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2015/11/30

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (七)

       七

 

 船を取卷いて居る光り輝いた空漠は、一時間足らずの間、引續き何の汚點も無かつた。すると自分等の船がそれへ向けて走つて居る地平線からして、灰色の小さなぼんやりしたものが出來て來た。ずんずん長くなつて、雲のやうに思はれた。實際雲だつたのである。が、徐々と、その下に薄皮のやうな靑い色をしたものが、その白雲を背(せ)に貌(かたち)を成して、やがて明確に一つながりの山になつた。段々高くなり靑くなり、小さな鋸の齒のやうになり、その眞ん中に他の山の三倍の高さに聳えて、雲に括られた、色の淡い山が見えた。それは西の島にある、隱岐の聖山燒火山(たくひざん)であつた。

 燒火山には傳説がある。自分はそれを友から聽いた。その頂上には權現樣の古い社殿がある。十二月の三十一日の夜、靈火が三つ海から現はれ出て、社殿の處へ罫昇り、社殿の前の石燈籠の中へはいり、燈のやうに燃えて居る、といふことである。その光りは一度に海から現はれるのでは無く別々に現はれて、一つ一つ峰の頂へ上つて行くのである。みんなその光が水から昇るのを見に小舟に乘つて出る。が、心の淸淨な者にだけ見えて、よこしまな考や願を有つて居る者はその靈火を見ようと待つて居ても駄目である。

 船が進み行くうち、眼前に、海の表面が、前には眼に見えなかつた妙な舟で――美くしい黄色な素敵に大さな四角な帆を掛けた長い輕い漁船で――突然點々を打つたやうな觀を呈した。あの帆は何んて美しいだらうと友に言はずには居れなかつた。友は笑つて、あれは古疊【註】で出來て居ると言つた。自分は望遠鏡で眺めて見て、如何にも友の言つた通り、古疊の藁編の上掛であることを知つた。にも拘らず、靑い和らかな水の上に隱岐帆船のこの初めての淡黃の點在は面白い眺であつた。

 

    註。日本の住宅の床には、その種々な

    部屋と一致して居る區劃に分けられて

    居る非常に大きな然し頗る淺い木盆に

    譬へることが出來よう。その分界は、

    水平よりも幾寸か高くなつて居て、部

    屋と部屋とを分つフスマ即ち横辷りす

    る目隱しの便の爲め造つてある、溝の

    ある磨きのかかつた木造物が爲して居

    る。この區劃區劃は、タタミ即ち輕い

    藁布團(マトレス)ほどの厚みで、上

    を美しく織つた稻藁で蔽つた莚(マツ

    ト)をきつちりと其中へ入れて、仕切

    りと水面にならせてある。その莚(マ

    ツト)の四角な端はきちんと合ふ。そ

    してその莚(マツト)はその家の爲め

    に造るのでは無くて、その家を莚(マ

    ツト)の爲めに造るのだから、どのタ

    タミも全く同じ大きさである。だから

    部屋部屋の充分に出來上つて居る床は、

    大きな軟かいベツトのやうなものであ

    る。固よりのこと日本の家では一切靴

    を穿くことは出來ぬ。その莚(マツト)

    は少しでも汚れると、直ぐと新らしい

    のと取換へる。

 

 その帆船は黄色な蝶が通つて行くやうに疾走し去つて、海はまたも空(くう)になつた。稍々左舷に當つて、次第に近づく靑い絶壁の線のうちの一點が次第々々に形(かたち)が出來て來て色を變ヘた。上の方は冴えない綠で、下の方は赤味を帶びた灰色である。それが分明になつて表面に黑い場處のある大きな岩と判つて來たが、陸の他の部分はまだ靑の儘で居た。その黑い場處は近づくに從つて黑さを増して來た、――それは陰影に充ちた大きな山峽であつたのである。するとその先(さき)の靑い絶壁も亦綠になつて、その裾の處は赤味を有つた鼠色になつた。船はその大きな岩の右手へと進んで行つた。見るとその岩は、他と離れて居る、人の住まつて居ない、波嘉島(はかしま)といふ小島であつた。と思ふ次の瞬間に船は早や高い知夫里島と中島との間を、隱岐群島の中へと航進しつゝあるのであつた。

 

