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2015/11/05

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (三)

        三

 

 近代の神道は、その外的形式に就いては、之を解剖するのは寔に困難である。が、そのまはりに如何にも厚く織り合はされて居る、幾多の外來信仰の込み入つた地合の全體を透(とほ)して、その最も初期の性質を指示するものを今なほ容易に識別することが出來る。その原始的儀式の或る物に、その古代の祈禱に文言にまた表象に、その神道の來歷に、またその最も貧しい崇拜者の飾氣の無い思想の多くの中にも、神道はあらゆる崇拜の形式のうちの最も古いものとしてハアバアト・スペンサアが『あらゆる宗教の根本』と呼んで居るものとして――死者への敬虔の念として――明らかに示顯されて居るのである。それどころか、神道の大學者、大神學者に幾度も左うと解釋され來たつて居る。神道の神々は亡靈である。死んだ者は悉く神となるのである。靈之眞柱(たまのまはしら)で、かの大註釋者平田は『死せる者共の靈魂は、我等がまはり到る處に存在する不可見世界に猶も在りて、そは悉く性質を異にし、感化の度を異にする神となる。祀られた神に鎭まり居るもあれば、その墓の近くにさまよふもある。そしていづれも、生ける折と同じく、君親妻子に幸(さきは)ふことを歇めぬ』【註一】。

 

    註一。日本亞細亞協會の會報に發表

    されたサトウ氏の立派な論文『純な

    る神道の復活』より引用。『神』と

    いふ語は必ずしも仁慈なカミを意味

    しはせぬ。神道には惡魔は無いが、

    善い神があると共に『惡い神』があ

    る。

 

そして死者の靈魂はこれ以上のことをする。人間の生命と行爲とを支配するからである。人間の行爲は悉く『神の御所爲(みしわざ)である』【註二】と平田は言つて居る。

 

    註二。サトウ氏『純なる神道の復活』。

 

また純な神道の教儀の解釋者として平田に劣らず有名な本居は、『人の要する道德觀念は總て皆な神が、その人の胸ヘ植附るので、飢ゑた時に物を食ひ、渇した時に物を飮まざるを得ざらしめる、彼(か)の本能とその性質は同じである』【註三】と書いて居る。

 

    註三。サトウ氏『純なる神道の復活』。

 

この直覺の教儀には十誡の要は無い、固定した倫理法の要は無い。人間の良心が唯一の必要な指導者であると宣べて居る。人間の一々の行爲は『神の御所爲(みしわざ)』であるけれども、然し人間は悉くその心の中に、正しい衝動と正しからぬ衝動とを識別し、善神の感化力と、惡神の感化力とを識別する力を具へて居る。如何なる道德の指導者も、人自(みづか)らの情(こゝろ)が爲すほどの確實な指導を爲すことは出來ぬ。本居は『受行ふべき道(ミチ)なきことはおのづから知かりてむ。其を知るぞ即ち神の道をうけおこなふはありける』【註】と言つて居る。

 

    註。サトウ氏『純なる神道の復活』

    より引用。本居の言葉の全體の力強

    さは、讀者が『シンタウ』といふ語

    は日本ではその起原比較的に新しい

    もので、この古來の信仰を佛道と區

    別せん爲め、漠字を假り用ひたので

    ある事、又、この原始的信仰の昔の

    名はカミノミチ即ち『神の道』であ

    る事を知らなければ充分の了解が出

    來ぬであらう。

 

また平田は『眞の德を行はんと欲するならば、眼見うべからざる世界を恭ひ恐れるが宜い。そすれば惡を行ふことが出來ぬやうにならう。眼見うべからざる世界を支配し給ふ神々に誓を立てて、自分の心に植附られて居る良心(マゴコロ)を養へ。さすれば決して道にさ迷ふことは無からう』と書いて居る。此心靈的自己修養はどうしたら一番能く得られるか、それを該(そ)の偉大な註解者は、殆んど前と同じ簡潔さを以て述べて居る。『祖先の靈に敬虔なることがあらゆる德の源泉である。祖先に對してその義務を果たす者は何人も神に對し、或は己が兩親に對して不敬なるを得ぬ。かゝる人は君主に對しては忠義であり、そして友人に對しては信實であり、妻子に對しては親切温順であらう』と。

