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2015/12/12

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十四)

       三四

 樂山(らくざん)といふは、其處で出來る光つた黃色い陶器と、其處に在る小さな神社とで知られて居るだけで、松江から小一里の、廣い稻田の向うの、木の茂つた小山の麓に眠つて居る小村である。そしてその樂山神社の祭神は家康の孫であり、松江の大名の祖先たる、直政である。

 松平家の人のうち、月照寺の古い実に立派な庭で、石の龜や獅子に護られて、佛教の土地に永眠して居らるゝ方がある。然し、その長い家系の元祖の直政は樂山に祀られて居る。そして出雲の百姓共は今猶、その宮の前で柏手打つて拜んで、その慈悲と庇護と願つて居る。

 さて以前は樂山神社の毎年のマツリ即ち祭禮にその村社(むらやしろ)から松江の城へ直政のミヤを持つて來るのが慣習(ならひ)であつた。おごそかな行列を立てて、城の地域の中心にある――石の獅子や狐が居る、その崩れさうな庭が巨大な樹木で日蔭になつて居る、御城内稻荷大明神と楠松平(くすのきまつひら)稻荷大明神といふ――あの妙な古い一族守護の神社へそれを運び來たつたものである。神道の式事が兩方の社殿で營まれてから、そのミヤは樂山(らくざん)へ行列で持ち歸るのであつた。そしてこの年々の儀式はミユキ又はトギヨ、即ち先祖來の家への祖先の『御幸』と呼ばれて居つた。

    譯者註。樂山神社は松江城内千鳥公
    園に移され、松江神社と改稱。楠松
    平稻荷大明神の社は壞たれて今は無
    い。

 ところがかの革命は一切のものを變じた。大名は無くなり、城は荒廢に陷り、サムラヒ階級は廢止されて所領を奪はれた。そこで直政公のミヤは三十年以上も松平(まつだいら)の家へ御幸をしなかつた。ところが少し前のこと松江の或る老人達がラクザンマツリの舊慣を古に復へさうと考へた。そこでミユキがあつた。

 直政公の宮は裝飾をし、幕を張つた傳馬船の中に安置し、川と掘割とを通つて、古昔大名が江戸へその年々の參勤に出かけたり、それから歸つたりする時、その松蔭道を通(とほ)つた昔の松原街道の東端まで運ばれた。その傳馬船を漕いだものは總て、若い時分に出雲の最後の殿樣松平出羽守の御座船を始終漕いだ老年のサムラヒであつた。いづれも昔の封建時代の衣裳を着けて居た。そして其古風な船歌を――オフナウタを――歌はうとした。だが最後にそれを歌つてから一代以上の年月が經つて居るのであつた。中には齒を失くしてしまつて言葉の發音が旨く出來ぬものもあつた。また、みんな年を取つて居たから、櫓を漕ぐ努力に直ぐと息を切らせた。それにも拘らず御座船を所定の場處まで漕いだ。

 其處からして宮は松原街道の横の或る地點まで擔ぎ運ばれた。その地點といふはこの國の大名か將軍の都から歸る時、いつも休息し、また列を爲して必ず出迎に來る忠實な家來に接見した、オチヤヤ即ち御茶屋が古昔あつた處である。御茶屋は今は無い。だが、舊慣に從つて、宮とその護衞の者共とは其處で、野花や松の木の間で、待つた。ところがその時不思議な光景が眺められた。

 といふのはこの大殿樣(おほとのさま)の靈を迎へんが爲めに、これ亦靈かと思はれる姿の者が――墓場の土から立現れた姿の者が――長い行列を立てて出て來たからである。前立(まへだて)の附いた冑を冠り、鐡の面を着け、鋼の胸甲をよろひ、腰に二本の刀をさした武士が出て來、頭に髷をつけた鎗持が出て來、カミシモを着た家來が出て來、ハサミバコを肩にした男が出て來たのである。だが、それ等は靈では無くて、最後のダイミヨウに仕へて物の其を身に着けたことのある松江の老年のサムラヒであつた。そしてそのうちには、その生存して居る大臣即ち年とつたカロウの姿も見えた。そして行列が町の方へ向ふと、是等の人はその古昔の名譽の位置を執つて、年で腰は曲つて居るが、宮の前に立つて雄々しく行進した。

