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2015/11/15

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十)

       一〇   一八九〇、十一月三日

 

 今日は天長節である。日本國中の大祭日である、この日は授業はない。が八時に學生教師悉く天長節を祝するために尋常中學校の大講堂に集る。

 坑道の教壇に黑い絹をかけた卓が置いてある、この卓の上に天皇、皇后兩陛下の御眞影が金の枠に入れて相ならべて眞直に安置してある。教壇の上になつた部分は旗と花環で裝飾してある。

 そのうちに市長、聯隊區司今官、警部長、その他凡ての縣官を引きつれて知事が來る、金モールの大禮服をつけた知事はフランスの將官のやうに見ゆる。これ等の人々教壇の左右に默して座につく。つぎに學校のオルガンが突然ゆるやかな嚴肅な美はしい國歌を奏し始むる、凡ての列席者は百代の敬愛をうけて尊くなつて居るこの古への歌詞を歌ふ。

 

    きみがーあ世をは

      ちよにーいーいやちよにさざれー

         いしの

    いはほとなりて

         こけの

      むーうすーうまーあーあーで

 

 國歌が終る。知事は講堂の右側から威嚴のある徐ろな口調で教壇と御眞影の前方の場所の中央に進み、御眞影に向つて鄭重なる敬禮をする。つぎに教壇の方へ三歩進んで止り、再び敬禮する。つぎに更に三歩進んで最敬禮をする。つぎに六歩退いて又敬禮をする。それから席にかへる。

 そのあとで教師は六人づつ同じ美はしい敬禮をする。悉く御眞影に對して敬禮を終つた時、知事は壇に上つて生徒に向ひ、天皇、國家、及び教師に對する學生の本分について少しの巧妙なる注意を與ふ。それから再び國歌をうたふ、そして一同はその日の殘りを面白く過さうとして退散する。

 

[やぶちゃん注:原本ではこの「君が代」の歌詞の後に「君が代」の譜面が入っているが底本では省略されている。原本の雰囲気を味わうため、ここに当該箇所(二ページに分かれている)を“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の原文の当該箇所の画像をダウンロードして補正したものを以下に掲げておく。

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「天長節」明治・大正及び昭和二三(一九四八)年七月二十日に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」所謂、「祝日法」以前の今上天皇誕生日を指す。明治天皇のそれは嘉永五年九月二十二日で、グレゴリオ暦で一八五二年十一月三日に相当する。既に指摘した通り、新暦に読み換えてある。

「國歌」ウィキの「君が代」より部分的に引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『歌詞は十世紀初めに編纂された「古今和歌集」の短歌の一つで、曲は一八八〇年(明治十三年)に付けられた。以後、国歌として歌われ、一九九九年(平成十一年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国歌として法制化された』。『国歌(national anthem)は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、一八七六年(明治九年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」』。『つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳したものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった』。『こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として「国歌君が代の由来」を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている』。歌詞の元となった和歌の『作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとな』ったという。『歌詞の出典はしばしば「古今和歌集」(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号三四三番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

「君が代は」の型は「和漢朗詠集」の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号七七五番)』。『元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、「曽我物語」の曽我兄弟や「義経記」の静御前などにもその例を見ることができる』。『江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す)』(ここには要出典要請がかけられてある)『に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、十七世紀後半、作者不詳]上にもみられる)、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた』。『一八六九年(明治二年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された』。『当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、一八七六年(明治九年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後一八八〇年(明治十三年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた』。『同年十月二十五日に試演し、翌二十六日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。十一月三日の天長節にて初めて公に披露された』。『その後の一八九三年(明治二十六年)八月十二日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている。また一九一四年(大正三年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた』。『一九〇三年(明治三十六年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞し』ている。『大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた』。『修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記された。このように記述している文献もあるのだが、現存する教科書にこの様に印刷されている物は一つも確認されていない。また戦前、戦中を通して主に歌われていたのは「第二国歌」や「準国歌」とも言われる「海行かば」であ』った。]

 

 

.

November 3, 1890

   To-day is the birthday of His Majesty the Emperor. It is a public holiday throughout Japan; and there will be no teaching this morning. But at eight o'clock all the students and instructors enter the great assembly hall of the Jinjō Chūgakkō to honour the anniversary of His Majesty's august birth.

   On the platform of the assembly hall a table, covered with dark silk, has been placed; and upon this table the portraits of Their Imperial Majesties, the Emperor and the Empress of Japan, stand side by side upright, framed in gold. The alcove above the platform has been decorated with flags and wreaths.

 

Presently the Governor enters, looking like a French general in his gold-embroidered uniform of office, and followed by the Mayor of the city, the Chief Military Officer, the Chief of Police, and all the officials of the provincial government. These take their places in silence to left and right of the plat form. Then the school organ suddenly rolls out the slow, solemn, beautiful national anthem; and all present chant those ancient syllables, made sacred by the reverential love of a century of generations:

              Ki-mi ga-a yo-o wa

              Chi-yo ni-i-i ya-chi-yo ni sa-za-red

                      I-shi-no

            I-wa o to na-ri-te

            Ko-ke no

            Mu-u su-u ma-a-a-de [4]

 

  The anthem ceases. The Governor advances with a slow dignified step from the right side of the apartment to the centre of the open space before the platform and the portraits of Their Majesties, turns his face to them, and bows profoundly. Then he takes three steps forward toward the platform, and halts, and bows again. Then he takes three more steps forward, and bows still more profoundly. Then he retires, walking backward six steps, and bows once more. Then he returns to his place.

   After this the teachers, by parties of six, perform the same beautiful ceremony. When all have saluted the portrait of His Imperial Majesty, the Governor ascends the platform and makes a few eloquent remarks to the students about their duty to their Emperor, to their country, and to their teachers. Then the anthem is sung again; and all disperse to amuse themselves for the rest of the day.

 

4 Kimi ga yo wa chiyo ni yachiyo ni sazare ishi no iwa o to narite oke no musu made. Freely translated: 'May Our Gracious Sovereign reign a thousand years—reign ten thousand thousand years—reign till the little stone grow into a mighty rock, thick-velveted with ancient moss!'

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