 この古代の信仰と十九世紀の思想とは、相去ることどの位であるか。我々がその信仰を笑ひ得るほどに遠いものでは確に無い。原始人の信仰と最も哲學な心理學者の知識とが、同じ究極の眞理の門邊で相會して、珍らしくも一致して居ることを見ることもあらう。また一兒童の思想が一スペンサア、或は一シヨオペンハウエルの結論を繰返して居ることもあらう。我々の祖先は眞實我々のカミでは無いか。我々の一々の行爲は、實際我々の内に住まつて居る死者の所爲では無いか。我々の衝動や傾向は、我々の能力や弱點は、我々の勇敢や怯懦は、我々がそれよりして生命といふ不可思議極はまる、遺産を受取つた所の彼(か)の今は世に無き無數の人間が創造したものでは無いか。我々は、それが我々の銘々になつて居る所の、そしてそれを、『自分が』とか、『彼等が』とか、『自我(エゴ)』と呼んで居る所の、あの無限に複雜な或る物に就いて、今なほ考へはせぬか。我々の自負或は彼等が今迄に造り來たつて居る物の裡に存する、眼見るを得べからざるものの自負、或は恥辱のほか何であるか。そして我々の良心といふも、善惡種々樣々の無數の死滅した經驗の遺傳繼承の總額のほか何であるか。我々は人間の神性を公言する所の、今日の彼の鞏固な精神の確信を尊敬すると同時に、死者は總て神と成るといふ神道思想を輕々に排斥は出來ないのである。

 

[やぶちゃん注:「寔に」老婆心乍ら、「まことに」と読む。

「地合」「ぢあひ(じあい)」と読み、布地の品質や布の地質。布地のことで、原文は“texture”(テクスチャー)。所謂、り織物に於ける織地(おりじ)、生地(きじ)のことである。

「ハアバアト・スペンサア」既注

「示顯」老婆心乍ら、「じげん」と読む。示し顕(あら)わすこと。

「霊之眞柱(たまのまはしら)」平田篤胤の著書。二巻。文化一〇(一八一三)年刊。小学館「日本大百科全書」によれば、成稿は「古道大意」の翌年であるが、篤胤独自の考えが明確に現れており、平田学の展開方向を決定した重要な著作で、篤胤は貧窮にあり乍ら、四十両もの大金を投じてこれを刊行している。『内容は服部中庸(はつとりなかつね)の「三大考」を下敷きとして、十の図によって天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)からなる世界の成り立ちを説明したものであるが、その要は真の道を知って大倭心(やまとごころ)を固めるために「霊(たま)の行方(ゆくえ)の安定(しずまり)を知る」目的から、人は死後、本居宣長(もとおりのりなが)のいうように夜見(よみ)に行くのではなく、大国主(おおくにぬし)神の支配する幽冥(ゆうめい)に行くと説くところにある』(下線やぶちゃん)。

 

『死せる者共の靈魂は、我等がまはり到る處に存在する不可見世界に猶も在りて、そは悉く性質を異にし、感化の度を異にする神となる。祀られた神に鎭まり居るもあれば、その墓の近くにさまよふもある。そしていづれも、生ける折と同じく、君親妻子に幸(さきは)ふことを歇めぬ』(老婆心乍ら、「歇めぬ」は「やめぬ」と読む)以上の部分を平井呈一氏は訳で「靈之眞柱」の原文を写して下さっていることから、どの箇所かが比較的容易に判明した。これは同書の「下つ卷」の三分の二ほどいった箇所の冒頭である。以下、その冒頭を含む一章を以下に電子化しておく。底本は一九九八年岩波文庫刊子安宣邦校注「霊の真柱」を用いたが、新字な上にルビが現代仮名遣であるため、恣意的に漢字を正字化し、読みは難解なものにのみ歴史的仮名遣で附した。割注は〔 〕で示し。一部に記号を追加した。

