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2015/11/06

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (六)

       六

 

 松江の特色はミヤ店である――尤も、この古い出雲の町に特有な店といふでは無いが、他の州のよりなる町に見らるゝものよりも、遙かに興味深い店である。一錢以下で買ヘる子供の玩具のミヤからして、何處か金持の家へ納まるべき十圓或いはそれ以上の大きな宮に至るまで、幾百といふ大きい小さい種々な宮がある。かういふ、家の内の宮のほかに、時折、貴重な木材で出來てゐて、漆で塗り金で鍍金した、その價三百圓から千五百圓に至る嵩張つた宮を見ることが出來る。これは家の内の宮では無い。それは祭禮の宮で、ただ富裕な商人の爲めに造るのである。それは神の祭日に出して見せるもので、一年に二回行列をつくつてチヨウサヤ!チヨウサヤ!の叫びに合せて、町をかつぎ廻る【註】。各神社の管區にはそんな場合に、歌をうたひ太鼓を打いて、飾り立てて見せあるく大きな擔がれる宮がある。

 

    註。古昔は斯うした行列で宮をかつ

    ぎ廻つた、神道の二大祭禮はトシト

    クジンノマツリ、即ち新年の神の祭

    禮と、神武天皇即位記念の祭日であ

    つた。後者は今なほ守られてゐる。

    天息の誕生の祝賀がミヤをかつぐ、

    他の唯一の場合である。この兩日に

    は神道の徽號たる、裝飾のあゐ稻藁

    の繩のシメナハと提燈とで街路は

    美々しく飾られる。その日に囃す言

    葉(チヨウサヤ!チヨウサヤ!)が

    何を意味するか、確實に知つて居る

    者は今居ない。一説には、トシトク

    ジンノマツリと殆んど同時節に昔祝

    つた――この祭禮は二つも今は廢れ

    て居るが――サムラヒ共の軍の大祭

    の名のサギチヤウの轉訛であると。

 

家の内の宮は大多數は廉價な構造のものである。頗る立派なのが二圓ばかりで求められる。が、普通の人の家の中に見らるゝ小さな宮は、大抵は五十錢よりも餘程下のものである。そして精巧な或は高價な家の内の宮は、純な神道の精神に反して居る。眞の宮は純無垢の白いヒノキ【註】で造り、釘を用ひずに合せなければならぬのである。

 

    註。學名スヤ・オプトユサ。

 

自分が宮店で見た物は多くはその幾多の部分が、ただ米の糊で合はされて居た。が、製作者が熟練して居るからそれで充分であつた。純な神道は宮は鍍金も裝飾も無いものでなければならぬと要求して居る。金持の家に在る小形の美麗な宮は、その藝術的建造と裝飾とに依つて、正當に歎賞の念を起こす。が然し、勞働者やクルマヤの家に在る、無地の白木の、十錢か十三錢の宮の方が眞にこの原始的宗教の特徴たる、あの質素の精神を現して居るのである。

 

[やぶちゃん注:以下、底本及び原本の附図を示す。画像の質(特に退色や裏の透け)がやや異なるので、最初のもの(1)は底本である国立国会図書館デジタルライブラリーの画像からトリミングして補正(ノンブルを消去)したものを示し、次の(2)は“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”原文の当該箇所の画像をダウンロードして補正した訳本のキャプションは以下に電子化して示した(画像の左から)。なお、前回同様、図キャプションの英文を原文の注の後ろに★を附して電子化しておいた。

 

Glimpses_of_unfamiliar_japan2

[やぶちゃん注:(1)。底本では原文の図の総見出しである前の図と同じ“SACRED OBJECTS (SHINTŌ).”が訳されていない(ここは平井呈一氏の訳でも省略されている)。「神聖なる対象物(神道)」の謂いである。]

 
 

Glimpses_of_unfamiliar_japan2proto

[やぶちゃん注:(2)]

 

1.スズ、神道の巫女がその神聖な舞に用ふるもの。

[やぶちゃん注:この「鈴」はハーンのお好みだったらしく、複数既出する。既注。]

 

2.ミヤ、一番廉い種類の家の内の宮。

[やぶちゃん注:この「宮」(神棚)は三枚重ね祀りのタイプ。]

 

3.ミヤ、富裕な家族の有つ家の内の宮。

[やぶちゃん注:三柱を並列し、しかもそれぞれが別な扉を持つ「宮」(神棚)。中央には「出雲大社」の文字が見え、前章で述べられた諸神具も添えられてある。これら諸神具については「八」以降で詳細に語られる。

 