 その行列がどんな印象を他の外國人に與へたか自分は知らぬ。自分には、その老人達各各の身の上が幾分分つて居るので、その光景は、忘れられた古昔の慣習のその物語とは別な、封建時代の行列としてのその興味とは別な、或る意義を有つて居つた。今日はその老サムラヒ共は一人殘らず悉く言ふに言へぬほど貧乏して居る。彼等の美くしい屋敷はとつくの昔に失くなり、彼等の庭園は稻田と變つて居り、彼等の家寶は無慙にも賣却され、開港場の外國人へ高價で轉賣しに、骨董屋の手に殆んど無代で買はれたのであつた。しかもなほ、賣れば隨分の金が得られる物を、彼等には何の役に劣たたなくなつた物を、彼等は貧困と屈辱の中にあつて大事に抱へ來て居るのであつた。前よりも苦しい新規な生活狀態の下に在つて、どんな悲慘な缺乏に迫られても、その甲冑と刀劔とは彼等は決して之を手離す氣になり得なかつたのである。

 川岸も、街路も、緣側も、靑瓦の屋根も、人で堆まつて居た。行列が通る時は非常に靜かであつた。年の若い人は、將來に於てはたゞ繪本で、そして古めかしい日本芝居で見るよりほかない物を現に目のあたり見るといふこの機會の稀有な價値を思うて、靜まりかヘつて眺めて居つた。そして年老いた人は、その靑年時代を懷ひ起こして、無言で泣いて居つた。

 かの古昔の思想家が『如何なる物もたゞ一日のものなり、憶ふ者も、憶はるゝ者も』と述べたのは名言である。

[やぶちゃん注:初めから感動を殺ぐ注で恐縮だが、私はこの「直政さま」(原文参照。田部氏は「直政のミヤ」で田部氏の訳は訳として忠実でない)の渡御再現をハーンは実際に本当に見ているのだろうか? という疑念を抱いている――本文は本書の中でも有数の圧巻のシークエンスで私もすこぶる心うたれる箇所であり――その細部のSE(サウンド・エフェクト)などの描出に到るまで圧倒的なリアルさで私たちを感動させてやまぬものであることは重々承知の上で――である。「その行列がどんな印象を他の外國人に與へたか自分は知らぬ。自分には、その老人達各各の身の上が幾分分つて居るので、その光景は、忘れられた古昔の慣習のその物語とは別な、封建時代の行列としてのその興味とは別な、或る意義を有つて居つた」というのは確かに一見、実見した者の謂いではある――但し、実は私の不審はこの箇所にこそある。「その行列がどんな印象を他の外國人に與へたか自分は知らぬ」とはその行列を「他の外國人」が見ているのを見たということであろう。であれば、当時の松江であったなら、ハーン或いは向こうから接触を持ち、感想を聴くことも容易であったはずである。そう考えるのが自然である。そもそもこんなことは言わずもがなである。何故、こんな言わずもがなの謂いを、段落冒頭に記したのか? それは――ハーンがこうした行列があったことを誰かから手紙や話などで聴き、それをまざまざとリアルに想起した際、「私がその場に居たなら絶対に外の外国人では感じ得ない深い感慨を持ったぞ!」という激しい感情が沸き起こったからに違いない、と私はここを読んだのである――

 閑話休題。

 ハーンが松江に居たのはたった一年二ヶ月と半月であるが、詳細な事蹟を追跡した論文類を見ても、この間にここに書かれた「ような直政さま」渡御の神行祭を実見したという事実がどこにも記されていないのである。

