vessel with bundles of senko-rods and offerings of fruits, confections, rice, and flowers. Tall and beautiful flower- vases on each side of the butsudan are filled with blossoming sprays, exquisitely arranged. Before the honzon tapers burn in massive candelabra whose stems of polished brass are writhing monsters—the Dragon Ascending and the Dragon Descending; and incense curls up from vessels shaped like the sacred deer, like the symbolic tortoise, like the meditative stork of Buddhist legend. And beyond these, in the twilight of the vast alcove, the Buddha smiles the smile of Perfect Rest.

   Between the butsudan and the honzon a little table has been placed; and on either side of it the priests kneel in ranks, facing each other: rows of polished heads, and splendours of vermilion silks and vestments gold-embroidered.

   The great bell ceases to peal; the Segaki prayer, which is the prayer uttered when offerings of food are made to the spirits of the dead, is recited; and a sudden sonorous measured tapping, accompanied by a plaintive chant, begins the musical service. The tapping is the tapping of the mokugyo,—a huge wooden fish-head, lacquered and gilded, like the head of a dolphin grotesquely idealized,—marking the time; and the chant is the chant of the Chapter of Kwannon in the Hokkekyo, with its magnificent invocation:

 

   'O Thou whose eyes are clear, whose eyes are kind, whose eyes are full of pity and of sweetness,—O Thou Lovely One, with thy beautiful face, with thy beautiful eye,

   'O Thou Pure One, whose luminosity is without spot, whose knowledge is without shadow,—O Thou forever shining like that Sun whose glory no power may repel,—Thou Sun-like in the course of Thy mercy, pourest Light upon the world!'

 

And while the voices of the leaders chant clear and high in vibrant unison, the multitude of the priestly choir recite in profoundest undertone the mighty verses; and the sound of their recitation is like the muttering of surf.

   The mokugyo ceases its dull echoing, the impressive chant ends, and the leading officiants, one by one, high priests of famed temples, approach the ihai. Each bows low, ignites an incense-rod, and sets it upright in the little vase of bronze. Each at a time recites a holy verse of which the initial sound is the sound of a letter in the kaimyo of the dead boy; and these verses, uttered in the order of the characters upon the ihai, form the sacred Acrostic whose name is The Words of Perfume.

   Then the priests retire to their places; and after a little silence begins the reading of the saibun,—the reading of the addresses to the soul of the dead. The students speak first,— one from each class, chosen by election. The elected rises, approaches the little table before the high altar, bows to the honzon, draws from his bosom a paper and reads it in those melodious, chanting, and plaintive tones which belong to the reading of Chinese texts. So each one tells the affection of the living to the dead, in words of loving grief and loving hope. And last among the students a gentle girl rises — a pupil of the Normal School— to speak in tones soft as a bird's. As each saibun is finished, the reader lays the written paper upon the table before the honzon, and bows; and retires.

   It is now the turn of the teachers; and an old man takes his place at the little table—old Katayama, the teacher of Chinese, famed as a poet, adored as an instructor. And because the students all love him as a father, there is a strange intensity of silence as he begins,— Kō-Shimane-Ken-Jinjō-Chugakkō-yo-nensei.

   'Here upon the twenty-third day of the twelfth month of the twenty-fourth year of Meiji, I, Katayama Shōkei, teacher of the Jinjō Chūgakkō of Shimane Ken, attending in great sorrow the holy service of the dead [tsui-fuku], do speak unto the soul of Yokogi Tomisaburo, my pupil.

   'Having been, as thou knowest, for twice five years, at different periods, a teacher of the school, I have indeed met with not a few most excellent students. But very, very rarely in any school may the teacher find one such as thou,— so patient and so earnest, so diligent and so careful in all things,— so distinguished among thy comrades by thy blameless conduct, observing every precept, never breaking a rule.

   'Of old in the land of Kihoku, famed for its horses, whenever a horse of rarest breed could not be obtained, men were wont to say: "There is no horse." Still there are many line lads among our students,— many ryume, fine young steeds; but we have lost the best.

   'To die at the age of seventeen,— the best period of life for study,— even when of the Ten Steps thou hadst already ascended six! Sad is the thought; but sadder still to know that thy last illness was caused only by thine own tireless zeal of study. Even yet more sad our conviction that with those rare gifts, and with that rare character of thine, thou wouldst surely, in that career to which thou wast destined, have achieved good and great things, honouring the names of thine ancestors, couldst thou have lived to manhood.

   'I see thee lifting thy hand to ask some question; then bending above thy little desk to make note of all thy poor old teacher was able to tell thee. Again I see thee in the ranks,— thy rifle upon thy shoulder,— so bravely erect during the military exercises. Even now thy face is before me, with its smile, as plainly as if thou wert present in the body;— thy voice I think I hear distinctly as though thou hadst but this instant finished speaking; yet I know that, except in memory, these never will be seen and heard again. O Heaven, why didst thou take away that dawning life from the world, and leave such a one as I — old Shōkei, feeble, decrepit, and of no more use?

   'To thee my relation was indeed only that of teacher to pupil. Yet what is my distress! I have a son of twenty-four years; he is now far from me, in Yokohama. I know he is only a worthless youth; [15] yet never for so much as the space of one hour does the thought of him leave his old father's heart. Then how must the father and mother, the brothers and the sisters of this gentle and gifted youth feel now that he is gone! Only to think of it forces the tears from my eyes: I cannot speak — so full my heart is.

   'Aa! aa! — thou hast gone from us; thou hast gone from us! Yet though thou hast died, thy earnestness, thy goodness, will long be honoured and told of as examples to the students of our school.

   'Here, therefore, do we, thy teachers and thy schoolmates, hold this service in behalf of thy spirit,— with prayer and offerings. Deign thou, 0 gentle Soul, to honour our love by the acceptance of our humble gifts.'

 

   Then a sound of sobbing is suddenly whelmed by the resonant booming of the great fish's-head, as the high-pitched voices of the leaders of the chant begin the grand Nehan-gyō, the Sutra of Nirvana, the song of passage triumphant over the Sea of Death and Birth; and deep below those high tones and the hollow echoing of the mokugyo, the surging bass of a century of voices reciting the sonorous words, sounds like the breaking of a sea:

    'Shō-gyō mu-jō, je-sho meppō.—Transient are all. They, being born, must die. And being born, are dead. And being dead, are glad to be at rest.'

 

15 Said only in courteous self-depreciation. In the same way a son, writing to his parent, would never according to Japanese ideas of courtesy and duty sign himself Your affectionate son,but your ungrateful, or unloving son.

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