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2015/11/04

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)

       二

 

 佛教の國家關係を斷つて神道を鞏固ならしめやうとした明治時代の先見の明ある爲政者等は、自分等の國家政策と全然一致して居る、或る一信仰に新しい力を與へつつあるのみでは無い、同じくまた、藝術の力の如く全能なものであるのに、日本の知的士壤には決して深い根抵を得なかつた外來の信條よりも、遙かに深奥な生活力を具有して居る、或る一信仰に新しい力を與へつゝあるのである、といふことを疑も無く知つて居たのである。佛教は千三百年の古昔に、支那から移植されたのであつた、けれども、既に衰頽して居つた。然るに神道は、確にそれよりも數千年古いけれども、時代々々のあらゆる變化を通じて、力を失つたと云ふより、寧ろ力を得たやうに思はれる。神道は、この人種の精神同樣折衷的で、その物質的表明を助け、或はその倫理を強め得るあらゆる種類の外國思想を我が物にして同化したのであつた。佛教は、恰もそれが以前に婆羅門教の古昔の神々を吸收したやうに神道の神々を吸收しようと圖つたのであつた。が、神道は、降參するやうに見えて居て、實はその敵手からして力を藉りただけであつた。かくして神道のこの不思議な生活力は、記錄に上つて居ない濫觴よりして、それが發展し來つた長年月のうちに、極はめて古い時代に情(こゝろ)の宗教となつたもので、表面には見えぬが今なほ依然として情(こゝろ)が宗教であるといふ事實に基くのである。その儀式と傳統との起原は何んであらうと、その倫理的精神は、この人種のあらゆる最も深い、最も善い情緒と同じものとなつて居る。だからして、殊に出雲では、佛教的神道を創造しようといふ企は、ただ神道的佛教の形成に終つたのであつた。

 それから今日の神道の神祕な生活力――改宗させようとする宣教師の努力を斥けるあの力――は傳統、若しくは崇拜若しくは儀式よりも遙かに深い、或る物を意味して居るのである。神道は、眞の偉力は失はずに、傳統崇拜儀式總てが亡びても、矢張り生き殘るかも知れぬ。教育に因つての一般民心の展開と、近代科學の影響とは確に古代の神道思想の多くを變更し、或は放棄するを餘儀なくするには相違無い。が、神道の倫理は屹度永續することであらう。それは神道はより高尚な意義に於ての性格を――勇氣、禮儀、名譽心、それから特に忠義を――意味するからである。神道の精神は孝の精神であり、義務の嗜好であり、何が故にとは一考もせずして、或る主義への早速の生命投與である。それは兒童の柔順性であり、日本婦人の温和である。それはまた保守主義であり、外國の現在を餘りに多く同化しようといふ輕卒な熱誠のあまり、過去全部の價値を棄て去らうとする、國民的傾向への健全な制止である。それは宗教である――が然し、遺傳的道德的衝動に變形された宗教であり、――倫理的本能に變質された宗教である。それはこの人種の情緒生活全部であり――日本の魂である。

 子供は生れながらに神道である。家庭の教と學校の仕附はただ生得な物に表現を與へるに過ぎぬ。新しい種を植ゑるのでは無い。祖先傳來の一特性として傳へられた、倫理觀念をただ覺醒さすだけである。恰も日本の幼兒が西洋人の指では、決して習ひ得られないやうなあんな筆をもち扱ふ才能を繼承するが如くに、我々のとは全然異つた倫理的同感を繼承するのである。一と級の日本學生に――十四歳乃至十六歳の若い學生に――その最も大事とする願望を言うて見よと尋ねて見よ。その學生が若しその質問者に信賴心を有つて居るなら、恐らくその十の九は『天皇陛下の爲めに死ねること』と答へるであらう。そしてその願望は、これまで世に生れた殉教の如何(どん)な願望もがさうのやうに、純な情(こゝろ)から浮出るのである。この忠義の念が、新しい不可知論により又學生社會に於ける、他の十九世紀思想の迅速な發達に依つて、東京のやうな大中心地ではどの位弱められたか、或は弱められなかつたか、それは自分は知らぬ。が、田舍では兒童にとつて依然とし歡喜と同じく自然なものである。またそれは――より成熟した知識と固定した信念との結果たる、あの我我の忠義感念とは異つて――理由無し――である。日本の靑年は決して自己に何故にとは尋ねない。自己の犧牲の美はしさだけで、十分に滿足な動機である。そんな夢中な忠義心が、その國民生活の一部を成して居る。それは――その小さな共和國の爲めに死ぬる蟻の衝動の如く遺傳的に――その女王への蜂の忠義心の如く無意識に――その血液の中にあるのである。これが神道である。

