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2015/11/13

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (三)

       三   一八九〇、九月二十二日

 

 師範學校は縣立である。生徒は品行方正を證する履歷書を出し、試驗をへて入學を許されるが人數には勿論限りがある。生徒は月謝も寄宿料も書籍代をさへも、旅費も、衣服代も拂ふに及ばない。國家の費用で衣食住と學問を受けて居る代り卒業ののち五ケ年間教員として國家に奉公すべき義務がある。しかし入學すれば必ず卒業する物とは定まらない。年々三回乃至四回の試驗がある、一定の高い標準の試驗點を得ない生徒は如何にその品行が模範的で如何に勉強に熱心でも學校を退かねばならない。國家の教育事業と云ふ點から何等の容赦も示されない、そしてこの教育事業は生れつきの才能とその才能を證明する高い標準を要求する。

 その訓練は軍隊的で、峻嚴である。實際師範學校の卒業生は軍隊で一年以上も歸休する事を軍法によつて許される【譯者註一】程その訓練は完全である、それ程完全な軍人となつて學校を出るのである。行狀も又一の必要物である、特別の評點がこのために設けてある、入學の當時如何に無作法でも、そのままである事は許されない。男らしい精神は養成される、そして祖野の風は排せられ、獨立自制の風は發達するやうになる。生徒は言語を發する時には教師の顏を見なければならない、言語は明確であるのみならず又高聲でなければならない。教場での行儀は教室内の器具によつても幾分よくしないわけに行かないやうになつて居る。小さい机は餘り狹くて肘をかける事ができない、腰かけにはよりかかるところがない、それで生徒は勉強中は固く眞直に身體をもたねばならない。生徒は又極めて淸潔にさつぱりと身を整へ置かねばならない。どこで又いつ教師に遇つても止まつて足をそろへ體を眞直にして兵式の敬禮をしなければならない。しかもこれは書く事もできない程のすばやい美しさでなされるのである。

 授業時間中の生徒の態度は強いて云へば餘りによすぎる。ささやきの聲も聞えない、許可なしには書物から頭をあげる事もない。しかし教師が名を呼んで生徒にあてるや否や、その少年は直ちに立つて慣れない耳には外の生徒の靜肅沈默と對照して殆んどびつくりする程力のある樣子で答へるのである。

 師範學校の女子部には五十人程の若い婦人が教員としての訓練をうけて居るがそれは別の二階作りの四角な大きな風通りのよい建物で、附屬の庭園と共に外の建物と全然別になつて、往來より見えないやうになつて居る。これ等の少女は最新の方法で西洋の科學を學ぶと共に日本の藝術即ち刺繡、裝飾、繪畫、生花の訓練をうける。洋畫も又教へられる、しかも立派に教られる、それはここばかりでない、到る處の學校で、しかし日本風の方法と聯絡して教へてある、この聯絡の結果は必ずや將來の美術作品に多少のよい影響を與ふる事を期待してよからう。繪畫に於ける日本學生の平均能力は歐洲學生のそれよりは少くとも五割は高いと私は思ふ。日本人種の魂は根本的に美術的である、その上幼時より教へ込まれる極めてむつかしい漢字の書法は、繪畫の先生が透視畫法の講義を始めるずつと昔に既に眼と手とを極度に(殆んど西洋人には夢にも分らない程の程度に)訓練して居るのである。

 この大師範學校に附屬して、又中學校にも廊下でつらなつた小さい男兒女兒の大きな小學校がある、教師は卒業の時期に達した男女の學生である、かくして國家の奉公に入る前に彼等の天職を實地に練習するのである。教育に關する見物としではこの小學教育程、同情のある外國人にとつて興味のある物はない。私の見た第一の教室では、極めて小さい女兒男兒の一組が(中にはこの子供等自身の人形の如く不思議に美しいのが居る)眞黑な草紙を机土に置いて屈んで居るところである、所謂墨と筆とを一心に使つてその黑い草紙を一層黑くしようとでも努めて居るのだらうと他人には思はれる。實は彼等は一筆一筆漢字と假名とを書く事を習つて居るのである。一筆がよくできたあとでなければ又つぎの一筆を下す事は許されない、一字を書く事はなほさらの事である。第一回の課業は充分終らないずつと以前に白紙は無數の未熟の筆のあとで悉く一樣に黑くなつて居る。しかし同じ紙はやはり用ひられる、ぬれた墨は乾いた墨の上では更に黑いあとをつけて容易に見られるからである。