[やぶちゃん注:本篇には何度も金額が出るが、一円は現行の一万五千円から二万円ほどに価値換算をして大きな間違いはないものと思う。各自で暗算されたい。

「ミヤ店」「宮店」。神具店。

「鍍金」老婆心乍ら、「めつき(めっき)」或いは「ときん」と読む。金属や非金属などの材料表面に別に金属(対象が金属の場合は別種の)薄膜を被覆した表面処理法を指す「メッキ」である。現在はカタカナ表記されるために外来語と勘違いされている向きがあるが、これは和製漢語とされる「滅金(めっきん)」(古代に於いて仏像に金で鍍金(めっき)をする際に用いた金のアマルガムのことを「滅金」と呼んだことに由来)で日本語である。

「トシトクジンノマツリ」これ、原文を見ると“the Yoshigami-no-matsuri”とあって「ヨシガミノマツリ」(「善神樣の祭」?)で明らかに訳者による改変がなされていることが判る。訳者と思われる大谷正信は松江市生まれであるから、彼によって現地の正しい呼称に直されたものと推定される。「松江観光協会」公式サイト「水の都 松江」の「左吉兆とんど (さぎちょうとんど)」のページに「左吉兆(左義長)」として『正月には各家庭で歳徳神(としとこさん)を迎えて、一年の豊作にあわせて幸福を祈願する。一方地域では、共同体としての歳徳神を当番宿に祭り、正月の間、鼕(どう)』(太鼓の一種)『を叩き、正月の終わりには、歳徳神の神輿を担いで各地域を練り歩き、歌い、踊り仮装まで登場する賑わいの後、「とんど焼き」で締めくく』り、『この一連の正月行事を「左吉兆」という』とある。「とんど焼き」焼きは、『神木(しんぽこ)となる竹に短冊、つづみ、鯛づくり、大扇面の飾りを付けて立て、根元にしめ飾り吉書その他を山盛りにして焼く』もので、『神木は海岸に間隔をおき神輿の前に東西』二本立て、『当日は夜明け前から鼕を叩き、神の降下を祈り、とんどを組内に知らせ』、夜明けとともに二本同時『に点火し、燃え尽きる前にその年の恵方に倒す』。『神本が倒れると、神輿を担いだ若者が神木の周りを回った後、地区内を練り歩く。新築、新婚の家や漁船は、神輿を迎えて縁起をかつぐ』とある。ただ、問題はこの呼称で、通常、「歳徳神(としとくじん)」というのは「年神(としがみ)」を指し、これは元来は大陸伝来の陰陽道(おんみょうどう)に於いてその年の福徳を掌るとされる神のことを指し、その年のその神のいる方角を「明きの方」或いは「恵方」(近頃流行りの恵方巻きのそれである)と称して、この年中は万事この方位を敬すれば吉を齎すとする信仰であって、ハーンの一連の記載の中で、これを神道の純粋行事として出すには一見どうかとは思われるものではある。しかしながら、燃え上がる火の祭儀、祭りの人々の意味不明の語を叫んでは狂喜乱舞する熱狂、そこにハーンは古神道やそれ以前の原始信仰の恍惚の純粋形態を見てとったものとも思われ、そうした祝祭のエクスタシーの根源や深層という点に於いては強ち誤ってはいないと私は思う。

「サムラヒ共の軍の大祭の名のサギチヤウ」私は学生時代に自己研究で各地の「左義長」をかなり調べたが、この祭が「侍」階級の「軍」(いくさ)の「大祭」を起源とするなどという話は、ハーンに失礼乍ら、一度も聴いたことがない。明らかにこれは農事の予祝行事であり、農民や町人の祭りであったことは明らかである。ハーンの根拠がどこにあるのか私は不審でならぬ。松江の左義長は武士階級の行事とする特別な伝承があるのだろうか? 識者の御教授を是非とも乞いたいところである。ウィキの「左義長」から引く。『左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なる(後述)。日本全国で広く見られる習俗で』、古く一般には旧暦の一月十四日の夜又は一月十五日の『朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を』三、四本組んで立て、『そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシ』(ミズキ目ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属ヤマボウシ Benthamidia japonica)『の枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い』。『民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている』。『とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている』(下線やぶちゃん)。「弁内侍日記」や「徒然草」に見えることから、『鎌倉時代にはおこなわれていたらしい。起源は諸説あるが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあり』、小正月(一月十五日)に『宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖』(ぎっちょう:木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るって木製の毬を相手陣に打ち込む遊び。或いはそれに使う杖やそうしたステック状のもの)三本を『結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事があり』、『その年の吉凶などを占ったとされる。すなわち、山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒』二人が『笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子』一人が『金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子』二人が『大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖』三本を『結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれ』、『これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。どうして現在一般的な「左義長」という字があてられたのは、不明である』とある。これを信ずるとしても、公家のなんだかなぁのお遊び(ゲームである点では戦闘ではあるが)であってとてものことに武士の模擬戦の大祭儀なんぞとはちょっと結びつかない、と私は思う。

