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2015/11/29

松尾芭蕉シンクロニティ 「笈の小文」の旅――旅立ち

本日  2015年11月29日

     貞享4年10月25日

はグレゴリオ暦で

    1687年11月29日

 

 この日、松尾芭蕉は所謂、「笈の小文」の旅に発った――

 

 以下、「笈の小文」の冒頭を電子化注する。底本は正字表記とするために、昭和三(一九二八)年日本古典全集刊行会刊正宗敦夫編纂・校訂「芭蕉全集 前篇」を国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で視認した。当該底本では表題を『「卯辰紀行」(別名、芳野紀行)』とするが、私の好きな「笈の小文」で統一する。句の前後は一行空けを施し字配の一部を操作した。

 本紀行「笈の小文」は貞享四年十月十五日(グレゴリオ暦一六八七年十一月二十九日)に江戸を出発して鳴海・勢田を経て、名古屋の蕉門の有力者で芭蕉が愛した門弟の一人で、坪井杜国を侘び住まいの知多の保美(ほび)村に訪ね(米穀商であったが、当時、空米(からまい)売買(米の先物取引)で罰せられてここに流謫されていた)、その後、郷里伊賀上野で越年、伊勢に詣でて、保美で約しておいたと思われる杜国とおち逢い(流謫の処罰は緩やかであった)、同道の上、吉野にて花を見、後、高野山・和歌浦・奈良・大坂・須磨・明石を経巡って、翌貞享五年(九月三十日に元禄に改元)の四月二十三日に京に着くまでの旅を指す。この内、

杜国訪問のシークエンスは

  貞享4年11月10日から14日

で、これはグレゴリオ暦では

 一六八七年12月14日から18日

に相当し、これは既に二〇一三年の十二月十二日附のブログ記事「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」(読まれんとされる方は分量膨大なれば御覚悟あれ)で電子化注を施している

 但し、よく理解されているとは思われないので附言しておくと、本紀行は芭蕉が直接纏めた紀行文ではない。元禄七(一六九四)年十月十二日の芭蕉の死後、十五年も経った宝永六(一七〇九)年に、大津の門人河井乙州(おとくに)が芭蕉から託されたと思われる多数の草稿断片類を恣意的に組み上げて編んで刊行したものである。なお、本紀行は「笈の小文」「卯辰(うたつ:底本標題では『バウシン』とルビする)紀行」「芳野紀行」以外にも「庚午(こうご)紀行」「大和紀行」など多く、しかも実は人口に膾炙している「笈の小文」は芭蕉が生前、別の撰集に予定していた名称でもあった。

 「標題」の記載から判断するに、底本が準拠したのは芭蕉の最初の全集である文政一〇(一八二七)年)刊の古学庵仏兮・幻窓湖中編「俳諧一葉集」と判断されるが、一読されると分かる通り、現在、一般に通行している宝永版本の「笈の小文」とはかなり異なる。そこもまたお楽しみあれ。

 

 

    笈の小文

 

百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物あり、假りに名付て風羅坊(ふうらばう)と云ふ。眞(まこと)に羅(うすもの)のかぜに破れ易(やす)からん事をいふにやあらん。彼れ狂句を好こと久し、終に生涯の計(はか)り事となす。或時は倦んで放擲せんことを思ひ、或時は進んで人に勝たん事を誇り、是非胸中に鬪うて、是れが爲めに身安からず。暫く身を立てん事を願へども、是れが爲に支(ささ)へられ、暫く學んで愚を論さん事をおもへども、是れが爲に破られ、終に無能無藝にして唯だ此一筋に繫がる。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の繪に於ける、利休の茶に於ける、其貫道する物は一なり。然かも風雅に於ける、造化に從ひて四時を友とす。見る處花に有らずと云ふ事なし、思ふ處月に有らずといふこと無し。思ひ花に有らざる時は夷狄に齊し、心花に有らざる時は鳥獸に類ひす。夷狄を出で鳥獸を離れて、造化に從ひ、造化に歸れとなり。

神無月の初、空定めなき氣色(けしき)、身は風葉の行方(ゆくへ)なき心地して、

 

     旅人とわが名呼ばれん初しぐれ

 

        また山茶花を宿々にして

 

岩城の住(じゆう)長太郎と云ふ者、 此脇を付けて、其角亭に於いて關送りせんともてなす。

 

     時は秋吉野をこめん旅の苞(つと)

 