 忠義の爲めに、長者の爲めに、自己の生命を捧げるあの迅速さは、これは近代に在つて、この人種を他の人種と區別する特性となつて居るのであるが、これはまたその人種が獨立して存在するに至つた、最初の時代からしての國民的特徴であつたやうに思はれるのである。封建制度確立の時代、即ち名譽の自殺が、啻に武士に取つて計りで無く、女子供に取つても、嚴乎たる一儀禮となつた時よりもずつと前に、君主の爲めに己が生命を棄てるといふことは、その犧牲が何の役に立たぬ時すら、神聖な義務と考へられて居たのである。種々な實例を古代の古事記から引用し得られるのであるが、そのうち次記の如きは中々感銘的なものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げである。]

 目弱王が、齡僅に七歳の時、その父を殺した者を殺して、都夫良大臣(つぶらおほみ)が家へ逃げ入り給うた。『その時大長谷王(おほはつせのみこ)軍(いくさ)を興してその家を圍みたまひき。射出る矢、葦の來り散るが如くなりき。是(ここ)に圓大臣(つぶらおほみ)、自ら參出で、佩ける兵(つはもの)を解きて、八度拜みて白(まを)しけるは、「先日(さき)に問賜へる女子(むすめ)、訶良比賣(からひめ)は侍(さも)らはむ。また五處の屯宅(みやけ)を副へて獻(たてまつ)らむ賤奴(やつこ)意富美(おほみ)は力を竭(つく)して戰ふとも、更にえ勝ちまつらじ。然れども、己を恃みて賤家(やつこにいへ)に入坐(いりま)せる王子(みこ)は、死ぬとも棄てまつらじ」此く白して、亦其の兵(つはもの)を取りて、還入りて戰ひき。爾(かれ)力窮(つ)き、矢も盡きぬれば、其の王子(みこ)に白しけらく、「僕(あ)は手悉(いたで)傷(お)ひぬ。矢も盡きぬ。今は得戰はじ。如何にせむ」と白しければ、其の王子(みこ)、「然らば更に爲むべなし。今は吾を殺(し)せよ」と答詔(のり)たまひき。故(かれ)刀(たち)以て其の王子を刺殺(さし)せまつりて、乃ち己が頸を切りて死(みう)せき』

 これと同樣に鞏固な例證を、より新しい日本歷史から、今現に生きて居る人の記憶のうちにすら起こつた幾多の例證も含めて、幾千と容易に引用が出來る。また死ぬるといふ事が神聖な義務となり得るのは、人の爲めばかりでは無かつた。或る不慮の場合に、全く個人的な信念の爲めに死ぬる事を、前者に殆んど劣らぬ義務と良心は思つた。だから自分でそれを無上に重要と信じて居る或る意見を抱いて居る者は、他の手段の無い折は、自己の信ずる所に注意を呼び、且つその信念の誠實なるを證明せんが爲めに、その意見を訣別の手紙に認めて、そして自ら己が生命を斷つを常とした。現にそんな實例がつい昨年東京で見られた【註】。國民兵の靑年中尉の大原武義(たけよし)といふが、北太平洋に於ける露西亞の力の増大が日本の獨立に及ぼす危險を一般に認知せしめでは措かぬ、その希望をその行爲の理由として書き記した手紙を殘して、西德寺の墓地でハラキリして自殺した。

    註。この文は千八百九十二年の始に書いたものである。

が、同年の五月にあつた、それよりも遙かに人の心を動かす犧牲は――最も純粹な最も潔白な忠君の念からの犧牲は――畠山勇子といふ年若い娘のそれであつた。露國皇太子を暗殺しようといふあの企のあつた後、東京から京都へ來て、日本に不面目を與へまた國民の父を――神聖なる天皇陛下を――悲しませ申した彼(か)の出來事に對して、代つて罪を贖はうといふだけのことで、京都府廰の門前で自殺したのである。

 

[やぶちゃん注:「鞏固」「きようこ(きょうこ)」。「強固」に同じい。強く固いさま、強堅の意であるが、主に物質的なものではなく精神的なものに就いての形容である。

「佛教は千三百年の古昔に、支那から移植されたのであつた」執筆時は珍しく本篇後半に明治二五(一八九二)年と記される。現在、本邦への仏教伝来は宣化天皇三年(五三八)年とされるから単純計算では千三百五十四年前、古くは「日本書紀」に載る、飛鳥時代の欽明天皇一三(五五二)年に百済の聖明王より釈迦仏の金銅像及び経論他が献上された時を仏教の伝来としたが、これだと千三百四十年前となる。

