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2015/12/04

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十一)

       二一

 

 後醍醐天皇の御靈を祀つた神社は西の島の別府にある。別府は半月形に連なつた小山の裾の、入江を緣取つて居る草葺田舍家の長い一本街路から成つて居る繪に見るやうな美くしい漁村である。此處の風俗の純朴と保健的な全くの貧窮とは、隱岐にしても、實に珍らしい程である。他國人を泊める旅籠屋風の家が一軒ある。其處では茶を出さずに素湯を出し、菓子を出さずに乾豆を出し、米を食はせずに黍を食はす。が然し、茶が無いといふ事は米が無いといふ事よりも意味が深い。が、別府の者は、その強壯な容貌が實地證明して居るやうに、相當な滋養に事缺いでは居らぬ。船が海へ出て居る間に女や子供が耕やす小さな庭で出來る野菜が澤山あるし、それに魚類は豐富だからである。佛寺は一宇も無いが、氏神の社がある。

 後醍醐天皇の神社は入江の一端の黑木山(くろきざん)と呼ぶ小山の頂上に在る。その小山は高い松の木に蔽はれて居て、そこへの途は甚だ嶮しいから、自分は辻ることの無い草鞋を穿くが宜からうと考へた。登つて見ると神社は小さな木造のミヤで、高さはやつと三呎、年月の爲めに黑くなつて居る。その横の茂みの中に、もつと古い、他の宮の遺跡がある。何んの形にも刻んでない、そして何んの文字も彫つてない大きな石が二つ此前に置いてある。覗きこんで見たら、ぼろぼろに崩れさうな金屬の鏡と、竹を細くへいだものへ附けた煤けた紙の御幣と、赤い陶器の小さい御神酒德利が二つと、それから一厘錢が一つ見えた。そこの大きな松の幹の間からして、その神々しい暗がりを貫き射す靑い暖かい光りで見える、海岸と山と峰との愉快な瞥見があるだけで、他には何も見るものは無かつた。

 かの善良な天皇が隱岐の百姓共の間に、御滯留になつて居たことを記念するものはこの見すぼらしい宮だけである。が、鳥取縣の米子(よなご)近くの五千石村(ごせんごくむら)といふ小村に、父君を慕うて配處へ供しようとして歿せられた天皇の御姫君ヒナコ内親王【譯者註】の記念に、目下義損金でもつて立派な石の記念碑が建設中である。

 

    譯者註。ヒナコ内親王に非ず。瓊子

    内親王なり。五千石村大字福市の安

    養寺は同内親王の開基と傳へらる。

 

内親王御永眠の場處近くに有名な栗の樹が一本ある。それに就いて斯んな話がある。天皇のこの姫君が御病氣の折栗をと乞ひ給うたので、幾つか奉つた。が、一つだけ手に取つて、それを一寸囓んで御捨てになつた。それが根附いて堂々たる大木になつた。ところがその木に生る栗は皆んな小さな齒の痕のやうな痕がある。日本の傳説では、樹木すら君に對して忠であつて、その忠誠の念を無言な色々な優しい方法で以て示さうと力めるからである。そしてその木はハガタノクリ即ち『齒形の栗の木』と呼ばれて居る。

 

[やぶちゃん注:「後醍醐天皇の御靈を祀つた神社」既注の西ノ島町別府の黒木(くろぎ)神社(前に注したが、現行では少なくとも神社名は「くろぎ」と濁っている)。ここも実は底本は「中の島の別府」とあるが、原文をご覧になれば判る通り、「西の島」の誤訳である。例外的に訂した。さらに……非常に言い難いことであるが……平井呈一氏の一九七五年恒文社刊第一版「日本瞥見記(下)」「第二十三章 伯耆から隠岐へ」でも――同じく――『中の島の別府』――と誤訳しているのである。……その訳文を愛し、非常に尊敬する平井先生ではあるが……これはどうみても……この部分――先行する田部氏の訳文を無意識のうちに流用してしまった結果の誤訳としか思われない――のであるが、如何? 画像は山下信弘氏のサイト「九州神社旅行」の黒木神社(くろぎ) 島根県西ノ島町がよい。私は妻の足が悪いために行くのを断念したが、このスライド・ショーを見ると、行った気になれた(同サイトの黒木神社解説ページ)。

