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2015/12/10

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十)

       三〇

 

 自分は流罪になられた後鳥羽天皇の御墓參りをしようと思つて、菱浦から中の島の海士村へ船で行つた。途中の景色は美くしく、また自分が初めてこの群島を通り拔けた時に見たよりも輪廓が和らかであつた。海の中から突つ立つて居る小さな岩礁には海鷗や鵬が悲鵜が一杯に止つて居た。それが、櫂の長さも距離の無いくらゐ近く寄つても、船を殆んど何んとも思つて居なかつた。野育ちの禽獸が斯く人を恐れぬといふことは、獵銃を携へた觀光客がまだ訪はない、日本の斯んな僻遠の地を旅しての、一番氣持のいゝ印象の一つである。日本での初期の歐羅巴及び亞米利加の狩獵者は、單に物を殺すといふ我儘勝手な快樂の爲めに生き物を殺して、彼等が『獵鳥獵獸(ゲエム)』だと考へて居る物を其處いら中から絶滅するのに何等の困雖を見出さず、また何等悔恨の念を感じなかつたやうである。その手本を『靑年日本』が今や眞似しつゝあるので、鳥類の絶滅は狩獵法でやつと不完全に阻止されて居るのである。幸ひにも政府は或る種の狩獵不穩を防止する爲め干渉を爲して居る。燕が日本の家の中で巣を作る習慣に眼を留めた或る畜生共が、昨年、何千羽といふ燕の皮をば誘惑的な代價で買ひ求めようと申出た。その廣告の效果は頗る殘酷なものであつた。が、警官はその殺害を止めるやうに早速通牒を受け、それを實行した。それと殆んど同じ頃、横濱の或る洋字新聞紙上に、ある『改宗した』漁師が、その漁師の仲間で佛教を信じて居る者共が生命を助けてやれと賴んだのに、龜を一匹殺せと外國人傳道者に勸められて殺したことをば、基督教感念の勝利だと公言してある、聖職に在る或る人からの手紙が載つて居た。

 

 海士村は、極めて小さな村で、海から一聯の小丘に至る間の狹い野原の稻田の中に在る。上陸場から村まで約一哩の四分の一。それへ通じて居る狹い路は、村のはづれの處で、松の木に蔽はれた小山の裾を廻る。その小山に中々美くしい神社がある。小さくはあるが見事な建築で、石段と石敷きの歩道とを通つて行け達せられるのである。例の石の唐獅子と燈籠とがあり、社前には紙と女の髮毛との普通な簡單な供物がある。ところがその奉納物のうちに、今迄出雲で見たことの無い妙な物があるのに氣が付いた。それは竹で器用に造つた、綱も竿もちやんと附いて居る小さな小さな井戸釣瓶であつた。百姓が雨乞をする時かういふのを此神社へ持つて來るのだと船頭が言つた。そこの神樣は諏訪大明神といふのであつた。

 後鳥羽天皇が長者助九郎の屋敷にお住居になつて居たと稱せられて居るのは、この諏訪大明神が其處の氏神であるらしく思へる隣村であつた。助九郎の屋敷は殘つて居て、今なほその長者の後裔の所有(もの)であるが、その後裔なるものは頗る貧乏になつて居る。流罪になられた天皇が御使用になつたといふ茶碗や、此家族が保存して居るといふ御滯在の他の記念品を拜見したいと自分は乞うた。が、家に病人があつたが爲めその家へ入れて貰ふことは出來なかつた。そこでその家の庭を――一つの名所になつて居る、有名な池のある庭を――一瞥しただけであつた。

 池は助九郎ノ池と呼ばれて居る。そして七百年の間その池の蛙が鳴くのを耳にしたものは無いといふ話である。

 といふ理由(わけ)は、後鳥羽天皇が或る夜その池の蛙が鳴くので御眠になれなかつたので、起きて外へ御出ましになつて『だまれ』と御命じになつた。そこでその蛙は今日に至るまで幾世紀の久しき、依然として無言で居るのである。

