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2015/11/09

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (十一)

       一一

 

 出雲で使用されて居る『ソレイシヤ』幷びに『ミタマヤ』といふ言葉は、神道の(普通は櫻の木で出來て居る)位牌が入れてある小さな宮か、又は、其處に位牌が置いてあつて、そして其處へ供物を捧げるやうにしてある、その家の一部分を意味することがあるといふことである。さういふ供物は、それが出來るほどの人はみな、机の上に載せることになつていて、その机は無地の白木のもので、神社で又公の葬式で供物をする時の机と、同じな高い狹い形のものである。

 家の中での神道祭祀の際、昔の祖先に向つて唱へる、最も普通な形式の祈禱は聲高くは述べぬ。神道のあらゆる通俗な祈禱の最初の法式の文句『拂ひ給へ』云々を發言してから、その崇拜者は、『我等の遠き昔の祖先の御魂よ、代々の、我々の家族の、また我々の親族の汝等祖先の御魂よ、我々の家の創立者たる汝等に、我々は今日、我々の感謝の喜びを述べる』と、ただ自分の情(こゝろ)で言ふのである。

 佛教信者の家族的祭祀では、その家のホトケの間に――疾(とく)の昔に死んだ人達の靈と、つい間近に亡くなつた人達の靈との間に――差別を設けて居る。後者は之をシンボトケ即ち『新しい佛』、もつと嚴密に言へば『新しく死んだ者』と呼んで居る。シンボトケに對しては何等超自然的な恩惠を直接乞ひ願ふことをしない。敬つてホトケとは呼んで居るものの、新しく死んだ者は佛の境涯に達して居るとは、實は考へられて居ないからである。彼方へと長の旅路へ出たばかりで、人に救助を與へ得るよりか寧ろ、自分の方に恐らくは救助を要して居るのである。だから實際、敬虔の念の深い人達の間では、死んだ者がどうして居るかといふ事が情の籠もつた心配事である。小さな子が死んだ時は、殊にさうである。幼な子の魂は弱くて、色んな危難に遇ふと思ふからである。だから母は、その子の去つた魂に物言って、恰も生きて居る息子か息女に物を言ふやうに、忠告をしたり、訓戒したり、やさしく指圖したりする。どんなシンボトケにも、出雲で言ふ普通の言葉は祈禱の形式では無くて、寧ろ懇願或は勸告の形式である。例へば次記の如くである、――

 

 『ジヤウブツセヨ』或は『ジヤウブツシマツシヤレ』

 『マヨウナヨ』

 『ミレンヲノコサズニ』

 

 斯ういふ祈禱は決して聲高くは述べぬ。これよりももつと西洋の祈禱の觀念に一致して居るのは、眞宗信者がシンボトケの爲めに述べる次記のものである、――

 

 『オムカヘクダサレ、アミダサマ』

 

 言ふの要も無いが、祖先崇拜は、支那及び日本で佛教の中へ取り入れられはして居るけれども、佛教起原のものでは無い。これも亦言ふの要は無いが、佛教は自殺を非認する。でも日本では、死んだ者の魂はどんな境遇に居るかとの心配が屢々自殺を惹起した――或は少くとも、佛教の教義を信じては居ながらも、原始的慣習に執着することもある人達には、自殺は是認されてゐたのである。家來は、死んだなら、自分共の領主或は舊領主の魂に勸告援助、若しくは御用を爲すことが出來るかも知れぬとの信念を抱いて、自殺した。だから保元物語といふ小説に、或る家来がその年若い主人が死んだ後、

   死出の山三途の河をば誰かは介錯申す

   べき。恐しく思召さんに付けても、先

   づ我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも

   苦しきに、主の御供仕らん。

と言つたとしてある。

 家の内での佛教の崇拜では、遠き昔に死んだ者共の魂即ちその一家の本の佛(ほとけ)に對して唱へる祈禱と、新佛に對して爲す言葉とは甚だ異つて居る。次記のはその二三の實例である。これはいつも聲を潛めて言ふ。――

 

 『カナイアンゼン』

 『エンメイソクサイ』

 『シヤウバイハンジヤウ』

 

 これは商人だけが唱へる。

 

 『シソンチヤウキウ』

 『ヲンテキタイサン』

 『ヤクビヤウセウメツ』

 

 上記のうちで神道崇拜者も亦用ひるのがある。老年のサムラヒは今なほその階級の特別な祈禱を唱へる、即ち

 

 『テンカタイヘイ』

 『ブウンチヤウキウ』

 『カエイマンゾク』

 

