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2015/11/30

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (九)

       九

 

 知夫里村から船は、西の島に在る浦郷の港に向つて西進した。近づくに從つて燒火山が壯大な觀を呈して來た。遠く離れて見ては温順しい美しい恰好に見えたのであつたが、その靑の色調が發散すると、その貌(すがた)が凹凸になり物凄くさへなつた。全部薄黑い靑綠に包まれたぎざぎざな大きな山で、その靑綠の中から、ぼろ切の中からのやうに、此處其處に非常に亂暴な恰好をしたむき出しの岩が突き出て居るのである。その絶頂の不規則な線へ落日の光りが射した時、其岩の一つが非常に大きな灰色の頭蓋骨のやうに見えた事を自分は覺えて居る。この山の麓に、中の島の海岸に面して、上は瘠せこけた灌木に蔽はれて居る、高さ數百呎の、金字塔形の岩山が――モンガクザンが――突立つて居る。その荒涼たる山頂に小さな社殿がある。

 タクヒザンとは燒く火の山といふ意味で――恐らくはその靈火の傳説か或はその噴火時代の古代の記憶かに基いての名である。モンガクザンといふは文覺――高僧文覺上人――の山といふ意味である。文覺上人は隱岐へ逃れ來て、多年此山の頂でその甚重な罪惡の贖罪苦行を行つて、獨りで住まつて居たといふことである。上人が眞實隱岐へ來られたことがあるかどうか、自分は言ふことが出來ぬ。さうで無いと公言する口碑がある。だが兎に角この小峰は上人の名を數百年有ち來たつて居るのである。

 さて文覺上人の身の上は斯うである。

 數世紀前、京都の都に、その名を遠藤盛遠といふ衞戌の將があつた。ある貴いサムラヒの夫人を見て戀し、その夫人がその熱望を聽くことを拒むと、自分が申述べる方策に同意しなければ、その一家を滅ぼすと誓言した。方策といふは或る夜、自分を邸内へ忍ばせてその夫を殺させよといふので、それを果してから自分の妻になれといふのであつた。

 然し彼女は、同意した振をして、自分の貞操を全うする高潔な計略を案出した。即ち、夫に勸めて都を立去らしめて置いてから、遠藤へ手紙を送つて、或る夜その邸宅へ來るやうにと言ひ送つた。そしてその當夜、彼女は夫の服を身にまとひ、髮を男の髮の如くつかね、夫の臥す處に寢ねて、眠つた風をして居つた。

 すると遠藤は深更に拔身を携へてやつて來て、一擊の下にその睡眠者の頭を打切り、そして髮を手に首を摑み上げて見ると、それは自分が戀して無體なことを言ひ掛けたその女の首であつた。

 そこで彼は非常な悔恨の念に打たれて、近くの或る寺へ急いで行つて、自分の罪を自白し、悔悟をして髮を切り、出家となつて文覺といふ名を名乘つた。そして後年彼は至德の境に達した。だから今でも彼に祈念する人があり、彼の靈は國内到る處に尊崇されて居る。

 今東京の淺草の、觀音樣のあの大きな寺へ行ける小さな妙な通路の一つに、見世物になつて居る驚くべき像を――たゞ木で造つたものではあるが、生きて居るやうに見える人形を――日本の古い傳説を説明して居る人形を――いつでも見ることが出來る。其處へ行くと、右手に血まみれな刀を持ち、左手に美しい女の首を提げて、遠藤が立つて居るのが見られる。その女の顏は、たゞ美しいだけであるから、諸君は直ぐ忘れるかも知れぬ。だが遠藤の顏は、地獄そのものであるから、忘れることはないであらう。

 

[やぶちゃん注:「數百呎」百フィートは約三〇・四八メートルであるから、百八十メートル前後となる。

「タクヒザンとは燒く火の山といふ意味で――恐らくはその靈火の傳説か或はその噴火時代の古代の記憶かに基いての名である」前の「七」の「燒火山(たくひざん)」の注を参照されたいが、ハーンの謂いも尤もではあるものの、寧ろ、海上交通の安全のために、古より灯台として機能していたことが大きな由来のようにも思われる。

「モンガクザン」観光協会のガイドブックよれば、現在は「文覚窟」と呼ばれており、焼火山の南東の高さ約百五十メートルの絶壁の頂上近くにあり、ここで文覚が修行したという伝承があるとある。