   *

 さてまた、現身(うつそみ)の世の人も世に居るほどこそ如此(かく)て在れども、死にて幽冥に歸(おもむ)きては、その靈魂(たま)やがて神にて、その靈異(くしび)なること、その量々(ほどほど)に、貴き賤き、善き惡しき、剛(つよ)き柔(よは)きの違(たがひ)こそあれ、中に卓越(すぐ)れたるは、神代の神の靈異(くしび)なるにも、をさをさ劣らず功(いさお)をなし、また、事の發(おこ)らぬ豫(まだき)より、其(その)事を人に悟すなど、神代の神に異(こと)なることなく、〔さるは、菅原の神の御稜威(みいつ)などを、見て知るべし。この神の御上(みうへ)を俗の生心(なまごころ)なる輩(やから)など、何くれと論(さだ)め云ふは、すべて信(と)るに足らず。〕其(そ)は、かの大國主神の、隱(かく)り坐(ま)しつゝも、侍居(さもらひ)たまふ心ばへにて、顯世(うつしよ)を幸(さきは)ひ賜ふ理(ことわり)にひとしく、君(きみ)・親(おや)、妻子(めこ)に幸ふことなり。そは黄泉(よみ)へ往(い)かずは、何處(いづこ)に安在(しづ)まりてしかると云ふに、社(やしろ)、また祠(ほこら)などを建(たて)て祭りたるは、其處に鎭(しづ)まり坐(を)れども、然在(しから)ぬは、其(その)墓(おくつき)の上に鎭まり居り、これはた、天地(あめつち)と共に、窮まり盡くる期(とき)なきこと、神々の常磐(とことは)に、その社々(やしろやしろ)に坐しますとおなじきなり。さて、墓所(はかどころ)に葬(かく)すをも、鎭まり坐すと云へる例(ためし)は、倭建命(やまとたけのみこと)の崩(かむあがり)り坐して、伊勢の能煩野(のぼぬ)に葬(かく)し奉(まつり)しを、白鳥(しろとり)に化(な)りて、飛び翔(かけ)り行(い)でまして河内(かはち)の志幾(しき)に留(とど)まり給ひしかば、其處にも御陵(みはか)を作りて、「鎭まり坐さしめき」とある。〔書紀には、能褒野(のぼぬ)の御陵(みはか)より飛び出でまして、大和の琴彈原(ことひきはら)に停(とど)まりたまひしかば、其處に御陵を造り給ひしに、また飛び翔り行(い)でまして、河内の舊市邑(ふるいちむら)に留まり賜へるゆゑ、また其處にも御陵を作れる故、時の人、この三陵を號(なづ)けて、白鳥陵(しらとりのみはか)と云ふとあり。〕此は御靈を其處に留め奉(まつ)りしにて、すべて、古(いにしへ)の墓所(はかどころ)をかまふるは、その魂を其處(そのところ)に留めむとの事(わざ)なること、この倭建命(やまとたけのみこと)を、始め能煩野(のぼぬ)に葬(かく)し奉(まつ)りしが、その御靈の飛び行(い)でましゝ故、またその行(ゆ)き留まり給へる處々(ところところ)に、御陵(みはか)を作れるにて曉(さと)るべし。〔また、この御子(みこ)の后(きさき)、弟橘比賣命(おとたちばなのひめのみこと)の、海に入り坐しゝを、その御櫛(みくし)をとりて、御墓(みはか)を作り、納めたりしも、その御櫛を神體(かみわざ)としてその御魂を留めむとてなり。また、「萬葉集」に、高市皇子命(たかいちのみこのみこと)を、葬(はふ)り奉(まつ)りしことを、〽言(こと)さへく、百濟(くだら)の原ゆ、神葬(かむはふ)りはふりいまして、あさもよし、木上宮(きのへのみや)を、常宮(とこみや)と、定めまつりて、神ながら、安定(しづ)まり坐(ま)しぬ」と詠めるも、墓に葬(おさ)むるを、安定(しづ)むるといへる例(ためし)にて、古(いにしへ)の意にかなへり。此類ひの歌、「萬葉集」にいと多かるを、今はその一(ひとつ)を擧(あげ)つるなり。〕

