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2015/11/16

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十六)

        一六

 

 しかし私は今日松江に住んで居る幾人かの老美術家で更に不思議な猫を造る者があらうと内心信じて居る。そのうちに老いて尊敬すべき荒川重之助氏【譯者註】がある。この人は天保時代に、出雲の大名に種々の珍らしい物を造つた人で、私は學校の同僚によつてこの人と交際する事を得たのである。或晩彼は私に見せるために頗る不思議な物を袖にかくして私のところへ持つて來た、それは人形である、彫刻して彩色を施した首だけで胴はない、胴は首についた小さな着物で代りにしてある。しかも荒川が手を使ふてこの人形を動かすと生きて出るやうである。首の後ろは老人の頭の後ろのやうである。が、顏は嬉しさうな子供の顏である、額は殆んどない、考へ込むやうな風はどこにもない。どちらを向いてもこれを見る人は笑はずには居られぬ程、をかしい顏をして居る。これは何にも心配などのない生れつき愉快な無邪氣な『氣樂坊』である、英語では『陽氣な男』とでも云ふのであらう。これは原作ではないが有名な原物を模した物である、その原作の歷史は荒川が今一方のたもとから取り出した色のさめた卷物に書いてある、そして友人はそれを私に譯してくれる。この小歷史は昔の日本人の暮らしや考の質撲な風を面白く示して居る。

 『この人形は二百六十年前、後水尾天皇のために京都の名高い能面の作者によつて造られた。天皇は御寢の前、毎夜枕の傍にいつもこれを置いて、甚だこれを愛で給ふた。そしてそれにつきてつぎの歌をおつくりになつた。

                        

    世の中を 氣樂にくらせ、

    何事も 思へば思ふ、思はねばこそ。

 

 天皇崩御の後、この人形は近衞公の物となつて今もなほ同家に保存してあるさうである。

 百七年程前に當時の皇太后(おくり名は盛化門院)は近衞公からこの人形を借り、その寫しを造らせ給ふた。その寫しを側に置いて甚だ愛で給ふた。

 この皇太后の崩御の後、この人形は或女官に與へられたが、その姓は書いてない。その後この女官は如何なる理由かによりて髮を斷ち尼となり信行院と云ふ名をとつた。

 この信行院を知れる近藤充博院法橋と云ふ人忝くもこの人形を貰つた。

 さてこの記事を書く私は一度病氣にかかつた、私の病氣は氣欝から起つた。友人近藤充博院法橋私を訪ふて『あなたの病氣を直す物を持つて居る』と云つて、うちに歸つた。そして直ちに歸つてこの人形を持つて來て私に貸した。それを見て私の笑ふやうに枕もとに置いて行つた。

 その後私も信行院尼を幸に知つてゐたので、この人を訪ねてのち、この人形の歷史を記しそれについて一首の歌をよんだ』

 (九十年程前の日附、記名なし)

 

    譯者註。荒川重之助(龜齋)出雲の有名なる彫刻家。

 

[やぶちゃん注:今回、探索中に『小泉八雲の没後100年記念の掲示「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』という驚くべきハーンの詳細な日録データを発見したが(西田千太郎の肖像写真もここで初めて見た)、その中の明治二五(一八九二)年八月二十六日(金)の条に、『快晴、酷暑。午後、福間旅館に宿を定めた西田千太郎を自分たちの客として門脇旅館に招くため、船頭に書状を持たせて迎えにやる。西田がハーンに頼まれていた葉巻タバコと荒川重之助より託された気楽坊の模型人形を持参する』とある。これはクレジットから判るように熊本に移ってからのことで、夏季休暇を利用して博多・門司・神戸・京都・奈良・伯耆境港・隠岐・美保の関・福山・尾道を旅した際の、印象深かった隠岐旅行を終えた後の美保関での記事である。恐らく、荒川は本篇シークエンスで人形を痛く気に入ったハーンに、この人形を西田に託して譲ったものか(推定)とも思われる。

