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2015/11/14

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (五)

          五   一八九〇、十月十五日

 

 私は今日島根縣全體の【譯者註一】學校の例年の運動會を見た。この競技は二の丸の城内の大廣場で行はれた。昨日圓形のトラックは仕切られ、高飛びのためにしがらみは造られ、參觀人や來賓のために數百の木の腰かけは準備せられ、見事な假屋は知事のために設けられた、何れも日暮までにでき上つた。周圍は板の腰かけの層で段々と高くなり、知事の席には飾りや旗のあるこの運動場は廣大なる圓戲場のやうに見える。十里以内の町村から集つた學童は驚くべき數である。殆んど六千の男女の生徒はこの競爭に加はるために集つた。兩親、親戚、教師は腰かけの上や門の内で非常な群集をなしてゐた。この一大區劃を見下せる城壁の上には、恐らくこれだけで松江市の人口の三分の一にも當る程の更に大多數の群集が集つてゐた。

 各競技の始めと終りの合圖はピストルの發射であつた、この運動場内は一軍團をも容れる程の廣さがあるから、各所に同時に四種の運動が行はれた、そして賞品は知事手づから各競爭の勝利者に授けた。

 各學校の各組に於ける選手競争があつた、全體のうちで自分等の五年級の坂根が一等ときまつた、坂根は綽々たる餘裕を示して四十ヤードも他に先んじて決勝點に入つた。彼は私共の學校の運動選手である強壯であるが同時に温良である、それで私は彼が兩腕に一杯賞品の書物をかかへて居るのを見て甚だ嬉しく思つた。彼は各剱士の左腕に結びつけた小さい土器を割るので勝負のきまる擊剱の仕合にも勝つた。又彼は大きな生徒のうちに入つて跳躍の競爭にも勝つた。

 しかし勝利者は外にも數百人あつた、そして數百の賞品は與へられた。一人の左足と一人の右足とを結び合せて二人づつになつて走る競走【譯者註二】もあつた。同じく奇妙な競走【譯者註三】があつた、この競走に勝つためには走るばかりでなく代る代る這うたり、よぢ上つたり、跳びこえたり、飛んだりする技倆によらねばならない。少女の競走もあつた(空色の袴とさまざまの色の着物を着て蝶々のやうに美しく見えた)、競走者は芝生に散らしてある無數の球のうちから色のちがつた球を三つ拾ふて走らねばならないと云ふのであつた。この外に少女の所謂旗競走もあつた、それから羽根をつく仕合もあつた。

 つぎに綱引があつた。しかも綱の一方に百人、他方に百人の大きな綱引であつた。しかしこの日の最も驚嘆すべき運動は啞鈴體操であつた。五百人程のあつさの列をつくつた六千の男女の生徒が方々の小さい木造の塔から一同を指揮せる體操教師の合圖に隨つて、一萬二千の腕が全く同時に上下し、一萬二千の草履をはいた足が進んだり退いたりした、六千の聲が同時にそろふて啞鈴體操の『一、二、三』を唱へて居た、『一、二、――三、四、――五、六、――七、八』

 最後に『城の取りあひ』といふ珍らしい仕合があつた。竹の枠に紙をはつた一丈五尺程の日本の塔の二つの模型が場内の各一方に建てられた。城の内部に蓋のない器に燃燒液があつた、もしこの器がくつがへれば全建築が火になるわけである。二組に分れた少年が紙の壁を造作なくつき破る木の球で城を砲擊した、忽ちのうちに兩方の塔が盛んに火焰を上げた。勿論さきに城の燒けた方がこの仕合に負けたのであつた。

 運動は午前八時に始まり、午後五時に終つた。それから合圖に隨つて一萬の聲が莊嚴な『君が』を歌ひ出した、そして日本の天皇及び肖に皇后兩陛下の萬歳を三唱して終りを告げた。

 日本人は自分等の歡聲を上げる時のやうに叫んだり、どなつたりはしない。日本人のは歌ふのである。長い叫びは何れも大きな音樂の合唱の始めの調子のやうに『アアアアアアアアア』である。

    譯者註一。島根縣全體の學校は少し大げさ。

    譯者註二。二人三脚の事。

    譯者註三。障礙物競走の事。

 