   *

以下、「・」で以上の引用部の注を示す。

・「靈異(くしび)」不思議。神秘。霊妙。

・「菅原の神」強力な御霊となった菅原道真のことであろう。

・「御稜威(みいつ)」神聖で威厳があることを示す「稜威」「嚴(厳)」の尊敬語で、神た天皇の御威光・御威勢。

・「生心(なまごころ)」生半可な分別。

・「論(さだ)め云ふ」議論し言い合う。

・「かの大國主神の、隱(かく)り坐(ま)しつゝも、侍居(さもらひ)たまふ心ばへにて、顯世(うつしよ)を幸(さきは)ひ賜ふ理(ことわり)にひとしく、君(きみ)・親(おや)、妻子(めこ)に幸ふことなり」これが篤胤のオリジナルな真骨頂であって、本書で師宣長に敢然と反旗を翻し(前の下線部参照)、人の霊魂は黄泉の国へなどは行かず、この国土の内の大国主神の支配するところの世界に帰属した、我々には見えない幽冥界に居る、というのである。

・「常磐(とことは)に」「常(とこ)しなへなり」(「長しなへなり」)に同じい。孰れも形容動詞ナリ活用であるが、辞書には「とことはなり」は平安時代までは「とことばなり」であったとするが、本来の上代語としては「万葉集」に用例の見える「としへに」(「とこしへなり」)であったように思われる。

・「伊勢の能煩野(のぼぬ)」「能褒野(のぼぬ)」「のぼの」とも。現在の三重県鈴鹿市内ではあるが、非科学的な陵墓論争の中で実際には限定出来ない気がする。当時の宣長や篤胤らは現在の鈴鹿市上田町にある白鳥塚(しらとりづか)古墳を能褒野陵として最有力視していた。後、明治九(一八七六)年に新政府の教部省(新制太政官制度に基づき宗教統制に拠る国民教化の目的で設置された機関であったが、翌年には廃止され、政策の一部は内務省社寺局に移行した)はこの白鳥塚を倭建命の陵墓と治定したものの、三年後の明治十二年には宮内省はそれを覆し、これまで候補にさえ挙がっていなかった現在の三重県亀山市田村町名越(白鳥塚の四・四キロメートル南西)にあった丁子塚(ちょうじづか)を倭建命陵墓に治定、現在の能褒野王塚(のぼのおうつか)古墳(前方後円墳)とされるに至っている。ただ、「能煩野」大きな原であるから、この鈴鹿市上田町及び加佐登町(かさだちょう)から亀山市田村町と比定して問題はあるまい。