此句は、露沾公より下し賜はらせ侍りけるを、餞(はなむけ)の初として、舊友親疎、門人等、或るは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包て志を見す。かの三月の糧(かて)を集むるに力を入れず。紙衣(かみこ)、綿子(ぬのこ)など云ふ物、帽子、韈(したうづ)やうの物、心心に送り集(つど)ひて、霜雪の寒苦を厭ふに心無し。或るは小舟を泛べ、別墅に設けし、草庵に酒肴携へ來て行方を祝し、名殘を惜みなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ。

抑も道の日記といふものは、紀氏、長明、阿佛の尼の、文を奮ひ情を盡してより、餘は皆おもかげ似通ひて、其糟粕を改むる事能はず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降り晝より霽れて、其處に松あり、彼處に何と云ふ川流れたりなど云ふこと、誰れ誰れも云ふべく覺え侍れども、黃、奇、蘇、新の類にあらずば云ふこと莫かれ。されども其處其處の風景心に殘り、山館、野亭の苦しき愁も且つは噺の種となり、風雲の便りとも思ひなして、忘れぬ處處、跡(あと)や先やと書き集め侍るに、猶醉へるものの語(まうご)に齊(ひと)しく、寢ねる人の讒言(たはごと)する類ひに見なして、人また妄聽(ばうちやう)せよ。

[やぶちゃん字注:「」「忄」+「孟」。]

 

[やぶちゃん注:「百骸九竅」「ひやくがいきうけう(ひゃくがいきゅゆきょう)」は「荘子」「斉物論篇」にある、「百骸九竅六藏、賅而存焉」(百骸・九竅・六藏、賅(そな)はりて存す)に基づき、百の骨節と九つの穴(目・耳・鼻・口・肛門・尿道)と六つの臓器(肝・心・脾・肺・腎・心包)で、即ち、物理的な人体を指すが、ここは一箇の芭蕉の身体及び身体性を指す。

「物」芭蕉一箇身体に内在する「心」を客体化して表現したもの。

「風羅坊」「ふうらばう(ふうらぼう)」。「羅」は「うすもの」で、風で破れてしまうようなごく薄い巾(きれ)。文字通り、芭蕉のシンボルたるバショウ(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo)の薄い葉を洒落た、芭蕉の別号めいた自称。

「狂句」俳諧。雅な堂上連歌に対して俳諧が本来は滑稽を旨とするところから俳諧を卑下して自称した語。川柳の別称としてのそれは江戸後期以降のこと。

「或時は倦んで放擲せんことを思ひ」「倦(う)んで」「放擲(はうてき)」。ある時は飽きあきしてしまい俳諧の道など捨て去ろうということまでも思い。「新潮日本古典集成」の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)によれば、これは寛文六(一六六六)年四月二十五日満二十三の時、伊賀上野にあった芭蕉は主君新七郎良忠(蝉吟)の死去(享年二十五)に遭って致仕した後、『寛文十二年専門の俳諧師となるべく江戸下向(げこう)するまでの間、伊賀と京都を』彷徨していた『当時の事実をさす』とあされ、同書年譜には、この約六年間は、『俳諧の製作を続けながらも、一時は京との禅寺に入って修行し、また漢詩文の勉学にも勉めたようであ』り、『将来の立身の方針が定まらず、迷っていた時期である』とされる。事実、このまさに六年の間の、若き日の芭蕉の青春彷徨の時期は殆んどが不明である。

「或時は進んで人に勝たん事を誇り」延宝八(一六八〇)年に突如、三十五の若さで深川(後の芭蕉庵)に隠棲までの約七年間の有様を言う。この間、芭蕉は日本橋界隈で典型的な職業俳諧師である点取俳諧の宗匠として俗俳と伍を成していた。

是非胸中にたゝかふて:<ぜひきょうちゅうにたたこうて>と読む。理非曲直に思い煩ってああしよう、こうしようなどと思い悩む、の意 

「しばらく身を立むことをねがへども」「しばらく」は「一時は」の意。ここ以下は、前の一文の「或時は……或時は……」の箇所と対偶する。即ち、伊賀上野にあって藤堂家に仕えていた頃には、武士として主家に取り立てられるといった望みなども抱いていたか。現在では芭蕉は農民の出自であったとする説が有力である。

「是れが爲に支(ささ)へられ」通行本では「支(ささ)へられ」は「さへられ」と読んでいる。「支障」のように「支」には国訓で、「つかえ」、突き当たって抑えられること・差支え・差し障りの謂いがあるから、問題はない。「是れ」も以下の「是」「此」も無論総て、俳諧への執着心を指す。

