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2016/01/30

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(4) 家族の宗教(Ⅰ)

[やぶちゃん注:長いので、注は各段落の後に配した。英文は最後に纏めて置く。これは以下に続く章でも同様とする。 

 

  家庭の宗教 

 

 宗教上の發展、竝びに社會發展の、大體の徑路には、祖先禮拜の三期が劃され、その各期は一々日本社會の歷史の内に説明されて居る。第一期は一定の文化の成立前、まだ一國の統治者もなく、社會の單位は大きな族長を主とする一族であり、その長者若しくは戰爭の將軍を主君として居た時期である。かくの如き事情の下にあつては、一族の祖先の靈のみが祭られて居た――各一族はその一族の死者を奉祭し、その他の禮拜の形は一切認めなかつたのである。族長を主とする幾多の家族が一緒になつて、部族的氏族を作るに至ると、その氏族の統治者の靈に部族の供御をする習慣が出來て來る――この禮拜が家族の禮拜に加へられ、ここに祖先禮拜の第二期が劃される。最後になつて一人の最高の主長の下に、すべての氏族若しくは部族が統一されると、一國の統治者の靈を奉祭する習慣が出來てくる。この第三の禮拜の形式が、國の當然まもるべき宗教となる、併しこの形式も以前の二つの禮拜に取つて代はるといふのではない、三種の形式は一緒に存立して居るのである。

 吾々の現在の知識の狀態では、日本に於ける祖先禮拜の此三期の發展は、明らかにその跡を辿る事は出來ないが、色々の記錄に依つて、禮拜の永續的な形式が、先づ古い葬式から發達して來たものであるといふ事を、吾々はかなり十分に推斷する事が出來る。古い日本の葬式の習慣と、古いヨオロッパのそれとの間には、大變な相違がある――この相違は日本に關して、其遙かに原始的な社會狀態にあつた事を示すものである。ギリシヤに於ても、イタリヤに於ても、一族の死者は、これを其一族の所有地内に葬るといふのが古い習慣であつた、それで財産に關するギリシヤ、ロオマの法律も、此習慣から出來てきたのである。時には死者は家のすぐ近くに葬られた。『上古都市論』の著者は、此問題に關する古い記錄の中に、ユウリピディスの書いたへレンの悲劇の内から興味ある祈願を引用して居る『喜ばしき哉、吾が父の墳墓よ、吾は幾度も御身に接し得んが爲めに、御身プロテイウスを、人々の過ぎ行く處に葬れり、されば吾が出入する毎に御身の子なる吾セオクリメヌスは、父なる御身を訪るゝなり……』と。然るに古の日本に於では、人々は死の近傍から逃れ去つた即ち一時若しくは恆久的に死人のあつた家を棄てるといふのが永い間の習慣であつて、いづれの時代にあつても、死者を一家の生き殘つて居る人々の居住の近くに葬る事を以つて、好ましいと考へたとは殆ど想像し得られない。日本の或る信賴すべき説に依ると、極古い時代に於ては埋葬といふ事はなかつた、屍はただ寂寞の地に運び去られ、其處で鳥獸の爲すがままに放棄されて居たのだといふ。それは兎に角として、それには埋葬の風が成立して居た時代にあつた古い葬式――異樣にして不思議な、そして一定した文化の慣習とは、何等共通なる所のないその儀式に關する確實な文書上の證明がある。家族の住處は、最初一時的でなく、恆久に死者のものとし棄てられてしまつたと信ずべき理由がある、そして住處はその構造の極めて簡單な木造の小舍であつたといふ事實から考ヘると、以上の想像は必らずしも出來ない事ではない。兎に角屍は喪期と稱する一定の時期の間、その人の死んで今や棄てられて居る家か、若しくは特にその目的の爲めに建てられた小舍の内に置かれたのである、そしてその喪期の間、飮食物の供御が死者の前に置かれ、屋外で儀式が營まれたのである。その儀式の一は死者を讃美した詩の朗讀であつた、――その詩を誄(しのびごと)と呼んだ。笛、太鼓の音樂及び舞踊もあつた、夜になると家の前に篝火がたかれた。以上の事が一定の喪期の間――或る典據に依ると八日であるが、また十四日といふものもある――執り行はれた後、屍は葬られるのであつた。この棄てられた家は、それから以後祖先を祭る社、若しくは靈屋となるといふのもあり得る事である――則ち神道の宮の原型である。

