フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015/12/31

幻化へのオマージュ

久住二曹! 只今帰って参りマシタッ! 永いアイダ! 永いアイダ!! 申しわけ!……ありませんでしタ!!……

NHKドラマ「幻化」より)

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (6) 凧について(Ⅱ)(終り)

 
M748

図―718

 

 図718は長さ三フィートもある紙鳶の写生図で、点線はその前面で、糸が紙鳶を支える主な糸に結びつく可くつけられる場所を示す。子供達は合衆国の子供達がすると同じように、紙の円盤を糸にのせて上へあがらせる。我々はこの紙を「使者」と称したが、日本の子供はこれを「猿」と呼ぶ。一つの提灯、屢々二つの提灯を送りあげるが、夜間にはそれに火を入れる。紙鳶から、それをあげる糸に結びつく糸は数が多く、そして非常に長い。これ等の糸は、枠をなす竹の条片が交る点から、上からも下からも出ているらしく、そして大きな紙鳶では、条片が上下左右斜にあるので、それ等の交叉点は沢山ある(図749)。我々の紙鳶あげは日本の方法や装置に比較すると、お粗末極るものである。男の子の群が、その殆どすべてが背中に赤坊をくくりつけて、統鳶をあげているのは、奇妙な光景である(図750)。

[やぶちゃん注:前注で告白した通り、私は凧に冥い。「使者」(原文“messengers”)とか「猿」(原文“monkeys”)とか言われても全く不明である。凧の上げ方をネット見ても、そういう凧上げのプレの手法に行き当たらない。悪しからず。

「三フィート」九十一・四センチメートル。]

M749_m751

図―749[やぶちゃん注:三つあるものの内、一番上の図。]

図―750[やぶちゃん注:三つあるものの、中央にある図。]

図―751[やぶちゃん注:三つあるものの内、一番下の図。]

 

 長崎で普通に見受ける紙鳶は図751に示す。只一本のまっすぐな竹の条片の上部には、それを引っかける鉤があり、頂点から、数インチ下に長さ四フィートの竹の条片を縦の条片に結びつけ、それを弓のように鸞曲させる。この弓の両端を引きしめる二本の糸は、四フィート下で縦の骨に結ばれる。この骨組の上に紙を張りつけ、約五分の一の円欠を形づくる。紐は弓の結び目と、紙鳶の底部とに取りつけ前方へ六フィート出ている。紙鳶の下には、非常に長い尾がぶら下る。

[やぶちゃん注:ウィキの「凧」から歴史と長崎のそれ(長崎では特に凧のことを「ハタ」と呼ぶ)についての記載を引いておく。『日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に凧に関する記述が登場し、その頃までには伝わっていたと思われる』。『日本の伝統的な和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧である。長方形の角凧の他、六角形の六角凧、奴(やっこ)が手を広げたような形をしている奴凧など、各地方独特のさまざまな和凧がある。凧に弓状の「うなり」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもある。凧は安定度を増すために、尻尾(しっぽ)と呼ばれる細長い紙(ビニールや竹の場合もある)を付けることがある。尻尾は、真ん中に』一本付ける場合と両端に二本付ける場合とがある。『尻尾を付けると回転や横ぶれを防ぐことができ、真上に揚がるように制御しやすくなる』。十四世紀頃からは、『交易船によって南方系の菱形凧が長崎に持ちこまれはじめ』、十七世紀には『出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧をハタと呼び』、ここに出るような菱形の凧が盛んになった。『これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が』十四~十五世紀の『大航海時代にヨーロッパに伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる』とある。『江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった』。『長崎でも、農作物などに被害を与えるとして幾度となく禁止令が出された』。『競技用の凧(ケンカ凧)には、相手の凧の糸を切るために、ガラスの粉を松ヤニなどで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木をつけたりもした』(これについてもモースは既に第十五章 日本の一と冬 凧上げで子細に記載している)。『明治時代以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減っていくが、正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続いた』。

「数インチ」一インチは二・五四センチメートル。

「四フィート」約一・二二メートル。

「円欠」原文は“a segment of a circle”。円弧のこと。

「六フィート」約一・八三メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (5) 凧について(Ⅰ)

 忙しい最中の紙鳶店は、奇妙な、そして新奇なものである。店の前面はあけはなしで、枠に布を張った大きな其烏賊の形をした、変った看板の、布製の腕は風にゆれ、それ全体があざやかに彩色してある。それを書く字は違うが、紙鳶も烏賊も語は同じなので、烏賊を看板にする。

[やぶちゃん注:「紙鳶も烏賊も語は同じなので、烏賊を看板にする。」原文は“Though different characters are used in writing it, the word for kite and for cuttlefish is the same; hence the use of a cuttlefish for a sign.”である。底本ではこの「烏賊」の直下に石川氏による『〔章魚〕』という割注が入る。しかし石川氏は「紙鳶」で「たこ」と呼んでおられるものと思われるが(だからこそ割注をして訂「正」されたと推理する)、実は辞書を引くと例えば三省堂「大辞林」では「いか」の見出しで「紙鳶・凧」が出、意味として『〔形が烏賊(いか)に似ていたことから〕凧(たこ)。いかのぼり。関西地方でいう。』とあるのである。私も「烏賊幟(いかのぼり)」の呼称を知っているし、それが「凧(たこ)」の別称として認識している。ウィキの「凧」には、『凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「イカ」「いかのぼり」(紙鳶とも書く)と明治初期まで呼ばれていた江戸時代になると「紙鳶」と書いて「いかのぼり」と読むようになった。「いかのぼり」を売る店もあり、日常的に遊ぶ娯楽になった。しかし「いかのぼり」を揚げている人同士でケンカになったり、通行の邪魔になったり、大名行列の中に落ちたりといった問題も起きていた』。一六五〇年代(慶安三年から万治元・明暦四年まで:徳川家光が慶安四年に死去しているから、ほぼ第四代将軍家綱の治世)に『「いかのぼりあげ禁止令」や「タコノボリ禁止令」などの高札が立ち、この頃から「たこ」という呼び方に変わった。凧が「タコ」や「イカ」と呼ばれる由来は凧が紙の尾を垂らし空に揚がる姿が、「蛸」や「烏賊」に似ているからという説がある』とある(下線やぶちゃん)。私は形状からは寧ろ、烏賊で違和感がない。……そもそも私はもうじき五十九になるが……五十九年の間……幼稚園の時……住んでいた大泉学園の家の隣りの空き地を……泣きながら凧を引きずった哀しい記憶はあっても……ブンブンと凧を楽しく上げた記憶なんど……これ……全く以って皆無という……悲劇的に不幸な元少年なのである……]

M747

図―717

 

 図717は紙鳶屋の一軒を、急いで写生したものである。内部には何百という紙鳶が積み上げてあり、二、三人の男が、もっともあざやかな色で鬼や、神話的のものや、気味の悪いお面や、その他の意匠を描いている。外側には大小とりどりの子供が立ち並び、熱心に紙鳶を見ている。前にいる子供の頭ごしに写生をしていると、一人の老人が気持よく微笑を洩し、別の職人も愛想よく私を見たが、彼等は小さいお客様の相手をするのに多忙を極めていたので、一瞬間たりとも仕事の手を休めなかった。見受けるところ、彼等の一年間の生活は、紙鳶をつくる数週間に集中されているらしい。値段は著しく安いように思われた。あざやかな色彩で、ごてごて装飾された大きな紙鳶が三セント半で売られ、とばせることの出来る小さなのは半セントである。子供が紙鳶を一つ買うと、店の人は糸目をつける。

[やぶちゃん注:先の黒田侯に鷹狩に招待されたのが明治一五(一八八二)年一二月二十四日、モースの離日は翌明治十六年二月十四日で、この年は日本で年越ししている。ここで子らが紙鳶屋(たこや)に凧(たこ)を買いに群がっているのも腑に落ちよう。]

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 臺村

臺村〔駄伊牟良〕 山崎村より分れしと云、されど【北條役帳】にも此地名見えたれば、永祿巳前既に分折せしと知らる、小坂郷に屬せり、江戸より行程十二里、東西十七町餘、南北六町許〔東、山之内村、西、戸部川を隔て岡本村、北、小袋谷村、山崎村、艮、大船村、〕民戸六十一、藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず〔巾二間より四間に至る〕又戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り〔巾六尺〕村界にて前路に合す、貞享元年國領半兵衞重次檢地す〔右檢地は慶安以前成瀨五左衞門重治改し云〕當村古は松石齋の知行なりしを、松田助六郎・關彌次郎等買得せしこと【北條役帳】に見え〔曰、町田助六郎・買得六十貫三百六十文、臺之村、元松石齋知行、又曰、關彌次郎、買得六十貫三百六十文、臺之内元松石齋知行、〕今石野新左衞門・別所小三郎の知る所なり〔古は御料所、元祿十一年、石野・別所兩氏に頒ち賜ふと云ふ、〕

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年。室町幕府将軍は第十三代足利義輝・足利義栄(よしひで)・足利義昭。

「十二里」約四十七キロメートル。

「東西十七町餘」東西凡そ二キロメートル。現在の鎌倉市台は北西の柏尾川右岸から南東の山ノ内との境まではまさに二キロメートルある。

「南北六町許」南北凡そ六百五十五メートル。試みに、現在の台の中央部に当たる「台」のバス停付近から山崎小学校裏手の山崎との境までを南北に計測すると六百メートル強ある。

「艮」東北。

「巾二間より四間」道幅三・七メートルから七・二七メートル。

「巾六尺」道幅一・八メートル。これが現行の鎌倉街道であるが、こちらは意外なことに異様に狭いことが判る。

「貞享元年」一六八四年。江戸幕府第五代徳川綱吉の治世。

「國領半兵衞重次」山崎村で既注。当時、藤沢宿代官。

「慶安」一六四八年から一六五一年。第三代将軍徳川家光と第四代家綱の頃。

「成瀨五左衞門重治」やはり山崎村で既注。藤沢宿代官。

「松石齋」不詳。

「松田助六郎」天正十八年は一五九〇年。既に述べた通り、「北條役帳」は「小田原衆所領役帳」のことと思われ、北条氏康が作らせた一族家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳で、後北条氏が永正一七(一五二〇)年から弘治元(一五五五)年にかけて領国内(ここ一帯も北条領であった)に於いて数度の検地を実施し、それに基づいて分限帳が作成されたものと考えられている。ブログ「歴探」の「天正十八北条氏直、松田助六郎に、討死した父右兵衛大夫の名跡を継がせる」に同姓同名の人物が出るが、天正十八年は一五九〇年で時代が合わないから違う。

「關彌次郎」不詳乍ら、本「新編相模国風土記稿」巻之四十六の「村里部 大住郡」の巻之五の「新土村」の項に、

   *

北條氏の頃は關彌次郎知行せり〔役帳曰、【役帳】曰、關彌次郎廿五貫四百文、中郡新土・今里此内十七貫百文、癸卯増分 按ずるに、癸卯は天文十二年なり〕

   *

と出、天文十二年は一五四三年であり、この人物と同一人かと思われる。

「石野新左衞門」不詳。

「別所小三郎」不詳。上記の石野ともに「今」とあるから、幕末の人間でなくてはならない。前者の名前は二件の幕末の古文書目録に見出せるが、同一人物かはどうかは不明。

「元祿十一年」一六九八年。]

 

○高札場二

 

〇小名 △市場〔毎月五日・十日、此所に市立て、諸物を交易す、右は紅花のみを鬻ぎしとなり、按ずるに、足柄下郡板橋村、舊家藤兵衞の家藏、天正十四年十二月、江雪の奉書に、市場新宿と見えしは、此地なるべし、この文書は、藍瓶役の税錢不納により、其村々に課する所にて、地名の次第、原宿、市場新宿粟船とあり共に近隣の地名なり、〕

[やぶちゃん注:「市場」「かまくら子ども風土記」(第十三版・平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会発行・鎌倉市教育センター編集)によれば、現在もこの「市場」という地名が残り、の「市場公会堂」が建つ。そこは『「北鎌倉駅」から山ノ内通りを大船方面に向かって』七百メートルほど『行ったところで』、紅花以外にも『武将の使う優れた馬の市が立つこともあったといわれてい』るとある。因みに、この「かまくら子ども風土記」シリーズは何冊も持っているが、ジャリ版などと侮ってはいけない。「鎌倉市史」に書かれていない事柄が、より最新の知見で書かれているからである。古い版などは私の小学校時代の担任だった先生の名がずらりと並ぶ。

「右は」前に「諸物を交易す」とあるのと矛盾する。これは「古は」(いにしへは)の誤植ではあるまいか?

「紅花」は紅色の染料の原材料となるキク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius である。

「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋地区。箱根登山鉄道「箱根板橋駅」周辺で、早川に面し、旧東海道も通る。

「天正十四年」一五八六年。

「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。「役」とは後の税金未納からは染色職人の元締め役を指すか。

「粟船」現在の大船の古称である。]

 

○戸ヶ崎山 隣村山崎村天神山に相對す〔登一町許〕

[やぶちゃん注:現在の「水道山」(台四の附近)のこと。この山の西斜面からは縄文中期から古墳時代後期に至る住居跡が発見されているが、現在は宅地化されてしまった。

「一町」一〇九メートル。]

 

○戸部川 西界を流る〔巾十二間〕橋を架す、戸部橋と唱ふ〔長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、〕東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ〔幅一間より三間に至る〕西方にて此川に注ぐ、

[やぶちゃん注:柏尾川の別称。既注。

「十二間」二十一・八メートル。氾濫原を含めた川幅であることが次の戸部橋の長さから判る。

「八間餘」十四・五メートル。

「東隣山之内村より來たる一流」鎌倉市山之内西瓜ケ谷附近の住宅地を水源とする小袋谷川(こぶくろやがわ)。戸部橋の直近で柏尾川に合流する。

「幅一間より三間」現在の北鎌倉駅付近で一・八メートル、柏尾川との合流地点で凡そ五・五メートルの謂いで、現在の小袋谷川とほぼ一致するように思われる。]

 

○稻荷社 山神・山王を合祀す、村持下同、

[やぶちゃん注:現在の台の南の、山崎との境界に近い山腹にある。現在は稲荷神のみを祀っている。]

 

〇八幡宮 神明・春日を合祀す、以上二社共に村の鎭神とす、

[やぶちゃん注:これは現在の神奈川県鎌倉市台二〇四四(台地区は横須賀線の東北側に張り出しているが、その線路を渡った向こう側の山ノ内との境にある通称を「小八幡さま」「小八神社」とする八幡神社である。神奈川神社庁公式サイト内のこちらによれば、『元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉、小坂郷台村を石野、別所両人に領ち賜う。別所氏の領地は藤沢、鎌倉間。及び戸塚、鎌倉間の要路に当れるを以て、毎月五、十日の両日に市を立て諸物を売買交易し漸時股賑を来たし、小名を市場と称するに至りき、ここに領主別所氏享保二〇年(一七三五)八月十一日を吉日と撰び、字亀井なる高地を神地と定め平素敦く尊信せし石清水八幡宮を勧請し鎮守とす。「相模風土記」に「稲荷社、八幡宮二社ともに村の鎮守とす。とあるは当八幡神社を言えるなり」とある。又「神明、春日を合祀す」とも記されている』。『社殿は関東大震災で全潰し、大正十五年十二月十日、再建し現在に至る』とある。前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、先の市場(直近にあった)の鎮守であったとある。]

 

○神明宮

[やぶちゃん注:現在の台四にある通称「台のお宮さん」「お伊勢さん」と呼ばれる神明神社。前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、戦国時代の元亀年間(一五七〇~一五七三年)に山ノ内で疫病が流行した際、村人が伊勢神宮にお参りして天照大神を移し、疫病退散を祈念したと伝え(別伝承もあり)、旧社殿は慶安元(一六四八)年に火災で焼失、その後承応三(一六四五)年に再建され、嘉永七(一八五四)年に改築されたものとある。]

 

○諏訪社

[やぶちゃん注:岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」のによれば、前の神明宮に合祀されたとある。]

 

○第六天社

[やぶちゃん注:同じく前注のサイト記事に、やはり前の神明宮に合祀されたとある。]

 

○東溪院 德藏山と號す、臨濟宗〔足柄下郡湯元村早雲寺末、〕彌陀を本尊とす、

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、延宝八(一六八〇)年に豊後の岡藩第三代藩主中川久清(ひさきよ 慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)に娘の供養のために建てた位牌堂であったが、明治八(一六八〇)年に廃絶されたとある。現在の山ノ内にある光照寺(優れた板碑があり、近年は隠れたあじさい寺なんどとも呼ばれる)の山門はこの寺のそれを移して建てたとも伝えられ、この寺の本尊であった釈迦如来坐像も光照寺にあると記す。]

 

○觀音堂 正觀音を安ず、村持下同、

[やぶちゃん注:前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、先に出た「小八幡さま」に登る石段の左側崖下に聖観音を祀ったお堂があり、地蔵菩薩も安置されていたが、藁葺の古い建物で台地区の所有となっていたが、昭和四〇(一九五五)年頃に壊されたとある。]

 

○菴 龜井堂と呼ぶ、彌陀を置、

[やぶちゃん注:現存しない。「鎌倉廃寺事典」の「その他」に、ただ『亀井堂 台、村持。本尊阿弥陀』一行あるのみで、現在の例えばサイト「いざ鎌倉」の「鎌倉郡三十三箇所」にある鎌倉三十三観音霊場には第十三番に「亀井堂」とあるが、そこには所在地が「鎌倉市台(市場公会堂)」となっている。この「龜井堂」には観音菩薩像もあり、それが今、市場公会堂に安置されているということになるようだが、本当にそうだろうか? 寧ろ、前の「觀音堂」の観音像がここに置かれていると考えるのが自然だと思うのであるが?]

 

○地藏堂

[やぶちゃん注:恐らくはこれも現存しない。前掲の「かまくら子ども風土記」にある『台地蔵堂跡(公会堂)』というのがそれであろう。『室町時代の作と見られる地蔵菩薩像が』二体あり、一体は高さ六十八センチメートル、今一体は約三十四センチメートルのもので『現在は鎌倉国宝館に保管されて』おり、現在、この場所は『台公会堂になってい』る(前に出た市場公会堂とは別で、横須賀線(市場公会堂直近)を挟んで南西四百二十メートルの位置にある)とある。]

 

○塚三 熊野塚〔東北陸田間にあり上に松樹生ず〕富士山〔西北山上にあり、〕平塚〔村西にあり、何れも小塚なり、〕と唱ふ

[やぶちゃん注:孰れも不詳で現存しないと思われる。この内、「熊野塚」なるものは「東北陸田間にあり」とあることから、台地区の形状から見て、所謂、現在の小袋谷踏切の東北に張り出す部分、今の「台亀井公園」周辺のどこかとは推理し得る。また「富士山」は「西北山上」とあるのが、現在の地名である「富士見町」と方向も合致するので、この附近のピークかとは推測出来る。或いは、土地の人々が本物の富士の見えるそこに、富士講でミニチュアを作ったものかも知れない。]

芥川龍之介手帳 1―10

《1-10》

 

〇屋上の鷄 鵜船 渡船 牛車(俵をつむ 乞食 屋上の石 山法師 路傍の卒都婆塚 橋下の童子 釣す 洗馬(三人の下人)

○布すだれ 井戸 大刀持 うつぼ 鎧函持 主人 □の下人

[やぶちゃん注:旧全集は判読不能字を含む最後の箇所を「長の下人」とする。「長」ならば村長(むらおさ)などの「をさ(おさ)」であろう。前の「主人」と同一人か。]

○鼻ををたつる人 薪をつむ馬 柳 千鳥 鳥居

○兩がはの人 扇の間より見る人 棧じきに傘さして見る人 下人のさし傘 手に下駄をはくいざり

[やぶちゃん注:旧全集は「棧しき」と濁点がなく、「いざり」は「ゐざり」である。後者は正しい歴史的仮名遣に旧全集編者が訂した可能性が高い。「ゐざり」は足腰が立たない障碍者に対する差別語で、座ったままで尻を下につけたまま、或は、膝頭で進む動作を指すラ行四段活用の自動詞「躄(ゐざ)る」の連用形が名詞化したもの。そうした者で行乞(ぎょうこつ)する者を躄乞食(ゐざりこじき)などと蔑称した。「手に下駄を」履くというのは強烈なリアリズムである。]

○土まんぢうに卒都婆四本

     {岸に一人

○筏びき舟{水に三人

     {はなれて新に一人

[やぶちゃん注:旧全集は「筏ひき舟」と濁点がない。底本では三箇所の「{」は三行に亙る大きな一つの「{」。「筏びき舟」とは引き綱をつけて筏(いかだ)を曳航していく舟。ここに出るように、曳航する舟の引く力が弱かったり、遡上する場合は、岸や河原にあって人力による牽引も合わせて行うのは普通であった。]

○エボシがさ 4艘つなぐ

[やぶちゃん注:意味不詳。烏帽子を四つ合わせて傘に仕立てたものか。「艘」は中・小型の船を数える数詞であるが、烏帽子の形状は船形と言え、烏帽子の数詞に用いるのは如何にも腑には落ちる。]

○窓にひさし戸 下はあじろ 築地の門

[やぶちゃん注:「あじろ」網代。ここでは檜(ひのき)のへぎ板・竹・葦(あし)などを斜め或いは縦横に組んだ垣根を指す。「築地」は「ついぢ(ついじ)」で、「築泥(つきひじ)」の転訛。土を搗き固めて造った土塀、高級なものは瓦などで屋根を葺いてある。新全集にある以下の挿絵から見ると、後者である。]

Tuiji

[やぶちゃん注:新全集にのみにある手書の挿絵。勝手口が描かれてある。]

○およく子兒 田中のかかし 米俵をつけた牛 大きな扇

[やぶちゃん注:旧全集は「およぐ子兒」で意味は通ずる。]

○井戸にふたあり 俵をつむ牛

[やぶちゃん注:以上は、前の《1-9》の続きとすれば、王朝物というより、鎌倉末期(高時の名が出ている)の設定の幻の作品のスケッチの可能性もある。ロケーションからは京のように思われる。]

第一版新迷怪国語辞典 大分(おおいた)

大分(おおいた)

我々が「小学校卒業までに日本の四十七都道府県の名前と位置を身につけることが大切である」という「学習指導要領の目標」によって、何の疑念もなく「おおいた」と訓じている日本国の県名及び同県中央部の県庁所在地の地名及び市名。旧豊前(ぶぜんの)国の一部と旧豊後(ぶんごの)国に相当する。しかし「分」の音は「ブン・フン・ブ」、訓は「わける・わかれる・[国訓]わかる(認識するの意)」であって、「いた」という読みは存在しない。それを一切かっとばして「おおいた」と読むことを不思議に殆んどの日本人が無批判に「おおいた」という難読を受容している不思議な地名である。ウィキ大分の「名称」によれば、『現在の大分県の名は、古来国府が置かれていた大分郡(おおきたのこほり)に由来する。「おおいた」という読みは、「おおきた」が転訛したものである』。『さらに、大分郡の名の由来については、『豊後国風土記』によると、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされている。しかし、大分平野は広大とは言えないため、実際には、狭くて入り組んだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとするのが最近の定説である』とあり、「おおいた」の語源である「おおきた」自体の意味は必ずしも自明とは言えない点でやはり我々が何の気なしに「おおいた」と読んでいるそれは、謎を秘めた地名であることに変わりはないのであるが、しかも日常に於いてそれを気に止める日本人は頗る少ないという、摩訶不思議な地名である。

柳田國男 蝸牛考 初版(14) 單純から複雜へ

       單純から複雜へ

 

 加太豆不利のもとカサツブラから轉靴したことが、かりに辯護の餘地なしと決しても、兎に角にそれが久しい期間、京都の唯一つの用語であつたことは事實である。然るに今日となつては前に示した如く、僅かに記錄と擬古文とに其痕跡を留むる外、全く邊隅に押し遣られて、後に出現した二通りの新語の外側に散點して殘るに過ぎぬといふことは、頗る自分などの主張せんとする方言周圈説を、裏書するに足ると思ふ。而うして此等新舊二名稱の交渉が、必ずしも爭鬪排他を以て終始しなかつたことは、既に澤山の實例があつたのである。即ち少なくとも領分の境堺近くだけでは、幾つかの異名は稍暫らくの間竝び行はれ、徐々に其中の一つが重きを爲す場合もあれば、或は又二つの語が程よく結合せられて、歌になつたり長たらしい語になつて殘らうとした。その目前の例はデンデンムシムシカタツムリもそれであり、又標準語のマイマイツブロも、一つの顯著なる複稱であつたことは、單獨にマイマイとのみ呼ばれる土地が、相應に弘いのを見てもわかる。さうすれば玆にツブロといふ一語が、既に其以前に實在し、それが又倭名鈔の加太豆不利よりも、今一段と古いものであつたことは、大よそ推定して差支へ無いわけである。カタツブリがマイマイ又はデエデエの新たなる波に押遣られて、外の波紋となつて遠く出たことが確かならば、そのツブロも亦同じやうに、どこかの一隅に行つて殘つて居てよいのであるが、果してどの程度にまで我々はその形跡を認めることが出來るだらうか。

[やぶちゃん注:「デエデエ」改訂版では「デェデェ」。]

 

 現在の方言分布に於ても、蝸牛を單にツブロと呼んで居る地方は、搜してみるとまだ決して希有ではない。宇都宮附近の或村にツーボロカイボロといふ童唄があるのは、越中下新川郡の海近くに、ツドロガエドロといふ名前があると同じく、あるいは口拍子の無意識なる變化とも見られるが、岐阜縣では武儀郡洲原村附近にツンブリといふ語が今もあり、その隣の山縣郡などでツンツンと謂つて居るのも、或は「つのつの」の歌がこれを誘ひ出したにしても、是と全く關係無しとは見られぬのである。丹波の福知山の如き京都に近い土地にも、やはりツンブリといふ蝸牛の異名がある。伊豫の吉田町はカタトの領域ではあるが、一種食用に供せられる蝸牛だけを、シマツブリと呼んで居たさうである。それから更に些少の變化を經た九州各地のツグラメ、及び是と同じであつたことが證明し得られる、奧州のクマグラなどを加算するならば、ツブラの領分はやゝ中央から遠いといふのみで、却つてその總面積に於てマイマイを凌駕するかとも思はれるのである。

[やぶちゃん注:「下新川郡」は富山県の郡で、当時は現在含まれている入善町(にゅうぜんまち)と朝日町(あさひまち)以外に、魚津市と黒部市を含んだ広域であった。

「武儀郡洲原村」「むぎぐんすはらむら」と読む。現在の岐阜県美濃市の北東部の長良川沿いにあった村。

「山縣郡」武儀郡(東西に分かれて飛び地状であった西側の板取(いたどり)村・洞戸(ほらど)村・武芸川町(むげがわちょう))の西に接していた。現在は岐阜県山県市。

「伊豫の吉田町」愛媛県の南予地方、宇和島の北方海岸域にあった町。現在は宇和島市の一部。

「一種食用に供せられる蝸牛」ウィキの「カタツムリ」によれば、『日本でもカタツムリを食べる文化は古くからある。例えば飛騨地方ではクチベニマイマイ』(腹足綱有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科マイマイ属クチベニマイマイ Euhadra amaliae:殻口が赤く、近畿地方・中部地方西部・伊豆諸島に分布する。参照したウィキの「クチベニマイマイ」によれば、『嘗て岐阜県飛騨地方の養蚕農家では、本種の殻を割り、肉に塩を振ってクワの葉に包み、囲炉裏に埋めて焼いたものを子供のおやつにしていた。また本種は湿度が上がると活動が活発になるため、クワの木に登っていると雨が近いとしてクワの葉の取り入れを行うなど天気予報にも活用していた』とある)『が子供のおやつとして焼いて食べられていた』。他にも『喉や喘息の薬になると信じられ、殻を割って生食することも昭和時代まで一部で行われていた(後述にもあるがカタツムリは寄生虫の宿主であることが多く、衛生的に養殖された物を除き生食する行為は危険である)。また殻ごと黒焼きにしたものも民間薬として使用され』、二十一世紀初頭でも『黒焼き専門店などで焼いたままのものや粉末にしたものなどが販売されている』。但し、『種類にもよるがカタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は広東住血線虫などの寄生虫を持っていることがままあり、触れた後にしっかり石鹸や洗剤で手や触れた部分を洗わなければ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部などの各粘膜及び傷口から感染する恐れがある。また、体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると、中枢神経系で生育しようとするために眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多いので、罹患者は死亡または重い障害が残るに至る可能性が大きい。これら線虫類をはじめ寄生虫の多くは乾燥にも脆弱なので、洗浄後は手や触れた部位の皮膚をしっかりと乾燥させることも確実な罹患予防に繋がる』とある。但し、ここに出る「シマツブリ」の種は同定出来なかった。非常に興味がある。識者の御教授を乞うものである。]

 

 しかし私はその詳細に入つて行く前に、今少しく蝸牛をツブロ又はツブリと謂ふことの、至つて自然であつたわけを述べて見たい。人が最初に此語によつて聯想するのは、圓といふ漢字を日本語のツブラに宛てたことで、なるほどあの蟲の貝も圓いからと、單簡に片付けてしまふ人もないとは言はれぬが、二者の因緣は決してそれだけには止まらぬのであつた。紡績具の錘を北國の田舍などでツンボリと謂ふのは、或は圓いといふ形容詞からこしらへた語とも考へられようが、全體から言つて圓さといふ通念が、個々の圓い物よりも早くから名を持つて居た筈は無い。さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例があるのである。最も有りふれて居るのは人間の頭をオツムリといふこと、元はあんまり上品な語とも認められなかつたかも知れぬが、それでもさう新しい變化では無かつたと見えて、沖繩の群島でも北は大島に始まり、南は八重山の端の島に至るまで、ほとんど一樣に頭をツブリ・チブル又はツブルと呼んでいる。歐羅巴の諸國にも例のあることだといふが、日本でもこれは瓢の名から出た一種の隱語若くは異名の如きものであつたらしい。南の島々でも八重山と道の島の兩端では、夕顏をツブルと謂ひ、また時としてはマツブルとも謂ふから、知りつゝこの二つの物に同じ名を付與して居た時代はあつたのである。

[やぶちゃん注:「錘」「つむ」。既出既注。

「さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例がある。」の最後の箇所は、改訂版では『実例があって、いずれも一定の約束をもつているのである。』(ここはそのまま引いた)という挿入句が入っている。

「大島」南西諸島の中北部に位置する奄美群島最北の奄美大島のこと。実際に単に「大島」とも呼ぶ。現在の鹿児島県奄美市及び大島郡の龍郷町(たつごうちょう)・大和村(やまとそん)・宇検村(うけんそん)・瀬戸内町(ちょう)の一部(同町は奄美大島最南西端地域の他に加計呂麻島(かけろま)・与路(よろ)島・請(うけ)島などの有人島を町域とするため)からなる。

「ツブリ・チブル又はツブル」ここは底本では実は「ツブル・チブル又はツブル」と「ツブル」が二度出てしまっている。改訂版は最初が「ツブリ」で問題がない。特異的に本文を改訂版で訂して示した。因みに、ウルトラセブン』の第九話「アンドロイド0(ゼロ)指令」に登場する頭でっかちの(というか頭しかない)宇宙人チブル星人の名前のルーツである。脚本の上原正三は沖繩出身である(私は特撮オタクである)。

「歐羅巴の諸國にも例のあることだといふ」これは如何なる具体なものなのかは不明。全くの相同例で、「頭」に相当する単語が「瓢簞(ひょうたん)」を語源とする例なのか(但し、調べてみたがそのような例は発見出来なかった)、別なケースの酷似した例(但し、その場合よっぽど似ているものでないと対照例にならない)というのか? 識者の御教授を乞う。因みに、調べている最中に見つけた、富士敬司郎氏のサイト「たまねぎ地獄」のスプーン Spoonは面白く読んだ。必読!

「瓢」老婆心乍ら、「ひさご」と読む。瓢簞のこと。

「八重山の端の島」「端の島」は単なる一般表現で島の固有名ではない。八重山列島の「端(はし)」となれば最西端の有人島となれば、与那国島(現在の沖縄県八重山郡与那国町)しかない。]

 

 瓢簞は又佐渡の島に於てもツブルであつた。昔の水を汲む器は主として是であつから、今日の所謂釣瓶のツルべを、ツブレと發音する者を嘲笑することは、恥をかくまいと思へばもう暫らくの間見合さなければならぬ。「へ」といふ言葉は大抵は竈に屬して居る。ツルベといふ名稱こそ實はよほど恠しいので、事によると是も一つの「ツブラなる物」であつたかも知れぬ。ヒヨウタンはとにかくに日本語では無かつた。奧州は今でも一般に之をツボケと謂つて居る。ケとカイとコとの區別異同は玆で論じないが、とにかくに三つながら物を容れる器の總名であつた。そうすると土でこしらえた器をツボ、及び土器の製作者を鹿兒島縣などでツボ屋といふのも、共にこの北日本のツボケといふ語と、何等かの聯絡のあつたことが察せられるのである。

[やぶちゃん注:『「へ」』底本には実は鍵括弧は附されていない。読みにくいので私は挿入した。

「竈」老婆心乍ら、「かまど」と読む。

「ツルベといふ名稱こそ實はよほど恠しいので」老婆心乍ら、「恠しい」は「あやしい」と読む。この箇所は改訂版では『ツルベに釣瓶の文字を宛てた知識こそ實はよほど恠しいので』となっている。

「ヨウタンはとにかくに日本語では無かつた」「瓢簞」は現代中国語では「葫芦」で“húlu” (hu2 lu)「フゥールゥー」で表記も音も異なる。しかし、「瓢」は中国でも「ひさご。ふくべ。ひょうたん」の意で、それで作った飲み物を入れるための器(椀或いは柄杓やスプーン様のもの)、「簞」は竹を編んで作った小さな箱や飯櫃・破(わ)り籠(ご)の謂いで、「瓢簞」とは粗末な食器やそれを用いるような質素な食生活或いは衣食住の環境を指す。個人ブログ「ぱちくんとひょうたん」の「ひょうたんの語源の由来は逆だった!?」に、『全日本愛瓢会の湯浅浩史相談役によると、ひょうたんの名は誤解から生まれたそうだ。孔子の愛弟子、顔回(がんかい)は清貧で一汁一菜のような生活を送っていた。そのため食器は汁を入れる瓢(ひょう)とごはんを入れる箪(薄く削った竹を編んだ器)しか持っていない。それを孔子は「一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん」と論語で述べている。後にそれが「箪瓢」になり、平安時代にいつの間にか逆に「瓢箪」と取り違えて解釈してしまったという』とある。これは「論語」の「雍也第六」に出る以下に基づく。

   *

子曰、「賢哉囘也。一簞食。一瓢飮。在陋巷。人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉囘也。

子曰く、「賢なるかな、囘(くわい)や。一簞(いつたん)の食(し)、一瓢(いつへう)の飮(いん)、陋巷(らうかう)に在り。人は其の憂ひに堪えず。囘や、其の樂しみを改めず。賢なるかな、囘や。」と。

   *]

 

 蓋し轆轤といふものゝ使用をまだ知らなかつた時代の人が、土器をツブラする術は渦卷より他には無かつた。即ちツブラといふのは單に蝸牛の貝の如く圓い物といふだけでは無く、同時にまた粘土の太い緒をぐるぐると卷き上げること、恰もかの蟲の貝の構造の如くにしなければならなかつたのである。ツボといふ語がもとツブラといふ語と一つであつたことは、現に地中から出て來る一片の壺のかけを、檢査して見たゞけでもわかることであるが、この上代の製作技術の、今日まで其儘に保存せられて居るのがツグラであつた。ツグラは東北などではイヅメと謂い、またイヅコと謂つて居る。東京では單にオハチイレなどと稱して、今はたゞ冬の日の飯を冷さぬ爲に使用するのみであるが、甲信野越の國々を始めとして、ほとんど日本の田舍の半分以上に於ては、米の飯よりも尚何層倍か大切なもの、即ち人間の幼兒を此中に入れて置いたのである。日本國民の最も強健朴直なるものは、いつの世からとも無く、皆このツグラの中に於て成長したのであつた。それを作るの法は至つて簡單で、何れも破壞以前の陶作りと同樣に、藁の太い繩を螺旋狀に卷き上げて、中うつろなる圓筒形を作るのが即ちツグラであつた。續群書類從に採輯せられ師説自見集には、

   山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば

     ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。五音歟

とも見えている。其ワラウダなるものの製法も略同じで、是も亦昔の日本人の家居生活に、缺くべからざるものであつた。一たび斯ういふ工作の順序を熟視した者ならば、我々の祖先が蝸牛をマイマイと呼び、又はカサパチと名けた以前に、之をツグラまたはツブラと名づけずに居られなかつた事情を、解するに苦しまなかつたことゝ思ふ。土器の工藝に大なる進歩があつて、忽ち是等の語は相互の脈絡を絶ち、個々獨立の符號の如くなつてしまつたけれども、幸ひに其痕跡だけはまだ方々に殘つて居る。たとへば東京などでは、藁のツグラをもう忘れてしまつた人々が、「蛇がトグロを卷く」といふ言葉だけは常に使つて居る。蛇の蟠まつて丸くなつて居ることを、肥前の平戸あたりではツグラ、佐渡の島でもツグラカクと謂つて居た。尾張の戸崎ではワヅクナルといふ。ワダカマルといふ動詞もウヅクマルといふ動詞も、中間にツクネル・ツクナルなどといふ俗言を置いて考へて見ると、やはり此のツグラに關係があつたのである。蛇のトグロを私たちの故郷では、普通には蛇のコシキと謂つて居り、壹岐の島ではコーラキと謂つて居る。豐前の小倉ではサラを卷くと謂ひ、越中でも富山近在ではサラになると謂ふ外に、一方頭の髮の旋毛もサラであつた。他の地方では河童だけにしかサラという語は使はなくなつたが、サラも元はやはり毛の渦を卷いた部分のことであつた。皿も甑も共にその製法が元は圓座などと同一であつたことが、此等の名稱の共通なる原因と見るの外は無いのである。淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ちこれをツブラと謂つて居るのである。

[やぶちゃん注:「轆轤」老婆心乍ら、「ろくろ」と読む。

「甲信野越」「こうしんやゑつ(こうしんやえつ)」で、甲信越は「甲斐」(山梨県)・「信濃」(長野県)・「越後」(新潟県)だから、「野」は「上野」(群馬県)・「下野」(栃木県)を含むということであろう。

「師説自見集」読みは「しせつじけんしふ(しせつじけんしゅう)」。南北朝から室町前期にかけての武将で歌学者今川了俊(正中三・嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年)。名は貞世。伊予守。遠江守護。足利義詮に仕えて幕府の引付頭人(ひきつけとうにん)を経、応安四(一三七一)年に九州探題となり、九州の南朝方を制圧したが、後に足利氏満との共謀の疑いをかけられて引退した。和歌・連歌に優れた。著作として知られるものに「難太平記」がある)の著した歌論と歌語の注解及び考証を中心とする歌学書。