「荒川重之助」「龜齋」(号と思われる後者は「きさい」 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は松江市横浜町出身の彫刻家。参照したComa-たんさく人氏のサイト「探訪 狛犬 発信 奈良から」の「岡山・宗忠神社 古絵葉書画像の狛犬について」によれば(リンク先の明治三二(一八九九)年竣工の狛犬もその図案は荒川重之助とする)、金工・書画・象嵌を得意としたとあり、明治一〇(一八六八)年の第一回内国勧業博覧会に「紫檀制戸棚」を出品して受賞、このハーンとの邂逅の後の、明治二六(一八九三)年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品した「櫛稲田姫像」は優等賞を受賞(出雲大社に奉納)、明治三三(一九〇〇)年のパリ万国博覧会に出品した「征韓図」は銅賞(竹矢の平浜八幡宮に奉納)、他にも松江市寺町常教寺鐘楼堂欄間の龍や、松江市和多見町売布神社本殿の龍などが現存するらしい。また、「松江市立図書館だより ちどり」の二〇〇七年十二月発行の第七十二号(『冬号』)(PDF)の「松江の和菓子」の中に「姫小袖」という和菓子が紹介されてあり、そのキャプションに、『「安政二年藩命により、大工荒川重之助作」とある菓子型を用いており、「お留め菓子」といわれてい』るとある(「お留め菓子」とは『歴代藩主の御用菓子商に特別に注文したもので、他所には売ることができないこと』による呼称とある)。安政二年は西暦一八五五年で藩主はこの二年前になった最後の第十代松平定安である。

「天保時代」一八三〇年~一八四四年。この時期の松江藩藩主は第九代松平斉貴(なりとき 文化一二(一八一五)年~文久三(一八六三)年)であるが、彼は暗愚で藩財政の悪化もあって家臣団から斉貴廃立の動きが表面化し、嘉永六(一八五三)年九月に家臣団や縁戚から強制隠居させられ、美作津山藩から婿養子安定を迎えて家督を継いでいる。但し、荒川重之助は天保期では数えでも四~十八歳で、この頃に「出雲の大名に種々の珍らしい物を造つた」という謂いは少しばかり早過ぎるようには思われる。

「人形」「彫刻して彩色を施した首だけで胴はない、胴は首についた小さな着物で代りにしてある。しかも荒川が手を使ふてこの人形を動かすと生きて出るやうである。首の後ろは老人の頭の後ろのやうである。が、顏は嬉しさうな子供の顏である、額は殆んどない、考へ込むやうな風はどこにもない。どちらを向いてもこれを見る人は笑はずには居られぬ程、をかしい顏をして居る。これは何にも心配などのない生れつき愉快な無邪氣な『氣樂坊』である」静岡の着物店「紺文(こんぶん)」公式サイト内の「近衞家 陽明文庫 秘宝展」の『指人形「気楽坊」後水尾天皇御遺愛 江戸時代 一体』で現物を見られる。そこにはキャップションで全長二十三・五センチメートルとし、『後水尾天皇が宮中で文や和歌を近臣につかわされる時、女官にこの指人形を繰らせ、それを持たせられたという。この人形の名の由来は

  世の中をきらくにくらせ何事も

     おもへばおもふ思はねばこそ

という御製の歌によるもので、当時の徳川幕府の皇室への圧力に対する憤懣から、逆に居直った形での諦観のような心境が感じられるが、この人形の笑みをたたえた口もとや、おどけたような目つきの中にもどこかそのような表情がうかがえる。三指であやつる人形の現存品としては古く珍しいものである』とある(御製の一部表記を訂した)。私は正直、実物が見られるとは思ってもいなかった。必見。なお後に本人形や本伝承に基づいて製作された人形がかなりあることがネット検索によって判る。

「質撲」ママ。通常は「質樸」である。質朴に同じい。飾り気がなく素直なこと。世間ずれしていないさま。

「二百六十年前」記事内時制は明治二四(一八九一)年五月(前の「一五」が「五月一日」を、次の「一七」が「六月一日」をクレジットする)であるから、単純逆算では寛永八(一六三一)年で後水尾天皇(次注参照)は二年前に退位しているものの、存命中であるから問題ない。

