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2015/12/02

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十八)

        一八

 

 松江で出版された或る小さな本に據ると、隱岐の國のメイシヨは、その四つの主もな島の三つの間に分けられて居る。知夫里島だけが特に興味のあるものを何一つ有つて居ないのである。數代の間、島後での人引きつけ場處は、都萬目里(つばめざと)の頤無し地藏の寺と、油井(ゆゐ)村にある瀧(檀鏡瀧)と、下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉と、それから其處に馬蹄石があるといふ津井の池といふ小さな湖水とであつた。中の島には、海士(あま)村に、流罪になり給ふた後鳥羽天皇の御墓と、時折其處に御住みになつて居た、そして今日に至るまで御遺物が保存されて居る、助九郎といふ古昔の長者の邸宅とがある。西の島は、別府に、流罪になり給うた後醍醐天皇記念の神社と、無雲の日には其處から此群島全體の壯觀を眼にすることが出來るといふ、燒火山の頂上の、あの權現樣の神社とを有つて居る。

 知夫里島は名所は無いけれども、知夫里といふ貧乏小村は――隱岐通ひの汽船が西郷ヘの途中必ず寄港するあの知夫里村は――此群島の傳説總てのうち恐らくは最も興味あるものの舞臺である。

 五百六十年前、配流の後醍醐天皇は警護者の眼を脱れて西の島から知夫里へどうかかうか逃げ終せられた。するとその小村の色黑の水夫共は、必要あらば生命を賭しても、天皇に仕へ申さうと申出た。皆はその船へ、多分その子孫が今も出雲や伯耆へ持出すのと同じ干烏賊であつたらう、『乾たる魚』を積込んで居る處であつた。天皇は首尾能く伯耆か出雲へ上陸させて呉れゝばお前等を忘れまいとお約束になつた。そこで皆の者は天皇を或る小船にお乘せ申した。

 處が出船して少ししか行かないうちに追手の船が見えた。そこで天皇に向つて横に臥てお出でになるやう申上げ、玉體の上へ高く乾魚を積み上げた。追手の者は船へ乘込んで搜索したが、非道い臭の鯣は手を觸れようとも思はなかつた。そして知夫里の者共は訊問されると、話をこしらへて、虛僞(うそ)の手掛を天皇の敵に話してきかせた。斯くして鯣のお蔭でこの善良なる天皇は遠島を免れ得給うたのである。

 

[やぶちゃん注:「都萬目里(つばめざと)の頤無し地藏の寺」島後の西部寄り中央附近にある現在の隠岐の島町都万目(つばめ)地区に腮無(あごなし)地蔵堂として、「取り敢えず」堂としては現存するものを指している(鍵括弧及び勿体ぶった謂い方をしているのかは後で判る)。後述するが、ここには伴桂寺という曹洞宗の寺があったらしい。個人ブログ「隠岐での日々」の「隠岐の紅葉 あごなし地蔵尊と小野篁②」がよい。リンク先の同地蔵堂に掲げられてある「腮無地蔵堂略縁記」の写真を拡大して読まれると、この地蔵(二体あるとする)は小野篁自らが彫ったものであること、その一体はここの近くの茶屋の娘で「腮が落ちん」ばかりの激しい歯痛に悩んでいた「阿古那(あこな)」のそれを癒やした地蔵像であったこと(「あごなし」とは元は娘の名を冠した「阿古那(あこな)地蔵」であったものが歯痛効験の地蔵尊という絡みで訛ったものと思われる)、篁とその阿古那が結ばれ、子も産まれたが二歳で夭折、篁も帰京することとなり、亡くなった子を象って二体目の地蔵を彫って阿古那に授けて去ったこと、その後この二体の地蔵歯痛のみでなく、諸病に効験ありとして信仰されたこと、最後に『明治二年廃仏思想伝わるや地蔵尊堂も火を放たるところとなる 役人の去るを待ち井上角四郎火中に飛込み危く焼失せんとした尊像を拝持ちし自家へ移しまつる 後年同郷の人々と力を協せ本堂を建立し安置せるものなり』とある(クレジットは昭和三一(一九五六)年八月二十八日とし、「腮無地蔵奉賛会」という組織名が記されてはある)。……しかし、である。……記事の方の後ろのコメントを読んでみて戴きたいのである。……そこには管理人の方とコメントした方との間で以下のような不思議な会話が載るのである。……