「山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば/ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。」一首は作者不詳。「わらうだか」の「か」は疑問の終助詞で「わうらだ」は後注の「圓座」を参照。

「五音歟」改訂版のルビに「ごいんか」とある。不詳。もしかするとこれは「師説自見集」の項の「五」の「音歟」で、「歟」は疑問詞であり、前の歌の添書を見ると、語句(語音)の不審を並べたものを指すか。

「蟠まつて」老婆心乍ら、「わだかまつて(わだかまって)」と読む。

「私たちの故郷」前にも述べたが柳田の郷里は現在の兵庫県南西部の旧中播磨の神崎郡福崎町の生まれであった。

「コシキ」後で出る「甑」のことであろう。弥生時代以降に米・豆等を蒸すのに用いた道具で、底に数個の湯気を通す小穴を開けた深鉢形をした土製の調理具である。湯釜の上に載せて用い、奈良期になると木製のものも現れた。後には皆、円形や方形をした木製の蒸籠(せいろう)にとって代わられた。

「圓座」これは「わらふだ(わろうだ)」と読んでおく(改訂版も「わろうだ」とルビを振るからである)。「藁蓋」とも書き、この「藁蓋(わらふた)」の音が転訛したものである。藁・菅(すげ)・藺(い)などで紐を編んでそれを渦巻状に組んだ敷物。「ゑんざ(えんざ)」も同一のものを指しはする。

「淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ちこれをツブラと謂つて居るのである。」後ろの一文は「淵の渦卷をサラといふ例」としか読めないのであるが? 不審。改訂版でも全く変わっていない。大不審。]

 

 それから尚一つ、衣服の重なり合つて膨らかになつた部分を、フトコロと謂つて居るのも關係があるかと思はれる。九州でも平戸などでは、蛇のツグラに對して此方をフツクラと謂ふが、それから南の方の肥前肥後の各地では、單にツクラと謂へばそれは懷中のことである。但し此ツクラのクは常に澄んで居るやうだが、是も衣類をツブラに卷く故に、さういふ言葉ができたものと見なければ、ツグラの起りは解説のしやうは有るまい。それとよく似た例は昔の男の坐り方、現在の標準語でアグラカクといふ語の地方的變化である。是は後に出て來るタマグラの條下に、もう一度説かねばならぬから簡單に述べて置くが、大體に相近き三つの言ひ方が用ゐられて居る。西京の附近では大和から紀州にかけて、ウタグラ・オタグラカクなどといふのが多いから、或は歌座であらうと獨斷して居る者もあるらしいが、それは少しも理由の無い當て推量である。九州の北部では概してイタグラメ、近江の彦根邊ではイタビラカクと動詞に使ひ、關東ではやゝ弘くビタグラあるいはビツタラなどともいふから、是は「坐」を意味するヰルといふ語の名詞形に、タグラの附加したものと解せられる。豐前小倉ではアビタラクムと謂つて居るのは、更にその上へ脚の語を附けたものであらう。實際胡坐蹲居は足を以てツグラを作ることであつた。それ故に人が樂々と尻を据ゑて居ることを戲れにトグロを卷いて居るなどといふ者もあるので、東京で「どうかおたいらに」などゝいふ辭令も、近畿地方のオタグラといふ語と比べて見て、始めて元の意味が察せられるわけである。伊豆の賀茂郡で之をアヅクラと謂ふなどは、明白に箕坐が足のツグラなることを示して居る。遠江は各郡ともに之をアヅクミ、信州でも上伊那郡までは同じ語がある。所謂飯櫃入れのイヂメ・イヅミ等は、或は「飯詰め」の義であり、イヅコは即ちその東北風の變化の如く思つて居る人があるかも知れぬが、是も亦確かならぬ想像であつて、現に近江の神崎郡などにも、藁で製した此類の畚をイヂコとも謂へば亦ツンダメと謂ひ、信州の東筑摩郡などでは、同じ樣な藁製の容器でも、落葉などを入れる粗造のものをイヂツコと謂つて、嬰兒を入れる方のみをイヅミキと謂つて居た。即ち此方は餘程胡坐のアヅクミに近くなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「ウタグラ」小学館「日本国語大辞典」に「うたぐら」を見出しとして出して名詞で方言とし、「あぐら」とある。採集地は三重県南牟婁郡・奈良県・和歌山県南部とある。柳田の「大和から紀州にかけて」という分布と一致している。

「歌座」「うたぐら」と読ませるようであるが、これは本来は神楽歌、神に捧げる歌舞を歌い舞う神社などの神殿の舞殿の座の謂いであろう。それともただの歌会ということか。識者の御教授を乞う。

「ビツタラ」改訂版は『ビッタラ』(そのまま示した)。

「胡坐」老婆心乍ら、「あぐら」と読む。

「蹲居」蹲踞(そんきょ)に同じい。原義は「蹲(うずくま)ること」で、相撲や剣道に於いて爪先立ちで深く腰を下ろして膝を十分に開き、上体を正して重心を安定させる坐姿勢を、また、貴人の通行する際に両膝を折って蹲り頭を垂れて行なった礼式及び後に貴人の面前を通る折りに膝と手とを座につけ、会釈する礼をも指す。

「賀茂郡」現存するが、当時の広義の静岡県賀茂郡は伊豆半島先端から東伊豆の中部附近までを含んでいた。

「上伊那郡」「かみいなぐん」と読む。現存するが、当時は長野県南部東側の広域を指した。ウィキ上伊那郡によれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は』、現在の辰野町(たつのまち)・箕輪(みのわ)町・飯島町・南箕輪村・中川村・宮田(みやだ)村に『伊那市、駒ヶ根市および下伊那郡松川町の一部(上片桐)を加えた区域にあたる。現在でも「上伊那地域(地区)」と総称される場合、伊那市、駒ヶ根市を含むこともある』から、この広域で捉えるべきであろう。

「飯櫃入れ」「めしびついれ」。

「神崎郡」「かんざきぐん」と読む。かつて滋賀県にあった郡。当時は鈴鹿山脈から琵琶湖まで愛知川に沿って東西に細長い地域を占めていた。位置は参照したウィキ神崎郡滋賀県で確認されたい。

「畚」「もつこ(もっこ)」と読む。持籠(もちこ)の転訛。繩を網のように四角に編んで、その中央に石や土などを入れ、四隅を纏めるようにして担いで運ぶ道具。

「東筑摩郡」長野県の中央部にある郡。当時は既に現在の広域を占める松本市は離脱している。

「イヂツコ」改訂版は『イジッコ』(そのまま示した)。]

2015/12/30

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (九) まがひ海龜の物語

    九 まがひ海龜の物語

 

[やぶちゃん注:「まがひ海龜」原文“THE MOCK TURTLE”“mock”は形容詞では「偽の、真似事の、紛い(もの)の」の意である。ウィキ不思議の国のアリスのキャラクターの「代用ウミガメ」によれば、これは「代用ウミガメ」という仮想されたウミガメの一種で、『「代用ウミガメスープ」(Mock Turtle Soup)をもじったものである。このスープは緑色をしているウミガメスープの代用品で、ウミガメの代わりに子牛の頭を用いて作られる。つまり「代用のウミガメスープ」から本来存在しない「代用ウミガメ」を創作したのである。テニエルの挿絵ではウミガメに牛の頭、後ろ足、尻尾をつけた姿で描かれるが、この姿はキャロルの友人ダックワースの発案であったという』。『涙もろい代用ウミガメと気さくなグリフォンは、涙もろく情に流されやすいオックスフォード人気質を揶揄したキャラクターである』とある。]

 

「まあ、あなた、お前さんにまた會へて、わたしどんなに嬉しいかお分りないだらうねえ。」と公爵夫人はいつて、アリスの腕をやさしく自分の腕にかかへ込んで、一緒に歩いていきました。

 アリスも夫人がこんなに上機嫌なのを知つて、大變嬉しく思ひました。そして、さつき臺所で會つたとき、あんなに亂暴だつたのは多分胡椒(こせう)のせゐだらうと考へました。

「わたしが公爵夫人になつたらごと、アリスは獨(ひとり)ごとを言ひました。(べつにそれを大變のぞましいやうな、調子でもありませんでしたけれども。)「わたし臺所で胡椒なんか全く使はないことにするわ。スープは胡椒がなくたつてかいしく食べられるんだもの。人を癇癪(かんしやく)持ちにさせるのは、多分胡椒かも知れないわ。」と、アリスは新しい法則を見付けだして、大喜びでいひつづけました。「お酢は人を酸つぱい氣にさせるし……カミツレは、にがにがしい氣にさせるし――有平糖(あるへいたう)やその他の甘いか菓子は、子供の氣持を甘くさせるし。世間の人にこれが分るといいんだけれどな。さうなると誰も氣むづかしくはならないわ――。」

[やぶちゃん注:「カミツレ」加密列(かみつれ)はキク目キク科シカギク属カモミール Matricaria recutita の和名。ウィキの「カモミール」によれば、カモミールの「大地のリンゴ」という意味のギリシア語名のカマイメーロン(chamaímēlon)で、『これは花にリンゴの果実に似た香りがあるためである』とし、和名カミツレは『オランダ語名カーミレ(kamille [kaˑˈmɪlə])の綴り字転写カミッレが語源。旧仮名遣いでは促音の「っ」を大きな「つ」で書いていたためにこのように訛ったものと思われる。また、カミルレとも』言うとある。四千年以上も前の『バビロニアですでに薬草として用いられていたと言われ、ヨーロッパで最も歴史のある民間薬とされている。日本には』十九世紀『初めにオランダから渡来し、その後鳥取や岡山などで栽培が始められた』。カモミールから精製した精油は『安全で効果的なハーブとして、古くからヨーロッパ、アラビアで利用された。中世までは特にフランスなどで』『薬草として用いられ、健胃・発汗・消炎作用があるとして、婦人病などに用いられていた。ハーブ処方の古典、バンクスの本草書には、肝臓の痛み、頭痛、偏頭痛などに効能があり、ワインと共に飲むと良いと書かれている』。『欧州では伝統生薬製剤の欧州指令に従い医薬品ともなっている』。『現在は主に安眠・リラックス作用を目当てに、乾燥花にお湯を注ぎハーブティーとして飲む。複数の似た薬効のハーブをブレンドして飲むこともあり、近年は自家製オリジナルブレンド品を販売する専門店も増えてきており、紅茶葉などとブレンドしたハーブティーも市販されている。こうした飲み方は基本的には漢方薬の煎じたものと同一であり、東西を分けて同じ時代に発展してきたものでもある』。但し、『カモミールはキク科であるため、キク科アレルギーを持つ人には用いない。カモミールティーでアナフィラキシー反応を起こし、死亡した例がある』。『花から水蒸気蒸留法で精油を抽出したものは、抽出が間もないうちは濃紺色をしている。この精油は、濃縮された形のままでは不快な匂いがするが、希釈するとフルーティーで甘いハーブ調の香りがする』。『精油は食品や香水に香料として使われている。アロマテラピーにも用いられるが、学術的研究はほとんどな』いとする。『抗炎症作用を持つと考えられるが、喧伝される精油の薬効の多くは、ハーブとしてのカモミールに伝統的に言われるものである』。『園芸療法で扱われるハーブとしては代表的。カモミールは同じキク科の除虫菊などと同じく、近くに生えている植物を健康にする働きがあるといわれ、コンパニオンプランツとして利用される。たとえば、キャベツやタマネギのそばに植えておくと、害虫予防になり、浸出液を苗木に噴霧すると、立ち枯れ病を防げる。ハーブティーや入浴剤として使用した後の花を土に埋め込めば、カモミールの効果がある土になる』とある。

「有平糖」本邦のそれは、白砂糖と水飴を煮つめて練り棒状としたり、花・鳥・魚など種々の形に作って彩色した砂糖菓子の一種。室町末期にヨーロッパから伝来したもので、現在は主に祝儀・供物用に用いられる。語源としては、ポルトガル語「アルフェロア」(alféloa;糖蜜から作る茶色の棒状菓子)とする説と「アルフェニン」(alfenim:白い砂糖菓子)とする説とがある(語源説はウィキの「有平糖に拠った)。原文は“barley-sugar”で、これは原義は主に英国で用いられる大麦を煮た汁から精製した大麦糖の意であるが、昔はそれを煮つめ、捩子棒(ねじぼう)などの形に透明な飴菓子に作ったことから、専ら、そうした飴のことを指すようである。なお、現行のそれは普通の砂糖を用いる。]

 アリスはこのとき、公爵夫人のことはすつかり忘れてゐたのでした。けれどもアリスの耳許(みみもと)で、夫人の聲が聞えましたので一寸(ちよつと)驚きました。「お前は何(なに)か考へて居るねえ、それでお話をすることを忘れたんだね。わたしは今のところ、それの訓(をしへ)か何であるか分らないけれど、今に、直(ぢ)き思ひだせるよ。」

「多分訓(をしへ)なんかないことよ。」とアリスは勇氣をだしていひました。

「しつ、しつ。」と公爵夫人は言ひました。「何にだつて訓(をしへ)はあるもんだよ。見つけさへすれば。」さういつて夫人は、アリスの側(そば)に身をピツタリと寄せつけました。

 アリスは夫人が側にピツタリ寄りそうて居るのが、あまり氣に入りませんでした。第一に公爵夫人は大變醜い顏をしてゐましたし、第二に夫人の背(せい)はアリスの肩位(ぐらゐ)しかありませんでしたので、氣味わるいほど尖(とんが)つて居る顎(あご)をアリスの肩にのせて居たからでした。けれどもアリスは失禮な事を云ひたくありませんでしたから、できるだけ我慢しました。

「勝負は今のところ、うまくいつて居るらしい樣子ですねえ。」と、アリスは少し話をつづけて行くつもりでいひました。

「さうだよ。」と公爵夫人はいひました。「そして、それの訓(をしへ)といふのは――世界を廻轉せしめるものは愛である、愛である。――といふのだ。」

「ある人は、かういふのを言つてよ。」とアリスは低聲(こごゑ)でいひました。「めいめいが自分の仕事に氣をつけてゐれば、何でもできる。――つていふの。」

「ああ、さうだよ、これはそつくり同じだ。」と公爵夫人は尖つた小さい顎でアリスの肩をつつきなから言ひました。「そしてそれの訓(をしへ)といふのは――『感(かん)を氣をつけなさい。すると音(おと)は、それ自(みづか)ら注意を集める』といふのだよ。

[やぶちゃん注:「感(かん)を氣をつけなさい」というのは意味不明である。原文の教え全体は“Take care of the sense, and the sounds will take care of themselves.”である。訳者は「感じ」「感覚」の意で用いているようだ。これもキャロルの言葉遊びであろうから多重的な「意味」が隠されていると考えるなら、この“sense”は後の“the sounds”に対するものであることは明確だから、これは文字の「発音」に対するところの、その文字列の示す「意味」の謂いではなかろうか? 福島正実氏はここを『意味に気をつけよ、さすれば音は自ずからきまる』と訳しておられ、すこぶる腑に落ちる。]

「この方はいろんなものに、訓(をしへ)を見つけだすことが隨分好きなのねえ。」とアリスは獨(ひとり)で考へました。

「何故(なぜ)わたしが、お前の腰のぐるりに手をかけないのか、不思議だらう。」と公爵夫人は一寸間を置いていひました。「その理由といふのはねえ、わたしはお前の紅鶴(べにづる)の氣質が疑はれるんだよ。ひとつ手をかけて見ようかな。」

[やぶちゃん注:「紅鶴」既注通り、そのまま「フラミンゴ」の方が今や、分かりがいい。]

 

「かみつくかも知れませんわよ。」とアリスは叮嚀にいひました。そして試してもらふ事を、餘り氣にもかけませんでした。

[やぶちゃん注:最後の一文は意味が採りにくい。原文は“Alice cautiously replied, not feeling at all anxious to have the experiment tried.”であるから、これは――アリスは用心深く答えました、だってそんな実験を試してもらうなんて、全く以って願い下げ、だったからです。――という意味であろう。]

「ほんとだ。」と公爵夫人はいひました。「紅鶴も芥子(からし)もかみつくからねえ。そしてそれの訓(をしへ)は―――『同じ羽の鳥は集る(類は類をもつて集る)――といふんだよ。」

「でも芥子(からし)は鳥でないわ。」とアリスが言ひました。

「その通りだ。」と公言夫人は言ひました。「お前はよくものごとがはつきり分るねえ。」

「わたしそれは鑛物(くわうぶつ)だと思ひますわ。」とアリスが言ひました。

「無論さうだよ。」公爵夫人は言ひました。夫人はいつもアリスの言つたことは、何ごとでも、賛成する風(ふう)がありました。「この近くに大きな芥子のマイン(鑛山)があるよ。そしてそれの訓(をしへ)といふのは――わたしのものか(Mine(マイン)を鑛山と、「わたしのもの」といふのと一緒にしたのです。)澤山あれあるほど、あなたのものが益益(ますます)少(すくな)くなる。――といふのだ。」

[やぶちゃん字注:「Mine(マイン)」の「マイン」は「Mine」のルビ。なお、訳者は原文の以下の部分をごっそり省略してしまっている。

   *

"Oh, I know!" exclaimed Alice, who had not attended to this last remark, "it's a vegetable. It doesn't look like one, but it is."

"I quite agree with you," said the Duchess, "and the moral of that is—'Be what you would seem to be '—or, if you'd like it put more simply—'Never imagine yourself not to be otherwise than what it might appear to others that what you were or might have been was not otherwise than what you had been would have appeared to them to be otherwise.'"

"I think I should understand that better," Alice said very politely, "if I had it written down: but I can't quite follow it as you say it."

"That's nothing to what I could say if I chose," the Duchess replied, in a pleased tone.

"Pray don't trouble yourself to say it any longer than that," said Alice.

"Oh, don't talk about trouble!" said the Duchess. "I make you a present of everything I've said as yet."

"A cheap sort of present!" thought Alice. "I'm glad they don't give birthday presents like that!" But she did not venture to say it out loud.

   *

青空文庫の大久保ゆう氏の訳「アリスはふしぎの国で」から当該箇所を引用させていただく(当該訳は著作権があるが、引用許容の範囲内と判断する。以下、同じ)。

   《引用開始》

「あ、わかった!」とさけぶアリス、相手の決めぜりふなんて聞いちゃいない。「野菜やさいね、それっぽくはないけど、きっとそう。」

「そちの言うとおり。」と言い出す御前さま。「そしてそこから学べる教えとは――『そう見えるのならそうなのだ。』――すなわちさらにわかりよう言えば――『おのれのことを、ひとの目にうつるものとはちがうなどとは思わんこと、かつてそうであった、そうであったかもしれない、事実そうであったおのれとはちがうなどとは、それもまたひとの目にはちがってうつるのだから。』」

「たぶん、書き起こしたものがあれば、」とまじめに取り合うアリス、「もっとよくわかると思うんだけど。おっしゃってること、ちょっとついていけなくてよ。」

「こんなもの、ものは言いよう、大したことない。」と返す御前さまはごまんえつ。

「ならもうわざわざしていただかなくてけっこう!」とアリス。

「そんなわざわざだなんて!」と御前さま。「これまでの言葉をみな、そちに進ぜよう。」

「やっすいおくりものね!」と思うアリス。「みんながたんじょう日プレゼントにこんなのくれなくてよかった!」でも思い切って声に出すことはできずじまい。

   《引用終了》

これから分かるように、次の「アリスは考へてゐました。」という一文は原文にはない。即ち、訳者が上記の箇所を子供には難解と思ったか、又は忙しくて訳すのが面倒だったか、或いは、訳者(前章の注で記したように、ここからは推定で菊池寛)に失礼乍ら、意味が通るように上手く訳せなかったのか、の孰れかは不明ながら、ともかくも――誤魔化して繋げるために配した一文である――ということである。]

 アリスは考へてゐました。「また考へて居るね。」と公爵夫人は尖つた小さい顎で、アリスの肩を突きながら尋ねました。

「わたし考へる權利があるわ。」とアリスは少しうるさく考へましたので、きつく言ひました。

「それは丁度豚に羽があつて、とべる權利があるといふやうなものだ、そしてそれの、お――。」

[やぶちゃん注:「お――」の部分は“and the m—”で前の公爵夫人の言い回しから“moral”の頭文字、本文の「訓(をしえ)」であると推定出来るし、直後でもそれを明示してはいる。しかし訳者は「お――」としている。細かいようだが、ここは「を――」でなくてはならないし、そうなっていて初めて子供たちは、これはここで即座に(直後の文を読まずとも)彼女が「訓(をしへ)」と言おうとしたんだと分かる訳で(そういう想像や推理は子供たちの読書の中では実は非常に大切なことだと私は思っている)、すこぶる意地の悪い、悪訳だとしか私には思われない。]

 けれどもこのとき、アリスがひどく驚きましたことには、公爵夫人が大好きな「訓(をいへ)」といふ言葉を半分言ひかけたときに、聲が消えてしまつて、からんで居た腕が、ふるへ始めたのでした。アリスは上を見ました。すると例の女王(ぢよわう)が腕を組み、人道雲のやうなしかめ顏(がほ)をして、二人の前に立つてゐるのでした。

「陛下、よいお天氣でございます。」公爵夫人は低い小さい聲でいひました。

「さあ、わたしはお前に命令をする。」と女王は地團太を踏んで、大聲で言ひました。「お前の身(み)か、それともお前の首か、どつちかをかつとばしてしまはねばならん。さあ、たつた今だ。どつちか一つ選ぶがいい。」公爵夫人は、無論いい方を選んで、直ぐに其場から身を退(しりぞ)いてしまひました。

「さあ勝負をしよう。」と女王はアリスに言ひました。アリスは驚きのあまり、一言(こと)もいへませんでした。けれども、のそのそと女王のあとからついて、球打場(たまうちば)へいきました。外のお客達は、女王のゐないのをいい仕合せにして、樹蔭(こかげ)で休んで居ました。けれども女王を見るや否や、急いで勝負にとりかかえいました。女王はただかういつただけでした。「お前たも一分間でも、のらくらすると一命(めい)がないぞ。」

 みんなが勝負をやつて居る間、女王はたえず他の相手と喧嘩(けんくわ)をしてゐて、「あの男は打首(うちくび)にしろ。」とか、「あの女を打首にしろ。」とか言つてゐました。女王が宣告をした人達は、兵士に拘引されました。無論この兵士たちは、罪人や拘引するために、アーチになつてゐるのを、止めなければなりませんでしたから、三十分も經つか經たぬうちに、アーチがなくなつてしまひ、球を打つ者も王樣と女王とアリスを除いた、佳の者は全部拘引されて、死刑の宣告をうけました。

[やぶちゃん注:この間にも訳の省略がある。

   *

Then the Queen left off, quite out of breath, and said to Alice, "Have you seen the Mock Turtle yet?"

"No," said Alice. "I don't even know what a Mock Turtle is."

"It's the thing Mock Turtle Soup is made from," said the Queen.

"I never saw one, or heard of one," said Alice.

"Come on, then," said the Queen, "and he shall tell you his history."

   *

同じく大久保ゆう氏の当該箇所を引用しておく。

   《引用開始》

 そこでクイーンも手をとめて、ぜえはあ言いながら、アリスに一言、「そちはもうウミガメフーミに会うたか?」

「いいえ。」とアリス。「そもそもウミガメフーミが何だかぞんじませんし。」

「ウミガメフーミスープのもとになるものよの。」とクイーン。

「そんなの見たことも聞いたこともなくてよ。」とアリス。

「ならばこちへ。」とクイーン、「さすれば本人がいわれを教えてくれよう。」

   《引用終了》

「ウミガメフーミ」は本訳での「まがひ海龜」のこと。]

 二人が歩いていきましたとき、アリスは王樣が低い聲で一同にむかつて「お前たちみんな許してやる。」といつて居るのを聞きました。「ああ、よかつた。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。何故ならアリスは女王が、こんなに多勢(おほぜい)のものに死刑を言ひ渡したので、かなしく思つてゐたからでした。

 二人は間もなく、グリフオンが日向(ひなた)ぼつこをして、ぐうぐう寢て居るところへやつてきました。(若(も)しグリフオンを知らない人は、繪をごらんなさい)「お起き、なまけ者。」と女王がいひました。「此のお孃さんを擬(まが)ひの海龜のところへお連れして、あれの身の上話を聞かした上げてくれ、わたし戻つて、先きほど命じておいた、死刑の監督をしなければならないのだから。」かういつて女王は、アリスをグリフオンにまかせて去つてしまひました。アリスはこの動物の顏が氣に入りませんでしたけれども、大體に於て、あの野蠻な女王についていくのも、この動物と一緒に居るのも、安全さの程度は似たり寄つたりだと思ひましたので、じつと待つてゐました。

[やぶちゃん注:「グリフオン」(Gryphon:ラテン語ではグリュプス(gryps))は、鷲或いは鷹の翼と上半身で、ライオンの下半身を持つ伝説上の生物。ウィキの「グリフォン」によれば、語源はギリシア語のグリュプス、「曲がった嘴」の意。『このことから、しばしばギリシア神話に登場するといわれることがあるが、これは誤りである。しかし古くから多くの物語に登場しており(ヘロドトスの『歴史』など)、伝説の生物としての歴史は古い』。『鷲の部分は金色で、ライオンの部分はキリストの人性を表した白であるともいう。コーカサス山中に住み、鋭い鈎爪で牛や馬をまとめて数頭掴んで飛べたという。紋章学では、グリフォンは黄金を発見し守るという言い伝えから、「知識」を象徴する図像として用いられ、また、鳥の王・獣の王が合体しているため、「王家」の象徴としてももてはやされた』。『グリフォンには重要な役目が』二つあり、一つは『ゼウスやアポローン等の天上の神々の車を引くことであるが、ギリシャ神話の女神ネメシスの車を引くグリフォンは、ほかのグリフォンと違い身体も翼も漆黒である。馬を目の敵にしており、馬を喰うと言われるが、これは同じ戦車を引く役目を持つ馬をライバル視しているためである』。二つ目は、『黄金を守る、あるいは、ディオニューソスのクラテール(酒甕)を守ることとされる』。『自身が守る黄金を求める人間を引き裂くといわれて』おり、『その地は北方のヒュペルボレイオイ人の国とアリマスポイ人の地の国にあるリーパイオス(Rhipaios))山脈とされるが、エチオピア、インドの砂漠(現在ではパキスタン近辺か)などの異説もある』。なお、『グリフォンは、様々な紋章や意匠に利用されて』いるが、別に『「七つの大罪」の一つである「傲慢」を象徴する動物として描かれることもある』。『ヘロドトスは『歴史』の中で翼のある怪物としてグリフォンに触れ、プリニウスは『博物誌』』の第十巻の七十の『中ですでに伝説の生物として語っている』。十四世紀には『架空の人物であるジョン・マンデヴィル(John Mandeville)によって書かれたとされる『旅行記』(東方旅行記、東方諸国旅行記)によって詳細な描写がなされ』てもいる。『またヨーロッパ中世においては、動物物語集等では悪魔として表されたものの、多くはキリストの象徴とされ、神学者のセビーリャのイシドールスも『語源』(Etymologiae)でその立場をとる。ダンテが「キリストの人性」をグリフォンの部位の色に表したと、ディドロン(Didron)によって解釈されるのは『神曲』「浄化篇」』第二十九曲での、『凱旋車を曳く場面である』とある。なお、本文でキャロル自身が指示しているので、“Wikisource”“Alice's Adventures in Wonderland (1866)/Chapter 9”から、ジョン・テニエル(John Tenniel)のグリフォンのイラストを以下に示しておく。

400pxgryphon

個人的に単体ではいい絵ではあるが、「この話」の「ここ」に相応しいそれかと言われると、やや留保したくなる。]

 グリフオンは起(た)ち上つて目をこすりました。それから女王の姿が見えなくなる迄、ヂツと見てゐましたが、それからクツクツ笑ひだしましたで。「なんてかおしろいんだらう。」とグリフオンは半ば獨語(ひとりごと)の樣に、半ばアリスに言ひました。「何がかもしろいの。」とアリスが言ひました。

[やぶちゃん注:読んでいて、突如、次のシーンで「まがひ海龜」が喋り出すので分かる通り、ここも訳が省略されてしまっている。これは、シチュエーションを全く無視したひどい省略で、訳として破綻していると言わざるを得ない。子供たちをなめきっているというべきか。

   *

"Why, she," said the Gryphon. "It's all her fancy, that: they never executes nobody, you know. Come on!"

"Everybody says 'come on!' here," thought Alice, as she went slowly after it: "I never was so ordered about before, in all my life, never!"

They had not gone far before they saw the Mock Turtle in the distance, sitting sad and lonely on a little ledge of rock, and, as they came nearer, Alice could hear him sighing as if his heart would break. She pitied him deeply. "What is his sorrow?" she asked the Gryphon, and the Gryphon answered, very nearly in the same words as before, "It's all his fancy, that: he hasn't got no sorrow, you know. Come on!"

So they went up to the Mock Turtle, who looked at them with large eyes full of tears, but said nothing.

"This here young lady," said the Gryphon, "she wants for to know your history, she do."

"I'll tell it her," said the Mock Turtle in a deep, hollow tone: "sit down both of you, and don't speak a word till I've finished."

So they sat down, and nobody spoke for some minutes. Alice thought to herself, "I don't see how he can ever finish, if he doesn't begin." But she waited patiently.

   *

同じく大久保ゆう氏の当該箇所を引用しておく。

   《引用開始》

「あの女さ。」とグリフォン。「みんなあいつの思いこみでい、だれひとり処けいなんてされねえってことよ。こっちだ!」

「ここの方々『こっちだ』ばっかり。」と思いつつもアリスはそいつにゆっくりついていく。「生まれてこのかた、そんなふうに言いつけられたこと、なくてよ、なくってよ!」

 歩いてほどなく遠くに見えてくるウミガメフーミ、いわおの小さなでっぱりに、ひとり悲しそうにこしかけていてね、近づくにつれ聞こえてくるそのため息、まるでむねがはりさけたみたい。だから心からかわいそうになって、「何が悲しくって?」とグリフォンにたずねたんだけど、グリフォンの答えは、さっきのとほとんど同じような言葉でね、「みんなあいつの思いこみでい、悲しいことなんてべつにありゃしねえ。こっちだ!」

 で、ウミガメフーミのところまでたどりつくと、大きな目をうるうるさせて見てくるわりに、ものも言わない。

「こちらの姫君ひめぎみが、」とグリフォン、「おめえのいわれを知りてえんだとさ。」

「そちらに申します。」とウミガメフーミは、消え入りそうな声で、「おふたかたとも、おすわりくだせえ、しまいまでどうかお静かに。」

 というわけで、こしを下ろして、しばしのあいだ一同だんまり。そこでアリスは考えごと、「始まらないなら、おしまいも何もないんじゃなくて?」でもじっとこらえる。

   《引用終了》]

「むかし。」とまがひ海龜がとうとう、溜息をついて言ひました「わたしはほんとの海龜でした。」

 この言葉のあと、又永い間みんな默りこんでしまひました。ただ時時グリフオンがヒツクルーと叫ぶのと。まがひ海龜が始終重くるしく啜(すす)り泣きする聲で、その靜けさが破られるばかりでした。アリスはもう少しで立ち上つて、「面白いか話をして下すつて有難う。」と言ひかけました。が、何かもつと話し出すにちがひないと、思はないわけにいきませんでしたので、靜かに坐つて何も言ひませんでした。

「わたし達が小さかつたとき。」とまがひ海龜は、遂に前よりズツとかとなしくいひつづけました。けれども相變らず時時啜り泣きをしました。

「海の中の學校にいきました。先生は年をとつた海龜でした。――わたし達は先生のことを正覺坊(しやうがくばう)先生、といつもいつてゐました――。」

「何故正覺坊先生といふんです。」とアリスは尋ねました。

「なぜつて小學本(せいがくぼん)(正覺坊)を教へますからさ。」とまがひ海龜は怒つていひました。「ほんとにお前は馬鹿だ。」

[やぶちゃん注:以上の箇所は翻案されている。原文はこうなっている。

   *

"When we were little," the Mock Turtle went on at last, more calmly, though still sobbing a little now and then, "we went to school in the sea. The master was an old Turtle—we used to call him Tortoise—"

"Why did you call him Tortoise, if he wasn't one?" Alice asked.

"We called him Tortoise, because he taught us," said the Mock Turtle angrily; "really you are very dull!"

   *

ここはキャロルの言葉遊びがよく判る福島正実氏の訳(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)当該箇所を引用しておく。

   《引用開始》

 「私たちの子どものときは」と亀もどきがようやくのことでことばを進めました。前よも落ち着いていましたが、まだ時々すすり泣きがまじっていました。「海の中の学校へ行ったもんだ。先生は年とった海亀(タートル)だったが――私たちは陸亀(トートイス)と呼んでいたっけ――」

 「なぜ、陸亀(トートイス)じゃないのに陸亀(トートイス)なんて呼んだの?」と、アリスがききました。

 「そりゃ、先生が勉強を教えて(トートアス)くれたからからそう呼んだんだよ」と、亀もどきは、腹立たしげにいいました。「まったく、おまえさんは鈍いなあ!」

   《引用終了》

以上の( )は総てルビで、最後のそれは「教えて」の部分に振られてある。そして上記の「まったく、おまえさんは鈍いなあ!」の後に福島氏は二行割注を入れておられ、そこには『tortoise(陸亀)と taught us(われわれに教えた)の語呂合わせのしゃれ』と解説しておられる。「陸亀」(land tortoise)は爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科リクガメ科 Testudinidae に属する陸生カメ類の総称。総て草食性で、四十一種ほどがヨーロッパ南部・アフリカサハラ砂漠以南・マダガスカル・アジア南部・アメリカ大陸に分布している。大型種が多く,特にリクガメ属Geochelone にはリクガメ中最大種であるゾウガメ二種(ガラパゴスゾウガメ Geochelone nigra・アルダブラゾウガメ Dipsochelys dussumieri であるが、前者は亜種が多数いる)の甲長一・二メートルを始め、アフリカ産のケヅメリクガメ Geochelone sulcata が甲長七十五センチメートル、ヒョウモンリクガメ Geochelone pardalis が六十五センチメートル、南アメリカ産アカアシリクガメ Geochelone carbonaria などが五十センチメートルにも達する。他方,ギリシアガメ属 Testudo には小型種が多く、北アフリカ産エジプトリクガメTestudo kleinmanni は甲長十二センチメートルにしかならない。リクガメ類は背甲がドーム状に盛り上がって堅く、重い甲を支える四肢は柱状で太く爪が丸みを帯びる。四肢は堅い鱗で覆われ,頭頸(とうけい)部や四肢を甲内に引っ込めた後の隙間を塞ぐのに役だつ。草原・荒地・砂漠など乾いた場所に棲息し、殆んど水に入らない。ホシガメGeochelone elegans など、甲羅に美しい斑紋をもつ種も多い(平凡社「世界大百科事典」松井孝爾氏の記載に加筆した)。一方、「海亀」(marine turtle)は四肢が櫂(かい)状に扁平になっている海洋性カメ類の総称で、潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科 Cheloniidae とオサガメ(長亀)科 Dermochelyidae とに分ける(以下、同前の同じ松井氏による記載を同様に処理したが、分類部分はより新しいと思われるウィキの「ウミガメ」で変更を加えた)。世界の熱帯・亜熱帯の海域に広く分布し、日本近海を含む温帯地方にも回遊してくる。完全な海生種で、陸地には産卵期にしか上陸しないが、アオウミガメ Chelonia mydas が日光浴のために無人島の砂浜にやってくることが知られている。現生ウミガメ類の分類には諸説あるが、ウミガメ科Cheloniidaeの方を骨格の違いでアオウミガメ亜科Cheloniinae とアカウミガメ亜科 Carettinae の二グループに分け、前者アオウミガメ亜科にはアオウミガメ属アオウミガメChelonia mydas同亜種クロウミガメ Chelonia mydas agassizii 及びタイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata・ヒラタウミガメ属ヒラタウミガメ Natator depressusを、後者にはアカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta・ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea・ヒメウミガメ属ケンプヒメウミガメLepidochelys kempii を配する。ウミガメ上科オサガメ科 Dermochelyidae は一属一種でオサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea が置かれる。海洋生活に適応したウミガメ類の甲羅は扁平で、他のカメ類に比すと退化しており、頭部と四肢については甲内に完全には引き込むことが出来ない。甲を覆う鱗板は滑らかで、種によって数や形状が異なる。最も遊泳力の優れたオサガメの甲は軽量で、骨片の集合からなり、鱗板も欠く。櫂状の前肢も他のウミガメ類よりも長く強力で爪も持たない。ウミガメ類はアオウミガメが海藻を主食とする外は雑食性で、海藻・魚類・甲殻類・クラゲ・ウニなどを食べる。通常はアマモ(単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina 。異名「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」は本邦で最も長い植物名として知られる)などが生えた砂地の、波静かな浅い海に棲息するが、産卵期には集団で長距離を大移動し、産卵場に押し寄せる。産卵場は岩礁に囲まれた砂浜が選ばれ、同一個体が一シーズンに二、三回、多い場合は六回も産卵を行うため、その間に休息が必要となり、沖合に休息場所としての浅瀬がある場所が好適地とされる。夜間、だけが砂浜に上陸、高潮線よりも上の砂地に前肢で甲が隠れるほどの穴を掘り、次いで、後肢で二十~六十センチメートルほどの深い穴を掘って産卵する。多いものは一度に百五十から二百個ほどのピンポン球のような卵を産み、砂をかけて穴を埋めてから海に帰る。その間は約一時間ほどで卵は八週から十週間ほどで孵化し、夜明け頃、子ガメは一つの集団となって穴から這い出し、海に向かって走る。この際、子ガメが海の方角を知るのは海面の光りの反射に基づくのではないかと考えられている。子ガメは海鳥や魚の餌食となり、成長するのは極めて少数に過ぎない。ウミガメ類はタイマイの鼈甲を始めとして、甲羅や皮が細工物の材料となるため、また、卵が産卵する地域では重要な蛋白源となることから乱獲され、激減してしまった。現在では、総ての種が厳重な保護下に置かれ、人工増殖も世界各地で行われている(特にキューバのそれが知られる)。日本にはアカウミガメが南西諸島から千葉県までの太平洋沿岸に上陸して産卵し、アオウミガメが小笠原諸島・屋久島、タイマイが南西諸島に上陸してくる。現在、本邦では父島や沖繩でアオウミガメの人工増殖が試みられている。]

「こんな易しい事を聽くなんて、恥づかしく思はなければいけない。」とグリフオンはつけ足(だ)して言ひました。それからみんな默りこくつて、可哀さうなアリスをヂツと見ましたので、アリスは地(ち)の中にでも入つていきたいやうな氣がしました。やがてグリフオンは、まがひ海龜に言ひました。「おぢさん、さあつづけて。こんなことに日を暮しなさんな。そこでまがひ海龜は次のやうに言ひ出しました。

「さうです、海の中の學校にいきました。お前さん信じないかも知れないがね――。」

「わたし信じないなんて言やしないわ。」とアリスはさへぎつて言ひました。

「お前さん言つたよ。」とまがひ海龜は言ひました。「おだまり。」とグリフオンはアリスが、又口を出さないうちにいひ加へました。まがひ海龜はつづけて言ひました。

「一番いい教育をうけたよ。――ほんとにわたしたちは、毎日學校にいつたのだ。」

「わたしだつておひるの學校に行つたわ。」とアリスが言ひました。「お前さん、そんなことを、そんなに自慢するに及ばないわ。」

「課外もあつたのかい。」とまがひ海龜は一寸心配さうに訊きました。

「ええ。」とアリスは言ひました。「フランス語と音樂を習つたわ。」

「そして洗濯は。」とまがひ海龜は言ひました。

「そんなもの習はないわ。」とアリスは怒つて言ひました。

「ああ、それぢやか前さんの學校は、ほんとに良い學校ぢやなかつたねえ。」とまがひ海龜は、大層安心したやうに言ひました。「そして、わたしたちの學校では月謝袋の終(しま)ひに、フランス語、音樂及(および)洗濯――其他と書いてあるよ。」「お前さん、そんが課目なんか、さう要らなかつたでせう。」とアリスが言ひました。「海の底にすんでゐるのに。」

[やぶちゃん注:「フランス語、音樂及洗濯――其他」の部分は原文は“'French, music, and washing—extra.'”で「其他」の意ではなく、「特別」「課外講義」「割増料金」の意で、福島正実氏は『別会計』と訳しておられ、直後の「まがひ海龜」の台詞と合致する。]

「ところが習ふことができなかつたんだよ。」とまがひ海龜は、溜息をついて言ひました。「それでわたしは、正課だけをやつたんだよ。」

「それはどんなもの。」とアリスは質(たづ)ねました。

「まづ初めは、勿論、千鳥足(ちどりあし)だの、からだのくねり曲(ま)げさ。」とまがひ海龜は答へました。「それからいろいろな算術に、野心(やしん)術、憂晴(うさばらし)術、醜顏(しうがん)術、それに嘲弄(ちやうらう)術。」

[やぶちゃん注:「算術」“arithmetic”とあるように、以下の変な「術」というのは「割り算」「掛け算」などの「~算(ざん)」に相当するものである。原文を示すと、

   *

Reeling and Writhing, of course, to begin with," the Mock Turtle replied: "and then the different branches of Arithmetic—Ambition, Distraction, Uglification, and Derision."