 が斯ういふ無言の定り文句のほかに、情(こゝろ)促されてのどんな祈禱でも、歎願であらうと感謝であらうと、固よりのこと唱へても宜い。そんな祈禱は日常生活に用ふる言葉で述べる、否、寧ろ心の中で念ずる。出雲の母親が、病氣の子供の爲めに願つて祖先の靈に對して述べる次記の短い祈禱は一例である、――

 

 『オカゲデ、コドモノビヤウキモ、ゼンクワイイタシマシタ、アリガタウゴザイマス!』

                                 

 『オカゲデ』は文字通りに言へば『の御ン蔭で』である。原の文句には自由譯も況んや正確譯も保持し得ない一種靈的な美がある。

 

[やぶちゃん注:一部、底本の行空けにミスがあるので訂してある。

「さういふ供物は、それが出來るほどの人はみな、机の上に載せることになつていて、その机は無地の白木のもので、神社で又公の葬式で供物をする時の机と、同じな高い狹い形のものである」神道の神前に正面(推定)に置くそれは「豆八足台(まめはっそくだい)」(左右に四本の脚がある神社で用いるものは大きなもので、これは「八脚案(はっきゃくあん)」「神饌台(しんせんだい)」「八足」と呼ぶ)とか「長(なが)三宝(長膳)」(上部に三宝のような張り出しが付く)などと称するようで、白木である。前者が古式であろう。神具店のそれを見ると仏教では供物は普通、供物を載せるのは高坏(たかつき)で、仏前の左右に置く(角高坏を公式とし丸高坏を略式とするという)。こちらは現行では通常、白木でなくて塗り物である。

「拂ひ給へ」神道なら正しい漢字表記は「祓ひ給へ」である。さらに原文に忠実に表記するならば「祓ひ給い」である。しかも、これは現行の祝詞(のりと)のオーソドックスな発語である「祓い給い、清め給え、神(かむ)ながら、奇(く)しみ給え、幸(さきわ)え給え」とも一致しているから、ハーンの表現は正しく、ここで何の注もせずに訳者が改変しているのは恣意的に過ぎ、訳として不適切と言わざるを得ない。今まであまり問題にしてこなかったが以前も以後もハーンの原文の日本語音写部分は、単なる誤写や誤認と捉えるよりも、ハーンの聴いた相手の出身地の方言、老若差、性差、立場上の用語の違い、さらには外国人のハーンの耳には実際とは少し変形してそのようなものとして聴こえていた可能性など、こもごもの要素を積極的に取り入れて再考すべき箇所が多いように私には思われる。それはきっと録音機のなかったこの時代の口語音(ハーンのそれは完全ではないが口語音を再現している箇所がまま見られる)の研究、失われた日本語発音の復元・再発掘としても非常に魅力的なものとなるはずである。

「我等の遠き昔の祖先の御魂よ、代々の、我々の家族の、また我々の親族の汝等祖先の御魂よ、我々の家の創立者たる汝等に、我々は今日、我々の感謝の喜びを述べる」平井呈一氏は以下のように祝詞の原文を示しておられる(カタカナはルビ。恣意的に正字化し、読みは一部に恣意的に字空けを施した)。『遠都御祖乃御靈(トホツ ミオヤノ ミタマ)。代々能祖等(ヨヨノ ヲヤタチ)。親族乃御靈(ウカラ ヤカラノ ミタマ)。總氏此祭屋爾鎭祭留(スベテ コノマツリヤニ イハヒマツル)。御靈等能御前乎愼敬比(ミタマタチノ ミマエヲ ツツシミテ ヰヤマヒ)。今日乃此日(ケフノ コノヒ)。御祭善志久仕奉志米給閉登祈白須(ミマツリ ウルハシク ツカヘマツリシメタマヘト イノリマオス)』。なお、この平井氏の引用部の冒頭は、複数ある祖霊崇拝に関わる祝詞類の冒頭とほぼ一致していることはネット上で確認出来たが、平井氏の引用されたこの祝詞はどの祝詞のどの箇所かは不明である。識者の御教授を乞う。

「『ジヤウブツセヨ』或は『ジヤウブツシマツシヤレ』」「『成佛せよ』或は『成佛しまつしやれ』」。「ジヤウブツ」の部分は原文では日本語口語で「じょーぶつ」と表記されてある。以下も原文では本文のような固い(それでなくてもカタカナ表記で硬い印象が強いのに)歴史的仮名遣ではなく、口語である。以下、原文ではこれらの日本語を英訳したものが、後に[ ]で附加されている。例えばここには合わせて“Do thou become a Buddha.”、「汝(なれ)が目出度く仏體となりますやうに。」といった塩梅である。本文でも(平井呈一氏も)省略してあるので以下、これについては原則、注さない。