「神道は、確にそれよりも數千年古い」ここでハーンは神道の発生成立を仏教伝来の西暦五百年代「よりも數千年古い」と言っていることに着目したい。本章の「一」でハーンは「古事記」に示されたような整序された日本神話体系の成立と流布を古墳時代前期(三世紀中葉から七世紀末に比定)に措定していた。ところがここではハーンは日本神話自体の原形発生をずっと遡って比定しているということが判ってくる。通常、「數千年」は二、三千年年から六千年程度を指す。これは最低でも紀元前千五百年前から紀元前五千五百年まで軽く遡る神道のプロトタイプの誕生を考えていることになる。そうしてこれはまさしく本邦の縄文時代、今から凡そ約一万六千五百年前(紀元前百四十五世紀)から約三千年前(紀元前十世紀)の後記に比定出来る。永い気の遠くなるようなアニミズムの世界を経てきた縄文人の信仰が弥生人らとの交流によって、一つの形をとり始めたと考えるとすこぶる私にはしっくりとくるのである。

「婆羅門教」「ばらもんきよう(バラモンきょう)」は古代のヒンドゥー教と理解してよい。

「藉りた」「かりた」(借りた)。

「そんな夢中な忠義心が、その國民生活の一部を成して居る。それは――その小さな共和國の爲めに死ぬる蟻の衝動の如く遺傳的に――その女王への蜂の忠義心の如く無意識に――その血液の中にあるのである。」“Such ecstatic loyalty is a part of the national life; it is in the blood,―inherent as the impulse of the ant to perish for its little republic,―unconscious as the loyalty of bees to their queen.”。訳がちょっと逐語的で分かり難い。社会性昆虫による換喩であうがであるが、前者が「働き蟻」によるその固有な(inherent)アプリオリな性質の比喩で、そこで一度切れて、後者がアリと全く同様に「働き蜂」によるその無意識の(unconscious自己投企的行動の比喩となっているのである。平井呈一氏はここを『それは血液のなかにあるのだ。――ちょうど、アリの衝動が、遺伝的に自分たちの小さな王国のために死ぬことであり、ミツバチの忠誠が、意識せずして女王バチのために献身することであるのと同じようなものなのだ。』とすこぶる達意でしかも平易なる訳をされておられる。訳が逐語的で厳密な正確な訳であることは必ずしも良い訳とは言えぬというよい見本であると私は思う。

「嚴乎」「げんこ」。「儼乎」。儼(いかめ)しい様子。厳(おごそ)かなさま。

 

「目弱王が、齡僅に七歳の時、その父を殺した者を殺して、都夫良大臣(つぶらおほみ)が家へ逃げ入り給うた。……」以下、本文に出る「古事記」の記載部分は、平井呈一氏の訳注によれば、チェンバレンの「古事記」より引用したものである、とある。事件の動機や展開及び描かれる情景が元と比すと大幅に不足しているので、長くなるが以下に「古事記 下つ卷」の安康天皇の条の、目弱(めよわの)王の変の箇所の書き下し文を、残らず引くこととする。底本は今まで通り、昭和五六(一九八一)年刊角川文庫第六版武田祐吉校訂・中村啓信補訂「新訂 古事記」をもとにしつつも恣意的に漢字を正字化した。さらに今回は倉野憲司氏の校注になる一九六三年岩波文庫版を参考にして読みを大幅に増補しておいた。また私の判断で読み易くするためにさらに追加の句読点を打ち、直接話法部分を総て改行することで読み易くした。割注は〔 〕で示した。禁欲的(ハーンがここを示したのは、あくまで最後のパートで、都夫良意美(つぶらのおみ)が意気に感じて目弱(めよわ)の王(みこ)を匿ってさんざんに戦って自刃するところであり、その都夫良意美の意気にハーンが感じたから、であることをお忘れなく。実は安康も雄略も関係ないんである)に附した後注(「・」を頭に附して他の本文注と区別した)を附した。

   *

 御子(みこ)、穴穗(あなほ)の御子、石(いそ)の上(かみ)の穴穗の宮にましまして、天(あめ)の下、治(しろ)しめしき。

 天皇(すめらみこと)、伊呂弟(いろせ)大長谷(おほはつせ)の王子(みこ)のために、坂本(さかもと)の臣(おみ)等が祖(おや)、根(ね)の臣(おみ)を、大日下(おほくさか)の王の許に遣して、詔らしめたまひしくは、

「汝が命の妹(いも)若日下(わかくさか)の王を大長谷の王子に婚(あ)はせんとむとす。かれ、貢(たてまつ)るべし。」

とのりたまひき。ここに大日下の王、四たび拜(おろが)みて白(まを)さく、

「けだし、かかる大命(おおほみこと)有らむと疑(おそ)りて、かれ、外(と)にも出さずして置きつ。こは(かしこ)し。大命(たいめい)のまにまに奉進(たてまつ)らむ。」

とまをしたまひき。然れども言(こと)もちて白す事、其の禮(ゐや)なしと思ひて、すなはちその妹の禮物(ゐやしろ)として、押木(おしき)の玉縵(たまかづら)を持たしめて、貢獻(たてまつ)りき。根の臣、すなはち、その禮物(ゐやしろ)の玉縵(たまかづら)を盜み取りて、大日下の王を讒(よこ)しまつりして曰さく、

