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2015/11/18

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (二十)

       二〇

 

 文明人の恐るべき顏について書いたのは奇人フーリエではなかつたか。誰にしてもこの極東で歐洲人の顏を始めて見た時どんな結果があつたか、その人に分つたらその人の骨相學的學説が實際の解決を見たらしく思つたであらう。本國で容貌について『綺麗である』『人好きがする』『特色がある』と教へられて居る物は、支那や日本ではその通りの印象を與へない。西洋のイロハ文字程自分等に親しい顏面表情の種類は、始めての東洋人には分らない。東洋人の始めに認むるところは民族の特性であつて個性でない。凹んだ眼、凸出した額、鷹のやうな鼻、大きな顎の進化論上の意味(侵略的勢力習慣のしるし)は飼はれた動物が始めて生物を捕食する敵を見て直ちにその性質をさとると同じ種類の直覺力で 穩やかな人種にさとられるのである。歐洲人に滑らかな顏附の、細つそりした、たけの低 い日本人は子供のやうに見える、そして『ボーイ』は横濱の商人の日本人の從者が今呼ばれる名である。日本人にとつては始めての、赤い毛の、あばれものの、醉ひどれの歐洲水夫は惡魔か、猩々か、海の怪物に見えた、そして支那人には西洋人は今も『洋鬼』と呼ばれて居る。日本に於ける外國人の大きな身長、大きな力量、烈しい歩きぶりは彼等の顏から來る變な感じを強くして居る。子供等は彼等が往來を通つて居るのを見て恐れて泣き出した。そして最も邊鄙な處では日本の子供は歐米人の顏を始めて見て今日でも泣き勝ちである。

 松江の或婦人【譯者註一】は私の前で、小さい時のこの珍らしい追懷談を語つた。『私が餘程小さい時分に大名が武術を教へる西洋人を御雇になりました。私の父と大勢の侍がその西洋人を迎ひに出ました、それから澤山の人々が見物に往來の兩側に列んでゐました、以前に西洋人の來た事は一度もありませんでしたから。そこで私共は皆見に參りました。西洋人は船で參りました、當時こちらには汽船はありませんでした。西洋人は非常にたけが高くて、長い足で早く歩きました、それから子供等はその人を見て泣き出しました、顏は日本人の顏と同じでなかつたからです。私の弟は大聲で泣き出して母の着物に顏を隱しました、そこで母は叱つて申しました「この西洋人は殿樣に仕へにここへ來た大變よい人だからこの人を見て泣くのは失禮千萬です」しかし弟はやはり泣きました。私は恐ろしくはありませでした。私は西洋人の顏を見上げてゐましたらその西洋人は來てにつこり笑ひました。大きな顎ひげがありました、大變不思議な恐ろしい顏だとは思ひましたがよい顏だと思ひました。それから止つてにつこりして私の手に何か入れました。そして大きな指で私の頭や顏にさはりました、そして何だか分らぬ事を云ふて行つて仕舞ました。西洋人が行つたあとで、私は手に入れてあつた物を見たら、それは小さい綺麗な眼鏡でした。その眼鏡の下へ蠅を入れると中々大きく見えます。その當時私はこの眼鏡は大變不思議な物だと思ひました。今でもそれをもつてゐます』この婦人は部屋の簞笥から取り出して私の前に小さい綺麗な懷中顯微鏡を置いた。

 この小さい事件の主人公はフランスの將校であった。封建制度廢止と共にこの人の勤務は當然なくなった。この人の話【譯者註二】は今も松江に殘つて居る、そして老人達はこの人に關するはやり節を覺えて居る、彼の外國語のまねと思はれるやうな、早口のでたらめの一種である。

 

   唐人ノネゴトニハ キンカラクリ メーダガシヨー

   サイ坊主 ガ シンペイシテ ハリシテ ケイサン

   ハンリヤウ ナ サツクルルルルルレナノンダジユ

 

    譯者註一。松江の婦人とは實は小泉

    夫人の事、蟲眼鏡はその時與へられ

    たのでなく、夫人の父即ち出雲の士

    族で當時佛人の學生たりし人に與へ

    たのをかくの如くに記したのである、

    この蟲眼鏡は今も夫人が藏して居ら

    れる。

    譯者註二。明治の初年の頃の事で、

    名はワレツトと傳へられて居る。

 

[やぶちゃん注:「文明人の恐るべき顏について書いたのは奇人フーリエではなかつたか」これはフランスの哲学者で社会思想家の「空想的社会主義者」として知られるフランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(Francois Marie Charles Fourier 一七七二年~一八三七年)のことか? 私は彼の著作を読んだことがないのでこれ以上の注を控える。