[やぶちゃん注:「上古都市論」これは前章「古代の祭祀」に既出のフュステル・ド・クーランジュの『古代の都市』(前章の戸川の訳文のママ)を指す。同一訳書内で書名の訳を変えるのは翻訳家としては絶対にやってはなら禁則であろう。こういうことをすると、「戸川先生、実は一人で訳してないんじゃない?」といういらぬ憶測まで湧いてきてしまうからである。

「死者は家のすぐ近くに葬られた」本邦でもアイヌや繩文人は、夭折した子どもを葬るに、甕に逆さまに入れ、住居の入口に埋めたことが知られている。

「ユウリピディスの書いたへレン」既出既注のギリシャ悲劇詩人エウリピデスの「ヘレネ」。『トロイア戦争のきっかけとなったヘレネーが、実はトロイアではなくエジプトにおり、夫であるメネラーオスがトロイア戦争から帰国の途で合流し、共にスパルタへ帰るという物語が描かれる』(ウィキの「ヘレネ(エウリピデス)」より引用)。

「プロテイウス」ウィキの「プローテウス」によれば、『ギリシア神話の海神』として知られるが、『別の神話では、プローテウスはエジプト人の王としても登場する』とあり、『パリスがヘレネーを誘拐したとき、ゼウスの意を受けたヘルメースがヘレネーを奪い返してエジプトに連れて行き、エジプト人の王プローテウスに保護させた。パリスは雲で作られたヘレネーの似姿をヘレネーだと思い込んでイーリオスへ赴いた。トロイア戦争のあと、メネラーオスはプローテウスのもとでヘレネーを見いだすまで、奪還したヘレネーが雲の幻であることに気づかなかった』。『一方、ヘロドトスは『歴史』の中で、エジプト王プローテウスについて、ペロースから王位を継承したメンピス出身の王で、プローテウスの後を継いだのはランプシニストである、と述べている』(以下に出るセオクリメヌスではないということになる)とある。私は「ヘレネ」を読んだこともなく、ギリシャ神話にも疎いのでかく半可通の注しか附すことが出来ない、悪しからず。

「セオクリメヌス」テオクリュメノス。ギリシア神話の神として、「オデッセイ」の中でオデッセイウスの帰還とペネロペの求婚者の死を予言する同名の預言神がいるが、英文のウィキの「Theoclymenusを見ると、どうもそれとは関係がない(プローテウスが海神ではなくエジプトの王として出てくるように、である)ように読める。

「誄(しのびごと)」音は「ルイ」で、松原朗氏の論文「誄と哀辭と哀策――魏晉南朝における誄の分――(PDF)によれば(漢字は正字法であるが、一部表記出来ないものは現行の字体に代えた。注記号は省略した。傍点「ヽ」は太字とした)。

  《引用開始》

 誄は古い來歷を持つ文體であり、その現存する最古のものは魯の哀公が孔子に贈ったものまで遡るとされる。その誄とは何かについては、 次の『禮記・曾子問』の一節に附された鄭玄の注が要を得た 説明となっている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

賤不誄貴、幼不誄長、禮也。唯天子、稱天以誄之。諸侯相誄、非禮也。【鄭玄注】誄之爲言累也。累舉其平生實行。爲誄而定其諡、以稱之也。

鄭玄の注によれば、「誄の意味は、累積である。死者の生前の行いを累積して述べる。誄を作って、諡(おくりな)を定め、それによって故人を稱する」のである。

誄は葬禮において、遺奠(出棺葬禮)の際に讀み上げられるものであり、葬禮の行列では掲げられる旌(はた)に記され、埋葬では棺に被されるものだった。曹植の「武帝誄」に「敢揚聖德表之素旗。乃作誄曰」、また「文帝誄」に「何以述德、表之素旃。何以詠功、宣之管絃。乃作誄曰」、潘岳「楊荊州誄」に「敢託旒旗、爰作斯誄」等とあるのは、誄が旌に記されたことを物語るものである。また『文心雕龍』に「誄者累也。累其德行、旌之不朽也」とある「之を不朽に旌あらはすなり」とあるのは、やはり旌に誄を書き記したことを言うものである。

 誄は、後漢から魏晉にかけて、「詩賦碑誄」の稱があるように、數ある文體の中でも特に重要な地位を占めていた。

   《引用終了》

とその起源が説明されてある。本邦での「しのびごと」(上代は「しのひこと」と清音)は「偲(しの)ひ言(こと)」が原義であって、貴人が亡くなった際にその死者の前でその人の生前の功徳(こうとく)を讃え、哀悼の意を含めて奉斎する言辞、一種の和歌を指し、単に「誄(るい)」「誄詞(るいし)」とも呼んだ。後には天皇の大葬の礼や皇族の葬儀に用いられる雅楽の国風歌舞(くにぶりのうたまい)の一つの名ともなっている。