「文覺」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)俗名遠藤盛遠は、頼朝に平家討伐の決起を促した人物として、また、かの名僧明恵の祖師としても知られ(私は明恵の「記」電子化訳注を別に行っている)、さらに「源平盛衰記」の「卷十九」の「文覺發心」による、ここに書かれた同僚であった渡辺渡の妻袈裟御前に懸想した悲劇(私の電子テクスト芥川龍之介「袈裟と盛遠などを参照されたい)元でも知られる武士で真言宗僧である。私は彼については多くのテクスト注(「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」(をどうぞ)などの多量の鎌倉地誌テクスト及び北條九代記」テクストなど)で語ってきており、オリジナルに謂いたいことは山ほどあるが、ここでは引用に留める。まずウィキの「文覚」から(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、十九才で出家した』。『京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。 また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する』。『頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、さらに元久二年(一二〇五年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した』とあるが、平凡社の「世界大百科事典」(阿部泰郎氏執筆)には(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に代え、括弧や表記の一部も変更した)、出家後は『諸国の霊山を巡って修行し、その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが、法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得、彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く、京都と鎌倉を往復して京都、諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方、その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。一一九三年(建久四)には東寺修造料国として播磨国を得てその国務を沙汰し、東寺の修造活動も行った』。正治元(一一九九)年に庇護者であった『頼朝が死去するとともにその地位を失い、新たに朝廷内に台頭した源通親によって、親頼朝派の公家の九条兼実らとともに謀議を計ったかどで捕らえられ佐渡国へ配流された』ものの、建仁三(一二〇三)年には許されて京都に帰ったとも言われている、とあり、先のウィキの事蹟記載とは大きく食い違う。この内、佐渡配流はほぼ確実と思われるが、それを隠岐とする説や、佐渡の次に隠岐にも流されたという説もあり、実は先にハーンが通った隠岐の知夫里島には文覚の墓なるものが実在するのである(個人ブログ「いちご畑よ永遠に」の隠岐の歴史散策 後鳥羽上皇行在所跡 文覚上人の墓 名水・天川の水を参照されたい。写真があり、そこには『五輪塔と祠があ』るとある)。ともかくも異伝や怪しげな伝承の多い人物で、「世界大百科事典」では続けて、『文覚についての伝承は、「平家物語」諸本を中心に展開される。「源平盛衰記」に、長谷観音に申し子して生まれたが早く孤児となり、幼児期より「面張牛皮(めんちちょうふてき)」な乱暴者であったという。元服後、北面武者となったが、「平家」の読本系諸本では』、『渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに十八歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し,異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。「平家」諸本は、文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが不動明王の童子に助けられ、諸国の霊山を修行して「やいばの験者」と呼ばれたといい、やがて、神護寺復興のため、法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ、投獄されたが放言悪口が止まないため、伊豆に流されたという。このいきさつや配流の途中断食して祈願したことなど「文覚四十五箇条起請文」に基づくが、「平家」では護送の役人をだまして笑い者にしたり、船中で嵐に遭うが竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが加えられる。伊豆では奈古屋の観音堂に籠り、「長門本」や「延慶本」では湯施行』(僧が寺院等に於いて貧民・病人らを対象として浴室(蒸風呂)を開放したり新設したりして入浴を施すことを言う)『をしたといい、「盛衰記」では相(占い)人の評判を立て、頼朝に対面し、彼が天下の大将軍となる相を見て、父義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという。「吾妻鏡」には、後年、頼朝が勝長寿院を供養の際、文覚が京より義朝の頭を将来したというが、これが背景にあるか。やがて籠居または入定を装って福原京に上り、平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらしたという。これは「愚管抄」も否定しながら記す。平氏滅亡後は維盛の子六代の助命に奔走するが、これには長谷観音の霊験譚がかかわる。頼朝が没すると直ちに失脚し、佐渡、ついで隠岐に流されるが、「延慶本」はこれを、文覚が「及杖(ぎっちょう)冠者」』(「及杖」は毬杖(ぎっちょう)で、木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るって木製の毬を相手陣に打ち込む遊び。後鳥羽上皇が好んだ。「冠者」は「若造が!」ぐらいの蔑称であろう。「六代被斬」の一節である)『とののしった後鳥羽院との確執によると伝え、死後、明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという』と、まさに八面六臂の獅子奮迅の有体である。『物語のなかで文覚は、「天性不当」で「物狂」な人とされ、勧進聖としての姿を強調することに重なる。また頼朝の護持僧として、予言者であり、さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示す。「愚管抄」に彼のことを『天狗マツル人』という評判があったといい、「吾妻鏡」は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど、王を背後から支える宗教者として造形されている』。『なお、文覚の生没については、高山寺蔵の伝隆信筆の文覚画像に『建仁三年七月二十一日六十五歳没』と見えており、近年、この没年は信頼に足るものと考えられるようになった。これによる』ならば、生年は保延五(一一三九)年、没年は建仁三(一二〇三)年となる、とある(下線やぶちゃん)。