「マヨウナヨ」口語表記はママ。「迷うなよ」。

「ミレンヲノコサズニ」「未練を殘さずに」。原文に忠実にならば「未練を殘らず」である。

「オムカヘクダサレ、アミダサマ」「お迎へ下され、阿彌陀さま」。原文は「オムカヘクダサレ」ではなく「おむかいくだされ」である。後の英訳の頭にある、“vouchsafe”(ヴァーフセェフ)は私は初めて見る単語であるが、辞書を調べると中世英語由来で、元は「安全なものとして保証する」の意の他動詞で、現行では「厚意又はお情けによって~を与える・賜わる」「親切にも~して下さる」「主に安全などを保証する・請け合う」の意である。

「佛教は自殺を非認する」ハーンの誤認。既出既注

 

「保元物語といふ小説に、或る家来がその年若い主人が死んだ後、/死出の山三途の河をば誰かは介錯申すべき。恐しく思召さんに付けても、先づ我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主の御供仕らん。/と言つたとしてある」これは「保元物語」の保元の乱(保元元(一一五六)年七月)に後、白河天皇方について勝った源義朝が、負けた崇徳院方についた実父為義を誅した後、さらに自身の弟たちを自らの手にかける(彼は親族の助命嘆願を訴えたが信西によって却下された)シークエンスの後半、「義朝幼少の弟悉く失はるる事」の殆んど最後の箇所、傅(めのと:守役)であった内記平太が数え七つの天王殿の骸(むくろ)をかき抱いて言い放ち、即座に腹を掻っ切る凄絶なる殉死シーンからの引用である。かなり長いが、非常に哀傷に満ちた箇所であり、以下、大正二(一九一三)年友朋堂刊武笠三(むかさ さん)校訂「保元物語・平治物語・北條九代記」より引くこととする。読みは難読字と振れそうなもののみに限った。また、直接話法部分は改行を施して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。これでは「卷三」の冒頭に出る(二巻本では「下卷」に入り、かなり異なる)。

   *

さる程に内裏より即ち義朝を召され、藏人右少瓣資長朝臣を以て仰せ下されけるは、

「汝が弟共の未だおほくあるなるを、縱(たと)ひ幼くとも女子の外は、皆尋ねて失ふべし。」

となり。宿所(しゆくしよ)に歸(かへつ)て、秦野次郎を召して宣ひけるは、

「餘(あまり)に不便(ふびん)なれ共、敕定なれば力なし。母か乳母(めのと)か懷きて山林に迯隱(にげかく)れたらんは如何(いかゞ)せん。六條堀川の宿所に在る當腹(はうふく)の四人をば、購出(すかしいだ)して、相構(あひかま)へて道の程詫びしめずして、舟岡にて失へ」とぞ聞えける。延景難儀の御使(おんつかひ)かなと心憂く思へども、主命(しうめい)なれば力なし。涙を袖に收めつゝ、泣く泣く輿を舁かせて、彼(か)の宿所へぞ趣きける。母上は折節(をりふし)物詣(ものまうで)の間なり。君達(きんだち)は皆おはしけり。兄をば乙若(をとわか)とて十三、次は龜若とて十一、鶴若は九、天王(てんわう)は七つなり。此人々延景を見付て嬉しげにこそありけれ。秦野次郎、

「入道殿の御使に參つて候ふ。殿は十七日に、比叡の山にて御さまかへさせ給ひて、頭殿(かうどの)の御許(おんもと)へ入らせ給しを、世間も未だ愼(つゝま)しとて、北山(きたやま)雲林院(うりんゐん)と申す所に忍びてわたらせ給ひ候ふが、君達の御事(おんこと)覺束なく思召し候ふ間、御見參(ごけんざん)にいれ奉らん爲に、倶し奉つて參らんとて、御迎(おんむかへ)に參つて候ふ」

と申せば、乙若出合(いであ)ひて、

「誠に樣(さま)替へておはしますとは聞きたれども、軍(いくさ)の後(のち)は未だ御姿(おんすがた)を見奉らねば、誰々(だれだれ)も戀しくこそ思ひ侍(はんべ)れ」

とて、我先(われさき)にと、輿に爭ひ乘られけるこそあはれなれ。是を冥途の使(つかひ)ともしらずして、各輿(こし)共(ども)に向ひつゝ、

「急げや急げ」

と進みける。羊(ひつじ)の歩み近付くをしらざりけるこそはかなけれ。大宮を上(のぼり)に、船岡山へぞ行きたりける。峰より東なる所に輿舁居(かきす)ゑて、如何(いかゞ)せましと思ふ處に、七つになる天王走出でて、