・「河内(かはち)の志幾(しき)」これは現在の八尾市に相当するが、現在も過去もここに白鳥伝説の古墳は存在しない。篤胤が述べるように「日本書紀」には、倭建命は能煩野で亡くなると白鳥に変じて飛び立ったが、まず最初に大和の琴弾原(ことひきはら)(現在の御所(ごせ)市富田(とみた)へ降り立ち、また飛び立って次に河内の古市邑(現在の羽曳野市)に舞い降りた後、天高く飛び去ったとしており、そこから、現行ではこの白鳥陵(しらとりのみささぎ)は奈良県御所市富田(琴弾原(ことびきはら)白鳥陵)と大阪府羽曳野市軽里(古市白鳥陵・軽里大塚古墳)の二ヶ所に治定されてはいる(因みに皇子の墳墓を「陵」というのは「古事記」「日本書紀」に於いては倭建命の能褒野陵と二つの白鳥陵のみで稀有の例外である)。即ち、現在の宮内庁は「白鳥塚」を無視して「能褒野墓」を何らの考証的根拠なしに強引に「倭建命陵墓」と公式認定してしまい、にも拘わらず、同時に「日本書紀」の記載通り、二つの「白鳥陵」をも「能褒野墓」に附属するもの、附属する「墓」として認めるという荒業を敢えてしている訳である。しかし、篤胤の謂いを借りれば、神道に於ける墓はまさに「御靈を其處に留め奉りしにて、すべて、古の墓所をかまふるは、その魂を其處に留めむとの事なること、この倭建命を、始め能煩野に葬し奉りしが、その御靈の飛び行でましゝ故、またその行き留まり給へる處々に、御陵を作れるにて曉るべし」であってこれは実は何ら問題ないのである。神道の霊魂(みたま)は三つどころか目に見えないこの世界に遍く存在する、しかもその世界は現行を支配する天孫の強引な国譲りし、姿を隠したところの大黒、暗黒神大国主の支配する目に見えぬ国である、というこの近世の孤独な神道家篤胤の考え方は、一箇の孤高なる思想乍ら、神道本来のプロトタイプに対する優れた解釈として、今の私にはすこぶる共感出来るものであることを密かに告白しておくこととする。

・「弟橘比賣命(おとたちばなのひめのみこと)の、海に入り坐しゝを、その御櫛(みくし)をとりて、御墓(みはか)を作り、納めたり」現在の神奈川県川崎市高津区子母口にある橘樹(たちばな)神社の『社伝によると「日本武尊東征の際海が荒れ、弟橘媛はその身を投じ海を鎮た。やがて入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した。」とある。また古事記でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えられている』とし、こ神社の裏手の丘にある富士見台古墳を弟橘媛陵とする説があるが、この古墳は 六世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある、とウィキの「橘樹神社」にはある。

・「高市皇子命(たかいちのみこのみこと)」高市皇子(たけちのおうじ 白雉五(六五四)年~持統一〇(六九六)年)は後の第四十代天武天皇の第一皇子(但し、母は尼子娘(あまこのいらつめ:筑紫宗像郡の豪族胸形徳善(むなかたのとくぜん)の娘)で、後継としては皇女を母にもつ草壁皇子と大津皇子に次ぐ第三の地位にあった)。壬申の乱では父大海皇子(おおおあまのおうじ 後の天武天皇)に着き、軍を統率して大いに活躍、天武天皇が崩御すると大津皇子(母は天智天皇皇女大田皇女(おおたのひめみこ))は謀反の咎で死罪となり、続いて持統三(六八九)年に草壁皇子が死ぬと、翌年に天武天皇皇后で草壁皇子の母であった鸕野讚良皇女(うのささらのこうじょ)が第四十一代持統天皇として即位、この年、高市皇子は太政大臣となって、以後、天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位となった。没した後は「延喜式」の「諸陵」によれば墓は「三立岡墓(みたておかのはか)」とし、大和国広瀬郡(現在の奈良県北葛城郡広陵町)とするが、一方ではかの高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある(以上は主にウィキの「高市皇子」とそのリンク先を参考にしつつ纏めた)。

・「言(こと)さへく、百濟(くだら)の原ゆ、神葬(かむはふ)りはふりいまして、あさもよし、木上宮(きのへのみや)を、常宮(とこみや)と、定めまつりて、神ながら、安定(しづ)まり坐(ま)しぬ」「万葉集」の「卷第二」の「挽謌」に載る柿本人麿の「高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首幷短哥(高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのいた)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首幷びに短哥)」という前書を持つ長歌(百九十九番歌)の最後の方の一節である。原文は(以下、講談社文庫中西進訳注に拠ったが、恣意的に正字化した)、

   *

言左敞久 百濟之原從 神葬 〻伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神隨 安定座奴

言(こと)さへく 百濟(くだら)の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬りいませて 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くしまつりて 神(かみ)ながら 鎭(しづ)まりましぬ

