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2015/12/03

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十)

       二〇

 自分は津井(さゐ)の池と玉若酢神社とへは、この二つの名所は船で行かれるから、行つた。ところが津井の池は大いに自分を失望させた。其處への路は、殆んど全く垂直な絶壁を爲して居る恐ろしく危險な海岸に沿うて居るので、極く穩やかな天氣の折で無ければ行かれぬ。が、海は見事に澄んでゐて、水面下非常な深さの處にある物體を眼で見分けることが出來る。絶壁に隨いて一時間許り行くと、そこの濱邊は全く小さな圓い漂石だけで成つて居る入江のやうな處に着く。その漂石は長い畝になつて居て、その畝の外側の緣は、寄せては引く浪の度毎に小銃の一齊射擊の如きガチヤガチヤといふ音を立ててあちこちと轉がつて、いつも動いて居る。動く石の球のこの浪の上へ登るのは頗る氣持が惡るい。が、上がつてからたゞ二十碼ばかり歩きさへすれば、三方水の茂つた小山に取圍まれて津井の池が見える。淡水の大きな水溜りといつた程のもので、幅は五十碼はあらうか、別に驚くべき點は何も無い。水底は――たゞ泥土と小石とだけで――岩は一つも見えぬ。この池の何處かが仔馬一匹溺らすに足る程いつか深かつたとは信じ難い。自分は深さを試しに向小岸まで泳いで見たかつたが、そのことを言ひ出しただけで早や船頭達の感情を害した。此池は神樣の池で、眼に見えぬ怪物が守護をして居るから、それへ入るのは不敬であり危險であるといふのである。自分は之に對して地方的觀念を尊重せざるを得む氣がしたから馬蹄石は何處にあるのかと訊ねるだけで甘んじた。船頭共は池の西側の小山を指さした。その指示は傳説とは符合しないのである。その天然その儘の山の横腹には何等人間の勞働の痕跡を發見することが出來なかつた。確に其處から數哩以内には人間の住み家は無かつた。それは見るも忌はしい荒涼を極めた場處【註】であつた。

    註。互に遠く距てずに池が二つある。
    自分が行つむのは、ヲイケ即ち『雄
    池』で、も一つのはメイケ即ち『雌
    池』といふのであつた。

 日本を旅行する人には名所の評判を當てにして多くを期待するのは愚である。名所の大多數に附隨して居る興味は全く想像力の行使に賴る。そして、そんな想像力を行使する能不能はまた此國の歷史と神話とに通じて居るか居ないかに賴る。圓岡や岩石や樹木の根株が、幾百年間、單にそれに關する地方傳説の爲めに、百姓共の崇敬の目的物となり來たつて居るのである。毀れた鐡の釜だとか、綠靑に蔽はれた唐金の鏡だとか、錆びた刀の身の破片だとか、赤い陶器のかけらだとかが、それが保存されて居る社寺へ幾代の巡禮者の足を惹ひ來たつて居るのである。自分が參詣した方々の小さな寺で、そこの寺寳はと見ると、お盆一杯に載せた小石であつた。初めてそんな小石を見た時自分は、その小石一個一個に本字で貼札がしてあつたから、其處の僧侶が地質學か鑛物學を研究して居るのだらうと思つた。能く見て見ると、その石そのものは、たゞその附近の岩石の標本としても、絶對に無價値なのであつた。然し其處の僧侶や子僧がその石總ての一つ一つに就いて語り得る物語は面白いどころのものでは無かつた。その石は、實際、佛教的傳説の連禱を吟誦するに使ふ粗末な數珠玉の用を爲して居るのであつた。