   *

ここを福島正実氏は、

   《引用開始》

「まずよろめき方(リーリング)にもだえ方(ライジング)はもちろんやった」と亀もどきが答えます。「それから、算数の四つの部門――野心算(アンビジョン)、失意算(デイストラクション)、台無算(アグリフィケーション)、それに嘲弄算(デリジョン)などあったよ」

   《引用終了》

ここに割注して、『reeling reading(読み方) ambition addition(足し算) distraction subtraction(引き算) uglification multiplication(掛け算)derision division(割り算)のそれぞれもじり』とある。眼から鱗。]

「醜顏術つて、わたし聞いたことがないわ。」とアリスは思ひ切つていひました。「それはなんなの。」

 グリフオンは驚いて、前足を二本宙(ちう)に上げました。そして「醜顏術つて聞いた事がないんだつて。」と叫びました。

「お前は美しくするといふことは、知つて居るだらう。」

「ええ。」とアリスは考へ込んで言ひました。

「それは――何でも――もつと綺麗にすることですわ。」

「ふん、それでゐて、お前さん顏を醜くくするといふことが分らないなら、お前さんは阿呆だよ。」

 アリスは、もうこれ以上醜顏術について質問する元氣はありませんでした。それだから、まがひ海龜の方を仰いて「外に何を習つたの。」と言ひました。

「神祕學があつた。」とまがひ海龜は、課目を鰭で算へながら答へました。

「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンが溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顏をかくしました。

[やぶちゃん注:この会話もおかしい。二人の仕草の意味もそのために分からない。実はやはり、ここにも訳の省略が『「神祕學があつた。」とまがひ海龜は、課目を鰭で算へながら答へました。』と『「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンが溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顏をかくしました。』との間にあるのである。当該の前後を入れて、原文を示す。

   *

"Well, there was Mystery," the Mock Turtle replied, counting off the subjects on his flappers,—"Mystery, ancient and modern, with Seaography: then Drawling—the Drawling-master was an old conger-eel, that used to come once a week: he taught us Drawling, Stretching, and Fainting in Coils."

"What was that like?" said Alice.

"Well, I can't show it you, myself," the Mock Turtle said: "I'm too stiff. And the Gryphon never learnt it."

"Hadn't time," said the Gryphon: "I went to the Classical master, though. He was an old crab, he was."

"I never went to him," the Mock Turtle said with a sigh: "he taught Laughing and Grief, they used to say."

"So he did, so he did," said the Gryphon, sighing in his turn, and both creatures hid their faces in their paws.

   *

ここも福島正実氏の訳で引く。

   《引用開始》

「そうだね、秘密(ミステリー)があったな」と亀もどきはひれで課目を数えながら答えました。「古代秘密と現代秘密だ。それに海理学(シーオグラフィー)それから、のろのろ臥法(ドローリング)もあった。のろのろ臥法の先生は年寄のあなごで週に一度ずつ来たよ。のろのろ臥(ドローリング)と、のびのび臥(ストレッチング)ととぐろ臥(フェインティング・イン・コイル)を教えにね」

 「それはどんなものなの?」とアリスがききまもた。

 「ああ、私には、ちょっとやっては見せられないんだ」と、亀まがいはいいました。「私はからだがかたいから。それにグリフォンは習ってないし」

 「時間がなかったんだ」とグリフォンはいいました。「でも、おれは古典は習ったぜ。古典の先生は、年寄りの蟹だったよ。そうとも」

 「私はその先生には習わなかった」と亀もどきはため息をつきながらいいました。「笑い方(ラフィング)と悲しみ方(グリーフ)を教えていたっていう話だけど」「そうだった」とグリフォンが自分もため息をついていいました。そして、二人とも、手で顔をおおいました。

   《引用終了》

福島氏は「亀もどき」の「秘密」の長い台詞の最後()と、「笑い方(ラフィング)と悲しみ方(グリーフ)を教えていたっていう話だけど」という台詞の後()に以下の割注を挟んでおられる。

mystery history(歴史) seaography Geography(地理) drawling drawing(絵画) stretching sketching(スケッチ) fainting in coil(とぐろを巻いて気絶する)は paint in oil(油絵)のもじり』

laughing Latin(ラテン語) Grief Greek(ギリシャ語)のもじり』

またしても、目から鱗、陸から海亀である。]

「そして一日に何時間授業があつたの。」とアリスは話の題をかへようと思つて、思つて、あわてて言ひました。

「第一日は十時間あつたよ。」まがひ海龜は言ひました「第二日目は九時間それから段段と滅つていくのだ。」

「ずゐぶん珍らしいやり方だわねえ。」とアリスは言ひました。

「それが授業(Lesson(レツスン))(レツスン(Lessenには段段減つていくといふ意味があります、それをしやれたのです)といはれるわけだ。」とグリフオンは言ひました。」「何故つて、毎日毎日レツスン(授業と減つていくといふ二つの意味)していくからさ。」

 このことはアリスには初耳でした。それで暫くのあひだ考へこんでゐましたか、やつとかういひだしました。「それでは十一日目はお休み日にちがひないねえ。」

「無論さうだよ。」とまがひ海龜はいひました。「それでは十一日目はどうしたの。」とアリスけ熱心になつて聞きました。

「それでレツスンは終りさ。」とグリフオンは間(あひだ)から目を出して、キツパリと言ひました。「さあ、今度は遊戯の話でもこの子に聞かせてやつてくれ。

深夜の耳(村山槐多自筆草稿断片より 附「深夜の耳」やぶちゃん完全復元版)

  深夜の耳(村山槐多自筆草稿断片より 附「深夜の耳」やぶちゃん完全復元版)

 

  深夜の耳

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじっときき澄まして居る

ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、

なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はって來

るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な

遙けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、

その物音の端で私は恐ろしい物にさぐりあてた、

そこには一人の力強い男がかよわい女の身体の上に乘り

上がって不思議にも美しい運動をやって居たのであ

る、

 

[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『深夜の耳』」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトの拡大画像)。字配もそのままである。使用漢字はなるべくそのままのものを採用したが、「様」「乗」の略字などは正字化した)。なお、標題の「深夜の耳」の前行には「夜」の右手と「の」との間辺りにㇾ点のようなマーキングが二つ続いてある。

これは現行の長詩「深夜の耳の第一連目であるが、驚くべきことに、現行の平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」では、ここは、

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじつときき澄まして居る、ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はつて來るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な遙(はる)けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、その物音の端では私は恐しい物にさぐりあてた、

そこには一人の力強い男がかよはい女□□□□□□□□□□□□不思議にも美しい□□□□□□□□のである。

 

のように伏字にされてしまっているのである!

 なお他に、

 

「その物音の端で私は」は 全集では「その物音の端では私は」

「恐ろしい物」は 全集では「恐しい物」

「かよはい女」は 全集では「かよわい女」

「運動をやって居たのである、」は 全集では「運動をやって居たのである。」

 

となっている。

さても! 我々は遂に完全なる村山槐多の「深夜の耳」に出逢うことが出来たのである!

無論、上記の異同から、これは草稿であって決定稿ではない可能性もあるが(但し、異同箇所を御覧戴ければ分かる通り、草稿の方がほぼ正しいではないか!)、少なくとも訳の分からない、読もうとする意欲を殺ぐ伏字を除去することがこれで出来る――因みに伏字のマスの数はこの草稿の同箇所と同字数なのである!!――のである!

 ここに伏字を復元した上記と全集の二連以降を恣意的にジョイントして私なりの完全版の「深夜の耳」として、以下に示すこととする(復元第一連の拗音はママとしたが、改行部を全集のそれと比較して繋げておいた。その際、「じっときき澄まして居る」の後は一マス空けた)。

 

  深夜の耳

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじっときき澄まして居る ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はって來るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な遙けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、その物音の端で私は恐ろしい物にさぐりあてた、そこには一人の力強い男がかよわい女の身体の上に乘り上がって不思議にも美しい運動をやって居たのである、

    ×

環状の燈光はわが眼うばひ

撒いた樣に町の上に

荒木町の上に

 

三味線のひびきは耳に

辛いたばこは口に

夜の窓が私は好きだ

 

    ×

わが命は燃えさかる

靑空のかなたに延ぶ

女の股より頭に突拔く

白と赤との境に輝やく

 

ああああ狂ほしくも

幽靈の如く人魂の如し

 

また鐵工場の火花の如し

強く鋭とくあつし

 

音して燃ゆる命よ

音させて投げ

音させて物をくだかん

ダイナマイトの如きわが命

 

戀よ戀よ戀よ

酒よ酒よ酒よ

わが命を消し止めよ

苦し苦し苦し

 

    ×

どうするんだい、

どうするんだい、

 

女がどなる

金切聲でどなる

美しい男をとらへて

怒る樣に泣く樣に

 

腐つたざくろがちぎれておちた、

紫のあぶくが空に浮く

苦しい血つぽい夕ぐれだ、

 

女がどなる

金切聲でどなる

小鳥の樣な男をつかまへて

あまえる樣にいぢめる樣に

 

ああああ

聞く身の辛さよ。

 

    ×

裸の女がうんと

薄着をして神樂坂を歩く

そいつらは香水の瓶の樣に

樣々なにほひを空に殘こす

 

ああ惡鬼、雌の鬼ども

そいつらはそいつらは

眞白い顏には熱がさし

につと薄明りの中に笑ふ

 

笑つてばかり居る

それから瞳だ、ぴくぴくとしだらなく

美しくなまめかしく

氣をそそるではないか、

 

にぎやかな夜の空氣

消えては起る蓄音機のうた

藝者が紫の花をちぎりすてた

すつと女の一群が飛んだ、

 

   *

素晴らしい! 実に素晴らしい! 新しい槐多が蘇生した!

明恵上人夢記 51

51

 建保六年八月十一日、梅尾の舊居を出づ。先づ樋口、樋口より、同十三日、賀茂の宿所に遷り、其の後、圓覺山の地に曳く。其の夜、夢に云はく、一堂を起し立つ。其の名を果海殿(くわかいでん)と曰ふ。普賢菩薩(ふげんぼさつ)を安じ奉る。其の堂の中に女房七八人有りと云々。

[やぶちゃん注:「建保六年」一二一八年。

「梅尾」の「梅」字はママ。底本凡例に慣用表記はそのままとした、とある。

「樋口」底本注に、『五条通の南の小路。明恵の庇護者の一人覚厳法師』『が樋口の名を冠して呼ばれることがある。同人を指すか』とする。

「圓覺山の地」「ゑんがくざん」と読んでおく。底本注に、『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』とある。賀茂別雷神社は「かもわけいかづちじんじゃ」と読み、現在の京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称である。「塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊」というのは現存しないが、論文「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、

   *

佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>

   *

と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。

「果海殿」この名を「渡海を果たす」と読む時は、明恵がこれまでに少なくとも二度決心し、断念せざるを得なかった(春日明神の神託と病いのためとされる)天竺(インド)渡海の切望の強烈な念が今も明恵の心底に凝結してあるようにも読めるし、逆に、「真理の海へと漕ぎ出ることを果たした」と読むなら、祀るのが普賢菩薩であることからも(老婆心乍ら言い添えておくと「菩薩」とは未だ修行者の謂いである)、まさに無限に満ちている仏菩薩の絶対智の大海原に漕ぎだした仏弟子たる明恵の爽快な心境を表わしているとも読める。後者の解釈はユング派好みではあろう。

「普賢菩薩」サンスクリット語「サマンタバドラ(Samantabhadra)」の漢訳。普(あまね)くあらゆる総ての時空間に現われ、絶対の理性による賢者として功徳を示し、修行者を守護し、仏の「律」を象徴する。仏の絶対「智」の象徴たる文殊菩薩とともに釈迦の脇侍として釈迦三尊の形で造形配置されることが多い。致命的におぞましく穢れた業火「ふげん」や「もんじゅ」とは大違いである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

51

 建保六年八月十一日、栂尾(とがのお)の旧居を出た。

 まず、樋口に向かいそこで二泊し、同十三日には、樋口より賀茂の宿所に遷(うつ)り、その後、円覚山(えんがくざん)の地に退いた。

 その夜、こんな夢を見た。

「一堂を創建して竣工させた。その堂の名を「果海殿(かかいでん)」と名づけた。御本尊として普賢菩薩を安じ奉った。ふと見ると、その堂の中に、雅な女房らが、七、八人、いるのであった……。

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅶ) 昭和二(一九二七)年 (全)

  昭和二(一九二七)年

 

 

 

 一月四日 火曜 

何やらむ物音すなり春の海

 

[やぶちゃん注:句の直前に『けふより狂人治療の淨書を初めんと思にたれども小

みたしをかき止む』(「小みたし」は「小見出し」であろう)とある。これは大正一五(一九二六)年に発表した「狂人の解放治療」の改稿作業のことで、これが永い年月を経て「ドクラ・マグラ」に結実することは既に注した。]

 

 

 

 一月二十八日 金曜 

 

雪の野のしづかに呉れて夜に入れば

  松の音はげしく起る

 

ふるさとを遠くはなれて雪の宿

  夢おびたゞし

 

[やぶちゃん注:ここに二行に亙るがあるが(一行目八個・二行目七個)、底本注に『消去』とあり、判読も不能らしく、一字も起されていない。直後に『このうたわれながら不吉なれば消したり。おかし。』とある。夢野久作が不吉とする一首、これはもう、是非とも読んでみたかった。なお、この歌の前の日記は、

   *

 終日雪ふる。夜、松籟おびたゞし。

 胎兒の夢の論文のうち、夢の説明を書き直し、非常に疲れたり。

   *

と記しており、作歌が実景に基づくものであることが判る。なお、この『胎兒の夢の論文』言わずもがな、現行の「ドグラ・マグラ」冒頭から三分の一ほどのところから始まる「胎兒の夢」(約二万字)の、現行の最後の部分、『然らば、その吾々の記憶に殘つてゐない「胎兒の夢」の内容を、具體的に説明すると、大要どのやうなものであらうか』以下のプロトタイプであろうか。]

 

 

 

 一月二十九日 土曜 

 

冬の日のまく照れば遠山の雪白々と見えて

  さながらに童話の中に在る心地す

 

[やぶちゃん注:「」は判読不能字。]

 

妻の寢息子供寢息靜まれば

  床の水仙しみじみ光る

 

來し時と同じ思ひに歸る也

  人の通らぬふるさとの町

 

靴の先の泥を氣にして町を急ぐ

  モダーンボーイの冬の夕ぐれ

 

來年四十四十と思ふうちきつとドキンとするが悲しき

 

[やぶちゃん注:久作は明治二二(一八八九)年一月四日生まれ。]

 

 

 

 一月三十日 日曜 

 

約束を一錢五厘の反古にする。

 

[やぶちゃん注:「一錢五厘」言わずもがな乍ら、当時の葉書の郵便料金。]

 

 

 

 二月二日 水曜 

 

春の夜の電柱に身を寄せ思ふ。人を殺せし人のまごころ

 

[やぶちゃん注:翌年昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

春の夜の電柱に

身を寄せて思ふ

人を殺した人のまごゝろ

 

の初案と思われる。]

 

殺して果てまぶたをそっと閉ぢてやれば木枯しの聲一きわ高まる

 

[やぶちゃん注:同前の「獵奇歌」に出る、

 

殺しておいて瞼をそつと閉ぢて遣る

そんな心戀し

こがらしの音

 

の初案と思われる。歌の前の日記本文末には、『狂人の原稿、次から次へ破綻百出す。』とあり、旧作の苛立ちが伝わってくる。]

 

 

 

 二月四日 金曜 

 

ポケツトに殘り居りたる一戔が

  惡事の動機とわれは思へり

 

[やぶちゃん注:「一戔」はママ。「一箋」の誤記ではあるまいか?]

 

殺すことを何でも無しと思ふほど

  町を歩むが恐ろしくなりぬ

 

 

 

 二月五日 土曜 

 

眞黑なる大樹は風に搖れ搖れて

 粉雪飛ぶ飛ぶ粉雪飛ぶ飛ぶ

 

[やぶちゃん注:繰り返しの三箇所の後半部分は底本では総て「〱」。]

 

 

 

 二月十五日 火曜 

 

ピストルの煙のにほひのみにては何かもの足らず

  手品を見てゐる

 

[やぶちゃん注:翌年昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ピストルの煙の

にほひばかりでは何か物足らず

手品を見てゐる

 

と、ほぼ相同。]

 

地平線ましろき雲とわがふるき罪の思ひ出と

  さしむかひ佇つ

 

[やぶちゃん注:因みに、この二日前の十三日の日記に『東京に行く決心する』とある。出立は三月八日であった。]

 

 

 

 二月十七日 木曜 

 

ぐみの實の酸ゆく澁さよ小娘は

  も一人の男思ひつゝ佇つ

 

[やぶちゃん注:前文日記中に『狂人の原稿第一回校正終る』と記す。]

 

 

 

 二月十五日 火曜 

 

人體のいづこに針をさしたらば即死するかと

  醫師に問ひてみる

 

[やぶちゃん注:翌年昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

人體のいづくに針を刺したらば

即死せむかと

醫師に問ひてみる

 

と、ほぼ相同。]

 

 

 

 二月二十日 日曜 

 

靑空ののふかさよ人間に

  惡を教ふるのほさよ

 

[やぶちゃん注:二箇所のは判読不能字。次歌のそれも同じ。]

 

探偵は□□あふげり

  わが埋めし死骸の上に立ち止まりつゝ

 

 

 

 二月二十一日 月曜 

 

ひそやかに腐らし合ひてえひゆく果物あり

  瓦斯の火の下

 

わがむかし子供の時に夥しなる小鳥

 

君の眼はあまり可愛しそんな眼の

  小鳥を思はず締めしことあり

 

[やぶちゃん注:二首目の不完全はママ。三首目の上句の初案か。三首目は二年後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

君の眼はあまりに可愛ゆし

そんな眼の小鳥を

思はず締めしことあり

 

と、ほぼ相同歌である。]

 

 

 

 二月二十二日 火曜 

 

その胸に十文字かくおさな子の

  心をしらず母はねむれり

 

[やぶちゃん注:「おさな子」はママ。]

 

この夕べ可愛き小鳥やはやはと

  志め殺した腕のうづくも

 

[やぶちゃん注:前日の「君の眼はあまり可愛しそんな眼の/小鳥を思はず締めしことあり」とも似るが、これは翌昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

此の夕べ

可愛き小鳥やはやはと

締め殺し度く腕のうづくも

 

の、ほぼ相同歌である。]

 

ピストルのの手さわりやる

 なや瓦斯の灯光り霧のふる時

 

[やぶちゃん注:「手さわり」はママ。は判読不能字であるが、これは翌昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ピストルのバネの手ざはり

やるせなや

街のあかりに霧のふるとき

 

に酷似する一首ではある。]

 

 

 

 二月二十四日 木曜 

 

この夫人殺してヂツトみつめつゝ

  捕はれてもたき應接間かな

 

[やぶちゃん注:この六ヶ月後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』に載せた「うた」(後の「獵奇歌」に所載)、

 

この夫人をくびり殺して

捕はれてみたし

と思ふ應接間かな

 

と酷似する一首。]

 

 

 

 三月三日 木曜 

 

越智君と大宰府に行きし時の句

 

ひとりぬればチプタツポーと梅が散る。

 

たゞひとり默々として梅見客

 

梅が香や古井戸のぞくふところ手

 

奥に來て灯うれし梅の谷

 

ストーヴのほのほしばらくおしだまり

  又ももの云ふわがひとりなり

 

[やぶちゃん注:日記から、この三日前の二月二十八日に友人六人(底本注に幸流(こうりゅう:能楽小鼓(こつづみ)方の一流派)皷(つづみ)師範とする、謠仲間と思われる越智なる人物が含まれる)と大宰府天満宮に遊んでいる。但し、『山の上ヌカルミいて閉口す。梅早し、余、ヤキモチ十三』とある。久作さんは焼き餅がお好き! なお、最後の一首は、既に出した、後の昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

ストーブのほのほしばらく押しだまり又ももの言ふわれひとりなれば

 

の形で出る。]

 

[やぶちゃん注:この間、詩歌記載なく、前に記した通り、三月八日に東京に発っており、以下は東京でのものとなる。]

 

 

 

 三月二十九日 火曜 

 

もろともにはるかなる世をしたひしか

  今はわれのみわびてのこるよ

 

妻を思ひわが子を思ひ冬の夜の

  都の隅に紅茶すゝるも

 

夜をふかみ妻はかへらず床の間の

  葉蘭のかげをみつゝねむらず

 

 

 

 四月一日 金曜 

 

山をのぼり山を下れば此の思ひ

 今はた更にふかみゆくかな

 

[やぶちゃん注:本歌は既に出した、後の昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

山をのぼり山を下れば此の思ひ今はた更にふかみゆくかな

 

と出る]

 

美しき彼女をそっと殺すべく

 ぢっとみつめて眼をとづるかな

 

[やぶちゃん注:二年後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

彼女を先づ心で殺してくれようと

見つめておいて

ソツト眼を閉ぢる

 

の相似歌で、初案か。]

 

 

 

 四月三日 日曜 

 

家古し萩また古し月あかり

 

 

 

 四月九日 土曜 

 

しの崎夫人の死亡広告を見、驚きてゆく。[やぶちゃん注:中略。]

 

よを未だき歌子のきみは逝きましぬ

  その望月の花をかたみに

 

[やぶちゃん注:久作はこの前日に香椎に帰着しており、その八日の日記に『しの崎夫人病篤しときく』とある。「しの崎夫人」は既注の、久作が勤めていた『九州日報』主筆篠崎昇之介の夫人歌子。ともに川柳を遊んだ仲間であった。本歌からも分かる通り、未だ若妻であられたようである。但し、この日の月齢を調べたが、「望月」ではない。]

 

 

 

 四月十八日 月曜 

 

戀人の腹へ馳ケ入りサンザンにその腸を喰うはゞとぞ思ふ。

 

[やぶちゃん注:「サンザン」の後半は底本では「〲」。]

 

ある女の寫眞眼玉に金ペンの赤きインキを注射してみる

 

[やぶちゃん注:後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』の「うた」(後の「獵奇歌」に所載)に出る、

 

ある女の寫眞の眼玉にペン先の

赤いインキを

注射して見る

 

の、ほぼ相同歌。]

 

人の名を二つ三つ書きていねいに抹殺をしてすてる心

 

[やぶちゃん注:後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』の「うた」(後の「獵奇歌」に所載)に出る、

 

ある名をば 叮嚀に書き

ていねいに 抹殺をして

燒きすてる心

 

と酷似する。初案か。]

 

この夫人を殺して逃げる時は今ぞと思ふ應接間かな

 

[やぶちゃん注:二月二十四日の、

 

この夫人殺してヂツトみつめつゝ

捕はれてもたき應接間かな

 

の改作。]

 

 

 

 四月十八日 月曜 

 

劔仙にせんかうを送るとてうつゝなく

  人を佛になし給へ御佩刀近く香まゐらする

 

[やぶちゃん注:「劔仙」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

みはかせもわが焚く香もありがたや

  斷煩惱のにほひありとは

 

いくばくの刀をにらみ殺したれば

  劔仙どのが香をたくらむ

 

人を殺す刀をにらみ殺し來て

  香焚く人の鼻の高さよ

 

この香ひ天狗の鼻がもげたらば

  どうせん香筒にしたまへ

 

 

 

 四月三十日 土曜 

 

わが胸に邪惡の森あり

 時折りに啄木鳥の來てタゝキ止ますも

 

[やぶちゃん注:「タゝキ」の踊り字はママ。「止ますも」もママ。これは後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』の「うた」(後の「獵奇歌」に所載)に出る、

 

わが胸に邪惡の森あり

時折りに

啄木鳥の來てたゝきやまずも

 

の、ほぼ相同歌である。]

 

 

 

 五月二日 月曜 

 

蛇の仔を生ませたらばとよく思ふ

  取りすましたる少女を見るとき

 

[やぶちゃん注:後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

蛇の群れを生ませたならば

………なぞ思ふ

取りすましてゐる少女を見つゝ

 

と酷似する。初案か。]

 

家もあらず妻子も持たぬつもりにて

  後家をからかふ無邪氣なりわれ

 

わが古き罪の思ひ出よみかへる

  ユーカリの葉のゆらぐ靑空

 

[やぶちゃん注:「ユーカリ」オーストラリアの原産のフトモモ目フトモモ科ユーカリ属 Eucalyptus の仲間。多様な品種を持つ。

本歌は既に出した、後の昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

わが古き罪の思ひ出よみがへるユーカリの葉のゆらぐ靑空

 

と出る。]

 

 

 

 五月三日 火曜 

 

頭無き猿の形せし良心が

  女とわれの間に寢て居り

 

[やぶちゃん注:後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

頭の無い猿の形の良心が

女と俺の間に

寢てゐる

 

に酷似する。初案か。]

 

このまひる人を殺すにふさはしと

  煉瓦の山の中に來て思ふ

 

[やぶちゃん注:同じく昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

フト立ち止まる

人を殺すにふさはしい

煉瓦の塀の横のまひる日

 

の類型歌。初案か。]

 

 

 

 五月四日 水曜 

 

慾しくなけれどトマトをすこし嚙みやぶり

  赤きしづくをひたすらみる

 

[やぶちゃん注:同じく昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

欲しくもない

トマトを少し嚙みやぶり

赤いしづくを滴らしてみる

 

に酷似。初案か。]

 

 

 

 五月五日 木曜 

 

幽靈のごとくまじめに永久に人を呪ふことが出來たらばと思ふ

 

[やぶちゃん注:同じく昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

幽靈のやうに

まじめに永久に

人を呪ふ事が出來たらばと思ふ

 

の初案か。]

 

 

血々々と机に書いて消してみる、

 そこにナイフを突きさしてみる

 

ある處に骸骨ひとつ横たはれり、

 その名を知れるものはあるまじ

 

 

 

 五月六日 金曜 

 

觀客をあざける心舞ひながら仮面の中で舌出してみせる

 

[やぶちゃん注:謡曲喜多流の教授であった久作ならではの、「妖気歌」である。日記を見ると、毎日のように稽古しているのが判る。例えば次の七日は「小袖曽我」「安宅」である。]

 

 

 

 五月七日 土曜 

 

何かしら打ちこわし度きわが前を

  可愛き小僧が口笛吹きゆく

 

お母樣によろしくと云ひて實と出でぬ

  心の底の心恐れて

 

何かしら追ひかけられる心地して

  横町に曲り足を早むる

 

何故に草の芽生えは光りを慕ひ

  こころの芽生えは闇を戀ふらむ

 

[やぶちゃん注:後の昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

何故に

草の芽生えは光りを慕ひ

心の芽生えは闇を戀ふのか

 

の初案か。]

 

 

 

 五月八日 日曜 

 

◇星の光り數限り無き恐ろしき

  罪を犯して逃げてゆくわれ

 

 

 

 五月九日 月曜 

 

殺したくも殺されぬこの思ひ出よ

  闇から闇へ行く猫の聲

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

殺したくも殺されぬ此の思ひ出よ

闇から闇に行く

猫の聲

 

のほぼ相同歌。]

 

よく切れる剃刀を見て鏡見て

  わざと醜くあざわらひみる

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

よく切れる剃刀を見て

鏡をみて

狂人のごとほゝゑみてみる

 

の類型歌。初案か。]

 

落ちたらば面白いがと思ひつゝ

  煙突をのぼる人をみつむる

 

つけ火したき者もあらむと思ひしが

  そは吾なりき大風の音

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

放火したい者もあらうと思つたが

それは俺だつた

大風の音

 

という、口語化されたものの初案か。]

 

セコンドの音に合はせて一人が死ぬといふ

  その心地よさ

 

 

 

 五月二十四日 火曜 

 

眼の前に斷崖峙つ惡の主なり

 ひて笑へるごとく

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

眼の前に斷崖が立つてゐる

惡念が重なり合つて

笑つて立つてゐる

 

という口語体の初案か。]

 

善人は此世になかれ此世をば

  ぬかるみのごと行きなやまする

 

泥沼の底に沈める骸骨を

  われのみひとの夢に見居るか

 

獸のごとく女欲りつゝ神のごとく

  火口あたりつゝあくびするわれ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

獸のやうに女に飢ゑつゝ

神のやうに火にあたりつゝ

あくびする俺

 

の初案か。にしても「火口あたりつゝ」は不詳で、「ほくち」でもおかしい。この後の口語体のそれから察するに、底本編者に失礼乍ら、これは、

 

獸のごとく女欲りつゝ神のごとく

  火にあたりつゝあくびするわれ

 

の誤判読或いは誤植ではなかろうか?]

 

淸淨の女が此世にありといふか

  影なき花の世にありといふか

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

淸淨の女が此世に

あると云ふか……

影の無い花が

此世にあると云ふのか

 

の初案か。]

 

 

 

 五月二十五日 水曜 

 

村に住む心うれしも村に住む

  心悲しも五月晴れの空

 

[やぶちゃん注:本歌は先に出した、昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

村に住む心うれしも村に住む心悲しも五月晴れの空

 

と出る。]

 

聖書の黑き表紙の手ざはりよ

  血つふれば赤き血したゝる

 

[やぶちゃん注:「血つふれば」不詳。]

 

ぐるぐると天地はめぐるか子がゆえに

  眼くるめき邪道にも入れ

 

[やぶちゃん注:「ゆえ」はママ。「ぐるぐる」の後半は底本では「〱」。この一首は昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ぐるぐるぐると天地はめぐる

だから俺も眼がくるめいて

邪道に陷ちるんだ

 

の初案か。]

 

 

 

 五月三十日 月曜 

 

ばくちうつ妻も子も無き身をひとつ

  ザマアみろとやあさけりて打つ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ばくち打つ

妻も子もない身一つを

ザマア見やがれと嘲つて打つ

 

の初案か。]

 

心てふ文字の形の不思議さよ

  短劒の繪を書き添えてみる

 

惡心のまたもわが身にかへり來る

  電燈の灯の明るく暗く

 

警察が何だと思ひ町をゆく

  わがふところのあばら撫でつゝ

 

ぬすびとのこゝろを持ちて町をゆく

  月もおほろに吾が上をゆく

 

 

 

 五月三十一日 火曜 

 

村に住むことが嬉しも村に住むことが悲しも

  五月晴れの空

 

[やぶちゃん注:五月二十五日に、『村に住む心うれしも村に住む/心悲しも五月晴れの空』で出ているものの改作案らしいが、よくない。そちらで注したように久作も前作を後に採っている。]

 

バイブルの黑き表紙の手ざわりよ

  まなこつぶれば赤き血したゝる

 

[やぶちゃん注:「手ざわり」はママ。五月二十五日の意味不明の『聖書の黑き表紙の手ざはりよ/血つふれば赤き血したゝる』の改稿。腑に落ちる。先の「血」は単に久作の「眼」の誤字か。]

 

その時の妄想またもよみがへる

  日記の白き頁をみれば

 

新聞の記事讀むごとくしらじらと

  女のうらみきゝ居れり冬

 

 

 

 六月七日 火曜 

 

眼も見えぬ赤子に幟見上げさせ

 

子供だから仕方が無いと子供云ひ

 

 

 

 六月八日 水曜 

 

子を抱いた奴は洗はず湯に這入り

 

生れたが不思議のやうに子を眺め

 

ほとゝぎす歌にはちつとみしか過ぎ

 

歌にならむ句にならむ鼻毛拔きはじめ

 

助かり度い一心でよむ歌もあり

 

衣通姫小町今では晶子と來(き)

 

[やぶちゃん注:「衣通姫」「そとほり(そとおり)ひめ/そとほし(そとおし)ひめ)は記紀にて伝承される女性。ウィキの「衣通姫」より引く。『衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される』。「古事記」では、『允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する』。「日本書紀」では、『允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという』とする。『紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されている』。より具体な伝承がウィキの「衣通姫伝説に出るので参照されたい。]

 

 

 

 六月二十三日 木曜 

 

火消壺叱られながら思ひ出し

 

壺すみれなぞと芭蕉が小便し

 

[やぶちゃん注:スミレ目スミレ科スミレ属ツボスミレ Viola verecunda 。この下世話な川柳は芭蕉の「野ざらし紀行」の、

 

 山路來て何やらゆかしすみれ草

 

に、「小便」「壺」に、植物名の「菫」と「芭蕉」を対峙させて滑稽を狙ったものであろうが、どうも下品でよろしくない。]

 

砂糖壺一番高い棚に上げ

 

糞壺でもがいてゐたらめがさめた

 

骨壺をのぞいては泣く芝居也

 

骨壺を楯に乘り合ひ追拂ひ

 

壺なぞを作つて天才飯を食ひ

 

朝鮮は壺で名高い國になり

 

長紐から小壺まで賣れぬ覺悟也

 

[やぶちゃん注:意味不詳。識者の御教授を乞う。]

 

骨壺が遺留が殖える世ち辛さ

 

[やぶちゃん注:欲二十四日の日記に、夜、川柳の原稿書き』とあり、以下に見るように、ここに始まる「壺」題の川柳群がしばらく続いている。因みに、この前日には例の友人篠崎の亡き歌子夫人の追悼川柳会が行われ、久作が参加していることが日記からも判る。この時の詠んだ川柳は先に出した(私のブログ版では「夢野久作川柳集)。]

 

 

 

 六月二十八日 火曜 

 

思ふまま壺ニヤリニヤリとわきを向き

 

[やぶちゃん注:「ニヤリニヤリ」の後半は底本では「〱」。]

 

思ふ壺大上段に打ち

 

[やぶちゃん注:は判読不能字。]

 

毒藥を入れた壺だと黑いこと

 

跡の小便壺とと露知らず

 

[やぶちゃん注:は判読不能字。]

 

大古の小便壺を掘り出し

 

[やぶちゃん注:「大古」はママ。]

 

貯金壺いろんなものでかきまはし

 

[やぶちゃん注:面白い。]

 

小姑は小壺まで□□ろげてゐる

 

[やぶちゃん注:は判読不能字。この句、バレ句の可能性が高いように思われる。]

 

 

 

 六月二十九日 水曜 

 

壺燒屋はゐっても又讀んでゐる

 

吾事のやうに壺皿ポンとあけ

 

壺燒は熱くなくても紙をしき

 

 

 

 

 六月三十日 木曜 

 

春の雨、沖合遠、煙吐舷いつまでも動かむとせず。

 

[やぶちゃん注:面白い。]

 

 

 

 七月一日 金曜 

 

仔細らしく時計や音をつまむでゐ

 

[やぶちゃん注:面白い。]

 

暑いこと向家も電氣まだ消さず

 

壺燒は熱くなくても紙をしき

 

 

 

 七月十五日 金曜 

 

橋渡しけふも白足袋穿いてくる

 

橋へ乘つてる奴がイツキ釣り

 

[やぶちゃん注:「イツキ」は「居付き」で、回遊せずに海底の岩の根などに棲みついている魚類の謂いか。]

 

けふも又あの狂人が町を行き

 

 

 

 八月一日 月曜 

 

父母の歸らす時の過ぐるまで

  机に凭りて腕くみて居り

 

この夜では吾あしかむ父母の床を

  ひとりこもればまた忘れつる

 

夜の風に鼻赤くして芝居より

  歸らす父よ長生ましませ

 

父と母と夕餉の箸を揃へつゝ

  ものもえ云はす笑みたまひけり

 

 

 

 八月二日 火曜 

 

禿頭の父は老いたりまばらなるこめかみ肉いたく落ちます

 

水汲まんと父呼ばします夕近くたゝみの上に汗ばみて居り

 

 

 

 八月十六日 火曜 

 

毛斷はボンノクボから風邪を引き

 

[やぶちゃん注:「毛斷」は恐らく「モダン」或いは「モーダン」と読み、大正期のモガの、ショートカットのことを指すように思われる。]

 

まあ辛抱してみろとといふ風が吹き

 

筥松まで風邪引いてねと記者が云ひ

 

[やぶちゃん注:「筥松」これは「はこまつ」で、現在の福岡市東区箱崎に鎮座する日本三大八幡宮(後の二つは京都府八幡市の石清水八幡宮と大分県宇佐市の宇佐神宮)の一つである筥崎宮(はこざきぐう)にある「筥松」のことであろう。同神社の楼門の右手に朱の玉垣で囲まれてある松の木で、神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、印として植えたとも、また、応神天皇が埋納したという戒定慧(かいじょうえ)の三学(さんがく)の箱が埋められているとも伝えられる神木である。三学とは、「涅槃経」の「獅子吼菩薩品」に説かれた、仏道修行に於いて修めるべき基本的な修行である戒学(戒律:身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止めて善を修すること)・定学(禅定:心の乱れを去ること)・慧学(智慧:煩悩を去って総ての実相を見極めること)の三つを指す(ウィキの「筥崎宮」及び「三学」を参照した)。]

 

