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2015/11/03

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (一)

      第十七章 家の内の宮

 

 

 

       一

 

 日本には死者の宗教が二種類ある――神道に屬するものと、佛教に屬するものと。前者は原始的な信仰で、普通には祖先崇拜と呼んで居る。が、祖先崇拜といふ言葉は、日本人種の祖先だと信ぜられて居る、古昔の神々に崇敬を拂ふばかりで無く、同じくまた神と祀られた君主英雄諸侯及び著名な人士の大勢にも崇敬を拂ふこの宗教に對して餘りに局限された言葉のやうに自分には思はれる。例を擧ぐれば、比較的近代のうちに出雲の大きな大名(だいみやう)が神に祀られた。そして島根の百姓共は、今なほ松平(まつだひら)の神社の前に祈を捧げる。その上神道には、希臘や羅馬の信仰の如くに、四大の神があり、あらゆる種々な人事を主宰する特殊の神がある。だから祖先崇拜は、猶、神道の著しい特徴ではあるけれども、それだけでこの國家的宗教は成つて居るのでは無い。またこの言葉は死者に就いての神道の信仰を――出雲では、日本の他の部分よりか、もつと多くその原始的性質を保留して居る信仰を――十分に述べ現しもしないのである。

 

 で、自分は決して漢學者ではないけれども、國民生活に佛教よりももつと深い根抵を爲して居る程であるのに、西洋では遙かにより少く知られて居る、その日本の國民的宗教に就いて――出雲のその古昔の信仰に就いて――此處で敢て少しく語つてもよからう。チエムバレン竝びに、サトウ如き博學な人の手になつた特殊の著書――西洋の讀者は、自分が專門家ならむ限り、日本の外に在つてそれに親しめさうには思はれぬ著書――の中には述べてあるけれども、神とは何ぞやの極く乏しい概念すら與へて居る、神道に就いて英語で書いてあるものは、殆んど全く無いのである。神道の古昔の傳説幷びに儀式に就いて、上に述べたこの兩言語學者の著書から、世にも稀な興味あることを多く知ることが出來る。が然し、サトウ氏が自ら認めて居らるゝやうに、『神道の本性は何か』といふ問に對しての明確な答はやはり與へにくい。神道には六種在ると知られて居て、其うちの或る物は外國の學者がまだ誰一人も、時問が乏しい爲め、或は機會が少い爲め、或は機會が無い爲め、檢べ得ずに居るのであるが、その六種の神道に共通な要素をどう説明するのか。その近代的な表面的な種類に於てすらも、ただ單にその進化發展の夥多の筋道を跡附け、且つその種々樣々な要素、即ち原始の多神教と物體禮拜、起原の疑はしい傳説、支那、朝鮮及び他の地方から來た――佛教と道教と儒教とが一緒に混合して居る――哲學的思想の根元を決定するだけにも、歷史家、言語學者及び人類學者の聯合力を要する程に、神道は頗る複雜である。所謂『純なる神道の復活』――外來的特徴を剝奪し、特にその起原の佛教的な表示徴候悉くを剝奪して、この信仰をその古代の單純さに還さうといふ、政府の援助を受けた、努力――は、その公言した目的だけを思ひ見れば、無限の價値ある藝術を破壞して、しかも起原の謎は依然として、元の如く複雜なるが儘に在るといふ結果を見るに過ぎなかつた。神道は十五世紀間の變化の道途に餘りに深く變化されてしまつて、斯く一片の法令で形成し直すことが出來なくなつて居る。同樣な理由で、單に歷史的幷びに言語的解剖によりて、國民倫理へのその關係を説明せんとする、學者的努力は失敗に終るに相違無い。それが出來る位なら、生命がそれを活動させる身體の要素によつて、の究極の祕密を説明することが出來よう。が、然しさういふ努力の結果が、日本人の思想と感情の――或る一つの特別階級ので無くて、汎く此國民全體の思想と情操の――深い知識と緊密に結合せられたであらうならば、その時初めて過去、幷びに現在の神道が充分に理解されるかも知れぬ。そして、自分は思ふに、これは歐洲と日本との學者の共同の努力に依つて、成遂げられることであらう。

 が然し、其信仰の單純な詩美に於て、子供の家庭訓練に於て、祖先の位牌の前での孝行の崇拜に於て、神道は何を意味して居るかといふことは、此國民の中に數年住居して居る間に、其國民同樣の生活をして、其風俗習慣を採用して居る者に依つて、幾らか知られるかも知れぬ。そんな經驗があれば、少くとも自己の神道觀を述べる權利は要求出來よう。