 津井(さゐ)の池の經驗後自分は下西村(しもにしむら)で何等異常な物を目にしようと期待する理由(わけ)は無かつた。ところが今度は自分は考違をしてゐたので愉快であつた。下西村といふは西郷から船で一時間足らずで行ける小綺麗な漁村である。船は荒れては居るが美くしい海岸に沿うて行くと、古昔はその上に堅固な城があつた、御城山(おしろやま)といふ、角(かど)を截り取つた妙な形の小山の前を通る。其處には今はただ松の木に取圍まれた小さな神社があるだけである。下西村といふその小村から玉若酢神社までは、歩いて二十分、稻田と野菜畠の間の非常にでこぼこな途を通つて行かねばならぬ。だがその神社の位置は、その神聖な木立に取卷かれて、色んな色の山脈が緣(ふち)取して居る風景の中心にあつて、うつとりする程印象的である。その建物は嘗ては佛寺であつたらしく思はれる。今は隱岐で一番大きな神社である。その門前に、高さは著しいものではないが、周圍は實に驚くべき有名な杉の木がある。地面から二碼の處でその周圍が四十五呎ある。その杉がこの聖地へその名を與へて居るのである。すなはち隱岐の百姓は決して玉若酢神社とは言はずに、ただ『オホスギ』(大杉)と言つて居る。

 口碑の言ふ所に據ると、此木は八百餘年前或る尼が植ゑたのである。そしてこの木の材木で造つた箸で物を食ふ者は決して齒痛を病まず、且つ非常な高齡まで生きるといふ。

    註。或る木は齒痛を治す力があると
    想はれて居ることに就いて言へば、
    柳の木に就いて妙な迷信がゐること
    を書いてもよからう。齒痛を病む者
    は柳の木へ時々針を刺す。その木の
    靈が痛いので齒痛治醫の力を行はざ
    るを得ぬやうになると信じてである。
    しかし隱岐で之を實行して居るとい
    ふ記錄は自分は一つも發見し得なか
    つた。

[やぶちゃん注:「津井(さゐ)の池」「玉若酢神社」前者は「一七」の「島後の或る深い池」の、後者は「一八」の「下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉」の私の注を参照されたい。

「二十碼」既出であるが「碼」は「ヤード」と読む。一ヤードは九一・四四センチメートルであるから、十八・二八八メートル。

「五十碼」四十五・七二メートル。

「馬蹄石は何處にあるのか」既注であるが、この池に纏わる馬(母とも仔とも言う)の伝承(既に述べた通り、それが後の名馬生食(いけづき)とする説も有る)では、池の端にその馬の踏みつけた馬蹄の後が石に残っているとされる。

「船頭共は池の西側の小山を指さした。その指示は傳説とは符合しないのである。その天然その儘の山の横腹には何等人間の勞働の痕跡を發見することが出來なかつた。確に其處から數哩以内には人間の住み家は無かつた。それは見るも忌はしい荒涼を極めた場處であつた」このハーンの否定的言辞は、その伝承の馬が、この池の近くの人間に飼われていた母子馬であった(野生馬ではなかった)、という前提によるものらしい。但し、ハーンのこれ以前の叙述の中にも、そんな設定は記されておらず、私の調べた限りでも、この伝承の馬がそのようなもと飼育馬であったことを感じさせるものは、あまりないように思われる馬を捕縛しようとして失敗して逃げるというシチュエーションはあるが、寧ろ、その手におえない悍馬のさまは如何にも野生の馬の雰囲気が濃厚に漂っていると私は思う。

「圓岡」「ヱンカウ(エンコウ)」と音読みしておく。使用されている単語は“knoll”で「ノール」、小山・円丘・塚のことを指す。

「自分が參詣した方々の小さな寺で、そこの寺寳はと見ると、お盆一杯に載せた小石であつた」この寺についての情報(日本の何処で現存するかどうかだけで構わない)をお持ちの方は是非とも御教授を乞う。

「下西村」玉若酢神社の所在地。

「下西村といふは西郷から船で一時間足らずで行ける」現在は整備された道路で、西郷からすぐに行ける。「荒れては居るが美くしい海岸に沿うて行く」は「荒磯ではあるが美しい海岸線に沿うて行く」という謂いであって、海が荒れているのではないので注意されたい。そもそもがここへ船で向かうとなら、西郷のある湾の西方に延びる深い入り江を入って行き、その湾奥の手前を北に上陸するというコースをとった(外洋には全く出ない)はずだからである。

