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« 祝 教え子のりちゃん保育士合格! | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (九) »

2015/11/25

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (八)

       八

 

 濱村と云ふ小さい美しい村に着いた後、日が暮れた、明日から内地の方へ向ふから、ここは海岸での私共の最後の休み場所であつた。私共の泊つた宿屋は甚だ小さいが甚だ、物綺麗に小ぢんまりして居る、それから有難い温泉がある、宿屋はその温泉の出口に近い所に建つて居る。不思議な程渚(ナギサ)に近いこの温泉はこの村の家全部の浴場に供給して居ると私は聞いた。

 宿屋では最上等の部屋を私共にあててくれる、しかし私は明日流すことになつて往來の入口に近く、臺の上に置いてある甚だ立派な精靈船を見るために暫らく止まる。ほんの少し前にでき上つたらしい、新しい藁屑がそのあたりに散らかつて、戒名は未だ帆の上に書いてない。この船は貧しい寡婦とその息子、二人とも、この宿屋の奉公人である人達の物であると聞いて驚く。

 

 私は濱村で盆踊を見ようとあてにしてゐたが、失望する。村では警察が踊りを禁じて居る。コレラを恐れてこんな嚴重な衞生規則を出す事になつた。濱村では飮料、料理用、洗濯用として水を使用してはならない、ただ温泉だけを使用するやうに命令されて居る。

 

 非常に聲のよい小柄な中年の女が晩飯の時給仕に來る。二十年以前、既婚の女がしたやうに齒を黑くして眉を剃つて居る、それでも彼女の顏はやはり愉快な顏である、若い時には並すぐれて綺麗であつたに相違ない。女中として働いては居るが、宿屋の人々と親類になつて居るので、親類相當な思ひやりで待遇されて居るらしい。この女の話では精靈船は夫と弟――八年前、二人ともうちの見える所まで來て死んだこの村の漁師(レウシ)達――のために流される事になつて居る。隣りの禪寺の僧が翌朝來て帆の上に戒名を書いてくれる、このうちには漢字を書く事の上手な人はゐないから。

 私は彼女にきまりの僅かな心づけをする、それから私の從者によつて、彼女の身の上を色々尋ねる。彼女は自分よりずつと年上の夫と結婚して、甚だ幸福にくらしてゐた、それから十八歳の少年であつた弟も一緒にゐた。よい船を一艘と少しばかりの地所を持つてゐた上、彼女は機織が巧みであつたので、とにかく樂にくらしてゐた。夏になると漁師(レウシ)は夜、魚を取る、船が皆出ると二哩か三哩の所で、一群の星のやうに、沖の一列の炬火を見るのは綺麗である。天氣の惡くなりさうな時には出ない、それでも月によつては、颱風が突然起つて帆を上げる暇もないうちに、船に追ひつく。彼女の夫と弟が最後に出た晩はお寺の池のやうに海は靜かであつた、颱風は夜明け前に起つた。それからの事は、私共のはるかに不器用な言語で、私が飜譯する事ができない程あつさりした悲哀な調子で彼女は述べる。

 『船と云ふ船は皆歸りましたが、夫の船だけは歸りません。夫と弟は外の人達よりもずつと向うに行つてゐたので、そんなに早く歸られませんでした。みんな見て待つてゐました。波は一分毎に高くなり、風は恐ろしくなるやうでした、それで外の船も流されないやうにずつと岡の方へ引上げて置かねばなりませんでした。ところが不意に夫の船が大變、大變早く來るのが見えて來ました。喜びましたね。隨分近く來たので夫の顏も弟の顏も見えました。ところが不意に横波が船の一方にぶつかつたので、船が水の中へ沈んで、出て來ませんでした。それから夫と弟が泳いで居るのが見えました。しかし波で上げられる時しか見えません。山のやうな海でした、それで夫の頭と弟の頭がずつとずつとずつと上つて、それから下へ下へ下りる、それで私達の方で見える程波の頂上に上る時いつも一人が「助けて」と呼んでゐます。しかし強い人達でも恐れてゐます、海は餘りこはい、私はただ女です。それから弟もう見えなくなりました。夫は年取つてゐましたが、大變強い、それで長い間泳いでゐました、――餘り近いので、私は夫の顏が恐れて居る人の顏のやうである事が分りました、――そして「助けて」と呼んでゐました。しかし助けてくれるものはありません、それでたうとう夫も沈みました。それでも沈む前に夫の顏が見えました。