「造化」芭蕉の場合、道家思想のそのニュアンスが強い。所謂、万物を創造する宇宙的な規模の不可知の絶対的真理としての自然という摂理である。

「四時」従来、「しいじ」と読むことになっている。四季の玄妙なる移り変わり。

「思ひ花に有らざる時は夷狄に齊し、心花に有らざる時は鳥獸に類ひす」冒頭の「思ひ」通行本では「像(かたち)」である。本篇冒頭の身体(かたち)と「物」の関係の鏡像関係としては「像」と「心」の方が腑に落ちるように一見見えるが、ここは寧ろ、「心」「心象」と「対象」との瞬時の共時性(これはすこぶる老荘的である)を問題にしているのであって、「像」は対象に対する「心象」の謂いであり外的対象物への「思ひ」が即「心」であることが、この方が判り易いと思う。音の律の快さとしての「像(かたち)」よりも、私は「思ひ」の純朴さの方を採りたい。

「空定めなき氣色」この出立前後、季節的にも天候不順であったというより、以下の絶唱の名句の孤愁をより昂めるための芭蕉好みの常套的な文学的修辞である。ここからは、其角亭で行われた本旅の餞別会のシークエンスとなる。これは「続虚栗」の前書が正しいとすれば旅立ちに先立つ十日前の十月十一日のことであった。

「風葉の行方なき心地して」「風葉」は「ふうえふ(ふうよう)」。富山氏は前掲書頭注で「古今和歌集」の「秋歌下」の一首(二百八十六番歌)で「題しらず」「読人知らず」の、

 

秋風にあへず散りぬるもみぢ葉のゆくへさだめぬ我ぞかなしき

 

『などの歌の感懐』に基づくものとされる。

「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」本句は既に〇一十一十三記事で詳細な評釈を附しているのでそちらも参照されたい。以下は、同餞別会で興行された十人の世吉(よよし)の発句と由之(ゆうし:後注参照)の脇句で、通行の「笈の小文」では、

 

旅人と我(わが)名よばれん初しぐれ

 

の表記で載り、また、「俳諧 千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一二)年序)には、

 

  はやこなたへとうふ露の、むぐらの

  宿(やど)はうれたくとも、袖をか

  たしきて、御とまりあれやたび人

 

たび人と我名よばれむはつしぐれ

 

という前書と表記で載る。参照した中村俊定校注の岩波文庫版「芭蕉俳句集」によれば、この後者の前書は、『謡曲「梅ケ枝」の一節に譜点を付けたもの』とある。謡曲「梅枝(うめがえ)」は世阿弥作で、管弦の役争いで討たれた楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る夢幻能である。前掲書の富山氏の頭注には、この前書には真蹟があり、『それは、「初しぐれ」の語に託する和歌的情緒と共に、この旅立の意識が伝統的な旅の風雅への門出であることを』示すと解説されている。まさにこの一句はまさしく、芭蕉孤高の覚悟のプロパガンダであったと私は詠む。なお、他に「夏の月」(一定編・宝永二(一七〇五)年)では「故郷に趣る道中の吟」という前書もある。

「また山茶花を宿々にして」「岩城の住」「長太郎と云ふ者」磐城国小奈浜(おなはま)出身の、内藤家家臣で蕉門であった井手由之。前掲書の富山氏の頭注によれば、この「また」とは、先行する「野ざらし紀行」に載る、

 

 狂句木枯の身は竹齋に似たる哉

 

に野水(やすい)が、

 

    誰(た)そやとばしる笠の山茶花

 

と脇句を付けたのを踏まえたものである、とする。

「關送り」「せきおくり」。送別。送別の宴。

「時は秋吉野をこめん旅の苞(つと)」「此句は、露沾公より下し賜はらせ侍りける」「露沾」は「ろせん」と読む。内藤露沾(?~享保一八(一七三八)年)は磐城平藩七万石城主内藤右京大夫義泰(風虎)の次男義英。二十八の時にお家騒動で家老の讒言によって貶められ、麻布六本木の別邸で風流の日々を送って、部屋住みのまま生涯を終えた。蕉門中で最も身分の高い人であった(ここは伊東洋氏の「芭蕉DB」の「内藤露沾」に拠った)。先の由之はこの内藤家の家臣である。これが実は本来句形で、これは九月に行われた本旅の餞別句であった。通行本「笈の小文」では、

 

 時は冬吉野をこめん旅のつと

 

と変えられているが、これは前掲書の富山氏の頭注によれば、『「神無月(かんなづき)」で始まるこの文中に配する際、芭蕉が季を合わせるために「冬」に改めたもの』とある。この記載から判るように、乙国によって私的に創り上げられた本篇の原型は、確かに芭蕉が推敲していたことが認められていることが判明する。但し、それらの芭蕉の原草稿類は残ってはいないのである。「苞」は、原義は藁などを束ねた中に壊れやすい或いは傷み易いものを入れて包みとした藁苞(わらづと)のことで、そこからそこに入れて人に贈る土地の産物、旅の土産の意となったもの。意味は――旅立つとあなたが言う……今は秋……しかしまた来春ににはお戻り遊ばされるとのことなれば……どうか、旅の終りには花の吉野に遊ばれ、桜の句をものされ、それを手土産として、お待ち申しておりましょう――である。