[やぶちゃん注:「地平線」訳者田部氏は確信犯で「水平線」の意味で「地平線」と使っていることが判る。

「燒火山(たくひざん)」「たくひやま」とも。島根県隠岐郡西ノ島町にある標高四百五十一・七メートルの西ノ島の最高峰。山頂に焼火(たくひ/たくび)神社が建つ。以下、ウィキの「焼火神社」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)。『焼火山の八合目辺りに鎮座する旧県社。航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。本殿・通殿・拝殿からなる社殿は国の重要文化財に指定。重要有形民俗文化財の和船トモドも所有する』。『明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた』。『大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である』。『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄十六年(一七〇三年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様三座を同殿に祀ると説くようにもなり、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった』。『「焼火山縁起」によれば、一条天皇の時代(十、十一世紀の交)、海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また、承久年中(一二一九~二二年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽上皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという』。『上述したように、元来焼火山は北麓に鎮座する大山神社の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(十一~十二世紀頃)には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ、その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前三島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったためにこれを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導も船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという。 また、『栄花物語』では永承六年(一〇五一年)五月五日の殿上の歌合において、源経俊が「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり(巻第三十六「根あはせ」)、谷川士清はこれを当神社のことと解しているが(『和訓栞』)、それが正しければ既に中央においても著名な神社であったことになる』。『後世修験者によって修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺(真言宗であるが本山を持たない独立の寺院であった)が創建され、宗教活動が本格化していく。その時期は南北朝時代と推測され、本来の祭祀の主体であった大山神社が、周辺一帯に設定されていた美多庄の荘園支配に組み込まれた結果、独自の宗教活動が制限されるようになったためであろうとされる。以後明治に至るまで、雲上寺として地蔵菩薩を祀る一方、「焼火山大権現」を社号とする宮寺一体の形態(神社と寺院が一体の形態)で活動することになり、日本海水運の飛躍的な発展とともに広く信仰を集めることとなる。その画期となったのは天文九年(一五四〇年)の僧良源による造営のための勧進活動であると推測され、現地では永禄六年(一五六三年)九月に隠岐幸清』(おきゆききよ 生没年不詳)天文十三(一五四四)年九月、隠岐氏当主豊清(生没年未詳)が父宗清(むねきよ ?~天文一三(一五四四)年)の遺志によって松江の清安寺に六町六反余を寄進したが、当主の判物とは別に隠岐氏家臣十三名連署の副状が発給されており、幸清はその日下(日付の真下)に署名をしていることから、隠岐氏一門と考えられる。隠岐氏は隠岐守護代京極秀重を始祖とし、宗清は隠岐を治めた三代目領主で、尼子氏の援軍を得て天文十年に隠岐の諸豪族の反乱を鎮圧し滅ぼし、隠岐統一を完成したとされる人物である。ここは蔵屑斎氏のサイト内の『「無名武将列伝」番外編』「隠岐に生きた人びと―隠岐氏―」に拠った)『から田地二反が寄進されたのを始め、各所から田畠が寄進されており(社蔵文書)、近世に入ると社領十石を有していたことが確認できる。また注目されるのは西廻り航路の活況とそこに就航する北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより遠く三陸海岸は牡鹿半島まで神徳が喧伝されたことで、歌川広重(初代・二代)や葛飾北斎により日本各地の名所を描く際の画題ともされており(初代広重『六十余州名所図会』、北斎『北斎漫画』第七編(「諸国名所絵」)など)、こうした信仰上の展開も、上述した港の目印としての山、もしくは夜間航海における標識としての灯明に起因するものと考えられる。なおこの他に、幕府巡見使の差遣に際しては雲上寺への参拝が恒例であり、総勢約二百人、多い時には四百人を超える一行を迎える雲上寺においては、島前の各寺々の僧を集めてその饗応にあたっており、これには焼火信仰の普及と雲上寺の経営手腕が大きく作用していたと考えられている』。『明治の神仏判然令で形態を神社に改め、近代社格制度においては長らく無格社とされたが、大正七年(一九一八年)に県社に列した』。以下の「神事」の項に例祭は七月二十三日とし、『午後八時頃から本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば。神楽奉納の場)として隠岐島前神楽(島根県指定無形民俗文化財)が舞われる。かつては夜を徹する神楽であったというが、現在は遅くても深夜には終わることになっている』とあり、またという旧暦十二月大晦日に行われる「龍灯祭」神事を挙げ、そこには、『社伝によれば、焼火権現創祀の契機となった海上からの神火の発生が大晦日の夜だったのでそれに因んで行われるといい、現在でも旧暦大晦日の夜には海中に発した神火(龍灯)が飛来して境内の灯籠に入るとも、あるいは拝殿の前に聳える杉の枝に掛かるともいう(この杉は「龍灯杉」と呼ばれる)。以前は「年篭り(としごもり)」と称して、隠岐全島から集まった参拝者が社務所に篭って神火を拝む風習があった。なお、同様の龍灯伝説は日本各地に見られ、その時期も古来祖先祭が行われた七月や大晦日とするものが多いため、柳田國男はこれを祖霊の寄り来る目印として焚かれた篝火に起源を持つ伝説ではないかと推測、これを承けて当神社においては、航海を導く神火の信仰を中核としつつ、そこに在地の祖霊信仰が被さったと見る説もある』とある。また「信仰諸相」の項には、「神火の導き」という条があり、『船が難破しそうになった時に焼火権現に祈念すると、海中より三筋の神火が現れ、その中央の光に向かえば無事に港に着けるという』と記す。更に「日の入りのお灯明行事」には、『北前船の船乗りに伝承された船中儀礼で、航海安全などを祈るために焼火権現へ灯火を捧げる神事。「カシキ」』(これは元服前の少年及びその髪形(髻(もとどり)を結んで後ろへ垂らして肩の辺りで切りそろえたもの)を指す「喝食(かっしき)」であろう)『と呼ばれる十三歳から十五、六歳の最年少の乗組員が担当し、日の入りの時刻になると船尾で炊きたての飯を焼火権現に供え、「オドーミョー(お灯明)、オキノ国タクシ権現様にたむけます」と唱えながら二尺程度の稲または麦の藁束で作った松明を時計回りに三回振り回してから海へ投げ入れ、火がすぐに消えれば雨が近く、煙がしばらく海面を這えば風が出ると占ったといい、しかもこの神事を行う船乗り達は隠岐の島への就航の経験がなく、従って「オキノ国タクシ権現様」がどこのどのような神かも知らなかったという』(リンク先には上に述べられた広重や北斎の北前船によるこの「お灯明行事」の光景を描いた浮世絵が掲げられてある)。本篇に語られるこの三つの神火(じんか)というシンボルや、それに由来するこの「龍灯祭」には、何か隠された深い意味があるようにも思われる。

