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2015/11/27

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二)

       二

 

 オキノクニ即ち隱岐の國は出雲の海岸から百哩許りの、日本海の二群の小島から成つて居る。近い方の一群の名の島前(ダウゼン)は、種々な小島のほかに、互に近く存在して居る三つの島を含んで居る。チブリシマ即ち知夫里島(時にヒガシノシマ即ち東の島とも呼ぶ)、ニシノシマ即ち西の島、及びナカノシマ即ち中の島がそれである。このいづれよりも遙か大きいのは主島たる島後(ダウゴ)で、その多くは人の住んで居ない種々な小島と共に他の一群を爲して居る。オキといふ名はもつと一般にこの群島全部に用ひるのであるが――この島を時にオキと呼ぶ。

 公には隱岐は四つコホリ即ち郡に分たれて居る。知夫里と西の島と一緒になつて知夫里郡を成し、中の島が小島一つ添へられて海士(あま)郡をつくり、島後(だうご)は隱地(おち)郡と周吉(すき)郡とに分たれて居る。

 此等の島はいづれも山が多くて、その面積のほんの一少部分しか耕やされて居らぬ。主たる財源は漁業で、住民の殆んど全部が太古からして常にそれに從事し來たつて居る。

 冬の幾月間は隱岐と日本西海岸との間の海は小舟に取つては太だしく危險で、その季節には島は本土とは餘り交通はしない。たつた一艘の客用汽船が隱岐へ伯耆の境から通ふ。直線では伯耆の境から隱岐の一番の港の西郷までの距離は三十九里だといふ。だが、汽船は其處への途中他の島々に寄港する。

 隱岐には小さな町が、否むしろ小さな村が、隨分と澤山ある。そのうち四十五は島後に在る。その村は殆んど總て海岸に位して居る。主要な町には大きな學校がある。全島の人口は三萬〇百九十六人だと述べてある。が、町々村々のそれぞれの人口は書いて無い。

 

[やぶちゃん注:隠岐に行ったことがない方は勘違いしている人が多いと思われるので、まず最初に述べておくが、「隠岐島(おきのしま)」という「島」はどこにも存在しない。あるのは島根県隠岐郡の「隠岐諸島」である「隠岐」である。群島の南西にある「島前(どうぜん)」地域と、その東北部の海域である島後(どうご)水道を境として、群島東北の「島後(どうご)」地域に分けられ、「島前」は「島前三島(どうぜんさんとう)と呼ばれる主要な有人島である「知夫里島(ちぶりじま)」(隠岐郡知夫村)・「中ノ島(なかのしま)」(海士町(あまちょう))・「西ノ島」(西ノ島町。島前地域の中心地)の三つの島と小島から構成される群島であるのに対し、「島後」は、この島前(どうぜん)三島から島後水道(凡そ十二キロメートル)を隔てた「島後(どうご)」と呼ぶ島(隠岐の島町)の一島で構成されている(「島後島」「どうごじま」などとは現地でも行政上でも呼ばないので注意されたい)。主な島はこの四島であるが、付属する小島群は約百八十を数える。「島後(どうご)」は島面積が約二百四十二平方キロメートルに及び、日本では鹿児島県大島郡の奄美群島の「徳之島」に次いで大きく、島嶼としては十五番目の広さを持つ(以上の後半の数字データでウィキの「隠岐諸島」を参考にした)。

「百哩」約百六十一キロメートル。試みに計測してみると、最も本土に近い知夫里島の獅子鼻から最も近いと思われる出雲半島の海岸の多古鼻(たこばな)までは直線で、四十四キロメートル弱、他方、島後(どうご)で最も本土に近い一つである鷹取崎から同じく出雲海岸で最も近いと思われる美保関七類までを測ると、凡そ六十六キロメートルであった。

「公には隱岐は四つコホリ即ち郡に分たれて居る。知夫里と西の島と一緒になつて知夫里郡を成し、中の島が小島一つ添へられて海士(あま)郡をつくり、島後(だうご)は隱地(おち)郡と周吉(すき)郡とに分たれて居る」現在は既に示した通り、隠岐郡で海士町・西ノ島町・知夫村・隠岐の島町の計三町一村から成る。ここに出るのは明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した当時のものである。「知夫里郡」は知夫郡が正しいと思われ、現在の隠岐郡西ノ島町と知夫村に相当する。「海士郡」現在の海部町と同域で、「隱岐郡」は現在の隠岐の島町である島後(どうご)の凡そ西半分、「周吉郡」同じく東半分に相当する。なお、ここで「中の島が小島一つ添へられて海士郡をつくり」と言っている「小島」は、旧海士郡郡域を見るに東北沖に浮かぶ大きな「松島」のことを指していると私は読む。