「かの三月の糧(かて)を集むるに力を入れず」ここも「荘子」の「逍遙遊」にある「適百里者、宿舂糧、適千里者、三月聚糧」(百里を適(ゆ)く者は、宿に糧(りやう)を舂(つ)き、千里を適く者は、三月(みつき)糧を聚(あつ)む)」に基づく。旅立の事前準備の苦労を指す語であるが、それに「力を入れず」とあるのは、文中にある通り、それをまさに門人やパトロンらが難なく果たして呉れたからであった。

「紙衣(かみこ)」紙で仕立てた衣服。厚手の和紙に柿渋を塗って乾かし、揉み柔らげたもので仕立てた防寒具。本来は僧が用いたが、後に一般に広く普及した。「かみぎぬ」「紙子」とも読み、書く。

「綿子(ぬのこ)」通行本では「綿子(わたこ)」と訓じている(「わたこ」が普通)。真綿を布などで包まずにそのまま縫い上げた防寒具。現行の「綿入れ」のことも指す。

「帽子」富山氏の頭注に、『布で作った円形の頭巾(ずきん)』とある。

「韈(したうづ)」現代仮名遣では「しとうず」と読む。「下沓」(通行「笈の小文」はこれで表記)「襪」とも書く。「したぐつ」の転訛で、平安以後に発生した一種の足袋(たび)。指の部分は分かれておおらず、小鉤(こはぜ)もなく、紐で結ぶタイプのもの。

「故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ」「首途」は通行の「笈の小文」は「門出」。ここも洒落のめして見えるが、実はおそらく「物めかしく」(ものものしく・いわくありげな)は「物語めいて」であり、自身を「故ある人」、謡曲の貴種流離の主人公に暗に擬える意識が働いてもいるように私には読める。

「抑も」通行の「笈の小文」は「そもそも」であるが、「そも」と訓じておく。その方がすっきりして、それこそ「物めかしく」ないくてよい。

「日記」「にき」と訓じておく。

「紀氏」老婆心乍ら、ここのみ注しておく。「土佐日記」の紀貫之。

「糟粕を改むる事能はず」旧態然として新境地を開拓しようとする意識が全く示されていない。

「淺智短才の筆に及べくもあらず」前で偉そうなことを言ったので、ここは自身を卑下して言ったのである。

「彼處」「かしこ」。

「誰れ誰れ」「たれたれ」と濁らない。

「黃、奇、蘇、新の類」「類」は「たぐひ(たぐい)」。「黃」は北宋詩人で「詩書画三絶」と讃えられる黄庭堅を、「蘇」は同じく北宋のの「唐宋八大家」の一人蘇軾(東坡)を指す。南宋の魏慶之編んいなる著名な詩話「詩人玉屑(しじんぎょくせつ)」の中に、「蘇子瞻以新、黃魯直以奇」(蘇子瞻(そしせん:黄庭堅の字(あざな))は新(しん)を以つてし、黄魯直(蘇東坡の字)は奇を以つてす」(「奇」「新」は奇警と斬新の謂い)それぞれ、と賞揚していることを受けた表現。

「其處其處」「そのところそのところ」と訓じておく。通行の「笈の小文」は「その所々」。

「山館・野亭の苦しき愁」「さんくわん(さんかん)・やていのくるしきうれひ」と読む。山家(やまが)や野中の木賃宿に草枕することの旅の苦しい思い。ここ以下は「東関紀行」の冒頭に、

   *

終に十餘りの日數を經て、鎌倉にくだり著きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽(かすか)なる砌(みぎり)に至るごとに、目に立つ所々、心とまるふしぶしを書き置きて、忘れず忍ぶ人もあらば、自(おのづか)ら後のかたみにもなれとてなり。

   *

とあるのをインスパイアしたものである。

「風雲の便り」旅寝のそれなりの消息。

語(まうご)」「」「忄」+「孟」。この漢字は「廣漢和辭典」にも載らないので不詳。通行の「笈の小文」は「妄語」。「妄語」は本来は仏教用語で「五悪」或いは「十悪」の一つとする、嘘・偽りを言うことであるが、ここは謙辞で、下らぬ意味もない戯れ言の謂い。しかし現行のそれは以下の「妄聽」(無意味な下賤の詞として適当に聴き流すこと)と「妄」が同字で生理的には嫌な感じがする。]

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