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2015/12/05

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(25)

 宮岡が泊りに来た。そしていろいろな話の間に、昔は、そして今でも迷信的な人は、人間が眠る時には、その魂がふらふら出て行くものと信じているといった。だから子供が眠る前には、彼が咽喉(のど)が渇いていようといまいと、とにかく水を一杯飲ませ、彼の魂がさまよい歩く間に咽喉を渇して、腐った水を飲むことを防ぐようにする習慣があると。

 

 私は宮岡に、彼の個人的経費について聞いた。彼の炭と油とを含む賄料は、一ケ月五ドル五十セントだとのことである。食物とては飯と野菜と魚とばかりであることは事実だが、それにしても、我国の物価にくらべると、何と安いではないか。高嶺氏の話によると、師範学校の使用人の多くは、家族を持っていながら、一日十五セントの日給で働いているそうである。

[やぶちゃん注:「宮岡」前段のみでなく、何度も出て来る既注のモースお気に入りの少年で、私的な助手兼通訳であった宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)。彼はしばしば出て来る既注の竹中成憲の実弟で、当時の「根岸の里」(現在の日暮里)の竹中家に生まれたがその後、埼玉川越の宮岡家に養子に出た。明治一五(一八八二)年年末当時は満十七歳、彼は明治二十年東京帝国大学法科大学を卒業して外交官となっているから、この当時はまだ同予備門の最終学年か。]

 

 先日箕作(みつくり)教授と一緒に大学の構内から出て来ると、小便の一人が丁寧にお辞儀をして行き過ぎた。箕作氏は、この男は一八六八年の維新までは、武士よりも高く、大名のすぐ下に位する位置にいたのだと語った。維新の結果、彼は全然食って行けなくなり、只下男の役をつとめること丈しか出来なくなった。箕作教授は、これは封建制度のある点が如何に莫迦(ばか)げているかを示すいい例であり、同時に、これ等の人々が屢々、諦めと卑下とを以て奴僕の位置につく、辛抱強い態度を示し、また金を貰ったり借りたりするよりは、働いた方がいいと思っていることを、よく現しているといった。私は、人力車夫になった武士もあるということを聞いた。勿論高級な武士でなかったことは事実だが、それにしても彼等が働くというそのことは、我々の民族間に存在する、いつわりの誇が無いことを示している。私の実験室の雑役夫は一日に二十五セントを取り、それで神さんと、音楽の稽古をしている娘一人とをやしなっている。

[やぶちゃん注:「箕作教授」二度目のモースの帰国後に東京帝国大学理科大学最初の日本人動物学教授となった箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)。津山藩藩医であった箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三男。既出の数学者で教育行政家の菊池大麓(だいろく)は兄である。江戸津山藩邸で生まれ、明治三(一八七〇)年に慶應義塾大学に入学、明治六(一八七三)年に渡米、ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、後にイェール大学からジョンズ・ホプキンス大学(この在学中の一八八〇年(明治十三年)春にモースは東大首脳から依頼されていたと思しい東大教授を箕作に勧めているが、この時点では固辞している。ここは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(二七二~二七三頁)に拠った)に転じて動物学を学んだ後、イギリスのケンブリッジ大学へ留学、帰国後に東京帝国大学理科大学に於ける日本人最初の動物学教授となり、明治二一(一八八八)年には理学博士となり、その後、東京帝国大学理科大学長を務めた。また、明治一六(一八八三)年五月からは母校慶應義塾大学に於いて理学講習会を持ち、教授もした。動物分類学・動物発生学専攻でカキ養殖・真珠養殖に助言するなど、水産事業にも貢献した(以上はウィキの「箕作佳吉」に拠る)。彼の縁者については「第十一章 六ケ月後の東京 1 モース、再来日す」の私の注で詳述してある。

「一八六八年」慶応三年十二月七日~慶応四年九月八日(「一世一元の詔」(慶応四年九月八日(グレゴリオ暦一八六八年十月二十三日)に慶応四年を改めて明治元年とするとともに天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔。「明治改元の詔」ともいう)によって慶応四年一月一日が明治元年一月一日に改元)され、旧暦慶応四年一月一日が遡って明治元年一月一日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十五日)となった。明治の初めは旧暦が使用されたために明治元年の十二月は二十九日(小の月)で終り、これはグレゴリオ暦一八六九年二月十日に相当する。旧暦から新暦への移行が布告されたのは明治五年十一月九日で(グレゴリオ暦一八七二年十二月九日)、実際移行は二十三日後の、旧暦明治五年十二月三日=グレゴリオ暦一八七三年一月一日=明治六年一月一日となった。即ち、この年の旧暦の十二月(大の月)の十二月三日から三十日までの二十七日間は、日本の公的な暦上は存在しないことになったと言える。]

 

 昨日私は、ある町を通行した。そこからは五フィート以下の小さな路地が、いくつか横に入っていて、その路地の両側には住宅が立ち並んでいる。私にはそれが如何にもむさくるしく思われ、箕作は、そここそ東京で最も下等な最も貧しい区域だといった。私はゆっくり歩いて、順々にそれぞれの路地を検査した。私は声高い叫びも、呶鳴(どな)る声も聞かず、目のただれた泥酔者も、特に不潔な子供も見なかった。そして、この細民窟(スラム)ともいう可き場所――もっともここは細民窟ではない――で、手当り次第にひろい上げた百人の子供に就て、私は彼等がニューヨークの第五街の上で手当り次第にひろい上げる百人の子供よりも、もっと丁寧で物腰はしとやかに、より自分勝手でなく、そして他人の感情を思いやることが遙かに深いと敢ていう。