   *

『あごなし地蔵様というのは今はお堂がきれいになっているのですか。拝観はできるのですか』。『 私が隠岐島後に居た頃は、島後に来て2年になる者が、「島後にきて2年になるが一度もお地蔵さんを拝観したことがない」と言ったところ、その近くに住んでいる女の人が「私は此の地に嫁にきて42年になるがまだいちどもお地蔵さんをみたことがない」と言っていたそうです』。『それを聞いて島後生活2年の者は、「42年も暮らしていてまだお顔を拝していないのだから自分のように2年やそこらの者が拝観できないのは当たり前かもしれない。」と言っていました『また島後の人たちは、願満寺のことを「ガマジ」と「都万目」のことを「ツバメ」発音していますね』……

『さて、拝観についてすが私が行ったときは本堂の戸が開いていて中まで見れましたが、どこにその像があるのかはわかりませんでした。もしかしたら奥のほうにしまってあるのか、いつも見れる状態にはなっていないのかもしれません』……

『お堂は年中開いていますので』『いつでも入ることが出来ますが、仏像2体は扉が閉まり見ることはできません。旧歴7月23日の二十三夜という祭りの日に1年1回だけ扉が開かれますが、幕が掛かっており直接は見えない状態です』。『ちなみに、2体の仏像は廃仏毀釈で焼かれ黒こげ状態で』『輪郭はあるものの彫刻の状態はわかりません』……

『お堂はいつも開いているのですね。一度、地元の方が開けて中に入っていくのを見かけました』。『仏像は基本的に見れないのですね。廃仏毀釈の爪痕が隠岐では大きく残っていますね』……

   *

……お気づきになられたであろうか?……

……この管理人の方もコメントされた方も……

……いや……

……島後に来て二年になる方も四十二年も暮らしている方も……

……誰も……

――この地蔵を見たことがない――

……と言っておられるのである……

……年に一度だけ扉が開かれるが……

……幕が掛かっていて二体の地蔵は直接には見ることが出来ぬ……

……しかも二体とも黒焦げで彫像と認識出来るような代物ではない……

……というのである。

ミステリアスにしてホラーの焦げ臭い臭いが漂ってくるではないか?!

隠岐でのおぞましいかの廃仏毀釈が苛烈なものであったことは幾つかの記載で知っていたが、寺ごと焼き払うというのはまさにイスラムのファンダメンタルな過激派みたようだ。ここまで酷かったとは知らなかった。そこでさらに調べてみた。

……すると……

……どうも……

実はここには――地蔵像は「ない」のではないか?――という疑惑が浮上してきたのである!!!

それは大阪府豊中市南桜塚にある曹洞宗仏日山吉祥林東光院の公式サイトの「由緒と歴史」の中の「隠岐島のあごなし地蔵尊の遷座」が目に止まったからである。そこには「あごなし地蔵大菩薩三尊像」と称する左右に二童子を配した坐像地蔵尊を写真で拝める(これは同寺でも秘仏とされ五十年に一度(!)しか開帳されないとある)が、そこには歯痛平癒の霊験あらたかで、全国的に信仰を集めているとあり、その縁起は『伝来する古文書と地蔵堂移築落慶の棟札により考証され』るとあって、その隠岐にあった伴桂寺という寺の祖芳という僧の書いた『「あごなし地蔵尊伝来本縁起(でんらいほんえんぎ)」』なるものには、『平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が』承和五(八三八)年十二月に『隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました』。『その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています』とあって、明らかにこの隠岐の「腮無地蔵」伝承と根っこが同じであることが判るのである。当該頁にはこの東光院にこの地蔵が持ち込まれた経緯を以下のように記してある(字配はママ)。

   《引用開始》

 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治2年、隠岐島の伴桂寺が廃仏に遭いました。

伴桂寺の最後の住職となった聯山祖芳(れんざんそほう)大和尚は、当時の当院住職大雄義寧禅師の弟子でした。伽藍、仏像、経巻、什宝を悉く焼却破棄する未曽有の暴挙に遭った祖芳和尚は、千年にわたって全国的に厚い信仰を集めていた小野篁(おののたかむら)卿正作のあごなし地蔵尊像を命を賭してお護りし、師寮寺である東光院へ逃げてきたのです。

この霊像の再興を図る祖芳和尚は、義寧禅師に当山での永世護持をこいねがい、尽[やぶちゃん注:「ついには」と訓じているか。]には許されて我が国最古級のこの由緒深き[やぶちゃん注:引用元は「探き」であるが訂した。]地蔵尊像は、当山に連座されることとなりました。 そこで当山は、明治4年9月、この引き取ったあごなし地蔵尊像を安置する堂宇の建立を大阪府に申請しますが、新築は不許可となります。しかし、義寧の猛烈な護法運動の結果、翌年正月に申請した旧川崎東照宮の本地仏と本地堂の引取りが認められました。

そこで急遽本地堂をその地蔵堂として上棟することとなり、明治5年(1872)5月、鴻池善右衛門をはじめとする大阪の豪商たち、伴桂寺祖芳、東照宮関係者、数多くの講中各位が列するなか、あごなし地蔵尊は艱難辛苦の末、当山に永代鎮座されたのです。