 ハーンを離れても、この復元された神行祭が行われた年月日は郷土史家の方ならば判っておられるはずである。是非、お教え頂きたいのである。

 ハーンは実見したのであって欲しいとは言える。しかし、再度申し上げておくと――そうでなかったとしても――本篇は本書中の白眉の一つであることに私の中では何ら、変更は行われぬのである。

「其處で出來る光つた黃色い陶器」島根県松江市観光公式サイト「水の都松江」の「楽山焼 (らくざんやき)」によれば、御山(おやま)焼とも呼び、現在も同所松江市西川津町の楽山公園の一角に窯元がある。既に注してきた通り、ここ楽山は松江藩松平家第二代藩主綱隆以来、藩主の別荘地であった場所で、「御山(おやま)」とも称された。『ここの窯は、松江藩祖の松平直政のころに開かれたと伝えられるが、楽山焼の名は三代目綱近が、長州毛利氏に依頼し』、延宝五(一六七七)年に『倉崎権兵衛重由を招いて以来のこと』と言う。この人物は、当時の朝鮮からの帰化人であった『李敬(初代高麗左衛門)の高弟で』あった日本人(文脈から推定補足した)陶工で、『松江市西川津町市成(いちなり)にある熊野神社の花瓶一対は、権兵衛が献納したものだといわれる』。天明六(一七八六)年に『楽山窯はいったん中絶したが、七代藩主松平治郷(不昧)は、玉湯町の布志名窯にいた長岡住右衛門貞政を起用し、楽山窯を再興した。住右衛門は茶陶にすぐれ、楽山焼五代目となった。六代目空斎以降は茶陶のほか京焼風の色絵陶器をさかんに作り、その後九代空右など多くの名工を生み出した』。『現在、楽山焼十一代長岡空権が伝統を守っている。茶陶、ことに伊羅保(いらぼ)系は茶人の間で愛好されている』。昭和五九(一九八四)十月には「島根県ふるさと伝統工芸品」に指定されている、とある(リンク先には『「島根観光辞典(島根県観光連盟発刊)より引用』とある)。

「樂山神社」前の「三三」の私の詳細考察をした注を必ず参照されたい。「樂山神社の毎年のマツリ即ち祭禮にその村社から松江の城へ直政のミヤを持つて來るのが」維新以前に於いては「慣習であつた」という辺りにハーンの一部誤認があると私は考えているからである。ハーンのそれが誤認であるというのは「直政公のミヤ」(即ち本文に即して言うなら明らかに「樂山神社」)「は三十年以上も松平の家へ御幸をしなかつた」という部分である。本篇の執筆は隠岐旅行(明治二五(一八九二)年八月)以降で本書刊行(明治二十七年九月)以前となり、「明治元年」以降、三十年を経過していない。ということは、この楽山からの「直政さま」の渡御は維新以前に行われていたということになり、実際、後に出る復元されたそれは、明らかに江戸時代の古式に外ならない。ところが、前の「三三」の注で指摘した通り、これでは、明治一〇(一八七七)年に旧松江藩の有志によって西川津村楽山(現在の松江市西川津町。現在の松江城東方の推恵神社がある楽山公園附近)に造られた松江藩松平家初代藩主松平直政を祭神とする「樂山神社」からの渡御という謂いはどうみてもおかしいのである。

「月照寺」既注

「御城内稻荷大明神」これはハーンが偏愛した、旧松江城内の北に位置する現在の松江市殿町(とのまち)にある城山(じょうざん)稲荷神社のことであろう。松江の情報誌などによれば、現在、この神社には十二年に一度(嘗ては十年毎)行われる五穀豊穣を祈る「ホーレンヤ」(豐來榮彌)という独特の神事があり、その折りはその祭神を南東八・六キロメートルも離れた東出雲町出雲郷にある阿太加夜(あだかや)神社に船を用いて「渡御」し、「還御」、その中で行われる神行を助けた漁民がその喜びを表わしたとされる境内に於いて櫂を持って舞う「櫂伝馬(かいてんま)踊り」というのが祭りのクライマックスの一つであるとあって、神事形態としては酷似するものがある。渡御還御するのが城山稲荷神社の御神体であること、楽山とは位置も方向も異なるなど、神事の核心部は全く異なるのであるが、「伝馬船(てんません:荷物などを運ぶ艀舟(はしけぶね)。甲板がなく木製で小型のもの)」との絡みと言い、どこか妙にどこか共通したルーツを持つ祭事の匂いがしてならない。地元の郷土史家の方の御教授を乞うものである。