「一定の喪期の間――或る典據に依ると八日であるが、また十四日といふものもある――」「八日」というのは、例えば記紀に出る天稚彦(あめわかひこ)のために喪屋(もや:八雲も次の段で記すが、死者の近親らがある一定期間、遺骸とともにか、或いはそのすぐ近くに、蘇生や再生の可能性、屍体変相による死の事実の確認と認識、また、死の穢れを無関係な人々に感染させない目的のため、追悼追懐を含んで忌み籠りの生活をするために新たに設けられた建物を指す。貴人に対して行われた以下に出る「殯(もがり)」のための「殯宮(もがりのみや)」も同一である)を造って殯りし、父や妻が八日八夜に亙って嘆き悲しんだというのを指すのであろう。天稚彦は葦原中国平定に於いて天国津玉神(あまつくにたま)の子として登場する。ウィキの「アメノワカヒコ」によれば、『葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命(あめのほひ)が』三年経っても『戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた』。『しかし、アメノワカヒコは大国主の娘下照姫命と結婚し、葦原中国を得ようと企んで』八年経っても『高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに勧め、彼は遣わされた時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた』。『その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にしたタカミムスビは、「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、彼は死んでしまった』。『アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て殯をした。シタテルヒメの兄の味耜高彦根命も弔いに訪れたが、彼がアメノワカヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見』(あいみ:現在の美濃市の南西部の長良川西岸地区)『の喪山だという』とある(下線やぶちゃん)。但し、服喪三年とか十三ヶ月とか五十日或いは四十九日とか一ヶ月というのは聴くが、「十四日間」というのは私は聴いたことがない。根拠も不詳である。識者の御教授を乞う。

「靈屋となるといふのもあり得る事である――則ち神道の宮の原型である」「靈屋」は「宮」(みや)「の原型である」という叙述と対応させるなら、「れいをく(れいおく)」ではなく「みたまや」(御霊屋)と訓ずるのがよい。「宮」は「御屋(みや)」を語源とすると思われるから、強ち、そう読んで音通させたからといって、私の恣意的な牽強付会とは言われぬように思う。因みに、平井呈一氏もここを『御霊屋(みたまや)』と訳しておられる。]

 古い時代に――何時といふ事は解らぬが――死者のあつた場合、喪屋(弔ひの家)を建てる風が起つて來、埋葬に先き立つてこの喪屋で奉祭が營まれた。埋葬の仕方は極めて筒單であつて、墳墓といふ文字の示すやうなものもなく、墓石もなかつた。只だ土饅頭が墓穴の上につくられ、その大いさは死者の身分に依つて大小を異にして居た。

[やぶちゃん注:「喪屋」は「もや」。前段の私の「一定の喪期の間――或る典據に依ると八日であるが、また十四日といふものもある――」の注の最初の下線部を参照されたい。]

 死者のあつた家を去るといふ風は日本民族の祖先の遊牧の民であつたといふ説と一致する、かくの如き風は、古いギリシヤ及びロオマの文化の如き固定した文化とは到底兩立しがたいもので、ギリシヤ及びロオマの埋葬に關する風俗は、少許の土地の恆久の占有を豫想せしめるものである。併し極古い時代にあつてすら、この一般の風に對する例外もあつたであらう――必要上から來た例外が。則ち今日でも日本の各所に恐らくは特に寺から遠く隔つて居る地に於ては、農家がその死者を自分の土地に葬る風もあるのである。

[やぶちゃん注:「日本民族の祖先の遊牧の民であつたといふ説」一時期流行った東北ユーラシア系騎馬民族が南朝鮮を支配してやがては日本列島に侵入して四世紀後半から五世紀にかけて大和地方の在来の王朝を支配乃至それと合作して大和朝廷を立てたとする騎馬民族征服王朝説のようなものであろう。主に戦後、東洋史学者江上波夫が提唱した仮説であるが、現在は殆んど顧みられることはない。詳しくは参照したウィキの「騎馬民族征服王朝説」を閲覧されたい。]