「大日下の王は勅命(おほみこと)を受けたまはずて、『おのが妹や、等(ひと)し族(うがら)の下席(したむしろ)とならむ』といひて、横刀(たち)の手上(たがみ)取(とりしば)りて、怒りましつ。」

とまをしき。かれ、天皇、いたく怨(うら)みまして、大日下の王を殺(し)して、その王の嫡妻(むかひめ)長田(ながた)の大郎女(おほいらつめ)を取り持ち來て、皇后(おほきさき)としたまひき。

 これより後に、天皇、神牀(かむよこ)に坐しまして、晝寢(ひるみね)したまひき。ここにその后に語らひて、

「汝(いまし)、思ほすことありや。」

とのりたまひければ、答へて曰さく、

「天皇(おほきみ)の敦(あつ)き澤(めぐみ)を被(こがふ)りて、何か思ふことあらむ。」

とまをしたまひき。ここにその大后の先(さき)の子、目弱(まよわ)の王、これ、年七歳(ななとせ)になりしが、この王、その時に當りてその殿(との)の下に遊べり。ここに、天皇、その少(わか)き王(みこ)の殿(との)の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、

「吾は恆(つね)に思ほすことあり。何(な)ぞといへば、汝(いまし)の子、目弱の王、人と成りたらむ時に、吾がその父王(ちちみこ)を殺(し)せしを知らば、還りて邪(きたな)き心あらむか。」

とのりたまひき。ここにその殿(との)の下に遊べる目弱の王、この言(みこと)を聞き取りて、すなはち竊(ひそか)に天皇の御寢(みね)ませるを伺い、其の傍(かたへ)なる大刀を取りて、その天皇の頸を打ち斬りまつりて、都夫良意富美(つぶらおほみ)が家に逃げ入りましき。天皇、御年、伍拾陸歳(いとそぢまりむつ)。御陵(みささぎ)は菅原(すがはら)の伏見(ふしみ)の岡(をか)にあり。

 ここに大長谷の王、當時(そのかみ)、童男(をぐな)なにましけるが、すなはち、この事を聞かして、慷愾(うれた)み忿怒(いか)りまして、その兄(いそせ)黑日子(くろひこ)の王の許に到りて、

「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ。」

とまをしたまひき。然れども其の黑日子の王、驚かずて、怠緩(おほろか)におもほせり。ここに大長谷の王、その兄を詈(の)りて、

「一つには天皇とまし、一つには兄弟(はらから)とますを、何ぞは恃(たの)もしき心もなく、其の兄を殺(と)りまつれるを聞きつつ、驚きもせずて、怠(おほろか)にませる。」

といひて、その衿(ころもくび)を握(と)りて控(ひ)き出でて、刀を拔きて打ち殺したまひき。また其の兄、白日子(しろひこ)の王に到りまして、狀(ありさま)を告げまをしたまひしに、前(さき)のごと、緩(おほろか)に思ほししかば、黑日子(くろひこ)の王のごと、すなはちその衿(ころもくび)を握(と)りて、引き率(ゐ)て、小治田(をはりだ)に到り來て、穴を堀りて、立ちながらに埋(うづ)みしかば、腰を埋む時に到りて、兩(ふた)つの目、走り拔けて死(う)せたまひにき。

 また軍(いくさ)を興して、都夫良意美(つぶらおみ)の家を圍(かく)みたまひき。ここに軍を興して待ち戰ひて、射(い)出づる矢、葦の如く來散(きたりち)りき。ここに大長谷の王、矛を以ちて杖として、その内を臨みて詔りたまはく、

「我が言(かた)らへる孃子(をとめ)は、若し此の家に有りや。」

とのりたまひき。ここに都夫良意美(つぶらおみ)、この詔命(おほみこと)を聞きて、みづからまゐ出(で)て、佩ける兵(つはもの)を解きて、八度(やたび)拜(をろが)みて、白しつらくは、

「先日(さき)に問ひ賜える女子(むすめ)訶良比賣(からひめ)は、侍(さもら)はむ。また、五(い)つ處(どころ)の屯倉(みやけ)を副へて獻(たてまつ)らむ〔いはゆる五村(いつむら)の屯宅(みやけ)は今の葛城(かづらき)の五村の苑人(そのひと)なり〕。然れども、その正身(ただみ)のまゐ向かざる所以(ゆゑ)は、往古(むかし)より今時(いま)に至るまで、臣(おみ)・連(むらじ)の、王(みこ)の宮に隱(こも)ることは聞けど、王子(みこ)の、臣(やつこ)の家に隱りませることは、いまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賤奴(やつこ)意富美(おほみ)は、力を竭(つく)して戰ふとも、更にえ勝つましじ。然れども、おのれを恃(たの)みて陋(いや)しき家に入りませる王子は、死ぬとも棄(う)てまつらじ。」

