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« 松尾芭蕉シンクロニティ 「笈の小文」の旅――旅立ち | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (五) »

2015/11/29

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (四)

       四

 

 隱岐西郷は正八時に出帆するから直ぐ切符を買ふが宜からうと、翌朝早く知らせを受けた。日本の習慣に從つて宿屋の下男が荷物その他の一切の心配をせんで宜いやう取計つて呉れ、自分等の切符も買つて呉れた。一等賃金八十錢。そして急いで朝食をすますと、宿の小舟が我々を運ぶべく窻の下へやつて來た。

 島根縣の汽船では洋服は不便な事を經驗して知つて居るから自分は和服を着、靴を草履に穿き換へた。船頭は大船小船のごちやごちや居る中を早く漕いだ。そしてそれを出離れると、遠く中流に、自分等を待つて居るジヨウキが見えた。ジヨウキといふは汽船を呼ぶ日本語である。この語は不快な解釋を與へることの出來るものとは、その時まだ自分は思つて居なかつたのである。

[やぶちゃん注:やや長いので、注は必要と思われる各段落末に附す。

「島根縣の汽船」この謂いによってハーンは完全に境港を鳥取県だとは思っていないことがよく判る。

「この語は不快な解釋を與へることの出來るものとは、その時まだ自分は思つて居なかつたのである。」原文は“The word had not yet impressed me as being capable of a sinister interpretation.”。これはこの後の伏線であり、それを田部氏は非常に分かり易く訳しておられる。例えば、平井呈一氏はここを『このことばから、なにか不吉な解釈をひきだせるような印象を受けたことは、わたしはまだいちどもない。』と訳しておられるのであるが、この訳は私には半可通なもので、ここは矢部氏の訳に軍配を挙げたい。]

 見ると、もつとづんぐりはして居るが、長さは殆んど港内用の曳船ぐらゐで他の點に於ては宍逍湖通ひの小人島的汽船に餘程似て居たから、僅か百哩の短い旅でも、これでは少小險呑だといふ氣がした。が、その外部の視察はその内部の神祕を探る手掛りを與へては呉れなかつた。着いて、小さな角な穴からその右舷へ登つた。直ぐと自分は、重い天井を有つた、高さ四呎幅七呎の舷門の中で、幅二呎の孔の中を直徑三呎の荷物を押し通して行かうと踠いて呼吸(いき)の根を止めて居る船客に――恐ろしく挾み絞められて動けなくなつてしまつた。進むことも退くことも不可能で、そして自分の後ろでは機關室の格子がこの地獄のやうな廊下へ非常な熱を浴びせつゝあるのであつた。自分は頭の後を天井へ押附けて待つて居なければならもかつたが、不思議にも荷物も乘客も皆、壓し潰されて通ほつて行つた。それから部屋の戸口へ着いて、山なす草履と下駄の上を一等船室へころがりこんだ。磨いた木細工や鏡があつたりして部屋は小綺麗で、ぐるりに幅五吋の壁沿長椅子があり、中央の處は、高さ六尺ぐらゐあつた。そんな高さなら比較的に仕合な譯ではあつたが、天井を横に張り渡してある磨いた眞鍮の棒からして、ありとあらゆる小荷物が大事に吊り下げであつて、しかもその中には啼く螽斯(チヨンギス)の籠が二つもあるのであつた。その上にまた船室は早や既に極度に塞がれて居た。言ふ迄も無く誰も彼も床(ゆか)の上に居り、しかも殆んど誰も彼もが一杯に身體を伸ばして寢そべつてゐた。それにまた暑さがこの世のものとは思へぬ程であつた。ところで、出雲やそんなやうな地方から、大海で商賣をする目的で船に乘つて海へ乘り出す者は、決して立つて居るものでは無く、古風に辛抱強く坐つて居るものと思はれて居るから、沿海或は湖水通ひの汽船は、そんな姿勢だけを可能ならしめる目的を以て建造されて居るのである。自分は、船室の左舷の側に戸が一つ開いて居るのを見たから、身體や手足のこんがらがつて居る上を――その中には藝者の所有に係る美くしい足が二本あつたが、拔き足さし足で行つて見ると、それは別な舷門で、これ亦屋根があつて、のたりくれつて居る鰻が入つて居る籠で屋根まで詰つて居るのであつた。出口は其處には無かつた。そこでかの足總ての上を越え戻つて、今一度右舷の舷門を試めしてみた。そんな短時間のうちにすら、不幸な雛つ子が入つて居る籠で半分も其處ははや塞がれてしまつて居た。が自分は、自分の心を傷ましめる狂亂的なキヤツキヤといふ啼聲にも拘らず、向う見ずに籠の上を突進して、旨く船室の屋根の上へ出る道を見付けた。綱の大きなとぐろ卷のある一隅のほかは其處は全部西瓜が占領して居つた。自分はその綱の内側へ西瓜を入れて、日に照らされながらその上へ腰をかけた。居心地よくは無かつた。だが、いざといふ場合生命の助かる機會があらうと考へ、下に居る人達は神樣だつて屹度救ふことは出來まいと思つた。先刻の押し合へし合の間に自分は伴(つれ)と離れてしまつたのであつたが、その男を見出さうと企てることを恐れた。前の方を見ると二等室の屋根の上に火鉢一つ取卷いて三等客が一杯居た。その多勢の中を通り拔ける事は出來さうに思へぬし、退く事は鰻か雛つ子かを殺すことになつたらう。だから自分はその西瓜の上に腰掛けたのである。