 ――埋葬後定まつた間隔を置いて、墓邊で儀式が營まれ、飮食物が靈のために捧げられた。位牌が支那から入つて來、眞實な家族の禮拜が成立するに至つても、埋葬の場所で供御を捧げる風はなくならなかつた。この風は今日に至るまで殘つて居る――神道の儀式にも佛教のにも、たとへば毎春帝室の使者は神武天皇の御陵に、鳥、魚、海草、米、酒、と云つたやうな昔からの同じ供物を捧げる、則ちこれは二千五百年前の帝國の建立者の靈に捧げられたものなのである。併し支那の感化を受けた時代以前にあつては、一族はその死者を禮拜するに、ただ喪屋若しくは墓邊に於てのみしたものと察せられる、そして靈は不思議な地下の世界に入り得たと同時に、特にその墳墓にのみ住んで居たと考へられて居たのである。靈はその食物以外に他のものをも必要としたと考へられた、さればその靈の用途のため種々な物品が佐たとへば武者の場合ならば劍、婦人の場合ならば鏡、と云つたものが――生前特に大事にして居た品物、貴金屬とか寶玉の如きものと一緒に墓場に置かれるといふ風であつた。靈がその存生中身體のために要したと同じ種類の奉仕を、影の中にあつても要求したと假定されて居る祖先禮拜のこの時期にあつては、動物の生贄と共に人間の生贄のあつた事も當然であると考へるべきである。顯著な人物の葬式にあつては、此種の生贄は普通の事であつた。或る種の信仰があつて、――それに關する一切の事はもう解らなくなつて居るが――そのために、この種の生贄は、ギリシヤのホオマア時代の犧牲よりも遙かに殘忍なものとなつて居た。生贄となる人々は(馬やその他の動物も犧牲になつたかどうかそれは明瞭でない)墓の周圍に環狀をなして頭まで土中に埋められ、鳥類の嘴、野獸の齒にかけられて朽ちるのであつた。この形の犧牲に用ひられた文字――人籬、則ち人間の垣――は一度に大勢の犧牲のあつた事を語るものである。この風習は約千九百年前垂仁天皇に依つて癈止されたが、それは上古の風習であつたと『日本紀』にも記されて居る。垂仁天皇の弟君なる大和彦命の墓の上につくられた土饅頭の内に埋められた犧牲者の泣く聲をあはれと思はれ、天皇は次のやうに宣はれたと記してある、『存生中に愛しんだ人々を強いて死んだものに従つて行かしめるのは、甚だあはれな事である。よしそれは古いならはしであるにせよ、若しそれが惡風であるならば、何の理由あつてそれに從ふべきであらう。今より後は死者に跟いて行く事は癈止するやう協議せよ』と。宮廷の貴紳であつた野見宿禰――相撲の恩人として奉祭されて居る――は、その當時生贄の代りに、土で造つた人や馬の形を以つてする事を申し上げ、その申し出は嘉納されたのであつた。人籬は則ち廢されたのであるが、併し任意的に竝びに強制的に死者に跟いて行つた事は正しく幾百年の後までもつづいて行つた、それは西曆紀元六百四十六年に、孝德天皇がこの問題に就いて勅令を出して居られるのでも解る、――

[やぶちゃん注:「毎春帝室の使者は神武天皇の御陵に、鳥、魚、海草、米、酒、と云つたやうな昔からの同じ供物を捧げる」現在も毎年四月三日に宮中及び幾つかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向して奉幣を行なっている、とウィキの「神武天皇」にはある。

「二千五百年前の帝國の建立者」本書は明治三七(一九〇四)年刊行であるが、同年は皇紀二五六四年。因みに正確な皇紀二千五百年は天保一一(一八四〇)年である(一九〇四年から「二千五百年前」は紀元前五九六年。神武天皇六十五年。紀元前六世紀初頭であるから実際には繩文時代晩期に相当する。以降、非科学的な上代以前の数値換算は行わない)。因みに「皇紀」は神武天皇即位の年を元年と定めた日本の紀元で皇紀元年を西暦紀元前六六〇年とするもので、明治五(一八七二)年に太陽暦の導入に伴い、太政官布告第三四二号によって制定された。正式には「神武天皇即位紀元」と称する。なお、この科学的根拠も文献学的立証も何もない皇紀が一般に多用されるようになったのは専ら昭和に入ってからで、しかも国威発揚を目的とした第二次世界大戦中の非常に短い期間でしかない。

