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2016/01/02

梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (4)

 こうして、私の桜島の生活が始まった。

 昼間は二直制。夜は三直制。そして午後六時から巡検時迄、昼直とも夜直ともつかぬ直があって、それは午前の直に立ったものが当る仕組になっていた。だから、多い日は一日十二時間の当直に立たねばならなかった。それも電報量が多いという訳ではない。電信員の技術が落ちて来たためと、暗号員の質の低下のために、たとえば昼間六時間の当直の間、一通の電報すら翻訳しかねているような暗号員がいる位であった。もっとも此処の暗号員は大部分が志願兵で、十五歳というのもいた位だから、無理もないのであろう。その上悪いことには、昼間の当直でないときは、彼等は皆、壕掘りに使役(しえき)されていた。そのため夜の当直では、彼等はそろって居眠りし、一通の電報が交替の度にそのまま申し継がれ、朝になっても完全な翻訳が出来ていなかったりする。その責任はすべて当直下士官にかかって来る。

 暗号室は、受信室と一所の壕になっていて、丘の中腹にあった。方角が悪いせいか、湿気が多くて、ひどくむし暑い。交替のとき入って行くと、空気がにごっていて、いやな気持がした。だから之に、通風のための穴を一つ掘るというのである。換気と涼風入れを兼ねた此の工事は、まこと良い思い付であったに違いなかったが、ある日私が現場に行って、私の直の兵隊が働いているのを監督がてら、計算した結果に依れば、此の風穴が完成するのは少くとも三箇月はかかるのである。十一月頃になったら、さだめし涼しい風が吹きこむことであろうと、むしろ腹立たしく、私は兵隊に話しかけた。

「此の工事は誰の命令だね」

「吉良兵曹長です」

「それまで此処が保(も)つと思うのかね」

 その兵は、もっこをわきに置いて、私の前に立った。

「此の穴が出来上らないうちに、米軍が上陸して来ますか」

 真面目な表情であった。十五歳になるという少年暗号員である。私は莨(たばこ)を深く吸い込みながら、聞いた。

「勝つと思うか?」

「勝つ、と思います」

 童話の世界のように、疑いのない表情であった。ふっと暗いものを感じ、私は掌(て)をふって作業を始めるように合図した。そのとき、私は不機嫌な顔をしていたに違いない。私は立ち上り、莨を踏み消した。そしてあるき出した。

 だらだら坂を登り切ると、丘の頂上は喬木(きょうぼく)の疎林となり、その間を縫う径(みち)を通るとき、暑い午後の日射(ひざし)は私の額にそそぎ、汗が絶え間なくしたたった。林をぬけると、やや広闊(こうかつ)な草原があった。大きな栗の木が、その中央に生えていた。その木の下に、一人兵隊がいて、私の跫音(あしおと)にびっくりしたように振り返った。

 四十を越したか越さない位の、背の低い男であったが、私はふと彼の手にした双眼鏡に目を止めた。私の不審そうな視線に、男は人なつこそうな笑いをちらりと見せて、はっきりした声で言った。

「見張です」

 そう言えば、栗の木の幹を利用して電話が設けてあり、此の草原からは湾内も大空も一望の中にあった。草いきれの中を、私はその男に近づいた。

「あいているなら、双眼鏡を貸して呉れないか」

「ええ、いいですよ。お使いなさい」

 双眼鏡を受取った。ずっしりと重かった。眼に当てて、ゆるゆる視野を移動した。

 大正初年の爆発によって海水になだれ入った溶岩の岬が、すぐ目の前にあった。そのこちらが軍用の船着広場で、中央に中世紀の塔に似た放水塔があり、それに群れて水をくんだり洗濯したりしている兵たちの姿が見えた。そして油を流したような海。船着場にある発動機船、そして私の頭の回転につれて、双眼鏡の視野に、大きく桜島岳の全貌が浮び上って来た。