 つぎの室ではさみを使用する事を習へる一組の子供を見る、日本のはさみは一つになつてゐて餘程U文字の形にできて居るが私共のはさみより餘程あつかひにくいやうである。小さい子供はひな形又はこれから學ぶ特別の物や符號を切り出す事を習はうとして居る、花の形は最も普通のひな形であるが時としては何かある符號なども題として與へられる。

 又ある教室では別の小さい組が唱歌を習つて居る、教師は黑板に白墨で音譜(ド、レ、ミ)を書き、そして手風琴に歌を合はせて居る。子供は日本國歌(君が代)及びスコットランドの節に合せてできた二つの日本の唱歌【譯者註二】をすでに知つて居る、その一つをきいて私はこの極東の片田舍に於ても、ずつと昔の種々の樂しい思ひ出にかへるのである。

 この小學校では制服を着ない、皆日本服を着て居る、男の子供は藍色の着物を着て、小さい女の子供は蝶々のやうに光つた色々の色の着物を着て居る。着物の上に女の子供は袴【註一】をはいて居る、そしてこの袴は鮮やかなうす紫である。

 授業時間の間に十分間を休憩なり遊戲なりに與へてある。男の子供は鬼ごつこやかくれんばうや又はその他の面白い遊戲をする、笑ふ、はね廻る、叫ぶ、駈けつこをする、相撲をとる、けれども歐洲の子供のやうに喧嘩やつかみ合ひはしない【註二】。小さい女の子供の方は又別に一緒になつて手まりをついたり、又は何か大勢で歌につれて一緒に遊戲をするために圓形をつくる。圓くなつて一緒に歌ひ合ふ可愛い聲はたとへやうのない程やさしく又美はしい。

 

    註一。天照皇大神がもすそを結んで、

    始めてはかまを發明されたと云ふ傳

    説がある。

    註二。かう書いてから二年日本の諸

    學校に教師として教へたが一つも學

    生間の本氣の爭鬪を聞いた事がない。

    すでに八百人程教へて居る。

 

   かんごかんごしようや

   仲よにしようや

   どんどんとくんで

   地藏さんの水を

   松葉の水入れて

   まつくりかへそ【譯者註三】

 

 私にこれ等の生徒を教ふる若い婦人も若い男子も自分等の教へ子には非常にやさしい事を認める。游戲のために着物が亂れたり汚れたりして居る子供はわきへ連れ出されて親身の兄にされるやうに丁寧にそれを直したり塵をはらつたりして貰ふ。

 

 小學生を教へて彼等の未來の天職の準備とするまだその上に師範學校の女學生はその近くの幼稚園にも教ふる事を習ふ。大きな陽氣な日當りのよいいくつかの室のある愉快な幼稚園である、そこでは極めてよい思ひつきの教育玩具が毎日使用するために棚の上に澤山積んである。

 

       譯者註一。以前は師範學校卒

       業生には兵役はなかつた。六

       週間現役をやればよい事にな

       つた、この當時は六週間現役

       制度のできたばかりの頃であ

       らう。

       譯者註二。スコットランドの

       節に合せた二つの日本の歌、

       一つは『螢の光』一つは『美

       しき我兒はいづこ』である。

       前者は Auld Lang Syne 後者は

       
  Blue Bell. スコットランドの

       方言で昔の事、ことに幸福で

       つた時の事。

       譯者註三。東京邊の子供のす

       る『かごめ、かごめ、かごの

       中の鳥は……』と云ふ遊戲に

       似たものと云ふ、歌の意味は

       分らない處あるが『仲よにし

       ようや』は『仲よく致しませ

       う』なるべく『まつくりかへ

       そ』は『ひつくりかえそ』と

       云ふ事。

 