「ギリシヤのホオマア時代の犧牲」ホメロスの時代かどうかは分からないが、ウィキの「人身御供」には、『古代のアテネでは』、二人の浮浪者を一年の間、『公費で養い、祭の日に他の市民の罪や穢れを』この二人に何らかの形で転移させ、『最後に街の外の崖の上から突き落として、市民全体の贖罪とするという習慣があった』とある(但し、これは出典が示されていないので要注意)。

――人籬、則ち人間の垣――」原文は“―hitogaki, or "human hedge,"—”「人籬」「人垣」は上代に於いて貴人の陵墓を囲むように多くの人を垣のように並べて生き埋めにし、殉死させたことを称する言葉である。ウィキの「殉死」によれば、『考古学的に見て具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている』とあり、また、五世紀には『古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている』。『中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の卑弥呼が死去し』、『塚を築いた際』には百余人の『奴婢が殉葬された』とあるとする。

「この風習は約千九百年前垂仁天皇に依つて癈止された」これは「日本書紀」(本文の『日本紀』のこと)の「垂仁(すいにん)紀」に基づく。「垂仁天皇の弟君なる大和彦命」倭彦命(やまとひこのみこと)は記紀等に伝わる第十代崇神天皇の皇子で第十一代垂仁天皇の同母(御間城姫(みまきひめ))弟とする。垂仁天皇二十八年十月五日に倭彦命が薨去、同十一月二日(高貴な人物の殯りは長い)に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られたが、「日本書紀」によれば、『その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出した』とし(引用はウィキの「倭彦命」に拠るものなので注意されたい)、同書垂仁天皇三十二年七月六日条には垂仁天皇の皇后であった日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去、『その葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになった』とある(ここはウィキの「日葉酢媛命」に拠るものなので注意されたい。「野見宿禰」は後注する)。

『存生中に愛しんだ人々を強いて死んだものに従つて行かしめるのは、甚だあはれな事である。よしそれは古いならはしであるにせよ、若しそれが惡風であるならば、何の理由あつてそれに從ふべきであらう。今より後は死者に跟いて行く事は癈止するやう協議せよ』「日本書紀」「卷第六 垂仁紀」には以下のように出る(複数の書籍及び電子データを総合して私が勝手に訓じた)。

   *

二十八年、冬十月丙寅(ひのえとら)朔庚午(かのえうま)、天皇母弟倭命(やまとひこのみこと)薨(かむさ)ります。
十一月丙申(ひのえさる)の朔(ついたち)丁酉(ひのととり)、倭彦命を身狹桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬(はふ)りまつる。是(こ)こに於いて近く習(つかへまつ)りし者を集(つど)へて、悉(ことごと)くに生(い)きながらにして陵(みさざき)の域(めぐ)りに埋(うづ)み立(た)つ。日(ひ)を數(へ)て死(し)なずして、晝に夜に泣き吟(いさ)つ。遂に死(まか)りて爛(く)ち臭(くさ)りぬ。犬・烏、聚(あつま)り噉(は)む。天皇(すめらみこと)、此の泣き吟(いや)つる聲を聞きたまひ、心に悲傷(かなしび)有(ま)します。群卿(まへつきみ)に詔(みことのり)して曰はく、
「夫れ。生(い)けるときに愛(うつく)しびし所を以ちて亡(すぎ)にし者に殉(したが)はしむるは、是れ、甚だ、傷(いたましきわざ)なり。其れ、古への風(のり)と雖も、良からずは、何ぞ從はむ。今より以後(のち)、議(はか)りて殉(したがひしぬること)を止やめよ。」
と。

   *

「野見宿禰――相撲の恩人として奉祭されて居る――」「のみのすくね」と読む。垂仁天皇の御世の廷臣。出雲出身。天皇の命によって当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとって投げ殺し、以後、朝廷に仕えた(これより相撲の神とされる)。埴輪代替案の進言により「土師臣(はじのおみ)」の姓を与えられたとされる。「日本書紀」には以下のように出る(前注に同じく複数のデータを総合して私が勝手に訓じた)。

