フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (三) | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (五) »

2015/11/10

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (四)

      四

 出雲の髮結(クワフユズ)が行(や)る髮の結び方は十四種を下らぬ。が、首府では、また東部日本の大都會の或る物では、屹度この術はもつと精巧に發達して居る。理髮者(カミユヒ)は、一定の日に或る定まつた時刻に、その依賴者を訪れて、一軒々々商賣をして歩く。七歳から八歳までの小さな女の子の髮は松江では、ただ『垂れ髮』にして置くので無いなら、普通は『オタバコボン』と呼ぶ樣式に結ふ。オタバコボン(『御煙草盆』型)では、髭をぐるり四吋許りの長さに切つて、額の上の處だけも少し短く剪み切る。そして頭の上は髮を延ばさせて、それを束ねて此髷の妙な名を如何にもと肯がしめる、一種特別な恰好の髷にする。女の子が女子小學校へ通ふほどの年齡になると、直ぐとその髮は『カツラシタ』とふ可愛らしい單簡な樣式に結ふか、或は恐らくは、寄宿學校の規定の樣式となつて居る、『ソクハツ』と呼ぶ新規な醜い半洋風の『束ね型』かに結ぶ。貧乏人の娘は、中産階級の娘も大多數はさうであるが、その小學校時代は寧ろ短い。その勉學は結婚の出來る四五年前に終るのが普通で、しかも日本では娘は餘程早く結婚する。處女の初めての精巧な髷は、早くて十四歳或は十五歳に達した時、初めて結ふ。十二歳から十四歳までは、その髮は『オモヒヅキ』と呼ぶ樣式に結ふ。それから型を『ヂヨラウワゲ』と呼ぶ美くしい髷に變へる。この型には、複雜の度を異にした、種々な形がある。二年過ぎると、ヂヨラウワゲは止されて今度は『シンテフテフ』【註】(『新蝶々』型か又は『シマダ』又の名『タカワゲ』かになる。

    註。シンテフテフは年いつた人は
    『イテフガヘシ』とも呼ぶ。尤も原
    のイテフガヘシは少小異つて居る。
    サムラヒの娘は本當のイテフガヘシ
    風に、その髮を結つたものである。
    その名はイテフの木(學名サリスビ
    ユリア・アンデイアンテイフオオリ
    ア)から出たもので、その葉は家鴨
    の足の形に能く似た、妙な形をして
    居る。この結髮をした時の髮の、或
    る束(たばね)が銀杏の葉に形が似
    て居たのである。

 
シンテフテフ型は普通な型で、種々な年齡の女が結ふもので、大して上品とは考ヘられて居ないものである。シマダは、これは非常に精巧なもので、上品である。が、その家族が良い身分の人であればあるほど、この髷が小さい。ゲイシヤとヂヨラウとがその大きくて高い種類の、正しく『タカワゲ』即ち『高髷』といふその名に應ずるのを結ふ。十八歳と二十歳との間に處女は、まだこの樣式を『テンジンガヘシ』といふ別な樣式に取換へ、二十歳と二十四歳との間に『ミツワゲ』」即ち環の三つある『三つ髷』と呼ぶ樣式を用ひ、そしてそれと稍々似ては居るが一層複雜な『ミツワクヅシ』といふ髷を二十五から二十八までの若い女が結ふ。その年齡までは髮を結ふ樣式の變化は、一度々々精巧と複雜の方向にあるのである。が、二十八以後は日本の女は、もはや若いとは考へられぬ。で、その後はただ一種の髷があるだけである、――即ち年のいつた女が用ふる、どちらかと云ヘば醜い『モチリワゲ』或は『ボバイ』である。

 が、結婚する娘は前記の何れとも全く異つた樣式に髮を結ふ。あらゆる樣式のうちで一番美しい、一番精巧な一番金の掛かるのは、文字通りでは『花嫁』といふ意味の語の『ハナヨメ』と呼ぶ、新婦の髷である。その構造はその構造(つくり)はその名の如くに優美なもので、藝術的に鑑賞するやうに眺めなければならぬ。その後、人妻は『クメサ』若しくは『マルワゲ』別名『カツヤマ』と呼ぶ樣式に髮を結ふ。クメサは上品では無い、そして貧乏人の髷である。マルワゲ即ちカツヤマは高尚である。前にはサムラヒの女は、特殊な二通りの型にその髮を結つた。處女の髮は銀杏返しで、結婚後の女のは片外づしであつた。今でも松江では片外づし髷を少しは見ることが出來る。

