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2015/12/15

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (三)

       三

 

 日本人の微笑を會得するためには、少し日本の古い、自然の、民衆生活に入る事ができなければならない。近代化した上流社會からは學ぶべき物は何にもない。高等教育の結果によつて人種的相違の深い意義は毎日一層深く説明されるのである。高等教育は感情の融和にはならないで、かへつて東西洋の間の疎隔を一層深くするだけのやうに思はれる。外人の中には、高等教育は或潛伏した特色――殊に一般人民の間には殆んど認められない隱れた唯物主義――を非常に擴大する事になるので、さうなると云ふ人もある。この説明には私は充分同意できないが、とにかくこの事だけは否定できない。即ち西洋風に高い教育を受ければ受ける程、その日本人は心理的に私共と遠ざかつて行くと云ふ事である。新しい教育尾を受けると、その性格は妙に冷酷な物に、そして西洋洋事物の觀察はとにかく妙に不透明な物に、結晶するらしい。情緒的には、日本の子供の方が日本の數學者よりも、農夫の方が政治家よりも、はるかに私共に近いやうである。全く近代化した日本人の最も高い階級と西洋の思忽家との間には智力的同情らしい物は成立しない、日本人側ではただ冷(ツメ)たいそして完全な禮儀となつて居る。外の國々では高尚な情緒を發達させるために最も有力な物と思はれる物は、ここではそれを抑壓するのに非常な效果のある物らしい。外國では私共は情緒的敏感と智力的博大とを聯想する事に慣れて戻るが、この規則を日本に應用する事は悲しむべき誤であらう。普通の學校に於ける外國教師でも、年々、その生徒が、級から級へと進む毎に、自分から離れて行く事を感ずる、色々の高い程度の學校では、この離れ方は一層早くなつて、卒業に近い學生は教授に取つてはただ偶然の知り合ひ同樣になる。この謎は、或は幾分は、科學的説明を要する心理上の問題である。しかしその解決は第一に人生及び想像に關する祖先以來の習慣に求められねばならない。その自然の原因が理解される時に始めて、この問題が充分に論ぜられるが、これは、簡單ではないと思はれる。或人は論じて、日本の高等教育は、高尚なる情緒を西洋の程度に刺激する力が未だないから、その開發力は一樣に又賢明に發揮されてゐないで、ただ、特別の方向にのみ向けられるから、性格の方面で損失を免れないと云ふ。しかしこの論には性格は教育によつて造り出されると云ふ許容し難い傳説が入つて居る、そして如何なる制度の教育によるよりも、以前から存する性癖嗜好を利用する機會を與へた方が最良の結果を得られると云ふ事實を無視して居る。

 この現象の原因は、人種性格に求められねばならない。そして高等教育が遠き將來に於て如何なる結果を生ずるにしても、元來の性賀を改造する物とは期待されない。しかし現在に於て或よい方の傾向を萎縮させる事になつてゐないだらうか。私は必ずさうなつて居ると思ふ、その單なる理由は、現在の状況では高等教育の要求によつて道德的精神的の力が焉電の過重の負擔を課されるからである。古への社會的道德的、或は宗教的精神主義の方へ向けられた義務、忍耐、犧牲の驚くべき國民性は悉く、高等教育の訓練のために、その全部の活勤を要求するのみならず、さらに疲勞させる或目的の方へ集中されねばならない。その目的通りを苟くも果すためには、西洋の學生が滅多に出遇はないそして容易に理解のできないやうな困難に面してから、漸くその目的は果されるのである。古い日本人の性格を感嘆すべき物としたそれ等の德性は、今日の日本學生をして、世界に於て最も堅忍不拔な最も從順な、最も大望のある者とならしめた物とたしかに同一の德性である。しかしその德性は、同時に日本學生をして本來の力以上の努力をさせて、その結果往々精神的道徳的衰弱を來たさせる。この國民は過度の智力的緊張の時期に蹈み込んで居る。意識してか或は無意識にか、不意の必要に迫られて、日本は精神的膨脹を現在の最高標準まで無理に押上げると云ふ恐ろしい仕事を正にやり出した、そしてこれは神經系統を無理に發達させようとする事になる。僅か數代のうちに、望み通りの智力的變化を仕遂げようとする事は、恐るべき損害なしには決して行はれない生理的變化を必ず起させる。換言すれば、日本の計畫は多大に過ぎる、しかし現在の事情では、それよりも小さい計畫をする事はできなかつたらう。幸にして日本の貧困者中の最も貧困者の間にでも、政府の教育方針は驚くべき熱心を以て助けられて居る、國民全體は學問に熱中して居る、その熱心の程度はこの小さい論文でこの適當な概念を傳へる事はできない程である。それでも私は一つ感動すべき例を書かう。一八九一(明治二十四年)の恐ろしい地震のすぐあとで、岐阜愛知の破壞された都市の兒童は、名狀のできない恐怖と災禍に取卷かれえて、寒い、飢ゑた、家もない時でも、石板の代りに彼自身の燃えた家の瓦を使ひ、石筆の代りに針金のちぎれを使つて、大地が未だ足の下で動いて居る間【註二】でも、やはり彼等の小さい勉學を續けた。こんな事實が表はす意志の驚くべき力から將來どんな奇蹟が正しく期待される事であらう。