[やぶちゃん注:「歸休する」「歸休」「ききう(ききゅう)」は、ある任務に就いている者が、通常は主に雇い主の都合によって一定期間、勤務を離れて家にいることを許したり、命ずることを指すが、原文は“exempted”で、これは普通に一年以上に亘る兵役の大部分(「譯者註一」を参照のこと)をこのカリキュラムに読み換えることで「免除される」の謂いである。

「その一つをきいて私はこの極東の片田舍に於ても、ずつと昔の種々の樂しい思ひ出にかへるのである。」この箇所実は原文を見ると、“—one of which calls back to me, even in this remote corner of the Orient, many a charming memory: Auld Lang Syne.”となっていて、曲名(「譯者註二」及び私それへの後注を参照)が掛け言葉のように洒落て用いられていることが判る。平井呈一氏はここを『そのうちの一つ、「螢の光」は、こんな東洋の片隅にありながら、わたくしに過ぎこし方の、かずかずの楽しい思い出を呼び返してくれた。〝Auld Lang Syne〟「過ぎし昔」であった。』と訳しておられる。これこそあるべき名訳と言うべきであろう。

「鬼ごつこやかくれんばう」両者は似ており、混同して同じものと思っている向きも少なくないが、「鬼ごっこ」は、数を数えて一定時間を待った鬼がスタートして逃げる相手(必ずしも隠れるのではない)にタッチし、タッチされた子が新たな鬼となり、かくして通常はずっと連鎖するかなりアクティヴな遊びであるが、「隠れんぼ」は鬼が目をつぶって数を数えた後に「もういいかい?」と尋ね、「まあだだよ」という猶予を乞う声が聴こえなくなって初めて鬼は目を開いて探索を開始し、隠れた子を見つけ出す。発見した鬼は相手の名前の後に「見いつけた」と言上げして指さし捕捉する(この際にただ指さすだけでなくタッチを必要とするというケースもあるとするが私は知らないし、それこそ後の「鬼ごっこ」との融合型と考える)。かくして、隠れた者全員が発見されてしまうと、今度は最初に発見された者が新たな鬼となって繰り返される「鬼ごっこ」に比すと「隠れんぼ」の響き通り遙かに静的であると私は思う。だから黒澤明の「まあだだよ」のエンディングのように隠れているうちに寝てしまったり(但し、あのシークエンスと用いられているヴィヴァルディの「調和の霊感」協奏曲第九番ニ長調第二楽章は好きだが、映画そのものとしては私はあまり高く評価をしていない)、一人が見つからずに他の者が飽きて家に帰ってしまい、延々お来ない鬼を待つなどという哀愁が漂うのである(私は後者の就学前の実経験を黄昏の中に今も感ずる人間であることをここに告白しておく)。

「天照皇大神がもすそを結んで、始めてはかまを發明されたと云ふ傳説がある」ウィキの「袴」には「襲(おすひ)の袴」という項があり、そこには『鎌倉時代頃に一部の高貴な女性(女院となった皇女などか)の間で着用された。詳細は不明だが、白い薄手のもので、松等の絵が描かれいわゆる緋袴の上に重ねた(鈴木敬三『日本の服装』)。当時の女神像や高貴な女性歌人の絵などにそれらしきものが描かれている。なお季節によって緋袴を重ねたり、袴そのものが』「合わせ仕立(じた)て」・「単仕立(ひとえじた)て」といったことは『平安時代から既にあった』とある。辞書や古語辞典には「おすひ」は上代の原始的な衣服の一種であるとしつつも、衣服の上から着た外套のようなものであるとか、再訪して居ない幅広の長い布で頭から被って長く垂らしたとかあるが、どうもよく判っていないらしい。元は男女とも用いたが、奈良・平安の頃には専ら夫人が神事に際して着用したとある。天照大神起源の根拠は良く知らぬが、居合道 常心会公式サイトに、武道に用いる袴の後ろの襞(折り目)が一本であることについて、『後ろの一本の折り目を中に重なる二本の襞には、天と地、人は二心を持ってはいけない』。『常に二つを一つにし、敵を作ってはいけないという説があ』るとした上で、『また二つの襞を一本の折り目にまとめたのが天照大神で、二本の襞は、武道に優れた建御雷之男神(みかづちのおのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)が、平和のうちに国譲りをなしたという古事記の故事から、「日本が二つに分かれないように」という平和の願いを込めているという意味づけもあ』ると記してある。ふーん、って感じだ。