[やぶちゃん注:「二の丸」個人サイト「ぶらり重兵衛の歴史探訪」の松江城によれば、松江城の二の丸は本丸の南側に位置し、南北七十二間(約百四十一・八メートル)、東西六十二間(百二十二・一メートル)の曲輪(くるわ)とあり、『江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務をつかさどる「御廣間(おひろま)」や』、生活をしたり、『私的な接客や面会などを行った「御書院(ごしょいん)」はじめ「御臺所(おだいどころ)」、「御式臺(おんしきだい)」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた「太鼓櫓(たいこやぐら)」や、城下の監視や倉庫に使われた「南櫓(みなみやぐら)」、「中櫓(なかやぐら)」をはじめとする』五つの櫓などがあったが、これらの『建物は、明治維新とともに無用の施設となり』、明治八(一八七五)年に取り壊された、とある。

「十里以内の町村」原文では二十五マイル(約四十キロメートル)となっている。「十里」は凡そ三十九キロメートル。これで松江からの範囲を単純に見ると島根半島は総てが含まれ、南西は現在の大社町の八キロ南の出雲市内の旧湖陵町(こりょうちょう)辺り、南は広島県県境の奥出雲町、東方は安来(やすぎ)市全域が含まれるから、石見から南西部分津和野までの地域は包含されない。なお、ここで述べておくと西の隣県で四十キロ圏内(米子市・南部町・日南町など)に入る鳥取県は、実は一度、明治九(一八七六)年八月に島根県に併合されて鳥取に支庁が設され、その五年後の明治一四(一八八一)年九月に、当時の島根県域の旧因幡国八郡と旧伯耆国六郡が鳥取県として再分立して再置されているという事実は余り知られていないと思うので、ここに記しおくこととする。

「松江市の人口の三分の一」M.Higashide 氏のサイト「都道府県市区町村」の「落書き帳アーカイブズ」のこちらに出るデータによると、松江市は明治一九(一八八六)年の都市人口では全国で第二十三位三万三千三百八十一人とある。後で概数であろうが「一萬」とあることから考えれば、大袈裟な表現とは言えない。

「ピストル」現在のスターターのような模擬銃ではなく、空砲の実銃であろう。

「一軍團」原文は“an army”で、これは漠然とした数千人規模の軍隊という謂いのように思われる。平井呈一氏は『一個師団』とする。参加生徒の人数だけで「六千」人とするハーンの叙述と(後に「一萬」とも出るが、これは二の丸の平地以外で見物している人々も含めての員数である)、それ以外の教師・来賓・観客も容れることが出来るわけで、六千人以上のキャパを持つという風に読み換えることが出来るから、時代や国にもよるが、平井氏の『一個師団』(英語では“a division”)なら概ね六千人から二万人規模であるから、その下限値となり、千五百名から六千名規模の兵員によって構成される「旅団」(英語では“Brigade”)の上限値ではある。因みに平場となった二の丸は前のデータから一万七千三百平方メートル以上はあることが判る。

「坂根」不詳。彼の消息を御存じの方は居られませんか?

「五年級」当時の旧制中学校は五年制で五年生開始時の年齢は満十六歳。

「四十ヤード」三十六・五八センチメートル。

「一人の左足と一人の右足とを結び合せて二人づつになつて走る競走」「二人三脚の事」ウィキの「二人三脚」を見ると、明治七(一八七四)年に『海軍兵学校で行われた日本初の運動会』や明治一一(一八七八)年に『札幌農学校で開催された運動会では、既に競技種目に組み込まれていた』とあるが、見る限り、ハーンが特筆するからといって、本邦を起源とする遊技的競技ではないように思われる。ルーツに就いて識者の御教授を乞う。

「奇妙な競走」「障礙物競走の事」障害物競走。「礙」は音も同じく「ガイ」(呉音は「ゲ」で仏教用語で「融通無礙(むげ)」などと使う)で訓は「さまたげる」、意味も同じく、進行を邪魔して止める、妨げるの謂いである。熟語では「阻礙」「妨礙」とあるように、現行では「害」を代用字とすることが多く、画数も多く見難いことからも、目にすることが少なくなった。私が生理的に違和感があることから「障害者」の代わりに「障碍(しょうがい)者」と使う「碍」の字は本字の俗字である。電線とその支持物の間を絶縁するために用いる「碍子(がいし)」も実は本来は「礙子」である。