 

    註二。次第に回數と強さか減じたの

    ではあるが、この地震は、その大災

    害ののち六ケ月續いた。

 

 しかし高等教育の結果は今の處全然好結果を來してゐない事は事實である。古風の日本人の間には、如何に感嘆しても及ばない程の禮儀と、無私と、純粹なる善良から來る品位とを見る。新時代の現代化した人々のうちにはこれ等のものは殆んど見られない。淺薄な懷疑の平凡と模倣の野卑以上に脱する事もできないで、古い時代と古い習慣を罵倒する靑年の一階級を人はよく見る。彼等が祖先から異傳した筈の高尚な、そして愛すべき性質はどうなつたのであらう。その性質の最上の物は形を變へてただの努力――性格を消粍しつくして、重さもなく釣合も取れない物にしてしまつた程、そんなに法外な努力だけになつた事はあり得べき事であらうか。

 

 西洋と東洋の人種的感情及び情緒的表情に於ける或外面的相違の意味をさがさねばならぬところは、未だ流れ動く自然の平民社會の狀態に存するのである。生、愛、及び死に對して同じく微笑するそれ等の温和な、親切な、心のやさしい人々と、單純な自然物に對して感情の交りを樂しむ事がでるのである、そして親しみと同情とによつて彼等の微笑の理由を知る事ができる。

 日本の子供は生れながらにしてこの傾向をもつて居る、そしてこの傾向は家庭教育の凡ての時期を通じて養成される。しかしそれは庭樹の自然の傾向を養成して行く時に示されると同じ程度の綿密さで養成される。微笑はお辭儀と同じく、平身低頭と同じく、長上に對する挨拶のつぎに喜悦のしるしとして息を少しすつと吸ひ込む事と同じく、凡て古への禮儀の細密なそして美はしい作法と同じく、教へられる。明かな道理で高笑は奬勸されない。しかし微笑は長上に或は同輩に話しかける時、凡て愉快な場脊に用ひられる。そして愉快でない場合にも用ひられる、それは行儀の一部分である。最も愉快な顏はにこにこした顏である、そしてできるだけ最も愉快な顏を兩親、親戚、教師、友人、好意を有せる人々に示すのは生活の法則である。そしてその上たえず外界に幸福の態度を表はし、他人にできる限りの愉快な印象を與へるのは、生活の法則である。たとへ胸の張り裂ける場合でも、勇敢に微笑するのは社會的義務である。それに反してしかつべらしく不機嫌な顏をするのは無禮である、これは私共を愛する人々に心配や苦痛を與へる事になるから、同時に又愚な事である、私共を愛しない人々の方で不親切な好奇心を起させる事になるから。幼兒時代から義務として養成されて居るから微笑はやがて本能的になる。最も貧しい農夫の心にも、自分だけの悲しみ苦しみ或は怒りを表はす事は餘り役に立たない。そしていつでも不親切であると云ふ自信が生きて居る。それ故他の國に於けると同じく日本に於ても自然のの悲歎に自然の出口がなければならないが、長上や客の面前に於て抑制なしに涙を流す事は無禮である、そして如何に無學な田舍女でも、そんな場合に神經が負けてしまつたあとでいつもきまつて始めに云ふ言葉は『實に我儘勝手で失禮致しました、お赦し下さい』である。その微笑の理由はただ道德的であるだけではない事も又注意すべきである、それは或程度まで美的である、ギリシヤ美術に於て苦痛の表情を調整したと同じ思想を幾分表はして居る。しかし美的であるよりも道德的である方が遙かに多い、それについてやがて述べる。

