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2015/12/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (1) 鷹狩その一

 

 第二十六章 鷹狩その他

 

 この前の日曜日(十二月二十四日)ドクタア・ビゲロウと私とは、黒田侯に招れて、東京の郊外にある彼の別荘へ、鷹狩の方法を見に行った。我々は八時半その家へ着き、直ちに狩番小舎ともいう可き場所へ行った。これは広い、仮小舎みたいな物で、北風を避けて太陽に開き、中央には炭火を充した大きな四角い穴があり、人々はここで手足をあたためる。そこには卓子(テーブル)と椅子とがあり、葉巻、茶菓等が置いてあった。近くにある鴨の遊域とこことの間には、電気の呼鈴がかかっている。別の部屋には召使いがおり、鷹匠達は外側に住んでいる。長い托架には、長い竿のついた奇妙な形の網がいくつもあり、一方側には数箇の区ぎりのある小さな建物があって、そこには鷹が飼ってあった。

[やぶちゃん注:「鷹狩」タカ目タカ科のイヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos・ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis・ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus や、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus などを調教し、鳥類や兎・狼・狐などの哺乳類を捕らえさせる狩猟法。ウィキの「鷹狩」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。彼らが捕えたものは用意した餌とすり替えるもので、主人の『元に運んでくるというのは俗信である』。『鷹を扱う人間は、鷹匠(たかじょう)と呼ばれる。日本語の古語においては鳥狩(とがり)』などと称し、『鷹を訓練する場所は鷹場(たかば)と称される』。『日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(三五五年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代に入ると新設の蔵人所にも鷹飼が置かれ、主鷹司が天皇の鷹狩を、蔵人所が贄調達のための鷹狩を管轄するようになる。だが、仏教の殺生禁止の思想の広まりにより鷹狩に否定的な考えが生まれて鷹の飼育や鷹狩に対する規制が取られるようになり、清和天皇は真雅や藤原良相の助言を受け入れる形で、貞観二年(八六〇年)に主鷹司の廃止と蔵人所の鷹飼の職の廃止が行われ、以降鷹の飼育に関する規制が強化された。次の陽成天皇の元慶六年(八八二年)に蔵人所の鷹飼のみ復活され、蔵人所が鷹狩を管掌する』。『奈良時代の愛好者としては大伴家持や橘奈良麻呂が知られ、平安時代においては、初期の桓武天皇、嵯峨天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(八一八年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で二番目に古い。中期以降においても、一条天皇、白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られ、源信は鷹狩の途中で事故死したと伝えられている』。『鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である』。『古代の鷹狩は仏教の殺生禁止の思想と神道における贄献上の思想(天皇についてはこれに王土王臣思想が加わる)のせめぎ合いの中で規制と緩和が繰り返されてきたが、最終的には天皇と一部貴族による特権とされるようになった。また、鷹狩の規制は鷹の飼育や狩りで生活をしてきた蝦夷の生活を圧迫し、平安時代前期の蝦夷の反乱を原因の一つになったとする見方もある』。『中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝や聖衆来迎寺六道絵の描写や『吾妻鏡』・『曽我物語』の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。東山で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことが『信長公記』に記載されている。また、朝倉教景(宗滴)は、オオタカの飼育下繁殖に成功しており、現在判明している限りでは世界最古の成功記録である(『養鷹記』)。公家及び公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿の持明院家、西園寺家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(『鷹書』)が著されている。近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉と徳川家康に解説書『龍山公鷹百首』を与えている。一方、武家においても、諏訪大社や二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、禰津流、小笠原流、宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津信直門下からは、屋代流、荒井流、吉田流などが分派した』。『戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。五代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている』。『鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は一据十両、中期では二十~三十両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった』(「据」は鷹狩用の鷹を数える際の数詞のようである。鷹は腕に「据える」ことに由来するものであろう)。『明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され』、このモースの体験の十年後の明治二五(一八九二)年の勅令『「狩猟規則」及び一八九五年の「狩猟法」で九年間免許制の下に置かれたが』、明治三四(一九〇一)年の『改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。明治天皇の意により、宮内省式部職の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、第二次世界大戦後、宮内庁による実猟は中断している』とある。