[やぶちゃん注:「五フィート」約一・五メートル。

「ニューヨークの第五街」ニューヨークの裕福さのシンボルで、永く世界で最も賃貸料の高い通りの一つとされるマンハッタン中央五番街“5th Avenue”(フィフス・アヴェニュー)のこと。]

 

 日本で生活していた間に、私はたった一度しか往来での喧嘩を見なかったが、それのやり方と環境とが如何にも珍しいので、私は例の如く、それを米国に於る同様のものと比較した。我国の往来喧嘩を記述する必要はあるまい。誰でも知っている通り、老幼が集って環をなし、興奮した興味を以て格闘を見つめ、ぶん撲れば感心し、喧嘩が終るか、巡査が干渉するかすれば、残念そうに四散する。日本の喧嘩では、二人が単に頭髪の引張り合いをする丈であった! 見物人は私一人。他の人々はいずれもこのような不行儀さに、嫌厭の情か恐怖かを示し、喧嘩している二人は、人々が事実避けて行くので、広い場所を占領していた。

 

 都会の家はたいてい瓦葺きだが、杮(こけら)葺きの家も多く、一歩出ると藁葺きの屋根も沢山ある。屋根が燃えやすいので、東京では大火事が度々ある。柿板はトランプの札みたいに薄く、藁葺屋根は火薬のように火を引きやすい。

[やぶちゃん注:「杮葺」は日本古来の伝統的な屋根葺手法の一つで、木材の薄板を用いて施工する板葺屋根のこと。狭義のそれは最も薄く、板の厚さは二~三ミリメートルの杮板(こけらいた)を用いたもののみに冠する(板厚が四~七ミリメートルのものは「木賊葺(とくさぶき)」、更に厚い十~三十ミリメートルのものは「栩葺(とちぶき)」と呼ぶ。)。因みに「杮(こけら)」と「柿(かき)」は全くの別字であるので注意されたい(私の教えて来た時代の高校生諸君は書道を習っていない者の殆んどが、「杮落とし」(こけらおとし)の「杮」を書かせると、「柿」(かき)の字と同じように書き、しかも同じ字であると思い込んでいる者が多数いたので、ここで特に注しておきたい)。「杮」(こけら)の字の方は(つくり)が「市」(いち)の字ではなく、「市(いち)」の一画目に相当する点が点ではなく、字全体を縦に貫く縱画なのである(「杮」(こけら)の書き順では最後の第八画目に相当する)。これに対し、「柿」(かき)では第五画目の点と最終九画目のその第五画の点から下へ提げる縦画の二箇所から(つくり)の縦状箇所を形成している。即ち、「杮」(こけら)は総画数八画、「柿」(かき)は総画数九画とで、画数も異なるのである。]

 

 私は数回柏木氏を訪れたが、今日はドクタア・ビゲロウと一緒に行った。彼は蒐集中の古い漆器の箱に、大きに興味を持った。はじめて土蔵の二階へ行って見たが、そこには時代のついた箱や、戸棚やその他の品が、一杯つまっていた。柏木氏は私が日本であった最も気持のいい人の一人である。彼はある質問に対しては、彼がそのことを知らぬというのを恐れず、また蜷川が何物にも正確な年代を与えようとつとめることに、賛成しない。柏木氏は古物に関する知識をすこぶる豊富に持っていて、先日懸物(かけもの)の上部から下っている二本の錦繡の帯に就て、最も合理的な説明をしてくれた。以前懸物は宗教的な意味を持っていた。それをかける時には、枠によって支持し、長い帯が後方にたれ、短い帯は前方にたらした。そしてまく時には、これ等の帯でしばったのである。社寺はあけっばなしで風が吹き通すから、懸物も枠から外すことなしにまかなくてはならなかった。今日懸物をまくには、それを取り外し、そして常に入れて仕舞っておく。彼は同じような帯で慢幕をしぼり上げた絵の入っている、古い本を私に見せた。長い帯は無くなったが、前面の短い帯は、上衣の後にある釦と同じように残っている。この説明が正確であることの証拠として、これ等の帯は「ふうたい」とも「かぜおび」ともいわれる。後者は風の帯を意味する。

[やぶちゃん注:掛軸の各部名称については、古美術商「高美堂」公式サイト内の掛軸各部名称取り扱い 掛軸のかけ方・しまい方・保管方法・取り扱いが画像付きで非常に分かり易い。

「錦繡」「きんしゅう」美しい錦(にしき)と刺繡(ししゆう)を施した美しい織物。「綾羅(りょうら)錦繡」(「綾」は綾絹(あやぎぬ)・「羅」は薄絹・「錦」は錦(にしき)・「繡」は刺繡を施した織物を指し、孰れも高貴な人が着る美しい衣服の素材)の四字熟語で用いることが多い。なお、美麗な衣服全体をも指し、また、紅葉や詩文の美しさの比喩形容にも用いる)。]

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