とかく白して、またその兵(つはもの)を取りて、還り入りて戰ひき。

 ここに力窮まり、矢盡きしかば、その王子に白さく、

「僕(あ)は手悉(いたで)傷(お)ひぬ。矢も盡きぬ。今はえ戰はじ。如何にせむ。」

とまをししかば、その王子、答へて詔りたまはく、

「然らば更にせむ術(すべ)なし。今は吾を殺(し)せよ。」

とのりたまひき。かれ、刀(たち)もちて、その王子を刺し殺(し)せまつりて、すなはち、己が頸を切りて死にき。

   *

・「穴穗の御子」第二十代安康天皇。第十九代允恭 (いんぎょう) 天皇の皇子。兄で皇太子であった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を退けて皇位に就いたが、ここに見るように、「根の臣」の讒言を信じ、「大日下の王」(大草香皇子。第十六代仁徳天皇の皇子)を誅殺、翌年、その妃中蒂姫(なかしのひめ 中磯皇女。第十七代履中(りちゅう)天皇皇女)を皇后に立てたが、その中蒂姫の連れ子であった「目弱の王」(眉輪王(まよわのみこ))によって暗殺された。天皇在位は三年余りであったことになる。

・「大長谷の王子」第十六代仁徳天皇の皇子で、後の次代第二十一代雄略天皇。

・「押木の玉縵」大きな木の蔓で玉を貫いて作った頭に載せる髪飾りである美しい玉蔓。

・「おのが妹や、等し族の下席とならむ」俺の可愛い妹を、どうして対等な同族なんぞの使い女(め)などにさせようか、いや、させぬ!

・「目弱の王」ここに記された通りの記載ではあるが仮定西暦も示されてあるので、ウィキの「眉輪王」より引いておく。眉輪王(まよわのおおきみ 允恭天皇三十九(四五〇)年~安康天皇三(四五六)年八月)は大草香皇子と中蒂姫の子。『記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた』。安康天皇三(四五六)年)八月、年幼くして(「古事記」はご覧の通り「七歳」とする)『楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子』(さかいのくろひこ 允恭天皇の皇子で安康天皇の兄であったが、これ以前に皇位継承を企む大長谷王子に殺されかかっていた)『と共に円大臣』(つぶらのおおきみ)『の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという』。

・「都夫良意富美」底本脚注には、『雄略記に葛城の円の大臣』とある。「意富美(おほみ)」は「大臣(おほみ)」と同じで大臣であると同時にその尊称でもある。後の「意美(おみ)」も同義。

・「小治田」奈良県高市郡明日香村豊浦や同村大字雷(いかづち)の雷丘(いかづちのおか)周辺か。飛鳥時代の推古朝及び奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿であったとされる小墾田宮(おはりだのみや 小治田宮)があったとされる場所である詳細はウィキの「小墾田宮」を参照されたい。

・「兩つの目、走り拔けて死せたまひにき」底本は『両眼が飛び出して死んでしまいました』と訳すが、これは眼玉が何かを視ることを忌んで、眼窩から走り逃げた、そして白日子(しろひこ)は結果、死んだ、と私には読める。無論、ここまでのこれらは総て、あらゆる皇位継承者を抹殺した雄略の血塗られた行為を正当化するための粉飾であろうが、そんなことより脱線乍ら、どうしても言わずにはおれぬのは……「目弱の王」という名……ここで「両の目が忌まわしいもの視ることを拒絶して逃げ去る」という雰囲気……安康天皇と彼が失脚させた兄皇太子軽皇子の孰れもが同母妹との(当時にあっても)インセスト・タブーであった近親相姦の疑いが濃厚であること……目弱の王の不吉な予言的述懐とそれが現実化して目弱の王「子」が義「父」安康を殺す「父殺し」のモチーフ……これ、どうも、ギリシャ神話のオィデイプス伝説を想起することを禁じ得ないことを告白しておく

・「我が言らへる孃子」底本注には、『ことばを交わしたヲトメ。都夫良意美の女訶良比売』(からひめ)とあるが、彼女は娘ではなく妹であるらしく、しかもこの訶良比売後に雄略天皇の后となりその間に生まれたのが第二十二代清寧天皇とされている。

・「苑人」想像であるが、領地であり穀倉である葛城の五つの村落の全農民の謂いか。

・「正身」私自身。
 
 

「現にそんな實例がつい昨年東京で見られた。國民兵の靑年中尉の大原武義(たけよし)といふが、北太平洋に於ける露西亞の力の増大が日本の獨立に及ぼす危險を一般に認知せしめでは措かぬ、その希望をその行爲の理由として書き記した手紙を殘して、西德寺の墓地でハラキリして自殺した」平井呈一氏も『大原武義』とするが不詳。しかし、「自殺データベース(2)明治時代の自殺 (1868-1912) に明治二四(一八九一)年四月三日に『陸軍屯田兵中尉、大原武慶が東京府下谷区龍泉町西徳寺の父の墓前にて切腹』とある人物であると思われ、「武慶」の誤りか。