[やぶちゃん注:「出雲の髮結(クワフユズ)が行(や)る髮の結び方は十四種を下らぬ」上村松園の随筆「髷」には、『髷の名称も時代によって、その呼びかたがいろいろと変っているが、明治の初期あたりから、明治の末期まで結われたものの名前だけでも、たいへんな種類があり、それが関東と関西では、また別々であるので、髷の名称ほど種々雑多なものはない』と前置きして、多くの名称が挙げられている(引用は青空文庫版を用いた。二段落目の後の一行空けはママ。初出は記されおらず、ネット検索でも不明であるが、これを含む随筆集「青眉抄 青眉抄その後」の刊行は戦後であるが、この中の松園の印象の一部は戦前の明治末期から大正の頃当時の彼女の感懐も強く影響を与えているように私には思われる)。

   《引用開始》

結綿、割唐子、めおと髷、唐人髷、蝶々、文金高島田、島田崩し、投島田、奴島田、天神ふくら雀、おたらい、銀杏返し、長船、おばこ、兵庫、勝山丸髷、三つ輪、芸妓結、茶筌、達磨返し、しゃこ、切髪、芸子髷、かつら下、久米三髷、新橋形丸髷。

 これは関東――といっても主に東京での髷であるが、関西になると、髷の名前ひとつにしても、いかにも関西らしい味をみせた名前をつけている。

 ところで関西といっても京都と大阪とでは名前がころりと変っている。

 大阪には大阪らしい名前、京都には京都らしい呼び名をつけているところに、その都市都市の好みがうかがえて面白い。

 達磨返し、しゃこ結び、世帯おぼこ、三ツ葉蝶、新蝶大形鹿子、新蝶流形、新蝶平形、じれった結び、三ツ髷、束ね鴨脚、櫛巻、鹿子、娘島田、町方丸髷、賠蝶流形、賠蝶丸形、竹の節。

 大阪人のつけそうな名前である。「じれった結び」とか、「世帯おぼこ」などというのは如何にも気のせかせかした、また世帯というものに重きを置いている都会生活者のつけそうな名前で、髷の形を知らぬものでも名前をきいただけで、その形が目に浮かんで来るようである。

 京都へくると、また京都らしい情緒をその名称の中にたたえていて嬉しい。

 丸髷、つぶし島田、先笄、勝山、両手、蝶々、三ツ輪、ふく髷、かけ下し、切天神、割しのぶ、割鹿子、唐団扇、結綿、鹿子天神、四ツ目崩し、松葉蝶々、あきさ、桃割れ、立兵庫、横兵庫、おしどり(雄)と(めす)とあり、まったく賑やかなことであって、いちいち名前を覚えるだけでも、大変な苦労である。

 そのほかに、派生的に生まれたものに次のようなものがある。これは、どこの髷ということなしに各都市それぞれに結われているものだ。

 立花崩し、裏銀杏、芝雀、夕顔、皿輪、よこがい、かぶせ、阿弥陀、両輪崩し、ウンテレガン、天保山、いびし、浦島、猫の耳、しぶのう、かせ兵庫、うしろ勝山、大吉、ねじ梅、手鞠、数奇屋、思いづき、とんとん、錦祥女、チャンポン、ひっこき、稲本髷、いぼじり巻、すきばい、すき蝶など……