   《引用終了》

――隠岐の「腮無地蔵」を誰も見たことがないのは当然で――実はそれは一体だけであって――しかもそれは隠岐ではなく――この大阪の東光院にある――のではなかろうか?……しかし乍ら、先の隠岐の二体の地蔵伝承はどうみても近代に創られたものではあるまい。とすれば、廃仏毀釈の嵐の中で、内心、仏閣や仏具・仏像を容赦なく焼き捨てたことを傷ましく思った村人たちが、焼け跡のそれらしき物体を二体の地蔵として再祭祀したものとも思われなくもない。なお、これについては実はハーンも次の「一九」で聞き書きを記しているのである。ともかくも何か、如何にも哀しい話ではある。……

「油井(ゆゐ)村にある瀧(檀鏡瀧)」原文を見て頂くと分かる通り、これは「だんぎょうたき」と読んでいる。島後の南西部山中にある滝である。ウィキの「壇鏡の滝から引く。『壇鏡の滝(だんぎょうのたき)は、隠岐諸島の島後島(島根県隠岐郡隠岐の島町)にある横尾山を源流とする那久川の滝である』。『岩壁に立つ壇鏡神社の両側に落差約』四十メートルの『雄滝と雌滝があり、雄滝は滝を裏側から見ることのできる「裏見の滝」となっている』。『地元では、長寿の水、勝者(女神)の水、火難防止の水として名が知られており、島の行事に出場する関係者は必ずこの水で清めて行事に臨む慣習が続いている』とある。

「下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉」正しくは玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)で現在の隠岐の島町下西(しもにし)にある創建の年代不詳の神社である。私も訪れたが、西郷にごく近いが、とても雰囲気の落ち着いた、よい神社である(私は実は神社嫌いであるが、ここはとても気に入った)。ウィキ玉若酢命神社によれば、『玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる』が、『玉若酢命は記紀には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではない』が、『島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている』とある。ハーンの言う「大杉」は今も「八百杉(やおすぎ)」という名で残っており、ウィキによれば、境内にある杉の巨木で樹齢は千年とも二千年以上とも称され、若狭国からきた八百比丘尼が参拝の記念に植えたもので、八百年の後に『再訪を約束したことから八百杉と呼ばれるようになったと伝えられる』。文政六(一八二三)年に書かれた「隠岐古記集」には『同様の伝承を持つ杉が』三本あったが、一本は天明年間(一七八一年~一七八八年)に大風で倒れてしまい、もう一本も近年倒れたので現在は一本『しか残っていないとの記述がある。また、根元に棲んでいた大蛇が、寝ている間に生きたまま木の中に閉じ込められ、今でも幹に耳をあてると大蛇のいびきが聞こえるとの伝承がある』とある(これは知らず、耳を当てなかったことが悔やまれる。昭和四(一九二九)年に国天然記念物に指定されている)。

「馬蹄石があるといふ津井の池」前に注したが、原文を見れば判る通り、この「津井」は「さい」と読む。何故、訳者はルビを振らないのだろう? 誰もこれを「さい」都は読めないのに! 島後の南東の海の直近にあり、男池と女池の二つから成る。一七の「島後の或る深い池」の私の注を参照されたい。

「流罪になり給ふた後鳥羽天皇の御墓」現在の海士町の隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)と通称される火葬塚のこと。公式な陵は京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)であるが、私は四年前の夏、この海士町の塚で、かの異形の男の遺香と霊を妙に感じたことを思い出す。

