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2015/11/19

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十章 二つの珍しい祭日 (一)

   第二十章 二つの珍しい祭日

 

 

       一

 

 日本のお祭の外觀的象徴は、始めてそれを見る外人に取つては、最も不可解の謎である。それは數も多く、種類もまた多い。西洋に於ける祝祭休日の裝飾に關するいかなる物とも全然異つてゐる。それは一つ一つ或る信仰、または或る傳説に基いた意義を有する――その意義は日本のどんな子供にも知られてゐるが、外人に取つては臆測を加へることさへも不可能だ。しかし苟も日本の民衆の生活と感情について幾らか知らうと欲する者は、少くとも祭禮の象徴の中に就いて、最も普通なものの意味を學ばねばならない。特にかゝる知識は日本美術の研究者に取つて必要である。その知識がなくては、只單に無數の意匠の陰微纎細なる氣分と妙味に氣が付かないばかりでなく、また多くの場合に於て、意匠そのものが不可解で了はるに相違ない。數百年間、祭禮の象徴は日本人によつて、さまざまの優美なる裝飾手段に利用されて、金屬細工に、陶器に、朱塗りや墨塗りの漆器などの、最も卑近なる家具に、小さな眞鍮の煙管に、煙草入れ袋の止(と)め金(がね)など、種々の物の上に現はれてゐる。普通の裝飾的意匠の多數は、象徴的だといふことさへも出來るだらう。意味が最も明白と思はれる形象――西洋の骨董購求者が最もよく知つてゐる、かの動植物の匹儔なき習作――さへ、或る倫理的意義を有すのが常であるが、それは少しも認められてゐない。または下等な宿屋の紙障の上に、一氣呵成で揮毫された極めて普通の意匠――一匹の海老――松の枝――水の渦卷いた中を、よたよた歩いてゐる龜――二對の鶴――竹の細枝を――取つて見るがよい。漫遊の外人は、何故にかやうな意匠が用ひられて、他の意匠を用ひてないかを質問しようと考へることも稀れだ――假令彼の旅行中に於て、それらの意匠が左ほど變更も加へないで、二十個所までも繰返されてあるのを見た場合にも、怪まない。それらの意匠が因襲的となつたのは、全く或る意義の象徴だからである。幾ら無學の日本人でも、その意義を知つてゐるが、外人は毫もそれに氣が付かない。

 

    註。西洋のある一派の俗物や、自分

    免許の藝術批評家の間では、日本美

    術が『眞に逼つてゐる』といふこと

    に關して熱心に唱道すると、その文

    士を冷笑する風になつてゐるから、

    私はこゝに、この動植物の形の作品

    について、英國の最も有名な、現存

    せる博物學者の言葉を引用してもよ

    からう。ウオラス氏の權威は、こゝ

    に指せる俗物連中によつてさへも

    鼎の輕重を問はれることはあるま

    い――

    『モーナイク博士は或る日本人に

    よつて描れた、日本の植物の彩色

    畫を、澤山蒐集して持つてゐる。

    それは私の從來見た中では最も卓

    越せるものである。一莖、一枝、

    一葉、悉く一と筆で成つて、頗る

    複雜せる植物の特徴及び配景は天

    晴れよく現はされ、また莖及び葉

    の關節は極めて科學的樣式に示さ

    れてゐる』(ウオラス氏著、『馬來

    群島』第二十章)

    これは一八五七年に書かれたので、

    日本へまだ西洋畫の輸入されない

    頃だ。この一と筆で葉などを描く

    といふ技巧に依然として日本では

    普通である――最も平凡な裝飾師

    の間に於てさへ。

 

 この問題については、一個の百科全書が書けるほどであるが、私の知る處は甚だ僅かで、待別な一論文にも足りない。しかし説明のために、私は敢て今猶ほ日本のすべての地方で守られる、二つの古い祝日に、陳列される珍しい品々について語らう。