「衞戌」「ゑいじゆ(えいじゅ)」と読み、武士や兵隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛の任に当たることを指す。

「東京の淺草の、觀音樣のあの大きな寺へ行ける小さな妙な通路の一つに、見世物になつて居る」と、路傍の興行師のそれのように書かれてあるが、ハーンがかくも書いて、読者の中には来日したら、そこでそれを見ることもあろう、といった口調で述べていることから見て、これは現在も台東区浅草二丁目にある「浅草花やしき」のことではないかと私は思うのである。ウィキ浅草花やしきによれば、同園は嘉永六(一八五三)年の開園で、『日本最古の遊園地とされ』当初は植物園「花屋敷」であったが、明治に入って、『浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定され』、敷地は縮小されたものの、明治一八(一八八五)年には『木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継』ぎ、『翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した』。『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった』とあるからである(下線やぶちゃん)。]

 

 

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   From Chiburimura we made steam west for the port of Urago, which is in the island of Nishinoshima. As we approached it Takuhizan came into imposing view. Far away it had seemed a soft and beautiful shape; but as its blue tones evaporated its aspect became rough and even grim: an enormous jagged bulk all robed in sombre verdure, through which, as through tatters, there protruded here and there naked rock of the wildest shapes. One fragment, I remember, as it caught the slanting sun upon the irregularities of its summit, seemed an immense grey skull. At the base of this mountain, and facing the shore of Nakashima, rises a pyramidal mass of rock, covered with scraggy undergrowth, and several hundred feet in height,— Mongakuzan. On its desolate summit stands a little shrine.

   'Takuhizan' signifies The Fire-burning Mountain,— a name due perhaps either to the legend of its ghostly fires, or to some ancient memory of its volcanic period. 'Mongakuzan' means The Mountain of Mongaku,— Mongaku Shonin, the great monk. It is said that Mongaku Shonin fled to Oki, and that he dwelt alone upon the top of that mountain many years, doing penance for his deadly sin. Whether he really ever visited Oki, I am not able to say; there are traditions which declare the contrary. But the peaklet has borne his name for hundreds of years.

   Now this is the story of Mongaku Shōnin: —

   Many centuries ago, in the city of Kyōto, there was a captain of the garrison whose name was Endo Moritō. He saw and loved the wife of a noble samurai; and when she refused to listen to his desires, he vowed that he would destroy her family unless she consented to the plan which he submitted to her. The plan was that upon a certain night she should suffer him to enter her house and to kill her husband; after which she was to become his wife.

   But she, pretending to consent, devised a noble stratagem to save her honour. For, after having persuaded her husband to absent himself from the city, she wrote to Endō a letter, bidding him come upon a certain night to the house. And on that night she clad herself in her husband's robes, and made her hair like the hair of a man, and laid herself down in her husband's place, and pretended to sleep.

   And Endō came in the dead of the night with his sword drawn, and smote off the head of the sleeper at a blow, and seized it by the hair and lifted it up and saw it was the head of the woman he had loved and wronged.

   Then a great remorse came upon him, and hastening to a neighbouring temple, he confessed his sin, and did penance and cut off his hair, and became a monk, taking the name of Mongaku. And in after years he attained to great holiness, so that folk still pray to him, and his memory is venerated throughout the land.

   Now at Asakusa in Tokyō, in one of the curious little streets which lead to the great temple of Kwannon the Merciful, there are always wonderful images to be seen,— figures that seem alive, though made of wood only,— figures illustrating the ancient legends of Japan. And there you may see Endō standing: in his right hand the reeking sword; in his left the head of a beautiful woman. The face of the woman you may forget soon, because it is only beautiful. But the face of Endō you will not forget, because it is naked hell.

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