 よくもこれだけの名前をつけられたものだと思う。

   《引用終了》

なお、松園はここではパーマ(電髪)についても語っており、『結婚前も結婚後も、雀の巣のようにもじゃもじゃした電気のあとをみせている。「簡単」どころか髪をちぢらすのには種々の道具がいる。せっかくふさふさとしたよい黒髪をもって生まれながら、わざわざ長い時間をかけてその黒髪をちぢらしている。私なぞの櫛巻は一週間に一度三十分あれば結える、そして毎朝五分間で髪をなでつけ身仕度が出来る簡単さとくらべれば、わざわざ髪をちぢらすのにかける時間の空費は実にもったいないことである。私にはどういう次第か、あの電髪というものがぴんとこない』。『パーマネントの美人(私はパーマネントには美は感じないのであるが)は、いくら絶世であっても、私の美人画の材料にはならないのである』。『あれを描く気になれないのは、どうしたわけであろうか?』『やはり、そこに日本美というものがすこしもない故であろうか』と、ハーンが読んだら激しく共感する内容が記されており、その他の批評部分(例えば、先のパーマの引用の直前の、『近来は女性の髷もいちじるしい変化をみせて来て、むかしのように髷の形で、あの人は夫人であるか令嬢であるかの見別けがつかなくなった』。『いまの女性は、つとめてそういったことをきらって、殊更に花嫁時に花嫁らしい髪をよそおうのを逃げているようである』。『夫人かとみれば令嬢のごときところもあり、令嬢かとみれば夫人らしきところもあり……というのが、今の花嫁である』。(中略)『以前は若い女性は結婚というものを大きな夢に考えて憧れていたから、花嫁になると、すぐにその髪を結って』、『「私は幸福な新妻でございます」』『と、その髪の形に無言の悦びを結びつけてふいちょうしてあるいたのであるが、今の女性は社会の状態につれて、そのようなことを愉しんでいるひまがなくなったのででもあろうか、つとめてそういったことを示さぬようになって来た』など)も実に痛快で面白い。

「垂れ髮」結い上げずに肩の辺りまで垂れ下げた髪形。おかっぱ。振り分け髪。

「オタバコボン」「御煙草盆」ウィキの「おたばこぼん」から引く。『明治初年ごろから登場した幼女』(二、三歳ぐらい)からの髪形。『結うのに手軽で、見た目も可憐なことから町人層を中心に広く結われた』。『日本髪の中でもごく幼い少女に結うこともあって必要な髪の長さは短く、現在のセミロング程度である』。『まず髪を左右に分け、側頭部の高い位置で仮止めする』。『左右で仮止めした髪を頭頂部で結び合わせて髷にし、余った部分を横に合わせた髪に巻く、このときの見た目が煙草盆の持ち手に滑り止めで籐を巻いてある様子に似ることから「お煙草盆」の名前がついた』。『最後に鹿の子絞りの少女向けの手絡』(てがら:髷に巻きつけるなどして飾る布のことを指す。古くは「髷かけ」とも称した)『で真ん中を包んで仕上げ、完成する』。

「四吋」一〇・一六センチメートル。

「剪み切る」「はさみきる」。

「肯がしめる」「うけがしめる」。尤もであると思せる。同意させる。

「カツラシタ」「鬘下」とすれば「鬘下地(かずらしたじ)」のことか。辞書によれば、「銀杏返し」を極めて低く結った髪形。「楽屋銀杏(がくいちょう)」とも呼ぶ。

「ソクハツ」「束髮」。ウィキの「束髪」によれば、『西洋婦人の髪形を真似て、明治ごろ「鹿鳴館時代」と呼ばれた時期に上流階級の女性の間に登場した髷の一群』。『いわゆる「ア・ラ・ポンパドゥール」という王制フランスの宮廷で起こった流行の中で誕生した髪形を真似たものであり、その影響で前髪を高く膨らませる形が発展して大正ごろ髪全体がターバンでもかぶったように膨らんで見える「庇髪(ひさしがみ)」へと変遷していった』。明治三十年代(一八九七年~一九〇六年)頃に『女優の川上貞奴が始めてから、大正の初めにかけて流行し、女学生が多く用いたことから、庇髪は女学生の異称ともなった』。同ウィキには珍しく「束髪は「文化的」か」という項がある。ハーンはこの髪型を「新規な醜い半洋風の」ものと酷評しているので、ここも引いておく。『明治十八年に、従来の結髪に油を大量に使う日本髪が衛生上問題があり、不経済かつ不便で文化的ではないとして医師の渡部鼎らが「日本婦人束髪会」を設立。束髪普及のために配布したパンフレットによって全国に普及したが、流行の常として結い方が複雑化するうちに整髪料を多用したり長い間髪形が崩れるのを嫌って洗髪をしないことが多くなりかえって衛生上に問題が起こった』。『昭和に入るとそのような西洋偏重の傾向に疑問が持たれ、大量の整髪料を使わず簡単に結える「新日本髪」が発明され一種の復興運動が起こった。日本画の巨匠の』一人で『美人画に非凡な才能を発揮した上村松園はとくに日本髪の美を愛し、「耳隠し」「行方不明」などの束髪に使われる皮膚に危険な薬品や焼き鏝で髪を縮らせるパーマネントに疑問を投げかけている』とあるのは、まさに私が最初に引用した随筆「髷」のことである。