[やぶちゃん注:「小人島的汽船」面食らう訳語であるが、原文は“the Lilliputian steamers”で、寧ろ、現代ではそのまま――リリパット国のみたような蒸気船――の方が通りがよかろう。言わずもがな、“Lilliput”はかのスウィフトの「ガリバー旅行記」に出てくる小人国の名である。

「百哩」約百六十一キロメートル。

「高さ四呎幅七呎の舷門」高さ一・二メートル・幅二・一メートルのガングウェー(原文も“gangway”)。ガングウェーは舷門(げんもん)と訳す海事用語で、船舶の上甲板の舷側にあってデッキ即ち舷梯(げんてい)を掛け、船内を昇降するための出入り口のことである。

「幅二呎」約六十一センチメートル。

「直徑三呎」直径九十一・四四センチメートル。

「五吋」十二・七センチメートル。

「六尺」約一メートル八十二センチメートル。

「螽斯(チヨンギス)」通常は「螽斯」で「きりぎりす」と読み、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis に属するもの及び近縁の属も含めた「キリギリス類」の総称。既出既注。但し、本当に本種であったかどうか、私は若干、疑問に思う。

「雛つ子」鶏のヒヨコ。]

 すると船は耳の潰れるやうな叫聲を出して進行し始めた。と直ぐに煙突が自分の身體ヘ戻――所謂一等船室は隨分の船尾にあつたから――煤を雨と降らせ始め、次いでその煤に交じつて小さな燃殼がやつて來て、その燃殼に折々赤熱のものもあつた。だが自分は、かの雛つ子に最後の攻擊を加へずに自分の位置を變ずる方法は無いかと思案しながら、なほ暫くの間西瓜の上で燒けながら坐つて居つた。到頭自分はその噴火山の風陰に移る必死の努力を試みた。そしてその時初めてこのジヨウキの特性は分つて來た。自分がその上に坐らうとする物はひつくりかへり、自分がそれで身體を支へようとする物は直ぐに、いつも船外の方向へ、外づれた。外見では鎹止になつて居るか或は堅固に締め括つてある物が、用心して檢べて見ると、危險なほど動き易いものであり、西洋の思想に據ると動くべき筈のものが永久不易の小山の根のやうに固着して居つた。どんな方向にでも誰かを不幸ならしめるやうに綱か支索かをどうにかして張り得たなら、此船のものが正(まさ)それであつた。そんな難儀な目に會つて居る最中に、この恐ろしい小舟は搖れ始めて、西瓜があつちこつち非道くぶつつかり始めたので、自分はこのジヨウキは惡魔が設計しまた建造したものだといふ結論に到達した。

