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2015/11/24

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (七)

       七

 

 上市と云ふ寂しい小さい村の近くで、私は名高い聖い樹を見物するためにしばし休息する。それは大通りに近いが低い丘の上の森の中にある。その森に入ると、三方が甚だ低い崖で圍まれた小さい谷のやうな處へ出る、その上の方へ計られぬ程老いた巨大な松の樹が何本か聳えて居る。その大きなうねつた根は崕の表面を貫いていわを割つて出て居る。それからその交つた桧葉はその盆地に綠のたそがれを作つて居る。一本は甚だ妙な形の大きな根を三本つき出して居るが、その端(ハシ)が何か祈禱の文句を書いた長い白い紙や、海草の供物で卷いてある。何かの伝説によるよりは、むしろこの根の恰好が一般の信仰から見てこの樹を神聖にしたらしい、それは特別の崇拜の目的物である、そして小さい鳥居がその前に建ててある、それには最も不器用なそして妙な種類の奉納文がのせてある。私はその飜譯をここに出す事はさし控へる――しかし人類學者や民俗學者にはたしかに特殊の興味があるに相違ない。樹木の崇拜或は少くとも樹木のうちに存在すると想像される神の崇拜は大多數の原始的種族に多分共通な、そして以前は日本にも博く行はれた、生殖器崇拜の珍しい遺物である。實際それが政府によつて禁止されてから二三十年にもなるままい。小さい盆地の向う側に、大きな、堅くない岩の上に同じく不器用な、同じく妙な物――祈禱者の物が置いてあるのを見る。二つの藁人形――互にもたれかかつた男女の人形である、細工は子供らしく不器用である、それでも藁一本で女の髮を巧みにまねて女は男と區別ができる。それから男には、今封建時代の老年の殘存者しかもたない丁髷がついて居るから、私はこの祈禱者の物は何か古への、そして全く慣習的模型によつて造られたものであらうと思ふ。

 さてこの奇妙な奉納物はそれ自身問はず語りをしてゐる。愛し合つて居る二人の男女は男の過ちで別れる事になつた、多分どこかの女郎に迷うて女に不實をする氣になつたのであらう。それから不實をされた女はここに來て迷の雲を晴らし、誤れる心を直して貰ふやうに神に祈つた。その祈りは聞き屆けられた、二人は再び一緒になつた、それで女はそのために二つの妙な人形を自分の手で造つて、――彼女の無邪氣な信仰と感謝の心のしるしとして――松の樹の神に捧げた。

 

[やぶちゃん注:一対の古び萎れた陰陽(いんよう)の人形(ひとがた)から、こんなに美しく素晴らしい文学的空想を出来る日本人が、今、どれほどいるだろう? ハーン先生、私は恥ずかしい気になりました……

「上市」既に述べた通り、第六章 盆踊 (四)に出る、現在の鳥取県西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)上市(山陰本線刺下市駅の海側の字名として残る)であるが、原文は「かみいち」とあるものの、これは少なくとも現行では「うはいち(うわいち)」と読むのが正しい。

「聖い樹」個人ブログ(男性/HM非公開)「同行二輪」の民俗学考 その1 木ノ根神社によって、鳥取県西伯郡大山町松河原の木ノ根神社(逢坂木ノ根神社)であることが判った。山陰本線下市からほぼ西に一・五キロメートルほどの位置に現存する。リンク先の記事によれば御神体は男根に似た松の根であるとし(ハーンの言う通りの典型的古典的な陽物崇拝である)、『御利益は当然、子宝、縁結び』、『正面扉の格子から中を覗くと、地面には多数の男根の奉納物と小さな祠がある。その後ろに確かに巨大な木の根があるのだが、屋根で覆われているために全体像がつかめない。枯れ木の幹という以外にどの様な形なのかは全くわからない。肝心の三本あるのかどうかもはっきりしない』(ブログ主はこの前でハーンのこの箇所を案内板と記念碑から引用されておられる。若干、表記に問題があるが、平井呈一氏の訳文である)。『結論としては、相当、初心(うぶ)な乙女でもこれなら大丈夫だろう。因みに、国道沿いにある木の根まんじゅうというのは、シンボライズした形の大きな饅頭だ』とある。陽物崇拝、「金精様(こんせいさま)」については種々のテクストで数多、注をしてきたのでここで改めて注することはしない。例えば耳嚢 卷 金精神の事/陽物を祭り富を得る事などの私の注を参照されたい。]

 

 

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   Near a sleepy little village called Kanii-ichi I make a brief halt in order to visit a famous sacred tree. It is in a grove close to the public highway, but upon a low hill. Entering the grove I find myself in a sort of miniature glen surrounded on three sides by very low cliffs, above which enormous pines are growing, incalculably old. Their vast coiling roots have forced their way through the face of the cliffs, splitting rocks; and their mingling crests make a green twilight in the hollow. One pushes out three huge roots of a very singular shape; and the ends of these have been wrapped about with long white papers bearing written prayers, and with offerings of seaweed. The shape of these roots, rather than any tradition, would seem to have made the tree sacred in popular belief: it is the object of a special cult; and a little torii has been erected before it, bearing a votive annunciation of the most artless and curious kind. I cannot venture to offer a translation of it — though for the anthropologist and folk-lorist it certainly possesses peculiar interest. The worship of the tree, or at least of the Kami supposed to dwell therein, is one rare survival of a phallic cult probably common to most primitive races, and formerly widespread in Japan. Indeed it was suppressed by the Government scarcely more than a generation ago. On the opposite side of the little hollow, carefully posed upon a great loose rock, I see something equally artless and almost equally curious,— a kitōja-no-mono, or ex-voto. Two straw figures joined together and reclining side by side: a straw man and a straw woman. The workmanship is childishly clumsy; but still, the woman can be distinguished from the man by .the ingenious attempt to imitate the female coiffure with a straw wisp. And as the man is represented with a queue,— now worn only by aged survivors of the feudal era,— I suspect that this kitōja-no-mono was made after some ancient and strictly conventional model.

   Now this queer ex-voto tells its own story. Two who loved each other were separated by the fault of the man; the charm of some jorō, perhaps, having been the temptation to faithlessness.

   Then the wronged one came here and prayed the Kami to dispel the delusion of passion and touch the erring heart. The prayer has been heard; the pair have been reunited; and she has therefore made these two quaint effigies 'with her own hands, and brought them to the Kami of the pine,— tokens of her innocent faith and her grateful heart.

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