 

[やぶちゃん注:「比較的近代のうちに出雲の大きな大名が神に祀られた。そして島根の百姓共は、今なほ松平の神社の前に祈を捧げる」現在の松江市殿町の松江城二の丸(天守閣の南直下)にある松江神社の原形(後述)。ここの現在の祭神は松平初代藩主松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)・松江城を建造して本拠をそこに移した松江開府の祖堀尾吉晴(天文一三(一五四四)年~慶長一六(一六一一)年)・第七代藩主松平不昧治郷及び徳川家康の四柱という豪華大名メンバーを祀るが、ウィキの「松江神社」によれば主祭神を松平直政とする楽山神社が原形で、ハーンが述べているのもそれである。楽山神社は明治一〇(一八七七)年に『旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政を御祭神とするとして創建された』もので(現在の松江城東方の既出の推恵神社がある楽山公園附近か)、このハーンの叙述(本書の執筆は明治二四(一八九一)年)から七年後の明治三一(一八九八)年になって、寛永五(一六二八)年に『堀尾忠晴が朝酌村(現・松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を』『合祀』、翌年の明治三十二年になって、『現在地の松江城山二之丸に遷座して、神社を松江神社と改めた』とある。さらにそのずっと後の昭和六(一九三一)年に、『松江藩中興の明主として仰がれた七代藩主松平治郷と、松江開府の祖堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、今日に至っている』とある。

「四大の神」所謂、地神・水神・火神(雷神)・風神の神々。

「神道には六種在る」私は不勉強にもアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satowの著作を読んだことがなく、所持もしていないので不詳である。恐らくは一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“The revival of pure Shin-tau”(純粋神道の復活)の記載中に現われるのであろう。明治政府に認可された教祖や開祖の宗教的体験に基づく教派神道十四派(神道大教・黒住教・神道修成派・神宮教・出雲大社教・扶桑教・實行教・神道大成教・神習教・御嶽教・神理教・禊教・金光教・天理教。但しこの内、神宮教は明治三二(一八九九)年に財団法人神宮奉賛会となって離脱したため、行政上公認された神道系教団は一般に教派神道十三教派と呼ばれる時代が長く続いた、とウィキの「教派神道にはある)があるが、ここから六派を選ぶとなると、例えば「神道大教」公式サイト内の「教派神道とは」の中に、『古学的神道である神道大教、大社教、大成教、御嶽教、或は』『教祖神道中三派を除いた修成、實行、扶桑、神理、神習、禊の六派』を選んだ謂いは出るが、どう見てもこれではあるまい。何故なら、引用先を見るに、こ『の六派はいずれも古学的な神道理念を教理の中心としてその祭神奉斎の内容及び祀典等は類似したものである』とあるからである(差異がないものにサトウが興味を示すとは思われない)。そうなると、ここはそれを反転させた一緒くたにしない方、即ち、以上の「六派」でない、神道大教・大社教・大成教・御嶽教・神道大成教・金光教・天理教の七つのうち、後に神道ではないとして抜けるところの天理教を除いた(これは天理教の方からも文句は言われまい)六つとも数えられるが、どうも座りが悪い。翻って教派ではなく、祭祀の性格上の有意に大きな差異に基づく分類か、などと勝手に想像しつつ、ウィキの「神道」を見てみたところが、これまた、都合よく、その「分類」の項には皇室神道・神社神道・民俗神道(民間神道)・教派神道(先の神道十三派)・古神道・国家神道の六つが並んでいた(概ね、その語で中身は分かるが、リンク先には簡単な説明が附されてあるのでそれを参照されたい)。しかしこれはどうもただの偶然のようにも見える。そのうちにサトウの著作を手に入れたら、ちゃんと注を追加したいと思っている。