「後水尾天皇」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)は第一〇八代天皇。在位は慶長一六(一六一一)年から寛永六年十一月八日(一六二九年十二月二十二日)。ウィキの「後水尾天皇によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、在位中の『寛永四年(一六二七年)に紫衣事件』(江戸初期に於ける朝幕関係上の最大の不和確執とされる事件。幕府が紫衣の授与を規制したにも拘わらず、後水尾天皇がこれを無視して幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え続け、これを知った第三代将軍徳川家光が寛永四(一六二七)年にこれを法度違反と見做し、多くの勅許状の無効を宣言、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。この幕府の強硬な態度に対し、朝廷は反発、当時、大徳寺住職であった沢庵宗彭や妙心寺の東源慧等(とうげんえとう)らの高僧が朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出したが、寛永六(一六二九)年、幕府は沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪にした。この事件により幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。ここは主にウィキの「紫衣事件」を参照した)や『徳川家光の乳母である福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は同年一一月八日、幕府への通告を全くしないまま二女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている(かつての皇国史観のもと、辻善之助の研究に代表される「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗」という通説への対論となる洞富雄の説)。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉二年十月十七日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった』。ともかくも実質的には、『以後、霊元天皇までの四代の天皇の後見人として院政を行う』こととなる。『当初は院政を認めなかった幕府も寛永十一年(一六三四年)の将軍徳川家光の上洛をきっかけに認めることにな』り、『その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の三天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝七年(一六七九年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である』。『延宝八年(一六八〇年)に八十五歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた』とある。

「京都の名高い能面の作者」不詳。

「世の中を 氣樂にくらせ、/何事も 思へば思ふ、思はねばこそ。」この御製、ネットではそこら中に後水尾天皇として散見されるが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の管理番号「A120322102013」の事例記載によれば、本歌は昭和五(一九三〇)年京都仙寿院刊吉沢義則著「後水尾院御集 頭註」(二巻)には掲載していないとある。

「近衞公」五摂家の一つである近衛家。後水尾天皇の母は近衛家当主近衞前久(天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年)の娘前子(さきこ 天正三(一五七五)年~寛永七(一六三〇)年)で、前久の子近衛信尹(のぶただ)は継嗣を欠いたため、江戸初頭に妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮(後水尾天皇の実弟)を養嗣子に迎えて近衛信尋(のぶひろ 慶長四(一五九九)年~慶安二(一六四九)年)とした(よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう。以上はウィキ近衛家に拠った)。「天皇崩御の後、この人形は近衞公の物とな」ったという叙述が事実とすれば、後水尾天皇(法皇)の逝去年から見て、この人形を手にした近衛家当主は近衞基熙(もとひろ 慶安元(一六四八)年~享保七(一七二二)年)の可能性が高い。なお、ウィキ近衞基熙は後水尾法皇を後ろ盾として『関白就任の一歩手前にまで迫ったが』、法皇が崩御して幕府嫌いの娘『霊元天皇が親政をおこなうようにな』ると、『基熈も「親幕派」とみられて天皇から疎まれるようにな』り、『基熈は霊元朝では干され続けた』とある。しかも彼は幕府方から『好かれていたのかと言えば全くの逆で、時の将軍徳川綱吉は、自分の後継問題で緊張関係にあった甲府藩主徳川綱豊』(後の第六代将軍家宣)の『正室・熈子が基熈の長女であった事から、綱豊の舅である基熈に対しても冷淡であり、この時期はまさに沈滞期』にあったとある。まさに全く別な意味で、これを貰い受けたのが彼、近衞基熙であったとするなら、「思へばおもふ思はねばこそ」とかこつ日々でもあったということになる(後に霊元天皇が東山天皇に譲位後、元禄三(一六九〇)年に念願の関白に就任、東山朝に於いては権勢を揮い、院政を敷いていた霊元上皇が『朝廷権威の復興を企図したのに対し、「親幕派」としてことごとくこれに反対』したともある)。