   *

三十二年秋七月甲戌(きのえいぬ)の朔(つひたち)己卯(つちのとう)、皇后日葉酢媛命【一つ云はく、日葉酢根命(ひばすねのみこと)なり。】薨(かむさ)ります。臨葬(はぶりまつ)らむとして、日、有り、天皇(すめらみこと)、群卿(まへつきみ)に詔(みことのり)して曰く、
「死(しにひと)に從ふの道,前(さき)に可(よ)からずと知れり。今し、此の行(たび)の葬(もが)りに奈何(いか)にか爲(せ)む。」
と。是(ここ)に野見宿禰、進みて曰さく、
「夫れ、君王(きみ)の陵墓(みささぎ)に生きたる人を埋(うづ)み立つるは、是れ、良からず。豈(あ)に後葉(のちのよ)に傳ふること得む。願はくは、今し便りなる事を議(はか)りて奏さむ。」
と。則ち、使者(つかひ)を遣して、出雲國の土部(はにべ)壱佰人(ひとももひと)を喚(め)し上げ、自ら土部等(ら)を領(つか)ひ、埴(はにつち)を取り、人・馬と種々(くさぐさ)の物の形とに造作(つく)り、天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)りて曰(まお)さく、
「今より以後(のち)、是の土物(はに)を以つて生ける人に更易(か)へ、陵墓(みささぎ)に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ。」
と。天皇(すめらみこと)、是(ここ)に大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔(みことのり)して曰はく、
「汝(いまし)が便りなる議(はかりごと)、寔(まこと)に朕が心に洽(かな)へり。」
と。則ち、其の土物(はに)を、始めて日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓に立つ。仍(よ)りて、是の土物(はに)を號(なづ)けて埴輪(はにわ)と謂ふ。亦は立物(たてもの)と名(い)ふ。仍りて、令(のり)を下して曰はく、
「今より以後(のち)、陵墓(みささぎ)に必ず是の土物(はに)を樹(た)てよ。人をな傷(やぶ)りそ。」
と。天皇(すめらみこと)、厚く野見宿禰の功(いさをし)を賞めたまひ、亦、鍛地(かたしところ)を賜ふ。即ち、土部職(はじのつかさ)に任(つ)けたまふ。因りて本姓(もとのかばね)を改めて土部臣(はじのむらじ)と謂ふ。是れ、土部連(はじのむらじ)等(ら)、天皇(すめらみこと)の喪葬(みはぶり)を主(つかさど)る縁(ことのもと)なり。所謂(いはゆる)、野見宿禰は、是れ、土部連等が始祖(はじめのおや)なり。

   *

「嘉納」「かのふ(かのう)」と読み、目上の人が喜んで贈り物や進言などを受け入れることを指す。

「任意的」自発的。

「跟いて」「ついて」と訓ずる。

「西曆紀元六百四十六年に、孝德天皇がこの問題に就いて勅令を出して居られるのでも解る」「日本書紀」によれば、第三十六代孝徳天皇(推古天皇四(五九六)年~白雉五(六五四)年 在位:孝徳天皇元(六四五)年~白雉五年)は、大化の改新後の大化二(六四六)年三月二十二日、大化薄葬令を規定、王臣と庶民の墓制を定め、『前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止され』(ウィキの「殉死」より引用)、祓(はらえ:神道に於ける罪や穢れ・災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術を指す)に『まつわる諸々の愚俗を禁じ』(ウィキの「孝徳天皇」より引用)ていることを指す。]

[やぶちゃん注:以下の訳引用は底本では全体が三字下げで、ポイントも小さい。最後の「『日本記』、アストン飜譯」は底本では二行割注である。その後に訓点附原文が続くが、これは底本では五字下げである。なお、ここではまず白文を示し、その後に、〔 〕で底本の訓点に従って書き下したものを掲げた。更にその後に一部の読みを私が歴史的仮名遣で附し(一部を濁音化させた)、送り仮名の一部も訂したり加えたりして、句読点も変更、記号を増補して整序したものをも[ ]で再掲した。なお、「アストン」はイギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。彼の「日本書紀」(以下の「日本記」)の翻訳はNihongi:Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697(ロンドン・一八九六年刊)。

 『人の死ぬ時、人々が自らを絞殺し、若しくは犠牲にするために、他人を絞殺するか、或は死者の馬を強いて犧牲にし、或は死者をあがめて、貴重品を墓に埋め、若しくは髮をきり、股を刺し、(さういふ姿で)死者を讃稱するやうな事があつた。斯樣な舊習は全くやむべし』――『日本記』、アストン飜譯。

凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人。藏寶於墓。或爲亡人。斷髮刺股而誄。如此舊俗。一皆悉斷

〔凡人死亡(しぬ)るの時。若は經(はな)きて自(みづか)ら殉(したが)ひ。或は人を絞(はな)きて殉(したか)はしめ。及強(あなが)ちに亡(し)したる人の馬を殉かへ。或は亡人の爲に。寶ものを墓に藏(をさ)め。或は亡人爲に。髮を斷(き)り股を刺(さ)して誄(しのひこと)す。如此舊(ふる)き俗(しわさ)。一に皆悉に斷(や)めつ。〕