 それは、青いものが一本もない、代赭(たいしゃ)色の巨大な土塊の堆積(たいせき)であった。赤く焼けた溶岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった。もはや之は山というものではなかった。双眼鏡のレンズのせいか、岩肌の陰影がどぎつく浮き、非情の強さで私の眼を圧迫した。憑(つ)かれたように私はそれに見入っていた。

「ちょっと」

 低い押しつけられたような声であった。私は思わず双眼鏡をはなして、その男の顔を見た。中腰の姿勢で、眼を据え、耳を立てている。

「飛行機です」

 男は私から双眼鏡を受取ると、南の空に目を向けた。私には何も聞えない。ただ蟬の声が降るようにはげしかった。

 空には雲がなかった。太陽はぎらぎら輝きながら、虚(むな)しい速度で回転していた。その大空の何処かを、鋭く風を切って、飛行機が近づいて来る気配(けはい)があった。

 男は、双眼鏡を眼から離すと、栗の木の電話機に飛びついた。呼鈴をならした。此のような山の中で聞く呼鈴の音は、妙に非現実的に響いた。

「グラマン一機、ええ、グラマン一機、鹿屋(かのや)上空。針路、針路北北西――」

 その時、突然のように、冴(さ)えた金属性の響きが、微かながら私の耳朶(じだ)をとらえた。私が空を振り仰ごうとしたとき、男の手が私の肱(ひじ)をとらえた。

「待避、待避しなくてはいけません」

 栗の木から五米(メートル)位離れた、灌木の茂みのそばに、一寸した窪地があって、私達は少しあわててそこに走り込んだ。二人並んであおむけに寝た。胸が動悸(どうき)を打っている。

「これが、私の寝棺です」

 男は低い声で言い、微かな笑い声を立てた。まこと、寝棺の形であった。二人では、狭すぎる。何か答えようとして、私が男の方に身体を動かしかけたとたん、空気を断(た)ち切るような金属音が急に破裂するように増大し、轟然(ごうぜん)たる音の流れとなって私達の頭上をおおった。私の視野を、銀色に輝きながら、グラマンが大きく現われ、そして瞬時にして消えた。思わず身体を起しかけたとたん、引裂くような機銃の音が連続しておこり、そして止んだ。飛行機の爆音は見る見るうちに小さくなり、海のむこうに消えて行ったらしかった。飛行機の通りすぎる間、忘れてしまっていた蟬の声が、此の時になってよみがえって来た。男は身を起して、電話機についた。

「鹿児島方面に退去。ええ、退去しました」

 暫くして待避もとへのサイレンが遠く山の下から聞えて来た。私も立ち上って、草原のはなに立ち、あたりを見下した。今迄あちこちに待避していたらしい人影が、道路や広場にぽつぽつと現われて来た。

 私は男と並んで草原に身をなげ出してすわった。

「グラマンがよくやって来るね」

「今日は、まだ初めてですよ」

 男は私の顔をちらと見て言った。

「兵曹は応召ですか」

「補充兵だよ」

「下士候補の?」

「そう。受けたくなかったけれど」

「兵隊でいるよりはいいでしょう」

 男はそう言い、神経質な笑い声をたてた。

「蟬が、多いね」

「夜でも、うっかりすると鳴いているのですよ」

「つくつく法師は、まだかね」

「まだですよ。あれは八月十日すぎ」

 男の表情に、いらいらした影が浮んで消えた、と思った。

「つくつく法師は、いやな蟬ですね」

 男はそう言い、一寸間をおいて、

「私はね、あの蟬は苦手なんですよ。毎夏、あの蟬が鳴き出す時、いつも私は不幸なんです。変な言い方だけれど。――去年は、六月一日の応召。そして佐世保海兵団、御存じでしょう、十分隊。そこにいて、毎日いやな思いで苦労して、この先どうなることかと暗い思いをしているとき、食事当番で烹炊所(ほうすいじょ)の前に整列していると、その年初めてのつくつく法師がそばの木に取りついて、いやな声立てて鳴きましたよ。丁度、サイパンが陥(お)ちた直後で、どうせ私達は南方の玉砕部隊だと、班長たちから言われていた時で――」