「保健的な全くの貧窮」原文は確かに“the honest healthy poverty”であるが、これはまさに「何とも言えず好ましい清貧さ」といった感じのように私には思われる。少なくとも、失礼乍ら、この訳は意味不明で如何にもヘンではないか? 大学の一般教養の英語の試験でかく訳したら多分、バツである。因みに平井氏は『飾りけのない健康な貧しさ』と訳されておられ、これはすんなり読める。

「事缺いでは居らぬ」底本は拡大して精査してみても明らかに「事缺いでは居らぬ」で「て」ではなく「で」である。暫くママとする。

「佛寺は一宇も無い」現在の国土地理院の地図を確認すると、西ノ島町内には全部で五つの寺院(卍記号)を確認出来る。

「三呎」九十一・四四センチメートル。

「五千石村」鳥取県の旧西伯(さいき)郡(現行でも郡自体は縮小して残存)の旧五千石村(ごせんごくそん)。現在は米子市福市(ふくいち)。訳者注にある「五千石村大字福市の安養寺」同内親王の開基と傳へらる」。

「天皇の御姫君ヒナコ内親王」訳者注にある通り、「ヒナコ内親王」ではなくて「瓊子内親王」(正和五(一三一六)年~暦応二/延元四(一三三九)年八月一日)。「瓊子」は「たまこ」と読む。後醍醐天皇の皇女。母は二条為世の娘で権大納言局藤原為子(いし)。隠岐配流の天皇を追って同島に渡ろうとしたが果せず、伯耆の守護佐々木氏に預けられた。後に遊行僧一鎮に就いて尼となり、同地に先の時宗会見山西月院安養寺を建立した。享年二十四。法号は安養尼。なお、父後醍醐天皇は、この半月後の八月十六日、吉野金輪王寺で、前日に譲位した後村上天皇に朝敵討滅と京都奪回を遺言、満五十歳で崩御している。奈良の藤原氏の投稿記事であるのページに、『後醍醐天皇皇女瓊子(たまこ)内親王の開基。北条高時に追われた内親王は遊行五代安国上人の弟子となり西月院宮安養尼と称し、父の開運を祈りその後天皇の勅願所として安養寺を建立した。内親王の墓所、内親王座像など後醍醐天皇ゆかりの品々を伝える。寺門の瓦などには、菊の御紋が刻まれ皇族墓所としてのたたずまいをしのばせている』とあり、さらにハーンが綴った「歯形栗」説話の載る。以下に引用させて戴く(行空けを省略した。下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

王政復古をめざして失敗した第96代後醍醐天皇が、隠岐へ流されることになり、京都を発たれたのは、1332年(元弘2年)3月7日で、中宮にさえ逢わしてもらえず、その時に中宮が詠まれた御歌は、

   この上の 思いはあらじつれなさの 命よさらばいつを限りぞ

で、天皇の主なる供は三名、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、それに三位の局、後は、警護の千葉介貞胤ら甲冑の武士六百騎と徒士を加えた千余名。此の内に16歳の皇女・瓊子(たまこ、母は藤原為子)内親王が女官に身を変えて従いついて行きましたが、一行が隠岐へ渡る直前に身元がばれて、米子へ残された内親王は、出家し時宗の「安養寺」を開きました。また、後醍醐天皇のために備前の忠臣・児島高徳が桜の木に書いた歌の一首は、

   天勾賤(てんこうせん)を空しゅうすること勿(なか)れ

         時に范(はん)れい無きにしも非ず

[やぶちゃん注:かの呉を滅ぼした覇者越王勾践と彼をそこまで押し上げた勇猛果敢な第一の忠臣范蠡(はんれい)を、天皇と児島自身に擬えた一首である。]