「かんごかんごしようや/仲よにしようや/どんどんとくんで/地藏さんの水を/松葉の水入れて/まつくりかへそ」この遊び唄、ネットで検索をかけても何も出ない。今やっておかないと、永遠に分からないままになるような気がする。出雲地方の方、少しでもよろしいので、ご情報を戴けると幸いである。

「螢の光」「Auld Lang Syne」後者はスコットランド語で「オールド・ラング・サイン」と読み英訳すると逐語訳では“old long since”、意訳では“times gone by”である。古いスコットランド民謡であると同時に非公式な準国歌であり、本邦では「久しき昔」などと訳す。現行のような歌詞に整序したのは(原詞はウィキオールド・ラング・サインを参照されたい)私の愛するスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns 一七五九年~一七九六年)である。本邦の唱歌としての受容は明治十年代(明治十年は一八七七年)初頭に「小学唱歌集」を編纂する際に稲垣千頴(ちかい)の作詞した今様形式の歌詞が採用されて「蛍の光」となり、明治一四(一八八一)年に尋常小学校唱歌として「小學唱歌集初編」に掲載されたとウィキにある。私にとっての哀感の初体験は小学二年生の時に見たアメリカ映画「哀愁」(一九四〇年)であり、意味の“times gone by”なら愛するバーグマン「カサブランカ」(一九四二年)のあの曲だ――

「美しき我兒はいづこ」「Blue Bell.」(ピリオドはママ)。原曲は正しくは“The Bluebells of Scotland”(スコットランドの釣鐘草(ツリガネソウ))と思われる。本邦では唱歌「うつくしき」という唱歌として知られる。「螢の光」と同じく稲垣千頴が作詞依頼され、ダブルで依頼された野口耽介(とうすけ)のものと比較されたが皇国史観色の強い稲垣版が採用された(「螢の光」と同じく明治十四年)。両歌詞は参照した個人ブログ「remmikkiのブログ」の明治の歌  「うつくしき」で比較検証出来る。リンクを辿ると原曲も聴ける。]

 

 

September 22, 1890.

   The Normal School is a State institution. Students are admitted upon examination and production of testimony as to good character; but the number is, of course, limited. The young men pay no fees, no boarding money, nothing even for books, college-outfits, or wearing apparel. They are lodged, clothed, fed, and educated by the State; but they are required in return, after their graduation, to serve the State as teachers for the space of five years. Admission, however, by no means assures graduation. There are three or four examinations each year; and the students who fail to obtain a certain high average of examination marks must leave the school, however exemplary their conduct or earnest their study. No leniency can be shown where the educational needs of the State are concerned, and these call for natural ability and a high standard of its proof.

   The discipline is military and severe. Indeed, it is so thorough that the graduate of a Normal School is exempted by military law from more than a year's service in the army: he leaves college a trained soldier. Deportment is also a requisite: special marks are given for it; and however gawky a freshman may prove at the time of his admission, he cannot remain so. A spirit of manliness is cultivated, which excludes roughness but develops self-reliance and self-control. The student is required, when speaking, to look his teacher in the face, and to utter his words not only distinctly, but sonorously. Demeanour in class is partly enforced by the class-room fittings themselves. The tiny tables are too narrow to allow of being used as supports for the elbows; the seats have no backs against which to lean, and the student must hold himself rigidly erect as he studies. He must also keep himself faultlessly neat and clean. Whenever and wherever he encounters one of his teachers he must halt, bring his feet together, draw himself erect, and give the military salute. And this is done with a swift grace difficult to describe.

   The demeanour of a class during study hours is if anything too faultless. Never a whisper is heard; never is a head raised from the book without permission. But when the teacher addresses a student by name, the youth rises instantly, and replies in a tone of such vigour as would seem to unaccustomed ears almost startling by contrast with the stillness and self-repression of the others.