「旗競走」「旗取り」のことと思われる。現行でも小学校などで低学年児童や、招待した来季就学予定児童が行う競技で、置かれた旗を取って戻ってくる競技である。

「啞鈴體操」「山形県立博物館」公式サイト内の「教育」の「木亜鈴(もくあれい)」の項に写真入りで(ルビを省略させて頂き、一部に私の調べたデータを挟んだ)、『木でつくられたダンベルです。現在は、鉄でできたダンベルが普通ですが、昔は木製でした。手にとってみると、とても軽いのにおどろきます。ダンベルとは、もともと「音のしない鈴」という意味の英語で、亜鈴はそれを日本語に訳したものです。木亜鈴は男子と女子、生徒と教師用とで大きさや重さがちがいました』。『亜鈴は、明治時代になって外国からとり入れられた体操の授業でつかわれました。両手に持って手足を伸ばしたり縮めたり、体を曲げたりするものでした』。明治一七(一八八四)年に博聞分社から出版された馬塲壽(ばばひさし)著「亜鈴体操新法」という本には二十五種類に及ぶ使用『方法が紹介されています。今でも「ダンベル体操」というのがおこなわれていますが、内容はだいぶちがうようです』とある。

「一丈五尺」四・五五メートル。原文は十五フィートで四・五七メートル。

「燃燒液」原文“an inflammable liquid”。可燃性(引火性)の高い液体。]

 

 

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October 15, 1890.

   To-day I witnessed the annual athletic contests (undō-kwai) of all the schools in Shimane Ken. These games were celebrated in the broad castle grounds of Ninomaru. Yesterday a circular race-track had been staked off, hurdles erected for leaping, thousands of wooden seats prepared for invited or privileged spectators, and a grand lodge built for the Governor, all before sunset. The place looked like a vast circus, with its tiers of plank seats rising one above the other, and the Governor's lodge magnificent with wreaths and flags. School children from all the villages and towns within twenty-five miles had arrived in surprising multitude. Nearly six thousand boys and girls were entered to take part in the contests. Their parents and relatives and teachers made an imposing assembly upon the benches and within the gates. And on the ramparts overlooking the huge inclosure a much larger crowd had gathered, representing perhaps one-third of the population of the city.

   The signal to begin or to end a contest was a pistol-shot. Four different kinds of games were performed in different parts of the grounds at the same time, as there was room enough for an army; and prizes were awarded to the winners of each contest by the hand of the Governor himself.

   There were races between the best runners in each class of the different schools; and the best runner of all proved to be Sakane, of our own fifth class, who came in first by nearly forty yards without seeming even to make an effort. He is our champion athlete, and as good as he is strong,—so that it made me very happy to see him with his arms full of prize books. He won also a fencing contest decided by the breaking of a little earthenware saucer tied to the left arm of each combatant. And he also won a leaping match between our older boys.

   But many hundreds of other winners there were too, and many hundreds of prizes were given away. There were races in which the runners were tied together in pairs, the left leg of one to the right leg of the other. There were equally funny races, the winning of which depended on the runner's ability not only to run, but to crawl, to climb, to vault, and to jump alternately. There were races also for the little girls,—pretty as butterflies they seemed in their sky-blue hakama and many coloured robes,—races in which the contestants had each to pick up as they ran three balls of three different colours out of a number scattered over the turf. Besides this, the little girls had what is called a flag-race, and a contest with battledores and shuttlecocks.

   Then came the tug-of-war. A magnificent tug-of-war, too,—one hundred students at one end of a rope, and another hundred at the other. But the most wonderful spectacles of the day were the dumb-bell exercises. Six thousand boys and girls, massed in ranks about five hundred deep; six thousand pairs of arms rising and falling exactly together; six thousand pairs of sandalled feet advancing or retreating together, at the signal of the masters of gymnastics, directing all from the tops of various little wooden towers; six thousand voices chanting at once the 'one, two, three,' of the dumb-bell drill: 'Ichi, ni,—san, shi,—go, roku,— shichi, hachi.'

   Last came the curious game called 'Taking the Castle.' Two models of Japanese towers, about fifteen feet high, made with paper stretched over a framework of bamboo, were set up, one at each end of the field. Inside the castles an inflammable liquid had been placed in open vessels, so that if the vessels were overturned the whole fabric would take fire. The boys, divided into two parties, bombarded the castles with wooden balls, which passed easily through the paper walls; and in a short time both models were making a glorious blaze. Of course the party whose castle was the first to blaze lost the game.

   The games began at eight o'clock in the morning, and at five in the evening came to an end. Then at a signal fully ten thousand voices pealed out the superb national anthem, 'Kimi ga yo, ' and concluded it with three cheers for their Imperial Majesties, the Emperor and Empress of Japan.

   The Japanese do not shout or roar as we do when we cheer. They chant.

Each long cry is like the opening tone of an immense musical chorus: A-a-a-a-a-a-a-a..a!

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