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2015/11/22

柳田國男 蝸牛考 初版(12) 命名は興味から

 

 

  命名は興味から

 

 

 三河と尾張との境即ち又ちやうど二つの方言領の接觸する處に、蝸牛をネギロといふ小區域のあることも亦一つの特例ではあるが、是などはマイマイドンの説明から類推して、大よそはその起りがわかるやうな氣がする。人に譬へられた色々の小さな生物の中で、ネギドノといふものには「ばつた」がある。この蟲のいわゆる機を織る容子を、禰宜が起居して拜をする身ぶりに思い寄せたのである。信州の上伊那では蟷螂をネギサマ、是もあの蟲が臂を張り手を高く上げる姿を見て、多くの民族で「おがみ蟲」と名づける位だから、さもあるべきことと思はれるが、蝸牛の擧動に至つては實はそれほどの類似は無い。何か今一つ以前の下染が無かつたならば、さう容易には斯んな語は浮び出なかつたと思ふ。同じ地方には亦キネキネともいふ語があるが、つまり其キネなりネギなりは、もと神の前に出て舞を舞ふ人の名であつた故に、戯れて蝸牛をさう呼ばうとする心持が、すでにマイマイの語を知つて居る周圍の人から、存外容易に承認せられ得たのであつて、外形は變つていてもこれもまたマイマイ領域の、一つの邊境現象と見るべきものかと思ふ。

 

 此の解釋が必ずしも強辨附會でないことは、我々の祖先の物に名を付ける力が、ことに他民族に優れて活々として居たことを、考へて見るのが一つの證明法である。それには實例は幾らでも擧げられるが、議論の或は放漫に流れんことを憚つて、玆にはたゞ一つの最も蝸牛と關係の深いものを、稍詳細に説いて見ようと思ふ。關西の方面では隨分古くから、別に今一つマイマイと呼ばれる小さな蟲があつた。それは標準語でミヅスマシといふ蟲であつて、地方によつて次々の異名が案出せられ、又少しづゝは採擇もせられて居るのであるが、この語の行はるゝ區域では、何とかして是と蝸牛のマイマイとに、差別を立てる必要があつた。これが蝸牛の方に色々の複合形が出來、又デエデエムシその他の新しい方言が、夙に此語を押除けて、代つて勢力を布くに至つた隱れた原因の一つでもあつたらしい。ところが其「水澄まし」のマイマイの方を、津輕地方では又ミコと謂ひ、中國の山地の蝸牛をマイマイといふ村々では、ミコノマヒなどとも名づけて居たのは、やはり亦マイマイといふ元の名から、轉じて舞を舞う人の名を宛つるに至つた一例である。

[やぶちゃん注:「ミヅスマシ」ここで鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ(水澄まし)類を関東の読者の大方は認識するであろうし、私もそれ以外を想起しない(ミズスマシ類は日本では三属十七種類ほどが知られる)。ところが、実際には「ミズスマシ」と言う呼称は半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボ(あめんぼう・飴棒・飴坊)の、強力な全国的広汎性を持つ別名でもあることが次段で明らかにされ、実は筆者柳田自身(彼は明治八(一八七五)年旧飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡田原(たはら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町辻川生まれで十二になるまでここで過ごした)にとっても「ミヅスマシ」は生物種としては「ミヅスマシ」ではなく「アメンボ」であったことも明らかにされる。

「デエデエムシ」改訂版では「デェデェムシ」。

「ミコ」「ミコノマヒ」「巫女」「巫女の舞」で、私は寧ろ、「ネギドン」「ネギドノ」「禰宜どん」「禰宜殿」との包括性とその近縁区別をこそ指摘すべきと思う。]

 