「十二月二十四日」明治一五(一八八二)十二月二十四日日曜日である(確認済)。磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二八二頁に以下のようにある。『ビゲローとともに黒田長溥(ながひろ)元福岡藩主の別荘に招待され、別荘内の大きな池で鴨猟と鷹狩を見学』。『この別荘は赤坂福吉町』(ふくよしちょう。現在の赤坂二丁目で国会議事堂の西南五百メートル強)『南部坂』(赤坂二丁目と六本木二丁目の境界にある坂道。国会議事堂の西南一キロ強)『の脇にあった、いまの衆議院議員宿舎』(国会議事堂西南八百メートル弱)のやや南に当る』(現在の六本木通りの北直近)。『こんな都心で鴨猟や鷹狩が行われていたのだ!』と磯野先生、珍しく感嘆符まで附しておられる。場所が場所だけに(といっても私は六本木通りを歩いたことはない)私も吃驚!

「黒田侯」前注の引用で判る通り、黒田長溥(文化八(一八一一)年~明治二〇(一八八七)年)。筑前福岡藩第十一代藩主(最後の藩主ではない。最後の第十二代は彼の嗣養子の黒田長知)。以下、ウィキの「黒田長溥」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。養父斉清(なりきよ)と『同じく蘭癖大名であり藩校修猷館を再興させた事で知られる幕末の名君である』。『薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。二歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという』。『文政五年(一八二二年)、第十代福岡藩主・黒田斉清の娘、純姫と婚姻。婿嗣子となり、養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を賜って黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄にあたる)』。天保五(一八三四)年十一月に『養父の隠居により、家督を相続した。就任後は実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉を建設した。次いで見込みのある藩士を積極的に出島に派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。藩士たちの一部から福岡県で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。蘭癖と称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校の創設や種痘の実施、領内での金鉱・炭鉱開発を推進したが、鉱山関連に関しては、様々な困難や妨害、当時の日本における石炭を使った産業を育成しようとしたが、当時は技術がそれほど進んでおらず道半ばであった』。『嘉永元年(一八四八年)十一月、伊勢津藩主・藤堂高猷の三男・健若(のち慶賛、長知)を養嗣子とする。嘉永三年(一八五〇年)、実家島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて、老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永らに事態の収拾を求め、翌嘉永四年(一八五一年)、その仲介につとめ、斉彬の藩主相続を決着させた』。『嘉永五年(一八五二年)十一月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年十二月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老黒田増熊が処分を受けることもなかった』。『嘉永六年(一八五三年)七月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ再度建白書を提出。この中で、蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、アメリカ・ロシアと同盟すればイギリス・フランスにも対抗し得ることなどを主張している』。『安政六年(一八五九年)には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとった事もある』。『元治元年(一八六四年)、参議となり筑前宰相と呼ばれ』た。『斉溥は斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。慶応元年(一八六五年)、藩内における過激な勤王志士を弾圧した』(乙丑(いっちゅう)の獄)。『しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にしていた』。『明治初期頃、名を長溥(ながひろ)と改めた。明治二年(一八六九年)二月五日には隠居して、養嗣子の長知に家督を譲っている。長知が岩倉使節団に随って海外留学する際に、金子堅太郎と團琢磨を出し、長知に随行させた。團は、かつて長溥が行った種痘の実験で長男を死なせた側近・神屋宅之丞の四男で、無残な結果を悔やんだ長溥の、神屋に対する詫びとしての指名だったとも言われている』。このモース来訪の三年後の明治一八(一八八五)年には『金子堅太郎の献策を採用し旧福岡藩士との協議の末、黒田家の私学・藤雲館の校舎・什器一切を寄付し、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)として再興』している。この当時、数え七十二歳。彼の経歴から、モースを招待したのも腑に落ちる。]

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