「この文は千八百九十二年の始に書いたものである」明治二五(一八九二)年年初の謂いか。ハーンの誕生日は一八五〇年(本邦は嘉永三年)六月二十七日であるから未だ満四十一歳、来日は明治二三(一八九〇)年四月四日であるから、二年弱である。既に、前年の十一月に妻セツとともに松江に別れを告げて熊本五高に転任、現在の熊本市中央区手取本町(てとりひんまち)にあった静かな士族屋敷に住まっていた。

「同年の五月にあつた、それよりも遙かに人の心を動かす犧牲は――最も純粹な最も潔白な忠君の念からの犧牲は――畠山勇子といふ年若い娘のそれであつた。露國皇太子を暗殺しようといふあの企のあつた後、東京から京都へ來て、日本に不面目を與へまた國民の父を――神聖なる天王陛下を――悲しませ申した彼の出來事に對して、代つて罪を贖はうといふだけのことで、京都府廰の門前で自殺したのである」まず、「露國皇太子を暗殺しようといふあの企」はやはり本篇執筆の前年である明治二四(一八九一)年五月十一日に発生した大津事件を指す。

 これは当時日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ二世)が滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)で警備に当たっていた警察官津田三蔵に突然斬りつけられて負傷した暗殺未遂事件である(但し、コライは右側頭部に九センチメートル近くの傷を負っただけで命に別状はなかった)。参照したウィキの「大津事件」によれば、当時の列強の一つである『ロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職』、六月には『司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任し』ているとし、犯人『津田が斬り付けた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争で戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るというデマがささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、もし西郷が帰還すれば自分の勲章も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたという記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである』とある。事件翌日の五月十二日夜には早朝に東京を発った明治天皇はニコライの入院している京都に到着、その足で『見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され』、翌日、『天皇はニコライの宿舎である常盤ホテル』『に自ら赴いてニコライを見舞い、さらには』『三人の親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った』。同月十九日に『明治天皇自らが神戸港』『のロシア軍艦を訪問する際には、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞っ』ている。『天皇が謝罪したものの、ロシア本国からの指示もあってニコライは東京訪問を中止し、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰還の途についた』。『ロシアのシェービッチ公使は以前から日本に対して恫喝的な態度をたびたび取っており、この事件に関しても事件の対処にあたった青木周蔵、西郷従道内相らに死刑を強硬に要求し』、アレクサンドル三世『も暗に死刑を求めていた』という。『そこで日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し』、旧刑法百十六条に『規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。また松方正義首相、西郷従道内相、山田顕義法相らが死刑適用に奔走した』が、旧刑法の同『条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は民間人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上不可能であった。ただし裁判官の中でも死刑にすべきという意見は少なくなかった』。『時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙』(これかた)『は「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発した。要するに「国家か法か」という回答困難な問題が発生したのであ』ったが、事件から十六日後の五月二十七日、『一般人に対する謀殺未遂罪』旧刑法二百九十二条が適用され、津田には『無期徒刑(無期懲役)の判決が下された』。『シェービッチ公使は、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をし』たが、『結果的には賠償要求も武力報復も行われなかった』。また、『皇太子の負傷に関しては、皇帝も皇太子も日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しており、日本がこの問題を無事解決できた理由の一つにロシアの友好的な姿勢があることは疑いな』く、日記の文面からも後に皇帝となったニコライ二世本人も『この事件で日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと言うことが窺える』とある。また、ウィキの「津田三蔵」によれば『津田には精神病歴があった』とし、犯行動機の一説として、『傷害事件の現場は、大津市で琵琶湖が見下ろせるところにあり、かつて明治天皇が軍の演習で腰を下ろしたところでもあった。 その腰を下ろした石の上へは、土足で上がることなど出来なかった時代の出来事で、ロシア皇太子が土足で上がれば、巡査としてただ見過ごすことが出来なかったためだ』ったとも挙げ、『無期徒刑の判決を受け』後は、『北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されたが』、犯行後の約四ヶ月後の同年九月二十九日に急性肺炎のため満三十五歳で獄死している。なおまた、ウィキの「大津事件」には、事件直後、『小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は』一万通を『超え、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した』。五月二十日には、『天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去ったことを知り、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した』と、ハーンが語る以下に注する畠山勇子のことも出ている。