「御城山(おしろやま)」これは玉若酢神社の東南東六百メートルほどの位置にある標高百三十二・二メートルの山で、中世の隠岐氏の城砦跡であり、現在、隠岐の国府跡はこの城山西麓、玉若酢命神社社前の台地(現在の西郷町下西字甲野原)に推定されている。

「その建物は嘗ては佛寺であつたらしく思はれる」ハーンは恐らく、玉若酢神社の独特の古式の建物から、こう思わず推測してしまったのではないかと推理する。母屋造茅葺きの左右に随神像を安置する随神門や、切妻造茅葺きの本殿は正面に檜皮葺きの片流れの向拝を付けるという特殊な隠岐造(おきづくり)という、切妻屋根と庇屋根が一体化していない別構造のものであるからである(ここはウィキ玉若酢神社を参照した。江戸以前の神仏習合時代に別当寺が設けられていた可能性は否定は出来ないものの、同ウィキの沿革記載を見てもそのような痕跡は認められない)。この変わった感じが私の胸を打ったのである。前にも述べた通り、とても素敵な神社なのである。

「實に驚くべき有名な杉の木」「一八」の「下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉」の私の注を参照されたい。

「地面から二碼の處でその周圍が四十五呎」地上一メートル八十三センチメートルの位置で幹周十三・七メートル。現行のデータでは総樹高約三十メートル、幹周は約十一とある。Kigiyamabo 氏のサイト「樹々山坊」の玉若酢命神社の八百杉の解説と画像がよい。

「此木は八百餘年前或る尼が植ゑた」植えたのは人魚の肉を食って不死となってしまった八百比丘尼で、その名をハーンは「八百年」と聴き違えたものであろう。

「齒痛」腮無地蔵に次いで又も歯痛である。一島の中に二つも歯痛祈願の対象物があるというのは特異的である。これは所謂、野菜類の不足するかつての島生活で、ビタミンCの欠乏からくる壊血病によって生じる歯肉の出血及びそれに伴う歯の脱落などの歯科的症状と関係するのではないかと私は推理する。

「齒痛を病む者は柳の木へ時々針を刺す。その木の靈が痛いので齒痛治醫の力を行はざるを得ぬやうになると信じてである」ここに書かれたような伝承は不学にして聴いたことがない。識者の御教授を乞うものである。なお、柳の医療効果的実用性については、個人サイト「ain Relief―痛みと鎮痛の基礎知識」のシロヤナギ、サリシン、アスピリン、NSAIDsの年表」の中に、紀元前に既に『中国でも歯痛には、ヤナギの小枝で歯間をこすって治療していたらしい』とあり、一八三〇年に、フランスの薬学者Henri Leroux(アンリ・ルルー)がキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属セイヨウシロヤナギ Salix alba から『活性物質を分離し、salicin(サリシン)命名した。しかしサリシンは実際に純薬として使われることはなかった。サリシンは内服できないほどひどく苦かったからである。サリシンを含むヤナギの樹皮の煎液も苦く、欧州人は何世紀もの間その鎮痛作用を求めてひたすら苦さに耐えてきたのであった』とし(これから分離されたのが鎮痛効果を持つサリチル酸で、副作用として胃穿孔や腹膜炎を起すその強い酸性度を弱めたものが、鎮痛剤のアスピリン(アセチルサリチル酸)である)、安政四(一八五七)年には、この『サリシンの話は江戸時代の日本にも伝わった。堀内適斎(米沢藩の医師)が自書の『医家必携』でヤナギの皮の効用にふれ、「この薬、苦味・収斂・解熱の効あり。近世、柳皮塩あり、撤里失涅(さりしん)といふ」と記した』とある。]

 

 

ⅩⅩ.