「父は何處(いづく)におはしますぞ」

と問ひ給へば、延景涙をながして、暫(しばし)は物も申さざりしが、良(やゝ)あつて、

「今は何をか隱し進らすべき。大殿(おほとの)は頭殿の御承(おんうけたまはり)にて、昨日(きのふ)の曉斬られさせ給ひ候き。御舍兄(ごしやきやう)たちも八郎御曹子の外は四郎左衞門殿より九郎殿まで五人ながら、ゆふべ此表(おもて)にみえ候ふ山本(やまもと)にて斬り奉り候ひぬ。君達をも失ひ申すべきにて候ふ。相構へて賺(すかし)出(いだ)し進(まゐ)らせて、わびしめ奉らぬ樣にと仰付けられ候ふ間、入道殿の御使とは申し侍(はんべ)るなり。思召す事候はば、延景に仰せ置かせ給ひて、皆御念佛候べし」

と申せば、四人の人々是を聞き、皆輿より下(お)り給ふ。九になる鶴若殿、

「下野殿へ使をつかはして、如何に我等をば失ひ給ふぞ。四人を助置(たすけお)き給はば、郎等百騎にも勝りなんずるものを、此(この)由(よし)申さばや」

とのたまへば、十一歳になる龜若殿、

「誠に今一度人を遣はして、慥(たしか)に聞かばや」

と申されける所に、乙若殿生年(しやうねん)十三なるが、

「あな心憂(こゝろう)の者共の云(いひ)かひなさや。我等が家に生まるゝ者は、幼けれども心は猛しとこそ申すに、かく不覺(ふかく)なる事を宣ふものかな。世の理(ことわり)をも辨(わきま)へ、身の行末をも思ひ給はば、六十に成り給ふ父の、病氣に依りつて、出家遁世して、憑みて來り給ふをだに斬る程の不當人(たうにん)の、增(まし)て我々を助け給ふ事あらじ。あはれはかなき事し給ふ頭殿かな。是は淸盛が和讒(わざん)にてぞあるらん。多くの弟を失ひ果てて、只一人になして後(のち)、事の次(ついで)に亡(ほろぼ)さんとぞ計(はから)ふらんを曉(さと)らず、只今我身も失せ給はんこそかなしけれ。二三年をも過(すご)し給はば、幼かりしかども乙若が、舟岡にて能く云ひしものをと、汝等も思合(おもひあは)せんずるぞとよ。さても下野殿うたれ給ふて後、忽に源氏の世絶なん事こそ口惜しけれ」

とて、三人の弟達にも、

「な歎き給ひそ。父も討たれ給ひぬ。誰か助けおはしまさん。兄達も皆斬られ給ひぬ。情(なさけ)をもかけ給ふべき頭殿は敵なれば、今は定て一所懸命の領地もよもあらじ。然ば命(いのち)助りたりとも、乞食(こつじき)流浪の身と成りて、此彼(こゝかしこ)迷行(まよひゆ)かば、あれこそ爲義入道の子共よと、人々に指(ゆび)を指(さ)されんは、家の爲にも恥辱なり。父戀しくば、只西に向(むかつ)て南無阿彌陀佛と唱へて、西方極樂に往生し、父御前と一つ蓮(はちす)に生(うま)れ合ひ奉らんと思ふべし」

と、をとなしやかに宣へば、三人の君達各西に向(むかつ)て手を合(あは)せ、禮拜(らいはい)しけるぞ哀なる。是をみて五十餘人の兵(つはもの)も、皆袖をぞ濡らしける。此君達に各一人づつ傅(めのと)共(ども)付きたりけり。内記(ないきの)平太は天王殿の傅、吉田次郎は龜若、佐野源八は鶴若、原後藤次は乙若殿の傅なり。差寄(さしよ)つて髮(かみ)結擧(ゆひあ)げ、汗拭(あせのごひ)などしけるが、年來日來(としごろひごろ)宮仕(みやづかへ)、旦暮(あさゆふ)に撫(なで)はだけ奉りて、只今を限(かぎり)と思ける心(こゝろ)共(ども)こそ悲しけれ。されば聲を擧げて、叫ぶ計にありけれども、幼き人々を泣かせじと、抑ふる袖の間(ひま)よりも、餘る涙の色深く包む氣色(けしき)も顯れて、想遣(おもひや)るさへ哀なり。乙若、延景に向つて、