[凡(およ)そ、人、死亡(しぬ)るの時、若(も)しくは、經(はな)ぎて自(みづか)ら殉(したが)ひ、或いは人を絞(はな)ぎて殉(したが)はしめ、及び強(あなが)ちに亡(し)にたる人の馬を殉(した)がへ、或いは亡(し)にたる人の爲に、寶(たからもの)を墓に藏(をさ)め、或いは亡にたる人の爲に。髮を斷(き)り、股を刺(さ)して、「誄(しのびこと)」す。此(か)くのごとき舊(ふる)き俗(しわざ)は、一(い)つに皆、悉(ことごと)に斷(や)めよ。]

 強制的の犧牲及び世間の風習に關しては、此勅令はその望みの通りの直接の結果を得た事と思ふ、併し任意的の犧牲に就いては斷然と鎭壓されたものではなかつカ。武權の擡頭と共に、別の殉死といふ、死せる主君に從つて行く風習が起つて來た――刀を以つての自殺である。それは北條執權の最後の人なる高時が自殺をなし、その臣下の多數のものが、主人に從つて行くために腹切りなるものに依つて、生命を失つた時、則ち一三三三年頃に始つたのであつた。果たしてこの事件がさういふ風を實際に作り上げたものであるか、それは疑の餘地がある。併し十六世紀頃には殉死は侍の間に名譽と考へられた風習になつて居た。忠義な家臣は主君の死後、その靈界の旅中、伴をして行くために、己を殺す事を以つて自分の本分と心得て居た、それ故佛教の一千年間の教へも、此犧牲を以つて本分と心得る原始的の考へを拭ひ去る力はなかった。この慣習は德川將軍の時代までもつづいたので、家康はそれむやめさせる法律を制定した。この法律は勵行された――自殺者の全家族は、殉死の場合、その責任を負はされたのである、併しそれでもこの習慣は明治年代の初め以後、可なり經つまでは根絶されなかつた。私の居た時分ですらも、なほその名殘があつた――極めて感動的な種類のもので、主人、夫、兩親の、目に見えない世界に居るその靈に仕へ、その助けをする事の出來るやうにとの望みから、自殺をするのである。恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である。

[やぶちゃん注:「北條執權の最後の人なる高時が自殺をなし、その臣下の多數のものが、主人に從つて行くために腹切りなるものに依つて、生命を失つた時、則ち一三三三年頃に始つたのであつた。果たしてこの事件がさういふ風を實際に作り上げたものであるか、それは疑の餘地がある」やや言い方に問題がある。「北條」得宗家「最後の」「執權」であり、実質上の幕府の支配の権能を有していたという点では事実上の「北條執權の最後の人」とは言えるが、構造的には「北條執權の最後の人」ではない。北条高時は第十四代であったが、正中三(一三二六)年二月十三日に病気で辞任して出家したため、第十五代には北条貞顕(金沢流)が同年三月十六日に就任した。ところが彼は北条氏得宗家家督継承を巡る内管領の長崎氏と外戚安達氏の「嘉暦(かりゃく)の騒動」で生命の危機感を感じ、たった十日で辞任、同年四月二十四日、北条守時(赤橋流)が外れ籖を引くことになった「最後の人」として第十六代執権となっている。「北條最後の執權」と言った場合は厳密には名目上、この守時である。またこれは鎌倉幕府滅亡の元弘三年元弘五月二十二日(一三三三年七月四日(高時は享年三十一)の出来事で、幕府方は現在の宝戒寺の奥にあった東勝寺(現在は廃寺で遺跡は発掘後に保存のために土中に埋め戻されてある)での自決を指しているのであるが、これを切腹のルーツとする見解を私は鎌倉史研究の中で、明確に聴いた記憶がない。切腹自体はこれより以前に非定形的な止むを得ない緊急自裁方式としてはあったと思われるが、現在のような武士の名誉の覚悟を持ったもとして様式化固定化されるのは、これよりはずっと後のことである。ウィキの「切腹」にも、『日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝』(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年)『が最初に行ったと言われている。また藤原保輔(ふじわらのやすすけ)が』永延二(九八八)年に『事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのかは明確ではない』。『近世以前の事例を見ると、一部の例外を除いて、切腹は敵に捕縛され、斬首されることを避けるための自決に限られている。戦に敗れたから即自決というわけではなく、地下に潜り(逃亡し、本当の身分を伏せて生きること)再起を図ろうとする武士も大勢いた。また、壮絶な切腹は畏敬の念を持たれることもあるが、切腹自体は自決のひとつに過ぎず、特に名誉と見られることもなかった。武士への死刑執行も全て斬首刑で、身分ある武士といえども敵に捕縛されれば斬首刑か、監禁後に謀殺であった』とし、室町時代の明徳三(一三九二)年に『管領細川頼之に殉死した三島外記入道(『明徳記』)以来、平時に病死した主君に対して殉死を行う風習が始まった』。『戦国時代後期から徐々に切腹の概念が変わってきた。豊臣秀吉が高松城を攻め、講和条件として城主・清水宗治の命を要求した際に、宗治は潔く切腹して果てた。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まった』(但し、ここには要出典要請がかけられてある)。『その秀吉は、豊臣秀次』や『千利休らに対し、刑罰として切腹を命じている。また、関ヶ原の戦い、大坂の役での敗軍武将への死刑執行は全て斬首刑であるが、古田織部・細川興秋など豊臣方与力と見なされた者は切腹させられている』とある。