「百七年程前に當時の皇太后(おくり名は盛化門院)」「百七年程前」(単純計算では天明四(一七八四)年となる)と記された諡号から、これは第百十八代後桃園天皇女御近衛維子(このえこれこ 宝暦九(一七六〇)年~天明三(一七八三)年)であることが判る。彼女は関白太政大臣近衛内前(うちさき 享保一三(一七二八)年~ 天明五(一七八五)年:基熈の三代後の近衛家当主)の娘で、右大臣近衛経熙は弟。安永一〇(一七八一)年三月に皇太后となっている(ウィキ近衛維子に拠る)。この叙述が正しいとすれば、「近衞公からこの人形を借り、その寫しを造らせ給」い、「その寫しを側に置いて甚だ愛で給ふた」のは皇太后となった安永一〇(一七八一)年から没する天明三(一七八三)年の短い閉区間であったことになる。

「この皇太后の崩御」天明三年十月十二日。

「或女官」「髮を斷ち尼となり信行院と云ふ名をとつた」不詳。

「近藤充博院法橋」不詳。「法橋」は「ほつけう(ほっきょう)」と読み、本来は「法橋上人位」の略で、法眼に次ぐ僧位第三位で五位に準ぜられたが、中世以後は広く医師・仏師・絵師・連歌師などに僧位に準じて与えられた称号である。

「一首の歌をよんだ」とあるが、和歌は記されていないということであろう。

「九十年程前の日附」単純計算なら「九十年」前は寛政一三・享和元(一八〇一)年で、天皇は後桃園天皇の次代(養子)光格天皇、将軍は徳川家斉の御代である。]

 

 

ⅩⅥ.

   Nevertheless I have a private conviction that some old artists even now living in Matsue could make a still more wonderful cat. Among these is the venerable Arakawa Junosuke, who wrought many rare things for the Daimyō of Izumo in the Tempo era, and whose acquaintance I have been enabled to make through my school-friends. One evening he brings to my house something very odd to show me, concealed in his sleeve. It is a doll: just a small carven and painted head without a body,—the body being represented by a tiny robe only, attached to the neck. Yet as Arakawa Junosuke manipulates it, it seems to become alive. The back of its head is like the back of a very old man's head; but its face is the face of an amused child, and there is scarcely any forehead nor any evidence of a thinking disposition. And whatever way the head is turned, it looks so funny that one cannot help laughing at it. It represents a kirakubo,—what we might call in English 'a jolly old boy,'—one who is naturally too hearty and too innocent to feel trouble of any sort. It is not an original, but a model of a very famous original,—whose history is recorded in a faded scroll which Arakawa takes out of his other sleeve, and which a friend translates for me. This little history throws a curious light upon the simple-hearted ways of Japanese life and thought in other centuries:

   'Two hundred and sixty years ago this doll was made by a famous maker of No-masks in the city of Kyōto, for the Emperor Go-midzu-no-O. The Emperor used to have it placed beside his pillow each night before he slept, and was very fond of it. And he composed the following poem concerning it:

               Yo no naka wo

                 Kiraku ni kurase

               Nani goto mo

                 Omoeba omou

                 Omowaneba koso. [8]

 

   'On the death of the Emperor this doll became the property of Prince

Konoye, in whose family it is said to be still preserved.

   'About one hundred and seven years ago, the then Ex-Empress, whose posthumous name is Sei-Kwa-Mon-Yin, borrowed the doll from Prince Konoye, and ordered a copy of it to be made. This copy she kept always beside her, and was very fond of it.

   'After the death of the good Empress this doll was given to a lady of the court, whose family name is not recorded. Afterwards this lady, for reasons which are not known, cut off her hair and became a Buddhist nun,—taking the name of Shingyō-in.

   'And one who knew the Nun Shingyō-in,—a man whose name was Kondo-ju- haku-in-Hokyō,—had the honour of receiving the doll as a gift.

   'Now I, who write this document, at one time fell sick; and my sickness was caused by despondency. And my friend Kondo-ju-haku-in-Hokyō, coming to see me, said: "I have in my house something which will make you well." And he went home and, presently returning, brought to me this doll, and lent it to me,—putting it by my pillow that I might see it and laugh at it.

   'Afterward, I myself, having called upon the Nun Shingyo-in, whom I now also have the honour to know, wrote down the history of the doll, and make a poem thereupon.'

   (Dated about ninety years ago: no signature.)

 

8 This little poem signifies that whoever in this world thinks much, must have care, and that not to think about things is to pass one's life in untroubled felicity.

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