 この微笑の第一の作法から第二の作法が發達して來て居る、それを守る事が外國人をして屢々日本人の感受性に關して最も殘酷な誤解を抱かしむるやうになつたのである。痛ましき又は恐るべき事を云ふべき場合に、その話はその苦しみ恐ろしさを受けた人によつて微笑しながら話される【註三】のが日本の習慣である。その問題が重大であればある程その微笑は重大になる、そしてその事がそれを話す人に甚だ不快な時にはその微笑はよく低い穩やかな笑ひ聲に變る。初生兒を失つた母が葬式の時どれ程烈しく泣いたとしても、奉公に出て居る場合ならその不幸を話す時には多分微笑をもつてするであらう、傳道者【譯者註一】のやうに泣く時あり笑ふ時ありと彼女は思ふて居る。人々が愛してゐたと信ぜられる者のこの頃歿くなつ事を、その人々が私に笑つて話す事のできる事が私自身にも中々了解できなかつた。しかしその笑は克己の極端まで進んだ禮儀であつた。かう云ふ意味である。『これはあなたは不幸な事件とお考になるでせうが、どうかそんなつまらない事に御心を惱さないで下さい、そして一體止むを得ずこんな事を云つて、禮儀を破る事になつた事をお赦し下さい』

 

    註三。勿論同情する方からは、その

    反對になるのがきまりである。即ち

    こちらは悲しい表情で對せねばない。

 

 最も理解のできない微笑の祕密の鍵は日本人の禮儀正しさである。過失のために解雇を宣告された從者は平伏してそして微笑して容赦を願ふ。その微笑は無感覺や無禮の正反對である、『はい、たしかに御宣告の正しい事に私滿足して居ります、そして私の過失の大きい事が今よく分りました。しかし私の悲しみと必要から無理な我儘な御願を申し上げ實に失禮とは存じますが御勘辨を御願する事を御赦し頂きたい』と子供らしい涙を流す年齡以上に達した少年少女は何かの過失のために罰せられた時には微笑してその罰を受ける、その微笑はこんな意味である『私の心に何の惡感情も起りません、私の過失はもつとひどい罰を受ける價値があります』そして私の横濱の友人の鞭で打たれた車夫は同じ道理で微笑したのであつた、それを私の友人が直覺したに相違ない、その微笑は直ちに彼を和らげたから。『私は大層惡かつた、それであなたの怒りは當然です、私は打たれる價値があります。それだから惡感情は抱きません』

 しかし如何に貧しい身分の賤しい日本人でも村山槐多理の前には從頃でない事も理解して置くべきである。彼の表面の柔順性は重に彼の道德觀念から起つて居る。戲れに日本人をなぐつて見る外國人は當然重大なる過失をした事に氣がつくだらう。日本人は愚弄さるべきでない、そして日本人を愚弄しようと亂暴にも試みた人で、そのつまらない生命をなくした者は幾人もある。

 以上の説明をしたあとでも、日本の乳母の事件は未だ不可解に見えるやうだ、しかしこれは話した人がこの場合或事實を削除したか、或は見逃したからだと私は信ずる。その話の前半は完全によく分る。夫の死を報告する時その若い召使はすでに云つた日本の形式に隨つて微笑した。全く信じ難い事は、彼女が自ら進んでその瓶即ち骨壺にある物を彼女の主人に見せようとしたなどと云ふ事である。彼女の夫の死を報告するのに微笑を以てする程日本の禮儀を心得て居るのなら、こんな過ちを犯すに到らないだけの心得がたしかにこあつた筈である。實際の命令であつたか、命ぜられたと想像したか。それに隨つて始めてその骨壺とその中にある物とを示したのであらう、そしてさうする時彼女は苦しい義務を止むを得ず行ふ時か、或は苦しい陳述をせん方なく發言する時、それに伴ふ低い柔かな笑を發した事は如何にもありさうである。私自身の意見では彼女は徒らな好奇心を滿足さねばならなくなつたのであらう。彼女の微笑或は笑はこんな意味であつたらう『つまらぬ私のために御心を痛めないで下さい、たとへ御求めであつても、私の悲しみのやうなそんなつまらぬ事を申し上げるのは本當に甚だ失禮でございます』

 

    訳者註一。舊譯聖書(傳道の書)

    (ダビデの子、エルサレムの王、

    傳道者の言)第三章第四章の文

    句。

 