「助九郎といふ古昔の長者の邸宅」中ノ島の現在の海士町にある隠岐神社の近くにある村上家のこと(隠岐神社は現在、前注の後鳥羽院の火葬塚に隣接する。ウィキの「隠岐神社」によれば、万治元(一六五八)年に松江藩初代藩主松平直政が火葬塚に併設して『廟殿を造営し、明治まで維持に努めたが』、明治二(一六八九)年に『廃仏毀釈の影響で源福寺は廃寺』となってしまった(後に復興)。但し、『海士町の後鳥羽院資料館に所蔵される絵図(江戸末期の様子)には、この火葬塚の場所に「後鳥羽院神社」(創建不詳)が描かれており、江戸末期には、島民によりここで祭祀が行われていたといわれている』。しかし、明治六(一八七三)年に『法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に奉遷したため、翌』明治七年には『後鳥羽院神社も取り払われ』てしまった。『なお、神社が取り払われての後も、祭祀が続けられていたといわれる。後に、この神社を中心とした旧源福寺境内地は、後鳥羽天皇の隠岐の御陵「御火葬塚」とされた』。即ち、ハーンが来訪した時には現行のような神社は存在しなかったのである。隠岐神社は、昭和一五(一九四〇)年の『紀元二千六百年の奉祝事業の一つとして』、同十四(一九三九)年に島根県が創建完成したもので、同十八年には『県社に列せられ』た。『鎮座地は「御火葬塚」に隣接している』とある)村上家は承久の乱で配流となった後鳥羽上皇に公文(くもん:村役人代表)として忠誠を尽くし、上皇崩御後も現在に至るまで火葬塚の守部を務めている、古くから「森屋敷」と呼ばれた隠岐の豪族である。村上家当主は代々「助九郎」を名乗っているが、これは慶長一三(一六〇八)年に徳川家康によってこの島に流されていた飛鳥井雅賢(あすかいまさかた 天正一三(一五八五)年~寛永三(一六二六)年):江戸初期の朝臣で従四位下左近衛少将。慶長一四(一六〇九)年に発生した猪熊(いのくま)事件で後陽成天皇の女官と密通した遊蕩の罪により隠岐国中之島(現在の海士町)へと配流されここで没した)から蹴鞠の免状を授かった折りに命名されたものと伝えられている。現当主は四十八代目に当たる(以上は主に「しまね観光ナビ」の「和歌の世界を散策」の村上家を参照した)。

「別府」現在の西ノ島町別府。隠岐諸島島前地域に於ける西ノ島の玄関口としての役割を有する別府港がある。

「後醍醐天皇記念の神社」彼は元弘の乱によって鎌倉幕府に捕縛され、元弘二/正慶元(一三三二)年に隠岐島に流されたが、実はウィキ隠岐によれば、『隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている』とある。脱出するまでの凡そ一年を隠岐で過ごしている。ここで言う「神社」は後醍醐天皇を祭神とする黒木神社のこと。なお、調べてみると、少なくとも神社名は「くろぎ」と濁るようである。

「燒火山の頂上の、あの權現樣の神社」現在の焼火(たくひ/たくび)神社。ウィキ焼火神社によれば、『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが』、『後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した』とある(下線やぶちゃん)。七」の「燒火山(たくひざん)」の私の注を参照されたい。

「知夫里島は名所は無いけれども」赤壁とアカハゲ山の景観は素晴らしい。

「五百六十年前」ハーンの訪問は明治二五(一八九二)年であるから、単純逆算だと一三三二年でほぼ正確と言える。

「玉體の上へ高く乾魚を積み上げた。追手の者は船へ乘込んで搜索したが、非道い臭の鯣は手を觸れようとも思はなかつた」後醍醐天皇、これ、よくぞ、生乾きの鯣の臭気で悶絶しなかったものである。可哀想な気がちょっとした。]

 

 

ⅩⅧ.

   According to a little book published at Matsue, the kembutsu of Oki-no- Kuni are divided among three of the four principal islands; Chiburishima only possessing nothing of special interest. For many generations the attractions of Dōgo have been the shrine of Agonashi Jizō, at Tsubamezato; the waterfall (Dangyo-taki) at Yuenimura; the mighty cedar- tree (sugi) before the shrine of Tama-Wakusa-jinja at Shimomura, and the lakelet called Sai-no-ike where the bateiseki is said to be found. Nakanoshima possesses the tomb of the exiled Emperor Go-Toba, at Amamura, and the residence of the ancient Chōja, Shikekurō, where he dwelt betimes, and where relics of him are kept even to this day. Nishinoshima possesses at Beppu a shrine in memory of the exiled Emperor Go-Daigo, and on the summit of Takuhizan that shrine of Gongen-Sama, from the place of which a wonderful view of the whole archipelago is said to be obtainable on cloudless days.

   Though Chiburishima has no kembutsu, her poor little village of Chiburi — the same Chiburimura at which the Oki steamer always touches on her way to Saigo — is the scene of perhaps the most interesting of all the traditions of the archipelago.

   Five hundred and sixty years ago, the exiled Emperor Go-Daigo managed to escape from the observation of his guards, and to flee from Nishinoshima to Chiburi. And the brown sailors of that little hamlet offered to serve him, even with their lives if need be. They were loading their boats with 'dried fish,' doubtless the same dried cuttlefish which their descendants still carry to Izumo and to Hoki. The emperor promised to remember them, should they succeed in landing him either in Hōki or in Izumo; and they put him in a boat.

   But when they had sailed only a little way they saw the pursuing vessels. Then they told the emperor to lie down, and they piled the dried fish high above him. The pursuers came on board and searched the boat, but they did not even think of touching the strong-smelling cuttlefish. And when the men of Chiburi were questioned they invented a story, and gave to the enemies of the emperor a false clue to follow. And so, by means of the cuttlefish, the good emperor was enabled to escape from banishment.

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