「我こそ先にと思へども、あれ等が幼心(をさなごころ)に、懼恐(おぢおそ)れんも無慙(むざん)なり。又云ふべき事も侍れば、彼等を先に立てばや」

と宣ひければ、秦野次郎太刀を拔いて後(うしろ)へ廻りければ、傅共、

「御目(おんめ)を塞がせ給へ」

と申して皆退きにけり。即ち三人の首前にぞ落ちにける。乙若是を見給て少しも騷がず、

「いしうも仕りつるものかな。我をもさこそ斬らんずらめ。さてあれは如何に」

との給へば、ほかゐを持たせて參りたり。手づから此首共の血の付きたるを押拭(をしのご)ひ、髮搔撫(かきな)で、

「あはれ無慙の者共や。か程に果報少なく生まれけん。只今死ぬる命より、母御前(はゝごぜん)の聞召(きこしめ)し歎き給はんその事を、兼ねて思ふぞ譬(たとへ)なき。乙若は命を惜しみてや、後に斬られけると人言はんずらん。全くその義にてはなし。かやうの事を云はんに付けても、又我斬られんを見んに付けても、留まりたる幼き者の、泣かんも心苦しくて言はぬなり。母御前の今朝(けさ)八幡(やはた)へ詣で給ふに、我も參らんと申せば、皆參らんと云ふ。具(ぐ)せば皆こそ具せめ、具せずは一人も具せじ、片恨(かたうらみ)にとて、我等が寢入たる間(あひだ)に詣で給しが、今は下向(げかう)にてこそ尋ね給らめ。我等斯かるべしとも知らざりしかば、思ふ事をも申をかず形見(かたみ)をも進らせず、只入道殿の呼び給ふと聞きつる嬉しさに、急ぎ輿に乘つる計なり。されば是を形見に奉れ」

とて、弟共の額髮(ひたひがみ)を切りつつ、わが髮を倶して、若(も)し違(たが)ひもぜんずるとて、別々(べちべち)に句分(つつみわ)けて、各其名を書付(かきつけ)て、秦野次郎に給ひにけり。

「又(また)詞(ことば)にて申さんずる樣(やう)はよな。今朝(けさ)御供(おんとも)に參りなば、終には斬られ候ふとも、最後の有樣をば互に見もし見え進らせ候はんずれども、中々(なかなか)互に心苦しき方も侍らん。御留守(おんるす)に別れ奉るも、一つの幸(さひはひ)にてこそ侍れ。この十年(ととせ)餘(あまり)の間は、假初(かりそめ)に立離れ進(まゐ)らする事もはべらぬに、最後の時しも御見參(ごけんざん)に入らねば、さぞ御心に懸り侍るらめなれども、且(かつ)は八幡の御計(おんはからひ)かと思召して、痛くな歎かせおはしまし候ひそ。親子は一世(せ)の契(ちぎり)と申せども、來(らいせ)は必ず一つ蓮(はちす)に參り逢ふ樣(やう)に御念佛候べし」

とて、

「今は此等(これら)が待遠(まちどほ)なるらん疾(と)く疾く」

とて、三人の死骸の中へ分入(わけいつ)て、西に向ひ念佛三十遍(ぺん)計申されければ、首は前へぞ落にける。四人の傅(めのと)共いそぎ走寄り、首(くび)もなき身を抱きつゝ、天に仰ぎ地に伏して、喚(おめ)き叫ぶも理(ことわり)なり。誠に涙と血と相和してながるゝを見る悲しみなり。内記の平太は直垂の紐を解いて、天王殿の身を我が膚(はだへ)に當てて申けるは、

「この君を手馴(てな)れ奉りしより後(のち)、一日片時(へんし)も離れ進(まい)らする事なし。我が身の年の積(つも)る事をば思はず、早(はや)く人(ひと)と成らせ給へかしと、旦暮(あけくれ)思ひて育(はぐく)み進らせ、月日(つきひ)の如くに仰ぎつるに、只今斯かる目を見る事の心憂さよ。常は我が膝の上にゐ給ひて髭を撫でて、何時(いつ)は人と成りて、國をも莊(しやう)をも設けて知らせんずらんと宣ひしものを。假寢(うたゝね)の寢覺(ねざめ)にも、内記内記と呼ぶ御聲(おんこゑ)、耳の底に留(とゞま)り、只今の御姿(おんすがた)幻(まぼろし)にかげろへば、さらに忘るべしとも覺えず。是より歸りて命生(い)きたらば、千年萬年を經へきや。死出(しで)の山(やま)三途(さんづ)の河をば誰かは介錯(かいしやく)申べき。恐しく思召さんに付けても、先(まづ)我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主(しう)の御供(おんとも)仕らん」