[やぶちゃん注:「鎹止」「かすがひどめ(かすがいどめ)」。二つの対象を繫ぎ止めるためにかすがい(「コ」の字型の釘)で固定されてあること。]

 その事を自分は友に語つた。友は思ひがけ無くも自分と又一緒になつた計りでは無く、燃殼や煤を防ぐやうに、船のボオイを連れて來て自分等二人と西瓜との上へ日蔽を張らせたのであつた。

 彼は叱るやうに答へた。『そんなことは無い!この船は兵庫で設計して建造したもので、實際もつと惡く出來上つたのかも知れぬ、若し……………

[やぶちゃん注:この辺りの議論相手の「彼」はセツではない。後日、隠岐からの帰りに美保の関で再会した盟友西田千太郎との会話などを参考にしたものか。]

 自分はそれを遮つて『濟まぬが、君の意見には全然同意出來ぬ』と言つた。

 彼は自説を曲げずに『いや、自分で判るよ。船體は立派な鋼鐡だし、その小さな機關は驚くべきものだ。五時間で何ん百哩走れる。そりや大して居心地は好くない。が、非常に早くて堅牢だ』と言つた。

[やぶちゃん注:「何ん百哩」百マイルは約百六十一キロメートルだから、千キロメートル前後になるが、ここは原文を見ると「何ん」は筆が滑ったものであることが判る。ネット上の情報では当時の蒸気船の速度は江戸幕府の開陽丸の速度は十ノットで時速十八・五キロメートル、薩摩藩の春日丸は十六ノットで時速二十九・六キロメートルであったとあるから、かっちり「百哩」ならば、謂いとしては全く誇張ではないことが判る。]

 『空が荒れりや、僕はむしろ和船の方が宜い』と自分は抗辯した。

 『だが和船は空が荒れゝば海へ出はしない。空が荒れさうな樣子が見えただけでも、和船は港に碇泊して居る。時々全る一と月も待つ。どんな冒險も決してせぬ』

 自分はそれを確信する事は出來なかつた。だが、出雲の海岸に沿うて、長い海門から日本海へ突進するにつれて、眼前に段々廣く展開し來る素晴らしい眺望と、無類の好天氣とが嬉しくて、一切の不快を――西瓜の上に坐つて居る不快すらも――自分は直ぐと忘れた。頭上の靑い和やかな大空には一點の雲も無く、一切を映す大海の金屬の如き平らかさには少しのゆらめきも無かつた。船が搖れるのなら、それは疑も無く荷物を積み過ぎたからであつた。左舷には――間を置いて途絶えては不思議な小さな入江をつくり、其處には漁村が隱れて居る、くすんだ綠色の、起伏高低して長く續いて居る――出雲の山々が後(あと)へ後(あと)へと飛んで行く。右舷數哩離れて、伯耆の海岸が何も無い白い地平線へと遠のいて、砂濱の閃が呈する絲筋に緣取られた暖かい靑い線となつて、次第に微かに消えて行く。そしてその向うに、中心に、影のやうな偉大な金字塔が――大山の靈峰が――朦乎として中天へそゝり立つて居る。

[やぶちゃん注:「數哩」一マイルは約一・六キロメートルであるから、例えば六マイルで約九・七キロメートルである。美保の関(次段参照)から大山方向の美保湾対岸の伯耆の海岸までは十四キロメートルあるので的を射た謂いである。]

 友はとある頂に見える一群の松に自分の注意を惹くべく腕へ手を觸れて、笑つて日本の歌を一つ歌つた。船がどんなに速く進航して居たか、此時始めて判つた。それは事代主神の社殿の上の、風つぽい山に立つて居る、美保關の有名な四本松が認められたからである。元は五本あつた。一本は風の爲に根こぎにされたので、出雲の或る歌よみが、後に殘つた四本に對して今自分の友が歌つた文句を詠んだのである。

[やぶちゃん注:ここの部分だけは「友」はセツらしい感じがする、いいシークエンスである。セツの唄声が聴こえる。それに優しく清々しい顏で耳を傾けるハーンの姿とともに……

