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2015/12/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(28) モース先生、義太夫節を鑑賞す

 今日(十二月十六日、日曜日)、私は矢田部教授の招待によって、日本音楽、講談その他を聞きに、川の向うの古屋敷の会館へ行った。この三月、八十人ばかりの会員を有する倶楽部が設立され、社交的の会合に、はじめて淑女と紳士とを一緒にすることを目的とするのである。入って行って畳の上に坐ると、三十人ばかり、私の知っている人が、それぞれお辞儀をした。私の日本人の友人の多くが会員で、その中には高嶺夫人、高嶺若夫人、菊池夫人、菊池教授の小さい妹、服部、外山、小泉、松原、箕作の諸教授等もいる。会員は一人ずつお客様を招く権利を持っているので、その結果百人にあまる気持のいい、愉快な人々――はきはきした、教養のある男女と、少数の可愛らしい子供達――が、一堂に会したのである。会場は広い、がらりとした部屋で、聴衆は畳の上に坐り、お茶を飲んだり煙草を吸ったりした。会場の一端には、僅に上げた演壇、というよりむしろ長くて低い机に、赤い布をかぶせた物が置かれ、この上に演技者が坐ることになっている。第一が音楽で、琴二つ、三味線一つ、笛に似た楽器が一つ。次が話し家で、私には時々彼の言葉が判った丈であるが、話の中の異る人々を表現する彼の各種の身振は、見ていても面白かった。まごついた男は指を組み合わせる。田舎者の表情、絶間なく我鳴(がな)り立てる老婆――それ等は実に完全に表現され、皆を笑わせた。異った声の真似が、実に強く、そして即座になされるので、目を閉じていると三人の、別々な人が話をしているように思われる。時々、広場にある大きな天幕(テント)の横を通り過ぎると、その内から、まるで何人かが議論しているような音が聞えて来ることがある。内を見ると話し家が一人、周囲には一語も聞き落すまいとして、時々驚いて哄笑する聴衆が、彼の話に聞きほれている。婦人や娘達は、決してかかる場所へ行かぬ。我国でも弁士的の行商人を取りまく群衆中に、絶対に、あるいは極く稀にしか、婦人を見ぬと同じく、かかる場所へ行くことは、婦人に適さぬことになっている。

[やぶちゃん注:「十二月十六日、日曜日」誤り。明治一五(一八八二)年十二月十六日は土曜日である。この日は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には『東京生物学会に出席』とある。ここに描かれるのは、その日の夜に行われた宴会か或いは翌十七日日曜のそれか。浄瑠璃の太夫や囃方、講談師や噺家も来ている様子である。

「矢田部教授」既出既注の植物学者で詩人でもあった東京大学植物学教授矢田部良吉。以下多くは既出既注の人物なので、肩書と姓名のみを記すこととする。

「川の向うの古屋敷の会館」川向うとは隅田川の向こうとしか考えられぬが、東京に冥い私には不詳である。識者の御教授を乞う。

「はじめて淑女と紳士とを一緒にすることを目的とする」「社交的の会合」不詳。識者の御教授を乞う。

「高嶺夫人、高嶺若夫人」これは誤ってダブって書いてしまったものか、或いは、東京師範学校校長高嶺秀夫の夫人は若くて美しく、英語も喋ることが出来て、恐らくモースも好感を抱いていた人物であるから、かくも衍字的に表現してしまったに過ぎないものと思う。或いは単に前の方は“Mr.”の誤りかも知れぬ。

「菊池教授」東京大学理学部数学教授菊池大麓。

「服部」東京大学幹事服部一三。

「外山」東京大学心理学及び英語教授外山正一。

「小泉」不詳。本書の過去の記載にも、「小泉姓」の東大教育関係者はおらず、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「人名索引」にも「小泉」姓は掲載しない。識者の御教授を乞う。

「松原」駒場農学校水産学教授松原新之助か。当時、彼は東大助教授でもあった可能性がある。

「箕作」東京大学生物学教授箕作佳吉。

「笛に似た楽器」原文は“a flute-like instrument”であるから、次段からの推定であるが、浄瑠璃囃子方の篠笛であろうか。]

M732

図―732

 

 これが済むと、日本では非常に一般的な、一種異様な話が始った。これでは語り手は、彼の一部分を話し、一部分を歌う。もう一人の演技家が三味線で伴奏を弾くが、それにまた、話の役割に適した、奇妙な咽喉声や、短い音や、高いキーキー声や、畷泣の音や、吃驚したような叫び声に至る迄を含む、実に並外れなかけ声が加わる。変ではあるが人々は、この種の哀れな話を聞いて、涙を流す程感動させられる。この形式の講釈を聞く人は、それがこの上もなく莫迦げているという印象を受ける。馴れるに従って、どうやら、苦痛、怒、失望その他の情をあらわす声の助演の理由が判って来るが、それを記述することは、とても出来ない。三味線もまた、絃を震動させながら指を上下に動かすことによって、漸強音、畷泣、突発的な調子、気味の悪い調子等の、あらゆる音を出すので、大切な助奏器を構成する役を持っている(図732)。この礼儀正しく、教養ある聴衆が、かくもしとやかに、静粛に、そして讃評的であったことは、興味も深く、また気持よかった。彼等は一人ずつ入って来ると、畳の上に坐り、あちらこちらお辞儀をした。

[やぶちゃん注:これは明らかに浄瑠璃(浄瑠璃語り)の太夫(現行の文楽(文楽節)では「大夫」と表記)と三味線である江戸末期から明治にかけては一般庶民の間でも義太夫節を習うのは流行った。なお、文楽(人形浄瑠璃)の方は江戸初期には成立したと考えられ、太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった人気作家が次々と名作を発表、一時は歌舞伎を凌ぐ人気を誇り、平賀源内(筆名は福内鬼外)らによって江戸浄瑠璃も生れたりしたものの、江戸後期になると歌舞伎に押されて衰亡しかけた。それを初世植村文楽軒(宝暦元(一七五一)年~文化七(一八一〇)年が高津橋南詰(現在の大阪市中央区)に人形浄瑠璃専用の一座を作って再興、三世(四世とも)植村文楽軒(後の文楽翁 文化一〇(一八一三)年~明治二〇(一八八七)年)が明治五(一八七二)年に松島(現在の大阪市西区)にこれを移して「文楽座」を名乗った(後の明治一七(一八八四)年には御霊(ごりょう)神社(現在の大阪市中央区淡路町)境内に移る)。但し、文楽座も後継者を育成出来ず、明治四二(一九〇九)年には松竹株式会社経営が移譲されている。この頃(明治末期)には、この文楽座が唯だ一つの人形浄瑠璃専門の劇場となっており、その存亡の危機を迎えてもいたのである(以上は主にウィキの「文楽」を参考にした)。]

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