[やぶちゃん注:「一八九一(明治二十四年)の恐ろしい地震」同年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸直下型の濃尾地震。震源は岐阜県本巣郡西根尾村(現在の本巣市)付近で、マグニチュードは現在では八・〇と推定されている。参照したウィキ濃尾地震によれば、震源である岐阜県と損害の大きかった愛知県ははもとより、近隣の滋賀県や福井県にも被害は及んだ。明治時代では最大規模の地震であり、宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』によると』、死者七千二百七十三名・負傷者一万七千百七十五名・損壊家屋十四万二千百七十七戸とある。『震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったという』。『建築物では、伝統的な土蔵の被害は比較的軽かったが名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被害は言うまでもなく、欧米の技術で作られた近代建築でさえ、長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁や煉瓦の建築物などが破壊されたため、この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が進展する契機となった。また、この地震後に震災予防調査会が設置された』とある。『この地震によって、地質学者の小藤文次郎は断層の地震との関係を確信し、断層地震説を主張』し、また、『地震学者大森房吉は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している』とし、ハーンがここで述べる不安を惹き起こす余震の問題に初めて科学のメスが入った地震でもあったことが判る。いや、それどころか、驚くべきことに(これはウィキにも記されているのであるが)、「日本地震学会」広報紙『ないふる』(一九九九年五月刊・第十三号)によれば、『物理過程では、原子核の崩壊のように、指数関数で減衰するものが多いのですが、「改良大森公式」に従って減衰する余震は、本震直後の減り方は指数関数より速く、後に長く尾をひくという特徴があります』と述べた後、ハーンの「その大災害ののち六ケ月續いた」どころじゃあ、なく! 実に百二十四年も前に『発生した濃尾地震の余震活動は、一世紀以上たった現在でも続いています』として、一八九一年濃尾地震から一九九四年末までの岐阜における有感地震発生率(一日当たり)が示され、それが確かに濃尾地震の確かな余震であり続けていることを示すデータだ、とあるのである!!(下線やぶちゃん)。

「傳道者のやうに泣く時あり笑ふ時あり」「舊譯聖書(傳道の書)(ダビデの子、エルサレムの王、傳道者の言)第三章第四章の文句」原文は“like the Preacher, she holds that there is a time to weep and a time to laugh.”。「旧約聖書」の「伝道の書」は「コヘレトの言葉」「コーヘレト書」とも呼ばれ、ユダヤ教の「ハーメーシュ・メギッロート」(英語:The Five Scrolls:「五つの巻物」の意。「旧約聖書」中の「諸書」に属するところの五つの書物、本「コヘレトの言葉」と「雅歌」「哀歌」「ルツ記」「エステル記」を指す)の一つである。「コヘレト」とはヘブライ語で「伝道者」を意味するので「伝道の書」とも呼ばれているが、冒頭で「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、これは古代イスラエル王国第三代の王ソロモンであることが仄めかされてある。旧約聖書中でも名言の宝庫とされる一書である(ここまではウィキコヘレトの言葉を参照した)。本第三章は「天の下の総てには季節があり、総て成される業(わざ)には時がある」と始まり、続く第二章は「生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを引く抜くに時があり」、第三章は「殺すに時があり、癒やすに時があり、壊すに時があり、建つるに時があり」と来て、その第四章が、「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」と続いている(ここはウィキソース伝道の書口語訳を参考にしつつ、やや訳文に勝手に手を加えさせて貰った)。ネット上の英訳の一つを示す。“a time to weep, and a time to laugh; a time to mourn, and a time to dance;”。]

 

 

.

   To comprehend the Japanese smile, one must be able to enter a little into the ancient, natural, and popular life of Japan. From the modernized upper classes nothing is to be learned. The deeper signification of race differences is being daily more and more illustrated in the effects of the higher education. Instead of creating any community of feeling, it appears only to widen the distance between the Occidental and the Oriental. Some foreign observers have declared that it does this by enormously developing certain latent peculiarities,— among others an inherent materialism little perceptible among fife common people. This explanation is one I cannot quite agree with; but it is at least undeniable that, the more highly he is cultivated, according to Western methods, the farther is the Japanese psychologically removed from us. Under the new education, his character seems to crystallize into something of singular hardness, and to Western observation, at least, of singular opacity. Emotionally, the Japanese child appears incomparably closer to us than the Japanese mathematician, the peasant than the statesman. Between the most elevated class of thoroughly modernized Japanese and the Western thinker anything akin to intellectual sympathy is non-existent: it is replaced on the native side by a cold and faultless politeness. Those influences which in other lands appear most potent to develop the higher emotions seem here to have the extraordinary effect of suppressing them. We are accustomed abroad to associate emotional sensibility with intellectual expansion: it would be a grievous error to apply this rule in Japan. Even the foreign teacher in an ordinary school can feel, year by year, his pupils drifting farther away from him, as they pass from class to class; in various higher educational institutions, the separation widens yet more rapidly, so that, prior to graduation, students may become to their professor little more than casual acquaintances. The enigma is perhaps, to some extent, a physiological one, requiring scientific explanation; but its solution must first be sought in ancestral habits of life and of imagination. It can be fully discussed only when its natural causes are understood; and these, we may be sure, are not simple. By some observers it is asserted that because the higher education in Japan has not yet had the effect of stimulating the higher emotions to the Occidental pitch, its developing power cannot have been exerted uniformly and wisely, but in special directions only, at the cost of character. Yet this theory involves the unwarrantable assumption that character can be created by education; and it ignores the fact that the best results are obtained by affording opportunity for the exercise of pre-existing inclination rather than by any system of teaching.