と云ひも果てず、腰の刀(かたな)を拔く儘に、腹搔切(かききつ)て失せにける。格勤(かくご)の二人ありけるも、

「幼くおはしましゝかども、情深くおはしつるものを、今は誰をか主(しう)にたのむべき」

とて、刺違(さしちが)へて二人ながら死ににけり。此等六人が志(こゝろざし)類(たぐひ)なしとぞ申しける。同じく死する道なれども、合戰の場(には)に出でて、主君と共に討死をし、腹を切るは常の習(ならひ)なれども、斯かる例(ためし)は未だなしとて、譽(ほ)めぬ人こそなかりけれ。此首共渡すに及ばず、餘に父を戀しがりければとて、圓覺寺へ送りて入道の墓の傍(かたはら)にぞ埋(うづ)めける。

   *

 以下、禁欲的に「・」で注を伏す。

・「藏人右少瓣資長朝臣」公卿藤原資長(元永二(一一一九)年~建久六(一一九五)年)。久安六(一一五〇)年に右少弁、久寿二(一一五五)年に五位蔵人に敍されている。

・「購出(すかしいだ)して」一般には後に出る「賺す」が正しい。騙して連れ出す、欺き誘い出すの意。・「舟岡」現在の京都市北区にある船岡山。

・「秦野次郎」「延景」波多野義通(嘉承二(一一〇七)年~嘉応元(一一六七)年)のこと。摂関家領相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を所領とする波多野氏の一族。ウィキの「波多野義通」によれば、『東国(関東地方)に下向していた、まだ十代の年若い源義朝に近しく仕え、義通の妹は義朝の側室となって次男・朝長が産まれ』ている保元の乱では義朝に従ったが、この二年後の保元三(一一五八)年四月には、『義朝と不和となり京を去って所領の波多野郷に居住した。この頃、義朝の三男で正室所生の頼朝が、兄である朝長の官位を越え、義朝の嫡男となっており、この嫡男の地位を廻る問題が不和の原因と考えられている(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』)』。但し、その後の平治元(一一五九)年十二月の平治の乱に於いても依然、義朝方として従軍したが、義朝は敗北、『東国へ落ち延びる道中で同行していた朝長は戦の傷が元で死亡している』。『義通の子・波多野義常は平治の乱から』二十年後の治承四(一一八〇)年に『挙兵した頼朝と敵対して自害した。 もう一人の子(もしくは弟)の波多野義景は、頼朝と敵対せず鎌倉幕府の御家人となっている』。『義朝の側室であった義通の妹は中原氏と再婚して中原久経をもうけ、久経はのちに文官として頼朝に仕えている』、教師時代、私はこの波多野氏の末裔の方と同僚であった。

・「母」「當腹」故為義の最後の本妻の謂いであって義朝の実母ではないので注意。ここに出る弟たちは彼の異母弟である(義朝の母は為義の最初の妻で白河院近臣藤原忠清の娘)。

・「六條堀川」京都市下京区堀川通にあった源氏累代の邸宅、六条堀川館。後には義朝の子義経が静とともにここで一時を過ごしたとも言う。

・「相構へて道の程詫びしめずして」「失へ」十全に悟られぬように注意しつつ、くれぐれも途中で泣かせたりすることもないようにして、速やか葬り去れ。

・「入道殿」源為義のこと。彼等は義朝が既に父を誅殺したことを知らないのである。以下、偽命である。

・「頭殿(かうどの)」義朝。彼は為義の長男である。

・「羊の歩み」羊が屠殺されることを知らずに嬉々として歩むように、眼の間に一歩又一歩と死が近づきつつあることを全く知らずに死に所へと向かって行く子らのことをかく比喩した。

・「大宮」東大宮大路か。船岡山の位置からは西のそれかも知れないが、西京は平安末期にはかなり荒廃していた。

・「八郎御曹子」源為朝。為義八男。彼だけは伊豆大島へ配流となった。母は摂津国江口の遊女。

・「四郎左衞門殿」源頼賢。為義四男。母は源基実娘。

・「九郎殿」源為仲。為義九男。母は江口の遊女で為朝は同母兄。

・「五人」後の三人は為義五男の源頼仲(母は源基実娘)、六男為宗(母同前)と七男為成(母は賀茂神社神主賀茂成宗の娘)である。即ち、ここで彼等を誅殺した義朝からみると彼らの悉く異母弟であった。

・「君達」貴方様方。乙若(満十二歳)・亀若(満十歳)、鶴若は(満八歳)、天王(満六歳)の子らを指す。

・「下野殿」下野守義朝。

・「出家遁世して、憑みて來り給ふをだに斬る程の不當人」「憑みて」が不詳。別本を見ると「賴みて」とある。これなら頼りにして来なさった、で意味が通る。

・「和讒」一方では親しむ風を装って他方で悪く言うこと。「讒言」同じい。この台詞、現在の中学一年生の言葉とも思えない。そしてまさに義朝はこの少年が預言した通りに滅んでゆくのである。少年、畏るべし!