 『それからあと、長い間、その時見た通りの顏がいつも見えました、それで私は眠られないで泣いてばかりゐました。それから私は佛樣や神樣へその夢を見ないやうにとお祈りを致しました。もうその夢は見ません。が、かうしてお話をして居る時でも、やはり夫の顏が目に見えます。……その時分私のむすこはほんの子供でした』

 

 この筒單な話を終る時彼女は忍び泣きをしないでは居られなかつた。それから、不意に疊まで頭を下げて、袖で涙をふいて、こんな風に私情を少し露出した事を丁寧にわびて、そして笑った――日本の禮儀の眞髓とも云ふべき柔らかな低い笑であつた。私は白狀するが、この笑は話その物よりも一層深く私を感動させた。適當な時に私の從者は巧みに話題を變へて、私共の旅について、それから旦那様がこの海岸の古い習慣や昔話に興味をもつて居る事について、輕い話を始める。そして私共の出雲漫遊の話を少しして彼女を喜ばせる事ができた。

 彼女は私共に何處へ行くかと尋ねる。私の從者は多分鳥取までと答へる。

 『あゝ、鳥取。さやうでございますか。……ところで、鳥取の蒲團と云ふ古い話があますが、旦那樣は御存じでゐらつしやいませうね』

 ところがその旦那様は御存じでない、そして熱心にそれを聞かせて貰ひたいと云ふ。そして私の通譯の唇から私が先づきいた通りにここにその話をかく。

 

[やぶちゃん注:仲居の語り出しの最初の段落末の鍵括弧閉じるがないのはママ。

「濱村と云ふ小さい美しい村」現在の鳥取県鳥取市気高町浜村。前の「七」で通った上市(先に示した大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、セツとの新婚旅行ではここ上市に宿泊している)からは直線でも四十四・七キロメートルも離れている。

「温泉がある」浜村温泉は硫酸塩泉で、豊富な湯量と五百年の歴史を持つ。

「明日から内地の方へ向ふから、ここは海岸での私共の最後の休み場所であつた」とあるが、前注に示した大澤氏の論文を見る限りでは、引き返して既泊の鳥取県東伯郡琴浦町大字八橋(やばせ)に暫く再滞在し、海水浴などをし、その後は美保が関へ向かっている(「第十章 美保の關にて」のシークエンスはこの時)から文学的虚構とも思われる。但し、ハーンはかなり気まぐれで華美に過ぎて五月蠅い宿は断固拒否するタイプ(この直前の、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町にある東郷池の宿でも一週間の滞在予定を一日かそこらで切り上げてしまい、宿の者やセツを困らせている)であるから、実際には後に出るように「鳥取」を経て内陸へ向かうつもりがなかったとは断言は出来ない。

「私は濱村で盆踊を見ようとあてにしてゐたが、失望する。村では警察が踊りを禁じて居る」松江到来の際の、かの「第六章 盆踊 (四)」に出る上市での夢幻的エクスシーが忘れられなかったのであろう。但し、大澤氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、この直前の八橋での滞在中、ハーンはセツと一緒に八橋から二キロメートルほど東にある東伯郡琴浦町逢束(おうつか)まで歩いて、実際に盆踊りを見に行っている。ただこれはハーンには思い出したくなかったエピソードで、大澤氏によれば、この時の『盆踊り見物で群集に砂や石を投げられ』とあり、直後に出された西田千太郎に宛てた手紙には、『報道関係者にこの件を知らせないようにと記』す微妙な気遣いをさえも見せている。寧ろ、その不本意な体験があったので、仕切り直しに盆踊りを楽しみにしていた、とも読むことは出来る。