「オモヒヅキ」原文は“Omoyedzuki”で「おもゅえづき」である。平井呈一氏は『おもいざし』と訳しておられるが、種々の語や漢字表記で検索を試みたが、「おもいづき」も「おもいざし」も日本髪の髪型としてはヒットしない。先のあれだけの松園の列挙中にも似たものがない。年齢順から見ると、髷を二つの輪に結い上げた、如何にも可憐な感じのする稚児髷(ちごまげ)のようなものか? 識者の御教授を乞う。

「ヂヨラウワゲ」「女郎髷」。これも年齢順から推すと、所謂、島田髷の変形で、「結綿(ゆいわた)」と呼ばれるものの一種か? ウィキの「結綿」から引く。『江戸時代後期の未婚女性の髪形』で、『「つぶし島田」という髷の根の低い島田髷の一種に手絡をかけたもの』。『名前は真綿束ねたもの(結綿)に似ることから。現在でも二月の節分行事「おばけ」(一種の仮装行列)で京都の舞妓たちが結い変える人気の髷のひとつでもある』。『島田の髷を結わえる元結の上に赤い鹿の子の手絡を結びつけ、平打ち簪や花簪、飾り櫛などで少女らしく華やかに装う』。『島田髷の基本とはそう大きく変わら』ず、『まず前髪をふっくらと、心持ち張り出しながら布紐でまとめて後ろにやる。 鬢は自然に丸みを帯びて張り出させ(舞妓の場合は町娘より大きく張り出す)後ろ髪を後頭部で高く一つ括りにし、前に一度折り返す』『(このとき髷の根を高く上げると、仰々しい武家風の髷になるので「つぶし島田」といって町人は低くとる方が粋。)』。『そのままもう一度後ろに折り返して元結をかけ、手絡を上からくくりつける。「たぼ」は張り出さずに自然にまとめる。 全体的にやわらかい丸みを帯びた、いかにも京の町娘らしいかわいらしい印象の髷になる』とある。

「シンテフテフ」「新蝶々」「シンテフテフは年いつた人は『イテフガヘシ』とも呼ぶ。尤も原のイテフガヘシに少小異つて居る」「イテフガヘシ」は「銀杏返し」。「シンテフテフ」はこの後、注も含めて三度出るが、原文は“shinjōchō”で忠実に音写するなら「しんぢょーちょー」であるが、平井氏も『しんちょうちょ』と濁らない。ウィキの「銀杏返し」には、『幕末ごろ十代前半から二十代未満ぐらいの少女に結われた髷で、芸者や娘義太夫にも結われるようになり明治以降三十代以上の女性にも結われるようになった。京都では蝶々髷と呼ぶ』(下線やぶちゃん)。呼称は『銀杏髷を分けて折り返し、輪を』二つ作ったことに基づき、「布天神(ぬのてんじん)」「切り天神」「桃割れ」や「唐人髷(とうじんまげ)」・「楽屋銀杏(がくやいちょう)」も「銀杏返し」の一種である、とする(この中に本篇の髪型の不詳不審なものが含まれている感じがしないでもない)。「銀杏返し」は『髪を一つに括った根元から二つに分けてそれぞれ輪にして型にし、余った毛先を根元に巻き収めて「根掛け」(髷の根に巻く髪飾り)を掛けて髷の根元に根挿しの簪を挿す』のが基本形で、『芸者など粋筋の女性は髷の後ろを下がり気味に、一方堅気の若妻などは上がり気味に結い、若い娘(特に娘義太夫の芸人はかなり大きい)は髷の輪を大きく、年をとると小さく結う』。『髷の中に鹿の子を巻き込んだものが「唐人髷」、さらに髷の上部をくっつけたものが「桃割れ」になり、布を髷の上下に縦に掛けて根元で水引などでとめるのを「布天神」、この髷の片方の輪を略して付け毛をつけて切ってしまったように見せかけるのが「切り天神」と呼ばれる。(前の二つは少女、あとの二つは粋筋に結われた)』。『さらにこの銀杏返しを丸髷と組み合わせたものが、三輪髷、さらに丸髷よりの長船(前のは妾、後のは武家の側室に結われた)がある』。『また、貝髷と合成したものは貝蝶々(天神髷)と呼ばれる』とある。これはまさに「新」と被せるから、まさにハーンが述べるように、本来の「銀杏返し」=京の「蝶々髷」を、変形させた髪型と考えられる。