 

[やぶちゃん注:「二つの珍しい祭日」「今猶ほ日本のすべての地方で守られる、二つの古い祝日」以下、本章で語られるのは新年と節分の祝いである。

「朱塗りや墨塗りの漆器」ウィキの「漆」には、『塗料としての漆の伝統的な色は黒と朱であり、黒は酸化鉄粉や煤、朱漆には弁柄や辰砂などが顔料として用いられる。黒漆と朱漆を用いて塗り分けることも行われる。昭和以後は酸化チタン系顔料(レーキ顔料)』(水溶性を有する有色物質を電離させて担体としての金属イオンと電気的に結合させた人工顔料)『の登場により、赤と黒以外の色もかなり自由に出せるようになった』とある。

「匹儔」「ひつちう(ひっちゅう)」と読む。「匹敵」に同じい。「儔」は訓「とも」「ともがら」で輩・仲間・同類の意である。

「ウオラス氏」イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」より引く。『アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のために』、重要な貢献をした十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともな』り、また、『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』として出版され』、これは十九世紀の科学探検書としては、最も『影響力と人気がある一冊』であった、とある。ダーウィンの蔭に隠れて正当な評価が未だになされていない非常に優れた博物学者である。

「鼎の輕重を問はれる」「かなへ(かなえ)のけいちやう(けいちょう)をとはれる」と読む。主導者・統治者を軽んじてこれを滅ぼし、天下を取ろうとする。権威ある人の能力や力量を疑ってその地位から落とそうとする、ことを指す。楚の荘王が周を軽んじて周室に伝わる宝器である九鼎(きゅうてい)の大小軽重を無礼にも問うたという「春秋左氏伝」「宣公三年」の記事による故事成句。

「モーナイク博士」日本に牛痘苗を齎して日本の天然痘の予防に貢献したドイツ人医師オットー・ゴットリープ・モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike 一八一四年~一八八七年)であろう。以下、ウィキの「オットー・ゴットリープ・モーニッケより引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『シュトラールズントに生まれた。文献学を学んだが、父の友人エルンスト・モーリッツの影響で医学に転じた。各地の大学で医学を学び、シュトラールズントの父の屋敷で医者を開業した。一八四四年にオランダ領東インドのジャワに派遣され、一八四八年から一八五一年』(弘化五・嘉永元年から嘉永四年)『まで長崎の出島で働いた。佐賀藩主鍋島閑叟がオランダ商館長に牛痘苗のとりよせを求めたので、来朝時に痘苗を持参したが、接種しても感染せず、再度バタヴィアから痘痂を取り寄せ、一八四八年七月に鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種、善感し、この痘苗は日本の各地へ受け継がれていくこととなった。閑叟の息子の淳一郎(後の藩主直大)も接種をうけた。それまで日本への牛痘苗の輸送は、航海中に効力が失われ失敗していたが、この成功によって牛痘法は日本に広まっていった。モーニッケは日本に初めて聴診器を持ってきたことでも知られる』。一八六九年に『退職し、家族とともにボンに住んだ。ジャワ、スマトラ、セレベス島、モルッカ諸島の博物学の著書もある。モーニッケの墓は日本の医学史学会の協力で復元された』とある。但し、ジェンナーの牛痘法よりも六年も早く、福岡藩の支藩秋月藩の藩医緒方春朔(おがたしゅんさく 寛延元(一七四八)年~文化七(一八一〇)年)が寛政二(一七九〇)年に独自の種痘を行っていることはあまり知られていないので特に附記しておく(但し、これは天然痘患者の瘡蓋の粉末を接種する方法であった)。

「ウオラス氏著、『馬來群島』第二十章」「これは一八五七年に書かれた」The Malay Archipelago(マレー諸島)であるが、これは一八六九(明治二年相当)年の刊行で、ハーンの言う「一八五七年(安政四年相当)に書かれた」となると、On the Natural History of the Aru Islands(アルー諸島の自然史について)という論文である。アルー諸島は現在のインドネシア東部マルク州にある九十五の島々からなる島嶼群である。疑問として挙げておく。