「家康はそれむやめさせる法律を制定した」これは八雲の何かの誤認と思われる。家康は個人的に殉死に批判的ではあったが(谷口論文佐賀藩の殉死にみる「御側仕え」の心性(PDF)に『徳川家康は慶長一二(一六〇七)年、尾張国清須城主松平忠吉に家臣三人が殉死したことを知って、制止しなかった秀忠を叱責したが、その二代将軍秀忠にも、また三代将軍家光にも殉死者はみられた。仙台藩では伊達政宗の死去に際して殉死した者が一五人、又殉死(殉死した者にその家来が殉死する行為)が五人いた。熊本藩では細川忠利に一九人が殉死した』とある)、法によって殉死を禁じてはない。同じくウィキの「切腹」に『江戸時代初期には松平忠吉や結城秀康に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した』、この流行は第三代将軍徳川家綱が「武家諸法度」(寛文令)を公布する際、寛文三(一六六三)年五月に『「天下殉死御禁断の旨」』を出して『殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが』、寛文八(一六六八)年、『奥平昌能が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で二万石を削られる処断を受け実効を持つことになった第五代将軍徳川綱吉が「武家諸法度」(天和令:天和三(一六八三)年)で初めて、殉死禁止の明文化を行っている(以上下線はやぶちゃん)。貞享元(一六八四)年に『成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる』。天保一一(一八四〇)年には『上州沼田藩士の工藤行広が『自刃録』を著す。徳川瓦解の』三十年前に当たり、『武士道が地に落ちていたことを嘆いて書いた切腹マニュアルであった』。その後、『死刑執行方法としての切腹は』、明治六(一八七三)年に『廃止され、以後、日本における死刑では絞首刑が用いられているが、切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人等の間に見られ、切腹を名誉ある自決とする思想は残った』とある。

「恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である」これは小泉八雲が明治三〇(一八九七)年九月に刊行した「仏陀の国の落穂」(Gleanings in Buddha-Fields)の中の「大阪」の「三」の末尾に記されている。引用の許容範囲内と判断し、一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳「仏の畑の落穂」から引用させて戴く。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]あるいはまた、主人思いの丁稚の恩愛の情が、世にもめずらしく極度に発揮されたとか、そういった例がちょいちょいある。つい昨年なども珍しい事件があった。ある商人の一人息子(十二歳の少年)が、悪疫のはやった時に、コレラにかかって死んだ。そこの店の十四になる丁稚が、つねづね、その死んだ息子をかわいがっていたが、葬式の出たあとまもなく、その丁稚は汽車往生をしたのである。丁椎は一通の書置をのこしていた。それをできるだけ直訳してみると、次のようになる。原文には、自己代名詞がひとつも使ってない。――

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げである。]

 「ながながお世話に相成り、御高恩はことばにつくしがたく候。ただいまこれより相果て申すべきこと、なんとも不忠の至りに存じ候へども、かならず来世に生まれかはり、御恩報じ仕るべく候。ただ心にかかるは、妹おのとのことに御座候。なにとぞ同人にお目をおかけくだされたくひとへに願い入り奉り候。
                間野由松
   御主人様」
 
   《引用終了》

言わずもがなであるが、「汽車往生」は鉄道自殺である。]

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