「『シマダ』又の名『タカワゲ』」「島田」。後者の名称は後の本文で「高髷」と表記されている。ウィキの「島田髷」から引く。『島田髷(しまだまげ)は、日本髪において最も一般的な女髷。特に未婚女性や花柳界の女性が多く結った』。『基本形は髻を折り返して元結で止めるだけのシンプルなものだが、非常に人気があってさまざまな派生の髪形ができた』。『派生形に高島田(さらにこれの派生が文金高島田と言い神前結婚式では普通この髪型で挙式)、娘島田、奴島田(町人の島田だが根の高いもの)、つぶし島田、投げ島田、芸者島田、京風島田、銀杏崩し、水車髷、おしどりなどがある』。『名前の由来には東海道五十三次のひとつ島田宿(現在の静岡県島田市にあった宿場)の女郎に由来すると言うもの、寛永年間』(一六二四年~一六四三年)『の女形島田万吉・花吉・甚吉の舞台での扮装に由来すると言うものなど諸説あるが、島田宿説が現在の通説』とされる。『島田と同じ折り返す形の髷は古墳時代の女性埴輪にも見られ、便宜上この「古墳島田」も島田髷に分類することがある。ただしこれは根が極端に低く(と言うよりは当時は髷の根という概念自体なかったと思われる)折り返し部分を扇のように広げるもので一般的な島田とはまったく異系のものである』。『本格的な「島田髷」の登場はそれから千年近くあとの江戸時代初期を待つ。島田髷の原型は「若衆髷」(未成年男子の髪型)で、子供の髷から男髷への過渡期にある男性の髷であるから前髪を残して月代を狭く剃り、髷は水平で太いものであった。その髪型を遊女が取り入れ女性向けに改良して結ったものが「島田髷」の出発点で今で言う所の元禄島田である。これはたちまち大流行して、貴賎を問わず娘たちがこぞって結うようになりその中で地域や身分、職業や個人の趣味が反映されてさまざまに派生した』。『普通武家の娘ならば「高島田」といって髷の根が高い端正な印象の髷を結う。この派生の中でもっとも根が高い形を、同時期に流行した極端に髷の根が高い男髷「辰松風(文金風とも)」にちなんで「辰松島田」と呼び、後に「文金高島田」と呼ぶようになる』。『遊女や芸者なら「投げ島田」や「つぶし島田」、「くるわつぶし」など根がずっと低い髷も平たいものを結う。「投げ島田」は髻の根を後ろにかなり下げたもので髷が後ろに投げ出されたように見えるもの。「つぶし島田」は髷の中央がつぶしたようにへこんでいるものをいう。どちらも婀娜っぽい妖艶な印象の髷である』とある。

「イテフの木(學名サリスビユリア・アンデイアンテイフオオリア)」学名原文はSalisburia andiantifolia(サリスビュリア・アンディアンティフォリア)。裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba(ギンコ・ビローバ)のシノニムである。ウィキの「イチョウ」の「名称」には、ハーンが「その葉は家鴨の足の形に能く似」ていると述べたその通りに、『中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて中国語』では「鴨脚」(yājiǎo イアチァオ)と『呼ぶので、そこから転じたとする説があるが、定かではない』。『果実や種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが、これは中国の本草学図書である』「紹興本草」(一一五九年)や「日用本草」・「本草綱目」に記載されている銀杏(唐音の『ギン・アン』)に『由来すると見られる』。『一方、イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、日本誌の著者エンゲルベルト・ケンペルの』Amoenitatum exoticarum(「廻国奇観」一七一二年)『で初めて植物学的な記述で紹介されたが、ケンペルがGinkjo,
Itsjo
(ギンキョー、イチョー)と筆記した草稿がGinkgo, Itsjoと誤植されたため、カール・フォン・リンネは著書』Mantissa plantarum II(「植物補遺」一七七一年)で『イチョウの属名をGinkgo とした。 このほか、ゲーテも』West-östlicher Divan(「西東詩集」一八一九年)で Ginkgo の名を用いて』しまっている、とある。また、『Ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りで、しばしば gingko と誤記されている。植物命名規則に依れば、誤植ならば訂正して、GinkjoまたはGinkyo』とすべきとされたが、現行でも訂正がなされていないものが殆んどであるらしい。『種小名 biloba はラテン語による造語で』、「二つの裂片(two lobes)」の意味で葉が大きく二列する点を指したもの、とある。『英語ではmaidenhair treeともいう。これは「娘(maiden)の毛の木」の意味で、葉の形が女性の陰毛が生えた部分を前から見た形(葉柄は太ももの合わせ目)に似ているための名であるが、「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる』とある。