「コレラ」明治のこの頃は、間歇的に中小レベルのコレラ流行が実際に発生している。ウィキの「コレラで幕末から明治期へのコレラ史を見ると、日本で初めてコレラが発生したのは最初のパンデミック(世界的大流行)が日本に及んだ文政五(一八二二)年のことで『感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった』。二度目のパンデミック(一八二六年~一八三七年)の波及を免れたものの、三度目は再び日本に到達して安政五(一八五八)年から三年に亙っての大流行となった。この時は『九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで』十万人が死亡したとする『文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある』。文久二(一八六二)年には、先に『残留していたコレラ菌に』よるものと思われる本邦三度目の大流行が発生、五十六万人もの『患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも』七万三千人から数十万人に及ぶ感染者が『死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い』。因みに、安政五年の大流行は、『相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている』。『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』。事実、明治元(一八六八)年に『幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は』凡そ二年から三年間隔で『数万人単位の患者を出す流行が続』。明治一二(一八七九)年(年)と明治一九(一八八六)年には死者が十万人の『大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ』。なお、前注の事実記載から、盆踊りは逢束でやっていたのに浜村で禁じられているというのは一見奇異に見えなくもないが、実際に地域によって、所轄の地方警察の命を厳格に守ったり、いい加減に扱ったりすることは今も昔も変わらないから、何ら不思議ではあるまい。特に盆踊りは当時の庶民にとっては数少ないハレの慰安であった。これをたいした流行でもないのに(本邦のコレラ史は明治二四(一八九一)年の夏は特異点としない)全面禁止するというのは、私には天皇崩御で花火大会自粛程度には馬鹿げた神経症的対応としか思われない。

「二哩か三哩」凡そ三・三~四・九キロメートル。

「鳥取の蒲團と云ふ古い話」を、以下、この哀しい過去を背負った、明日、ハーンが先に見た精霊船を遺児とともに流す仲居が語り出すのであるが、大澤氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、最初の印象的な精霊船を見るシークエンスとこの女性も、実際には杵築で体験した事実を、ここ『濱村に登場させたともいう』(一九九三年八雲会刊の「へるん今昔」に拠る。下線やぶちゃん。以下も)とあり、更には、知られた以下に語られる哀切々たる怪談「布団の話」の内容も、この女性からではなく、セツが前の夫為二から聴いた話であったという、ともある。ここで簡単にセツについて述べておくと(複数のネット情報を素材とした)、小泉セツは慶応四(一八六八)年生まれであるが、生まれると直ぐ稲垣家の養女となっている。明治一九(一八八六)年、十九の時、稲垣家は前田為二という士族の次男坊を婿養子としてセツと娶せたが、稲垣家は士族の商法で失敗して負債を抱えることとなり、三年後(別情報では一年も満たないうちであったともする)、夫為二は大阪に出奔、明治二十三(一八九〇)年一月に正式な離婚届が受理され、セツは稲垣家を去って実家小泉家へと戻った。セツがハーンの住み込み女中となった時(推定で明治二十四(一八九一)年年初)、セツは数え二十四であった。]

 

 

.

   Night falls as we reach the pretty hamlet of Hamamura, our last resting- place by the sea, for to-morrow our way lies inland. The inn at which we lodge is very small, but very clean and cosy; and there is a delightful bath of natural hot water; for the yadoya is situated close to a natural spring. This spring, so strangely close to the sea beach, also furnishes, I am told, the baths of all the houses in the village.

   The best room is placed at our disposal; but I linger awhile to examine a very fine shōryōbune, waiting, upon a bench near the street entrance, to be launched to-morrow. It seems to have been finished but a short time ago; for fresh clippings of straw lie scattered around it, and the kaimyo has not yet been written upon its sail. I am surprised to hear that it belongs to a poor widow and her son, both of whom are employed by the hotel.