・「撫はだけ奉りて」髪についた塵を掻き落し申し上げて。

・「いしうも」「美(い)しくも」で、「美(い)し」の連用形に感動・詠嘆の係助詞「も」がついたもの。よくも。感心にも。

・「さてあれは如何に」さても、あのものどもの首はどうなるのじゃ? という乙若の質しである。

・「ほかゐ」「行器」「外居」などと書く。平安以降、主に貴人が食物などを入れて運ばせるのに用いた円筒形で蓋を有し、外側に反った三本の脚のついた木製の容器を指す。物見遊山などの遠出の際や、慶事の贈答品運搬などに用いた。本来は二つ一組で紐を懸けて天秤棒で担いで運ぶ。黒の漆塗りで蒔絵などを施した高級品が多いが、杉の白木製や方形のものもあった。

・「八幡」石清水八幡宮のこと。源家が武神として特に信仰した。

・『内記の平太は直垂の紐を解いて、天王殿の身を我が膚(はだへ)に當てて申けるは、「この君を手馴(てな)れ奉りしより後(のち)、一日片時(へんし)も離れ進(まい)らする事なし。我が身の年の積(つも)る事をば思はず、早(はや)く人(ひと)と成らせ給へかしと、旦暮(あけくれ)思ひて育(はぐく)み進らせ、月日(つきひ)の如くに仰ぎつるに、只今斯かる目を見る事の心憂さよ。常は我が膝の上にゐ給ひて髭を撫でて、何時(いつ)は人と成りて、國をも莊(しやう)をも設けて知らせんずらんと宣ひしものを。假寢(うたゝね)の寢覺(ねざめ)にも、内記内記と呼ぶ御聲(おんこゑ)、耳の底に留(とゞま)り、只今の御姿(おんすがた)幻(まぼろし)にかげろへば、さらに忘るべしとも覺えず。是より歸りて命生(い)きたらば、千年萬年を經へきや。死出(しで)の山(やま)三途(さんづ)の河をば誰かは介錯(かいしやく)申べき。恐しく思召さんに付けても、先(まづ)我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主(しう)の御供(おんとも)仕らん」と云ひも果てず、腰の刀(かたな)を拔く儘に、腹搔切(かききつ)て失せにける』ハーンならずとも、この内記平太の述懐には激しく心打たれる。

・「格勤(かくご)」「恪勤」は原義は真面目に一生懸命勤めることであるが、岩波の新日本古典文学大系本の脚注には『「かくごん」「かくぎん」「かくきん」とも。主君の縁辺にあって諸雑事に奉仕する身分の低い侍(さぶらい)。小侍』と注する。また同本ではこの手前に、

 是を見て、殘(のこる)三人も自害しつ。

とある(同本原文はひらがな部分はカタカナ)。

・「圓覺寺」為義の斬首された首は北白河円覚寺に葬られたされ、この寺(廃寺)は現在の左京区北白川下池田町附近にあったらしい。

 

「カナイアンゼン」「家内安全」。

「エンメイソクサイ」「延命息災」。実は原文では「そくさい」が「さくさい」となっている。誤植の可能性もあるか。

「シヤウバイハンジヤウ」「商賣繁昌」。言わずもがなであるが、後の「これは商人だけが唱へる」はこの一語に対する附加である(原文参照。ここは平井氏のように改行せず、「シヤウバイハンジヤウ」の後に括弧表記で附帯させるべき箇所である)。

「シソンチヤウキウ」「子孫長久」。実は原文では「長久」が「ちょーきん」となっている。

「ヲンテキタイサン」「怨敵退散」。

「ヤクビヤウセウメツ」「厄病消滅」。

「テンカタイヘイ」「天下泰平」。

「ブウンチヤウキウ」「武運長久」。

「カエイマンゾク」「家裔滿足」。「家庭円満」ならよく聴くが、この文字列ではあまり私は聴いたことがないし、ネット検索でも出現しない。しかも「家裔」とあるわけだから、末永く家の栄えを願う願文とは判る。英訳は“That our house (family) may for ever remain fortunate.で、――我々の家名(家族)が永遠に幸運であろますように――と言った謂いであるから、まあ「一家円満」でよかろう。

「オカゲデ、コドモノビヤウキモ、ゼンクワイイタシマシタ、アリガタウゴザイマス!」「お蔭で、子供の病氣も、全快致しました。有難う御座います!」但し、原文は「オカゲデ」が「おかげに」であり、「ゼンクワイイタシマシタ」は「ぜんくわい いたしまして」である。この訳者、音写を恣意的に操作し過ぎである。操作してもよいが、原文と異なることを訳者注として一言挟むのが、原著者ハーンへの最低限の礼儀というものであろう。]

 

 

   The terms soreisha and mitamaya, as used in Izumo, may, I am told, signify either the small miya in which the Shintō ihai (usually made of cherry-wood) is kept, or that part of the dwelling in which it is placed, and where the offerings are made. These, by all who can afford it, are served upon tables of plain white wood, and of the same high narrow form as the tables upon which offerings are made in the temples and at public funeral ceremonies.