鷄が風邪を引くほど世が進み

 

 

 

 八月十七日 水曜 

 

つむじ風乞食は平氣で通り拔け

 

風上に置かれぬ奴と手酌也

 

筥入りが或る夜ひそかに風邪を引き

 

[やぶちゃん注:前の「筥松」をさらに茶化したか。]

 

汽車の中で風邪引いたと噓を吐き

 

[やぶちゃん注:これも何となく艶笑川柳っぽい気がする。]

 

 

 

 八月十八日 木曜 

 

乞食風吹かせて人を睨むでゐ

 

乞食風立派な人をよけさせる

 

大學風看護婦がイツテ吹かせてゐ

 

施療患者大學風にんずる

 

[やぶちゃん注:判読不能字は「甘」か。]

 

 

 

 八月十九日 金曜 

 

女中風御用聞には吹かせてゐ

 

上は役の風が吹き止む笛が鳴り

 

橋の風忘れたものを思ひ出し

 

上官風奥樣風に寄りつけず

 

 

 

 八月二十日 土曜 

 

風を喰ひ喰ひ諸國を渡るスゴイ奴

 

[やぶちゃん注:「喰ひ喰ひ」の後半は底本では「〱」。]

 

無い風に吹きまはされて無心に來

 

女中風勝手口だけ吹かせてゐ

 

 

 

 八月二十一日 日曜 

 

煽風機行司のやうに首を振り

 

振り袖に一パイの風持てあまし

 

白切符風を喰った奴が買ひ

 

[やぶちゃん注:旧日本国有鉄道の三等級制時代に於ける最上級の一等車の乗車券。客車の帯の色に基づく呼称であるが、実際の切符の色は黄色であった(二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれた。ここはウィキの「一等車」に拠った)。]

 

玄關の風を喰って奥へ逃げ

 

 

 

 九月六日 火曜 

 

外道祭文キチガヒ地獄

 

[やぶちゃん注:前の日記文に『終日、狂人原稿書き』とある。ここまで同じような記載が散見され、「ドグラ・マグラ」への産みの苦しみが良く分かる。示したそれについても、底本の杉山龍丸氏の註解には、『「ドグラ・マグラ」の中にある一篇、精神病院や社会での狂人扱いに多くの不詳事件があることを明らかにした章』とある。確かに「ドグラ・マグラ」の最初のブットビのクライマックスの作品内「標題」として無論、私も分かっているのであるが、この頭の『』は、久作は日記内では一貫して詩歌の頭に配しているそれであること、決定稿の「ドクラ・マグラ」ではそれは『キチガヒ地獄外道祭文』となっていることから、私は以上を一種の川柳様の一句として採ることとした。因みに、翌九月七日の日記には、『外道祭文を書く』と記されてある。大方の御批判を俟つものではある。]

 

 

 

 十月四日 火曜 

 

オホツクの海に春來り、雪解けぬれば、

南風に帆を孕ませてゆく帆綱を鳴らす風の音に

夢を破られて舳に立てば黑潮の碎くるたまさかに

わがくろ髮を濡らすあはれノーザンクルスの冷たき冴え

 

[やぶちゃん注:当日の日記の最後の一行を除いて引いた。明らかに自由詩の形式をとっており、この日記の中ではすこぶる特異点であるからである。この後には一行空けて、何時もの日記のように、『母里君來る。豚を食ひ、懷舊談をする。』というメモランダの記載をして終わっている。

 なお、以下、次の十二月二十三日までの日記中には、詩歌と認められるものは記されていない。]

 

 

 

 十二月二十三日 水曜 

 

秋深し皷に觸る袖の音

 

 

 

 十二月十日 土曜 

 

吾嬉しき夢を祕して他人の嬉しき夢をきゝたがり乙女心のおもしろさ

 

十九の娘雪の夜の怪をきゝワツと云はれてハツと眼を押へたる刹那白皚々たる雪景眼の前に展開したりと

 

[やぶちゃん注:「皚々たる」「がいがいたる」と読む。霜や雪などが一面に白く見えるさまをいう。さても「白皚々たり」を有意に「しろがいがいたり」と読むように示すネット・ページが多いが、私は従えない。これは「はくがいがいたり」と読むべきであろう。花咲か爺さんの犬じゃねえんだって。]

 

 

 十二月二十一日 水曜 

 

 猩々の囃子しらべ――

 夜節季の話をする。空晴れ、夕日キラキラと沈み、靜かなる冬の一日なりき。

 

 雲一つみかんの畠をよぎりゆきて

   靜かなる冬の日は暮れにけり

 

[やぶちゃん注:日記全体を示した。言わずもがな、「猩々」は謡曲の名である。「キラキラ」の後半は底本では「〱」。なお、これまで述べてこなかったが、底本では殆んど総ての詩歌全体が各日記内では一字分、下がっている。ここだけそれを再現しておいた。この短歌が昭和二(一九二七)年の日記中の最後の詩歌である。]

2015/12/29

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 冬(Ⅲ) 上高地と白骨 白骨篇

  白骨篇

 

[やぶちゃん注:当時の長野県南安曇郡安曇村(現在長野県松本市安曇地区)の白骨(しらほね)温泉。]

 

強霜におしだまりたる樵夫かな

 

[やぶちゃん注:「強霜」「つよしも」多くおりた霜を指す本来は冬の季語。]

 

手にとりて深山の秋の玉ほたる

 

秋螢山勢に水ほとばしる

 

[やぶちゃん注:「山勢」「さんせい」。山の姿。]

 

霧ながれ花壇の巖は不言(ものいはず)

 

歸燕とび湯女菜園に濯ぎ干す

 

秋やこの熊蠅とびてラヂヲ鳴る

 

[やぶちゃん注:「熊蠅」大型の蠅の謂いであろうが、特異な種ではなく、野外性で夏よりも秋に出現する所謂、普通の双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目イエバエ上科イエバエ科イエバエ亜科イエバエ属イエバエ、Musca domestica の大型個体かも知れぬ。但し、高原性で温泉近くとなると、二センチメートルもある大型のハエ・アブ(孰れも短角(ハエ)亜目 Brachycera に属するが、所謂「ハエ」は環縫短角(環縫)群 Cyclorrhaphous に、アブは直縫短角(直縫)群 Orthorrhaphous にそれぞれ分類される)の種も多くおり、中には吸血性のものもあるので(登山や高地の温泉で私は散々刺された経験を持つ。私の体臭が彼らの好みであるらしい)、それらの孰れかか、複数種を指す可能性もある。蛇笏の呼称する「熊蠅」、或いは、白骨で「熊蠅」と呼称する種が判る方がおられれば、御教授を乞うものである。]

 

風あらぶ臥待月の山湯かな

 

[やぶちゃん注:「臥待月」寝待月に同じい。狭義にはだいたい午後九時以降に出る陰暦十九日の夜の月の称であるが、十九日の後の二十日の更待月(ふけまちづき)や宵闇月(午後十時以降に月の出)をも含む場合もある。]

 

谿邃く湯氣たちまよひ薄もみぢ

 

[やぶちゃん注:「邃く」「ふかく」と読む。奥深いの意。]

 

露日夜歸路の浴客相踵ぎぬ

 

[やぶちゃん注:「相踵ぎぬ」「あひつぎぬ」で、皆、後を追うの謂いであろう。]

 

   谿谷の露天湯

 

暾ゆたかにさす木の間より露の娘ら

 

[やぶちゃん注:「暾」は「ひ」で、朝日の謂い。蛇笏の好きな用字である。]

 

湯治づれ草履してふむ秋の土

 

湯氣こめて巖の野菊を咲かしむる

 

露天湯に雲あかねして天翔ける

 

夕影や脱衣をあるく女郎蜘蛛

 

[やぶちゃん注:「女郎蜘蛛」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata 。恐らく大型のであろう(ジョロウグモは性的二形が甚だしく成体個体の体長はが十七~三十ミリメートルであるのに対し、は六~〜十三ミリメートルとの半分以下)。秋は樹皮や建物壁面などに白色の卵嚢を産む産卵期であるからである。]

 

ふぐり垂る素裸にさす秋日かな

 

[やぶちゃん注:「ふぐり」男子の陰嚢のこと。ネットの「語源由来辞典」によれば、『語源は「フクラグ(脹)」の意味、「フクレククリ(脹括)」の意味などあるが、「フクロ(袋・嚢)」の意味であろう。ふぐりの語源には、「フクラグ(脹)」の意味、「フクレククリ(脹括)」の意味などあるが、「フクロ(袋・嚢)」の意味であろう。「ふぐり」は形や色が「クリ(栗)」に似ていることから、「フクログリ(袋栗・嚢栗)」とする説も良い』とある。]

 

湯氣舞うて男神女神に露の秋

 

[やぶちゃん注:無論、裸形の男女の浴客を譬えたものであろうが、白骨辺りには道祖神も多い。それらをダブらせてて濃艶な句を狙ったものと私は詠む。]

 

   吾子と共に一日登高をこゝろむ

 

秋寒く山窪ゆけば地(つち)音す

 

秋ふかき岨路を行けば雲の聲

 

[やぶちゃん注:「岨路」「そはぢ(そわじ)」と読んでおく(単語としては「そだぢ(そだじ)」「そはみち(そわみち)」「そばみち」とも読む)。嶮しい山道。

「雲の聲」がすこぶるよい。登山経験者ならこの語のリアルさが判る。]

 

子と連るゝ奧嶺の遊山(ゆさん)高西風す

 

[やぶちゃん注:「高西風」で「たかにし」と読む。関西地方以西で十月頃、特に高い所で急に強く吹く西風を指す。]

 

橡ひろふ杣を見かけし焚火かな

 

[やぶちゃん注:「橡」バラ亜綱ムクロジ目トチノキ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata の実。栃の実。初秋に実果する。椿(ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(藪椿)Camellia japonica)の実に似、熟すにつれて厚い果皮が割れて少数の種子を落とす。種子は栗(ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata)に似て色が濃く、球状を成す。渋抜きして食用に供する。参照したウィキの「トチノキ」によれば、『デンプンやタンパク質を多く含』み、『食用の歴史は古く、縄文時代の遺跡からも出土している』が、渋抜きは小楢(ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata)や水楢(コナラ属ミズナラ Quercus crispula)などの果実(ドングリ)よりも手間がかかり、長期間流水に浸す、大量の灰汁で煮るなど高度な技術が必要だが、かつては耕地に恵まれない山村ではヒエやドングリと共に主食の一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(飢救作物)として重宝され、天井裏に備蓄しておく民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んにトチの実の採取、保存が行われていた。そのために森林の伐採の時にもトチノキは保護され、私有の山林であってもトチノキの勝手な伐採を禁じていた藩もある。また、各地に残る「栃谷」や「栃ノ谷」などの地名も、食用植物として重視されていたことの証拠と言えよう。山村の食糧事情が好転した現在では、食料としての役目を終えたトチノキは伐採され木材とされる一方で、渋抜きしたトチの実をもち米と共に搗いた栃餅(とちもち)が現在でも郷土食として受け継がれ、土産物にもなっている』。『粉にひいたトチの実を麺棒で伸ばしてつくる栃麺は、固まりやすく迅速に作業しなければならないことから、慌てること、また慌て者のことを栃麺棒と呼ぶようになり、「栃麺棒を食らう」が略されて「面食らう」という動詞が出来たとされている』とある。因みに夏目漱石の「吾輩は猫である」の迷亭絡みの会話に出る奇体な「トチメンボー」のルーツは、これである。]

 

懸巣翔け雲うごきなき谿間かな

 

秋の嶽咫尺す啄木(けら)に日照雨せり

 

[やぶちゃん注:「咫尺」は「しせき」で、「咫」は中国の周の制度で八寸(周代のそれの換算で十八センチメートル)、「尺」は十寸(同前で二十二・五センチメートル)を言い、原義は、距離が非常に近いことを指す。ここではそこから派生した、貴人の前近くに出て拝謁することを、高嶺に鳴くキツツキ(後注参照)に洒落て言ったもの。

「啄木(けら)」鳥綱キツツキ目キツツキ亜目キツツキ科 Picidae のキツツキ、啄木鳥の古語。初夏によく鳴く昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ、螻蛄ではないので注意。

「日照雨」「そばへ(そばえ)」天気雨。一見晴れているのに、ある所だけ雨が降っている状態を指す。片時雨(かたしぐれ)。古語の甘えてふざける、じゃれつく、風雨が軽く吹き降るの謂いの「そばふ」(戲ふ(戯ふ))の連用形が名詞化したもの。]

 

露の巖乙女の草鞋結ばせぬ

 

我を待つよき娘に露の閾(しきゐ)かな

 

   一日アルプスの蒼天を飛行機過ぐ

 

午後三時秋雲を出し機影見ゆ

 

機影見え湯女らの叫(おら)び谺せり

 

機影ゆき秋雲の端に輕雷す

 

桐一葉湯女病む閨は西日滿つ

 

橡みのり温泉の裏嶽雲垂るる

 

[やぶちゃん注:「温泉の裏嶽」は「いでゆのりがく」と読んでいるか。]

 

高原光花壇は土の鎭まれる

 

高原光ピンポンの球ひそむ秋

 

[やぶちゃん注:最近は置かれる温泉宿も少なくなったが、我々の世代から上は温泉と言えば卓球である。なぜ温泉といえば卓球なのかを卓球の専門家に聞いてみたをリンクしておく。]

 

音のして花壇の零餘子霜枯れぬ

 

[やぶちゃん注:「零餘子」「むかご」。珠芽とも書く。ウィキによれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。]

 

露の香や暾あたる嶺草撓むさま

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「つゆのかや/ひあたるみねくさ/たはむさま」である。]

 

秋の温泉に暮雲のいざる大嶺空

 

[やぶちゃん注:「温泉」「ゆ」と訓じ、「大嶺空」は「ダイレイクウ」と音で読んでおく。]

 

温泉の花壇をとめの貌をつぶらにす

 

むかご生り花圃のダリヤは咲き溢る

 

[やぶちゃん注:「生り」は「なり」。]

 

日を厭ひ球屋のをとめダリヤ剪る

 

[やぶちゃん注:「球屋」温泉街にありがちだったスマート・ボールか。推測なので、引用しないがウィキの「スマートボール」をリンクさせておく。]

 

花卉あふれ秋の墓石露滴るゝ

 

   歸路の鵞湖

 

秋鷺翔け繭町の湖鏡なす

 

[やぶちゃん注:「鵞湖」は「がこ」。諏訪湖の別称。句は「しふろ(しゅうろ)かけ/まゆまちのうみ/かがみなす」であろう。「繭町」は養蚕集落を指す造語であろう。諏訪湖周辺では古くから養蚕業が行われていた。信州の養蚕・製糸は明治期、上州を追い抜いて日本一から世界一にまでなった歴史がある。]

2015/12/28

北條九代記 卷第七 將軍御上洛 竝 鎌倉御下向

       ○將軍御上洛  鎌倉御下向

嘉禎四年十一月二十三日、曆仁元年と改めらる。正月二十日、將軍家、御上洛の御門出(おんかどいで)として、秋田城介義景が、甘繩(あまなは)の家に入御あり。同二十八日酉刻に、鎌倉を立ち給ふ。同二月十六日には、江州野路(のぢ)の驛に著き給ふ。翌日子刻、六波羅に著御(ちやくぎよ)あり。路次(ろじ)の行粧(かうさう)、美々敷(びゝしき)こと目を驚かす見物なり。諸國の武士、我も我もと召に應じて、供奉せらる。その出立、壯麗(きらびやか)に、行列亂らず、靜かに打てぞ通られける。駿河前司義村、先陣として、家子(いへのこ)三十六人を隨兵とす。その次には、大河戸(おほかうど)、大須賀、佐原、三騎打竝び、一番より、十二番に連りて、打たれたり。將軍家の御隨兵(ごずゐひやう)、百九十二騎、これも三騎打竝び、各歩立(かちだち)、三人を倶して、小林兄弟、眞壁(まかべ)を先とて、六十四番靜(しづか)に歩ませ、その次には、甲胄、小具足、引馬一疋、歩走(かちはしり)の衆三十人、其次は御乘替(のりかへ)、次に御輿、御簾(みす)を揚げられ、布衣(ほい)に折烏帽子(をりえぼし)を召されたり。その跡には、水干(すゐかん)の人々六番に分ち、是も三騎ぞ打竝びける。第六番は、左京權大夫泰時、隨兵三十人、侍十八人其跡の打籠(うちごみ)の人數は幾何(いくら)と云ふ數を知らず。後陣は修理大夫時房、隨兵二十人、侍十人、その外打籠の輩、數知らず。濟々(せいせい)として通らるゝ。見物の諸人、遠近の輩(ともがら)、野路(のじ)より六波羅まで、道の兩方、垣(かき)の如く充満(みちみち)て、幾千萬とも數を知らず。同二十二日には、將軍賴經公、先(まづ)大相國の御亭に參向し、次に一條殿へ参り向ふ。先駈(せんく)の沙汰には及ばざれども、行列の次第は定められ、先陣は、右馬權〔の〕頭政村、次に將軍は大八葉(はちえふ)の御車、大名十人直衣(なほし)に劍を帶して、御車の左右に歩寄(かちよ)り供奉せらる。次に衞府八人、次に四番の騎馬を打(うた)せ、次に扈從(こしよう)の殿上人、その粧(よそほひ)を正しくし給ふ。同二十三日は、賴經公參内あり。夜に入りて小除目(こぢもく)行はれ、將軍家權中納言に任じ、右衞門督を兼ぜしめ、同二十六日に、検非違使別當(けんびいしのべつたう)に補(ふ)せらる。二十八日に、中納言の拜賀を行はる。三月七日、權大納言に任ぜられ、右衞門督、檢非違使溺當を辭し給ふ。四月七日、大納言の拜賀あり。同十八日に御辞退、同二十五日、一條殿御出家、御戒師は飯室(いひむろ)の前大僧正良快なり。五月十六日、將軍家を、右大臣良實公の亭に請ぜられ、御遊興かぎりなし。福王公(ふくわうぎみ)と申すは、賴經公の御舍弟にて、一條殿の御息(おんそく)なり。去ぬる四月十日、仁和寺御室(おむろ)に入室ありけるが、今日右府の亭へ参り給ひ、御遊(ぎよいう)半(なかば)に福王公の飼ひ給ふ小鳥の、籠より出でて、庭前の橘の梢に留(とま)る。若公深く惜(をし)ませ給ふ。「將軍家の御供に、弓の上手あるべし、死なざる樣に、この小鳥、射取りて參(まゐら)すべし」とあり。賴經公即ち上野十郎朝村(ともむら)に仰含(おほせふく)めらる。朝村、畏(かしこま)つて、引目(ひきめ)の目柱(めばしら)二つを削缺(けづりか)きて挿(さしはさ)み、樹(き)の本(もと)に立寄(たちよ)りけるが、此木、枝葉茂りて、小鳥の姿、葉の下に少(すこし)見ゆる、諸人、瞬(またたき)もせずして守見(まもりみ)る所に、朝村、彼方此方(かなたこなた)、立廻(たちめぐ)りて、遂に矢を發(はな)つ。小鳥は囀る聲を止(とゞ)め、矢は庭上に落ちたりけり。朝村、その矢を取りて奉る。小鳥は引目の中へ射込(おこめ)られてあり。目柱を削(けづり)て缺きたるは、このためなり。小鳥をいだして、籠に入らるゝに、羽打ちて、囀る事、元の如し。堂上、堂下、感ずる聲、暫(しばし)は止(やま)ざりけり。將軍家、御感の餘(あまり)、御衣を給へば、右府は喜悦に堪兼(たへか)ね給ひて、御劍をぞ下されける。六月五日には、將軍家、春日に社參(しやさん)あり。行列の躰(てい)、嚴重なり。翌日、六波羅に還御あり。洛中警固の爲、辻々に篝(かゞり)を燒(たく)べき由、御家人等に充催(あてもよほ)さる。七月十六日、將軍家、本座の宣旨を蒙り給ふ、石淸水、賀茂、祇園、北野、吉田等に、御社參あり。この間に、西國諸公事、悉く仰(おほせ)定められ、六波羅の守護に記渡(しるしわた)さる。同九月九日寅刻に、太白星(たいはくせい)は太微(たいび)を犯(をか)し、熒惑星(けいこくせい)は、軒轅(かんゑん)を犯し、月又歳星(さいせい)を犯す。流星ありて、色白く赤うして、飛ぶ事、數を知らず。同十三日、今夜の明月、殊に雲もなく、一天霽(は)れて隈(くま)もなし。古(いにしへ)は、八月十五夜の月計(ばかり)を賞しけるに、菅丞相(かんしやうじやう)、今夜の月を賞し給ひけるより、今に傳へて、詠(ながめ)ある事に定めらる。或殿上人の御許より、右京權大夫泰時の御方へ、かくぞ詠みてまゐらせられける。

  都にて今も變らぬ月影に昔の秋をうつしてぞ見る

同十月十三日寅刻に、將軍家、關東御下向、前後の陣、供奉の行粧(かうさう)、行列の次第、御上洛の時よりも猶はなやかに出立ちて、目を驚かす計なり。大相國禪閣(ぜんかく)は、四の宮河原に棧敷(さんじき)をうたせて御見物あり。堀河大納言具實(ともざね)卿は大津の浦に車を立てらる。その外、卿相雲客(けいしやううんかく)の車は、所狹(せ)く隙もなし。諸方の貴賤男女は面(おもて)を竝べて垣とし、飽(いや)が上に集ひて是を見る。京都の御逗留御下向の路次(ろじ)すがら、事故(ことゆえ)なく、同二十九日に、鎌倉の御所に著き給ふ。めでたかりける事共なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十二の嘉禎四(一二三八)年正月二十日・二十八日、二月十六日・十七日・二十二日・二十三日・二十六日・二十八日。三月七日、四月七日・十日・十八日・二十五日、五月十六日、六月五日・六日、七月十六日、九月九日・十三日、十月十三日などに基づく。従う御家人の名が多数出るが、既に注した人物も多く、必要と思われる者以外は注さなかった。

「將軍家」藤原頼経(建保六(一二一八)年~康元元(一二五六)年)は当時数えで二十一歳。

「江州野路(のぢ)の驛」現在の滋賀県草津市野路町。平安から鎌倉までは野路宿として栄えたが江戸時代になって宿駅から外されて寂れてしまった。

「一番より、十二番に連りて」増淵勝一氏の訳ではこの「一番」を「二番」の誤りとしているが、「吾妻鏡」を見るとこれで正しい。不審。

「眞壁(まかべ)を先とて」これは「眞下(ましも)」の誤り。「吾妻鏡」には随兵三騎並びの「一番」には『小林小次郎 小三郎』の次には『眞下右衞門三郎』と出る。

「御乘替」将軍が輿を乗り換える際の添え役。

「布衣」狩衣(かりぎぬ)。

「打籠(うちごみ)」軍兵。元は「討ち込み」で、敵味方入り乱れて戦うことからか。

「濟々(せいせい)と」多くて盛んなさま。威儀が整ったさま。

「野路より六波羅まで」大まかな実測でも二十キロメートルはある。

「大相國」太政大臣の唐名であるが、ここは頼経の母方の祖父西園寺公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)を指す。但し、彼は貞応元(一二二二)年に太政大臣になったが、翌貞応二年に従一位に昇進した後に太政大臣を辞任しているが、その後も婿の九条道家(次注参照)とともに朝廷の実権を握った親幕派。

「一條殿」頼経の父九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)。頼経は公経の娘倫子と彼の間の子である。この前年の嘉禎三(一二三七)年三月に就いていた摂政及び藤原氏長者を辞していおり、本文に出る通り、この二ヶ月後の四月二十四日には准三宮宣下を固辞し、翌日に出家して法名行恵と名乗ったが、以後も禅閤(ぜんこう:摂政又は関白の職を子弟に譲った太閤が出家した場合の呼称)として権勢を誇った。義父公経とは公経の晩年には不仲となっていたらしい。親幕派であったが、後の宮騒動で当時の執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃されると、道家はも関東申次の職を罷免されて失脚した。

「先駈の沙汰には及ばざれども」それらの参向の際には、流石に仰々しい先駆けを配するところまではしなかったものの。

「大八葉(はちえふ)の御車」牛車(ぎっしゃ)の「八葉」の車の一つ。「八葉」は「網代車」(あじろぐるま:車の屋形に竹または檜の網代を張ったもので、四位・五位・少将・侍従は常用とし、大臣・納言・大将は略儀や遠出用とした)の一種で、車の箱の表面に八葉の紋をつけたもの。大臣・公卿から地下人(じげにん)まで広く用いられ、紋の大小によって「大八葉車」と「小八葉車」の別があった。「大八葉車」は箱に描かれた八葉の文様が大きいもので、高位の者が用いたもの。「おおはちえふ(おおはちよう)」「だいはちえふ(だいはちよう)」孰れにも読む。

「扈從(こしよう)」「こじゆう(こじゅう)」とも読む(「しょう」は漢音)。貴人につき従うお供の者。

「參内」当時の天皇は四条天皇(寛喜三(一二三一)年~仁治三(一二四二)年:在位は貞永元(一二三二)年から没するまで)。当時、数えでも僅か八歳であった。

「小除目(こぢもく)」定例の春秋の除目の他に臨時に行われた任官式を指す。

「權中納言に任じ」頼経は天福元(一二三三)年一月二十八日に権中納言になっているから、これは如元(もとのごとし)である。

「飯室(いひむろ)の前大僧正良快」(文治元(一一八五)年~仁治三(一二四三)年)は九条兼実の子で天台宗僧。尊忠に学び,、円に灌頂を受けた。京の青蓮院門跡となり、寛喜元(一二二九)年、天台座主。大坂四天王寺別当を経て、比叡山飯室谷(いいむろだに)に籠った。

「右大臣良實」頼経の実兄二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)。但し、父道家は彼を愛さず、不仲であった。

「福王公(ふくわうぎみ)」増淵氏の割注に『後の准三后法助。頼経の養子となる』とある。これは九条道家五男で良実や頼経の実弟に当たる人物で、後に真言僧となった法助(ほうじょ 嘉禄三年(一二二七)年~弘安七(一二八四)年)のことである。ウィキの「法助」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、『非皇族で初めて仁和寺門跡となり、僧侶として初めて准后とな』った人物とある(准后(じゅごう/じゅんこう)は朝廷に於いて太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者を言い、准三后(じゅさんごう)・准三宮(じゅさんぐう)とも称した。勘違いしてはいけないのはこれは男女関係なしである)。実はこのエピソードの翌月、嘉禎四(一二三八)年六月二十三日に『十二歳で出家して京都仁和寺の道深法親王に学び、同年に東大寺戒壇院において満分戒を受ける。延応元(一二三九)年七月二十六日に『に一身阿闍梨の宣下を受け、翌二十七日に准后宣下を受ける。寛元元年』(一二四四年)には「八大師御影」を図し、翌年十二月には『観音院において道深法親王より伝法潅頂を受ける。建長元年(一二四九年)、皇胤以外で初めて仁和寺第ⅹ世を継承して教説を講ずる。正嘉二年(一二五八年)門跡の地位を辞して性助入道親王に譲り、乙訓郡』(おとくにのこおり:現在の京都府内)『開田院に隠退。開田准后・開田御室と号す。文永元年(一二六四年)八月孔雀法を修す。弘安七年(一二八四年)五十八歳で示寂した』とある。但し、本文では出家はこの前月「四月十日、仁和寺御室に入室ありけるが、今日右府の亭へ参り給」うたとあるのとは矛盾する。「吾妻鏡」に六月二十三日とあるので、これは筆者の誤認である。そもそも少年とはいえ、殺生戒を守るべき出家者が籠で小鳥を飼っているというのはちょっと解せないと思ったわい。

「上野十郎朝村」結城朝村(生没年未詳)。弓の達人として知られる結城朝光(ともみつ 仁安三(一一六八)年~建長六(一二五四)年)の子。康元元(一二五六)年に出家している(講談社「日本人名大辞典」に拠る。同辞典にはこのシーンのことがメインに書かれてある)。

「引目(ひきめ)」既出。射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のこと。通常は邪気を払うためにも、音を発して放たれる。

「目柱(めばしら)二つを削缺(けづりか)きて挿(さしはさ)み」ここではその鏑に開いている二つ孔(増淵氏の割注によれば、それを「目」と呼ぶ。私は孔は一つだけと思っていたが、これを読む限りでは孔は複数個開いているらしい)を大きく削り取って開け、そこにすっぽり小鳥が入るように加工したのである。

「堂上」殿上人。清涼殿殿上の間に昇ることの出来る四位・五位以上の者。六位の蔵人(くろうど)はメッセンジャー・ボーイとして昇殿出来たが、殿上人ではないので注意。

「堂下」地下人。殿上の間に昇ることの出来ない六位以下の者。

「右府」右大臣良実。

「洛中警固の爲、辻々に篝(かゞり)を燒(たく)べき由、御家人等に充催(あてもよほ)さる」「吾妻鏡」によれば、これは六波羅還御の十三日後の六月十九日のことである。

「七月十六日、將軍家、本座の宣旨を蒙り給ふ」鎌倉へ戻てよいという宣旨を有り難くお受けになられた、の意。但し、以下を見るように、直ぐに出立するわけではなく、実際の出立はぴったり三ヶ月後の十月十三日であった。

「太白星(たいはくせい)」金星。

「太微(たいび)」古代中国天文学において天球上を三区画に分けた三垣(さんえん)の一つ。今風に言うなら星座の名である。主に現在の獅子座の西端付近の十星に相当する。

「熒惑星(けいこくせい)」火星。

「軒轅(かんゑん)」読みはママ。多くの資料は「けんゑん」と読んでいる。やはり獅子座の一部。

「歳星(さいせい)」木星。

「同十三日、今夜の明月、殊に雲もなく、一天霽れて隈もなし。古は、八月十五夜の月計を賞しけるに、菅丞相、今夜の月を賞し給ひけるより、今に傳へて、詠ある事に定めらる」「菅丞相」は言わずもがな、菅原道真であるが、この伝承、甚だ怪しい(以下の泰時の話は確かに「吾妻鏡」の嘉禎四年九月十三日の条に出るが、この箇所は筆者がしたものである)。ししばしば御厄介になっている水垣久氏のサイト「やまとうた」内の九月十三夜で水垣氏は、九月に限って何故十三夜なのだろう? という疑問を示され、『菅原道真が大宰府で九月十五日夜に詠んだ詩が、誤って十三日の作として伝えられたため、とする説など』があり、『これは江戸時代の学者の説だそうだが、根拠は薄弱である。現代の民俗学者は、農耕儀礼との深い関係を指摘する。しかし「なぜ十三日なのか」を納得させてくれる説を私はいまだ知らない』と記しておられる。

「右京權大夫泰時」「左京權大夫泰時」の誤り。

「或殿上人の御許より、右京權大夫泰時の御方へ、かくぞ詠みてまゐらせられける。/都にて今も變らぬ月影に昔の秋をうつしてぞ見る」「吾妻鏡」嘉禎四 年九月十三日の条を引く。本篇とはシチュエーションが異なっていて、この歌は泰時が旧知の親しい人物へ贈った贈答歌となっている。

   *

〇原文

十三日乙酉。今夜明月得霽。左京兆先年御在京之時。有令對面給之人。御懇志于今不等閑。以月興爲媒。被遣一首御歌。

  みやこにていまもかはらぬ月かけに昔の秋をうつしてそみる

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日乙酉。今夜の明月、霽(はれ)を得たり。左京兆、先年御在京の時、對面せしめ給ふの人有り。御懇志、今に等閑(なほざり)ならず。月の興を以つて媒(なかだち)として、一首の御歌を遣はさる。

  みやこにていまもかはらぬ月かげに昔の秋をうつしてぞみる

   *

なお、増淵氏は「北條九代記」の方の、この前書様の箇所に割注されて、この和歌は「続後撰和歌集」の『巻十六「雑歌上」一〇七一に「平泰時朝臣」が「久しく年経て都に帰りのぼ」って、「昔物申しける人の許に遣し」歌とされている。泰時は承久の變〈一二二一〉の際上京して以来、今度の頼経の里帰りに随行して、十八年ぶりに再上京したわけである』と記しておられ、『都でも今も昔も変わらずに照っている月の光を眺めていると、かつてのなつかしい秋のことが思い出されることです』という現代語訳を本歌に附しておられる。今一度、表記を改め、掲げておきたい。

 

  都にて今も變らぬ月欠けて昔の秋を寫してぞ見る

 

「堀河大納言具實」堀川具実(建仁三(一二〇三)年~建治三(一二七七)年)。「吾妻鏡」こうなっているが、当時は権大納言で、大納言に転じたのは、この三年後の仁治元(一二四〇)年である。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ――磨ぎ直す鏡も淸し雪の花 芭蕉

本日  2015年12月28日

     貞享4年11月24日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月28日

 

  熱田御(み)修覆

磨ぎ直(なほ)す鏡も淸し雪の花

 

「笈の小文」より。平凡ではあるが、祝祭句というものはそれでこそよいと私は思う。熱田神宮のこの時の修復は前年の貞享三年で、芭蕉はこの三年前の貞享元年にも「野ざらし紀行」の旅で熱田を参拝しているが、その時は荒廃の限りを尽くしており、同書では、

   *

 

   熱田に詣づ

 

 社頭大いに破れ、築地(ついぢ)はたふれて草むらにか隱る。かしこに繩を張りて小社の跡をしるし、ここに石を据ゑえて其神と名乘る。よもぎ、しのぶ、心のままに生(お)たるぞ、なかなかにめでたきよりも心とどまりける。

 

  しのぶさへ枯て餠(もち)かふやどりかな

 

   *

詠歎している。かく二句を並列して味わうと、芭蕉の視線が読む者に神妙にシンクロしてくるではないか。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (4) 鷹狩その四(終り)

M744

744

M745

745

M746

746

 

 隼を捕えてそれを訓練する方法は興味が深い。隼を捕えるには、真中が大きく、輪を入れてひろげた長い簡形の網の中へ、雀を入れたものを使用する。この両端を杙(くい)にしばりつけて、地面に置くこと、図744の如くする。この簡の網を横切って、極めて細い糸で編んだ、網目の広い大きな網を、二本の竿にかける。その大きさは高さ六フィート、幅八フィートか十フィートで、上方の細い竹竿と、地面にある割竹とから、容易に外すことが出来るようにかけてある(図745)。雀を捕えるには、鷹匠は頭上を雀の群がとんで行くのを見ていて、呼子で隼の鳴声に似た者を立てる。雀は驚いて直ちに地面に舞い下りるから、鷹匠は網を振り廻して容易に数羽を拾える。この一羽を筒形の、網の内に入れ、おとりに使用する。野生の隼は網の上をとんでいて、雀が筒形の網の中にいるのを見つけ、それに向ってサッと舞い下ると、雀は網の他端へ逃げ、これを追う隼は縦網にぶつかって、直ちにこんがらかって了う。鷹匠は網の作用を私に説明する為に、紐をまるめた大きな球を網にぶつけた。すると網は即座に四隅から外れて、球はそれにつつまれた。捕えた隼は暗い部屋に入れ、食物も飲料も与えず、文字通り餓死させられかけ、ひょろひょろになるので、取扱うことが出来る。鷹匠はそこで顔を布でつつんでその部屋に入り、隼を一時間手でつかんだ上、それに雀の肉の少量を与える。これをしばらくの間、毎日くりかえす。

[やぶちゃん注:「高さ六フィート、幅八フィートか十フィート」高さ約一・八三メートル、幅二・四四或いは三メートル。]

 

 最後に彼は、布を取って部屋に入り、徐々に部屋に光線を入れ、一日ごとに光を強くして行く内に、隼は完全に馴れて飼主を覚える。こうなれば隼は、真昼の光線にあててもたじろがず、誰でもそれを持つことが出来る。それは決して逃げようとせず、箱を叩いて合図すると飼主のところへ来てその手にとまり、全体として合理的な、そして行儀のいい鳥である。鷹の訓練には三十日から四十日かかる。この日使用した隼の一羽は、一ケ月ちょっと前までは、野生の鳥であった。鷹狩に適したこの場所は、二百年以上、この目的に使用されて来た。図746は、運河の一つの入口にある、小さな小舎兼見張所である。男は穀物を小さな漏斗に流し入れ、同時に穴から外を見張っている。何個かの木造の囮(おとり)鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった。

[やぶちゃん注:「二百年以上」明治一五(一八八二)年の二百年前は天和二(一六八二)年で、第五代将軍徳川綱吉の頃となる。

「何個かの木造の囮(おとり)鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった」デコイ(decoy)を生物学者のモースがかく言うのである! 当時の日本の匠(たくみ)のレベルの高さを知るべし!]

 

 外国人は、何故日本人が、彼等が鳥に向ってパンパン発砲して廻ることに反対するのか、不思議に思う。発砲すると、広い区域にわたって、鳥が池から恐れて逃げて了う。上述のように、鷹狩をしたり網を用いたりしていれば、いつ迄も狩を続けることが出来る。

 

 これは、たとえ鴨を食卓にのせる為に捕えるにしても、残酷な遊びのように思われた。すべてのことが静かに、いささかの興奮も無くして行われたことは、如何に屢々この遊びが行われるかを示していた。

[やぶちゃん注:モース先生、鉄砲で狩りをするのも、残酷なことに何ら、変わりはありんせん!!!]