   The female department of the Normal School, where about fifty young women are being trained as teachers, is a separate two-story quadrangle of buildings, large, airy, and so situated, together with its gardens, as to be totally isolated from all other buildings and invisible from the street. The girls are not only taught European science by the most advanced methods, but are trained as well in Japanese arts,—the arts of embroidery, of decoration, of painting, and of arranging flowers. European drawing is also taught, and beautifully taught, not only here, but in all the schools. It is taught, however, in combination with Japanese methods; and the results of this blending may certainly be expected to have some charming influence upon future art-production. The average capacity of the Japanese student in drawing is, I think, at least fifty per cent, higher than that of European students. The soul of the race is essentially artistic; and the extremely difficult art of learning to write the Chinese characters, in which all are trained from early childhood, has already disciplined the hand and the eye to a marvellous degree,—a degree undreamed of in the Occident,—long before the drawing-master begins his lessons of perspective.

 

   Attached to the great Normal School, and connected by a corridor with the Jinjo Chugakko likewise, is a large elementary school for little boys and girls: its teachers are male and female students of the graduating classes, who are thus practically trained for their profession before entering the service of the State. Nothing could be more interesting as an educational spectacle to any sympathetic foreigner than some of this elementary teaching. In the first room which I visit a class of very little girls and boys—some as quaintly pretty as their own dolls—are bending at their desks over sheets of coal-black paper which you would think they were trying to make still blacker by energetic use of writing-brushes and what we call Indian-ink. They are really learning to write Chinese and Japanese characters, stroke by stroke. Until one stroke has been well learned, they are not suffered to attempt another—much less a combination. Long before the first lesson is thoroughly mastered, the white paper has become all evenly black under the multitude of tyro brush-strokes. But the same sheet is still used; for the wet ink makes a yet blacker mark upon the dry, so that it can easily be seen.

   In a room adjoining, I see another child-class learning to use scissors —Japanese scissors, which, being formed in one piece, shaped something like the letter U, are much less easy to manage than ours. The little folk are being taught to cut out patterns, and shapes of special objects or symbols to be studied. Flower-forms are the most ordinary patterns; sometimes certain ideographs are given as subjects.

   And in another room a third small class is learning to sing; the teacher writing the music notes (do, re, mi) with chalk upon a blackboard, and accompanying the song with an accordion. The little ones have learned the Japanese national anthem (Kimi ga yo wa) and two native songs set to Scotch airs,—one of which calls back to me, even in this remote corner of the Orient, many a charming memory: Auld Lang Syne.

   No uniform is worn in this elementary school: all are in Japanese dress,—the boys in dark blue kimono, the little girls in robes of all tints, radiant as butterflies. But in addition to their robes, the girls wear hakama, [1] and these are of a vivid, warm skyblue.

   Between the hours of teaching, ten minutes are allowed for play or rest. The little boys play at Demon-Shadows or at blind-man's-buff or at some other funny game: they laugh, leap, shout, race, and wrestle, but, unlike European children, never quarrel or fight. As for the little girls, they get by themselves, and either play at hand-ball, or form into circles to play at some round game, accompanied by song. Indescribably soft and sweet the chorus of those little voices in the round:

              Kango-kango shō-ya,

              Naka yoni shō-ya,

              Don-don to kunde

              Jizō-San no midzu wo

              Matsuba no midzu irete,

              Makkuri kadso. [2]

   I notice that the young men, as well as the young women, who teach these little folk, are extremely tender to their charges. A child whose kimono is out of order, or dirtied by play, is taken aside and brushed and arranged as carefully as by an elder brother.

 

   Besides being trained for their future profession by teaching the children of the elementary school, the girl students of the Shihan-Gakkō are also trained to teach in the neighbouring kindergarten. A delightful kindergarten it is, with big cheerful sunny rooms, where stocks of the most ingenious educational toys are piled upon shelves for daily use.

   Since the above was written I have had two years' experience as a teacher in various large Japanese schools; and I have never had personal knowledge of any serious quarrel between students, and have never even heard of a fight among my pupils. And I have taught some eight hundred boys and young men.

 

1 There is a legend that the Sun-Goddess invented the first hakama by tying together the skirts of her robe.

2 'Let us play the game called kango-kango. Plenteously the water of Jizō-San quickly draw,—and pour on the pine-leaves,—and turn back again.' Many of the games of Japanese children, like many of their toys, have a Buddhist origin, or at least a Buddhist significance.

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