フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 1月1日電子テクスト公開予約完了 | トップページ | 梅崎春生「いなびかり」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約 »

2015/12/21

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (一)

 第二十七章 サヤウナラ

  

         一

 

 自分は去らうとして居る、――遙か遠くへ。教師としての地位は既に辭して、今はただ旅券を待つて居るのである。

 親しい顏が隨分多く此世から消えて行つたから、此地を去るのを遺憾に思ふ念は、六ケ月前に感じたであらうよりも今は少い。とは言ふものゝ、この古い雅致のある町は慣習と聯想とで自分に如何にも懷(なつか)しいものになつて居るから、二度とまた此町を見ぬのだとの考は自分はそれを頭に浮べることをようし得ない程である。自分は蔭多い北堀町にあるこの美しい古い家へいつか歸ることがあるかも知れぬと努めて信じようとして居る。過去の經驗に依ると、さういふ想像は永遠の別離の前にいつも出て來たものだといふことを始終痛ましくも承知してゐながら。

 事實は、一切の事物がこの神の國では永久のものでは無いといふ事、寒さが酷烈であるといふ事、遙か南の、降雪の稀な、九州の大きな官立學校から招聘を受けて居るといふ事である。その上に自分は餘程身體を傷めて居た。それでもつと温暖な氣候の處といふ前途の望が自分の決心を形つくるのに大なる力があつたのである。

 

 ところが名殘の昨今四五日は極めて嬉しい不意の出來事に充ちて居る。己が義務の履行に對しての單純な滿足以上のことを期待する權利が無い處に感謝の意外の示現を見る事、ただ厚意の存するあるのみと想つて居る處に愛情を見出す事、――これは確に非常に氣持の好い經驗である。

 兩校の教師が自分に餞別を呉れた。淡紅色の妙な蟹が這うて居る磯邊へ垂れ下つて居る花盛の樹と、鳥と描いた模樣が一面にある、高さ三呎許りの、素ばらしく見事な花瓶一對――昔の封建時代の樂山(らくざん)で造つた花瓶――出雲の絶好の記念品である。この驚嘆すべき花瓶に添へて贈呈者三十二人の氏名を漢字で書いた卷物があつた。その三十二人のうち三人は婦人の――師範學校の三人の女教師の――名である。

 ジンジヤウチユウガクカウの生徒も亦自分に贈物を――松江に於ける自分の最も幸福な多くの記憶への二百五十一名の生徒の最後の貢獻を――して呉れた。それはダイミヨウ時代の日本刀である。出雲の黃金の眼を有つた銀のカラシシ――神道の獅子――がその深紅の朱漆塗の鞘の上に群れて居り、またその巧妙な欛のあたりに腹這うて居る。そしてその美しい品物を自分の家へ持つて來た委員が、昔の慣習に從つて、生徒が自分に別を告げる爲め皆んな待つて居る學校の講堂へ直ぐに一緒に來て呉れと自分に乞うた。

 そこで自分はそれへ行つた。互に述べた事は次に書き記す。

 

[やぶちゃん注:既注の通り、ハーンは明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも、実は異人の妻となったセツに対する心ない噂なども理由の一つとしてはあった)として熊本第五高等学校(現在の熊本大学)に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、

 明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時

(大橋西桟橋より汽船にて出発)であったことが判っている。松江でのハーンの生活は、僅か凡そ十四ヶ月と半月で終わった。因みに、それ直前のデータも同リンク先より示しておくと、前月の、

 十月  八日 盟友で松江中学校教頭心得の西田千太郎に熊本への転任の決意を報告。

 十月二十六日 中学校で最後の授業を行う。

十一月  十日 中原倶楽部で送別会。

とある(「中原倶楽部」は不詳。「中原」な松江城の南西の宍道湖に近い松江市中原町の地名で、そこの料亭か何かか?)。

「旅券」内国旅券。外国人滞在者で私的な旅行ではなく、就労目的の長期の転居であり、しかもハーンの場合、今までは地方県立中学校の一外国人英語教師であったものが、文部省管轄の官立高等中学校の教授職となるのであるから、新たな旅券、現在でいう査証(ビザ)に相当するパスポートを再発行して貰う必要があったものであろう。
 
「北堀町」「第十六章 日本の庭(一)」及び私の注を参照されたい。ハーンがこの偏愛した武家屋敷(現地では「甲冑(かちゅう)屋敷」と呼ぶ。ここで生徒が来訪するのも無論、ここ)に移ったのは、明治二十四年の六月二十二日(大澤隆幸氏「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」に拠る)のことであった。この本文ばかりでなく、かの「第十六章 日本の庭」で偏愛したこの屋敷には、実は半年ばかりしかハーンは住まなかったのであった。