 「畠山勇子」(慶応元(一八六五)年~明治二四(一八九一)年)については私は全く知らなかったので、ウィキの「畠山勇子」からほぼ全文を引かさせて頂く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。安房国長狭郡鴨川町(かもがわまち)横渚(よこすか)(現在の千葉県鴨川市横渚)に『畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚。東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという』。『そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った』。『勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ出血多量で絶命した。享年二十七。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた』。『その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた。 墓は末慶寺(京都市下京区万寿寺櫛筍上ル)にある。彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やポルトガル領事・モラエスも訪れている。モラエスはまた、リスボンの雑誌『セロエーズ』 Serões に彼女を紹介している』。『彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書やセンセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともになし)につながったとの評価もある』。

 さても……馬鹿の一つ覚えのウィキペディア引用でまた終りか、なんどとと思うなよ、凡百のアカデミスト諸君!……

……さても、だ……私の畏友井上英作氏は――二〇〇七年二月六日(リンク先は当日の私のブログ記事)、

   *

やぶさん、ありがとうございました。

男の友情、かくあるべし、そんな付き合いのできる人と出会えて、幸運でした。

私は弱い人間です。小さな人間です。でも強く大きくなることも出来るのです。

それを本当に願いさえすればいいのです。

 

男が男であるためには、一つのボーダーを越えねばなりません。

こういった考え方自体、否定されつつある現代ですが、

今はまだ、そんな恵まれた時代ではありません。

 

やらねばならない事を、やるしかないのです。

私はその選択をしました。

 

本当に、ありがとうございました。

   *

というメールを最後に、静岡空港建設反対の抗議のため、午前三時五十分頃、ガソリンをかぶって静岡県庁前で焼身自殺した。

 彼が示した檄文を以ってこの注を終わる。英作兄のために――

   *

抗議文

 

静岡市長、小嶋善吉へ、

私は静岡市民として、吉津地区に野積みし放置してある産業廃棄物や、その焼却灰が何ひとつ撤去される事無く、静岡市民が汚染された水道水を飲む危険性にさらされている事、飛散し直接吸い込む危険さえあるこれらの焼却灰を、住民の長年にわたり、たび重なる撤去要請にも関わらず、放置し、3箇所のうち一つは小学校のすぐそばという非常識であり、あきれ返った住民が、静岡県公害審査会に訴えた事に対しても、審査の事実を公表してはならないと、圧力をかけてきたり、 野積みされ、放置されている焼却灰を、保管しているなどと言い換えるに至っては、頭がおかしいとしか言いようが無く、産廃ヤクザとの繋がりさえ見えてきた市長に対して、我が命をもって抗議する。

 

石川嘉延に物申

貴様は、静岡県民の意思に反して静岡空港建設を推し進め、 今は、農民から無理やり、権力を使って土地を取り上げ、 又、反対する多くの支援者をも無視して、力ずくで排除し、 何の必要も無い、永久に税金を無駄遣いする空港を、 嘘八百を並べ立てて、さも役に立つ空港であるかのように偽装し、県民を騙し、 犯罪者となんら変わらないゼネコンを使い、癒着し、県民に百年の禍根を残すその所業は赦しがたい。 よって、我が命を捨ててその悪行を糾弾する。

今、地球は危機的な状況にあり、このような環境破壊に金を使うべきではなく、 間近に迫っている温暖化への対策に金を使うべきなのだ。

 

                   地球市民 井上英作

   *

 

   井上英作に――靜岡空港建設反對を訴へ

   二月六日未明靜岡縣廰前に燒身自決せる

   畏兄の葬儀の日金時山山巓にて(三句)

 

 捨身(しやしん)して濁世を怒る業火かな

 

 火我捨身(ひがしやしん)靜岡空港(エア・ターミナル)呪詛永し

 

 春の山君を二度燒く火を送る   唯至]

 

 

 Those far-seeing rulers of the Meiji era, who disestablished Buddhism to strengthen Shintō, doubtless knew they were giving new force not only to a faith in perfect harmony with their own state policy, but likewise to one possessing in itself a far more profound vitality than the alien creed, which although omnipotent as an art-influence, had never found deep root in the intellectual soil of Japan. Buddhism was already in decrepitude, though transplanted from China scarcely more than thirteen centuries before; while Shintō, though doubtless older by many a thousand years, seems rather to have gained than to have lost force through all the periods of change. Eclectic like the genius of the race, it had appropriated and assimilated all forms of foreign thought which could aid its material manifestation or fortify its ethics. Buddhism had attempted to absorb its gods, even as it had adopted previously the ancient deities of Brahmanism; but Shintō, while seeming to yield, was really only borrowing strength from its rival. And this marvellous vitality of Shintō is due to the fact that in the course of its long development out of unrecorded beginnings, it became at a very ancient epoch, and below the surface still remains, a religion of the heart. Whatever be the origin of its rites and traditions, its ethical spirit has become identified with all the deepest and best emotions of the race. Hence, in Izumo especially, the attempt to create a Buddhist Shintōism resulted only in the formation of a Shintō-Buddhism.