   *

「言(こと)さへく」は「さへく」は「障(さ)ふ」で、言葉の通じないの意で、「百濟」の枕詞的用法。但し、この「百濟」はかの韓国の百済ではなく、奈良県北葛城郡広陵町大字百済のこと。「ゆ」は上代の格助詞でここは「~を通って」の意。「神葬(かむはふ)り」貴人を神として埋葬する。「いませて」そこにいらっしゃるように成して。「麻裳(あさも)よし」枕詞。麻が紀伊国の特産であることから、「き」を初音とする地名に係る。枕詞として無視せずに訳す例(底本は『麻の裳もよい紀という』とある)もあるが私は歌の情趣に合わないと思う。「城上(きのへ)の宮」やはり広陵町内の地名とするが、ネットを検索すると異説が多い。「高くしまつりて」底本の中西氏の脚注に『「し」は動詞「す」。ここは造営する。「まつり」は補助動詞。謙譲』とある。諸訳を参考に我流でこの部分を通釈すると、

――鄙にして言葉もうまく通ぜぬような荒れた葛城の百済の原を通り、高市皇子を神として送り葬り申し上げ、城上(きのえ)の宮を皇子の永遠(とわ)の宮として天高く造作(ぞうさ)し申し上げ、皇子は永遠(とわ)なる神、そのままに、この永遠(とわ)の宮にお鎮まりなされた。――

といった謂いである。篤胤がここを引いた意味が私にはよく判る気がする。

 

「日本亞細亞協會の會報に發表されたサトウ氏の立派な論文『純なる神道の復活』」既注であるが再掲する。アーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“The revival of pure Shin-tau”(純粋神道の復活)である。

「本居は、『人の要する道德觀念は總て皆な神が、その人の胸ヘ植附るので、飢ゑた時に物を食ひ、渇した時に物を飮まざるを得ざらしめる、彼(か)の本能とその性質は同じである』」本居宣長の著作は私の手元に一冊もなく、ちゃんと読んだことがない。ネットに頼ったが、原典は不明であった。幸い、やはり平井氏が原文らしきものを訳に用いておられるので、それを引く(今回は一部の仮名遣を正し、恣意的に漢字を正字化した)。

「この直覺」平井氏は『この「直感」』と訳しておられる。

『まづ飢て食ひ、渇て飮ムたくひは、人の教へをもまたず、神の御靈によりて、己と自然とによくすること、又禮義を行ふも、人のあるべき限の禮義は、教へをまたず、是も神の御靈によりて、自然に誰も知て行ふ事也。』

原典のお分かりになる方の御教授を切に俟つ。

「神の御所爲(みしわざ)」これはネット検索で、sousiu 氏のブログ「同血社主人の一艸獨語」の「んぞ國つ神に背き他神を敬せむや」に、篤胤の「鬼神新論」(文化二年草稿・文政三年補足)から引いて(一部表記に補正を加えさせて頂いた)、

   *

「また佛は蕃神なれば、祭るべき謂(いはれ)なしとて、疾(にく)み厭ひ廢(すて)むとする人の有るも、偏(かたくな)にして、眞の神の道を知らざるものなり。凡(すべ)て世の中の事は善も惡きも、本(もと)は神の御所業(みしわざ)によれる事にて、佛道の行はれ、佛神の參渡(まゐわた)りて、其を祭る風俗(ならはし)となりたるも、本は神の御心に因れるにて、則、公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、是も廣(ひろ)けき神の道の中の一ノ道なり。かくて、佛すなはち神なれば、時世に祭る風俗のほどほどに、禮(ゐや)び饗(あへ)しらひ、また由緣ありて、心の向はむ人は、祭もし祈言(のりごと)をせむも、咎むべき事には非ずかし」と。

   *

とあって、この中の『神の御所業(みしわざ)』がそれであろうと思われる(「靈之眞柱」にも出そうな表現ではあるが、調べるのが面倒であり、草稿はそれよりも前であるから問題あるまい)。それにしても神道ファンダメンタリストである篤胤にして、最後の『心の向はむ人は、祭もし祈言(のりごと)をせむも、咎むべき事には非ずかし』という懐の深さには脱帽せざるを得ない。