 

 我々は、初めて見たこの古い遊びに、大きに面白くなり、ドクタアは国へ帰ったらこれを始めると誓言したりした。

[やぶちゃん注:モース先生、正直! だから好きさ!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (3) 鷹狩その三


M742

742

 

M743

743

 

 図742これに使用する網の形で、図743は鷹匠の身体つきを示している。腕を大きく振り、鳥が手から離れる時までにその速度を増して行って隼を投げるには、技術を必要とする。投げようが速すぎると、恰も競走している子供を後から押すような具合になり、鳥は前にのめって了う。あまり激しく押すと子供がころぶのと同じ訳である。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (2) 鷹狩その二

 しばらく番小舎で待っていると鈴が鳴り、我々は遊域へ行くのだといわれた。我々の後から一人の鷹匠が、美事な、ほっそりした隼(はやぶさ)を左手に支えてやって来た。鳥はいささかも恐怖のさまを見せず、黄色で黒い瞳の眼を輝かし、非常にまっすぐに、期待するところあるらしく立っていた。我々が入って行った場所には、両側に高い土手を持つ狭い通路がいくつか切り込んであり、土手の上には竹が密生している。我々は一方が竹の林、他方が同様な竹を上にのせた土手の間に、いくつかの入口のある、長い、ひらいた場所へ入った。これ等の竹の林や縁は、人を野鴨からかくして、それが吃驚(びっくり)するのを防ぐようにしたのであるが、日本の野生の鳥は、如何なる種類の隠蔽物をも必要としない位よく人に馴れている。

[やぶちゃん注:「野鴨」ウィキカモによれば、野生のカモ目カモ亜目カモ科 Anatidae に属する鳥類の中でも、雁(カモ科マガン属マガン Anser albifrons などのカモ科の中型種)『に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)では雄と雌で色彩が異なるものをいう。カルガモのようにほとんど差がないものもある。分類学上のまとまった群ではない』とあるが、一応、マガモ属 Anas に属する野生種を概ね称していると考えてよいようではある(マガモ属のタイプ種はマガモ Anas platyrhynchos)。]
 
 

M740

740
 
 

M741

741

 

 だが、先ず主要な沼と、この沼から来ている鴨をおびき込んで、そこから彼等がとび立つ時、場合に応じて変な形の網や鷹でそれを捕える運河とについて語らねばならぬ。鴨が必ず下降する、相当な大きさの池を選ぶなり、人工的につくるなりする。これを密生した竹叢で、ぐるりと取りまき、何人なりとも、たった二人が入れる丈の大きさの小舎に通ずる狭い路以外を通って、そこに近づくことは許されない。この小舎には小さな穴が二つあいていて、そこから池が見える。竹の密林によって、ぎっしり取りかこまれた平穏な水面を、チラリと見、何百という小さな太った鴨の背中に太陽が照り輝き、鴨のあるものは泳ぎ廻り、他のものは日陰にある薄い氷の上で休み、池の真中の小島では大きな鷺(さぎ)が、安心しきって長閑(のどか)に一本脚で立っているのを見た時は、面白いなと思った。所々他の辺に黒く陰になっているのは、そこに鴨をおびき入れる運河である。図740は池と見張所と、池から入っている三本の運河とを示し、図741は運河の断面図である。これ等の運河は、幅は三フィート、あるいはそれ以上で、深さ四、五フィート、運河の両側は一フィート半ばかりの低い土手になり、それから十五フィートほどの空地を置いて高い土手になること、切断面図に示す如くである。この高い土手には竹が密生している。運河にはとびもしなければ、鷹を恐れもしない、馴れた鴨が飼ってある。それ等は屢々餌を貰うから、大きい池へ出て行かぬ。野生の鴨は、然しながら、運河に入って来るので、その末端にある見張所の小さな穴から見ていると、野鴨が入って来たかどうかが判る。

[やぶちゃん注:「見張所」原文“the lookout”。図740に手書きで記されてある。

「三フィート」九十一・四四センチメートル。

「四、五フィート」一・三~一・五三メートル。

「一フィート半」四十五・七二センチメートル。

「十五フィート」四・五七メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (1) 鷹狩その一

 

 第二十六章 鷹狩その他

 

 この前の日曜日(十二月二十四日)ドクタア・ビゲロウと私とは、黒田侯に招れて、東京の郊外にある彼の別荘へ、鷹狩の方法を見に行った。我々は八時半その家へ着き、直ちに狩番小舎ともいう可き場所へ行った。これは広い、仮小舎みたいな物で、北風を避けて太陽に開き、中央には炭火を充した大きな四角い穴があり、人々はここで手足をあたためる。そこには卓子(テーブル)と椅子とがあり、葉巻、茶菓等が置いてあった。近くにある鴨の遊域とこことの間には、電気の呼鈴がかかっている。別の部屋には召使いがおり、鷹匠達は外側に住んでいる。長い托架には、長い竿のついた奇妙な形の網がいくつもあり、一方側には数箇の区ぎりのある小さな建物があって、そこには鷹が飼ってあった。

[やぶちゃん注:「鷹狩」タカ目タカ科のイヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos・ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis・ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus や、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus などを調教し、鳥類や兎・狼・狐などの哺乳類を捕らえさせる狩猟法。ウィキの「鷹狩」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。彼らが捕えたものは用意した餌とすり替えるもので、主人の『元に運んでくるというのは俗信である』。『鷹を扱う人間は、鷹匠(たかじょう)と呼ばれる。日本語の古語においては鳥狩(とがり)』などと称し、『鷹を訓練する場所は鷹場(たかば)と称される』。『日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(三五五年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代に入ると新設の蔵人所にも鷹飼が置かれ、主鷹司が天皇の鷹狩を、蔵人所が贄調達のための鷹狩を管轄するようになる。だが、仏教の殺生禁止の思想の広まりにより鷹狩に否定的な考えが生まれて鷹の飼育や鷹狩に対する規制が取られるようになり、清和天皇は真雅や藤原良相の助言を受け入れる形で、貞観二年(八六〇年)に主鷹司の廃止と蔵人所の鷹飼の職の廃止が行われ、以降鷹の飼育に関する規制が強化された。次の陽成天皇の元慶六年(八八二年)に蔵人所の鷹飼のみ復活され、蔵人所が鷹狩を管掌する』。『奈良時代の愛好者としては大伴家持や橘奈良麻呂が知られ、平安時代においては、初期の桓武天皇、嵯峨天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(八一八年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で二番目に古い。中期以降においても、一条天皇、白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られ、源信は鷹狩の途中で事故死したと伝えられている』。『鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である』。『古代の鷹狩は仏教の殺生禁止の思想と神道における贄献上の思想(天皇についてはこれに王土王臣思想が加わる)のせめぎ合いの中で規制と緩和が繰り返されてきたが、最終的には天皇と一部貴族による特権とされるようになった。また、鷹狩の規制は鷹の飼育や狩りで生活をしてきた蝦夷の生活を圧迫し、平安時代前期の蝦夷の反乱を原因の一つになったとする見方もある』。『中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝や聖衆来迎寺六道絵の描写や『吾妻鏡』・『曽我物語』の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。東山で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことが『信長公記』に記載されている。また、朝倉教景(宗滴)は、オオタカの飼育下繁殖に成功しており、現在判明している限りでは世界最古の成功記録である(『養鷹記』)。公家及び公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿の持明院家、西園寺家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(『鷹書』)が著されている。近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉と徳川家康に解説書『龍山公鷹百首』を与えている。一方、武家においても、諏訪大社や二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、禰津流、小笠原流、宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津信直門下からは、屋代流、荒井流、吉田流などが分派した』。『戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。五代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている』。『鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は一据十両、中期では二十~三十両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった』(「据」は鷹狩用の鷹を数える際の数詞のようである。鷹は腕に「据える」ことに由来するものであろう)。『明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され』、このモースの体験の十年後の明治二五(一八九二)年の勅令『「狩猟規則」及び一八九五年の「狩猟法」で九年間免許制の下に置かれたが』、明治三四(一九〇一)年の『改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。明治天皇の意により、宮内省式部職の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、第二次世界大戦後、宮内庁による実猟は中断している』とある。

「十二月二十四日」明治一五(一八八二)十二月二十四日日曜日である(確認済)。磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二八二頁に以下のようにある。『ビゲローとともに黒田長溥(ながひろ)元福岡藩主の別荘に招待され、別荘内の大きな池で鴨猟と鷹狩を見学』。『この別荘は赤坂福吉町』(ふくよしちょう。現在の赤坂二丁目で国会議事堂の西南五百メートル強)『南部坂』(赤坂二丁目と六本木二丁目の境界にある坂道。国会議事堂の西南一キロ強)『の脇にあった、いまの衆議院議員宿舎』(国会議事堂西南八百メートル弱)のやや南に当る』(現在の六本木通りの北直近)。『こんな都心で鴨猟や鷹狩が行われていたのだ!』と磯野先生、珍しく感嘆符まで附しておられる。場所が場所だけに(といっても私は六本木通りを歩いたことはない)私も吃驚!

「黒田侯」前注の引用で判る通り、黒田長溥(文化八(一八一一)年~明治二〇(一八八七)年)。筑前福岡藩第十一代藩主(最後の藩主ではない。最後の第十二代は彼の嗣養子の黒田長知)。以下、ウィキの「黒田長溥」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。養父斉清(なりきよ)と『同じく蘭癖大名であり藩校修猷館を再興させた事で知られる幕末の名君である』。『薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。二歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという』。『文政五年(一八二二年)、第十代福岡藩主・黒田斉清の娘、純姫と婚姻。婿嗣子となり、養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を賜って黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄にあたる)』。天保五(一八三四)年十一月に『養父の隠居により、家督を相続した。就任後は実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉を建設した。次いで見込みのある藩士を積極的に出島に派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。藩士たちの一部から福岡県で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。蘭癖と称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校の創設や種痘の実施、領内での金鉱・炭鉱開発を推進したが、鉱山関連に関しては、様々な困難や妨害、当時の日本における石炭を使った産業を育成しようとしたが、当時は技術がそれほど進んでおらず道半ばであった』。『嘉永元年(一八四八年)十一月、伊勢津藩主・藤堂高猷の三男・健若(のち慶賛、長知)を養嗣子とする。嘉永三年(一八五〇年)、実家島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて、老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永らに事態の収拾を求め、翌嘉永四年(一八五一年)、その仲介につとめ、斉彬の藩主相続を決着させた』。『嘉永五年(一八五二年)十一月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年十二月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老黒田増熊が処分を受けることもなかった』。『嘉永六年(一八五三年)七月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ再度建白書を提出。この中で、蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、アメリカ・ロシアと同盟すればイギリス・フランスにも対抗し得ることなどを主張している』。『安政六年(一八五九年)には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとった事もある』。『元治元年(一八六四年)、参議となり筑前宰相と呼ばれ』た。『斉溥は斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。慶応元年(一八六五年)、藩内における過激な勤王志士を弾圧した』(乙丑(いっちゅう)の獄)。『しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にしていた』。『明治初期頃、名を長溥(ながひろ)と改めた。明治二年(一八六九年)二月五日には隠居して、養嗣子の長知に家督を譲っている。長知が岩倉使節団に随って海外留学する際に、金子堅太郎と團琢磨を出し、長知に随行させた。團は、かつて長溥が行った種痘の実験で長男を死なせた側近・神屋宅之丞の四男で、無残な結果を悔やんだ長溥の、神屋に対する詫びとしての指名だったとも言われている』。このモース来訪の三年後の明治一八(一八八五)年には『金子堅太郎の献策を採用し旧福岡藩士との協議の末、黒田家の私学・藤雲館の校舎・什器一切を寄付し、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)として再興』している。この当時、数え七十二歳。彼の経歴から、モースを招待したのも腑に落ちる。]

甲子夜話卷之一 47 森武藏守戰死のときの甲冑所在の事

47 森武藏守戰死のときの甲冑所在の事

予在勤のとき、森右兵衞佐〔赤穗城主〕と屢相會す。其時語たる中に、彼先の武藏守は、世に鬼武藏と稱たるにて、長久手に於て戰死す。其時着したる具足、今に家傳す。黑糸威の鎧なるが、小兵と覺えて、胴小くして某には合はずと。此右兵衞佐もさほど大兵にはなければ、彼鬼武藏と云しは、世の沙汰には似ず小兵と見えたり。又曰、其時着したりし兜は、家には傳らず。聞に永井の家に有りと語れり。

■やぶちゃんの呟き

「森武藏守」戦国から安土桃山期にかけての武将で大名の森長可(もりながよし 永禄元(一五五八)年~天正一二(一五八四)年)。長一と言い、武蔵守を称した。織田信長に仕えて武田攻略で功を立て、信濃川中島城主となって北信四郡を領した。本能寺の変後、豊臣秀吉に従う。天正一二(一五八四)年の秀吉と織田信雄及び徳川家康との小牧・長久手の戦いでは、舅(しゅうと)池田恒興(つねおき)とともに秀吉方についた。以下は具体性に優れたウィキ森長可より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。三月十六日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は十五日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら五千人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、十七日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開』いた(羽黒の戦い)。『奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など三百人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した』。『後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第二陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った』。『しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第三陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が二陣と三陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となって』、『もはや決戦は不可避となり』、『池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成の家臣・水野太郎作清久の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した』。享年二十七の若さであった。なお、同ウィキの「逸話」の項には、『武蔵守の由来については次のような伝説がある。信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させた。長可が関所に差し掛かると関守に下馬して家名を名乗るように言われたが、長可は急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長は笑って、昔』、『五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという』とある。

「在勤」藩主江戸詰めの際に登城すること。

「森右兵衞佐」播磨赤穂藩第七代藩主で赤穂藩森家十三代の森忠賛(ただすけ 宝暦八(一七五八)年~天保八(一八三七)年)。但し、赤穂藩森家は森家主家の傍系である。静山より二歳年上であった。

「彼先の」「かの/せんの」。

「鬼武藏」ウィキ森長可の「人柄」の項に、父可成(よりなり)『と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い』とある。

「黑糸威」「くろいとをどし(くろいとおどし)」。

「小兵」「こひやう(こひょう)」。小柄。体つきが小さいこと。

「大兵」「だいひやう(だいひょう)」大柄。体つきが大きいこと。

「永井家」戦国から江戸初期に活躍した大名で上野小幡藩主・常陸笠間藩主・下総古河藩初代藩主であった永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)を宗家初代とする永井家か。但し、永井直勝は家康の家臣となって長久手の戦いでは当の森長可の舅である池田恒興を槍で討ち取った人物ではある。なおそれでも、文禄三(一五九四)年に、亡き恒興の次男であった池田輝政が家康の次女督姫を娶った際には、輝政の求めに応じ、長久手の戦いでその恒興を討ち取った際の事を語ってもいる(ここは主にウィキ永井直勝に拠った)。

譚海 卷之一 藝州佛巖寺の事

 藝州佛巖寺の事

○安藝國に佛巖寺といふあり。寺領六高石程あり。西本願寺末なり。一代かはりに國守の親族住持する寺也。和漢の内典(ないてん)我(わが)朝(てふ)にあるほどのものは藏書せしに、住持三代をへて成就せしとぞ。輪藏(りんざう)三箇所・土藏八箇所に充滿せり。書のあたひは八千兩に及べりといへり。

[やぶちゃん注:「目錄」では次のこの標題に二字空けをした上で次の「加州城中幷家士等の事」が同行に出る。

「佛巖寺」底本の竹内利美氏の注に『現在の広島別院である仏護寺であろう』とある。これは現在の本願寺広島別院と同一(後身)である。ウィキの「本願寺広島別院」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『広島県広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派』(「お西さん」)『の寺院。旧安芸国の安芸門徒と呼ばれる浄土真宗門徒の活動の中心寺院で』、『本願寺広島別院の前身は、長禄三年(一四五九年)、安芸武田氏によって、現在の武田山の麓(現広島県立祇園北高等学校付近)に建立された、龍原山仏護寺である。この寺院は安芸武田氏の影響下にあり、初代住職正信も安芸武田氏一門であった。建立当時は天台宗の寺院であった。しかし、第二世住職円誓は、本願寺の蓮如に帰依して、明応五年(一四九六年)に浄土真宗に改宗した』(竹内氏は創建を長禄元年とするが、「本願寺広島別院」公式サイトの広島別院・安芸教区についての記載も長禄三年で誤りである)。『その頃の安芸国は戦乱の日々で、安芸武田氏はその波に揉まれ、第三世住職超順の時代、天文一〇年(一五四一年)に安芸武田氏は大内氏と毛利氏に攻められて滅亡してしまう。仏護寺は堂宇を焼失するなど大きく疲弊するが、信仰心篤い毛利元就の庇護を受け、石山合戦では毛利軍の一員として畿内に出兵した』。『豊臣秀吉の世になると、毛利輝元は広島城の築城に着手。その時の町割によって天正一八年(一五九〇年)、仏護寺は広島小河内(現広島市西区打越町)に移転した。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去るが、その後領主となった福島正則によって、慶長一四年(一六〇九年)に、現在の寺町へと移転させられた』。『福島正則の去ったのち広島は浅野氏の支配となるが、そのまま浅野氏の庇護を受けて明治維新を迎えた。明治九年(一八七六年)から約二年間、仮の広島県庁舎がここに置かれている』。その後の『明治三五年(一九〇二年)十一月に、広島別院仏護寺と改称。その六年後の明治四一年(一九〇八年)四月に、現在の名である』「本願寺広島別院」と改称した(下線やぶちゃん)。『太平洋戦争末期の昭和二〇年(一九四五年)八月六日、原子爆弾が広島市に投下され、爆心地からわずか一キロメートル足らずの広島別院は廃墟と化すも、戦後の昭和三九年(一九六四年)十月に本堂が再建され』た。『浄土真宗本願寺派では、全国を三十一の教区、五百三十三の組(そ)に分けられているが、広島別院の管理する広島県西部の地域は安芸教区と呼ばれ、二十五の組に分けられている。教区内には現在五百五十ほどの寺院があるが、門徒の減少、後継者の不足等に悩まされている』とある。

「内典」仏教で仏教の経典を指す。因みに、それ以外の書物は「外典(げでん/げてん)」と称するが、本邦に於いて仏教で「外典」と言う場合は、主に儒学書を指す。

「輪藏」一切経などの大部の経典を収める経蔵(きょうぞう)。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ――薬吞ムさらでも霜の枕かな 芭蕉

本日  2015年12月28日

     貞享4年11月24日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月28日

 

   翁心地あしくて欄木起倒子へ藥の事い

   ひ遣(つかは)すとて

薬吞ムさらでも霜の枕かな

 

「如行集」。「笈の小文」には載らない。欄木起倒子は「らんぼくきたうし(らんぼくきとうし)」と読み、名古屋星崎(現在の名古屋市南区星崎)の医師欄木三節の俳号。芭蕉は長逗留した知足亭を十一月二十一日に出て、熱田蕉門の林桐葉(はやしとうよう 林七左衛門)の邸宅へと移り、同月二十五日には名古屋の荷兮(かけい)亭へ赴いている。山本健吉氏は「芭蕉全発句」で、本句はこの二十一日から二十五日の閉区間の間で作句されたものとしており、さらに二十四日附寂照(知足)宛書簡から、

 

持病心氣(ごころき)ざし候處、又咳氣いたし藥給(たべ)申候

 

と引くことから、それに基づいて取り敢えずここに本句を配することとした。「熱田皺筥物語(あつたしわばこものがたり)」(東藤編・元禄八(一六九五)年跋)には、

 

   一とせ此所にて例の積聚(しやくじゆ)

   し出て、藥のこと醫師起倒子三節にいひ

   つかはすとて

 

と前書する。「積聚」は所謂「差し込み」で胸部から腹部にかけての強い痛みを指す。山本氏二よれば「如行集」のこの句には脇句として「昔忘れぬ草枯の宿  起倒」が録されている、とある。この起倒子の名は二年前の貞享二年の、

 

    其起倒子が許(もと)にて、盤齋(ば

    んさい)老人のうしろむける自畫の像

    に

 團扇(うちは)もてあふがむ人のうしろつき

 

の句の前書に登場している、かねてよりの馴染みの医師でもあった(「盤齋」は摂津出身の僧で古典学者であった加藤盤斎。俳諧にも長じた。隠逸漂泊を好み、晩年は熱田に住んで延宝二年に五十四歳で没した文壇の著名人。この事蹟は田中空音氏の「芭蕉全句鑑賞」を参照した)。

2015/12/27

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(4) 二 子の保護(Ⅲ)

Tatu_youji

[たつのおとしご(左)  やうじうを(右)]

Tamagowoharani

[腹に卵を著ける魚]

Togeuo

[とげうを]

[やぶちゃん注:以上、三図は総て国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 魚類も殆ど悉く卵を産み放すだけで、親が子を保護するやうな種類は滅多にない。しかしよく調べて見ると、全くないこともなく、しかも意外な方法で子を保護するものがある。例へば「たつのおとしご」や「やうじうを」の雄は、雌の産んだ卵を自分の腹の外面にある薄い皮の囊に受け入れ、幼魚が孵化して出るまでこれを保護する。兩方ともに殘い海底の藻の間に住む魚類で、別に珍しいものでもないが、一寸變つた形をして居るから、見慣れぬ人には珍しく見える。「たつのおとしご」の雄の腹の囊を開いて見ると、中に赤い卵が四五十粒もあるが、普通の魚類が一度に幾十萬の卵を産むのに比べると、頗る少いといはねばならぬ。「やうじうを」のは幾らか多いが、それでもなほ少い。海藻の間に居る魚には雌の腹鰭が左右寄つて囊の如き形となり、その内に卵を入れて保護する種類もある。また「はぜ」に似た魚で、卵を體の腹面に附著せしめて保護するものもあり、外國産の魚には雌の産んだ卵を雄が口中に銜ヘて保護するものさへある。巣を造つてその内に卵を産むものは魚類には甚だ稀であるが、その中で、淡水産の「とげうを」類が最も名高い。この類は恰も鰹を小さくした如き形の魚で、諸處の水の綺麗な池や川に居るが、産卵期になると雄は腎臟から出る粘液を用ゐて、水草の莖などを寄せ集めて圓い巣を造り、雌を呼び來つてその内に卵を産ませ直にこれを受精して、その後は絶えず近邊に留まつて番をして居る。なかなか勇氣のある魚で、指で巣に觸れでもすると、直に脊の棘を立てて攻めて來る。親魚の大きさに比べると割合に大さな卵で僅に百か百五十位より生まれぬ。

[やぶちゃん注:「たつのおとしご」「やうじうを」孰れも同所に既注

「海藻の間に居る魚には雌の腹鰭が左右寄つて囊の如き形となり、その内に卵を入れて保護する種類もある」これは幾種かが考えられるが、育児囊が腹鰭の変形によるものであること、藻場或いはそれに準ずる海域を生息域とすることから、

新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ上科カミソリウオ科カミソリウオ属 Solenostomus

を挙げておく。和名カミソリウオは細長い体型に由来するものと思われ、参照したウィキの「カミソリウオ科」によれば、科名 Solenostomidae の由来は、『科名の由来は、ギリシア語の「solen(パイプ)」と「stoma(口)」から』とある。カミソリウオ科はカミソリウオ属一属で構成され、総て熱帯性沿岸魚で、四乃至五種が記載されている。日本近海には、

 カミソリウオ Solenostomus cyanopterus

 ニシキフウライウオ Solenostomus paradoxus

 ホソフウライウオ Solenostomus leptosoma

の三種が棲息する。は『腹部に変形した腹鰭によって形成された育児嚢をもち、受精卵を保護する習性があ』り(下線やぶちゃん)、近縁のヨウジウオ科(以下に記載)では育児嚢を持つのは雄であるが、『本科では逆になっている』とある。なお、上記のヨウジウオ上科ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の育児嚢はが若い頃から形成が始まり、これは体の左右の皮褶(ひしゅう)が腹部正中線で完全に合わさって形成されたもので、その先端に小孔が開いている。一方、ゲウオ目ヨウジウオ科ヨウジウオ属ヨウジウオ Syngnathus schlegeli のそれは、卵の周囲に表皮が被さるように形成される被服型であって、タツノオトシゴのように袋状に閉鎖していない。また、先のリンク先の注で「海藻魚」に同定したヨウジウオ科ヨウジウオ亜科 Phycodurus 属リーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques の場合は育児嚢は未発達で、尾の近くの表皮上に卵を載せて接着させるだけで、卵自体はは露出している。ここは「上智大学分子進化学研究室」公式サイト内の「繁殖戦略はどのように進化したのか?」を参考させて頂いた。

『「はぜ」に似た魚で、卵を體の腹面に附著せしめて保護するもの』図にでるものであるが、同定し得なかった。描かれた魚体からは条鰭綱ナマズ目 Siluriformes のようにも見える。識者の御教授を乞う。

『外國産の魚には雌の産んだ卵を雄が口中に銜ヘて保護するものさへある』これは所謂、口内保育、マウスブルーディング(mouth brooding)をする魚類で、こうした特異な育児法を採る生物をマウスブルーダー(mouthbrooder)と呼ぶ。両生類ではチリやアルゼンチンの森林の小川に棲息する無尾目カエル亜目ダーウィンガエル科ハナガエル属ダーウィンハナガエル Rhinoderma darwinii が知られる(本種はウィキの「ダーウィンハナガエル」によれば、メスは約三十個の『卵を産み、オスは卵が孵化するまで、おおよそ』二週間、『それを守る。その後、オスは鳴嚢の中で生き残った全ての子供を育てる。オタマジャクシは卵黄を食べながら、袋状の顎の皮膚の中で成長する。オタマジャクシが』一・二七センチメートル程度まで『成長すると、口の中から飛び出て泳ぎ去る』とある)。マウスブルーディングをする魚類は意外に多く、ウィキの「マウスブルーダー」によれば、『淡水魚・海水魚問わず様々な種類の魚がそれぞれ異なる進化の過程で口内保育を行うようになり、その保育形態もいくつかのパターンに分かれる』とし、『口の中に卵があれば、外敵に卵を食べられる恐れはなく、仔魚になってからも、周辺に危険が迫ると口の中に隠れることで、捕食される確率は大幅に下がる。ただし、卵および子供の総量は親の口腔内部の大きさで制限される。また、親はその間の採餌が困難になる』。『托卵する魚の中にはマウスブルーダーに托卵することにより自身の卵を守らせ、そして托卵した魚の稚魚を餌に成長していくものもいる』。タンザニア西端にある淡水湖タンガニーカ湖に生息する条鰭綱ナマズ目サカサナマズ科シノドンティス属シノドンティス・マルチプンクタータス(Synodontis multipunctatus) 『がその代表例』とし、彼らは、マウスブルーダーである

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目カワスズメ(シクリッド)科 Cichlidae のシクリッド類(タンガニーカ湖産の Cyphotilapia  Cyphotilapia frontosa などか)

に自らの卵を寄託する托卵を行うとある。本邦産のマウスブルーダーとしては、

スズキ目スズキ亜目テンジクダイ科テンジクダイ亜科テンジクダイ属テンジクダイ Apogon lineatus

が最も知られるものの一種であろう。ウィキの「テンジクダイ」によれば、『日本など太平洋北西部を中心に分布する。分布域は広く北海道噴火湾以南から台湾、中国、フィリピンなどに分布が広がる。この種は内湾から水深』百メートル付近の『砂泥底に生息し、あまり浅いところや岩礁域、漁港などではあまり見られない。大きな大群で沖合いを回遊しながら生息していると思われる。そのため、一般の人が目にする機会が少ない種であるが、意外なことに東京湾内は本種が生息している』。『関西、岡山・広島県の備後地方では「ねぶと」(広島県の備後地方以外「ねぶとじゃこ」)とよばれ、他に「いしもち」(岡山、香川)、「めぶと」(岡山県の一部地域)、「めんぱち」(広島県の一部地域)などがある』。『最大体長』十センチメートルほどの夜行性の小型魚類で、淡黄色の体色を持ち、『体側に暗色の細い横帯が』十本『近くある。背びれ棘の上縁部が暗色』、同類のテンジクダイ属ネンブツダイ Apogon semilineatusと比べると、『色合いが地味で目立ちにくく、意外と数も多く捕獲されているが知らない人も多い。比較的沖合いの深い所を好むため目にすることが少ない。そのためか、生きている姿も普段見ることもない』。『親魚が受精卵を孵化するまで口にくわえて保護する、いわゆるマウスブルーダーを行う。卵の保護は雄が行うと推測されている』(下線やぶちゃん)。

「とげうを」条鰭綱トゲウオ目トゲウオ亜目トゲウオ科 Gasterosteidae に属する魚類群。ウィキの「トゲウオ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『トゲウオ類はすべての種が、雄による巣作りと卵塊の保護を行う。海産種は海藻を、淡水産種は水草または水底を利用した巣を形成する。本科魚類は進化学・遺伝学・動物行動学・生理学の研究対象として古くから利用され、多くの業績が導かれている。オランダの動物行動学者であるニコ・ティンバーゲンは、イトヨの本能行動を詳細に解析した研究により、一九七三年のノーベル生理学・医学賞を受賞している『トゲウオ類、特にイトヨ属の雄が示す繁殖行動の特徴として、鮮やかな婚姻色、分泌物を利用した巣作り、求愛のダンス、および卵の世話が挙げられる。繁殖期を迎えた雄の腹部は赤色を呈し、水底に縄張りを形成するようになる。腎臓から分泌される特殊な粘液状の物質(グル)を使って巣作りをし、ジグザグに泳ぐ独特なダンスによって雌を呼び込む。背鰭の棘条で突き上げる仕草(ブリッキング)によって巣に誘導された雌は、数十秒かけて産卵した後ただちに雄から追い立てられ、子育てに参加することはない』。『こうして何匹かの雌に卵を産ませると、雄は巣をグルによってさらに固め、卵塊を保護する。雄は鰭を使って卵に新鮮な水流を送り(ファニング)、胚発生が進むにつれて徐々に巣を壊し、充分な酸素が供給されるようにする。孵化した仔魚はしばらく巣にとどまり、離れた仔魚を雄が口に入れて連れ戻す姿が観察される』。『本科の中で最も原始的な群とされるウミトゲウオでは、繁殖行動はやや単純化されている。海産の本種は藻場に縄張りをもち、海藻の根元に鳥の巣に似た巣を形成する。雄は求愛のダンスはせず、巣に近づくものは雌雄を問わず攻撃する。産卵の意思をもつ雌は攻撃にひるまず、これを確認した雄は吻を巣に突っ込んだり、雌の尾柄をかんだりして巣に誘導する。産卵と受精が済むと、イトヨと同じように雌は雄の攻撃によってすぐに巣から追い払われる。これを何度か繰り返した後、雄はファニングで新鮮な水を卵塊に送り、胚の成長につれてその頻度が増加する』。『ウミトゲウオの雄は他の巣に産み付けられた卵を奪い、元親に代わって育てるという特異な習性も知られている。この習性の意義はよくわかっていないが、繁殖経験を有する(強い)雄であることを雌にアピールしている可能性が指摘されている』とある。本邦産はイトヨ属の二種、

 イトヨ Gasterosteus aculeatus

 ハリヨGasterosteus microcephalus

及びトミヨ属の五種、

 トミヨ Pungitius sinensis

 エゾトミヨ Pungitius tymensis

 キタノトミヨ(イバラトミヨ)Pungitius pungitius

 ムサシトミヨ Pungitius sp.(学名未定)

 ミナミトミヨ Pungitius kaibarae

の計二属七種が報告されているが、この内、ムサシトミヨは『埼玉県の一部(熊谷市)にしか生息しない日本の固有種で』、『関西地方に分布していたミナミトミヨ』は残念ながら一九六〇年代までに『絶滅したとみられている』。『日本のイトヨには陸封型と降海型の二グループが存在する。生涯を淡水域で送る陸封型は北海道(阿寒湖など)と本州(福島県・福井県など)の内陸部に、海で成長して産卵期に河川に遡上する降海型は北海道・本州の平野部に分布する。これに加えて、イトヨは日本海型と太平洋型という遺伝的に異なる二型にも分けられ、両者に生殖的隔離が存在することが明らかにされている。ハリヨは滋賀県ならびに岐阜県に分布し、後者の生息地はトゲウオ科魚類の南限の一つとみなされている』。『トミヨ属の残る三種は、エゾトミヨが北海道、トミヨとイバラトミヨはそれぞれ福井県以北、新潟県以北の河川に分布する。このうちイバラトミヨは秋田県雄物川水系と山形県のみに生息する「雄物型」』(おものがた:イバラトミヨ(通称ハリザッコ)と呼ばれていた五センチメートルほどのトゲウオ科の淡水魚で、秋田県内にはトミヨ属淡水型もいるが、雄物型は分布が雄物川水系に限定される希少種である。環境省の「レッドデータブック」では絶滅危惧1A類(近い将来、絶滅の危険性が極めて高いグループ)に指定されている。ここは『朝日新聞』の「キーワード」の解説に拠った)『と、「淡水型」および「汽水型」に分けられ、それぞれが独立種である可能性が指摘されている。それぞれ単独の種として記載されておらず、いまだ学名をもたない』とある。]

例えばこんなのがマニアックな僕の注だ……

どんな注をつけてるかって? 梅崎春生の「幻化」の今さっきつけた注を見せようか?

『「君もその鼻髭、剃ったらどうだい。あまり似合わないよ」/「あの日から剃らないんですよ」/左の人差指でチョビ髭をなで、丹尾は沈んだ声で言った。/「髭を立てたんじゃない。その部分だけ剃らなかっただけだ。記念というわけじゃないけどね」』「あの日」は言わずもがな、「一箇月前に」「妻子を交通事故でうしなってしまった」日から、である。丹尾なりの亡き妻子への哀傷の印、彼の聖痕(スティグマ)なのである。無論、こんな分かり切ったことを注しようとしたのではない。何故、梅崎はここで丹尾の自分で「立てた」ように見える「チョビ髭」を嫌ったのかが私には気になるからである。ウィキ口髭に以下のようにある。『近代では、口髭は軍人に好まれた。多くの国々において、部隊や階級ごとに様々なスタイルやバリエーションが見られた。一般的に、若い下級の兵士は、比較的小さな、あまり手の込んでいない口髭を立てる。やがて昇進していくと、口髭はより分厚くなり、さらには全てのひげを伸ばすことが許されるようになる』と。五郎は丹尾の髭に戦時中のおぞましい軍人らの髭を思い出したからではなかろうか?

「誰だって他の人とは関係ないさ」

「誰だって他の人とは関係ないさ」――
「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」――

(梅崎春生「幻化」の五郎の台詞)

停滞にあらず

2016年1月1日0:01以降の梅崎春生テクスト電子化注釈を夥しく作成、公開予約中也――

2015/12/24

小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注)

[やぶちゃん注:これは Lafcadio Hearn Glimpses of Unfamiliar Japanの全訳(落合貞三郎・大谷正信・田部隆次分担訳)の三氏による「あとがき」と奥附(画像)である。各「あとがき」には個別な標題はないで、分り易くするために間に「*   *   *」を入れた。底本は本文同様、大正一五(一九二六)年八月第一書房刊「小泉八雲全集 第三卷」(全篇が本作)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した。 踊り字「〱」は正字化した。底本の清音の踊り字「〻」は私が嫌いなので「ゝ」とした(本文では「ゞ」を用いているので統一したかったからでもある)。注は各人の記載の後に附した。]

 

 

 

 あとがき

 

 

 

 明治二十三年四月の或る晴れた朝、ヴァンクーバーから十餘日の波路を蹴つて、今しも横濱へ着せんとする汽船の甲板上に立てる一人の外客は、遠く春の空にまだ雪を戴いた冨士を仰いで頻りにその麗容雄姿を歎賞し、近く船客が投ずるパン屑に群がる人馴れた海鷗に興じ、親子の水夫が腕も股も露はに櫓を漕いで過ぎ行く艀舟(サンパン)の中に、七輪に炭火を起して筒易な朝食の鍋がかけてあるのを眺めて珍しがつた。しかしこの外客は單なる觀光の客となつて、日光鎌倉京都の皮相的見物に終始して去り行くものとはならなかつた。

 彼は世界に知られぬ方面の日本を見た。彼は日本の心を見た。彼は歸化して小泉八雲となつた。

 

 この國に見る一切のものが、奇異で、また美はしく、呼吸する空氣も一種淸涼快爽の味を含み、蒼空の色さへ西洋のそれと異つて柔かな光を帶びて感ぜられ、下駄の音までも心地よく聞かれた。世界を放浪し來つたへルン先生は、ここに始めて東海の一隅に蓬萊の樂境を見出したのであつた。して、かかる氣分の横溢せる日本渡來當時の先生の日本印象記が、本書である。

 本書の原名を Glimpses of Unfamiliar Japan といふ。上下二卷、收むる處、上卷十五章下卷十二章。一八九四年(明治二十七年)米國がボストン市にて出版された。横濱を振出しに、鎌倉、江ノ島に遊び、中國山脈を越えて鳥取街道に出で、伯耆國下市に盆踊を見、松江を中心として、出雲の名所、杵築、美保の關、潜戸、日ノ御崎、八重垣神社を訪ねたる紀行の間に、日本の風景、歷史、美術、宗教、迷信、風俗、殆ど日本についてのあらゆる方面に觸れざる處はない。

 松江は遂にこの流浪の客に安住の心境を與へ、四十歳にして始めてホームを作らしめた。高天原を去り、韓土にさすらひ、孤劍飄然出雲に來りし素尊が、稻田姫を娶つて詠まれた歌の「八雲」なる文字が、半生數奇の運を經て、遂に出雲で良緣を結ばれた先生の、日本人としての名であることは、いかにも適はしい。この神國出雲の土地に於て、いよいよ先生の日本内地の眞研究は始まつた。横濱時代は眞鍋晃といふ靑年佛教學生が通譯であつたが、松江時代の輔助者としては小泉夫人、これに加ふるに、中學教頭西田千太郎先生と學生大谷繞石君があつた。これから遂に最後の『神國日本』なる日本に關する卒業論文と稱すべき名著が書かれ、遺著『天河の緣起そのほか』の出版さるるまで、十四卷の勞作に對して、本書は序説または總論と見倣さるべきものである。先生の日本に關する著書を讀むには、日本禮讚の大殿堂の參道に立てるこの堂々たる鳥居を潜らねばならない。


            落合貞三郎
 

 

[やぶちゃん注:「明治二十三年」西暦一八九〇年。

「四月の或る晴れた朝」四月四日。

「艀舟(サンパン)」ウィキの「サンパンより引く。『サンパン(広東語:舢舨、英語:Sampan)は、中国南部や東南アジアで使用される、平底の木造船の一種』。『サンパンは、港や川岸から比較的低速・安全に人や少量の荷物を輸送するのに適した形状に作られた、全長』五メートル『程度の小型船である。現在は香港や広東省の漁村でよく目にし、湾内でいわゆる水上タクシーとして客を対岸・水上レストラン・釣り場などに輸送したり、湾内観光などに用いられている』。『ほかに、台湾の台南やマレーシア・インドネシア・ベトナムなど東南アジアの華僑・華人が多い漁港などでも使用されている』。『従来は、船尾に取り付けた』二~三メートルの『長さの艪を手で操って進ませ』るもので、『来はかまぼこ型の低い屋根を備えていたものが多かった』。『中国との交流が盛んであった明治時代の長崎県長崎市でも、小型の通船をサンパンと呼んでいた。黒船に似た屋形を供え、舳先は尖って中国船のように彩色されていた』とある。

「四十歳にして始めてホームを作らしめた」ハーンは一八五〇年六月二十七日生まれ(本邦では嘉永三年に相当する。因みに旧暦では五月十八日である)であるから、来日した年に四十歳になっている。小泉セツとの事実婚の関係は、セツが住み込み女中となった翌年の一月か二月以降と推定されるから、彼が「ホームを作」ったとする年齢はすこぶる正確と言える。

「韓土」通常は朝鮮を指す語であるが、ここは「高天原」に対する異国としての地上、ひいては大八州、原型の日本を指すようである。

「孤劍」ただ一振りの剣。他の武器を持たぬこと。

『素尊が、稻田姫を娶つて詠まれた歌の「八雲」なる文字』高天原を追放されて出雲国に降った須佐之男が八俣の大蛇から櫛名田姫を救って妻として迎えた際、須賀(すか)の地に新妻のための宮を建てたと「古事記」「日本書紀」に伝え、この時に詠んだ歌が、

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣作る その八重垣を

 

と伝えられる。小泉八雲の名の由来である。

「眞鍋晃」複数既出既注。

「西田千太郎」複数既出既注。

「大谷繞石」大谷正信。複数既出既注。

「神國日本」Japan: An Attempt at Interpretation(日本:一つの解明)。没した明治三七(一九〇四)年九月十九日の翌十月刊。

「天河の緣起そのほか」The Romance of the Milky Way and other studies and stories(「天の川」のロマンスそしてその他の物語及びその研究)。没年の翌明治三十八年刊。