「日本へまだ西洋畫の輸入されない頃だ」安政四年(前注参照)としても、本格的広範には、ということである。蘭学を中心に洋書の輸入が解禁される十八世紀後半以降にはその技法自体は知られており、その影響を受けた画人が日本にはかなり多くいたことは言うまでもない。例えば、久保田藩(秋田藩)主や藩士を担い手とした秋田蘭画(あきたらんが)、秋田派は西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画を既に安永年間(一七七二年~一七八一年)に成立させており、かの平賀源内(享保一三(一七二八年~安永八(一七八〇)年)の「西洋婦人図」などもあるが、彼等を「洋画家」とは呼ばないし、言わずもがな、日本洋画の成立は明治以降であるから、ハーンの謂いは必ずしも誤りとは言えまい。また、本邦の博物画は西洋のそれらとは全く異なった、想像を絶する巧緻さと美しさを持つことも言うまでもない。]

 

ⅩⅩ

TWO STRANGE FESTIVALS.

 

.

 THE outward signs of any Japanese matsuri are the most puzzling of enigmas to the stranger who sees them for the first time. They are many and varied; they are quite unlike anything in the way of holiday decoration ever seen in the Occident; they have each a meaning founded upon some belief or some tradition ― a meaning known to every Japanese child; but that meaning is utterly impossible for any foreigner to guess. Yet whoever wishes to know something of Japanese popular life and feeling must learn the signification of at least the most common among festival symbols and tokens. Especially is such knowledge necessary to the student of Japanese art: without it, not only the delicate humour and charm of countless designs must escape him, but in many instances the designs themselves must remain incomprehensible to him. For hundreds of years the emblems of festivity have been utilised by the Japanese in graceful decorative ways: they figure in metalwork, on porcelain, on the red or black lacquer of the humblest household utensils, on little brass pipes, on the clasps of tobacco-pouches. It may even be said that the majority of common decorative design is emblematical. The very figures of which the meaning seems most obvious,― those matchless studies [1] of animal or vegetable life with which the Western curio-buyer is most familiar,― have usually some ethical signification which is not perceived at all. Or take the commonest design dashed with a brush upon the fusuma of a cheap hotel,― a lobster,― sprigs of pine,― tortoises waddling in a curl of water,― a pair of storks,― a spray of bamboo. It is rarely that a foreign tourist thinks of asking why such designs are used instead of others,― even when he has seen them repeated, with slight variation, at twenty different places along his route. They have become conventional simply because they are emblems of which the sense is known to all Japanese, however ignorant, but is never even remotely suspected by the stranger.

   The subject is one about which a whole encyclopaedia might be written, but about which I know very little,― much too little for a special essay. But I may venture, by way of illustration, to speak of the curious objects exhibited during two antique festivals still observed in all parts of Japan.

 

1 As it has become, among a certain sect of Western Philistines and self-constituted art critics, the fashion to sneer at any writer who becomes enthusiastic about the truth to nature of Japanese art, I may cite here the words of England's most celebrated living naturalist on this very subject. Mr. Wallace's authority will scarcely, I presume, be questioned, even by the Philistines referred to: 

   'Dr. Mohnike possesses a large collection of coloured sketches of the plants of Japan made by a Japanese lady, which are the most masterly things I have ever seen. Every stem, twig, and leaf is produced by single touches of the brush, the character and perspective of very complicated plants being admirably given, and the articulations of stem and leaves shown in a most scientific manner.' (Malay Archipelago, chap. xx.)

   Now this was written in 1857, before European methods of drawing had been introduced. The same art of painting leaves, etc., with single strokes of the brush is still common in Japan,— even among the poorest class of decorators.

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