「この神の國」松江(及び杵築から出雲(島根)全体)を一応、指す。

「一切の事物がこの神の國では永久のものでは無いといふ事」原文は“The facts are that all things are impermanent in the Province of the Gods;”一見、仏教の無常観の表明のように読めるのだが、これは以下の並列理由から見て、平井呈一氏の『正直のはなし、この神々の国』の都松江『では、すべてのことが永続きしないこと』といった訳でいいのではあるまいか? 『永続きしない』はハーン自身の行動や信念、他者のハーンやセツに対する認識や受け入れ方というプラグマティクなニュアンスを私は強く感ずるからである。ただ、それを「無常」のオブラートに包んでなるべく見えぬようにするという意識(というか、松江の愛すべき人々への気配り)は働いているようには読める。

「九州の大きな官立學校から招聘を受けて居る」当時の校長は、かの「柔道の父」と呼ばれる柔道家で教育家であった嘉納治五郎(万延元(一八六〇)年昭和一三(一九三八)年)であった。嘉納は柔道の達人であったばかりでなく、教育者としても尽力しており、明治一五(一八八二)年から学習院教頭、明治二〇(一八八七)年には前章で最後に出た井上円了が開いた哲学館(現在の東洋大学の前身)で講師となって倫理学科目を担当、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆している。明治二四(一八九一)年に第五高等中学第三代校長に就任した。後、明治二六(一八九三)年からは通算二十五年間ほどに亙って東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長並びに東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務め、文部省参事官・普通学務局長・宮内省御用掛なども兼務した。一方で明治一五(一八八二)年に英語学校「弘文館」を南神保町に創立したり、明治二九(一八九六)年には清国からの中国人留学生の受け入れに努め始め、明治三二(一八九九)年に牛込にその受け入れ先としての教育機関「弘文学院」(校長は松本亀次郎)を開いている。ここでは後の文学革命の旗手となった魯迅が学び、治五郎に師事した(以上は主にウィキの「嘉納治五郎」に拠った)。ハーンはここでこう述べているが、幾つかの資料を見たが、嘉納治五郎側からハーンに積極的なアプローチあった事実は確認出来ないでいる。識者の御教授を乞うものである。

「兩校」県立島根県尋常中学校松江中学校(改称は明治一九(一八八六)年。現在の島根県立松江北高等学校)及び島根県立松江師範学校(改称は明治九(一八七六)年十月。県立島根大学教育学部の前身)。既に見てきた通り、ハーンは師範学校でも数時間(第十九章 英語教師の日記から(二)には『四時間』とある)の授業を受け持っていた。

「三呎」九一・四センチメートル。

「樂山で造つた花瓶」楽山焼(「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(三十四)の私の「其處で出來る光つた黃色い陶器」の注を参照)である。

(らくざん)――出雲の絶好の記念品である。この驚嘆すべき花瓶に添へて贈呈者三十二人の氏名を漢字で書いた卷物があつた。その三十二人のうち三人は婦人の――師範學校の三人の女教師の――名である。

「二百五十一名の生徒」当時の尋常中学校は五年生であるから一学年五十人前後か。

「欛」「つか」と読む。柄(つか)に同じい。]

 

 

ⅩⅩⅦ

SAYŌNARA!

.

   I am going away, very far away. I have already resigned my post as teacher, and am waiting only for my passport.

   So many familiar faces have vanished that I feel now less regret at leaving than I should have felt six months ago. And nevertheless, the quaint old city has become so endeared to me by habit and association that the thought of never seeing it again is one I do not venture to dwell upon. I have been trying to persuade myself that some day I may return to this charming old house, in shadowy Kitaborimachi, though all the while painfully aware that in past experience such imaginations invariably preceded perpetual separation.

   The facts are that all things are impermanent in the Province of the Gods; that the winters are very severe; and that I have received a call from the great Government college in Kyūshū far south, where snow rarely falls. Also I have been very sick; and the prospect of a milder climate had much influence in shaping my decision.

 

   But these few days of farewells have been full of charming surprises. To have the revelation of gratitude where you had no right to expect more than plain satisfaction with your performance of duty; to find affection where you supposed only good-will to exist: these are assuredly delicious experiences.

   The teachers of both schools have sent me a farewell gift, a superb pair of vases nearly three feet high, covered with designs representing birds, and flowering-trees overhanging a slope of beach where funny pink crabs are running about, vases made in the old feudal days at Rakuzan, rare souvenirs of Izumo. With the wonderful vases came a scroll bearing in Chinese text the names of the thirty-two donors; and three of these are names of ladies, the three lady-teachers of the Normal School.

   The students of the Jinjō-Chūgakkō have also sent me a present, the last contribution of two hundred and fifty-one pupils to my happiest memories of Matsue: a Japanese sword of the time of the daimyo. Silver karashishi with eyes of gold in Izumo, the Lions of Shintō swarm over the crimson lacquer of the sheath, and sprawl about the exquisite hilt. And the committee who brought the beautiful thing to my house requested me to accompany them forthwith to the college assembly-room, where the students were all waiting to bid me good-bye, after the old-time custom.

   So I went there. And the things which we said to each other are hereafter set down.

« 1月1日電子テクスト公開予約完了 | トップページ | 梅崎春生「いなびかり」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約 »