「十四卷の勞作」前掲二作の他の来日後の主要刊行書は、

 

Out of the East(東方より:明治二八(一八九五)年刊)

Kokoro(心:明治二十八年)

Gleanings in Buddha-Fields(仏陀の畑の落穂:明治三十年)

Exotics and Retrospectives(異国情緒と回想:明治三十一年)

In Ghostly Japan(霊的なる日本にて:明治三十二年)

Shadowings(翳:明治三十三年)

A Japanese Miscellany(日本雑記:明治三十四年)

Kotto(骨董:明治三十五年)

Kwaidan(怪談:没年の明治三十七年)

 

が主要作だが、これでは前掲の二作を加えても、十一作にしかならない。他に長谷川武次郎が刊行した日本昔噺シリーズJapanese Fairy Taleの中の五作品、

 

The boy who drew cats(猫を描いた少年:明治三十一年)

The goblin spider(化け蜘蛛:明治三十二年)

The old woman who lost her dumpling(自分の団子をなくしたお婆さん :明治三十五年)

Chin Chin Kobakama(ちんちん小袴:明治三十五年)

 

の四作を加えると逆に十五作品になってしまう。但し、一般にこの四作品(後にThe Fountain of Youth(若返りの泉)が大正一一(一九二二)年に加えられている)は刊行された明治三十五年の一冊で数えられているようであるから、それだと、やっぱり十二作にしかならない。この落合氏の「十四卷」という数字は上記十一作以外に何を三作と数えているのであろう? 識者の御教授を乞うものである。

「落合貞三郎」(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で郷里島根県の松江中学及び東京帝大に於いてラフカディオ・ハーン小泉八雲に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は岡山の第六高等学校、学習院教授を勤めた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 『英語教師の日記から』

 松江に赴任してからへルンの眼に映じた日本學生生活を敍した物である。『小泉八雲の著作について』と題する坪内逍遙博士の論文のうちに『出雲中學の教師としての日記の如きを讀んでは誰しも愛敬の心を生ぜざるを得ない。如何に深切な優しい人柄が浮上つて見える、如何に心性を直覺することに秀でた人で、如何に觀察が穿細であるかが見える』とあるのは即ちこの篇の事である。内容は殆んど全部へルンの直接の見聞に基づいて居るが、最後に學生の葬式追悼會等に關する記事はヘルンが熊本へ轉任の後に起つた事であるから全部聞きがきを基として多少の想像を加へて居る。ヘルンがこれ等學生中の二秀才、志田、横木の死を悲しんだところ、殊に横木が最後の思ひ出に學校を見に行く一章(二一)の如きは讀む度毎に新しい涙を誘はれる。

 

 『日本海に沿うて』

 へルンは明治二十三年八月の末、松江に赴任のため眞鍋晃を通譯兼從者として、山陰道を通過した時の事と、翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事とを合せてこの記事を作つた。そのうちにある鳥取の蒲團の話、出雲の捨子の話は何れも夫人が始めてヘルンに話した怪談であつた。

 

 『魂について』

 金十郎と云ふ名は熊本にゐた植木屋の名であつたが、この魂の話は夫人の養母(稻垣とみ子)がヘルンに話した物であつた。その始めに一つの挿話のやうに『世界の向ふ側に無數の魂を有せる』婦人を書いて居るが、これはヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。ヱリザベス女王は三千着の衣裳をもつてゐたと傳へられるが、へルンはこのヱリザベス、ビスランド女史の事を戲れのやうに『一萬の魂の淑女』即ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた。

 

 『幽靈と化け物について』

 祭りの夜、見せ物を見て廻つたのは熊本の町で、同行者は金十郎でなく夫人であつた。ただ最後にある二つの話は共に夫人の話した松江の物であつた。

  

 『日本人の微笑』

 少し以前『太西洋評論』に出た時から喧傳された名高い論文であつた。ヘルンが純粹に日本人の心理研究の論文を發表したのはこれが始めでであつた。ヘルンの日本人の微笑の解釋は當時の一般外人を非常に啓發した物であつたが、その後幾星霜を經て日本人の微笑も多少の變化を受けて居る、しかしヘルンがこの論文で啓發してくれた點は今なほ變らないと思はれる。

 

 

     大正十五年七月

               
田部隆次 

 

[やぶちゃん注:ここで語られている内容・人物等については既にその当該章の中で注しているものが殆んどなのでそうしたものは、原則、注から外してある。各章の私の注をお読み戴きたい。

『「小泉八雲の著作について」と題する坪内逍遙博士の論文』逝去の年の明治三七(一九〇四)年十二月に発表された「故小泉八雲氏の著作につきて」が正しい。田部氏の引用はほぼ正確であるが、引用箇所を含む少し前から引用すると(底本は「国文学研究資料館」近代書誌・近代画像DB内の坪内逍遙「文藝瑣談」(明治四〇(一九〇七)年春陽堂刊)を視認した)、

   *

“Glimpses”を讀んだ時から、個人としての同氏が慕はしくなつた。それまで只名文家として愛讀してゐたに過ぎない。「グリムプセス」は日本にての著作中の最も古いものゝ一つだが、最初の感じが寫されてあるだけに一しほの味ひがある。かの出雲中學の教師としての日記(ダイリイ)の如きを讀んでは、誰しも愛敬の心を生ぜざるを得ない。如何に深切な優しい人柄が浮上つて見える、如何に心性を直覺することに秀でた人で、如何に觀察が穿細であるかが見える。就中、「盆踊」の一升は絶妙です、近代の畫家などに話して畫にかゝせて見たい。

   *

「眞鍋晃」複数既出既注。

「山陰道を通過した時」明治二三(一八九〇)年八月下旬。松江着は八月三十日午後四時。

「翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時」明治二四(一八九一)年八月十四日から同月三十日までの十六日に及ぶもので、私が本電子テクストで最後までお世話になった「八雲会」の「松江時代の略年譜」によれば、これはセツとの新婚旅行であった(但し、事実婚の――である。同年十一月の熊本転任の際して学校側に提出した公文書には、妻は『無』と記していることは既に述べた)。

「太西洋評論」当該章の最終章に英文抄訳される、後に「時事談」となる初出論文の掲載された雑誌と思われるが、書誌不詳である。それともこれは、ハーンも多く投稿した「アトランティック・マンスリー」(“The Atlantic Monthly”:アメリカのボストンで一八五七年に創刊された文学・芸術・政治総合雑誌。現在も続くアメリカの雑誌で最古のものの一つ)のことで、それに英訳全文が載ったことを意味するのか? しかし“The Atlantic Monthly”を「太西洋評論」と邦訳するだろうか?(と疑問に思ったが、どうもそんな臭いはする)識者の御教授を乞う。なお、次の大谷も同じ雑誌名を冒頭の『日本の庭』で示してもいる。

「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。]

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 『日本の庭』(この篇は以前『太西洋評論』に出た)の冒頭に記してある『大橋川のほとりの自分の小さな二階家』は今は無い。末次本町の東西に通じて居る街路の中ほどに、南側に小さな路次がある。その路次を行詰まで行つて左へ折れると、四五歩にしてまた右へ折れる。十歩ばかりで狹い石段を下りると湖水に達せられる。其處は右側には家が無く、左側たゞ一軒あつた。それがこの家であつた。今、難波館といふ旅館のある處である。轉居された『今度の家は』北堀町字鹽見繩手の、祿高百石の根岸といふ『サムラヒ』の屋敷で、持主根岸干夫氏は當時郡長として郡部にゐたので、その家を借りて住まつてゐたのであつた。

 原文の未尾にある

 Verily, even plants and trees, rocks and stones, all shall enter into Nirvana.

の後半は普通の『悉皆成佛』とせずに、原文どほり『皆入涅槃』と譯して置いた、かゝる庭園も亦無くなる、といふことを原著者は言はうとして居るのだから。

 

 『家の内の宮』の第二節の終に書かれて居る畠山勇子に就いては『東の國から』別に一文が掲げられて居る。

 

 『女の髮について』の起筆に「家の妹娘の髮は」とあるが、これは「自分の妻の髮は」とあつても差支無いもの、といふことは讀者も想像さるゝであらう。第五節の『老武士たる縣知事』は撃劍の好きなそして槍術の達人であつた籠手田安定といふ人であつた。

 

 『伯耆から隱岐へ』は明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた。

 第三節に『境は島根縣の』とあるは『鳥取縣の』とあるべきであるが、原文の儘に譯して置いた。なほ一二譯者として述べて置いた方がよからうと思ふことは、譯文の途中に譯者註として書いて置いた。

 

 『サヤウナラ』。松江出立は明治二十四年十一月十五日であつた。原著者が所謂『たゞ旅券を待つて居る』頃、譯者は氏を訪問したことがある。その時『先生はこれまでどういふことをして來られた方なのですか』と尋ねたものだ。『書いてあげよう、待つておいで』と言つて、次の室へ行つて、書簡用紙一枚に、表裏に、例の初は細かく後ほど太い字で、書いたのを呉れられた。序にこゝヘ紹介してもよからう。斯う書いてある。

[やぶちゃん注:以下、ハーンの英文及び大谷に訳文は、底本では全体が日本文の二字相当の下げになっている。英文は字空けなどをなるべく底本通りに復元するように心掛けたつもりである。読み易くするために、英文と訳文それぞれの前後を一行空けておいた。底本にはこの行空けはない。]

 

   I was born in the town of Leucadia in Santa Maura, which is one of the Ionian Islands, in 1850. My mother was a Greek woman of the neighbouring island of Cerigo. My father was an army-doctor attached to the 76th English Regiment of the Line. The Ionian Islands were at that time under British protection,――because the Turks had been killing all the Greeks there.

   My Parent took me to England when I was only five or six years old. I spoke Romaic――which is modern Greek and Italian; but no English. My father went to Russia some years after, and then to India.  Myself and brother were brought up by rich relations and educated at home. My father and his wife died in India of fever.

   When l was about 15 years of age, I was sent to France to learn French and spent several years there.  I was eighteen years of age, when my friends lost all their Property; and I was obliged to earn my own living.  I wont to America in ’69, and learned the Printing business.  After some there years more, I gave up printing to become a newspaper reporter.  I reported for several large papers in Ohio for eight years.  Then I went South to become literary editor or the chief paper of New Orleans;  and remained there ten years.  In the meantime I had begun to publish some books, ―― novels, translations,  and literary sketches. In l887,  I became tired of writhing for newspapers,  and I wont to the French West Indies,  and to South America,  to write a book about the tropics.  I returned America two years later, and after publishing my books, resolved to go to Japan.

  And then I became a teacher.

 

〔自分は一八五〇年に、アイオニア群島の一つの、サンタ・モーラのリュウカディアの町で生れた。母はその近くのセリゴといふ島の希臘女であつた。父は英國歩兵第七十六聯隊附の軍醫であつた。アイオニア諸島は――土耳古人が其處の希臘人を殺しつつあつたから――當時英國の保護の下に在つたのである。

 兩親は自分がやつと五つ六つの頃英國へ連れて行つた。自分は――近代の希臘語であり伊太利語である――ロマイツク語をしてゐて、英語は話さなかつた。父は數年後に露西亞へ行き、それから印度へ行つた。自分と弟とは富裕な親類に養育され本國で教育を受けた。父とその妻とは熱病に罹つて印度で死んだ。

 自分は十五ばかりの時に、佛蘭西語を覺えに、佛蘭西へ送られ、其地に幾年かを送つた。十八歳の時、自分の友達はその財産全部を失くした。そこで自分は自分で食つて行かなければならぬことになつた。六九年に亞米利加へ行つて、印刷業を教はつた。それから三年ばかりして印刷を止めて新聞通信員になつた。八年間オハイオの夥多の大新聞に通信した。それからニユウ・オルリアンズの一番大きな新聞の文學記者になることになつて南部へ行つて、其地に十年居た。その間幾つか書物を――小説、飜譯並びに文學的スケツチを――出版しはじめたのであつた。一八八七年に新聞の爲めに文を書くことに飽いて、熱帶について書物一册書かうと、佛領西印度と南亞米利加とへ行つた。二年經つて亞米利加へ歸つて、書物を出版してから、日本へ行かうと決心した。

  そして教師になつた。〕

 

 第五節の「西田」は『東の國から』の獻呈を受けて居るあの西田千太郎で、當時中學校の主席教師として英語を擔任してゐた人である。現九州大學教授工學博士西田精氏の令兄である。

 同船して宍道湖(しんじ)まで見送つたものは中學校長木村牧、中學校教員中村鐡太郎、師範學校教員中山彌一郎、及び譯者であつた。

 

     大正十五年七月

               大谷正信  

 

[やぶちゃん注:田部氏のケースと同様、ここで語られている内容・人物等については既にその当該章の中で注しているものが殆んどなのでそうしたものは、原則、注から外してある。各章の私の注をお読み戴きたい。

「難波館」現存しない模様である。

「根岸干夫」「ねぎしたてお」と読む。彼は簸川(ひかわ)郡長を務めており、八雲は彼の留守宅を借りていた。個人サイト「ぶらり重兵衛の歴史探訪」の「小泉八雲旧居(ヘルン旧居)」によれば、当時の屋敷は、この『根岸干夫の先代、根岸小石の手によって明治元年につくられたもので』、「第十六章 日本の庭」でハーンが細敍するように、『規模こそ小さいものの、この庭は枯山水の鑑賞式庭園としては水準を抜くものとして高い評価を受けて』いる。『八雲と根岸家との関わりは、家主干夫の長男磐井が松江中学、旧制五高、東京帝大で教わった師弟の関係でもあり』、『東大卒業後、磐井は日銀に就職し』たものの、『東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、八雲が愛した旧居の保存の為に』、大正二(一九一三)年に『松江に帰り、一部改築されていた家を元通りに復原し、記念館設立などにも力を尽くし』、『磐井の没後も、旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存され現在に至ってい』るとある。彼が郡長を勤めた簸川郡というのは、郡制の施行によって明治二九(一八九六)年四月一日附で旧の出雲郡・楯縫(たてぬい)郡・神門(かんど)郡を一行政区画として発足した新しい郡で、当時の郡域は現在の出雲市の大部分と大田市の一部、即ち、島根半島西三分の一と南西方域の相当する広域であった。郡役所は中央の今市町(現在の出雲市役所附近)に設置されたが、松江から今市は宍道湖の西と東で、直線でも二十九キロメートル強あり、鉄道のない当時はとても通える距離ではない。

「畠山勇子に就いては『東の國から』別に一文が掲げられて居る」Out of the Eastの最終章が丸ごと“Yuko: A Reminiscence”(勇子――一つの追憶)として彼女に捧げられている。平井呈一氏のそれを引きたいところだが、相応の量があり、引用で許容される分量ではないので諦める。“Internet Archive”こちらの原書画像で、原文ならば読むことが出来る。

「『伯耆から隱岐へ』は明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た」『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、この大谷の記載とは著しく日程が異なる。そこでは隠岐の滞在は明治二五(一八九二)八月十日から二十三日までの十三日間とし、境港へ二十四日に着き、翌八月二十五日には美保の関へ行っている、とある。

「一八五〇年」既に注したが、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)は一八五〇年六月二十七日木曜日生まれで、本邦では嘉永三年の旧暦五月十八日に相当する。ギリシャ正教の洗礼を受け、パトリキオス・レフカディオス・ヘルン(Patricios Lefcadios Hearn)が出生台帳の登録名であった。彼は次男であったが、長兄ジョージ・ロバート・ハーン(George Robert Hearn)はこの年に一歳で亡くなっている。

「アイオニア群島の一つの、サンタ・モーラのリュウカディアの町」ギリシャ西部のイオニア海にある「アイオニア群島」=イオニア諸島(Ionian Islands)の島の一つ、「リュウカディア」=レフカダ(レフカス)島(Lefkáda /英語:Lefkas/イタリア語:Leucade)のレフカダの町。ハーンの言う“Santa Maura”は、この島の中世にはギリシャ語で「アヤ・マウラ」島と呼ばれたが、この島は歴史上は永くヴェネツィア共和国やオスマン帝国がその統治を争い、イタリア人たちは「サンタ・マウラ」(イタリア語: Santa Maura)、トルコ人たちは「アヤマウラ」(トルコ語: Ayamavra)の名で呼んだことによる。なお、「ラフカディオ」の名はこの島の名“Lefkáda”から採られている。ウィキの「レフカダ島」によれば、イオニア諸島では四番目に大きな島で、『島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている』とあるので、島と市街を明確に区別して大谷に分かり易くしようと、「サンタ・モーラ」島「のリュウカディアの町」“the town of Leucadia in Santa Maura”と表現したものであろう。同ウィキによれば、希臘語の古語であるカサレヴサでは「レフカス島」と表記され、古名はレウカス島(Leukás)とし、『この地名は、ギリシャ語で「白」を意味する「レフコス」、あるいは「白い岩」を意味する「レフカタス」に由来する』とある。ハーンが白という色に独特の玄妙なものを感じ、独自の“ghost-white”という語を用いるのも、実は彼自身がギリシャの「白」という名を背負っていたからでもあろう。

「母」同じイオニア諸島にある「セリゴといふ島」=キティラ(ケリゴ)島(Kythira/英語: Cerigo/イタリア語:Cerigo)出身のギリシャ人の母ローザ・アントニウ・カシマティ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二三年~一八八二年)の旧家の娘であった(上田年譜ではマルタ島出身とも、『アラブの血がまじっているとも伝えられる』とある)。以下、ハーンの事蹟については諸資料を参照したが、今回は上田和夫氏の年譜(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)に加え、ハーンの曾孫であられる民俗学者小泉凡(ぼん 昭和三六(一九六一)年生)氏監修になる平井呈一訳「対訳 小泉八雲作品抄」(一九九八年恒文社刊)の年譜も参考にさせて戴いた。前者を「上田年譜」、後者を「小泉年譜」と略称する。

「父」アイルランド人(当時は英国籍)でギリシャ駐屯イギリス陸軍のノッティンガムシャー歩兵第四十五連隊附き軍医補であったCharles Bush Hearn(チャールズ・ブッシュ・ハーン 一八一八年~一八六六年)。

「土耳古人が其處の希臘人を殺しつつあつた」ハーンはかく、トルコ人が当地のギリシャ人島民を虐殺行為を働いていたのを監視するためにイギリス軍が駐屯していたと述べているのであるが、ウィキの「レフカダ島」によれば、一七九七年にナポレオン一世『によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった』。一七九九年には『ロシア海軍が諸島を占領』、一八〇〇年に『ロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった』ものの、一八〇七年の『ティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが』、一八〇九年以降は『イギリスの攻勢にさらされ』、レフカダ島は一八一〇年に『イギリスによって占領されている』とあり、一八一五年の『第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国』『が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とある。ハーンが後で述べるように、ハーン出生当時のレフカダ島は「當時英國の保護の下に在つた」わけである。ウィキの「イオニア諸島」でも記載似たり寄ったりで、一八〇九年十月に『英国艦隊がザキントス沖でフランス艦隊を破った。イギリスは同年のうちにケファロニア島・キティラ島・ザキントス島を』、翌一八一〇年には『レフカダ島を占領』、フランスは一八一四年に『ケルキラ島を放棄し』、イオニア諸島合衆国『がイギリスの保護国として樹立された。イオニア諸島合衆国では憲法の制定が認められ、住民からなる』定数四十の『議会が設けられるとともに、英国の高等弁務官に助言をおこなうことが認められた』とあって、ハーンの言うようなトルコの深刻な攻勢や殺戮は語られていない。その後もトルコ軍の小規模な侵犯がたびたびあったということあろうか? それともハーンの認識違いであろうか? 識者の御教授を乞う。因みに、一八六四年六月二日に『イオニア諸島はギリシャ王国に引き渡され』ている。

「兩親は自分がやつと五つ六つの頃英國へ連れて行つた」事実と異なる生まれた翌一八五一年年末、ハーン一歳の時、父の西インドへの転属に伴い、『母と通訳代りの女中にともなわれて、アイルランドの父の生家に向い、パリをへて、翌年』一八五二年の『八月、ダブリンに着』(上田年譜)いているから、これは一、二歳の頃である。日本の数えであるとしても合わない。

「近代の希臘語であり伊太利語である――ロマイツク語をしてゐて」「をしてゐて」は「を話してゐて」の謂いであろう。ここは現代のギリシアの現地語(現代ギリシャ語)である“Romaic”(ロメィイク語)とイタリア語を話したけれども、英語は分からなかったという謂いである。しかし、実年齢から考えると、ややおかしい気がする。

「父は數年後に露西亞へ行き、それから印度へ行つた」ハーンの父チャールズのクリミア戦役出征は一八五四年四月であるが、この前後――ハーンはここに記していないのであるが――前年に父チャールズが黄熱病に罹患して帰国後、『しだいに父母の中が冷却』し、母ローザはハーンの弟ダニエル(後述)出生後(推定)にハーンと乳飲み子のダニエルをおいて、独り、故郷のキティラ(ケリゴ)島に帰国してしまっているのである。未だハーンは三歳であった。また、チャールズがインドに赴いたのはハーン六歳の一八五六年のことであったが、ここでもハーンは、その前(小泉年譜ではこれらを翌一九五七年の出来事とする)に父がローザとの結婚婿無効の申し立てをして父母が正式に離婚したこと、父チャールズは離婚後直ちにアルシア・ゴスリン・クロゥフォード(Alicia Goslin Crawford ?~一八七一年:こちらの資料による。他でもこの生没年データを採用した)なる女性と結婚したことを述べていない

「自分と弟とは富裕な親類に養育され本國で教育を受けた」「弟」ジェームズ・ダニエル・ハーン(James Daniel Hearn 一八五四年~一九三三年:小泉年譜に八月十二日誕生とする)と言い、上田年譜には『のちアメリカで農業を営んでいる』とある。母が失踪してしまった彼等は、小泉年譜では一八五五年に『大叔母サラ・ブレナンのもとで生活をはじめる』とするが、上田年譜の表記はサリー・プレネーンで彼女に引き取られたのは一八五四年と読める。

「父とその妻とは熱病に罹つて印度で死んだ」この「妻」がハーンの母ではないことは、文脈から、大谷には分かったであろう。但し、これも調べた限りでは事実と異なる父チャールズは一八六六年、ハーン十六歳の十一月、インドからの帰国の途次、スエズで病死している(上田年譜)が、先に示したデータが正しければ、彼の後妻アルシアの没年は一八七一年であるからである。

「十五ばかりの時に、佛蘭西語を覺えに、佛蘭西へ送られ、其地に幾年かを送つた」上田年譜によれば、ハーンは一八六三年十三歳の時、『イギリス本土ダラム州アッショーにあるカトリック系聖カスパート校に入学』(ここ在学中、遊んでいる最中に誤って左目を失明している)したが、『大叔母の破産のため』に中退した(この中退した年は上田年譜では一八六六年とし、小泉年譜では一八六七~一八六八年とあり、ずれる)。その後、一八六七年にはフランスのイヴートにあるカトリック系神学校に入学するも、またもや一年余りで退学、『ハーン家の使用人一家を頼ってロンドンに渡』(小泉年譜)った。

「十八歳の時、自分の友達はその財産全部を失くした」十八は満なら一八六八年である。この「友達」とは実は大叔母のことを指しているか。としても、やはり微妙に事実と遅滞的ズレがある(上田・小泉ともに、である)。

「六九年に亞米利加へ行つて、印刷業を教はつた」一八六九(本邦は明治二年相当)年の上田年譜には、『大叔母から旅費をもらい、アメリカに渡り、ニューヨークをへて、オハイオ州シンシナティに向』い、『ホテルのボーイ』、『校正、広告取り、煙突掃除など、窮迫した生活をつづけながら、図書館で読書にふけ』ったが、『印刷業者ヘンリー・ワトキンスを知り、生涯の友となる』とある。小泉年譜も、『リヴァプールから移民船でニューヨークに渡り、さらに汽車でシンシナティへ向か』い、『そこで終生の父とも慕う印刷屋ヘンリー・ワトキンと出会う』とある。当時、ハーン、十九歳。

「それから三年ばかりして印刷を止めて新聞通信員になつた」小泉年譜によれば、一九六九年から三年後になる一八七二年の十一月、『シンシナティ・トレイド・リスト』誌の『創刊にあたり、編集者レオナード・バーニーの編集助手となる』一方、『シンシナティ・インクワイラー』紙の『有力な投稿者とな』ったとある。附言しておくと当時の、雑誌投稿者というのは今の有象無象の雑誌投稿なんどとはわけが違う。投稿記事や文章(エッセイや小説も含まれた)が当たれば、投稿者は即、現代の流行作家やエッセイスト、ジャーナリストと同等の地位に祭り上げられたからである。ハーンは一八七四年の秋(上田年譜)には遂に正式な『シンシナティ・インクワイラー』社の正社員となっている(三年後の一八七七年には同社を退職、シンシナティ・コマーシャル社に転職している)。そこでは『下層社会、ことに黒人の風俗を好んで書き、世評』が高まったという(上田年譜)。因みにこの年、ハーンは『下宿先の炊事婦、混血黒人のマッティー・フォリー』(上田年譜表記。以下は小泉年譜でダブらせてジョイントする)『アルシア・フォリー(マティー)と結婚式を挙げるが、白人と黒人の結婚を禁止する州法に反するため、さまざまな困難を招』き、三年後の一八七七年十月に『結婚生活が破綻し、マティーは町を出』た、とある。これは余り知られている事実とは思われないので、敢えて記しおくこととする。

「八年間オハイオの夥多の大新聞に通信した」「ニユウ・オルリアンズの一番大きな新聞の文學記者になることになつて南部へ行つて、其地に十年居た」ニューオリンズに向かったのは一八七七年で、シンシナティ(オハイオ州南西端)で記者になったのが一八七二年であるから、足掛け五年程度であって八年はちとドンブリである。数値に正確なハーンがかく誤るとも思えず、やや自己肥大的なものを感じがしないでもない。ニューオリンズでは『ニューオリンズ・アイテム』社の副編集人から『タイムズ・デモクラット』社の文芸部長を勤め、そこを退職してニューヨークへ向かったのが一八八七年(本邦は明治二十年)であるから、「十年」は正確。

「その間幾つか書物を――小説、飜譯並びに文學的スケツチを――出版しはじめた」ハーンはこの間、一八八二年(三十二歳)にゴーチェの翻訳、

One of Cleopatra's Nights and Other Fantastic Romances(クレオパトラの一夜 その他 幻想的ロマンス集:五編からなる短編集)

一八八四年には『エジプト、エスキモー、インド、フィンランド、アラブ、ユダヤなどの民俗伝承に材をとった二十七編の短編からなる』(上田年譜)、

Stray Leaves From Strange Literature(異文学遺文集)

一八八五年に、

Historical Sketch Book and Guide to New Orleans(ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内)

クリオールの俚諺集である、

Gombo Zhèbes(ゴンボ・ゼーベス)

や、

La Cuisine Créole(クレオール料理法)

一八八七年二月には、

Some Chinese Ghosts(中国怪談集)

を出版している。

「一八八七年に新聞の爲めに文を書くことに飽いて、熱帶について書物一册書かうと、佛領西印度と南亞米利加とへ行つた」小泉年譜によれば、一八八七年(本邦の明治二十年)に『タイムズ・デモクラット社を退職してニューヨークへ移り、音楽研究家クレイビールの家に滞在』、『ハーバー社の編集長オールデンに面会し』て『西インド諸島紀行文執筆の取り決めをし、マルティニーク島へ向か』った(マルティニーク島は当時も現在もフランス領)。その後(一度、アメリカに短期の戻ってはいる)は上田年譜によれば、同年十月以降、『一年半、サン・ピエール』(西インド諸島のフランス領マルティニークにある村)『に住み、紀行、見聞記を「ハーバーズ・マンスリー」誌に発表するかたわら、『チタ』『ユーマ』などの小説を書き続け』た。

「二年經つて亞米利加へ歸つて、書物を出版してから、日本へ行かうと決心した」マルティニークを訪れて約二年弱の後の一八八九年の五月にサン・ピエールを発って、『ニューヨークを経て、フィラデルフィアの友人宅に落着き、執筆にはげむ。九月に『チタ――ラスト島物語』(ハーバー社)を出版』とある(以上は上田年譜)。小泉年譜によれば、この友人は『眼科医グールド』とある。上田年譜にはこの年の十月に『ニューヨークにもどち、級友クレービールの紹介で、「ハーバーズ・マンスリー」誌の美術主任パットンと』知り合い(しかし、実際には前記のように同誌にはハーンは馴染みであった)、『日本文学・美術について語り合い、挿絵画家ウェルドンに従って、二カ月の予定で日本に特派されることとな』った、とある。

「そして教師になつた」上記のような特派員として、ハーンは明治二三(一八九〇)年四月四日に横浜に到着したが、『ウェルドン中心の契約に不満を抱き』、たった一ヶ月後の『五月、ハーバー社と絶縁』、この間に本書が捧げられているところの、在日アメリカ海軍主計監ミッチェル・マクドナルドの『紹介で知り合った東京帝国大学教授』で、やはり本書で献辞されているバジル・ホール。チェンバレン及び『文部省普通学務局長の地位にある服部一三の斡旋で、島根県立松江中学校の英語教師とな』ったのであった(上田年譜)。大事なことは、御雇外国人教師のように、懇請されて英語教師となったわけではなく、取り敢えず糊専ら口を凌ぐために「教師になつた」のである。そこを押さえておく必要がある。この大谷へ送った自己事蹟は、ある意味――『あなた方が英語教師として私を尊敬して呉れることはとても有り難い。しかし、私は恥ずかしながら、そのような教育者としての覚悟や教化のために日本に来たのでないのです。私の天職は「作家」であり、「ジャーナリスト」なのです』と大谷に訴えている――ように私には読めるのである。

「現九州大學教授工學博士西田精氏」「山陰ケーブルビジョン株式会社」公式サイト内のここに、『九州帝国大学教授で西田千太郎の弟である西田精は各地の上下水道の調査設計を手掛け、その権威としても知られ』、『松江市水道の拡張工事にも尽力し』たとある。名の読みは不詳。人名の読みらしきものとしては「あきら」「きよし」「くわし」「しげ」「すぐる」「ただし」「つとむ」「ひとし」「まこと」「まさし」など多数ある。

「中學校長木村牧」ママ。本篇最後の「第二十七章 サヤウナラ(五)で注したように、私が調べた限りでは、彼は「木村収」で、しかも「収」の異体字・正字は「收」であることから、私はこれは「木村收」の誤りではあるまいかと深く疑っている。識者の御教授を乞う。

「中學校教員中村鐡太郎」ラフカディオ・ハーンの島根県私立教育会での講演録を訳した人物として名が出る(サイト「八雲会」の)から、英語教師の同僚であったものと思われる。

「師範學校教員中山彌一郎」既注。

「譯者」この後書の筆者である大谷正信。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥付を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で示して終りとする。私は電子化する価値を認めないので画像のみで悪しからず。一つ指摘しておくと、発行月日は、もと『八月拾日發行』となっていたものに、手書きで字を加えて『八月二拾五日』に訂してあることが判る。印刷後、十五日も遅れた理由は不明であるものの(この前後に特に社会的な重大事件は起きていない。帰化人とはいえ外国人の著作であり、しかも国家神道に関わる箇所も散見されることから、内務省の内密の検閲が長引いた可能性は充分あり得そうな気はする)、何部印刷されたものかは知らないが、この狭い箇所への書入れは、これ、なかなかに大変で、作業する出版社の担当者の溜息が聴こえてくる。]

 

Yakumozen3okuduke

「笈の小文」の旅シンクロニティ――面白し雪にやならん冬の雨 芭蕉

本日  2015年12月24日

     貞享4年11月20日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月24日

 

   鳴海出羽守氏雲(うぢくも)宅にて

面白し雪にやならん冬の雨

 

「俳諧 千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一三)年序)より。「笈の小文」には載らない。この貞享4年11月16日、芭蕉は知多の杜国訪問を終え、名古屋鳴海の知足亭に戻った。その四日後の11月20日、刀鍛冶で鳴海六俳仙の一人であった自笑(岡島佐助。「氏雲」は刀匠としての号)亭で芭蕉・自笑・知足と三吟三つ物(発句・脇・第三)をものした。

 

 面白し雪にやならん冬の雨   桃靑

   氷をたゝく田井の大鷺   自笑

 船繫ぐ岸の三股荻かれて    寂照

 

寂照は知足の法名。「如行子」には、

 

   同二十日の日なるみ鍛冶出羽守饗(まうけ)に

 

という前書がある。但し、同「如行子」では「面白や雪にやならん冬の雨」で載るが、採らない。

2015/12/23

小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の献辞及び「序」(附やぶちゃん注)

小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の献辞及び「序」(附やぶちゃん注)

[やぶちゃん注:これは Lafcadio Hearn Glimpses of Unfamiliar Japanの全訳(落合貞三郎・大谷正信・田部隆次分担訳)の献辞と序である。底本は本文同様、大正一五(一九二六)年八月第一書房刊「小泉八雲全集 第三卷」(全篇が本作)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した。訳文の後に、“Project Gutenberg” “Hearn,
Lafcadio, 1850-1904 ¶”
から書名以降は総て当該箇所の原文を後に附した(私の注がある場合はその後ろに)。但し、先の英文データには不審な箇所が多くあるので、“Internet Archive”の原本画像と校合し、字配及びフォントも原本に近いものした。

 底本の清音の踊り字「〻」は私が嫌いなので「ゝ」とした(本文では「ゞ」を用いているので統一したかったからでもある)。

 以下、献辞部分に到るまでの底本の体裁を、簡潔に示す。見開き表紙(左)に、縦書で、

小泉八雲全集

次に、左に、

小泉八雲全集

第三卷

とあって、ここに原書の扉にあるのと酷似した鳥のデザインのマークが入り、

東京高輪

第一書房刊行

以上は、総てが右から左へ横書である。] 

 

知られぬ日本の面影 

 

GLIMPSES

OF

UNFAMILIAR JAPAN

BY

LAFCADIO HEARN

 

譯者

落合貞三郎

大谷 正信

田部 隆次

 

[やぶちゃん注:「譯者」が「大谷」上部中央にあり、凡て縦書である。] 

 

私の東洋に於ける滯留を、全くその厚意によりて、成さしめたる友人――

米國海軍主計監ミチエル・マクドナード君、竝に東京帝國大學名譽敎授

 ベズル・ホール・チエムバリン君に、

愛情及び感謝の記念として、この二卷を捧ぐ。

 

[やぶちゃん注:中央やや上寄りに上記の字配りで配されてある献辞。

「米國海軍主計監ミチエル・マクドナード」ミッチェル・マグドナルド(Mitchell MacDonald 一八五三年~大正一二(一九二三)年)は横浜海軍病院に勤務していた米国海軍主計官。風呂鞏(ふろかたし)氏の「八雲と震災との切れぬ縁、また一つ」(住吉神社発行の月刊『すみよし』所載)によれば、日本でのハーンの面倒を当初から見た人物で、『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理者として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)。ハーンに彼を紹介したのは『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』新聞社記者時代の同僚で友人であったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)である。彼女については本「第二十四章 魂について」の私の冒頭注を参照されたい。

「東京帝國大學名譽敎授」「ベズル・ホール・チエムバリン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)。「第一章 私の極東に於ける第一日 序/(一)」の私の「英國人の教授」の注を参照されたい。本書刊行の明治二七(一八九四)年九月当時は東京帝国大学英語教師であった彼は明治四四(一九一一)年に離日したが、この時に東京帝大名誉教師となっているので、この肩書は後から書き換えたものか?

「二卷」Glimpses of Unfamiliar
Japan
は二巻本で、原本では“Vol. I”“Vol. II”となっている。底本邦訳では「上卷」「下卷」と訳している。]

 

 

TO THE FRIENDS

WHOSE KINDNESS ALONE RENDERED POSSIBLE

MY SOJOURN IN THE ORIENT,―

TO

PAYMASTER MITCHELL McDONALD,
U.S.N.

AND

BASIL HALL CHAMBERLAIN, ESQ.