 池の近くにその當時大きな松の木が一本あつた。風の夜のその颯々の音が天皇の安眠を擾したてまつつた。そこで天皇はその松の木に向つて『靜かにせよ』と仰せになつた。その爲めそれからといふもの、その木は一度も颯々の音を立てない、暴風の折にも【譯者註】。

 

    譯者註。增鏡に「潮風のいとこちた

    く吹き來るを聞こしめして『我こそ

    はにひしまもりよおきの海のあらき

    なみ風心して吹け』。『同じ世にまた

    すみのえの月や見ん今日こそよそに

    おきの島守」年もかへりぬ。所所

    浦々あはれなる事をのみ思しなげく』

    とある。

 

 だがその木は無くなつて居る。殘つて居るものとしはその木材と皮との破片少しだけで、それに隱岐の古老が遺物として大切に保存して居る。その破片の一つを自分は西郷の醫者の――他の處でその人の親切に就いて自分が述べたあの醫者の――客間の床で見せて貰つた。

 

 天皇の御墓は村から歩いて十分許りの距離にある小山の山腹に在るのである。松江の月照寺の壯大な古い庭にある松平家の墳墓の一番小さなものよりも、壯大といふ點に於て遙かに劣つては居るが、恐らくは貧乏な小さな隱岐の國が提供し得る最上のものであつたらう。だが、これは御墓の本來の在り場所では無い【譯者註】ので、明治六年に勅命によつて現今の位置へ移轉されたのである。

 

    譯者註。御墓はもと此處にあつたの

    である。明治六年御遺骨を攝津國水

    無瀨宮に遷され、今に此處は御火葬

    場址と稱せられ居る。

 

黒く塗つた高い塀が、いや塀といふよりか太い杙の柵が、長さ百五十呎、幅五十呎許りの三段の平地に、即ち三段の低い臺地(テレエス)に、なつて居る地面を取圍んで居る。その中は松の木で暗くなつて居る。この小さな最後の一番高い臺地の中央に御墓はあるので、水平に置いてある灰色の大きな平たい一枚石である。臺地から臺地へ石階を三四段登るので、門から御墓まで石敷の狹い歩道がついて居る。その門口、これは一年にたつた一度參詣者に開くのであるが、その門口を少し入つた處に御墓に面して鳥居が一つあつて、一番上の臺地の前に石燈籠が一對ある。總じて頗る質素である。が、一種の感銘を與へる力を有つて居る。其處の靜けさを破るものはたゞ蟬の疳高い吟叫びと、あの奇妙な小さな蟲の――その啼聲は巫女がその神舞(かみまひ)に打ち振る小さな鈴のチリンチリンといふ音と丁度同じな鈴蟲の――リンリン響く音とだけである。

 

[やぶちゃん注:「後鳥羽天皇の御墓」既注

「獵鳥獵獸(ゲエム)」の「ゲエム」は「獵鳥獵獸」のルビ。

「狩獵法」ハーンが指すのは「野生生物保護法の制定をめざす全国ネットワーク」内の「鳥獣法制度の変遷表」及び「日本野鳥の会」公式サイト内の「鳥獣保護法の歴史」によれば、明治六(一八七三)年の「鳥獣猟規則」が最初とされるが、これは規制対象を銃猟にのみ限定したもので、単に銃猟を免許鑑札制として職猟と遊猟とに区分、可猟地域・狩猟期間・猟法の制限等を記しただけの極めてお粗末なものであって、これではハーンの「不完全」どころの騒ぎではない。そこでさらに見てみると、ハーンがまさに隠岐へ赴いた、即ち、本書公刊の前年である明治二五(一八九二)年に「狩猟規則」なるものが発せられており、そこでは、ツル各種・ツバメ各種・ヒバリ・シジュウカラ・ホトトギス・キツツキ・ムクドリなどが「保護鳥獣」として指定されている。但し、このスタンスは、これらの『一部の例外を除いて』野鳥は『原則狩猟していい』(後者リンク先より引用)というやはり「不完全な」狩猟天国であったのであった(下線やぶちゃん)。その後、明治二八(一八九五)年の旧「狩猟法」によって初めて鳥獣類保護が正式に法制化、その後の大正七(一九一八)年に施行して改正が続けられて現在に至る「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」と、平成四(一九九二)年に制定された「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」の両輪で鳥獣類の保護は一応、図られてはいる。ただ、ウィキの「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」によれば、昭和三八(一九六三)年の「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」の改正時になって初めてこれまでの「狩猟の適正化」という文々に加えて、『「鳥獣の保護」の精神も法律に反映された』とあるから、ハーンの憂鬱が形の上でも晴れるのには、まだ七十年以上が必要であったのであった。