「ゲイシヤ」「藝者」。

「ヂヨラウ」「女郎」。

「テンジンガヘシ」「天神返し」。銀杏返しに残しておいた毛束を捻って被せたもの。これに布を懸けて天辺で簪でとめたものを「布天神」、布の代わりに「鹿の子」を掛けているものを「鹿の子天神」などと呼ぶと言う。

「『ミツワゲ』」即ち環の三つある『三つ髷』」「三つ輪髷(みつわまげ)」或は「三ツ輪」のこと。髻(もとどり)の末を三つに分けて左右に輪を作り(「銀杏返し」にする)、他の一つを中央でループにして正面に倒し結んだもので、「銀杏返し」に「丸髷」をつけて結った形、とも表現されてある。江戸期には女師匠や妾(めかけ)などが好んだ髪型であるとある。

「ミツワクヅシ」先の「三ツ輪」の変形で、三ツ輪の中央部分の結髪を細くした形で、現行でも二十代女性の日本髪とする。

「モチリワゲ」確かに原文は“mochiriwage”であるが、これは「捩り髷(もじりわげ)」ではあるまいか? 但し、「捩り髷(もじりわげ)」という髪型を知っている訳ではない。識者の御教授を乞う。

「ボバイ」「ぼ」は不明だが、これは「貝髷(ばいまげ)」の一種ではなかろうか? ウィキの「貝髷」によれば、『貝髷(ばいまげ)とは髷を巻貝のように形作った女性の髪形。別名お梶(おかじ)』。『貝髷は江戸時代の初期に遊郭で考案された髪型で、簪を芯に髪を巻貝状に巻いて髷にする変わった結い方をする髪型』で、『図画資料によると、江戸時代前期には後ろにのめるように斜めに髷を作るようになったのだが、中期に再びまっすぐに作るように戻った』。『女性の路上芸人がよく結ったため、髪が土埃をかぶるのを防ぐ目的で手拭や水木帽子などの被り物と併用することが多い』とあり、さらに「外部リンク」に貝髷の鬘『ばい髷風に巻き上げた女性』『江戸後期から明治時代にかけて結われていた梳き髪を高く巻き上げた明治後期の変形』とあり、特に後者はまさに本篇と共時的であり、必見!(なお、平井氏はこれを何故か『ぼだい』と訳しておられるが、「ぼだい」は直ちに「菩提」を連想させる。「天神」とか「阿彌陀」とかあるわけだから、あっても不思議ではないが、管見する限りでは「ぼだい」は見出せない。不審)。

「『花嫁』といふ意味の語の『ハナヨメ』と呼ぶ、新婦の髷」「文金高島田」のことか。ウィキの「高島田」によれば、『高島田(たかしまだ)は、根元を高く仕立てた島田髷の一種。奴島田とも』。『島田の変形のうちでは比較的早くに誕生し最も格の高いもので、基本的に特に根が高いものは武家の女性に結われたが、町娘や京阪では芸妓遊女にも好んで結われた』。『現在でも最も根が高い文金高島田が花嫁に結われる』とある。

「クメサ」これは「粂三(くめさ)」「粂三髷(くめさまげ)」であろう。「割り鹿の子」という丸髷の中の髷型を取って割ったものに鹿の子を巻かずに、毛を用いたものを言う、と日本舞踊の女性舞踏家であられる藤間京之助氏のサイトの日本髪解説の勝山系」にある。リンク先に画像有り。