「夥多」は「くわた(かた)」と読み、物事が多過ぎるほどあること、夥しいさまの謂いである。

「所謂『純なる神道の復活』」前注に示したサトウの著作の標題“The revival of pure Shin-tau”(純粋神道の復活)を受けた表現。

「その起原の佛教的な表示徴候悉くを剝奪して、この信仰をその古代の單純さに還さうといふ、政府の援助を受けた、努力」「一片の法令」おぞましき廃仏毀釈を齎した一連の神仏分離に関わる法令や政策を指す。狭義の「神仏判然令」は「神仏分離令」とも称し、これは単独の法令ではなく、慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)から明治元年十月十八日(一八六八年十二月一日)迄に発せられた太政官布告・神祇官事務局達・太政官達などとして出された一連の通達の総称である。その後、政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を盛んに行なったものの、明治五年三月十四日(一八七二年四月二十一日)の神祇省廃止と教部省設置によって事実上、頓挫し、神仏共同布教体制を採ることとなった(以上は主にウィキ神仏分離に拠る)。

「十五世紀間の變化の道途」ハーンのこの叙述(一八九一年)の十九世紀から遡る十五世紀前となると三百年代で、現在、学術的に実在の可能性があるとされる最も古い天皇である崇神天皇の仮定没年が三一八年(但し、二五八年説もある)に当たることから、ハーンは「古事記」(和銅五(七一二年)序)に書かれた神道で説かれる神話体系が形成されたのを崇神の頃、即ち、古墳時代前期(古墳時代は現在、三世紀中葉から七世紀末に比定されている)に措定し、それが「古事記」で成文化されるまでの期間を三百年ほどと見ているように読めなくもない。]

 

 

ⅩⅦ

THE HOUSEHOLD SHRINE

.

 IN Japan there are two forms of the Religion of the Deadthat which belongs to Shintō; and that which belongs to Buddhism. The first is the primitive cult, commonly called ancestor-worship. But the term ancestor- worship seems to me much too confined for the religion which pays reverence not only to those ancient gods believed to be the fathers of the Japanese race, but likewise to a host of deified sovereigns, heroes, princes, and illustrious men. Within comparatively recent times, the great Daimyō of Izumo, for example, were apotheosised; and the peasants of Shimane still pray before the shrines of the Matsudaira. Moreover Shintō, like the faiths of Hellas and of Rome, has its deities of the elements and special deities who preside over all the various affairs of life. Therefore ancestor-worship, though still a striking feature of Shintō, does not alone constitute the State Religion: neither does the term fully describe the Shintō cult of the deada cult which in Izumo retains its primitive character more than in other parts of Japan.

 

And here I may presume, though no Sinologue, to say something about that State Religion of Japanthat ancient faith of Izumowhich, although even more deeply rooted in national life than Buddhism, is far less known to the Western world. Except in special works by such men of erudition as Chamberlain and Satow,works with which the Occidental reader, unless himself a specialist, is not likely to become familiar outside of Japan,little has been written in English about Shintō which gives the least idea of what Shintō is. Of its ancient traditions and rites much of rarest interest may be learned from the works of the philologists just mentioned; but, as Mr. Satow himself acknowledges, a definite answer to the question, 'What is the nature of Shintō?' is still difficult to give. How define the common element in the six kinds of Shintō which are known to exist, and some of which no foreign scholar has yet been able to examine for lack of time or of authorities or of opportunity? Even in its modern external forms, Shintō is sufficiently complex to task the united powers of the historian, philologist, and anthropologist, merely to trace out the multitudinous lines of its evolution, and to determine the sources of its various elements: primeval polytheisms and fetishisms, traditions of dubious origin, philosophical concepts from China, Korea, and elsewhere,all mingled with Buddhism, Taoism, and Confucianism. The so-called 'Revival of Pure Shintō'an effort, aided by Government, to restore the cult to its archaic simplicity, by divesting it of foreign characteristics, and especially of every sign or token of Buddhist originresulted only, so far as the avowed purpose was concerned, in the destruction of priceless art, and in leaving the enigma of origins as complicated as before. Shintō had been too profoundly modified in the course of fifteen centuries of change to be thus remodelled by a fiat. For the like reason scholarly efforts to define its relation to national ethics by mere historical and philological analysis must fail: as well seek to define the ultimate secret of Life by the elements of the body which it animates. Yet when the result of such efforts shall have been closely combined with a deep knowledge of Japanese thought and feeling,the thought and sentiment, not of a special class, but of the people at large,then indeed all that Shintō was and is may be fully comprehended. And this may be accomplished, I fancy, through the united labour of European and Japanese scholars.

   Yet something of what Shintō signifies,in the simple poetry of its beliefs,in the home training of the child,in the worship of filial piety before the tablets of the ancestors,may be learned during a residence of some years among the people, by one who lives their life and adopts their manners and customs. With such experience he can at least claim the right to express his own conception of Shintō.

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