「燕が日本の家の中で巣を作る習慣に眼を留めた或る畜生共が、昨年、何千羽といふ燕の皮をば誘惑的な代價で買ひ求めようと申出た」私は未だ嘗て燕の羽や羽毛を用いた工芸品と言うのを見たことがない(あってもおかしくはないとは思う)。御存じの方は、是非、御教授を乞うものである。

「龜を一匹殺せと外國人傳道者に勸められて殺した」この原記事を見たい。何故なら――何故にこの「外國人傳道者」は「龜」(淡水産のカメなのか? 海産のウミガメか?)を「一匹殺せと」「漁師」(漁師とは川漁・海漁孰れの漁師か?)に「勸め」、そして遂にその漁師がどのような具体的方法によって「殺した」のか?――といったあらゆる細部が判らず、シチュエーション自体が容易に想起出来ないからである。何らかの理由によって――子供の悪戯か大人(その漁師の)の悪意か或いはその漁師の漁の最中に起ったたまたま偶然の事故かによって死にかけて苦しんでいるところの息絶え絶えのカメを、見るに絶えず、「救ッテオ上ゲナサイ!」と懇願した外国人宣教師のそれに、仏教の殺生戒から必要以上の殺生を嫌うであろうはずの漁師が、多くの漁師が龍宮の使いと信ずるところの亀を、「確かに可哀想じゃ」と思うて、命を断ったとするなら、そのシークエンスの印象はかなり違うものとして解釈出来るからである。原資料をご存じの方は是非、御紹介下されたい。

「一哩の四分の一」凡そ四百メートル。

「諏訪大明神」長野県の諏訪湖近くの諏訪大社を総本社とする諏訪信仰の祭祀神社。諏訪大社の祭神諏訪大明神は大国主の御子神とされる建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受けるが、これは諏訪大社の山神としての性格を表している(ここはウィキの「諏訪神社」に拠った)。因みにこの直近、ハーンが上陸した海岸のある湾は諏訪湾と言う。

「長者助九郎」既注

「池は助九郎ノ池と呼ばれて居る。そして七百年の間その池の蛙が鳴くのを耳にしたものは無いといふ話である」「といふ理由は、後鳥羽天皇が或る夜その池の蛙が鳴くので御眠になれなかつたので、起きて外へ御出ましになつて『だまれ』と御命じになつた。そこでその蛙は今日に至るまで幾世紀の久しき、依然として無言で居るのである」「池の近くにその當時大きな松の木が一本あつた。風の夜のその颯々の音が天皇の安眠を擾したてまつつた。そこで天皇はその松の木に向つて『靜かにせよ』と仰せになつた。その爲めそれからといふもの、その木は一度も颯々の音を立てない、暴風の折にも」この前者の池は現在、「勝田の池」と呼ばれており、火葬塚の上方に治定されている後鳥羽上皇行在所(旧源福寺跡。源福寺は大伽藍の寺院であったが、明治二(一八六九)年の廃仏毀釈によって完膚なきまでに焼き尽くされてしまった)脇にある。「勝田」は、この行在所のあった小さな丘を「勝田山」或いは「苅田山」のに由来し、以下の和歌でも「勝田」ではなく「苅田」と表記するものも多い。呉羽長氏の論文「後烏羽院在隠岐詠歌伝説の構造」(PDF)では、『近世において島側の後鳥羽院をめぐる話を採録した文献・資料』の中でも『後鳥羽院の在島詠歌伝説を網羅的に記述している』とされる「増補補隠州記」(松岡長政著?・貞享二(一六八五)年刊)に(恣意的に漢字を正字化し、読みを附した)を引用されておられるが、その中に、