「」「第十章 美保の關にて(一)以下(二)以降カテゴリー「小泉八雲」を)も参照されたい。

「美保關の有名な四本松」出雲地方の民謡「関の五本松」で知られる。これは美保関の港口の山にある五本松が松江の領主の行列の槍がつかえたという理由で一本切られたことを惜しんだ歌という。私には島根県民謡「関の五本松」のおじさんの唄がよい。]

 

    セキノゴホンマツ

    イツポンキリヤシホン

    アトハキラレヌ

      メウトマツ

 

 意味は『關の五本松のうち一本は伐られて四本殘つて居る。これはもう一本も伐つてはならぬ――夫歸の松であるから』である。それで美保關では、四本松の繪が描いてあつて其繪の上に蜘蛛程の小さな金文字で『セキノゴホンマツ』の歌が書いてある美しい盃や德利を賣つて居る。それは記念の品でご他にも其處の綺麗な店で買へる珍らしい綺麗な土産の品物がある。美保關神社の繪のついた瀨戸物や、事代主神が大きな鯛をそれが入りさうにない小さな籠へ入れようとして居る處を現はした煙草袋用の金屬の留金(とめがね)や、この神の笑顏を示した光澤のある燒物で出來て居る滑稽な面(めん)などである。それはこの惠比須即ち事代主神は正直な勞働の、殊に漁師の、守り神で、『幸福な者が笑ふといつもその神樣は喜ばれる』と人の言ふその父神たる杵築の大神ほどには笑を好かれはせぬが、でも上機嫌な神樣だからである。

 船が岬を――古事記の美穗を――過ぎると、美保關の港が我等の前に開けて、港内中央の島にある辨天神社が見え、その脚部を水に浸して居る半月形に建ち並んだ古風な家並が見え、遠くまで名のきこえて居るあの神社の大鳥居と御影石の唐獅子が見えた。すると直ぐに多勢の乘客が立上つて、顏を鳥居へ向けて神道祈念の柏手を始めた。

[やぶちゃん注:「古事記の美穗」の「美穗」はママ。事代主神の后は三穂津姫(みほつひめ)と書くから問題ない。

「辨天神社」美保の関の弁天波止場の、常夜灯が設けられている弁天島の弁天社のことであろう。]

 自分は友に斯う言つた。

 『舷門に雛つ子が一杯入つて居る籠が五十もある。だのにあの人達は船に災難が出來しませぬやうにと事代主神に祈願して居る』

[やぶちゃん注:既に述べた通り、事代主神は鶏を嫌い、同地では現在も氏子の人々は鶏肉や鶏卵を食さない。「第十章 美保の關にて(二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)を参照のこと。]

 友の答へるには、『では無くて自分の幸福を祈つて居るのだらう、尤も「金持になりますやうにと人が御祈をすると神樣達はたゞ笑つておいでだ」といふ話なんだが。然し美保關の大神に就いては面白い話がある。或る時非常に横着な男が美保關へ參つて金持になりますやうにと御祈をした。するとその夜その男は夢に神樣を見た。神樣は笑つて自分の御草履の片方を脱いで、それを能く檢(み)て見よと仰せになつた。そこでその男は見て見ると、その草履は重い眞鍮で出來て居たが、踵に大きな穴が開(あ)いて居た。處で神樣の仰しやるには、「お前は働かずに金を得たいと思つて居る。わしは神ぢやが、決してなまけはせぬ。見よ、わしの草履は眞鍮で出來て居る。それで、非常に働いて隨分と歩いたから、まるで摩り切れて居る」』

 

 

.

   Early in the morning we were notified that the Oki-Saigo would start at precisely eight o'clock, and that we had better secure our tickets at once. The hotel-servant, according to Japanese custom, relieved us of all anxiety about baggage, etc., and bought our tickets: first-class fare, eighty sen. And after a hasty breakfast the hotel boat came under the window to take us away.