「主たる財源は漁業で、住民の殆んど全部が太古からして常にそれに從事し來たつて居る」二〇一三隠岐支庁の「隠岐要覧」(PDF)によれば現在でも、『生産額を見てみると、第一次産業うち水産業の生産額は高く、県全体の約4割を占めている』とある(下線やぶちゃん)。現在は他に、島外移出用としての『白小豆、しいたけ、花など』、『また、島内自給用として野菜栽培が進められている』。『畜産は伝統的な放牧による肉用牛繁殖経営が主であり、繁殖雌牛頭数は県下の約2割を占めている。放牧地では、牛とともに馬も放牧されており、海を背景に草を喰む牛馬は観光資源ともなっている』。『林業は、気候・土質に恵まれ歴史は古く、スギを主体とした人工林率は県平均を上回っている』とある。

「三十九里」約百五十三キロメートル。地図上で単純に現行の汽船航路の境港からの西郷までの距離を計測すると凡そ八十キロメートルほどである。

「全島の人口は三萬〇百九十六人だと述べてある。が、町々村々のそれぞれの人口は書いて無い」ハーンの見たガイドブックの隠岐群島の総人口は、

       30196人

であるが、ウィキの「隠岐郡」によると、二〇一五年十月一日現在の推計総計人口は、

       20221人

とする。実に百二十三年前との単純比較では一万人近くも差がある。但し、平成二七(二〇一五)年八月十九日更新のクレジットのある島根県隠岐支庁作成(PDF)では昭和二五(一九五〇)年の総人口は、

       44842人

もいたことが判る。さらに上記の隠岐支庁のデータを見ると、現在の隠岐郡の各町村の人口は、

 海士町    2330人

 西ノ島町   2913人

 知夫村     597人

 隠岐の島町 14562人

で、隠岐郡全体では、

       20402人

とある。軽々に比較は出来ないものの、ウィキのデータと比べると、たった一ヶ月強で百八十一人も減っていることになる。更に、この島根県隠岐支庁版にある人口推移(平成四十二年(!)までの推計を含む)を見ると、これまた、愕然とするものがある。]

 

 

.

   Oki-no-Kuni, or the Land of Oki, consists of two groups of small islands in the Sea of Japan, about one hundred miles from the coast of Izumo. Dozen, as the nearer group is termed, comprises, besides various islets, three islands lying close together: Chiburishima, or the Island of Chiburi (sometimes called Higashinoshima, or Eastern Island); Nishinoshima, or the Western Island, and Nakanoshima, or the Middle Island. Much larger than any of these is the principal island, Dogo, which together with various islets, mostly uninhabited, form the remaining group. It is sometimes called Oki—though the name Oki is more generally used for the whole archipelago. [1]

   Officially, Oki is divided into four kōri or counties. Chiburi and Nishinoshima together form Chiburigori; Nakanoshima, with an islet, makes Amagōri, and Dōgo is divided into Ochigōri and Sukigōri.

   All these islands are very mountainous, and only a small portion of their area has ever been cultivated. Their chief sources of revenue are their fisheries, in which nearly the whole population has always been engaged from the most ancient times.

   During the winter months the sea between Oki and the west coast is highly dangerous for small vessels, and in that season the islands hold little communication with the mainland. Only one passenger steamer runs to Oki from Sakai in Hōki In a direct line, the distance from Sakai in Hōki to Saigo, the chief port of Oki, is said to be thirty-nine ri; but the steamer touches at the other islands upon her way thither.

   There are quite a number of little towns, or rather villages, in Oki, of which forty-five belong to Dōgo. The villages are nearly all situated upon the coast. There are large schools in the principal towns. The population of the islands is stated to be 30,196, but the respective populations of towns and villages are not given.

 

1 The names Dōzen or Tōzen, and Dōgo or Tōgo, signify 'the Before-Islands' and 'the Behind-Islands.'

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