 元來ミズスマシといふ名稱は、わが邦の北と南の半分づゝで、全然別々の二種の蟲に付與せられて居る。そうしてその語音の上品であるために、雙方ともこれを標準語の如く、思つて居るが故に誤解がある。關西方面でミヅスマシといふのは、本草の水黽であつて、東京では誤つてミズクモといい、他の地方では又飴の香がする故にアメンボウだの、ギヨウセンだのアメヤノオカタだのともいふ足の長い蟲である。あるいは嘗めてみると鹽辛い味がするといふことで、若狹其他でシオウリ、播磨出雲でシホカイ、土佐でシホタキ、伊豫の大洲などでシホンシホ、またはシヨウタロウなどゝいふ異名も行はれて居た。是にも比較をしてみれば面白い變化があるのだが、それ迄は玆には説かない。次に他の一種關東でいふミヅスマシの方は、即ち本草に鼓蟲とあるものに宛てられて居る。これこそは自分等が少年の頃にマイマイ蟲と呼んで、その奇拔なる水上の遊戯を、飽かず觀賞して居た夏日田圃の一景物であつたのである。

[やぶちゃん注:「元來ミズスマシといふ名稱は、わが邦の北と南の半分づゝで、全然別々の二種の蟲に付與せられて居る」松原利吉氏のサイト内の「能登方言」の頁の「方言コラム あめんぼう(水馬)」を見ると、その広汎性(かなり西日本寄りではある)が大変良く分かる。松原氏はその冒頭で『あめんぼうの方言調査を始めた頃「ミズスマシ」と、答えられる人があり、うんざりしたものである。ところがこの言葉、実は貴重な「あめんぼう」 の全国的方言だったことを知り驚いた』と実体験を示されておられ、『「大言海」の「みずすまし」に(一)は「あめんぼう」で(二)は「まいまい虫」である』と記しておられる。そこで私の持つ「言海」を引いて見た。

   *

みづすまし(名)水澄(一)水蟲ノ名、畿内ノ語、ミノ長サ五六分、幅一分、薄黑ニシテ、小白斑アリ、翅アリ、四脚、長クシテ、蜘蛛ノ如ク、後脚、最モ長シ、常ニ緩流ノ水面ニ上下シテ、小蟲ヲ捕リ食フ、水涸ルレバ、飛ビテ他水ニ移ル、體ニ水飴ノ氣アリ、故ニ、東京ニテ、あめんぼうノ名アリ。又、ミヅグモ、カツヲムシ、シホウリ。水黽(二)まひまひむしノ一名。(東京)鼓蟲

   *

とある(因みに筆者大槻文彦自身は江戸生まれではある。なお、彼の父は仙台藩藩校養賢堂学頭であった大槻磐渓であるが、彼の父はかの蘭学者大槻玄沢である)。これはどうみても半翅目異翅亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボこそが正当な「ミズスマシ」の和名であることを暗示させるところの優勢記載であり、何故、現在のような標準和名決定がなされたのか不審が起こる。通常はその種に同定記載した文献記載の最も早いものが標準和名とされるが、この「言海」の記載を見る限りでは、どうみてもだったら、現在の「アメンボ」は「ミズスマシ」であり、鞘翅目飽食亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae の「ミズスマシ」類は「マイマイムシ」で落ち着くことになるはずであったと思われる(但し、個人的には「マイマイムシ」は悪くないものの、「アメンボ」が消えてしまうのは大いに哀しい)。どうもおかしい。先の和名決定は原則であって、明治期の決定にはとんでもない恣意性が加えられており、特に帝都東京の方言を優先的に標準とする考え方が標準和名制定に大きな影響力を持ったのではないかということは想像に難くない。私は昆虫は苦手であるので、識者の御教授を是非とも乞うものである。なお、松原氏の掲げる能登半島で採取されたアメンボの方言異名には「ミズタンボ」(内浦町松波/水蜻蛉)・「ミズグモ」(穴水町鹿波/水蜘蛛)・「ミズノカンサマ」(珠洲市寺家・能都町姫/水の神様)・「ミズノカンヌシ」(内浦町行延/水の神主)他、多彩な面白い呼称を知れる。また、リンク先には本「蝸牛考」張りの分布地図(「全国方言辞典」のもの?)も載る。必見!