「人自(みづか)らの情(こゝろ)」この「自(みづか)らの」のルビは底本では「み」のみである。「み」では読めず、これはしばしば「自」を「みづから」と「おのづから」の訓読を分けるために行われるルビ打ちであろうと判断し、かく付け加えた。大方の御批判を俟つ。

「受行ふべき道(ミチ)なきことはおのづから知かりてむ。其を知るぞ即ち神の道をうけおこなふはありける」「(ミチ)」は本文でルビではない。同前でネットに頼ったところ、個人ブログ「ものぐさ屁理屈研究室」の「小林秀雄 39」によって、「古事記伝 卷一」の「直毘靈(なほびのみたま)」初出(明和八(一七七一) 年成稿。初め、かく「古事記伝」第一巻の総説に収められたが、のち単行一巻として文政八(一八二五)年に刊行している。表題は直毘神(なおびのかみ)の御霊(みたま)により漢意(からごころ)を祓い清めるの意である、と「ブリタニカ国際大百科事典」に載る)の中に以下のように出ることが判った。

「平田は『眞の德を行はんと欲するならば、眼見うべからざる世界を恭ひ恐れるが宜い。そすれば惡を行ふことが出來ぬやうにならう。眼見うべからざる世界を支配し給ふ神々に誓を立てて、自分の心に植附られて居る良心(マゴコロ)を養へ。さすれば決して道にさ迷ふことは無からう』と書いて居る」「(マゴコロ)」は本文でルビではない。出典不詳。ここも平井氏の訳の原文らしき訳を引く(恣意的に漢字を正字化した)。

『凡を人その實德を修せむと欲するに。冥幽に愧(ハヂ)恐るゝと云ふ事を心得る時は。決(キハ)めて惡き事の爲(せ)られる道理(コトハリ)なれば。其ノ幽冥の原(モト)をしろし看(メ)す大社の神に誓(ウケ)ひて。其實心(マゴコロ)を琢(ミガ)く時は。大凡(オホヨ)そ道に違ふ事なし。』

訳者の「眼見うべからざる世界」の「眼見る」の読みは不明。取り敢えずこれで「眼見(み)る」と訓じておく。現に生(なま)の眼(なまこ)では見ることの出来ない絶対不可視の世界の謂いであろう。しかしそれにしても、これが原典の「冥幽」界を指してことは一読ではちと分かり難い。原典のお分かりになる方の御教授を切に俟つ。

「祖先の靈に敬虔なることがあらゆる德の源泉である。祖先に對してその義務を果たす者は何人も神に對し、或は己が兩親に對して不敬なるを得ぬ。かゝる人は君主に對しては忠義であり、そして友人に對しては信實であり、妻子に對しては親切温順であらう」出典不詳。ここも平井氏の訳の原文らしき訳を引く(恣意的に漢字を正字化した)。

『扨まづ先祖をかやうに。大切にすべき謂(イハレ)を心得ては。况(マシ)て天神地祇を。粗略に思ひ奉る人は。決して无(ナ)い筈(ハズ)のこと。今現に今生ておはし坐(マス)親を。粗末にする人は无(ナ)く。神と親を大切にする心得の人は。まづ道の本立(モトダテ)の固き人故。その人必君に仕(ツカ)ヘては忠義を尽し。朋友と交りては。信宲があり。妻子に対しては。慈愛のある人と成(ナ)りたる事は。論は无(ナ)いだに依て。先祖を大切にするが。人とある道の本(ホン)だと云ので厶(ござる)。』

「信宲」の「宲」は「實(実)」の古字と思われ、「信實」、真面目で偽りがないことの意の「信実」である。またしても原典のお分かりになる方の御教授を切に俟つ。]

 

 