   The causes of the phenomenon must be looked for in the race character; and whatever the higher education may accomplish in the remote future, it can scarcely be expected to transform nature. But does it at present atrophy certain finer tendencies? I think that it unavoidably does, for the simple reason that, under existing conditions, the moral and mental powers are overtasked by its requirements. All that wonderful national spirit of duty, of patience, of self-sacrifice, anciently directed to social, moral, or religious idealism, must, under the discipline of the higher training, be concentrated upon an end which not only demands, but exhausts its fullest exercise. For that end, to be accomplished at all, must be accomplished in the face of difficulties that the Western student rarely encounters, and could scarcely be made even to understand. All those moral qualities which made the old Japanese character admirable are certainly the same which make the modern Japanese student the most indefatigable, the most docile, the most ambitious in the world. But they are also qualities which urge him to efforts in excess of his natural powers, with the frequent result of mental and moral enervation. The nation has entered upon a period of intellectual overstrain. Consciously or unconsciously, in obedience to sudden necessity, Japan has undertaken nothing less than the tremendous task of forcing mental expansion up to the highest existing standard; and this means forcing the development of the nervous system. For the desired intellectual change, to be accomplished within a few generations, must involve a physiological change never to be effected without terrible cost. In other words, Japan has attempted too much; yet under the circumstances she could not have attempted less. Happily, even among the poorest of her poor the educational policy of the Government is seconded with an astonishing zeal; the entire nation has plunged into study with a fervor of which it is utterly impossible to convey any adequate conception in this little essay. Yet I may cite a touching example. Immediately after the frightful earthquake of 1891, the children of the ruined cities of Gifu and Aichi, crouching among the ashes of their homes, cold and hungry and shelterless, surrounded by horror and misery unspeakable, still continued their small studies, using tiles of their own burnt dwellings in lieu of slates, and bits of lime for chalk, even while the earth still trembled beneath them. [2] What future miracles may justly be expected from the amazing power of purpose such a fact reveals!

   But it is true that as yet the results of the higher training have not been altogether happy. Among the Japanese of the old regime one encounters a courtesy, an unselfishness, a grace of pure goodness, impossible to overpraise. Among the modernized of the new generation these have almost disappeared. One meets a class of young men who ridicule the old times and the old ways without having been able to elevate themselves above the vulgarism of imitation and the commonplaces of shallow skepticism. What has become of the noble and charming qualities they must have inherited from their fathers? Is it not possible that the best of those qualities have been transmuted into mere effort,— an effort so excessive as to have exhausted character, leaving it without weight or balance?

 

   It is to the still fluid, mobile, natural existence of the common people that one must look for the meaning of some apparent differences in the race feeling and emotional expression of the West and the Far East. With those gentle, kindly, sweet-hearted folk, who smile at life, love, and death alike, it is possible to enjoy community of feeling in simple, natural things; and by familiarity and sympathy we can learn why they smile.