 声が一寸途切れた。

「一昨年(おととし)もそうでした。その前の年も。いつも悲しい辛いことがあって、絶望していると、あの蟬が鳴き出すのです。あの鳴き声は、いやですねえ。何だか人間の声のようじゃないですか。へんに意味ありげに節をつけて、あれは蟬じゃないですよ。今年も、どのような瞬間にあの虫が鳴き出すかと思うと、いやな予感がしますよ」

 暫く黙っていた。私が聞いた。

「で、見張には?」

「秋になって、見張の講習に行ったのです。いろいろつらいこともあったのですよ」

「年取っていると、猶(なお)のことそうだろうね」

「年齢のせいだけでもありませんよ」

「判らない奴が多いからな」

 男は黙っていた。

「志願兵。志願兵上りの下士官や兵曹長。こいつらがてんで同情がないから」

 男はうなずいた。そして、低い、沈欝な調子で言った。

「私は海軍に入って初めて、情緒というものを持たない人間を見つけて、ほんとに驚きましたよ。情緒、というものを持たない。彼等は、自分では人間だと思っている。人間ではないですね。何か、人間が内部に持っていなくてはならないもの、それが海軍生活をしているうち、すっかり退化してしまって、蟻かなにか、そんな意志もない情緒もない動物みたいになっているのですよ」

「ふん、ふん」

「志願兵でやって来る。油粕(あぶらかす)をしめ上げるようにしぼり上げられて、大事なものをなくしてしまう。下士官になる。その傾向に、ますます磨きをかける。そして善行章を三本も四本もつけて、やっと兵曹長です。やっとこれで生活が出来る。女房を貰う。あとは特務少尉、中尉、と、役が上って行くのを楽しみに、恩給の計算したり、退役後は佐世保の山の手に小さな家を建てて暮そうなどと空想してみたり。人間の、一番大切なものを失うことによって、そんな生活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈な人生ってありますか。人間を失って、生活を得る。そうまでしなくては、生きて行けないのですか。だから御覧なさい、兵曹長たちを。手のつけられない俗物になってしまっているか、またはこちこちにひからびた人間になっているか、どちらかです」

「そうだね」

 私は、吉良兵曹長のことを頭に思い浮べていた。彼は、ひからびた男でもなければ、また俗物でもない。全然違った別の型の人間だ。志願兵の頃から、精神棒などで痛めつけられていた間、他の人間なら諦(あきら)めて忍従して行くところを、おそらくは胸に悲しい復讐の気持を、自ら意識せずに育てて行ったにちがいない。人間の心の奥底にある極度に非情なものを、育てて行き磨いて行き、それを自我にまで拡げて行ったに違いない。やっと兵曹長となり、一応の余裕が出来て、あたりを見廻した時、ひそかに育てて来た復讐の牙(きば)は、実は虚(むな)しいものに擬(ぎ)せられてあったことに気付いたに違いないのだ。彼は牙を、自分自身に突き刺すより仕方がなかったのだ。彼の奇妙な性格も、異常な動作も、そして彼にとって唯一の世界である海軍が、沖繩の戦終り、既に潰滅(かいめつ)したことによるいらいらした心情も、おそらくは皆そこにあるのだ。通信科の兵隊を集めての故もない制裁の場における、彼の偏執的な挙動を、私は瞼の裏にまざまざと思い浮べていた。それは、二三日前のことであった――

 赤痢が流行していた。その日、暗号の兵隊が一人、野生の梨をもいで食べ、そして赤痢の疑いで霧島病院に送られた。梨を食うことは、堅く軍医の禁ずるところであった。医務室でその兵と別れ、居住区に戻り夕食を私は食べていた。湾内で獲(と)れるらしい細長い小さな魚の煮付を嚙んでいたとき、私の背後を通り抜け、そして振り返った。吉良兵曹長であった。