   *

蛙(かはづ)の聲、松風ノ音を聞召(きこしめし)、侘(わび)て、

 蛙なく勝田の池の夕たたみ聞(きか)ましものハ松風の音

それより勝田池に蛙ありて、今も鳴(なく)事なし、松風の音も吟(ぎん)敷(しく)なかりしとなり

   *

本首の「夕たたみ」は「夕涼(ゆふすず)み」の誤記とも言われるが、私は、夕暮れ時に「畳(たた)む」(の連用形と採る)ように五月蠅く蛙の鳴いている様子としたい。この本文の「吟(ぎん)敷(しく)なかりし」の「敷(しく)」は自動詞カ行四段活用の「頻(し)く」で、ハーンの言うところの「暴風の折」りであっても、松は五月蠅くしきりには松籟を鳴らすことはなくなった、の謂いであろう。無論、孰れも後鳥羽院の悲愁を察して、である。

「增鏡に……」以下の訳者(推定田部隆次氏)の引用は、南北朝期に成立した歴史物語「増鏡」(作者は二条良基などが候補として挙げられているが不詳)の東京帝国大学資料編纂所所蔵本を底本とした和田英松校訂「増鏡」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)では、「上」の「第二 新島もり」に載る。「住のえ」は「住江」で摂津の歌枕。現在の大阪市住吉区の和歌の神として崇敬される住吉大社附近の入り江。以下に整序した読み易い形で、ここまで本文と注で出した、後鳥羽院の詠歌を掲げてその哀感を孕んだ伝説に共時しておきたい。

 

 蛙(かはづ)なく勝田の池の夕だたみ聞かましものは松風の音

 

 われこそは新(にひ)島守よ隱岐の海のあらき波風心して吹け

 

 同じ世にまた住(すみ)の江の月や見む今日こそよそに隱岐の島守

 

「西郷の醫者の――他の處でその人の親切に就いて自分が述べたあの醫者」「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(十五)参照。

「松江の月照寺」ハーン遺愛の寺。既注

「明治六年」西暦一八七三年。この年、明治天皇の命により、後鳥羽院の遺骨は大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に合祀されました。翌七年に祀殿は取り壊され、山陵はその後、後鳥羽天皇御火葬塚として宮内庁で管理されるようになった。

「百五十呎」四十五・七二メートル。

「五十呎」十五・二四メートル。

「臺地(テレエス)」「テレエス」はルビ。原文の複数形“terraces”“terrace”は「台地・高台」や地質学上の「段丘」、そしてお馴染みの「家に接して庭などに設けたテラス」のこと。これは実は元はフランス語の古語の「盛り上がった土」に由来する語である。従って強いて音写するなら「テラス」でも「テレエス」でもなく、「テェルレェス」であろう。

「その門口、これは一年にたつた一度參詣者に開く」私は参詣したが、門を迂回した記憶がない。私の思い違いか? 識者の御教授を乞う。]

 

 

ⅩⅩⅩ.

   I went by boat from Hishi-ura to Amamura, in Nakanoshima, to visit the tomb of the exiled Emperor Go-Toba. The scenery along the way was beautiful, and of softer outline than I had seen on my first passage through the archipelago. Small rocks rising from the water were covered with sea-gulls and cormorants, which scarcely took any notice of the boat, even when we came almost within an oar's length. This fearlessness of wild creatures is one of the most charming impressions of travel in these remoter parts of Japan, yet unvisited by tourists with shotguns. The early European and American hunters in Japan seem to have found no difficulty and felt no compunction in exterminating what they considered 'game' over whole districts, destroying life merely for the wanton pleasure of destruction. Their example is being imitated now by 'Young Japan,' and the destruction of bird life is only imperfectly checked by game laws. Happily, the Government does interfere sometimes to check particular forms of the hunting vice. Some brutes who had observed the habits of swallows to make their nests in Japanese houses, last year offered to purchase some thousands of swallow-skins at a tempting price. The effect of the advertisement was cruel enough; but the police were promptly notified to stop the murdering, which they did. About the same time, in one of the Yokohama papers, there appeared a letter from some holy person announcing, as a triumph of Christian sentiment, that a 'converted' fisherman had been persuaded by foreign proselytisers to kill a turtle, which his Buddhist comrades had vainly begged him to spare.