   The Japanese child is born with this happy tendency, which is fostered through all the period of home education. But it is cultivated with the same exquisiteness that is shown in the cultivation of the natural tendencies of a garden plant. The smile is taught like the bow; like the prostration; like that little sibilant sucking-in of the breath which follows, as a token of pleasure, the salutation to a superior; like all the elaborate and beautiful etiquette of the old courtesy. Laughter is not encouraged, for obvious reasons. But the smile is to be used upon all pleasant occasions, when speaking to a superior or to an equal, and even upon occasions which are not pleasant; it is a part of deportment. The most agreeable face is the smiling face; and to present always the most agreeable face possible to parents, relatives, teachers, friends, well-wishers, is a rule of life. And furthermore, it is a rule of life to turn constantly to the outer world a mien of happiness, to convey to others as far as possible a pleasant impression. Even though the heart is breaking, it is a social duty to smile bravely. On the other hand, to look serious or unhappy is rude, because this may cause anxiety or pain to those who love us; it is likewise foolish, since it may excite unkindly curiosity on the part of those who love us not. Cultivated from childhood as a duty, the smile soon becomes instinctive. In the mind of the poorest peasant lives the conviction that to exhibit the expression of one's personal sorrow or pain or anger is rarely useful, and always unkind. Hence, although natural grief must have, in Japan as elsewhere, its natural issue, an uncontrollable burst of tears in the presence of superiors or guests is an impoliteness; and the first words of even the most unlettered countrywoman, after the nerves give way in such a circumstance, are invariably: 'Pardon my selfishness in that I have been so rude!' The reasons for the smile, be it also observed, are not only moral; they are to some extent aesthetic they partly represent the same idea which regulated the expression of suffering in Greek art. But they are much more moral than aesthetic, as we shall presently observe.

   From this primary etiquette of the smile there has been developed a secondary etiquette, the observance of which has frequently impelled foreigners to form the most cruel misjudgements as to Japanese sensibility. It is the native custom that whenever a painful or shocking fact must be told, the announcement should be made, by the sufferer, with a smile. [3] The graver the subject, the more accentuated the smile; and when the matter is very unpleasant to the person speaking of it, the smile often changes to a low, soft laugh. However bitterly the mother who has lost her first-born may have wept at the funeral, it is probable that, if in your service, she will tell of her bereavement with a smile: like the Preacher, she holds that there is a time to weep and a time to laugh. It was long before I myself could understand how it was possible for those whom I believed to have loved a person recently dead to announce to me that death with a laugh. Yet the laugh was politeness carried to the utmost point of self-abnegation. It signified: 'This you might honorably think to be an unhappy event; pray do not suffer Your Superiority to feel concern about so inferior a matter, and pardon the necessity which causes us to outrage politeness by speaking about such an affair at all.'. The key to the mystery of the most unaccountable smiles is Japanese politeness. The servant sentenced to dismissal for a fault prostrates himself, and asks for pardon with a smile. That smile indicates the very reverse of callousness or insolence: 'Be assured that I am satisfied with the great justice of your honorable sentence, and that I am now aware of the gravity of my fault. Yet my sorrow and my necessity have caused me to indulge the unreasonable hope that I may be forgiven for my great rudeness in asking pardon.' The youth or girl beyond the age of childish tears, when punished for some error, receives the punishment with a smile which means: 'No evil feeling arises in my heart; much worse than this my fault has deserved.' And the kurumaya cut by the whip of my Yokohama friend smiled for a similar reason, as my friend must have intuitively felt, since the smile at once disarmed him: 'I was very wrong, and you are right to be angry: I deserve to be struck, and therefore feel no resentment.'

   But it should be understood that the poorest and humblest Japanese is rarely submissive under injustice. His apparent docility is due chiefly to his moral sense. The foreigner who strikes a native for sport may have reason to find that he has made a serious mistake. The Japanese are not to be trifled with; and brutal attempts to trifle with them have cost several worthless lives.

   Even after the foregoing explanations, the incident of the Japanese nurse may still seem incomprehensible; but this, I feel quite sure, is because the narrator either suppressed or overlooked certain facts in the case. In the first half of the story, all is perfectly clear. When announcing her husband's death, the young servant smiled, in accordance with the native formality already referred to. What is quite incredible is that, of her own accord, she should have invited the attention of her mistress to the contents of the vase, or funeral urn. If she knew enough of Japanese politeness to smile in announcing her husband's death, she must certainly have known enough to prevent her from perpetrating such an error. She could have shown the vase and its contents only in obedience to some real or fancied command; and when so doing, it is more than possible she may have uttered the low, soft laugh which accompanies either the unavoidable performance of a painful duty, or the enforced utterance of a painful statement. My own opinion is that she was obliged to gratify a wanton curiosity. Her smile or laugh would then have signified: 'Do not suffer your honorable feelings to be shocked upon my unworthy account; it is indeed very rude of me, even at your honorable request, to mention so contemptible a thing as my sorrow.'

 

2 The shocks continued, though with lessening frequency and violence, for more than six months after the cataclysm.

3 Of course the converse is the rule in condoling with the sufferer.

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