 

Emeritus
Professor of Philology and Japanese in the

 

Imperial
University of Tokyō

 

I DEDICATE THESE VOLUMES

IN TOKEN OF

AFFECTION AND GRATITUDE

 

 

  序

 一八七一年、ミツトフオード氏は、あの面白い『舊日本物語』の緒言に、つぎの如く書いた。『輓近日本に關して書かれた書籍は、單に官廰の記錄から編纂したものか、或は通り一遍の旅客の簡素なる印象を内容としたものに過ぎない。日本人の内的生活に就ては、世界一般は殆ど知つてゐない。日本人の宗敎、日本人の迷信、日本人の事物の考へ方、日本人の行爲の裏面に隱れたる動機――すべて是等は未だ神祕である』

 ミツトフオード氏が説き及んで居る、この内的生活は、即ち『世界にあまり知られぬ日本』であつて、それを私は幾らか覗き得たのである。讀者は私の瞥見したものの數の乏しいのに失望するかも知れない。それは、この國民の中に入つて――しかも國民の風俗習慣を採用しようと試みてさへ――四ケ年ほどの居住では、外人をしてこの奇異の別世界に於ては、そろそろ落着いた氣分を起させるにも足らぬからである。誰人も本書の成果のいかに貧弱にして、然かも殘れる事業のいかに多大なるかを、著者以上に痛感することは出來ない。

 新日本の知識階級は、本書に述べたる俗間の佛敎思想――殊に佛敎より發したるもの――及び奇異なる迷信を殆ど有しない。一般抽象的思想、殊に哲學的思索に對して冷淡であるといふ特徴を除けば、今日の西洋化された日本人は、殆ど修養ある巴里人或はボストン人の智的平面上に立つている。しかし彼は一切の超自然に關する觀念を過度に蔑視する傾向を有し、且つ現代の宗敎的大問題に對する態度は、全然無關心のそれである。大學に於ける近代哲學の修業が、彼に何等社會學的又は心理學的諸關係の獨立研究を促がすことも稀である。彼に取つては迷信は單に迷信である。迷信と國民の情的性質の關係は、彼に何等の興味をも與へない。〔此冷淡に對して、顯著なる對象は、鳥尾子爵の堅固にして合理的、且つ遠大の見地に立てる保守主義である――一個の崇高なる例外。〕して、これは彼がよく國民を了解してゐるからのみでなく、また彼の屬する階級が、無理解にも――全く當然ではあるが――舊い信仰を恥辱と思つてゐるからである。現今不可知論者と自稱する我々の多數は、佛敎に比して遙かに不合理的なる信仰から新たに解放を得た時代に、我々がいかなる感情を以て祖先の陰慘なる神學を見返へしたかを覺えてゐるだらう。日本の知識階級は、僅々二三十年間に不可知論者となつた。して、この智的進展の急速が、佛敎に對する優秀階級の現今の態度の主要なる――全部でなくとも――原因を説明する。目下の處では、その態度は實に不寛容に近い。しかも、迷信と劃然區別せる宗敎に對する感情が、かやうである以上は、宗敎と區別せる迷信に對する感情は、更に甚しいものに相違ない。

 しかし日本人の生活の稀有なる魅惑――一切諸他の國のとは非常に異つた――は、その歐化された範圍に見出さるべきではない。それはすべての國に於ける如く、日本に於て國民的美德を代表し、且つ今猶その樂しい舊習、華かな服裝、佛像、家庭の神棚、美はしく、また哀れにも殊勝な祖先崇拜を固守する大民衆の間に見出さるべきである。これこそ外國の觀察者が、もし、それに深入りするほどに幸運、且つ同情的であれば、決して倦むことの出來ぬ生活である――時としては、彼をしてその傲然得意になつてゐる西洋文明の進路は、果して精神的發達の方へ向つてゐるかを疑はしめる生活である。年經るにつれて、日毎にこの生活の中に、ある奇異な、思ひもよらぬ美が、彼に顯はされてくるであらう。いづこも同じこと、ここにも暗黑方面はある。それでも西洋生活の暗黑方面と較べて見れば、これは寧ろ光明である。この生活も弱點、愚劣、惡德、殘酷を有つてゐる。が、此生活に接すること多きに隨つて、ますますその異常なる善良、奇蹟的の忍耐、いつも渝らぬ慇懃、單純素朴の情、直覺的の慈愛に驚嘆させられる。して、いかに東京に於ては輕蔑されてゐても、その最も普通の迷信さへ、西洋の一層博大なる見解に取つては、日本人の生活に於ける希望、恐怖、その善惡に對する經驗――幽界の謎に對する解決を見出さんとするその原始的努力――の書籍に載らぬ文學の斷片として、最も珍重すべき價値がある。いかばかり民衆の比較的輕快柔和なる迷信が、日本人の生活の美を增してゐるかは、長く内地に住んだ人によつてのみ理解される。稀に邪惡な信仰もある――例へば狐憑のやうな信仰で、それは一般の敎育によつて、急速に滅んで行つてゐる。しかし、大多數のものは、空想の美に於て、今日最高の詩人も猶ほその中に感激を發見する希臘神話とさへも比肩すべきものである。またその他、不幸の人々に對する同情、動物に對する親切を促がす幾多の信仰は、ただ道德的最好果を齎らすばかりである。家畜の可笑げな得意顏、幾多の野獸が人間の前で比較的平然と怖氣の無さ、喰べ屑の施しを當てに、入り船毎に群がり寄る鷗の白雲、參詣者が撒き散らす米を拾ふため神社の檐端より舞ひ下る鳩の旋風、古い公園の人慣れた鶴、菓子と愛撫を待つ神社の鹿、人影水に映る時、神聖なる蓮池より顏を擡げる鯉――是等及びその他いろいろの美はしい光景は、たとひ迷信的と呼ばるる空想に起因するにせよ、それらの空想は、萬有生命の渾一といふ高尚なる眞理を、最も簡易の形式で懇切示敎してゐるのだ。して、是等のものほどに興味のない信仰――その奇怪さ加減、一笑を禁ぜざらしめるやうな迷信――を考察するに當つても、公平なる觀察者は宜しく史家レツキーの語を念頭に浮ぶべきである。

 『多くの迷信は神に對する卑屈なる恐怖といふ希臘的觀念と一致するものに相違ない。して、述べ盡くせぬほど不幸な結果を人類に及ぼしたのもある。が、また異つた傾向の種類も頗る多い。迷信は吾人の恐怖に訴へると同じく、吾人の希望にも訴へる。それは屢々心情最奧の憧憬に合致して、滿足を與へる。それは理性がただ出來さうなこと、有りさうなことを提供するに過ぎない場合に、確實を惠んで呉れる。それは想像の材料として玩ぶに好ましい想念を供給する。それは時としては、道德的眞理に新しい是認を與へることさへある。それによつてのみ滿足を得らるる要求を創造し、且つ、それのみが鎭め得る恐怖を起して、それは幸福の要素となること屢々である。して、慰安が最も必要とせらるる倦怠或は煩悶の際、その慰安力の効驗は最も多く感ぜられる。吾人は吾人の知識に負ふ處よりも、吾人の幻覺に負ふ方が多い。思索の方面にては主として批評的、且つ破壞的なる理性よりも、全然建設的なる想像力こそ吾人の幸福に貢獻する處、恐らくは多大であらう。危險又は困苦に臨んで、野蠻人が信賴して、しかと胸に抱きしめる粗末な守り札、賤が伏屋に神神しい保護の光明を注ぐと信ぜらるる聖畫は、人生の惱みの最も暗き際に於て、哲學の最も崇高なる學説によつて與へ得られるよりも、一層現實な慰安を與へることが出來る。……批判的精神が普及する時には、好ましい信仰がすべて殘つて、痛ましいもののみ滅びるだらうと想像するのは、これほど大きい間違いはない』

 國民の質朴にして幸福なる信仰を破壞して、これに代ふるに、西洋では智的に夙に時世後れとなつた殘酷なる迷信――宥恕せぬ神と永遠の地獄といふ空想――を以てせんとする頑迷外人の努力に向つて、近代化された日本の批判的精神は、今や反抗よりも寧ろ間接の援助をなしつつあるのは、實に遺憾とせねばならぬ。百六拾年以上も昔に、ケンペルは日本人について、『道德の實行、生活の淸潔と信仰の儀禮に於て、彼等は遙かに歐州人に優つてゐる』と書いた。して、開港場に於ける如く、固有の風儀が外來の汚染を蒙つてゐる土地を除けば、この語は今昔の日本人に關しても實際である。私自身、竝に幾多公平にして、且つ一層經驗ある日本生活の觀察者の確信によれば、日本は基督敎に歸依することによつて、道德的にも、その他の點にも、何等得る處無く、却つて失ふ處が頗る多い。 

 

 本書上下二卷の内容二十七篇に就て、四篇はもと數個の新聞組合に買收されたのを、大いに改竄を加へて、ここに再錄せるもの。また、六篇はアトランチツク・マンスリー雜誌(一八九一―九三年)に發表されたるもの。その他、本書の大部分を成す諸篇は、新らたに書いたものである。

               一八九四年五月 日本九州熊本にて

                   ラフカディオ・ヘルン

[やぶちゃん注:本序では例外的に二行割注によって原注が本文に挟み込まれてある(本文はこうした形式は原則として、とっていない)。本テクストでは同ポイントとして、〔 〕で挟んだのがそれである。なお、末尾のクレジット行の「一八九四年五月 日本九州熊本にて」は底本では、実は「一八九四年五月日 本九州熊本にて」となっている。これはどう見てもおかしいので例外的に訂した。或いはしばしば日本では古えから見られるクレジット法式であるところの日附部分を打たない「一八九四年五月日 日本九州熊本にて」のつもりかも知れないが、原文(“KUMAMOTO, KYŪSHŪ, JAPAN. May, 1894.”)に照らし、その可能性は皆無と断じ、かく改変した。

「一八七一年」明治四年相当。

「ミツトフオード氏」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、「昔の日本の物語」(次注)を執筆し、『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。

「舊日本物語」離日した翌年の「一八七一年」に刊行されたミットフォードのTales of Old Japan。前注の「昔の日本の物語」と同じい。“Internet Archive”の原本を見ると、これは完全に同書本篇部分の冒頭箇所である(ページ“B”)。

「輓近」「ばんきん」で近頃・最近・近年の意。

「四ケ年ほどの居住」本書は一八九四年九月にアメリカのホートン・ミフリン社(Houghton, Mifflin and Company, Boston and New York)から刊行された。ハーンの来日は明治二三(一八九〇)年四月四日(横浜現着)である。先のミットフォードの“Tales of Old Japan”刊行の十九年後になる。

「巴里人」老婆心乍ら、「パリ人(じん)」である。無論、フランスのパリの市民である。

「鳥尾子爵」鳥尾小弥太(とりおこやた 弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)は陸軍中将正二位勲一等子爵で政治家。以下、ウィキの「鳥尾小弥太」より引く。『号は得庵居士、不識道人など』。『萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれ』、安政五(一八五八)年に『父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ』。万延元(一八六〇)年に帰藩して家督を相続、文久三(一八六三)年にかの長州「奇兵隊」に入隊したが、あまりに乱暴者であったために『親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた』(後の「エピソード」に諸説が載る)。『長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している』。『維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍大輔、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任』したが、明治一三(一八八〇)年に『病気のために一切の職を辞し、君権と民権が互いに尊重しあう状態を理想とする『王法論』を執筆した』。『陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成』、明治一四(一八八一)年の『開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった』。明治一七(一八八四)年には『維新の功により子爵を授けられ』た。その後、欧州視察に出て、帰国後の明治二一(一八八八)年には東洋哲学会を、翌明治二二(一八八九)年には『山岡鉄舟や川合清丸、松平宗武らによる日本国教大道社、貴族院内における保守党中正派の結成』するなど、『国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた』。明治三一(一八九八)年には『大日本茶道学会の初代会長に就任』、明治三四(一九〇一)年に青少年教育を目的に「統一学」なるものを起こし、翌明治三五(一九〇二)年には施設教育機関「統一学舎」を設立した。『晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った』。以下、「政治姿勢」の項。『貴族院内においては、懇話会・月曜会に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。自由党と立憲改進党を論敵と見なし、政府の西欧化政策、キリスト教への批判を展開した。また佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して保守党中正派を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した』。『小弥太の政治論は儒教に由来し、易姓革命を容認するがそれが日本の国体(天皇制)と矛盾することを見逃している。彼は法律家や理論家ではなく、個人の心術のみを重んじ意見の当否を問題にしない、と鳥谷部春汀は評している』。以下、「エピソード」の項。『幕末の奇兵隊時代、変名として「鳥尾小弥太」を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。長州藩主・毛利敬親から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている』。『現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱』『が残っている』。『統一学舎を設立した鳥尾は、京都の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの高台寺内に同学舎による顕彰碑が建立されている』。『幕末期、当時奇兵隊少年隊の陣屋であった松林寺(山口県下関市吉田)に駐屯していた隊長の鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として激昂し、隊士を引き連れて法専寺(山口県下関市吉田)境内にあった』六体の『地蔵の首を切り落としている。(首切り地蔵)なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている』これは地蔵好きのハーンは知らなかったのであろう。知っていれば、彼の扱いは大分、変わった気がする。それとも……ハーンはそれを知っていたのであろうか?……そもそもが、本篇の冒頭は愛らしい「地蔵」のシチュエーションから始まっているのである……。明治六(一八七三)年の『第六局長時代、「東京湾海防策」を建議して同湾を囲繞する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に海堡の建設がなされた』。『日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される』。『明治期の教育者・下田歌子に禅学を教授している』。『旧幕臣の中根香亭とは書画骨董の趣味を同じくし、『香亭雅談』には好事家として言及されている』。『封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖』(吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒した、同じ旧長州藩士。維新後は宮内大丞・外務大書記となって岩倉使節団の一員として渡欧した)『による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある』。明治三三(一八九〇)年の帝国議会の際には、『司法大臣・山田顕義がフランス人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい』。『当時の日本人の外国における面白エピソード集』である「赤毛布(あかげっと)」(明治三十三年)には『「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾がパリにて季節はずれの苺を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている』。『墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が参勤交代の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している』とある。ハーンは「第二十六章 日本人の微笑(五)」で彼の論文(英訳されたものの抄出)をかなり長く引いており、そこでハーンは彼の主張の核心の一部には賛同出来ないとしながらも、彼を非常に高く評価している。

「渝らぬ」「かはらぬ(かわらぬ)」と読む。「変わらぬ」である。

「擡げる」老婆心乍ら、「もたげる」と読む。

「渾一」老婆心乍ら、「こんいつ」と読む。多くのものが融け合って一つになること。但し、「渾身」の「渾」は「総て」の意であるが、この場合は第一原義の「混じる」の意味であるので注意されたい。

「示敎」「じけう(じきょう)/しけう(しょう)」で、具体的に示しながら教えること。「教示」に同じい。

「史家レツキー」アイルランドの歴史家ウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー(William Edward Hartpole Lecky 一八三八年~一九〇三年)のことであろう。ダブリン生まれでダブリンのトリニティ・カレッジに学び、アイルランド・イギリスさらにはヨーロッパに於ける宗教・道徳に関する研究を相次いで発表、科学や合理思想の発展を中世から辿った。以下の引用は文字列の検索によって、彼の一八六九年刊の“History of European morals from Augustus to Charlemagne”の第一巻からのものであることが判った。

「宥恕」老婆心乍ら、「いうじよ(ゆうじょ)」と読み、寛大な心で許すこと、見逃してやることを指す。

「百六拾年以上も昔に、ケンペルは日本人について、『道德の實行、生活の淸潔と信仰の儀禮に於て、彼等は遙かに歐州人に優つてゐる』と書いた」「ケムペル」はドイツ人医師で博物学者であったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer 一六五一年~一七一六年)のこと。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の著者として知られる。以下、ウィキの「エンゲルベルト・ケンペル」より引用する。北部ドイツの『レムゴーに牧師の息子として生まれた。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている』。この二つの『経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた』。一六八一年には『スウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王』カール十一世が『ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とサファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。彼の地球を半周する大旅行はここに始まる』。一六八三年十月二日、『使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年』十一月七日に『アストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてペルシアに入り、翌年』三月二十四日に『首都イスファハンに到着した。彼は使節団と共にイランで』二十ヶ月を『過ごし、さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録を残した』が、『その頃ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。彼はその機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして』一年ほど『オランダ東インド会社の船医として勤務した。その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡』った。元禄三(一六九〇)年に『オランダ商館付の医師として』約二年間も『出島に滞在した。元禄四年と五年には『連続して、江戸参府を経験し徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した』。この元禄五年に『離日してバタヴィアに戻り』、一六九五年に実に十二年振りで『ヨーロッパに帰還した。オランダのライデン大学で学んで優秀な成績を収め医学博士号を取得。故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛か』り、多大な困難を乗り越え、一七一二年に「廻国奇観」Amoenitates Exoticae)『と題する本の出版にこぎつけた。この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもない。ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している。この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであった。『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」(Heutiges Japanの執筆にも取り組んでいたが』、『ケンペルはその出版を見ることなく死去し』た。『彼の遺品の多くは遺族により』、三代に亙ってイギリス国王に『仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた』。一七二七年、『遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツの啓蒙思想家ドーム(Christian Wilhelm von Dohm)が甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ』、一七七七年から一七七九年に『ドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclestiastique de I'empire du Japonが出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し』、これが十九世紀の『ジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること』約百四十年後に『日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している』。『ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語第二版(De Beschryving Van Japan)』(一七三三年)を底本として、志筑忠雄は享和元(一八〇一)年に『この付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した』とある。ハーンが引用しているのは、この一七二七年英訳版「日本誌」からのものであろう。

「四篇はもと數個の新聞組合に買收されたのを、大いに改竄を加へて、ここに再錄せるもの」推定であるが、これは冒頭の四篇「第一章 私の極東に於ける第一日」「第二章 弘法大師の書」「第三章 お地藏さま」「第四章 江ノ島巡禮」(邦題は総て本訳書のもの。次注も同じ)ではあるまいかと考えている。これは新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二三(一八九〇)年の来日直後の四月の箇所に、『鎌倉、江の島に遊び、紀行を送る』とあるのに基づく類推である。この時送った先は彼が特派員となっていたニューヨークの『ハーバーズ・マンスリー』誌一社のように読めるが、この直後に彼は同誌との契約に不満を持ち、翌五月には同ハーバー社と絶縁しているから、それらが勝手に他の新聞などに転載買収された可能性は大いにあるように思われる。

「六篇はアトランチツク・マンスリー雜誌(一八九一―九三年)に發表されたるもの」“Atlantic Monthly”は一八五七年にアメリカのボストンでJ..ローエル編集で創刊された月刊誌で、誌名をつけた定期寄稿者O.W.ホームズのエッセー・シリーズ「朝食のテーブルの独裁者」その他が好評を博した。当初はニューイングランドを中心とした文芸雑誌の性格が強かったが,南北戦争の頃から政治・時事問題を扱い始め、戦後はオハイオ生れのW.D.ハウエルズが主筆(一八七一年~一八八一年在任)となり、文化的広がりを与えた。二十世紀に入ってからは文学的個性は少なくなり、時局ものに重きを置いている(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二四(一八九〇)年の条に、『秋、「アトランティック・マンスリー」誌に日本印象記を連載、好評を博する』とある。また同年の条のこの前の八月の箇所に、『杵築の出雲神社、日御崎神社、加賀浦、美保の関に遊ぶ。『知られぬ日本の面影』はこの頃書かれた』とはある(下線やぶちゃん。但し、全部ではない)。この時に同誌に連載されたのが、どの章かは不明である。順列通りならば、「第五章 盆市にて」「第六章 盆踊」「第七章 神國の首都――松江」「第八章 杵築――日本最古の社殿」「第九章 子供の精靈の――潛戸(くけど)」「第十章 美保の關にて」となるが、この内、松江に着いてからの章にはやや疑問が残る。ただ、下巻部分の多くはこの明治二十四年秋以降から翌年にかけての体験(有体に言うと、熊本での体験を松江にすり替えたものが散見されるのである)に基づくものが実は多いことは事実である。

「一八九四年五月 日本九州熊本にて」彼が熊本第五高等学校(現在の熊本大学)に転任するために松江を去ったのは明治二四(一八九一)年十一月十五日である(「八雲会」の「松江時代の略年譜」に拠る)。本書刊行は明治二七(一八九四)年九月であるから、この序文はその四ヶ月前に認められたものということになり、これが本篇決定稿執筆の下限となることが判る。]

 

 

 

PREFACE.

――

   In the Introduction to his charming Tales of Old Japan, Mr. Mitford wrote in 1871:'The books which have been written of late years about Japan have either been compiled from official records, or have contained the sketchy impressions of passing travelers. Of the inner life of the Japanese the world at large knows but little: their religion, their superstitions, their ways of thought, the hidden springs by which they move, all these are as yet mysteries.'

   This invisible life referred to by Mr. Mitford is the Unfamiliar Japan of which I have been able to obtain a few glimpses. The reader may, perhaps, be 
disappointed by their rarity; for a residence of little more than four years among the people ― even by one who tries to adopt their habits and customs
carcely suffices to enable the foreigner to begin to feel at home in this world of strangeness. None can feel more than the author himself how little has been 
accomplished in these volumes, and how much remains to do.

   The popular religious ideas ― especially theideas derived from Buddhism ― and the curious superstitions touched upon in these sketches are little shared by the educated classes of New Japan. Except as regards his characteristic indifference toward abstract ideas in general and metaphysical speculation in particular, the Occidentalized Japanese of to-day stands almost on the intellectual plane of the cultivated Parisian or Bostonian. But he is inclined to treat with undue contempt all conceptions of the supernatural; and toward the great religious questions of the hour his attitude is one of perfect apathy. Rarely does his university training in modern philosophy impel him to attempt any independent study of relations, either sociological or psychological. For him, superstitions are simply 
superstitions; their relation to the emotional nature of the people interests him not at all. [1] And this not only because he thoroughly understands that people, but because the class to which he belongs is still unreasoningly, though quite naturally, ashamed of its older beliefs. Most of us who now call ourselves agnostics can recollect the feelings with which, in the period of our fresh emancipation from a faith far more irrational than Buddhism, we looked back upon the gloomy theology of our fathers. Intellectual Japan has become agnostic within only a few decades; and the suddenness of this mental revolution sufficiently explains the principal, though not perhaps all the causes of the present attitude of the superior class toward Buddhism. For the time being it certainly borders upon intolerance; and while such is the feeling even to religion as distinguished from superstition, the feeling toward superstition as distinguished from religion must be something stronger still.

   But the rare charm of Japanese life, so different from that of all other lands, is not to be found in its Europeanized circles. It is to be found among the great common people, who represent in Japan, as in all countries, the national virtues, and who still cling to their delightful old customs, their picturesque dresses, their Buddhist images, their household shrines, their beautiful and touching worship of ancestors. This is the life of which a foreign observer can never weary, if fortunate and sympathetic enough to enter into it,― the life that forces him sometimes to doubt whether the course of our boasted Western progress is really in the direction of moral development. Each day, while the years pass, there will be revealed to him some strange and unsuspected beauty in it. Like other life, it has its darker side; yet even this is brightness compared with the darker side of Western existence. It has its foibles, its follies, its vices, its cruelties; yet the more one sees of it, the more one marvels at its extraordinary goodness, its miraculous patience, its never-failing courtesy, its simplicity of heart, its intuitive 
charity. And to our own larger Occidental comprehension, its commonest superstitions, however condemned at Tōkyō have rarest value as fragments of the 
unwritten literature of its hopes, its fears, its experience with right and wrong,
its primitive efforts to find solutions for the riddle of the Unseen flow much the lighter and kindlier superstitions of the people add to the charm of Japanese life can, indeed, be understood only by one who has long resided in the interior. A few of their beliefs are sinister,― such as that in demon-foxes, which public education is rapidly dissipating; but a large number are comparable for beauty 
of fancy even to those Greek myths in which our noblest poets of today still find inspiration; while many others, which encourage kindness to the unfortunate and kindness to animals, can never have produced any but the happiest moral results. The amusing presumption of domestic animals, and the comparative fearlessness of many wild creatures in the presence of man; the white clouds of gulls that hover about each incoming steamer in expectation of an alms of crumbs; the whirring of doves from temple- eaves to pick up the rice scattered for them by pilgrims; the familiar storks of ancient public gardens; the deer of holy shrines, awaiting cakes and caresses; the fish which raise their heads from sacred lotus- ponds when the stranger's shadow falls upon the water,― these and a hundred other pretty sights are due to fancies which, though called superstitious, inculcate in simplest form the sublime truth of the Unity of Life. And even when considering beliefs less attractive than these,― superstitions of which the grotesqueness may provoke a smile,― the impartial observer would do well to bear in mind the words of Lecky:
 

    Many superstitions do undoubtedly answer to the Greek conception of slavish "fear of the Gods," and have been productive of unspeakable misery to 
mankind; but there are very many others of a different tendency. Superstitions appeal to our hopes as well as our fears. They often meet and gratify the inmost longings of the heart. They offer certainties where reason can only afford possibilities or probabilities. They supply conceptions on which the imagination loves to dwell. They sometimes impart even a new sanction to moral truths. Creating wants which they alone can satisfy, and fears which they alone can quell, they often become essential elements of happiness; and their consoling efficacy is most felt in the languid or troubled hours when it is most needed. We owe more to our illusions than to our knowledge. The imagination, which is altogether constructive, probably contributes more to our happiness than the reason, which in the sphere of speculation is mainly critical and destructive. The rude charm which, in the hour of danger or distress, the savage clasps so confidently to his breast, the sacred picture which is believed to shed a hallowing and protecting influence over the poor man's cottage, can bestow a more real consolation in the darkest hour of human suffering than can be afforded by the grandest theories of philosophy. . . . No error can be more grave than to imagine that when a critical spirit is abroad the pleasant beliefs will all remain, and the painful ones alone will perish.' 

   That the critical spirit of modernized Japan is now indirectly aiding rather than opposing the efforts of foreign bigotry to destroy the simple, happy beliefs of the people, and substitute those cruel superstitions which the West has long intellectually outgrown, the fancies of an unforgiving God and an everlasting hell,― is surely to be regretted. More than hundred and sixty years ago Kaempfer wrote of the Japanese 'In the practice of virtue, in purity of life and outward devotion they far outdo the Christians.' And except where native morals have suffered by foreign contamination, as in the open ports, these words are true of the Japanese to-day. My own conviction, and that of many impartial and more experienced observers of Japanese life, is that Japan has nothing whatever to gain by conversion to Christianity, either morally or otherwise, but very much to lose. 

 

   Of the twenty-seven sketches composing these volumes, four were originally purchased by various newspaper syndicates and reappear in a considerably altered form, and six were published in the Atlantic Monthly (1891-3). The remainder forming the bulk of the work, are new.

 

L.H.

 

   KUMAMOTO, KYŪSHŪ, JAPAN. May, 1894. 

 

1
In striking contrast to this indifference is the strong, rational, far-seeing conservatism of Viscount Tōrio — a noble exception.

[やぶちゃん注:以下、底本は総目次標題として「小泉八雲全集第三卷目次」とある。又目次の各項の下のリーダと頁数字(漢数字)は本電子化では意味がないので省略した。その代り、底本には明記されていない各章の担当訳者を、「後書」からの推定で【 】で各章の後に附した。あくまで推定であることに注意されたい。] 

 

 知られぬ日本の面影 上 

第 一 章  私の極東に於ける第一日     【落合貞三郎】

第 二 章  弘法大師の書          【落合貞三郎】

第 三 章  お地藏さま           【落合貞三郎】

第 四 章  江ノ島巡禮           【落合貞三郎】

第 五 章  盆市にて            【落合貞三郎】

第 六 章  盆踊              【落合貞三郎】

第 七 章  神國の首都――松江       【落合貞三郎】

第 八 章  杵築――日本最古の社殿     【落合貞三郎】

第 九 章  子供の精靈の――潛戸(くけど) 【落合貞三郎】

第 十 章  美保の關にて          【落合貞三郎】

 十一 章  杵築のことゞも         【落合貞三郎】

 十二 章  日ノ御崎にて          【落合貞三郎】

 十三 章  心中              【落合貞三郎】

 十四 章  八重垣神社           【落合貞三郎】

 十五 章  狐               【落合貞三郎】

 

 

 知られぬ日本の面影 下

 十六 章  日本の庭            【大谷正信】

 十七 章  家の内の宮           【大谷正信】

 十八 章  女の髮について         【大谷正信】

 十九 章  英語教師の日記から       【田部隆次】

 二十 章  二つの珍しい祝日        【落合貞三郎】

第二十一章  日本海に沿うて         【田部隆次】

第二十二章  舞妓について          【落合貞三郎】

第二十三章  伯者から隱岐へ         【大谷正信】

第二十四章  魂について           【田部隆次】

第二十五章  幽靈と化け物について      【田部隆次】

第二十六章  日本人の微笑          【田部隆次】

第二十七章  サヤウナラ           【大谷正信】

[やぶちゃん注:以下同様に、原本にある“VOLI.”“CONTENTS.”のリーダとページ・ナンバーを省略し、別に“Vol. II”にあるCONTENTS.を同じ処理をして後に繋げた。“Vol. II”“CONTENTS.”の終りには“INDEX.”(「語句索引」)があるが、底本邦訳ではそれ自体が完全に省かれているのでカットした。字配とポイントはなるべく原書に近くなるように電子化した。] 

 

CONTENTS.

―――

VOLI.


I.     M
Y FIRST DAY IN THE ORIENT

II.      THE WRITING OF KŌBŌDAISHI

III.      JIZŌ

IV.       A PILGRIMAGE TO ENOSHIMA

V.      AT THE MARKET OF THE DEAD

VI.      BON-ODORI

VII.      THE CHIEF CITY OF THE PROVINCE OF THE GODS

VIII.     KITZUKI: THE MOST ANCIENT SHRINE IN JAPAN

IX.      IN THE CAVE OF THE CHILDREN'S GHOSTS

X.        AT MIONOSEKI

XI.      NOTES ON KITZUKI

XII.      AT HINOMISAKI

XIII.     SHINJU

XIV.     YAEGAKI-JINJA

XV.      KITSUNE

 

 

CONTENTS.

―――

Vol. II

XVI.     IN A JAPANESE GARDEN

XVII.   THE HOUSEHOLD SHRINE

XVIII.  OF WOMEN'S HAIR

XIX.     FROM THE DIARY OF AN ENGLISH TEACHER

XX.      TWO STRANGE FESTIVALS

XXI.     BY THE JAPANESE SEA

XXII.   OF A DANCING-GIRL

XXIII.  FROM HŌKI TO OKI

XXIV.   OF SOULS

XXV.    OF GHOSTS AND GOBLINS

XXVI.  THE JAPANESE SMILE

XXVII. SAYŌNARA!

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (五)/「知られぬ日本の面影」本篇~了

まさか、たった半年で完成出来るとは思ってもみなかった。

「八雲会」を始めとしてエールを送って下さった皆さんに、この場を借りて心より感謝申し上げます。


 
 
       五

 

 到頭旅券が來た。自分は出立しなければならぬ。

 中學校とその隣の小學校とは虎列拉が來たので閉鎖されて居る。で自分は病毒が染みて居る川の岸近く寒い朝風に曝される危險を彼等の爲めに恐れて、自分を見送りに生徒が集まることをしないやうにと斷つた。が、自分の謝絶はただ愉快な笑を以て迎へられるだけであつた。昨夜校長は總ての級長へ使を送つた。だから、日出後一時間にして、二百人許りの生徒が教師と共に、小さな汽船が其處で待つて居るあの長い白い橋の近くの埠頭まで自分を護衞しに門前に集つて居る。そして自分共は出かける。

 他の生徒共は既に埠頭に集つて居る。そして彼等と共に自分が知つて居る人達の大群集が待つて居る。友人や親しい顏見知り、生徒の父母や親戚、いつか極僅かな惠を與へたことを自分が思ひ出せるもの悉く、それに報ずる機會を終に自分が有たずにしまつた恩を自分が受けたことのある數多くの人々――自分の爲めに働いた人達、自分がその家で一寸した物を買ひ求めた商人共、にこにこ御辭儀をする親切な無數の顏がそれである。知事は丁寧な口上を述べさせにその祕書をよこす。師範學校の校長は握手しに一寸の間急いでやつて來る。師範の生徒はその家庭へ歸つて居るが、その教師は少からず來て居る。自分は一番西田が居らぬのを心殘りに思ふ。肺の出血で長の二た月臥せつて居るのである。が、その病床で認めた極めて鄭重な送別の手紙と美くしい記念の品いくつかをその父が持つて來る。

 ところで自分は身のまはりのその愉快な顏總てを見ると斯う自問せざるを得ぬ。『他のどんな邦ででもこれと同じ長さの月日の間これと同じ職業を勤めて暮らして、そしてこれに似た絶間なしの人間の深切の經驗を味はひ得たであらうか』と。此等の人達の悉くから自分はただ懸切と慇懃とだけ受け來たつて居る。一人として。不注意の故を以てしても、これまで自分に寛大ならぬ言葉を唯の一つも言ひかけたものは無い。五百に餘る子供と大人との教師として、自分は嘗て自分の忍耐力を試されたことが無い。斯んな經驗はただ日本に於てのみ可能であるのかと自分はあやしむ。

 

 が小蒸汽は乘客をせきたてて叫ぶ。自分は多くの手を――恐らくはかの雄々しい深切な師範學校々長の手を最も堅く――握つてから乘船する。ジンジヤウチユウガクカウの校長、兩校の教員二三、それから自分の氣に入りの生徒の一人が隨行する。次の港まで、其處から自分は廣島へ山越しして行くのだから、其處まで自分に伴なはうといふのである。

 冬の初寒(はつざむ)が身に沁みる淡靄のかかつた麗はしい朝であった。小さな甲板の上から自分は最後の眺の眼を向ける、長い白い橋が架つて居る大橋川(おおはしがは)の古風な見通しに――その脚を鏡の如き水に浸して込み合うて居る、屋根の尖つた懷しい古い奇妙な家屋の群集(むれ)に――朝日に金色(こんじき)染めた和船の帆に――昔ながらの山々の美しい奇妙な恰好に。

 この土地の魅力は、本當に神が住んで居る土地の如くに、實に魔術的である。その土地の色彩の妖異な美妙さが實に美はしい――その土地の雲の形と交じり合うて居るその土地の山の形が實に美はしい――就中、その土地の高い物をば空に懸つて居るやうに思はせるあの長い霞の搖曳が實に美はしい。現實と幻との區別が出来かねるほどに、――一切の物が將に消えなんとする蜃氣樓かと思へるほどに――天と地とが不思議に混じり合うて居る土地。噫、自分にはそれが永久に消えんとして居るのである。

 小蒸汽船は再び叫び、ブツフと蒸汽を噴き、中流に後戻りし、あの長い白い橋に艫(とも)を向ける。すると、其灰色の波止場が後すさりするにつれて、長い『アアアアアアアアアア』といふ聲が制服をつけた隊列から起こつて、總ての帽子がその眞鍮の漢字を閃めかせて浪と搖れる。自分はその小さな甲板船室の屋根へ登つて、帽子を振つて英語で『グッドバイ、グッドバイ!』と叫ぶ、と『マンザイ、マンザイ』(君に萬歳を、萬歳を)といふ叫聲が漂ひ歸る。が早それは遙か遠くから微かに來る。その小動船は河口を辷り出で、靑い湖水へ突き進み、松影の或る岬を曲る。と人顏も、人聲も、波止場も、長い白い橋も、懷出となつてしまつた。

 でも、その廣い湖水の無言の中へと進み行く時、暫くの間振り返つて眺めると、松が群れ茂つて居る、壯大な高地を抽んづる古城の嶺、――美くしい庭がある自分の家の在り場、――學校の靑い屋根、それが左手にあと退りして行くのが見える。が、それも亦迅速に視界を去る。すると見えるものはただ靑い仄かな水面、靑い仄かな霞、遠さを異にして朦乎と浮いて居る靑い或は綠の或は鼠色の仄かな峰々、そして何よりも、東の方に靈と白く聳えて、あの見事な大山(だいせん)の妖姿、それだけである。

 すると、別れの次の刹那に人の心にいつも群がり來るあの生き生きした懷出――處や物に附隨する總てについての懷出――の突進に遭うて自分の心は一寸の間沈む。記憶に殘つて居る笑顏。出て行く教師にその日の幸を祈つて朝々古いヤシキの敷居際に集つて呉れた人達。その歸宅を喜び迎へて呉れた夕べ夕べの人達。いつもの時刻に門邊に待つて居た犬。蓮の花が咲き鳩の聲が聞こえた庭。杉の杜から響き來る寺の鐘の調子の好い音。遊んで居る子供等の唄。種々な色どりの街路の夕影。御祭の夜の長く續いて居る提燈の灯。湖水に踊る月の影。出雲の太陽に敬禮しての川岸での拍手。風つよい橋の上の何時までも絶えぬ愉快氣な下駄の音。――總て此等のまた他の幾百もの樂しい記憶が殆んど心が苦しいほどに生き生きと自分に蘇つて來る――と同時に一方では、尊い名を有つて居る遠くの山々は徐ろにその靑い肩をそむけ、我が小蒸汽は、この神の國から絶えず遠く遠くへと、次第に迅く迅く、自分を運んで行く。

 

[やぶちゃん注:本篇を以って Lafcadio Hearn Glimpses of Unfamiliar Japan、落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の本文は、その全篇を終る。

「校長」松江尋常中学校校長。以前に注したが、ハーン就任当時とは校長が変わっており、当時の校長は私には不詳であったが、今回、先の師範学校校長校斎藤熊太郎(この場にもコレラ騒ぎの多忙の中、駈けつけている)を検索している最中、「東洋大学 国際哲学研究センター」公式サイト内の井上円了関連のデータ(円了の日記「館主巡回日記」)で『〔明治二十四年〕五月三十日』の条に『中学校長木村収』とあるのを発見した。彼と思われる。因みに、以前に注したようにこの時、円了はハーンを訪問している(リンク先の日記すこぶる残念なことにその記録はない)。

「あの長い白い橋」大橋川に架橋された大橋。来松以来の、松江の町のハーンの原風景のシンボルである。

「知事」既に何度も出て注した籠手田安定である。

「西田」既に何度も出て注した松江尋常中学校校長心得で英語教師あったハーンの盟友西田千太郎である。彼は既に肺結核に罹患していた。この後もハーンと親しく交友を続けたが、この六年後の明治三〇(一八九七)年三月十五日に満三十四歳で亡くなっている。彼は文久二年九月十八日(グレゴリオ暦一八六二年十一月九日)の生まれであるから、ハーンより十二年下であった。因みに、この松江を離れた当時のハーンは満四十一(ハーンの生年月日は一八五〇年六月二十七日。本邦では嘉永三年五月十八日相当)であった。

「自分の氣に入りの生徒の一人が隨行する」底本「あとがき」によって、先に送辞を述べた、そして本章の訳者でもある大谷正信であることが判る。

「抽んづる」最期の最後の老婆心乍ら、「ぬきんづる」と読む。古語のダ行下一段活用の自動詞「ぬきんづ」の連体形。「抜き出づ」の音変化で「抜きん出る」「擢んづる」とも漢字表記する。ひときわ高く出る、聳えるの意。

「靈と」原文は“ghost-white”。ハーン独特の単語。“ghostwhite”という英語の色名はあり、分るか分からないぐらい灰色がかった白を指すが、この大谷氏のそれは名訳であると私は思う(平井呈一氏は単に『白く』と訳されている)。これはただの色を示す名詞や形容詞ではない。確かにまさしく「霊のような玄妙な妖しく白い」の謂いの形容詞であると英語の冥い私でも思うのである。

「尊い名を有つて居る遠くの山々」この時のハーンの目には南(約十キロメートル)に、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に稲田姫とともに宮造りをした伝説の残る八雲山(標高・四百二十四・一メートル。現在の島根県雲南市大東町及び松江市八雲町に跨る)が見えていたに違いない(ネット上の検索で八雲山山頂から宍道湖は見える)。ハーンはこの松江に別れを告げた四年後(本書刊行の翌年)の明治二八(一八九五)年の秋には、妻子の将来を考えて帰化手続をし、「小泉八雲」と改名した(帰化手続完了は翌明治二十九年二月であるから戸籍上の正式な改名はそこにはなる)。……ハーンはこの時、その眼底に映った「尊い名を有つて居る遠くの山」の一つの名と同じ名に自身が名乗ることとなることを知っていただろうか……]

 

 

.

   At last my passport has come. I must go.

   The Middle School and the adjacent elementary schools have been closed on account of the appearance of cholera, and I protested against any gathering of the pupils to bid me good-bye, fearing for them the risk of exposure to the chilly morning air by the shore of the infected river. But my protest was received only with a merry laugh. Last night the Director sent word to all the captains of classes. Wherefore, an hour after sunrise, some two hundred students, with their teachers, assemble before my gate to escort me to the wharf, near the long white bridge, where the little steamer is waiting. And we go.

   Other students are already assembled at the wharf. And with them wait a multitude of people known to me: friends or friendly acquaintances, parents and relatives of students, every one to whom I can remember having ever done the slightest favor, and many more from whom I have received favors which I never had the chance to return, persons who worked for me, merchants from whom I purchased little things, a host of kind faces, smiling salutation. The Governor sends his secretary with a courteous message; the President of the Normal School hurries down for a moment to shake hands. The Normal students have been sent to their homes, but not a few of their teachers are present. I most miss friend Nishida. He has been very sick for two long months, bleeding at the lungs but his father brings me the gentlest of farewell letters from him, penned in bed, and some pretty souvenirs.

   And now, as I look at all these pleasant faces about me, I cannot but ask myself the question: 'Could I have lived in the exercise of the same profession for the same length of time in any other country, and have enjoyed a similar unbroken experience of human goodness?' From each and all of these I have received only kindness and courtesy. Not one has ever, even through inadvertence, addressed to me a single ungenerous word. As a teacher of more than five hundred boys and men, I have never even had my patience tried. I wonder if such an experience is possible only in Japan.