「村上兵曹、山下はどうした」

「霧島行きに決まりました」

「梨を食ったというのは、本当か」

「本当らしいです」

 山下というのは、その一等水兵の名である。吉良兵曹長の顔に、急に怒りの表情があらわれた。

「梨を食うなということは、度々兵隊に言ってあるではないか。近頃の兵隊は、気合は入っていない癖に、悪いことは一人前する」

 押しつぶされたような声であった。じっと私の顔を凝視しながら、

「下士官も悪い。下士官がだらしないから、兵隊が我ままをする。俺の命令を聞きたくなければ、聞きたくなるようにしてやる。村上兵曹。兵隊を整列させろ」

 私は黙っていた。一人が梨を食ったというかどで、残り全部の兵隊が制裁されることはまことに意味が無いことだ。数日間の此処での生活で、私は私の部下にあたる暗号兵たちに、ほのかな愛情を感じ始めていた。意味なく制裁されるような目に合せたくなかった。表情を変えず、私は頑固に押し黙っていた。吉良兵曹長は急に横をむくと、送信所の方に急ぎ足で入っていった。

 私は元にむいて、食事をつづけた。私は、応召以来、佐鎮(さちん)の各海兵団や佐世保通信隊や指宿(いぶすき)航空隊で、兵隊として過ごして来た。さまざまの屈辱の記憶は、なお胸に生々しい。思い出しても歯ぎしりしたくなるような不快な思い出は、数限りない。自分が目に見えて卑屈な気持になって行くこと、それがおそろしかった。

(しかしもう死ぬという今になって、それが何であろう)

 私は暗い気持で食事を終えた。壕を出、落日の径(みち)を降り、暗号室に入って行った。そして当直を交替した。

 電報は多くなかった。今日の電報綴りを見ても、銀河一機どこそこを発ったとか、品物を何番号の貨車で送ったとか、あまり重要でない電報ばかりである。当直士官に立っている暗号士がうつらうつら居眠りをしている。電信機の音が四辺(あたり)に聞える。電信兵の半ばは、予科練の兵隊である。練習機不足のため、通信兵に廻された連中なのだ。私は頰杖をついたまま、目を閉じた。

 ――先刻、夕焼の小径(こみち)を降りて来る時、静かな鹿児島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風に逆(さから)っているせいか、双翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速力で、丁度空を這っているように見えた。特攻隊に此の練習機を使用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じたいような気持で居りながら、目を外(そ)らせなかったのだ。その機に搭乗している若い飛行士のことを想像していた。

 私は眼を開いた。坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の校舎を借りて、彼等は生活していた。私は一度そこを通ったことがある。国民学校の前に茶店風の家があって、その前に縁台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒をのんでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒(すさ)んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑(わいざつ)な調子で流行歌を甲高(かんだか)い声で歌っていた。何か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。

(これが、特攻隊員か)

 丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀(あみだ)にかぶったり、白いマフラーを伊達者(だてしゃ)らしく纏(まと)えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、

「何を見ているんだ。此の野郎」

 眼を険(けわし)くして叫んだ。私を設営隊の新兵とでも思ったのだろう。

 私の胸に湧き上って来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持だけは、どうにも整理がつきかねた。此の感じだけは、今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴(おもむ)くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼(ま)のあたりに見た此の風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔(くい)ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。――

 ふと気が付いて私はあたりを見廻した。暗号室の卓は、私の外二人の兵隊がいるだけで、あとの席には、「呂」の厚い暗号書や、乱数盤が組立てたままほうり出されているだけで、誰もいなかった。

「此の直(ちょく)はどうしたんだ。もう交替時間はとっくに過ぎているじゃないか」

 一人の兵隊が顔を上げて答えた。

「皆来ていたのですが――」

「来ていて、どうしたんだ」

「居住区から呼びに来たのです。電報持っているものだけ残って、手空(てす)きは全部来い、と言って」

「誰が、呼んだのだ」

「吉良兵曹長、だそうです」

 兵隊は、何かおどおどした調子で、そう答えた。私は、顔の表情が硬(こわ)ばって来るのが、自分でもはっきり判った。

 兵隊を直接指導して行く立場にあるのは、下士官である。その任にあたる立場を、私が無視された、その事が口惜しかったのではない。もはや此処が戦場になるということが、時間の問題となっている現在にも拘らず、味方同士で何を傷(きず)つけ合う必要があるのだろう。そのことが哀しく胸に響いて来た。ここにいる二人の兵隊も、同僚が居住区で何をされているか、よく知っている。偶然、電報を翻訳していたそれだけの理由で、それから免(まぬ)かれている。後ろめたさと漠然たる不安で、陰欝な表情のまま、暗号書を繰っている。何かやり切れない、不快な気持が、私をいらいらさせた。