で、そして、内親王は父帝の帰還を祈り、栗をかじって「もし我が願いかなうならば、芽を出し、木となれ」と云って、その栗を植えると、見事に芽を吹き、木となり、実を付けましたが、どうした事かその実は、歯形の付いた栗でした。

なお、島流しになった後醍醐天皇は翌年、隠岐ノ島を抜け出して、反幕勢力の糾合に成功し、京都に帰られる時、共に帰京の誘いを内親王にもされましたが、内親王は拒否なさり、その後24歳で遷化されて、米子で余生を送られました。

また、「安養寺」には今でも「歯形栗」の木は有りますが、現在のは4代目で、歯形もめっきり薄くなり、歯形と云われればその様にもに見えますが、2代目までは、実ったほとんど全ての栗に、はっきりとした歯形が有ったそうです。

   《引用終了》

ハーンの話は「日本の傳説では、樹木すら君に對して忠であつて、その忠誠の念を無言な色々な優しい方法で以て示さうと力めるからである。そしてその木はハガタノクリ即ち『齒形の栗の木』と呼ばれて居る」とか事大主義的に言ってはいるけれど、省略に過ぎて気まぐれ娘のエピソードみたようにしか読めず、「だから何?!」と言いたくなってしまう代物だが、この方の語りを読まさせて戴いて初めて確かな霊力の説話として腑に落ちたものである。

「齒の痕」「歯痛」祈願の「腮無地蔵」の次は今度は「歯型」! 何だか、因縁染みている感じがしてくるではないか。]

 

 

ⅩⅩⅠ.

   The shrine dedicated to the spirit of the Emperor Go-Daigo is in Nishinoshima, at Beppu, a picturesque fishing village composed of one long street of thatched cottages fringing a bay at the foot of a demilune of hills. The simplicity of manners and the honest healthy poverty of the place are quite wonderful even for Oki. There is a kind of inn for strangers at which hot water is served instead of tea, and dried beans instead of kwashi, and millet instead of rice. The absence of tea, however, is much more significant than that of rice. But the people of Beppu do not suffer for lack of proper nourishment, as their robust appearance bears witness: there are plenty of vegetables, all raised in tiny gardens which the women and children till during the absence of the boats; and there is abundance of fish. There is no Buddhist temple, but there is an ujigami.

   The shrine of the emperor is at the top of a hill called Kurokizan, at one end of the bay. The hill is covered with tall pines, and the path is very steep, so that I thought it prudent to put on straw sandals, in which one never slips. I found the shrine to be a small wooden miya, scarcely three feet high, and black with age. There were remains of other miya, much older, lying in some bushes near by. Two large stones, unhewn and without inscriptions of any sort, have been placed before the shrine. I looked into it, and saw a crumbling metal-mirror, dingy paper gohei attached to splints of bamboo, two little o-mikidokkuri, or Shinto sake-vessels of red earthenware, and one rin. There was nothing else to see, except, indeed, certain delightful glimpses of coast and peak, visible in the bursts of warm blue light which penetrated the consecrated shadow, between the trunks of the great pines.

 

   Only this humble shrine commemorates the good emperor's sojourn among the peasantry of Oki. But there is now being erected by voluntary subscription, at the little village of Gosen-goku-mura, near Yonago in Tottori, quite a handsome monument of stone to the memory of his daughter, the princess Hinako-Nai-Shinnō who died there while attempting to follow her august parent into exile. Near the place of her rest stands a famous chestnut-tree, of which this story is told:

   While the emperor's daughter was ill, she asked for chestnuts; and some were given to her. But she took only one, and bit it a little, and threw it away. It found root and became a grand tree. But all the chestnuts of that tree bear marks like the marks of little teeth; for in Japanese legend even the trees are loyal, and strive to show their loyalty in all sorts of tender dumb ways. And that tree is called Hagata-guri-no-ki, which signifies: 'The Tree-of-the-Tooth-marked-Chestnuts.'

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