「フランスの將校」「ワレツト」「松江一中20期WEB同窓会・別館」の「赤山夜話」の赤山とお雇いフランス人に詳しい。それによれば、松江藩藩主松平定安は明治三(一八七〇)年に軍制をフランス式に改めるため(同頁の注によれば、松江藩の軍制はイギリス式であったが、明治政府が陸軍にはフランス式、海軍はイギリス式にすることを決定したことが背景にあるらしいする)、フランス語・医学・砲術等の教師としてアレキサンドルとワレットの二人のフランス人を招請している(当時は未だ廃藩置県の一年前で島根県にはなっていない。廃藩置県は翌四年七月十四日(グレゴリオ暦一八七一年八月二十九日)に発せられ、旧松江藩領に松江県・旧広瀬藩領に広瀬県・旧母里(もり)藩領に母里県が置かれたが、島根では同年十一月十五日(一八七一年十二月二十六日)の布告で前記三県と隠岐地方が島根県として合併、隠岐地方を除く石見地方に改めて浜田県が置かれた。現行の地域が確定するのは明治一四(一八八一/既にグレゴリオ暦に変更)年九月十二日に現在の鳥取県が分立した時点である。ここは主にウィキ島根県に拠った)。ベリゼール・アレクサンドル(Belisaire Alexandre ?~一八七七年)は当時のフランス公使館の館附医師として明治元(一八六八)年に来日した歯科医師で、松江ではフランス語と医学を教えたらしい。ワレットは慶応三(一八六七)年一月に第一次フランス陸軍顧問団の一員として来日したフレデリック・ヴァレット軍曹(Frederic Valette 一八三四年三月十一日~?)である可能性が高いとある。以下、「松平定安公傳」によれば、アレキサンドルは語学・医学・化学・鉱物学を教授し、ワレットは語学を教えることになっていたらしいが、ワレットの方は実際は砲術訓練が中心で、同書は古志原(こしばら 市街南東直近で現在の松江市古志原)などで行われたワレットによる砲術訓練を伝えていると注にある。ところが、降って湧いた廃藩置県と武装解除によって当初一年半だった予定が無効となり、僅か四ヶ月ほどで二人は松江を去ったとある。さらに、このワレットの薫陶を受けた人物に(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略させて頂いた)、

   《引用開始》

 先ほども登場した『松平定安公傳』に、ワレットが砲術伝習を行った当時の松江藩の軍隊について説明があります。それによると常備隊・予備隊・臨時御手当・砲隊・海岸砲士隊があり、予備隊の第八小隊隊長に「小泉湊」の名があります。

 だれ、それ?とおっしゃる方も多いでしょう。何を隠そう、このお方は、先の副将軍……じゃなくって、へるん夫人、小泉セツさんの実父にあらせられるのです。小泉湊は三百石を食み,五十人の組士を統率する番頭を勤めていました。セツは生後まもなく、子どものなかった遠い親戚筋に当たる稲垣家の養女となり、稲垣セツとして内中原の祖母橋のたもとの家(今だと「地域福祉センターゆうあいの里」がある場所ではないかと思います)で成長しますが、直接もらったのか、小泉湊からもらったのかは定かでありませんが、ワレットからもらったという虫眼鏡(ルーペ?)をもっていて、それは現在、小泉八雲記念館に保存されています。

 ワレットたちからフランス語を学んだ人の中に玉木十之助,梅謙次郎といった名前がありますが,彼らはいずれもセツと関わりがありました。玉木十之助の妻れんはセツと親しかった従姉であり、十之助の姪のかねの夫が梅謙次郎でした。梅謙次郎は後、へるんさんが東大の講師となる際、なんらかの働きかけを行ったりしたようです。

   《引用終了》

セツの実父「小泉湊(みなと)」は維新後の改名で元は小泉弥右衛門俊秀と言い、セツは彼と妻チエの次女であった(但し、生まれて直ぐに遠縁の稲垣家の養女となっている)。因みに、この後にはワレットのことではないが驚くべき事実が書かれている(下線やぶちゃん)。

   《引用開始》

 小泉湊氏と同様、ヘルンさんがらみになりますが、根岸干夫(たてお)氏もワレットについて兵学を修めた人でした。根岸って聞いたことのある名前ですよね?そう、ヘルンさんが住んでいた城(!)見縄手の旧居の所有者です。『松平定安公傳』によれば,明治三年六月十、十一日に杵築浜で「町搏」を挙行した際、ワレットと同道して馬で松江から平田に向かい、一泊した後、大社に着いています。七月にワレットが松江藩を去ることになると、末次本町で開かれた送別の宴会に参加しています。

 ヘルンさんは城見縄手の家の庭をいたく気に入ってたようです。また「日本の庭で」のなかで、「それを造った人たちは幾世代も前に世を去ってしまって,今は永遠の輪廻の中にいる」と語っていますが、ここの庭は実はこの干夫氏が作ったものだそうです。なんでも、明治七、八年の頃、九州方面で不穏な情勢となったとき(西南戦争は明治十年ですのでその前の話のようです)、ひとたび乱が起こったら従軍したいと考え、ついては身体を鍛えねば、と庭を造ることを思い立ったのだそうです。そして庭師などは雇わずに、自分の考えで、知人の力も借りて造ったのがあの庭だとか。