「『マルワゲ』別名『カツヤマ』「丸髷(まるわげ)」であるが、ここで別名とする「勝山」「勝山髷(かつやままげ)」とは同一物ではない。「勝山髷」が元であるから、まずはウィキの「勝山髷」から引く。勝山髷は『江戸時代初期の明暦年間ごろ登場した女髷』で、『遊女の勝山が結い始めたのが最初であることから勝山髷と呼ばれたが、元禄ごろには一般の女性にも広まり上品な印象であったころから武家の若い奥方などに結われるようになった。のちに勝山髷が変形したものは「丸髷」と呼ばれ江戸中期頃には遊女、後期以降は既婚の女性の髪形となった』。『髷が大きな輪になっているのが特徴』である。『元禄ごろの勝山髷は、前髪を引きつめ鬢を出さない代わりに、つとを思い切りだす鶺鴒髱という形にしていた。江戸中期ごろ髷の輪の幅が広く全体が平たくなっていくが、特に輪が潰れた球に近いほど広く平たくなったものを「丸髷」と呼ぶ。なお、現代の京都の舞妓や、嶋原太夫に結われている「勝山」は形状的には吹輪に近いものである』とある。

 なお、この「吹輪」は「ふきわ」で、江戸初期から武家の姫君に結われた髷の呼称、である。『髷の部分を丸く仕立てる部分が似ているため勝山髷の原型という説もある。武家の姫ならこの吹輪を結う』のが通常で、『結い方自体は「愛嬌毛」と言われるわざと左右にたらした後れ毛の房を除いて勝山髷の輪が広くなったものと変わらないが、特徴的なのは満艦飾といった赴きさえある多種多様な髪飾りの多さと豪華さである』。『髷には「両天簪」といわれる豪華な細工がある金属の簪を挿し、髷の中には「鼓」と言われる楽器の鼓の形をした装飾品で髷の整形を兼ね(使用しないこともある)、根元には赤地錦などをくくりつけ』、『前髪には金箔などを漉き入れた染め紙、左右にびらびら簪という金属の小片を鎖で下げた簪に、「姫挿し」といわれる芝居の姫の役などに見られる大きな金属の造花を飾りつけた髪飾りを装着する』。『だし、華やかな装飾や「後れ毛」は芝居・舞台用のアレンジであり、実際の武家の姫君は銀・べっこう細工の櫛・こうがい等のみで地味であったといわれる』(この部分はウィキの「吹輪」に拠った)。

 次に、「丸髷」であるが、これもウィキの「丸髷」から引く。『丸髷(まるまげ)とは、江戸時代から明治時代を通じて最も代表的な既婚女性の髪形』で、『江戸時代前期に大流行した勝山髷を変形させたもの』。『本格的な「丸髷」の登場は文化・文政ごろと思われる。幕末には髷の中に和紙製の型を入れるなどして形を保つようになった』。『勝山髷とほぼ同じ結い方をするが、髷の輪が厚く広くなって輪と結うより丸に見えるようになったのがこの髷で髷の大きさで年齢が見分けられる(若いほど髷が大きい)』。『現在一般には髷の下に布を入れるところで勝山髷と区別している』。江戸後期以降に江戸を中心とした東日本で流行し、『明治以降は全国的に広く一般に結われていた髷だが、髷の形に個人の好みを反映させるため明治末期には「両国形」「老松形」など数多くの「丸髷型」が売り出されていた』。『未婚時代には島田髷が結われるのに対して、結婚すると丸髷に変わるので、オペラ「蝶々夫人」を日本の風俗に忠実に演ずる場合は(長崎の芸者だったヒロインが冒頭で結婚するため)途中で髪形を変えねばならずカツラを二種類用意することがある』とある。