「よし、居住区に行ってみる」

 誰にともなく私は呟(つぶや)き、立ち上った。狭い通路を通り抜け、外はすでに黄昏(たそがれ)であった。山道を走り登り、横に切れる小径へ降(くだ)ろうとしたとき、私は思わず立ち止った。居住壕の入口に、吉良兵曹長が立っていた。そして、居住壕前の海を見下す斜面に、兵達は皆両手を土に着け、「前へ支え」の姿勢をしていた。吉良兵曹長は、三尺程の棒を片手に下げ、腰を下げて地につけたりしようとするのを、大声出して怒鳴りつけていた。私は歩をゆるめながら、そこに近づいた。

 その姿勢を余程長く兵達がつづけているということは、その姿勢のくずれ方や、手を楽なように置き換えようとする絶望的な努力の様子で、はっきり判った。彼等はそろって頭を垂れていた。黄昏の薄い光の中で、私は私の足許(もと)の兵隊の額から、脂汗(あぶらあせ)がしたたり落ちるのをはっきりと見た。私は息が苦しくなった。新兵の時、私も何度も之をやらされた。常人よりも膂力(りょりょく)の弱い私は、常に人一倍の苦痛を忍ばねばならなかった。その記憶が眼前の光景につながり、呼吸(いき)がつまるような気がした。私は、吉良兵曹長の顔をぬすみ見た。

 乏しい光線の中で、吉良兵曹長の顔は、思わずぎょっとする位、青ざめて見えた。非常な苦痛を押しこらえているような不思議な表情が、彼の顔を歪(ゆが)めているようであった。眼だけが、偏執的に光りながら、伏せている兵隊の背にあちこち動いた。燃えるような瞳のいろであった。不意に振り返り、私の方を見た。

「村上兵曹。皆を立たせろ」

 そう言いすてると、棒を崖の下になげすてた。棍棒(こんぼう)は岩角に二三度にぶい音を立てて、熊笹の谷間に落ちて行った。彼は立ち止り、一寸何か言いたそうにしたが、何も言わず、私に背を向け、大股に居住区に入って行った。幅の広い、やせた肩のあたりが、何となく淋しそうに見えた。

「立て」

 兵達は、皆のろのろと大儀そうに立ち上った。疲労がそうさせるのか、皆一様な単純な表情であった。考える力を喪失した、言わば動物園の檻(おり)のけもののようであった。妙に不気味な圧迫を私は感じながら、私は低い声で言った。

「当直の者は当直へ、残りは別れ」

 当直の兵隊と一緒に暗号室への道を歩み出した。海の面だけが淡く暮れ残り、群れ立つ樹々の間は暗かった。兵達を立たせ、そして私が一席の訓戒を加えることを、吉良兵曹長は予期したのだろうか。あるいは兵隊に苦痛をあたえたことだけで事足りたであろうか。私には判らなかった。うしろに何か重い物を引き摺(ず)ったような歩き方で、居住区の中に消えて行った彼のうしろ姿が、奇妙に私の眼に沁(し)みついて離れなかった。外(ほか)の下士官がやるように、自分たちが兵隊であった折にやられたから、今兵隊に同じことをやる、といったような単純なものではないであろう。痼疾(こしつ)のように、吉良兵曹長の心に巣くう何物かが、彼をかり立てているようであった。私の理解を絶した、おそらくは彼自身にも理解出来ない鬼のようなものが、彼の胸を荒れ狂っているようであった。