「あれは古疊で出來て居る」筵帆(むしろほ)・茣蓙帆(ござほ)のことであろう。藁・藺(い)などを編んだ筵をつなぎ合わせた帆で、木綿帆が普及する江戸以前では和船の帆はこれが主に用いられていた。古畳をばらして利用することもあったには違いない。

「水面」水平の意。田部氏の訳語の癖から推測すると、これは誤植ではない感じがするのでママとした。 

「水面」水平の意。田部氏の訳語の癖から推測すると、これは誤植ではない感じがするのでママとした。

「そしてその莚(マツト)はその家の爲めに造るのでは無くて、その家を莚(マツト)の爲めに造るのだから、どのタタミも全く同じ大きさである」やや首をひねってしまう謂いであるが、要は、畳のサイズは決まっており、畳を家の各部屋に合わせるのではなく、畳のサイズ(畳数)に合わせてそれらあらゆる家屋内の部屋を造る、という謂いである。但し、としても板の間の部屋はそれに縛られるわけではないし、上流階級の古い伝統的日本家屋にあっては畳敷きの部屋は寧ろ限られていたし、下層民では畳など敷く余裕もないわけであったのだから、ハーンの言いはやはりおかしいように私には思われる。

「波嘉島」直後に知夫里島と中ノ島の間を抜けるとあるから、知夫里島の南東に浮かぶ、現行では大波加島(おおはかじま)と呼ばれる無人島(島根県隠岐郡知夫村内)のことと思われる。]

 

 

.

   The luminous blankness circling us continued to remain unflecked for less than an hour. Then out of the horizon toward which we steamed, a small grey vagueness began to grow. It lengthened fast, and seemed a cloud. And a cloud it proved; but slowly, beneath it, blue filmy shapes began to define against the whiteness, and sharpened into a chain of mountains. They grew taller and bluer,— a little sierra, with one paler shape towering in the middle to thrice the height of the rest, and filleted with cloud,— Takuhizan, the sacred mountain of Oki, in the island Nishinoshima.

   Takuhizan has legends, which I learned from my friend. Upon its summit stands an ancient shrine of the deity Gongen-Sama. And it is said that upon the thirty-first night of the twelfth month three ghostly fires arise from the sea and ascend to the place of the shrine, and enter the stone lanterns which stand before it, and there remain, burning like lamps. These lights do not arise at once, but separately, from the sea, and rise to the top of the peak one by one. The people go out in boats to see the lights mount from the water. But only those whose hearts are pure can see them; those who have evil thoughts or desires look for the holy fires in vain.

   Before us, as we steamed on, the sea-surface appeared to become suddenly speckled with queer craft previously invisible,— light, long fishing- boats, with immense square sails of a beautiful yellow colour. I could not help remarking to my comrade how pretty those sails were; he laughed, and told me they were made of old tatami. [5] I examined them through a telescope, and found that they were exactly what he had said,— woven straw coverings of old floor-mats. Nevertheless, that first tender yellow sprinkling of old sails over the soft blue water was a charming sight.

   They fleeted by, like a passing of yellow butterflies, and the sea was void again. Gradually, a little to port, a point in the approaching line of blue cliffs shaped itself and changed color,— dull green above, reddish grey below; it defined into a huge rock, with a dark patch on its face, but the rest of the land remained blue. The dark patch blackened as we came nearer,— a great gap full of shadow. Then the blue cliffs beyond also turned green, and their bases reddish grey. We passed to the right of the huge rock, which proved to be a detached and uninhabited islet, Hakashima; and in another moment we were steaming into the archipelago of Oki, between the lofty islands Chiburishima and Nakashima.

 

5 The floor of a Japanese dwelling might be compared to an immense but very shallow wooden tray, divided into compartments corresponding to the various rooms. These divisions are formed by grooved and polished woodwork, several inches above the level, and made for the accommodation of the fusuma, or sliding screens, separating room from room. The compartments are filled up level with the partitions with tatami, or mats about the thickness of light mattresses, covered with beautifully woven rice-straw. The squared edges of the mats fit exactly together, and as the mats are not made for the house, but the house for the mats, all tatami are exactly the same size. The fully finished floor of each roam is thus like a great soft bed. No shoes, of course, can be worn in a Japanese house. As soon as the mats become in the least soiled they are replaced by new ones.

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