   Warned by experience of the discomforts of European dress on Shimane steamers, I adopted Japanese costume and exchanged my shoes for sandals. Our boatmen sculled swiftly through the confusion of shipping and junkery; and as we cleared it I saw, far out in midstream, the joki waiting for us. Joki is a Japanese name for steam-vessel. The word had not yet impressed me as being capable of a sinister interpretation.

   She seemed nearly as long as a harbor tug, though much more squabby; and she otherwise so much resembled the Lilliputian steamers of Lake Shinji, that I felt somewhat afraid of her, even for a trip of one hundred miles. But exterior inspection afforded no clue to the mystery of her inside. We reached her and climbed into her starboard through a small square hole. At once I found myself cramped in a heavily-roofed gangway, four feet high and two feet wide, and in the thick of a frightful squeeze,— passengers stifling in the effort to pull baggage three feet in diameter through the two-foot orifice. It was impossible to advance or retreat; and behind me the engine-room gratings were pouring wonderful heat into this infernal corridor. I had to wait with the back of my head pressed against the roof until, in some unimaginable way, all baggage and passengers had squashed and squeezed through. Then, reaching a doorway, I fell over a heap of sandals and geta, into the first-class cabin. It was pretty, with its polished woodwork and mirrors; it was surrounded by divans five inches wide; and in the centre it was nearly six feet high. Such altitude would have been a cause for comparative happiness, but that from various polished bars of brass extended across the ceiling all kinds of small baggage, including two cages of singing-crickets (chon-gisu), had been carefully suspended. Furthermore the cabin was already extremely occupied: everybody, of course, on the floor, and nearly everybody lying at extreme length; and the heat struck me as being supernatural. Now they that go down to the sea in ships, out of Izumo and such places, for the purpose of doing business in great waters, are never supposed to stand up, but to squat in the ancient patient manner; and coast, or lake steamers are constructed with a view to render this attitude only possible. Observing an open door in the port side of the cabin, I picked my way over a tangle of bodies and limbs,— among them a pair of fairy legs belonging to a dancing-girl,— and found myself presently in another gangway, also roofed, and choked up to the roof with baskets of squirming eels. Exit there was none: so I climbed back over all the legs and tried the starboard gangway a second time. Even during that short interval, it had been half filled with baskets of unhappy chickens. But I made a reckless dash over them, in spite of frantic cacklings which hurt my soul, and succeeded in finding a way to the cabin-roof. It was entirely occupied by water-melons, except one corner, where there was a big coil of rope. I put melons inside of the rope, and sat upon them in the sun. It was not comfortable; but I thought that there I might have some chance for my life in case of a catastrophe, and I was sure that even the gods could give no help to those below. During the squeeze I had got separated from my companion, but I was afraid to make any attempt to find him. Forward I saw the roof of the second cabin crowded with third- class passengers squatting round a hibachi. To pass through them did not seem possible, and to retire would have involved the murder of either eels or chickens. Wherefore I sat upon the melons.

   And the boat started, with a stunning scream. In another moment her funnel began to rain soot upon me,— for the so-called first-class cabin was well astern,— and then came small cinders mixed with the soot, and the cinders were occasionally red-hot. But I sat burning upon the water- melons for some time longer, trying to imagine a way of changing my position without committing another assault upon the chickens. Finally, I made a desperate endeavor to get to leeward of the volcano, and it was then for the first time that I began to learn the peculiarities of the joki. What I tried to sit on turned upside down, and what I tried to hold by instantly gave way, and always in the direction of overboard. Things clamped or rigidly braced to outward seeming proved, upon cautious examination, to be dangerously mobile; and things that, according to Occidental ideas, ought to have been movable, were fixed like the roots of the perpetual hills. In whatever direction a rope or stay could possibly have been stretched so as to make somebody unhappy, it was there. In the midst of these trials the frightful little craft began to swing, and the water-melons began to rush heavily to and fro, and I came to the conclusion that this joki had been planned and constructed by demons.

   Which I stated to my friend. He had not only rejoined me quite unexpectedly, but had brought along with him one of the ship's boys to spread an awning above ourselves and the watermelons, so as to exclude cinders and sun.