 

   But the little steamer shrieks for her passengers. I shake many hands most heartily, perhaps, that of the brave, kind President of the Normal School and climb on board. The Director of the Jinjo-Chūgakkō a few teachers of both schools, and one of my favorite pupils, follow; they are going to accompany me as far as the next port, whence my way will be over the mountains to Hiroshima.

   It is a lovely vapory morning, sharp with the first chill of winter. From the tiny deck I take my last look at the quaint vista of the Ohashigawa, with its long white bridge, at the peaked host of queer dear old houses, crowding close to dip their feet in its glassy flood, at the sails of the junks, gold-coloured by the early sun, at the beautiful fantastic shapes of the ancient hills.

   Magical indeed the charm of this land, as of a land veritably haunted by gods: so lovely the spectral delicacy of its colors, so lovely the forms of its hills blending with the forms of its cloud, so lovely, above all, those long trailings and bandings of mists which make its altitudes appear to hang in air. A land where sky and earth so strangely intermingle that what is reality may not be distinguished from what is illusion, that all seems a mirage, about to vanish. For me, alas! it is about to vanish forever.

   The little steamer shrieks again, puffs, backs into midstream, turns from the long white bridge. And as the grey wharves recede, a long Aaaaaaaaaa rises from the uniformed ranks, and all the caps wave, flashing their Chinese ideographs of brass. I clamber to the roof of the tiny deck cabin, wave my hat, and shout in English: 'Good-bye, good- bye!' And there floats back to me the cry: 'Manzai, manzai!' [Ten thousand years to you! ten thousand years!] But already it comes faintly from far away. The packet glides out of the river-mouth, shoots into the blue lake, turns a pine-shadowed point, and the faces, and the voices, and the wharves, and the long white bridge have become memories.

   Still for a little while looking back, as we pass into the silence of the great water, I can see, receding on the left, the crest of the ancient castle, over grand shaggy altitudes of pine, and the place of my home, with its delicious garden, and the long blue roofs of the schools. These, too, swiftly pass out of vision. Then only faint blue water, faint blue mists, faint blues and greens and greys of peaks looming through varying distance, and beyond all, towering ghost-white into the east, the glorious spectre of Daisen.

   And my heart sinks a moment under the rush of those vivid memories which always crowd upon one the instant after parting, memories of all that make attachment to places and to things. Remembered smiles; the morning gathering at the threshold of the old yashiki to wish the departing teacher a happy day; the evening gathering to welcome his return; the dog waiting by the gate at the accustomed hour; the garden with its lotus-flowers and its cooing of doves; the musical boom of the temple bell from the cedar groves; songs of children at play; afternoon shadows upon many-tinted streets; the long lines of lantern-fires upon festal nights; the dancing of the moon upon the lake; the clapping of hands by the river shore in salutation to the Izumo sun; the endless merry pattering of geta over the windy bridge: all these and a hundred other happy memories revive for me with almost painful vividness, while the far peaks, whose names are holy, slowly turn away their blue shoulders, and the little steamer bears me, more and more swiftly, ever farther and farther from the Province of the Gods.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (四)

       四

 

 が、自分は彼等を再び見るの愉快を有たぬであらう。彼等は總て遙か遠くへ行つて居る――或る者は彼(あ)の世へ。でも自分が師範學校でのその送別宴會に出席してからたつた四日經つ!或る殘酷な天降がその門を鎖ぢその生徒を國内に四散させたのである。

 二た晩前に、支那船が日本へ齎らしたと想はるゝ虎列拉がこの市の方々に、しかも、あるが中にも師範學校内にも發生した。それに襲はれてから問も無く絶命した生徒と教師が數人もあり、今も生死の境を彷徨して居るものが少からぬ。他の者共はその温泉で有名な玉造といふ健康地の小村へ行軍して行つた。が、其處でも虎列拉がまた彼等の間に發生したので、生存者をそれぞれその家庭へ解散することに決定された。何の周章も無かつた。軍隊風の規律は依然として破られずに居た。教師も生徒もその位置に居て斃れた。その大きな枚舍は醫務當局者が管理を引受けて、今なほ消毒衞生の事業を行うて居る、恢復期にある者と大體なサムラヒ校長齋藤熊太郎とだけ殘つて居る。總ての人の生命安全と見るまで沈み行く己が船を去るを潔しとせざる船長の如くに、校長は危險の中心に蹈止つて、病める生徒を看護し、衞生事業を監督し、部下の者は危難の初の一刻に迅速に立ち去らせたので常はその數多い部下に委せる事務一切を躬ら處理して居る。彼は生徒が二人助かつたのを見て喜んで居る。

 今一人の生徒で昨夜葬られたのに就いて自分は斯んな話を聞く。死ぬるほん少し前、それも最も親切なる反對を推して、その生徒は校長が己が病床に近寄るのを見ると、臂を突いて起きて軍隊式の敬禮を行ふ體力を見出した。そして雄々しい人に對してのその雄々しい挨拶と共に彼は大なる沈默へ入つて行つたと。

 

[やぶちゃん注:「自分が師範學校でのその送別宴會に出席してからたつた四日經つ」明治二四(一八九一)年十一月十四日。既に述べた通り、ハーンが松江を発つ前日である。

「虎列拉」「コレラ」。既注。幾つかの資料を管見したが、この折りの島根でのコレラ流行の記録物は発見出来なかった。

「健康地の」原文“healthy”。コレラ感染者が出ていないという謂いと思われる。

「周章」「しうしやう(しゅうしょう)」慌(あわ)てふためくこと。周章狼狽。

「教師も生徒もその位置に居て斃れた」原文“Students and teachers fell at their posts.”。「教師達も生徒達も、その彼等の出先で斃れた」の謂いである。

「齋藤熊太郎」詳細事蹟は不詳であるが、ウィキの「根師範学校(後身)で島根県尋常師範学校校長を明治二三(一八九〇)年八月五日より明治二九(一八九六)年六月十一日まで勤めていることが判る。即ち、ハーン着任時(明治二十三年九月)からの校長であるから、懇意の人物であったものと思われ、ここの記載もそうした侍校長へのオマージュが強く感じられる。

「躬ら」「みづから(みずから)」。自ら。]

 

 

.

   But I shall not have the pleasure of seeing them again. They are all gone far away some to another world. Yet it is only four days since I attended that farewell banquet at the Normal School! A cruel visitation has closed its gates and scattered its students through the province.

   Two nights ago, the Asiatic cholera, supposed to have been brought to Japan by Chinese vessels, broke out in different parts of the city, and, among other places, in the Normal School. Several students and teachers expired within a short while after having been attacked; others are even now lingering between life and death. The rest marched to the little healthy village of Tamatsukuri, famed for its hot springs. But there the cholera again broke out among them, and it was decided to dismiss the survivors at once to their several homes. There was no panic. The military discipline remained unbroken. Students and teachers fell at their posts. The great college building was taken charge of by the medical authorities, and the work of disinfection and sanitation is still going on. Only the convalescents and the fearless samurai president, Saito Kumataro, remain in it. Like the captain who scorns to leave his sinking ship till all souls are safe, the president stays in the centre of danger, nursing the sick boys, overlooking the work of sanitation, transacting all the business usually intrusted to several subordinates, whom he promptly sent away in the first hour of peril. He has had the joy of seeing two of his boys saved.

   Of another, who was buried last night, I hear this: Only a little while before his death, and in spite of kindliest protest, he found strength, on seeing his president approaching his bedside, to rise on his elbow and give the military salute. And with that brave greeting to a brave man, he passed into the Great Silence.

2015/12/22

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (三)


       三


 師範學校の生徒はその大廣間で送別の宴會を開いて呉れた。自分は彼等とは一年の間ほん僅か――約定の一週六時間より少いぐらゐ――しか一緒に居なかつたことであるから、そ
の外國人教師に對して大した愛情を感じようとは想像もし得なかつた。ところが自分は自分の日本生徒に就いて知らねばならぬことがまだ多くあるのである。その宴會は甚だ愉快であつた。各級の級長が用意して來た短い送別の辭を英語で順番に讀んだ。支那や日本の昔の詩人から得た比喩や感情の文句で美しくされてゐたその面白い文章のうち常に自分の記憶に殘ると思ふもの一にして止まらなかった。それから生徒は自分の爲めに校歌をうたひ、また宴會の終に『オオルド・ラング・サイン』の日本語譯を吟誦した。そしてそれから皆んなが、軍隊行列で、自分を家まで護衞して、門の處で『マンザイ!』『グツドバイ!』『御出かけの時は汽船まで先生と一緒に行軍します』と叫んで、訣別の喝采をした。

[やぶちゃん注:「ほん僅か」ママ。

「約定の一週六時間より少いぐらゐ」先に示した通り、ハーンは「第十九章 英語教師の日記から(二)」では『四時間』の授業を受け持っていたと述べている。これは着任直後の記載であるから、それよりも後に増えたものかと考えていたのであるが、この記載を見ると、実は契約上は「一週六時間」持つはずだったのであるが、実際にはカリキュラム上の配慮か、師範学校側の時間割作成上或いは何らかの不明な、例えば師範学校内の管理職の方針や英語科内のでの諸事情から、中学の方に二時間を割いていた可能性が高い。それは実務上の非公式の操作であった故に、ハーンが島根県の教育担当官庁などからの批判指摘などを配慮して、六時間足らずという濁した言い方をしたものかも知れない。

「オオルド・ラング・サイン」「蛍の光」。既注

「マンザイ!」無論、「萬歳(万歳)!」である。「万歳」は呉音では「マンザイ」、漢音では「バンゼイ」で、我々が現行で感動詞と使用する「ばんざい!」は実は「バン」は漢音、「サイ」は呉音という本来はおかしな発音なのである。因みに、現代中国語では「ワンスイ」「ワンソェー」、現代朝鮮語では「マンセー」「マンセ」であり、ウィキ万歳によれば、「バンザイ」と『発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日』、明治二二(一八八九)年二月十一日に『青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという』。『最初の三唱は「万歳、万歳、万々歳」と唱和するものであったが、最初の「万歳」で馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えずじまいに終わった』とあり、『当初は文部大臣森有礼が発する語として「奉賀」を提案していたが、「連呼すると『ア・ホウガ(阿呆が)』と聞こえる」という理由から却下された。また、「万歳」として呉音の「マンザイ」と読む案もあった(それまでの奉祝の言葉としては漢音の「バンセイ」あるいは「バンゼー」)が、「マ」では「腹に力が入らない」とされたため、謡曲・高砂の「千秋楽」の「千秋楽は民を撫で、萬歳楽(バンザイラク)には命を延ぶ」と合わせ、漢音と呉音の混用を問わずに「万歳(バンザイ)」とした』とある(下線やぶちゃん)。本篇のシチュエーションはその最初の日本の「バンザイ」から僅か二年後の、先に示した明治二四(一八九一)年十一月十日の中原倶楽部での送別会であるから、これはハーンが「ばんざい!」を「まんざい!」に聴き違えて誤記したのではなく、実際に一同、「まんざい!」と唱和したのだと私は思う。] 

 

.

   The students of the Normal School gave me a farewell banquet in their hall. I had been with them so little during the year less even than the stipulated six hours a week ― that I could not have supposed they would feel much attachment for their foreign teacher. But I have still much to learn about my Japanese
students. The banquet was delightful. The captain of each class in turn read in English a brief farewell address which he had prepared; and more than one of
those charming compositions, made beautiful with similes and sentiments drawn from the old Chinese and Japanese poets, will always remain in my memory. Then the students sang their college songs for me, and chanted the Japanese version of 'Auld Lang Syne' at the close of the banquet. And then all, in military
procession, escorted me home, and cheered me farewell at my gate, with shouts of 'Manzai!' 'Good-bye!' 'We will march with you to the steamer when you go.'


小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (二)

       二

 

 親愛なる先生。――

 先生は私共がこれまで就きました最も善いまた最も情深い教員の一人でありました。先生の最も懇切な授業に依つて獲ました知識に對して私共は衷心御禮を申上げます。我が校の生徒はいづれもせめて三年は御とゞまり下さうことを希望致して居りました。で、先生が九州へ御出のことに御決心になつたと知りました時、私共は皆な悲しさに氣落致したのであります。先生をお止め申す方法が、何か無いかと校長に願ひましたが、それは出來ないことを知りました。今この告別の際私共は私共の感情を言ひ現はす言葉を有ちません。私共は私共の記念の品として日本刀を差上げました。まことにつまらない見つともない物てあります。ただ私共の感謝の印(しるし)として御氣に留めていたゞけるかと考ヘただけであります。私共は先生の最も懇切な授業を決して忘れません。そして私共一同先生が永久に健康で幸福であられんことを願ひます。

  島根縣尋常中學校生徒一同を代表しまして

              大谷正信

 

 我が親愛なる生徒諸君。――

 自分は諸君の贈物を――銀のカラシシがその鞘の上に跳ね躍り、或はその驚くべき欛の絹の紐を通して腹這うて居るあの美しい刀を――どんな感情を以て受取つたか諸君に語ることは出來ぬ。少くとも總てを諸君に語ることは出來ぬ。が、自分は諸君の贈物を見た時、不圖諸君の昔の諺を想ひ浮べた。刀はサムラヒの魂であるといふ諺である。それから、此高雅な記念品のその選擇に諸君は諸君自らの魂の或る物を表象したのであるといふ氣がした。といふのは、我々英國人も亦、刀劔に關した有名な格言や諺を有つてゐる。我々の詩人は立派な刀身を『確かな(トラステイ)』とか『忠實な(トルウ)』とか呼ぶ。そして我々の最善の友をば『あれは鋼(スチイル)の如くに忠實だ』と言ふ。鋼(スチイル)といふのは古い意義での、申分無しの刀の鋼(スチイル)――武士たるものがその鍛へに自己の名譽と自己の生命とを託し得る鋼――といふ意味である。そして丁度そのやうに諸君のこの贈物。それは自分は一生大切に保存するが、諸君のこの絶好な贈物に自分は諸君の眞心と愛情との表象を見出すのである。自分は諸君が諸君の心の裡に、自分がそれを能く能く、知るやうになつた、そして諸君の贈物がこの美はしい徽號として永久に存するであらうところ、彼(か)の寛大と深切と忠實との衝動をば、常に新しく蓄へ居らるゝやうにと希ふのである。

 そしてこれは教師に對する生徒としての諸君の愛情と忠實との徽號であるばかりで無く、諸君の多くが、最も慕はしい願として、自分に作文に書かれた時表明された、あの他の美はしい義務感念、即ち陛下の爲めに、諸君の天皇の爲めに、身命を捧げたいとの願望の徽號でもあるのである。その願望は神聖である。それは諸君に分つて居るよりも恐らくはもつと深い意味を、諸君がもつと年とつてもつと賢くならるゝまでは或は分らぬ深い意味を有つて居る。今の時代は大なるまた迅速なる變化の時代である。諸君の多くは、大きくならるゝと、諸君の祖先が諸君より前に信じて居た事悉くを信ずることは出來なくなることもあらう。尤も自分は、恰も諸君が今猶、諸君の祖先の靈を尊むが如くに、諸君の祖先の信仰を少くとも相變らず常に尊まるゝことを眞實信ずる差るものである。が、新日本の生活が諸君の身邊に如何に多く變らうとも、諸君自らの思想が時世と共に如何に多く變らうとも、諸君が自分に表明したあの尊い願望を諸君の精神から失(な)くならせてはならぬのである。その願望は、諸君の家庭のお宮の前に輝く小さな燈明の炎の如くに、明らかにまた淨らかに、常に燃やして置かなければならぬのである。

 恐らく諸君の或る者はその願望を果たさるゝかも知れぬ。諸君の多くは軍人にならねばならぬのである。士官とならるゝ人もあらう。帝國を海で護るといふ大任の準備に海軍兵學校へ入らるゝ人もあらう。そして諸君の天皇と諸君の國家は諸君の血を要求することすらあるであらう。が然し諸君のうちの大多數は他の途を執る運命を有つて居られて、――或る國家的な大危險、そんな事を日本が知ることは無いと自分は信ずるが、或る國家的な大危險の時を恐らくは除いて――肉體的自己犧牲をさるゝそんな機會は有たれぬかも知れぬ。ところが、それに劣らぬ高尚な、そして軍人でない、官吏でない生活を營んで居て諸君がそれを果し得る今一つの願望がある。それは、國家の爲めに死ぬことは出來んでも、國家の爲めに生きるといふことである。諸君の祖先の最も親切な最も賢明なものの如くに、諸君の政府は、この科學的世紀が與へ得る最前の教育をば、他の如何なる文明國もが同一の利益を與へ得るより遙かに少い費用で受け得られるやう、あらゆる便宜を具へて居る立派な學校を諸君に供給して居る。そしてこれは、諸君の各々をして、諸君の國家をそれが過去に於てあつたよりも一層賢明に一層富裕に一層強大にするのに手傳はしめんが爲めである。そして如何なる實務的家業或は學問的職業にあつても、その家業或は職業の品位を高めまた發達せしむるに最善の力を注ぐ人は如何なる人も、義務で死ぬる陸海軍人に劣らず眞に陛下の爲めにまた國家の爲めにその生命を捧ぐるものである。

 思ふに自分は、諸君が自分の去るを見て悲しむに劣らず、諸君を後にして去るを悲しむものである。自分は日本の學生の心情を知れば知るほど、層一層その國を愛するやうになつた。が然し、自分は松江へ歸ることは無いけれども、諸君の多くに再び會ふことと思ふ。或る方々には今後の夏に何處かで出會うであらうと殆んど確信して居る。或る方々には自分が行かうとして居る官立學校で今一度教へる希望を抱けさへするかも知れぬ。が、再び會はうが會ふまいが、自分の生涯が諸君を知ることによつて一層幸福になつたこと、自分は常に諸君を愛する事、これを信じて貰ひたい。では、諸君の美しい贈物に對して重ねて感謝の意を述べて、左樣なら!

 

[やぶちゃん注:本章の訳者は底本の「あとがき」から本文に送辞が出る大谷正信氏御自身である。大谷氏については何度も注しているが、再掲しておく。英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)は松江市生まれで底本の共訳者である落合貞三郎同様、松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされ)。また、京都三高在学中に虚子や碧梧桐の影響から句作を始めて子規庵句会に参加、繞石(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。]

 

 

.

   DEAR TEACHER: You have been one of the best and most benevolent teachers we ever had. We thank you with all our heart for the knowledge we obtained through your kindest instruction. Every student in our school hoped you would stay with us at least three years. When we learned you had resolved to go to Kyūshū, we all felt our hearts sink with sorrow. We entreated our Director to find some way to keep you, but we discovered that could not be done. We have no words to express our feeling at this moment of farewell. We sent you a Japanese sword as a memory of us. It was only a poor ugly thing; we merely thought you would care for it as a mark of our gratitude. We will never forget your kindest instruction; and we all wish that you may ever be healthy and happy.

MASANABU OTANI,   

  Representing all the Students of the Middle School of Shimane-Ken.

 

   MY DEAR BOYS: I cannot tell you with what feelings I received your present; that beautiful sword with the silver karashishi ramping upon its sheath, or crawling through the silken cording of its wonderful hilt. At least I cannot tell you all. But there flashed to me, as I looked at your gift, the remembrance of your ancient proverb: 'The Sword is the Soul of the Samurai.' And then it seemed to me that in the very choice of that exquisite souvenir you had symbolized something of your own souls. For we English also have some famous sayings and proverbs about swords. Our poets call a good blade 'trusty' and 'true'; and of our best friend we say, 'He is true as steel' signifying in the ancient sense the steel of a perfect sword, the steel to whose temper a warrior could trust his honor and his life. And so in your rare gift, which I shall keep and prize while I live, I find an emblem of your true-heartedness and affection. May you always keep fresh within your hearts those impulses of generosity and kindliness and loyalty which I have learned to know so well, and of which your gift will ever remain for me the graceful symbol!

   And a symbol not only of your affection and loyalty as students to teachers, but of that other beautiful sense of duty you expressed, when so many of you wrote down for me, as your dearest wish, the desire to die for His Imperial Majesty, your Emperor. That wish is holy: it means perhaps even more than you know, or can know, until you shall have become much older and wiser. This is an era of great and rapid change; and it is probable that many of you, as you grow up, will not be able to believe everything that your fathers believed before you; though I sincerely trust you will at least continue always to respect the faith, even as you still respect the memory, of your ancestors. But however much the life of New Japan may change about you, however much your own thoughts may change with the times, never suffer that noble wish you expressed to me to pass away from your souls. Keep it burning there, clear and pure as the flame of the little lamp that glows before your household shrine.

   Perhaps some of you may have that wish. Many of you must become soldiers. Some will become officers. Some will enter the Naval Academy to prepare for the grand service of protecting the empire by sea; and your Emperor and your country may even require your blood. But the greater number among you are destined to other careers, and may have no such chances of bodily self-sacrifice, except perhaps in the hour of some great national danger, which I trust Japan will never know. And there is another desire, not less noble, which may be your compass in civil life: to live for your country though you cannot die for it. Like the kindest and wisest of fathers, your Government has provided for you these splendid schools, with all opportunities for the best instruction this scientific century can give, at a far less cost than any other civilized country can offer the same advantages. And all this in order that each of you may help to make your country wiser and richer and stronger than it has ever been in the past. And whoever does his best, in any calling or profession, to ennoble and develop that calling or profession, gives his life to his emperor and to his country no less truly than the soldier or the seaman who dies for duty.

   I am not less sorry to leave you, I think, than you are to see me go. The more I have learned to know the hearts of Japanese students, the more I have learned to love their country. I think, however, that I shall see many of you again, though I never return to Matsue: some I am almost sure I shall meet elsewhere in future summers; some I may even hope to teach once more, in the Government college to which I am going. But whether we meet again or not, be sure that my life has been made happier by knowing you, and that I shall always love you. And, now, with renewed thanks for your beautiful gift, good-bye!

梅崎春生「午砲」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約

さても今度は、梅崎春生の三篇からなるアンソロジー「輪唱」中の、「猫の話」の後に配された「午砲」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約した。これで「輪唱」全部を読むことが出来る。なお、全部を繋げた「輪唱」完全テクストも用意してある。
……僕と一緒に「猫の話」を読んだ教え子諸君……あなたは今度はそこで……再び「猫の話」の「若者」に出逢うことになるのである!……乞うご期待!……
なお、私の梅崎春生の電子テクスト類は同日午前0:01から始動させる――

梅崎春生「いなびかり」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約

梅崎春生の三篇からなるアンソロジー「輪唱」中の、「猫の話」の前に配された「いなびかり」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約した。
……僕と一緒に「猫の話」を読んだ教え子諸君……あなたはそこで……再び「カロ」に出逢うことになるのである!……乞うご期待!……

2015/12/21

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (一)

 第二十七章 サヤウナラ

  

         一

 

 自分は去らうとして居る、――遙か遠くへ。教師としての地位は既に辭して、今はただ旅券を待つて居るのである。

 親しい顏が隨分多く此世から消えて行つたから、此地を去るのを遺憾に思ふ念は、六ケ月前に感じたであらうよりも今は少い。とは言ふものゝ、この古い雅致のある町は慣習と聯想とで自分に如何にも懷(なつか)しいものになつて居るから、二度とまた此町を見ぬのだとの考は自分はそれを頭に浮べることをようし得ない程である。自分は蔭多い北堀町にあるこの美しい古い家へいつか歸ることがあるかも知れぬと努めて信じようとして居る。過去の經驗に依ると、さういふ想像は永遠の別離の前にいつも出て來たものだといふことを始終痛ましくも承知してゐながら。

 事實は、一切の事物がこの神の國では永久のものでは無いといふ事、寒さが酷烈であるといふ事、遙か南の、降雪の稀な、九州の大きな官立學校から招聘を受けて居るといふ事である。その上に自分は餘程身體を傷めて居た。それでもつと温暖な氣候の處といふ前途の望が自分の決心を形つくるのに大なる力があつたのである。

 

 ところが名殘の昨今四五日は極めて嬉しい不意の出來事に充ちて居る。己が義務の履行に對しての單純な滿足以上のことを期待する權利が無い處に感謝の意外の示現を見る事、ただ厚意の存するあるのみと想つて居る處に愛情を見出す事、――これは確に非常に氣持の好い經驗である。

 兩校の教師が自分に餞別を呉れた。淡紅色の妙な蟹が這うて居る磯邊へ垂れ下つて居る花盛の樹と、鳥と描いた模樣が一面にある、高さ三呎許りの、素ばらしく見事な花瓶一對――昔の封建時代の樂山(らくざん)で造つた花瓶――出雲の絶好の記念品である。この驚嘆すべき花瓶に添へて贈呈者三十二人の氏名を漢字で書いた卷物があつた。その三十二人のうち三人は婦人の――師範學校の三人の女教師の――名である。

 ジンジヤウチユウガクカウの生徒も亦自分に贈物を――松江に於ける自分の最も幸福な多くの記憶への二百五十一名の生徒の最後の貢獻を――して呉れた。それはダイミヨウ時代の日本刀である。出雲の黃金の眼を有つた銀のカラシシ――神道の獅子――がその深紅の朱漆塗の鞘の上に群れて居り、またその巧妙な欛のあたりに腹這うて居る。そしてその美しい品物を自分の家へ持つて來た委員が、昔の慣習に從つて、生徒が自分に別を告げる爲め皆んな待つて居る學校の講堂へ直ぐに一緒に來て呉れと自分に乞うた。

 そこで自分はそれへ行つた。互に述べた事は次に書き記す。

 

[やぶちゃん注:既注の通り、ハーンは明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも、実は異人の妻となったセツに対する心ない噂なども理由の一つとしてはあった)として熊本第五高等学校(現在の熊本大学)に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、

 明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時

(大橋西桟橋より汽船にて出発)であったことが判っている。松江でのハーンの生活は、僅か凡そ十四ヶ月と半月で終わった。因みに、それ直前のデータも同リンク先より示しておくと、前月の、

 十月  八日 盟友で松江中学校教頭心得の西田千太郎に熊本への転任の決意を報告。

 十月二十六日 中学校で最後の授業を行う。

十一月  十日 中原倶楽部で送別会。

とある(「中原倶楽部」は不詳。「中原」な松江城の南西の宍道湖に近い松江市中原町の地名で、そこの料亭か何かか?)。

「旅券」内国旅券。外国人滞在者で私的な旅行ではなく、就労目的の長期の転居であり、しかもハーンの場合、今までは地方県立中学校の一外国人英語教師であったものが、文部省管轄の官立高等中学校の教授職となるのであるから、新たな旅券、現在でいう査証(ビザ)に相当するパスポートを再発行して貰う必要があったものであろう。
 
「北堀町」「第十六章 日本の庭(一)」及び私の注を参照されたい。ハーンがこの偏愛した武家屋敷(現地では「甲冑(かちゅう)屋敷」と呼ぶ。ここで生徒が来訪するのも無論、ここ)に移ったのは、明治二十四年の六月二十二日(大澤隆幸氏「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」に拠る)のことであった。この本文ばかりでなく、かの「第十六章 日本の庭」で偏愛したこの屋敷には、実は半年ばかりしかハーンは住まなかったのであった。

「この神の國」松江(及び杵築から出雲(島根)全体)を一応、指す。

「一切の事物がこの神の國では永久のものでは無いといふ事」原文は“The facts are that all things are impermanent in the Province of the Gods;”一見、仏教の無常観の表明のように読めるのだが、これは以下の並列理由から見て、平井呈一氏の『正直のはなし、この神々の国』の都松江『では、すべてのことが永続きしないこと』といった訳でいいのではあるまいか? 『永続きしない』はハーン自身の行動や信念、他者のハーンやセツに対する認識や受け入れ方というプラグマティクなニュアンスを私は強く感ずるからである。ただ、それを「無常」のオブラートに包んでなるべく見えぬようにするという意識(というか、松江の愛すべき人々への気配り)は働いているようには読める。

「九州の大きな官立學校から招聘を受けて居る」当時の校長は、かの「柔道の父」と呼ばれる柔道家で教育家であった嘉納治五郎(万延元(一八六〇)年昭和一三(一九三八)年)であった。嘉納は柔道の達人であったばかりでなく、教育者としても尽力しており、明治一五(一八八二)年から学習院教頭、明治二〇(一八八七)年には前章で最後に出た井上円了が開いた哲学館(現在の東洋大学の前身)で講師となって倫理学科目を担当、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆している。明治二四(一八九一)年に第五高等中学第三代校長に就任した。後、明治二六(一八九三)年からは通算二十五年間ほどに亙って東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長並びに東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務め、文部省参事官・普通学務局長・宮内省御用掛なども兼務した。一方で明治一五(一八八二)年に英語学校「弘文館」を南神保町に創立したり、明治二九(一八九六)年には清国からの中国人留学生の受け入れに努め始め、明治三二(一八九九)年に牛込にその受け入れ先としての教育機関「弘文学院」(校長は松本亀次郎)を開いている。ここでは後の文学革命の旗手となった魯迅が学び、治五郎に師事した(以上は主にウィキの「嘉納治五郎」に拠った)。ハーンはここでこう述べているが、幾つかの資料を見たが、嘉納治五郎側からハーンに積極的なアプローチあった事実は確認出来ないでいる。識者の御教授を乞うものである。

「兩校」県立島根県尋常中学校松江中学校(改称は明治一九(一八八六)年。現在の島根県立松江北高等学校)及び島根県立松江師範学校(改称は明治九(一八七六)年十月。県立島根大学教育学部の前身)。既に見てきた通り、ハーンは師範学校でも数時間(第十九章 英語教師の日記から(二)には『四時間』とある)の授業を受け持っていた。

「三呎」九一・四センチメートル。

「樂山で造つた花瓶」楽山焼(「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(三十四)の私の「其處で出來る光つた黃色い陶器」の注を参照)である。

(らくざん)――出雲の絶好の記念品である。この驚嘆すべき花瓶に添へて贈呈者三十二人の氏名を漢字で書いた卷物があつた。その三十二人のうち三人は婦人の――師範學校の三人の女教師の――名である。

「二百五十一名の生徒」当時の尋常中学校は五年生であるから一学年五十人前後か。

「欛」「つか」と読む。柄(つか)に同じい。]

 

 

ⅩⅩⅦ

SAYŌNARA!

.

   I am going away, very far away. I have already resigned my post as teacher, and am waiting only for my passport.

   So many familiar faces have vanished that I feel now less regret at leaving than I should have felt six months ago. And nevertheless, the quaint old city has become so endeared to me by habit and association that the thought of never seeing it again is one I do not venture to dwell upon. I have been trying to persuade myself that some day I may return to this charming old house, in shadowy Kitaborimachi, though all the while painfully aware that in past experience such imaginations invariably preceded perpetual separation.

   The facts are that all things are impermanent in the Province of the Gods; that the winters are very severe; and that I have received a call from the great Government college in Kyūshū far south, where snow rarely falls. Also I have been very sick; and the prospect of a milder climate had much influence in shaping my decision.

 

   But these few days of farewells have been full of charming surprises. To have the revelation of gratitude where you had no right to expect more than plain satisfaction with your performance of duty; to find affection where you supposed only good-will to exist: these are assuredly delicious experiences.

   The teachers of both schools have sent me a farewell gift, a superb pair of vases nearly three feet high, covered with designs representing birds, and flowering-trees overhanging a slope of beach where funny pink crabs are running about, vases made in the old feudal days at Rakuzan, rare souvenirs of Izumo. With the wonderful vases came a scroll bearing in Chinese text the names of the thirty-two donors; and three of these are names of ladies, the three lady-teachers of the Normal School.

   The students of the Jinjō-Chūgakkō have also sent me a present, the last contribution of two hundred and fifty-one pupils to my happiest memories of Matsue: a Japanese sword of the time of the daimyo. Silver karashishi with eyes of gold in Izumo, the Lions of Shintō swarm over the crimson lacquer of the sheath, and sprawl about the exquisite hilt. And the committee who brought the beautiful thing to my house requested me to accompany them forthwith to the college assembly-room, where the students were all waiting to bid me good-bye, after the old-time custom.

   So I went there. And the things which we said to each other are hereafter set down.

1月1日電子テクスト公開予約完了

来年の私の入魂の梅崎春生のテクストの2016年1月1日ブログ公開予約をほぼ完了した。これで僕に何かあっても、以前からの梅崎春生の1月1日の約束だけは守れる。――

……カロ……「猫の話」と復元した授業案は読み易いPDF縦書版も用意してある(これも1月1日にはそれぞれの記事からダウンロード可能にさせてある)。

予測した通り、「桜島」と「幻化」は注がトンデモなく長いものになった。恐らくは向後も誰も「桜島」や「幻化」には注しないような注が永く果てしない砂浜のように続いている……これが……僕の――鬼――である……乞うご期待!――

2015/12/19

バク

昨日はかみさんの誕生日(満60で還暦。僕まだ58)だった。
大きなバクの縫いぐるみをプレゼントした。

――因みに、昔から金属アレルギーで宝飾類には今や全く興味がなくなり、両足が不自由なためにバッグや装身具も選べない。花は喜ばず(かつて3万円の花束を贈ったが世話は総て私がやった)、足の関係で太れないことから食事もプレゼントにならない。――高価な贈り物を喜ぶ相手というのも何だが、選ぶものが極めて限られる相手というのもこれ難しいものがある――

今朝、カウチに寝っころがっているそのバクをよく見てみたら――これ――しっかり目を閉じているではないか!?

バクは起きて居てこそ悪い夢を喰うんだろ!

こら! バク! 寝るな!!

梅崎春生「猫の話」語注及び授業案  藪野直史 (本文省略版)

 梅崎春生「猫の話」語注及び授業案   藪野直史

 

[現在のやぶちゃん注:私は正直、本作は朗読するだけでよかったと思っている。くだくだしい分析など、いらなかったと思っている。事実、何人かの生徒が、私が朗読し終ったとき、鼻をすすったのをよく覚えている。それでも、私の懐かしい思い出のために、これを電子化しておきたい(因みに、三年前に再会した十年前の教え子の男子が私の授業のノートを見せてくれたが、そこには私が喋った雑談まで克明に記されてあって、涙がでそうになるほど嬉しかった)。

 

 私は五十五で早期退職した際、三十三年間総て残してきた段ボール二箱あった紙ベースの自分がオリジナルに作った教材や授業案及び関連資料の殆んど総てを断捨離した(例外的に残した中島敦の「山月記」の原典「人虎傳」のダイジェスト・プリント(中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史内の)や、「こころ」の「先生」の家(以上はブログ版。サイト版は心 先生の遺書(一)~(三十六)やぶちゃんの摑みの(十六))や下宿の推定作画(以上はブログ版。サイト版は先生の遺書(五十五)~(百十)やぶちゃんの摑み」の(六十五))などは既に公開済である)。電子データの中には残っているものの、その内の2/3は最早廃棄した旧ワープロで作成したもので、文字列だけしか復元出来ない。本授業案では生徒に絵コンテを描かせる試みなどもしたことから、表形式で作ったシナリオなどの箇所もあるが、ワードでそれを再現するのは労多き割に私の限られた時間の有意な浪費となるため諦めた。なお、語注は高校生向けのものであるから、成人した諸君には言わずもがなの注も含まれるのは悪しからず。]


 

【本文省略。あと12日待っててね! 純粋な本文だけのテキスト及び完全版授業案は2016年1月1日に公開します。】

 

〇語注及び授業案

第【】段 若者と猫

・板廂(いたびさし):木の板で葺いた粗末な庇(ひさし)。建物の窓などの上部に張り出させた片流れの日除け・雨除け・雪除けを目的とした小さな屋根。軒(のき)。

 

運送屋で一階はガレージも兼ねているかも知れぬが、くれぐれもその総体が木造の粗末な造作であることを十全にイメージさせる。二階であるにも拘わらず、コオロギが多く侵入してくるというのは、壁も古い土壁のような構造を説明した方が腑に落ちる。その壁が古くなって外側も内側も一部の土が剥落し、格子状の枠(木舞(こまい))がちょっとのぞいているような感じを想起させる。

 

・蟋蟀(音は「シッシュ」)直翅(バッタ)目剣弁亜(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科の昆虫類或いはその下のタクソンのコオロギ亜科 Gryllinae の、

 フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma

 コオロギ亜科 Modicogryllini 族オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ(オカメコオロギ)Loxoblemmus campestris

 オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitzi

 Modicogryllini 族ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado

 Modicogryllini Gryllodes 属カマドコオロギ(イエコウロギ) Gryllodes sigillatus

などが代表的な種である。鳴き声は種によってかなり異なり、一般には、

エンマコオロギ 「コロ、コロ、コロ」「ヒヨ、ヒヨ、ヒヨ」

オカメコオロギ・ミツカドコオロギ 「リッ、リッ、リッ」

ツヅレサセコオロギ 「リィ、リィ、リィ」

カマドコオロギ 「キリ、キリ、キリ」「チリ、チリ、チリ」

などと音写されるようである。個人的なSE(サウンド・エフェクト)としてはエンマコオロギか。[現在のやぶちゃん注:この注は原授業案では『蟋蟀(音は「シッシュ」)』のみであったのを、今回、追加した。「兵庫県立人と自然の博物館」公式サイト内のこちらで各種コオロギ鳴き声を聴ける。]

 

・外食券食堂:第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。

[現在のやぶちゃん注:授業ではここで、確か、古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記に記された、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えているという凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容を読み上げた。書庫のどこかに現物が埋まっているはずだが、見出せない。発見したら追記する。追加しておくと、小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏の「外食券食堂」によれば、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは形骸化して、昭和四四(一九六九)年には廃止されたとある。因みに、私は昭和三十二年生まれであるが、券も食堂も記憶にはない。]

 

時代背景(以上から)

 敗戦後数年経った昭和二十年代前半の東京 

敗戦直後ではないと思われるが、本作(本作は昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』に掲載された「いなびかり」「猫の話」「午砲」の三篇からなる「輪唱」の第二篇目)初出時期と外食券食堂の雰囲気から見ると、昭和二十二・二十三年辺りと考えてよい。

 

「若者」について

・孤独な猫に愛着を感じる「彼も孤独」であった

 

 平凡ですこぶる純真な若者像

 

段落「夜になると猫は彼に身体をすり寄せて寝た。」

 

  猫に対する対等な強い共感表現に着目 

 

・粗末なおんぼろの狭い(推定)蟋蟀が入ってくるような「運送屋の二階」に部屋を借りている

・貧しい生活

  定職なし (推定)

 

作中、主人公は猫と対峙し続け、仕事に出るシーンが全くないことに気づかせる。

 

猫について(第段落)

 皮膚が茶色のぶち・耳が薄く鋭く立っている・尻尾が長く垂れている 

耳について《伏線》

 敏捷さ・鋭敏さの暗示 

 

直後の蟋蟀を捕獲するシーン(第段落)の描写への伏線《だけではない!》

 すっかりやせている・(しかし)眼だけは澄んで光っている・好物は蟋蟀 

身体つきと眼について

 若者自身と同様に、貧しい(貧弱である)が、そこに純真なものを感じさせる