「本草」通常、単にこう言ったら明の李時珍の「本草綱目」を指す。「蟲之四」に「水黽」(あえて音読みするなら「スイバウ(スイボウ)」に(引用は中国語繁体字版ウィキ「維基文庫」の原文を参考にしつつ、一部の表記を個人的に変更したもの)、

   *

水黽(「拾遺」)【釋名】水馬(「拾遺」)。【集解】藏器曰、『水黽群游水上、水涸即飛。長寸許、四脚。亦名水馬、「非海中主産難」』。海馬之水、時珍曰、『水蟲甚多、此類亦有數種。今有一種水爬蟲、扁身大腹而背硬者、即此也。水爬、水馬之訛耳。一種水蠆、長身如蠍、能變蜻蜓』。【氣味】有毒。【主治】令人不渴、殺雞犬(藏器)。

   *

とある。この記載も甚だぶっ飛んでいて、柳田先生、「本草の水黽であつて」と平然と言えるもんではありんせんよ。せいぜい、貝原益軒の「大和本草」ぐらいにしといておくんない(私の電子訳注テククスト「卷之十四 水蟲 蟲之上 水黽をどうぞ)。

「飴の香がする」あまり理解されているとは思われないので再掲するとアメンボは半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae に属する昆虫類の総称で、例の臭いカメムシ(カメムシ亜目 Heteroptera)の仲間であるから、特定の捕食生物が忌避する臭いを出す臭腺を持っている。この臭いが人間にとっては他のカメムシと異なり、飴の匂いに感じられるというだけの話である。

「ギヨウセン」意味不明であったが、検索したところ、個人サイト「き坊の棲みか」の「かから団子について」に、島原半島では「芋飴」のことを「ギョウセン」と称することが判明、「日本国語大辞典」から引用されておられる。私も所持するので改めて引用する(下線やぶちゃん)。

   *

ぎょうせん【地黄煎】〔名〕(「じおうせん」から「じょうせん」となりさらに変化した語) 水飴のこと。漢方の地黄を煎じたのに水飴を混ぜて、飲みやすくしたのが元で、のちにただの水飴や竹の皮に引き伸ばした飴、固形の飴の名称になった。[やぶちゃん注:例文中略。]昆虫「あめんぼ(水黽)」の異名。[やぶちゃん注:例文略。]

   *

同辞典では以下「方言」の項で、『固めの水飴のような物』の意で名古屋が、『水飴』の意で静岡・愛知・鳥取・岡山・広島・徳島・香川・愛媛県が、『あめ』(飴であろう)として、愛知県・大阪府・長崎県・島根県隠岐が採集地として挙げられてあるから、これは「アメンボ」の西日本系の異名とも思われる。疑問氷解!

「伊豫の大洲」現在の愛媛県大洲市。

「本草に鼓蟲とあるもの」「本草綱目」ではまさに「蟲之四」で「水黽」の次に載る(引用及びポリシーは同前)。

   *

豉蟲(「拾遺」)【釋名】豉母蟲。【集解】時珍曰、『陳藏器「拾遺」有豉蟲、而不言出處形狀。按、葛洪「肘後方」云、「江南有射工體有瘡。取水上浮走豉母蟲一枚、口中含之便瘥、已死亦活。此蟲正黑、如大豆、浮游水上也。今有水蟲、大如豆而光黑、即此矣。名豉母者、亦象豆形也』。【氣味】有毒。【主治】殺禽獸、蝕息肉、敷惡瘡(藏器)。

   *

これは明らかに鞘翅目飽食亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類である。]

 