「スヤ・オプトユサ」原文はThuya obtusa(音写するなら「トゥヤ・オブトゥーサ(スーヤ・オブツーサ)」か)。本邦のヒノキは現在、球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa (クプレッソキパリス・オブトゥーサ)であって種小名は一致するが属名が異なる。しかもThuyaという属名の綴りは一般的ではない。但し、仏語のウィキのスギ科クロベ属(マツ綱マツ目ヒノキ科クロベ属 Thuja に相当するページのタイトルにはThuyaとし下にThujaを併記しているから単なるシノニムととっておく。にしても現行では属レベルで異なり、シノニム表示も見出せないので、このハーンの学名は全く無効である。但し、ヒノキ科のこのクロベ属のクロベ(黒檜) Thuja standishii (トゥヤ・スタンディシィ)は日本特産で、別名を「ネズコ」「ゴロウヒバ」「クロベスギ」「クロビ」などとも呼ぶ、木曽五木(江戸時代に尾張藩によって伐採が禁止された木曽谷の樹類でヒノキ・アスナロ(アスヒ)・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹を指す)の一つで、材は耐腐朽性が高く、建築や器具材に利用されるとウィキの「クロベ」にあり、樹種は異なるものの、これも立派な高級材ではある。この不思議な学名(とは言っても、種小名が合っている以上はハーンは正しく現行のヒノキを指示していると考えるべきである)と同定の誤りはしかし、可能性としては当時の針葉樹分類の限界に基づくものであってハーンの誤認ではないようにも思われる。

「クルマヤ」「俥屋」。言わずもがなであるが、人力車夫のことである。明治二八(一八九二)年当時の彼らが社会の底辺層としてあり、職業としてさげすまされ差別された人々であったという事実を忘れてはならない。]

 

 

A particular feature of Matsue are the miya-shops,establishments not, indeed, peculiar to the old Izumo town, but much more interesting than those to be found in larger cities of other provinces. There are miya of a hundred varieties and sizes, from the child's toy miya which sells for less than one sen, to the large shrine destined for some rich home, and costing perhaps ten yen or more. Besides these, the household shrines of Shintō, may occasionally be seen massive shrines of precious wood, lacquered and gilded, worth from three hundred even to fifteen hundred yen. These are not household shrines; but festival shrines, and are made only for rich merchants. They are displayed on Shintō holidays, and twice a year are borne through the streets in procession, to shouts of 'Chosaya! chosaya!' [10] Each temple parish also possesses a large portable miya which is paraded on these occasions with much chanting and beating of drums. The majority of household miya are cheap constructions. A very fine one can be purchased for about two yen; but those little shrines one sees in the houses of the common people cost, as a rule, considerably less than half a yen. And elaborate or costly household shrines are contrary to the spirit of pure Shintō The true miya should be made of spotless white hinoki [11] wood, and be put together without nails. Most of those I have seen in the shops had their several parts joined only with rice-paste; but the skill of the maker rendered this sufficient. Pure Shintō requires that a miya should be without gilding or ornamentation. The beautiful miniature temples in some rich homes may justly excite admiration by their artistic structure and decoration; but the ten or thirteen cent miya, in the house of a labourer or a kurumaya, of plain white wood, truly represents that spirit of simplicity characterising the primitive religion.

 

10 Anciently the two great Shintō festivals on which the miya were thus carried in procession were the Yoshigami-no-matsuri, or festival of the God of the New Year, and the anniversary of Jimmu Tenno to the throne. The second of these is still observed. The celebration of the Emperor's birthday is the only other occasion when the miya are paraded. On both days the streets are beautifully decorated with lanterns and shimenawa, the fringed ropes of rice straw which are the emblems of Shintō. Nobody now knows exactly what the words chanted on these days (chosaya! chosaya!) mean. One theory is that they are a corruption of Sagicho, the name of a great samurai military festival, which was celebrated nearly at the same time as the Yashigami-no-matsuri,both holidays now being obsolete.

11 Thuya obtusa.

 

1.  SUZU: Instrument used by the Shintō priestess in her sacred dance

2.  MIYA, or Shintō household shrine of the cheapest form

3.  MIYA, or household shrine of a wealthy family

 

SACRED OBJECTS (SHINTŌ).

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