 

   Amarnura, a very small village, lies in a narrow plain of rice-fields extending from the sea to a range of low hills. From the landing-place to the village is about a quarter of a mile. The narrow path leading to it passes round the base of a small hill, covered with pines, on the outskirts of the village. There is quite a handsome Shintō temple on the hill, small, but admirably constructed, approached by stone steps and a paved walk. There are the usual lions and lamps of stone, and the ordinary simple offerings of paper and women's hair before the shrine. But I saw among the ex-voto a number of curious things which I had never seen in Izumo,— tiny miniature buckets, well-buckets, with rope and pole complete, neatly fashioned out of bamboo. The boatman said that farmers bring these to the shrine when praying for rain. The deity was called Suwa- Dai-Myōjin.

   It was at the neighboring village, of which Suwa-Dai-Myōjin seems to be the ujigami, that the Emperor Go-Toba is said to have dwelt, in the house of the Chōja Shikekurō. The Shikekurō homestead remains, and still belongs to the Chōja's descendants, but they have become very poor. I asked permission to see the cups from which the exiled emperor drank, and other relics of his stay said to be preserved by the family; but in consequence of illness in the house I could not be received. So I had only a glimpse of the garden, where there is a celebrated pond,— a kembutsu.

   The pond is called Shikekurō's Pond,— Shikekurō-no-ike. And for seven hundred years, 'tis said, the frogs of that pond have never been heard to croak.

   For the Emperor Go-Toba, having one night been kept awake by the croaking of the frogs in that pond, arose and went out and commanded them, saying: 'Be silent!' Wherefore they have remained silent through all the centuries even unto this day.

   Near the pond there was in that time a great pine-tree, of which the rustling upon windy nights disturbed the emperor's rest. And he spoke to the pine-tree, and said to it: 'Be still!' And never thereafter was that tree heard to rustle, even in time of storms.

   But that tree has ceased to be. Nothing remains of it but a few fragments of its wood and hark, which are carefully preserved as relics by the ancients of Oki. Such a fragment was shown to me in the toko of the guest chamber of the dwelling of a physician of Saigo,— the same gentleman whose kindness I have related elsewhere.

 

   The tomb of the emperor lies on the slope of a low hill, at a distance of about ten minutes' walk from the village. It is far less imposing than the least of the tombs of the Matsudaira at Matsue, in the grand old courts of Gesshōji; but it was perhaps the best which the poor little country of Oki could furnish. This is not, however, the original place of the tomb, which was moved by imperial order in the sixth year of Meiji to its present site. A lofty fence, or rather stockade of heavy wooden posts, painted black, incloses a piece of ground perhaps one hundred and fifty feet long, by about fifty broad, and graded into three levels, or low terraces. All the space within is shaded by pines. In the centre of the last and highest of the little terraces the tomb is placed: a single large slab of grey rock laid horizontally. A narrow paved walk leads from the gate to the tomb; ascending each terrace by three or four stone steps. A little within this gateway, which is opened to visitors only once a year, there is a torii facing the sepulchre; and before the highest terrace there are a pair of stone lamps. All this is severely simple, but effective in a certain touching way. The country stillness is broken only by the shrilling of the semi and the tintinnabulation of that strange little insect, the suzumushi, whose calling sounds just like the tinkling of the tiny bells which are shaken by the miko in her sacred dance.

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