 このマイマイ蟲も圓く渦を描いて、水面を遊びまはつて居た。京都近くの村にはウヅムシといふ異名があり、上總では又ミズグルマともいつた。水澄ましといふ名前もこれから出たのであつて、或は最初には是もまた蝸牛と同じく、渦卷きを意味するマイマイであつたのかとも思ふが、後には確かに舞を舞ふ者といふ意味に、解せられて居たといふ證據がある。それにはおそらくは蝸牛とは似ても付かぬ此蟲の輕快なる動作が、特に命名者たちの空想を促したものと考へられるのである。そこで順序を立てゝ各地の方言、方言とまでは成長しなかつた個々獨立の異名を比べてみると、第一にはこの蟲の活動期、殊に多くの子女によつて注目せられた時期の、田植の前後であつたことが其名に現れて居るのである。

 

   シロカキムシ      仙臺、四國でも

   タウエムシ       越中

   サヲトメ        東京近郊、上州等

   ソウタメ        加賀越中など

   ヒヨウタメ       越中

 

 ミズスマシが此樣な異名を得た事情は、以前の村々の五月少女の歌淸く、笑い花やかであつた光景を知る者ならば、容易に想像し得ることであらう。その田人たちが苗取り終つて家路に向ひ、やゝ田の水の靜かになる夕暮方などに、此蟲は出て來て水の上を遊んだのである。それ故に又この蟲の名は、おのづから「水澄まし」であつた。

 

   スメスメ        土佐

   スミスミ        備後

   カスメ         奧州南部

   スメ          信州

   トメトット       奧州八戸

 

などといふ名稱に至つては、更に一歩を進めて命令形にさへなつて居るから、恐らくは亦子供たちの思ひ付であつたらう。即ち濁つた器の水などを搔きまはして、その沈澱を待ち兼ねるやうな心持を、この小さな蟲の擧動の中に見出したなどは、到底年とつた者ばかりの談合では思ひ浮ばぬことであつた。或はこれに伴なうて歌があり、又は童話などがあつたのかも知れないが、さうで無いまでも此空想には多分の餘裕があつた。

 

   ジカキムシ       羽後、越中、壹岐

   ジーカキムシ      越後西蒲原郡など

   ジヨウカキムシ     加賀

   イロハムシ       上總夷隅郡、遠江濱名郡

   エカキムシ       佐渡

   カイモチカキ      大阪、四國某地

[やぶちゃん注:「羽後」旧羽後国。現在の秋田県の内、鹿角市と小坂町を除いた大部分と、山形県の飽海(あくみ)郡及び同じ山形県の酒田市の内の最上川以北部分に相当する。

「遠江濱名郡」静岡県の旧郡。ほぼ現在の浜名湖西岸の湖西市の西端の一部(白須賀・境宿)に相当する。]

 

 カクといふところから搔餅にまで、幼なき人々の想像は馳せたのである。實際またさうする親姉たちの手つきなどを、聯想せしむるに足るやうなこの蟲の舞ひ方でもあつた。それからさらに目に近い出來事にたとえたのは、

 

   ゴキアライムシ      水戸、周防、薩摩等

   ゴキアレ         肥前北高來郡

   ゴキマハシ        上州

   ゴキマイリ        近江

   ワンアラヒ        肥後玉名郡

   ヲケアラヒ、ヨケアラヒ  同上

   ワンコアライ       羽後河邊郡

[やぶちゃん注:「肥前北高來郡」「きたたかきぐん」と読む。現在、長崎県諫早市の一部。

「肥後玉名郡」現行でも残る郡名であるが、ここでの謂いは現在の熊本県北部有明海沿岸域の玉名市を含むものと考えるべき(玉名市の発足は昭和二九(一九五四)年)。

「羽後河邊郡」現在の秋田市の一部と大仙市の一部に相当する旧郡。]

 

 ゴキといふのも木の椀の古名である。陶器の茶碗が一般になつてから後は、もう其樣に丁寧な洗ひ方はせぬのだが、それでもまだ蟲の名前だけは殘つて居る。即ち今日の不可解は、却つて前代生活の特徴を窺はしむべき便宜ともなる所以である。マイマイが後に神人のことに解せられるに至つたといふことも、蝸牛についてまだこれを疑ふ人があらうけれども、鼓蟲の方だけはもはや十分に明白で、その事實が無かつたならば、到底次のやうな異名は發生し得なかつた。