   The most ordinary form of prayer addressed to the ancient ancestors in the household cult of Shintō is not uttered aloud. After pronouncing the initial formula of all popular Shintō prayer, 'Harai-tamai,' etc., the worshipper says, with his heart only—'Spirits august of our far-off ancestors, ye forefathers of the generations, and of our families and of our kindred, unto you, the founders of our homes, we this day utter the gladness of our thanks.'

 

   In the family cult of the Buddhists a distinction is made between the household Hotoke—the souls of those long dead—and the souls of those but recently deceased. These last are called Shin-botoke, 'new Buddhas,' or more strictly, 'the newly dead.' No direct request for any supernatural favour is made to a Shin-botoke; for, though respectfully called Hotoke, the freshly departed soul is not really deemed to have reached Buddhahood: it is only on the long road thither, and is in need itself, perhaps, of aid, rather than capable of giving aid. Indeed, among the deeply pious its condition is a matter of affectionate concern. And especially is this the case when a little child dies; for it is thought that the soul of an infant is feeble and exposed to many dangers. Wherefore a mother, speaking to the departed soul of her child, will advise it, admonish it, command it tenderly, as if addressing a living son or daughter. The ordinary words said in Izumo homes to any Shin-botoke take rather the form of adjuration or counsel than of prayer, such as these:—

   'Jōbutsu seyō,' or 'Jōbutsu shimasare.' [Do thou become a Buddha.]

   'Mayō na yo.' [Go not astray; or, Be never deluded.]

   'Miren-wo nokorazu.' [Suffer no regret (for this world) to linger with thee.]

   These prayers are never uttered aloud. Much more in accordance with the Occidental idea of prayer is the following, uttered by Shin-shu believers on behalf of a Shin-botoke:

   'O-mukai kudasare Amida-Sama.' [Vouchsafe, O Lord Amida, augustly to welcome (this soul).]

   Needless to say that ancestor-worship, although adopted in China and Japan into Buddhism, is not of Buddhist origin. Needless also to say that Buddhism discountenances suicide. Yet in Japan, anxiety about the condition of the soul of the departed often caused suicide—or at least justified it on the part of those who, though accepting Buddhist dogma, might adhere to primitive custom. Retainers killed themselves in the belief that by dying they might give to the soul of their lord or lady, counsel, aid, and service. Thus in the novel Hogen-nomono-gatari, a retainer is made to say after the death of his young master:—

   'Over the mountain of Shide, over the ghostly River of Sanzu, who will conduct him? If he be afraid, will he not call my name, as he was wont to do? Surely better that, by slaying myself, I go to serve him as of old, than to linger here, and mourn for him in vain.'

   In Buddhist household worship, the prayers addressed to the family Hotoke proper, the souls of those long dead, are very different from the addresses made to the Shin-botoke. The following are a few examples: they are always said under the breath:

   'Kanai anzen.' [(Vouchsafe) that our family may be preserved.]

   'Enmei sakusai.' [That we may enjoy long life without sorrow.]

   'Shōbai hanjo.' [That our business may prosper.] [Said only by merchants and tradesmen.]

   'Shison chōkin.' [That the perpetuity of our descent may be assured.]

   'Onteki taisan.' [That our enemies be scattered.]

   'Yakubyō shōmetsu.' [That pestilence may not come nigh us.]

   Some of the above are used also by Shintō worshippers. The old samurai still repeat the special prayers of their caste:—

   'Tenka taihei.' [That long peace may prevail throughout the world.]

   'Bu-un chōkyu.' [That we may have eternal good-fortune in war.]

   'Ka-ei-manzoku.' [That our house (family) may for ever remain fortunate.]

   But besides these silent formulae, any prayers prompted by the heart, whether of supplication or of gratitude, may, of course, be repeated. Such prayers are said, or rather thought, in the speech of daily life. The following little prayer uttered by an Izumo mother to the ancestral spirit, besought on behalf of a sick child, is an example:—

   'O-kage ni kodomo no byōki mo zenkwai itashimashite, arigatō-gozarimasŭ!' [By thine august influence the illness of my child has passed away;—I thank thee.]

   'O-kage ni' literally signifies 'in the august shadow of.' There is a ghostly beauty in the original phrase that neither a free nor yet a precise translation can preserve.

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