 

   I went to the Sai-no-ike, and to Tama-Wakasu-jinja, as these two kembutsu can be reached by boat. The Sai-no-ike, however, much disappointed me. It can only be visited in very calm weather, as the way to it lies along a frightfully dangerous coast, nearly all sheer precipice. But the sea is beautifully clear and the eye can distinguish forms at an immense depth below the surface. After following the cliffs for about an hour, the boat reaches a sort of cove, where the beach is entirely corn posed of small round boulders. They form a long ridge, the outer verge of which is always in motion, rolling to and fro with a crash like a volley of musketry at the rush and ebb of every wave. To climb over this ridge of moving stone balls is quite disagreeable; but after that one has only about twenty
yards to walk, and the Sai-no-ike appears, surrounded on sides by wooded hills. It is little more than a large freshwater pool, perhaps fifty yards wide, not
in any way wonderful You can see no rocks under the surface,— only mud and pebbles That any part of it was ever deep enough to drown a foal is hard to
believe. I wanted to swim across to the farther side to try the depth, but the mere proposal scandalized the boat men. The pool was sacred to the gods, and
was guarded by invisible monsters; to enter it was impious and dangerous I felt obliged to respect the local ideas on the subject, and contented myself with
inquiring where the bateiseki was found. They pointed to the hill on the western side of the water. This indication did not tally with the legend. I could discover no trace of any human labor on that savage hillside; there was certainly no habitation within miles of the place; it was the very abomination of desolation. [9]

   It is never wise for the traveler in Japan to expect much on the strength of the reputation of kembutsu. The interest attaching to the vast majority of kembutsu depends altogether upon the exercise of imagination; and the ability to exercise such imagination again depends upon one's acquaintance with the history and mythology of the country. Knolls, rocks, stumps of trees, have been for hundreds of years objects of reverence for the peasantry, solely because of local traditions relating to them. Broken iron kettles, bronze mirrors covered with verdigris, rusty pieces of sword blades, fragments of red earthenware, have drawn generations of pilgrims to the shrines in which they are preserved. At various small temples which I visited, the temple treasures consisted of trays full of small stones. The first time I saw those little stones I thought that the priests had been studying geology or mineralogy, each stone being labelled in Japanese characters. On examination, the stones proved to be absolutely worthless in themselves, even as specimens of neighboring rocks. But the stories which the priests or acolytes could tell about each and every stone were more than interesting. The stones served as rude beads, in fact, for the recital of a litany of Buddhist legends.

   After the experience of the Sai-no-ike, I had little reason to expect to see anything extraordinary at Shimonishimura. But this time I was agreeably mistaken. Shimonishimura is a pretty fishing village within an hour's row from Saigo. The boat follows a wild but beautiful coast, passing one singular truncated hill, Oshiroyama, upon which a strong castle stood in ancient times. There is now only a small Shinto shrine there, surrounded by pines. From the hamlet of Shimonishimura to the Temple of Tama-Wakasu-jinja is a walk of twenty minutes, over very rough paths between rice-fields and vegetable gardens. But the situation of the temple, surrounded by its sacred grove, in the heart of a landscape framed in by mountain ranges of many colors, is charmingly impressive. The edifice seems to have once been a Buddhist temple; it is now the largest Shinto structure in Oki. Before its gate stands the famous cedar, not remarkable for height, but wonderful for girth. Two yards above the soil its circumference is forty-five feet. It has given its name to the holy place; the Oki peasantry scarcely ever speak of Tama-Wakasu-jinja, but only of 'Ō-Sugi,' the Great Cedar. 

  Tradition avers that this tree was planted by a Buddhist nun more than eight hundred years ago. And it is alleged that whoever eats with chopsticks made from the wood of that tree will never have the toothache, and will live to become exceedingly old.[10]

 

9
There are two ponds not far from each other. The one I visited was called 0-ike, or 'The Male Pond,' and the other, Me-ike, or 'The Female Pond.'

10
Speaking of the supposed power of certain trees to cure toothache, I may mention a curious superstition about the yanagi, or willow-tree. Sufferers from
toothache sometimes stick needles into the tree, believing that the pain caused to the tree-spirit will force it to exercise its power to cure. I could not, however, find any record of this practice in Oki.

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