(あの眼が、それだ)

 新兵教育を受けた時、私の班長がやはり、性格の上では違っていたけれども、その類(たぐい)の眼を持った下士であった。平常は温和な、そして発作的に残忍なふるまいをする。あとで何か事件を起して軍法会議に廻ったことを聞いた。私は此の男のことをふと思い出していた。

 所詮、彼等は私と全く異った世界に住む男達であった。そして、私は、吉良兵曹長の中に住む鬼を、理解するには、あまりにも疲れ過ぎている。疲れていると言うよりは、そのような無縁のものを考えるより、私には、迫り来つつある自らの死のことが気になっていたのだ。桜島に来て以来、このことは常住私の心を遠くから鈍く脅(おび)やかし続けている。――

[やぶちゃん注:以上のパート以降は私の限られた時間を節約するため、本日(二〇一六年一月一日)、「青空文庫」で公開されたkompass氏入力・酒井裕二氏校正になる、講談社文芸文庫平成元(一九八九)年刊「桜島・日の果て・幻化」(私は所持しない)の電子データ「桜島」のベタ電子データを加工原型に使用させて戴いた。ここに謝意を表する。但し、基本的に底本の沖積舎版全集と当該電子データの相違箇所は特に注記する予定はない。講談社文芸文庫版「桜島・日の果て・幻化」を私は所持していないからである。因みに、既に大きな相異箇所を発見しているので指摘しておくと、本パート内の村上兵曹の心内語の「志願兵の頃から、精神棒などで痛めつけられていた、他の人間なら諦あきらめて忍従して行くところを、おそらくは胸に悲しい復讐の気持を、自ら意識せずに育てて行ったにちがいない。」という部分の「間」が、青空文庫版では、「志願兵の頃から、精神棒などで痛めつけられていた人間、他の人間なら諦あきらめて忍従して行くところを、おそらくは胸に悲しい復讐の気持を、自ら意識せずに育てて行ったにちがいない。」(両所ともに下線はやぶちゃん)となっている。これは私の底本全集の「間」(あいだ)の方が自然である。【以下、2016年1月16日追記】昨日、本屋で立ち読みしたところ、当該文庫本は沖積舎版よりも前の新潮社版梅崎春生全集を底本としており、確かに当該部は『人間』となっているのを現認した。それでも私の見解に変更は、ない。

「昼間は二直制。夜は三直制」通常の海軍の「二直制」というのは三時間、「三直制」は二時間交代制を指すようであるが、ここで言う「昼間」「夜」の閉区間を考えないとその辛さはよく分からない。さるQ&Aサイトで見かけた海軍の日課表を参考に引いてみる(表記の一部を変更・追加した)。

 

 〇六:〇〇       総員起こし(起床)

 〇六:三〇       海軍体操

 〇七:〇〇~〇八:〇〇 朝食

 〇八:〇〇       軍艦旗掲揚

 〇八:〇〇~一二:〇〇 午前勤務

 一二:〇〇~一三:〇〇 昼食

 一三:〇〇~一七:〇〇 午後勤務

 一八:〇〇       軍艦旗降納

 

 一九:〇〇       夕食

 二〇:〇〇       巡検

             巡検終了後に

             「煙草盆出せ」

             「明日の日課を知らす。午前○○、午後○○……

             以後、自由時間。

 二三:〇〇(見当)   就寝

とある(この場合の巡検時間は前に示した例示ケースの冬時間である)。一つ確認出来るのは、ここで村上兵曹が「午後六時から巡検時迄、昼直とも夜直ともつかぬ直があっ」たとあるから、この日課表に単純に割り当てるならば、