   'Oh, no!' he answered reproachfully 'She was designed and built at Hyōgo, and really she might have been made much worse. . . . '

    'I beg your pardon,' I interrupted; 'I don't agree with you at all.'

    'Well, you will see for yourself,' he persisted. 'Her hull is good steel, and her little engine is wonderful; she can make her hundred miles in five hours. She is not very comfortable, but she is very swift and strong.'

   'I would rather be in a sampan,' I protested, 'if there were rough weather.'

   'But she never goes to sea in rough weather. If it only looks as if there might possibly be some rough weather, she stays in port. Sometimes she waits a whole month. She never runs any risks.'

   I could not feel sure of it. But I soon forgot all discomforts, even the discomfort of sitting upon water-melons, in the delight of the divine day and the magnificent view that opened wider and wider before us, as we rushed from the long frith into the Sea of Japan, following the Izumo coast. There was no fleck in the soft blue vastness above, not one flutter on the metallic smoothness of the all-reflecting sea; if our little steamer rocked, it was doubtless because she had been overloaded. To port, the Izumo hills were flying by, a long, wild procession of' broken shapes, sombre green, separating at intervals to form mysterious little bays, with fishing hamlets hiding in them. Leagues away to starboard, the Hōki shore receded into the naked white horizon, an ever- diminishing streak of warm blue edged with a thread-line of white, the gleam of a sand beach; and beyond it, in the centre, a vast shadowy pyramid loomed up into heaven,— the ghostly peak of Daisen.

   My companion touched my arm to call my attention to a group of pine- trees on the summit of a peak to port, and laughed and sang a Japanese song. How swiftly we had been travelling I then for the first time understood, for I recognized the four famous pines of Mionoseki, on the windy heights above the shrine of Koto-shiro-nushi-no-Kami. There used to be five trees: one was uprooted by a storm, and some Izumo poet wrote about the remaining four the words which my friend had sung: —

               Seki no gohon matsu

               Ippun kirya, shihon;

               Ato wa kirarenu

                   Miyoto matsu.

Which means: 'Of the five pines of Seki one has been cut, and four remain; and of these no one must now be cut,— they are wedded pairs.' And in Mionoseki there are sold beautiful little sake cups and sake bottles, upon which are pictures of the four pines, and above the pictures, in spidery text of gold, the verses, 'Seki no gohon matsu.' These are for keepsakes, and there are many other curious and pretty souvenirs to buy in those pretty shops; porcelains bearing the picture of the Mionoseki temple, and metal clasps for tobacco pouches representing Koto-shiro- nushi-no-Kami trying to put a big tai-fish into a basket too small for it, and funny masks of glazed earthenware representing the laughing face of the god. For a jovial god is this Ebisu, or Koto-shiro-nushi-no-Kami, patron of honest labor and especially of fishers, though less of a laughter-lover than his father, the Great Deity of Kitzuki, about whom 'tis said: 'Whenever the happy laugh, the God rejoices.'

   We passed the Cape—the Miho of the Kojiki,— and the harbour of Mionoseki opened before us, showing its islanded shrine of Benten in the midst, and the crescent of quaint houses with their feet in the water, and the great torii and granite lions of the far-famed temple. Immediately a number of passengers rose to their feet, and, turning their faces toward the torii began to clap their hands in Shinto prayer.

   I said to my friend: —

   'There are fifty baskets full of chickens in the gangway; and yet these people are praying to Koto-shiro-nushi-no-Kami that nothing horrible may happen to this boat.'

   'More likely,' he answered, 'they are praying for good-fortune; though there is a saying: "The gods only laugh when men pray to them for wealth." But of the Great Deity of Mionoseki there is a good story told. Once there was a very lazy man who went to Mionoseki and prayed to become rich. And the same night he saw the god in a dream; and the god laughed, and took off one of his own divine sandals, and told him to examine it. And the man saw that it was made of solid brass, but had a big hole worn through the sole of it. Then said the god: "You want to have money without working for it. I am a god; but I am never lazy. See! my sandals are of brass: yet I have worked and walked so much that they are quite worn out."'

 

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