「楠松平稻荷大明神」訳注以外の、この特異な名や位置や何故に廃されたのかといった他の情報を知り得なかった。叙述からは存在したのは現在の城山稲荷神社の境内内であろうとは推測され、特異な名は稲荷が南北朝の武将楠木正成の守護神であったことを関わるものか。因みに、この田部先生の、

『譯者註。樂山神社は松江城内千鳥公園に移され、松江神社と改稱。楠松平稻荷大明神の社は壞たれて今は無い。』

と比べると、失礼乍ら、平井呈一先生、あなたの恒文社版「日本瞥見記(下)」の、全く同一の位置に配された、

『訳者注。――楽山神社はその後松江城趾の千鳥公園に移されて、松江神社と改称された。楠木松平稲荷大明神の社は廃されて、今は無い。』

は偶然にしては似過ぎています。新しいオリジナルな情報が一つも附加されておらず――安易に剽窃したのでは?――と勘繰られても仕方がない部類の訳者注であると、残念ながら私は思います。

「松原街道」「松江市雑賀公民館 STAFF BLOG2」の「12月のウォーキングを行いました。」によれば、松原街道とは、松江城の南方の現在の津田町からその東に当たる西津田町・東津田町にかけて存在した、「津田の松原」と呼ばれた四百本以上の『黒松の松並木街道で、松江藩の殿様が江戸への往復で通った道だ』ったとあり、昭和一二(一九三七)年に『「松江藩道津田松並木」として国の天然記念物に指定され』たが、『自然災害や伐採などで現在は』残念ながら一本も残っていない、とある。西津田町のやや北或いは東津田町が大橋川の右岸に当たる。現在、地図上では「津田街道」とあるのが、それのようである。

「最後の殿樣松平出羽守」松江藩第十代最後の藩主となった松平定安(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)。彼は明治二(一八六九)年に出羽守から出雲守に遷任され、同年六月十七日に版籍奉還によって松江の知藩事となったが、明治四(一八七一)年七月十四日には廃藩置県で免官されている。

「前立」兜の鉢や眉庇に取り付ける飾り縅(おどし)。中世には鍬形(くわがた)が多く用いられた。

「鐡の面」面頰(めんぼお/めんぽお)。顔面保護の防御具で目の下の頬当(ほおあて)や左右の頬当てなどを指す。

「胸甲」本邦の武具としては胴と呼ぶ。

「如何なる物もたゞ一日のものなり、憶ふ者も、憶はるゝ者も」軍事よりも学問を好み、ストア哲学などの学識も深く、良く国を治めたことから、ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌスに並ぶ五賢帝の一人に数えられる第十六代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus 一二一年~一八〇年)の著作「自省録」の一節。原文はEverything is only for a day, both that which remembers, and that which is remembered.。平井呈一氏は、『思いいだすも、いださるるも、わずか一日のことなり』と訳しておられる。]

 

 

ⅩⅩⅣ.

 

   The hamlet of Rakuzan, known only for its bright yellow pottery and its little Shintō temple, drowses at the foot of a wooded hill about one ri from Matsue, beyond a wilderness of rice-fields. And the deity of Rakuzan-jinja is Naomasa, grandson of Iyeyasu, and father of the Daimyō of Matsue.