「昼直」――午前六時から午後六時までの十二時間の閉期間

で、次に、

「昼直とも夜直ともつかぬ直」――午後六時から午後八時までの二時間の閉期間

があって、

「夜直」――午後八時から翌日の午前六時までの十時間の閉期間

ということになる。ということは、

「昼」「二直」というのは三時間交代として四区分

「夜」「三直」というのは二時間交代として五区分

となる。しかも「昼直とも夜直ともつかぬ直」二時間には「午前の直に立ったものが当る仕組になっていた」とあるから、人員の数にもよるが、単純に全ての当直を総員が行うと考えるならば(普通はそうであるようだ)、最低でも七時間から、必ず交代をする(「昼直とも夜直ともつかぬ直」に就いたものがそのまま最初の「夜直」には就かないということ)として計算すると、確かに「多い日は一日十二時間の当直に立たねばならな」いということになることが理解出来る。これをきついと考えるのはしかし、まだ甘いようである。実際の海軍の艦船勤務の場合の当直は、海軍爺さん氏のブログ 「これでいいのか?日本!!」の「第43回 当直将校」によれば、一日二十四時間中、十六~十八時間も『艦橋に立ちッパナシである』とある。しかもこの海軍爺さん氏は将校で中尉で駆逐艦「雷(いかずち)」の航海長である(開戦前とある)。さらにこの記事を読むと、彼が疲労の余り、爆睡してしまい、取次が起しても起きなかった時には、艦長自らが「起すな」と指示して艦長自身が直をしたともあるのである。

「志願兵」ウィキの「志願制度」によれば(下線やぶちゃん)、大日本帝国の海軍の志願兵の服役は、海軍『本人の志願により海軍志願兵令に基づいて採用され、全国から徴募するが、兵種は水兵、航空兵、機関兵、軍楽兵、看護兵、主計兵の』六種で、年齢十七年以上二十一年未満『のものについて行なうただし掌電信兵を志願する水兵は』十五年以上十九年未満、軍楽兵は十六年以上二十年未満。服役は現役五年、予備役(毎年一回の簡閲点呼や勤務演習を受けて在郷軍人会の入会を義務付けられた。現役人員に欠員が出た時は現役の余剰人員である帰休兵の次に召集された)四年及び後備兵役(常備兵役を終えた者が服す役で予備役の次に相当する。旧制の後備軍で後備兵役は一般には単に後備役と称する。昭和一六(一九四一)年十一月の改正で後備兵役は予備役と合一されて廃された)五年とし、後備役を終ったもので年齢四十年未満のものは第一国民兵に服させる。現役定限年齢は三十五年とし、四十年を服役の終期とする、とある。なお、陸軍(三種)のそれも引いておく。一つは「現役志願兵」で年齢十七年以上徴兵適齢未満のもので、『現役であることを志願するもの。二年在営させ、その現役は一般の現役兵として徴集されたものと同じ。ただし輜重兵、特務兵および補助看護兵は採用しない』(私の父はこれの少年航空兵であった。航空機の特攻隊志願であったが、結局、爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練ばかりさせられた。因みに彼は当時満十六歳であった)。次に「憲兵上等兵および楽手補」で、『兵役は現役・予備役・後備役とし、逐次これに服させる。その服役期間は現役は、憲兵は前服役期間を通算して』四年、『楽手補はこれを命じられた年の』十二月一日から起算して五年『であるが、いずれも志願によって延長することが出来る。予備役は現役を通算して』七年四ヶ月、『後備役は前服役を通算し』一七年四ヶ月である。但し、年齢四十年に『満ちる前に後備兵役を終ったものは第一国民兵役にあるものとみなされる』。最後は「年齢四十年を過ぎ志願により国民軍に編入された兵」でこれは当該期間、『第一国民兵にあるものとみなされ』たとある。

「もっこ」漢字では「畚」と書く。これは持籠(もちこ)の転訛で、繩を網のように四角に編んで、その中央に石や土などを入れ、四隅を纏めるようにして担いで運ぶ道具を言う。