   ミコノマイ       美作

   ミコマヒ        備前岡山

   ネコマヒ        同 西大寺

   ムコマヒ        播州熊野

   ミコ          奥州津輕

   スイジンサマ      伊豫吉田町

   イタコムシ       四国某地

[やぶちゃん注:「西大寺」現在の岡山県岡山市東区西大寺。旧西大寺市。

「播州熊野」現在の兵庫県神戸市兵庫区熊野町のことか。JR兵庫駅の北北西二キロほどに位置する。

「伊豫吉田町」愛媛県の南予地方にあった旧吉田町(よしだちょう)。現在は宇和島市の一部。]

 

 イタコといふ女性も、今日では奧州より外の地には居ないが、是亦歌舞を業とする一種類の巫女の名稱であつた。足利時代の職人盡の畫の中に、イタカとある者がこれと同じであるらしきこと、及び沖繩の島に今でも居るユタといふ巫女も、起原は一つであるかと思ふことは、曾て私も少しく論じたことがある。そのイタコといふ語が蟲の名になつて、四國の何れかの地方に殘つて居たことは、本草啓蒙がこれを錄して居るので、即ち今は既に絶え果てたものゝ、至つて幽かなる痕跡であつたのである。

[やぶちゃん注:「イタコ」ウィキの「イタコ」より引く(記号の一部を省略した)。『日本の東北地方などで口寄せを行う巫女で巫の一種。シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職で』、特に『先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業であった』。『イタコには霊的な力を持つとされる人もいるが、実際の口寄せは心理カウンセラー的な面も大きい。その際クライアントの心情を読み取る力(一種のコールドリーディング)は必須であるが、本来は死者あるいは祖霊と生きている者の交感の際の仲介者として、氏子の寄り合い、祭りなどに呼ばれて死者や祖霊の言葉を伝える者だったらしい』。『イタコは占いの際数珠やイラタカを用いるが、一部のイタコは、交霊の際に楽器を用いることがあり、その際の楽器は梓弓(あずさゆみ)と呼ばれる弓状の楽器が多い。他に倭琴(「やまとごと」、または「わごん」)や太鼓なども用いられる。これらは農村信仰などで用いられた日本の古代音楽の名残とされ、日本の伝統音楽史において現存するうちの最も古いものの一つとされる』。『口寄せ以外にもイタコには「オシラアソバセ」を執り行う役目がある。「オシラアソバセ」とは、東北の民間信仰であるおしら様の御神体である二体の人形を遊ばせることである。オシラサマは各家庭に祀られており、一部地域ではその家庭の家族の代わりにイタコがおしら祭文を読み上げる。オシラサマのベースである杓子、瓢や柄杓に関する信仰を膨大に集め、これが「魂を集める採り物」であるとした柳田國男の説を承けた折口信夫によれば、これはマナを寄せるための依り代である』。『東海道中膝栗毛等に登場する、イチコとよばれる巫女は、常陸の国や京阪地方では、「神社に座し湯立てをする」巫女の称であるが、東京近辺ではイタコの様な巫女を指す』。『沖縄県や鹿児島県奄美群島にはユタという在野の霊能力者が、イタコに似た霊的カウンセリングを生業とすることで広く知られており、こちらは葬祭そのものを扱うことも多い』。『イタコの語源についてはいくつかあり、沖縄のユタの韻との共通性、「斎く」(いつく)が転化したイチコからの変化、神の委託をする委託巫女であるとするもの、アイヌ語の語るの意味イタック等からの変化、神降ろしの巫具としての板が用いられたこと等の通説がある』。『柳田國男は、アイヌ語で「神がこう仰った」の意味のitak説や、御倉板挙神はミクライタケノカミと読み、神の御言を伝える物の神格化ではないかとする説等を紹介しながら、イタコの語源は斎(イツキ)であり、それが元の儀礼を襲いながら零落し神にせせられて放浪するようになった者の一部が、イタコ、エチコ、イタカ、イチコ、モリコと呼ばれたとした』とある。