 As to its exterior forms, modern Shintō is indeed difficult to analyse; but through all the intricate texture of extraneous beliefs so thickly interwoven about it, indications of its earliest character are still easily discerned. In certain of its primitive rites, in its archaic prayers and texts and symbols, in the history of its shrines, and even in many of the artless ideas of its poorest worshippers, it is plainly revealed as the most ancient of all forms of worship,that which Herbert Spencer terms 'the root of all religions'devotion to the dead. Indeed, it has been frequently so expounded by its own greatest scholars and theologians. Its divinities are ghosts; all the dead become deities. In the Tama-no-mihashira the great commentator Hirata says 'the spirits of the dead continue to exist in the unseen world which is everywhere about us, and they all become gods of varying character and degrees of influence. Some reside in temples built in their honour; others hover near their tombs; and they continue to render services to their prince, parents, wife, and children, as when in the body.' And they do more than this, for they control the lives and the doings of men. 'Every human action,' says Hirata, 'is the work of a god.' [3] And Motowori, scarcely less famous an exponent of pure Shintō doctrine, writes: 'All the moral ideas which a man requires are implanted in his bosom by the gods, and are of the same nature with those instincts which impel him to eat when he is hungry or to drink when he is thirsty.' [4] With this doctrine of Intuition no Decalogue is required, no fixed code of ethics; and the human conscience is declared to be the only necessary guide. Though every action be 'the work of a Kami.' yet each man has within him the power to discern the righteous impulse from the unrighteous, the influence of the good deity from that of the evil. No moral teacher is so infallible as one's own heart. 'To have learned that there is no way michi,'[5] says Motowori, 'to be learned and practiced, is really to have learned the Way of the Gods.' [6] And Hirata writes: 'If you desire to practise true virtue, learn to stand in awe of the Unseen; and that will prevent you from doing wrong. Make a vow to the Gods who rule over the Unseen, and cultivate the conscience ma-gokoro implanted in you; and then you will never wander from the way.' How this spiritual self- culture may best be obtained, the same great expounder has stated with almost equal brevity: 'Devotion to the memory of ancestors is the mainspring of all virtues. No one who discharges his duty to them will ever be disrespectful to the Gods or to his living parents. Such a man will be faithful to his prince, loyal to his friends, and kind and gentle with his wife and children.' [7]

   How far are these antique beliefs removed from the ideas of the nineteenth century? Certainly not so far that we can afford to smile at them. The faith of the primitive man and the knowledge of the most profound psychologist may meet in strange harmony upon the threshold of the same ultimate truth, and the thought of a child may repeat the conclusions of a Spencer or a Schopenhauer. Are not our ancestors in very truth our Kami? Is not every action indeed the work of the Dead who dwell within us? Have not our impulses and tendencies, our capacities and weaknesses, our heroisms and timidities, been created by those vanished myriads from whom we received the all-mysterious bequest of Life? Do we still think of that infinitely complex Something which is each one of us, and which we call EGO, as 'I' or as 'They'? What is our pride or shame but the pride or shame of the Unseen in that which They have made?and what our Conscience but the inherited sum of countless dead experiences with varying good and evil? Nor can we hastily reject the Shintō thought that all the dead become gods, while we respect the convictions of those strong souls of to-day who proclaim the divinity of man.

 

2 Quoted from Mr. Satow's masterly essay, 'The Revival of Pure Shintō,' published in the Transactions of the Asiatic Society of Japan. By 'gods' are not necessarily meant beneficent Kami. Shintō has no devils; but it has its 'bad gods' as well as good deities.

3 Satow, 'The Revival of Pure Shintō.'

4 Ibid.

5 In the sense of Moral Path,—i.e. an ethical system.

6 Satow, 'The Revival of Pure Shintō.' The whole force of Motowori's words will not be fully understood unless the reader knows that the term 'Shintō' is of comparatively modern origin in Japan,—having been borrowed from the Chinese to distinguish the ancient faith from Buddhism; and that the old name for the primitive religion is Kami-no- michi, 'the Way of the Gods.'

7 Satow, 'The Revival of Pure Shintō.'

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