   Some of the Matsudaira slumber in Buddhist ground, guarded by tortoises and lions of stone, in the marvelous old courts of Gesshoji. But Naomasa, the founder of their long line, is enshrined at Rakuzan; and the Izumo peasants still clap their hands in prayer before his miya, and implore his love and protection.

   Now formerly upon each annual matsuri, or festival, of Rakuzan-jinja, it was customary to carry the miya of Naomasa-San from the village temple to the castle of Matsue. In solemn procession it was borne to .those strange old family temples in the heart of the fortress-grounds,— Go-jō- naiInari-Daimyōjin, and Kusunoki-Matauhira-Inari-Daimyōjin,— whose mouldering courts, peopled with lions and foxes of stone, are shadowed by enormous trees. After certain Shintō rites had been performed at both temples, the miya was carried back in procession to Rakuzan. And this annual ceremony was called the miyuki or togyo,— 'the August Going,' or Visit, of the ancestor to the ancestral home.

   But the revolution changed all things. The daimyo passed away; the castles fell to ruin; the samurai caste was abolished and dispossessed. And the miya of Lord Naomasa made no August Visit to the home of the Mataudaira for more than thirty years.

   But it came to pass a little time ago, that certain old men of Matsue bethought them to revive once more the ancient customs of the Rakuzan matauri. And there was a miyuki.

   The miya of Lord Naomasa was placed within a barge, draped and decorated, and so conveyed by river and canal to the eastern end of the old Mataubara road, along whose pine-shaded way the daimyo formerly departed to Yedo on their annual visit, or returned therefrom. All those who rowed the barge were aged samurai who had been wont in their youth to row the barge of Matsudaira-Dewa-no-Kami, the last Lord of Izumo. They wore their ancient feudal costume; and they tried to sing their ancient boat-song,— o-funa-uta. But more than a generation had passed since the last time they had sung it; and some of them had lost their teeth, so that they could not pronounce the words well; and all, being aged, lost breath easily in the exertion of wielding the oars.  Nevertheless they rowed the barge to the place appointed.

   Thence the shrine was borne to a spot by the side of the Mataubara road, where anciently stood an August Tea-House, O-Chaya, at which the daimyō, returning from the Shogun's capital, were accustomed to rest and to receive their faithful retainers, who always came in procession to meet them. No tea-house stands there now; but, in accord with old custom, the shrine and its escort waited at the place among the wild flowers and the pines. And then was seen a strange sight.

   For there came to meet the ghost of the great lord a long procession of shapes that seemed ghosts also—shapes risen out of the dust of cemeteries: warriors in created helmets and masks of iron and breastplates of steel, girded with two swords; and spearmen wearing queues; and retainers in kamishimo; and bearers of hasami-bako. Yet ghosts these were not, but aged samurai of Matsue, who had borne arms in the service of the last of the daimyō. And among them appeared his surviving ministers, the venerable karō; and these, as the procession turned city-ward, took their old places of honour, and marched before the shrine valiantly, though bent with years.

   How that pageant might have impressed other strangers I do not know. For me, knowing something of the history of each of those aged men, the scene had a significance apart from its story of forgotten customs, apart from its interest as a feudal procession. To-day each and all of those old samurai are unspeakably poor. Their beautiful homes vanished long ago; their gardens have been turned into rice-fields; their household treasures were cruelly bargained for, and bought for almost nothing by curio-dealers to be resold at high prices to foreigners at the open ports. And yet what they could have obtained considerable money for, and what had ceased to be of any service to them, they clung to fondly through all their poverty and humiliation. Never could they be induced to part with their armor and their swords, even when pressed by direst want, under the new and harder conditions of existence.

   The river banks, the streets, the balconies, and blue-tiled roofs were thronged. There was a great quiet as the procession passed. Young people gazed in hushed wonder, feeling the rare worth of that chance to look upon what will belong in the future to picture-books only and to the quaint Japanese stage. And old men wept silently, remembering their youth.

   Well spake the ancient thinker: 'Everything is only for a day, both that which remembers, and that which is remembered.'

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