 

   I was hoping to see the Bon-odori at Hamamura, but I am disappointed. At all the villages the police have prohibited the dance. Fear of cholera has resulted in stringent sanitary regulations. In Hamamura the people have been ordered to use no water for drinking, cooking, or washing, except the hot water of their own volcanic springs.

 

   A little middle-aged woman, with a remarkably sweet voice, comes to wait upon us at supper-time. Her teeth are blackened and her eyebrows shaved after the fashion of married women twenty years ago; nevertheless her face is still a pleasant one, and in her youth she must have been uncommonly pretty. Though acting as a servant, it appears that she is related to the family owning the inn, and that she is treated with the consideration due to kindred. She tells us that the shōryōbune is to be launched for her husband and brother — both fishermen of the village, who perished in sight of their own home eight years ago. The priest of the neighbouring Zen temple is to come in the morning to write the kaimyo upon the sail, as none of the household are skilled in writing the Chinese characters.

   I make her the customary little gift, and, through my attendant, ask her various questions about her history. She was married to a man much older than herself, with whom she lived very happily; and her brother, a youth of eighteen, dwelt with them. They had a good boat and a little piece of ground, and she was skilful at the loom; so they managed to live well. In summer the fishermen fish at night: when all the fleet is out, it is pretty to see the line of torch-fires in the offing, two or three miles away, like a string of stars. They do not go out when the weather is threatening; but in certain months the great storms (taifu) come so quickly that the boats are overtaken almost before they have time to hoist sail. Still as a temple pond the sea was on the night when her husband and brother last sailed away; the taifu rose before daybreak. What followed, she relates with a simple pathos that I cannot reproduce in our less artless tongue:

   'All the boats had come back except my husband's; for' my husband and my brother had gone out farther than the others, so they were not able to return as quickly. And all the people were looking and waiting. And every minute the waves seemed to be growing higher and the wind more terrible; and the other boats had to be dragged far up on the shore to save them. Then suddenly we saw my husband's boat coming very, very quickly. We were so glad! It came quite near, so that I could see the face of my husband and the face of my brother. But suddenly a great wave struck it upon one side, and it turned down into the water and it did not come up again. And then we saw my husband and my brother swimming but we could see them only when the waves lifted them up. Tall like hills the waves were, and the head of my husband, and the head of my brother would go up, up, up, and then down, and each time they rose to the top of a wave so that we could see them they would cry out, "Tasukete! tasukete!" [4] But the strong men were afraid; the sea was too terrible; I was only a woman! Then my brother could not be seen any more. My husband was old, but very strong; and he swam a long time,— so near that I could see his face was like the face of one in fear,— and he called "Tasukete!" But none could help him; and he also went down at last. And yet I could see his face before he went down.

   'And for a long time after, every night, I used to see his face as I saw it then, so that I could not rest, but only weep. And I prayed and prayed to the Buddhas and to the Kami-Sama that I might not dream that dream. Now it never comes; but I can still see his face, even while I speak. . . . In that time my son was only a little child.'

 

   Not without sobs can she conclude her simple recital. Then, suddenly bowing her head to the matting, and wiping away her tears with her sleeve, she humbly prays our pardon for this little exhibition of emotion, and laughs — the soft low laugh de rigueur of Japanese politeness. This, I must confess, touches me still more than the story itself. At a fitting moment my Japanese attendant delicately changes the theme, and begins a light chat about our journey, and the danna-sama's interest in the old customs and legends of the coast. And he succeeds in amusing her by some relation of our wanderings in Izumo.

   She asks whither we are going. My attendant answers probably as far as

Tottori.

   'Aa! Tottori! Sō degozarimasu ka? . . . Now, there is an old story,— the Story of the Futon of Tottori. But the danna-sama knows that story?'

   Indeed, the danna-sama does not, and begs earnestly to hear it. And the story is set down somewhat as I learn it through the lips of my interpreter.

 

4 'Help! help!'

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