「曾て私も少しく論じた」柳田が『人類学雑誌』に発表した(明治四四(一九一一)年九月及び十一月と翌年二月の三回連載)『「イタカ」及び「サンカ」』のことであろう。

「そのイタコといふ語が蟲の名になつて、四國の何れかの地方に殘つて居たことは、本草啓蒙がこれを錄して居る」前注で示した『「イタカ」及び「サンカ」』の第一章の最後で昆虫の現行の『水スマシ』(ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類)のことを挙げ、『四国の東部にてはイタコ蟲と呼ぶといへり』と記す。「本草啓蒙」は江戸後期の本草書「本草綱目啓蒙」のこと。全四十八巻。享和三(一八〇三)年刊。時珍「本草綱目」についての小野蘭山の口授である「本草紀聞」を、彼の孫と門人が整理した「本草綱目」の解説書。引用に自説を加え、さらにここに出るように方言名も記している。同書の「卷之三十八蟲部」の『鼓蟲』の条は『ミヅスマシ〔江戸防州〕 ゴキアラヒムシ〔同上水戸防州薩州備前〕』と始まり(〔 〕は二行割注)、その途中に『イタコムシ〔四國〕』とある(私は同書を所持しないので国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を視認して起した)。]

 

 是等各府縣のマイマイ蟲の異名が、たとへば小兒によつて又は小兒の愛護者によつて、案出せられたか否かは決し兼ねるにしても、少なくともそれが最初から唯一つの、持傳へて失はなかつたものであるといふことを、明言し得る人は恐らくはあるまい。物の名は此通り幾つも出來、また幾つも消えて無くなつて、結局時代々々の人の心に、最も興あるものが力強く生きるのであつた。單に人間が語を選擇する能力を具へて居たといふ以上に、更に現在の古語なるものに、その又一つ前の異なる形のあつたこと、及び現在我々の話して居るものも、やがてはより適切なるものに改まるべきことも、之に由つて證明せられたわけで、從うて何が其推移の元の齒車であつたかといふ問題が、いと大切になつて來るわけである。若しも私が童兒の力といふことに、餘りに重きを置きすぎる嫌ひがありとすれは、或はこれを人間の子供らしさの、力と言つてもよいか知れない。兎に角に言語を決定するのは學士院、その他氣六つかしい學者たちの寄合では無かつた。彼等は唯文章に使はるべき言葉の好惡を言ふだけで、所謂俗語の活躍を抑制する力は有たなかつた。鼓蟲を單にマイマイと謂つたのは、京都を中心として大和近江、越前にも紀州にも見出される。耳の方言としての領域は、恐らくまだずつと廣いことゝ思ふ。私の生れた播州の中部でも、さう謂つて通じはするが普通にはゴマイムシと謂ひ、又附近の諸郡にはゴマメムシといふ者さへあつて、小兒は之に由つて亦新たに、胡麻の色形などを聯想して居たやうである。近江の湖東の村にはゴママイリといふ例もあつた。京都も賀茂あたり、又越前の一部ではマイマイコンゴウ、伊勢の南の方ではマイマイコンボとも謂ふ者があつた。此等も七音節だから、恐らくは亦童詞に基づくものであらう。さうして同時に又幼年の者が、一人で旋轉して遊ぶこと、即ち東京でキリキリマヒなどゝいふ遊戯にも、半ばは意識して同じ語を流用して居たのは、恰も春の野に摘む土筆といふものに、秋啼く蟬の名のツクツクホウシを流用したり、雉子の親鳥を詠じたケンケンバタバタといふ歌言葉を、其儘片足飛の遊戯の名として居たのと同じことで、以前に別の語がなかつたのでは無く、寧ろ其反對に有つて餘りに平凡になつた爲、斯うして新たなるものを歡迎したものであつたらうと思ふ。

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