「片外づし」「かたはづし」と読み、江戸時代、御殿女中や官女らが結った髷の一種という。ウィキ片外しによれば、『笄に片方だけ巻き込んだ髪と平たい「つと」』(「髱・髩」(たぼ・たぼがみ)の関西での呼称。日本髪に於いて襟足に沿って背中の方に張り出した部分を指す)『が特徴で、御殿女中の代名詞的な髪型だった』。『京都の公家に仕える女性が公家の姫と将軍との婚礼の際に江戸に下り、大奥に広めた髪型。このため、笄さえ外せば下げ髪になるように、髷が仮結いされている』。『「つと」は、公家か上流武家にのみ結われた特殊な形をしていて、京風では「葵髱」(あおいづと、江戸では椎茸髱:しいたけたぼ)と呼んで、葵の葉や乾燥しいたけのような平たく薄い半円形を二つつなげた形になる』。『特徴的なのは、後ろでひとつにまとめた髪を輪にして、髪の片端だけを笄に巻きつけるところ。普通の笄髷はまとめた髪の根元も笄に巻くが、こちらは根元はそのままで、笄さえ抜けばすぐに下げ髪になるように仮結いのままにしておく』。『従って髪飾りも殆ど付けず、笄のほかは櫛や平打簪などを使うのみの質素な印象』の髪型である、とある。]

 

 

 

   Not less than fourteen different ways of dressing the hair are practised by the coiffeuses of Izumo; but doubtless in the capital, and in some of the larger cities of eastern Japan, the art is much more elaborately developed. The hairdressers (kamiyui) go from house to house to exercise their calling, visiting their clients upon fixed days at certain regular hours. The hair of little girls from seven to eight years old is in Matsue dressed usually after the style called O-tabako-bon, unless it be simply 'banged.' In the O-tabako-bon ('honourable smoking-box' style) the hair is cut to the length of about four inches all round except above the forehead, where it is clipped a little shorter; and on the summit of the head it is allowed to grow longer and is gathered up into a peculiarly shaped knot, which justifies the curious name of the coiffure. As soon as the girl becomes old enough to go to a female public day-school, her hair is dressed in the pretty, simple style called katsurashita, or perhaps in the new, ugly, semi-foreign 'bundle-style' called sokuhatsu, which has become the regulation fashion in boarding-schools.
For the daughters of the poor, and even for most of those of the middle classes, the public-school period is rather brief; their studies usually cease a few years before they are marriageable, and girls marry very early in Japan. The maiden's first elaborate coiffure is arranged for her when she reaches the age of fourteen or fifteen, at earliest. From twelve to fourteen her hair is dressed in the fashion called Omoyedzuki; then the style is changed to the beautiful coiffure called jorōwage. There are various forms of this style, more or less complex. A couple of years later, the jorōwage yields in the turn to the shinjōchō [6] '('new-butterfly' style), or the shimada, also called takawage. The shinjōchō style is common, is worn by women of various ages, and is not considered very genteel. The shimada, exquisitely elaborate, is; but the more respectable the family, the smaller the form of this coiffure; geisha and jorō wear a larger and loftier variety of it, which properly answers to the name takawage, or 'high coiffure.' Between eighteen and twenty years of age the maiden again exchanges this style for another termed Tenjin-gaeshi; between twenty and twenty-four years of age she adopts the fashion called mitsuwage, or the 'triple coiffure' of three loops; and a somewhat similar but still more complicated coiffure, called mitsuwakudzushi, is worn by young women of from twenty-five to twenty-eight. Up to that age every change in the fashion of wearing the hair has been in the direction of elaborateness and complexity. But after twenty-eight a Japanese woman is no longer considered young, and there is only one more coiffure for her,—the mochiriwage or bobai, tine simple and rather ugly style adopted by old women.

   But the girl who marries wears her hair in a fashion quite different from any of the preceding. The most beautiful, the most elaborate, and the most costly of all modes is the bride's coiffure, called hanayome; a word literally signifying 'flower-wife.' The structure is dainty as its name, and must be seen to be artistically appreciated. Afterwards the wife wears her hair in the styles called kumesa or maruwage, another name for which is katsuyama. The kumesa style is not genteel, and is the coiffure of the poor; the maruwage or katsuyama is refined. In former times the samurai women wore their hair in two particular styles: the maiden's coiffure was ichōgaeshi, and that of the married folk katahajishi. It is still possible to see in Matsue a few katahajishi coiffures.

6
The shinjōchō is also called Ichōgaeshi by old people, although the original Ichōgaeshi was somewhat different. The samurai girls used to wear their hair in
the true Ichōgaeshi manner the name is derived from the ichō-tree (Salisburia andiantifolia), whose leaves have a queer shape, almost like that of a duck's foot. Certain bands of the hair in this coiffure bore a resemblance in form to ichō-leaves.

« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (三) | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (五) »