 

   And the secret living force of Shintō to-daythat force which repels missionary efforts at proselytisingmeans something much more profound than tradition or worship or ceremonialism. Shintō may yet, without loss of real power, survive all these. Certainly the expansion of the popular mind through education, the influences of modern science, must compel modification or abandonment of many ancient Shintō conceptions; but the ethics of Shintō will surely endure. For Shintō signifies character in the higher sense,courage, courtesy, honour, and above all things, loyalty. The spirit of Shintō is the spirit of filial piety, the zest of duty, the readiness to surrender life for a principle without a thought of wherefore. It is the docility of the child; it is the sweetness of the Japanese woman. It is conservatism likewise; the wholesome check upon the national tendency to cast away the worth of the entire past in rash eagerness to assimilate too much of the foreign present. It is religionbut religion transformed into hereditary moral impulse,religion transmuted into ethical instinct. It is the whole emotional life of the race,the Soul of Japan.

   The child is born Shintō. Home teaching and school training only give expression to what is innate: they do not plant new seed; they do but quicken the ethical sense transmitted as a trait ancestral. Even as a Japanese infant inherits such ability to handle a writing-brush as never can be acquired by Western fingers, so does it inherit ethical sympathies totally different from our own. Ask a class of Japanese studentsyoung students of fourteen to sixteen――to tell their dearest wishes; and if they have confidence in the questioner, perhaps nine out of ten will answer: 'To die for His Majesty Our Emperor.' And the wish soars from the heart pure as any wish for martyrdom ever born. How much this sense of loyalty may or may not have been weakened in such great centres as Tōkyō by the new agnosticism and by the rapid growth of other nineteenth-century ideas among the student class, I do not know; but in the country it remains as natural to boyhood as joy. Unreasoning it also is,unlike those loyal sentiments with us, the results of maturer knowledge and settled conviction. Never does the Japanese youth ask himself why; the beauty of self-sacrifice alone is the all-sufficing motive. Such ecstatic loyalty is a part of the national life; it is in the blood,inherent as the impulse of the ant to perish for its little republic,unconscious as the loyalty of bees to their queen. It is Shintō.

   That readiness to sacrifice one's own life for loyalty's sake, for the sake of a superior, for the sake of honour, which has distinguished the race in modern times, would seem also to have been a national characteristic from the earliest period of its independent existence. Long before the epoch of established feudalism, when honourable suicide became a matter of rigid etiquette, not for warriors only, but even for women and little children, the giving one's life for one's prince, even when the sacrifice could avail nothing, was held a sacred duty. Among various instances which might be cited from the ancient Kojiki, the following is not the least impressive:

 

   Prince Mayowa, at the age of only seven years, having killed his father's slayer, fled into the house of the Grandee (Omi) Tsubura. 'Then Prince Oho-hatsuse raised an army, and besieged that house. And the arrows that were shot were for multitude like the ears of the reeds. And the Grandee Tsubura came forth himself, and having taken off the weapons with which he was girded, did obeisance eight times, and said: "The maiden-princess Kara, my daughter whom thou deignedst anon to woo, is at thy service. Again I will present to thee five granaries. Though a vile slave of a Grandee exerting his utmost strength in the fight can scarcely hope to conquer, yet must he die rather than desert a prince who, trusting in him, has entered into his house." Having thus spoken, he again took his weapons, and went in once more to fight. Then, their strength being exhausted, and their arrows finished, he said to the Prince: "My hands are wounded, and our arrows are finished. We cannot now fight: what shall be done?" The Prince replied, saying: "There is nothing more to do. Do thou now slay me." So the Grandee Tsubura thrust the Prince to death with his sword, and forthwith killed himself by cutting off his own head.'

   Thousands of equally strong examples could easily be quoted from later Japanese history, including many which occurred even within the memory of the living. Nor was it for persons alone that to die might become a sacred duty: in certain contingencies conscience held it scarcely less a duty to die for a purely personal conviction; and he who held any opinion which he believed of paramount importance would, when other means failed, write his views in a letter of farewell, and then take his own life, in order to call attention to his beliefs and to prove their sincerity. Such an instance occurred only last year in Tōkyō, [1] when the young lieutenant of militia, Ōhara Takeyoshi, killed himself by harakiri in the cemetery of Saitokuji, leaving a letter stating as the reason for his act, his hope to force public recognition of the danger to Japanese independence from the growth of Russian power in the North Pacific. But a much more touching sacrifice in May of the same year,a sacrifice conceived in the purest and most innocent spirit of loyalty,was that of the young girl Yoko Hatakeyama, who, after the attempt to assassinate the Czarevitch, travelled from Tōkyō to Kyōto and there killed herself before the gate of the Kencho, merely as a vicarious atonement for the incident which had caused shame to Japan and grief to the Father of the people,His Sacred Majesty the Emperor.

 

1 This was written early in 1892

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