   《引用終了》

ハーン遺愛のあの庭である! なお、この引用させて戴いた「松江一中20期WEB同窓会・別館」には私は大変お世話になっている。同サイトのリンク集あっ,みっけ~の最後にサイト「鬼火が引かれてあるが、私の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」のやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺では特に多大な御協力を受けている。ここを借りて、再度、感謝の意を表するものである。

「この人の話は今も松江に殘つて居る」松江には「ワレット豆」という名の「さやえんどう」が今もあるが、これは個人ブログ「わかばの日記」の松江の夏の味覚によれば、十五センチメートル強の『長さの豆で、肉厚のさやごと調理する。モロッコ豆の一種であるらしい。「ワレット」の名は、明治初期に松江藩校修道館に雇われたフランス人教師フレデリク・ワレットに由来する。語学教師であり、砲術・フランス式軍事教練をも担当していた人らしい。彼が持ってきた豆が松江で栽培されるようになって、彼の名がそのまま豆の名前になったのだ。砲術やフランス式軍事教練が、どれほどの役に立ったかはわからないが、ワレット豆は百数十年にわたって営々と栽培され続け、今や松江の夏の味覚にまでなっている』とある。

「唐人ノネゴトニハ キンカラクリ メーダガシヨー/サイ坊主 ガ シンペイシテ ハリシテ ケイサン/ハンリヤウ ナ サツクルルルルルレナノンダジユ」不詳。この囃子歌(?)について何かご存じの方は、是非、御教授を乞うものである。]

 

 

ⅩⅩ.

   Was it not the eccentric Fourier who wrote about the horrible faces of 'the civilizés'? Whoever it was, would have found seeming confirmation of his physiognomical theory could he have known the effect produced by the first sight of European faces in the most eastern East. What we are taught at home to consider handsome, interesting, or characteristic in physiognomy does not produce the same impression in China or Japan. Shades of facial expression familiar to us as letters of our own alphabet are not perceived at all in Western features by these Orientals at first acquaintance. What they discern at once is the race- characteristic, not the individuality. The evolutional meaning of the deep-set Western eye, protruding brow, accipitrine nose, ponderous jaw — symbols of aggressive force and habit — was revealed to the gentler race by the same sort of intuition through which a tame animal immediately comprehends the dangerous nature of the first predatory enemy which it sees. To Europeans the smooth-featured, slender, low-statured Japanese seemed like boys; and 'boy' is the term by which the native attendant of a Yokohama merchant is still called. To Japanese the first red-haired, rowdy, drunken European sailors seemed fiends, shōjō, demons of the sea; and by the Chinese the Occidentals are still called 'foreign devils.' The great stature and massive strength and fierce gait of foreigners in Japan enhanced the strange impression created by their faces. Children cried for fear on seeing them pass through the streets. And in remoter districts, Japanese children are still apt to cry at the first sight of a European or American face.

 

   A lady of Matsue related in my presence this curious souvenir of her childhood: 'When I was a very little girl,' she said, our daimyō hired a foreigner to teach the military art. My father and a great many samurai went to receive the foreigner; and all the people lined the streets to see,— for no foreigner had ever come to Izumo before; and we all went to look. The foreigner came by ship: there were no steamboats here then. He was very tall, and walked quickly with long steps; and the children began to cry at the sight of him, because his face was not like the faces of the people of Nihon. My little brother cried out loud, and hid his face in mother's robe; and mother reproved him and said: "This foreigner is a very good man who has come here to serve our prince; and it is very disrespectful to cry at seeing him." But he still cried. I was not afraid; and I looked up at the foreigner's face as he came and smiled. He had a great beard; and I thought his face was good though it seemed to me a very strange face and stern. Then he stopped and smiled too, and put something in my hand, and touched my head and face very softly with his great fingers, and said something I could not understand, and went away. After he had gone I looked at what he put into my hand and found that it was a pretty little glass to look through. If you put a fly under that glass it looks quite big. At that time I thought the glass was a very wonderful thing. I have it still.' She took from a drawer in the room and placed before me a tiny, dainty pocket-microscope.

   The hero of this little incident was a French military officer. His services were necessarily dispensed with on the abolition of the feudal system. Memories of him still linger in Matsue; and old people remember a popular snatch about him,— a sort of rapidly-vociferated rigmarole, supposed to be an imitation of his foreign speech:

 

       Tōjin no negoto niwa kinkarakuri medagashō,

       Saiboji ga shimpeishite harishite keisan,

       Hanryō na Sacr-r-r-r-r-é-na-nom-da-Jiu.

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