「大正初年の爆発」大正三(一九一四)年一月十二日に始まった桜島の噴火。凡そ一ヶ月間に亙って、繰り返し、頻繁に爆発が起こり、多量の溶岩が流出した。この一連の噴火による死者五十八名に及んだ。流出した溶岩の体積は約一・五立方キロメートル、溶岩に覆われた面積は約九・二平方キロメートルに及び、『溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡』(最大距離四百メートル・最深部百メートル)『で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は』約〇・六立方キロメートル、『溶岩を含めた噴出物総量は』約二立方キロメートル(約三十二億トンで東京ドーム約千六百個分に相当)『に達した。噴火によって桜島の地盤が最大』約一・五メートル『沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認され』ている、とある(以上はウィキの「桜島」に拠った。当時の噴火の経過と影響はさらにリンク先に詳細に述べられてある)。

「喬木」高木(こうぼく)に同じい。

「岬」当時の桜島の海軍基地の位置がネット検索の中で、やっと判明したはっとし_ぜろ氏のサイト「underZero」の「桜島 海軍基地跡」である。写真見られ、地図上の位置も確認出来るので必見! 具体的には鹿児島市桜島横山町で、現在の「桜島自然恐竜公園」となっている丘陵地帯の地下に広がっていたことが判る。同氏が説明板から起して呉れた部分を引用させて戴く。

   《引用開始》

ここは太平洋戦争末期、日本海軍の基地があった場所です。壕の高さ・幅はともに2~3m程で、手掘りによって作られたトンネルが網の目状に張り巡らされています。総延長は約650m。壕の中には魚雷保管室や動力室がありました。この基地はアメリカ軍の本土上陸を阻止するために編成された海軍特攻戦隊の一つ「第五特攻戦隊」の司令部です。ここの近くには通信施設もあり、佐世保鎮守府や南九州一帯に配備された各突撃隊との連絡を行っていました。まさに本土決戦に備えた日本の海防の要だったのです。

また、この基地の通信兵として暗号解読などにあたっていたのが作家・梅崎春生です。彼はここで終戦を迎え、その時の体験をもとに戦争文学の傑作と言われる小説「桜島」を書きました。この基地は小説の舞台でもあり、「文学遺産」ともいえる場所なのです。

   《引用終了》

但し、そこに出る基地の配置図と、本文の前に出た、「居住区」は「崖下の洞窟より一回り小さい入口が、やはり竹や樹で小うるさく擬装してあって、電線が岩肌を何本も這って居た。壕はU字形をしているらしかった。身体をかがめて入って行った」ところ、「壕の一番奥は送信所になっていて、発電機とか送信機がごちゃごちゃ置いてある。そこで電信の先任下士官などに会い、あいさつをした。送信所に到る通路が、いわば居住区の形で、寝台や卓子(テーブル)が並んでいた」といった描写から、このリンク先に示された場所の上方が実際の舞台で、現在の「桜島自然恐竜公園」そのものが本作のロケーションであったと考えてよいように思われる。――そして地図上のネット情報から――この岬及び一帯の地名――「方崎(ほうざき)」と呼称する――ことが判明した。この遺跡は現在の桜島港フェリー・ターミナルから三百メートルほどの直近である。今度、必ず行ってみたい。

「そのこちらが軍用の船着広場」現在の桜島港の北方部に相当する。

「放水塔」実物を想像出来ない。本来の目的は艦船の火災を消化するためのものか。識者の御教授を乞う。

「桜島岳」錦江湾にある東西約十二キロメートル・南北約十キロメートル・全周約五十五キロメートル・総面積約七十七平方キロメートルの火山。北岳が最高峰で標高千百十七メートル、中岳が標高千六十メートル、南岳が標高千四十メートルで他に側火山が複数ある。峰と本基地(桜島港近傍)の位置関係は参照したウィキの「桜島」の「集落と山の地図」の図で確認されたい。

「代赭(たいしゃ)色」くすんだ黄色い赤。やや明るい茶色。一般に赤土から作られる天然の酸化鉄顔料の色をさす。茶色よりも赤みと黄色みが少し強い。赤土は別名「赭」とも称し、中国の代(だい)州(現在の山西省東北部)で産出する赤土が有名だったことが漢名の由来。

「男は、双眼鏡を眼から離すと、栗の木の電話機に飛びついた。呼鈴をならした。此のような山の中で聞く呼鈴の音は、妙に非現実的に響いた」このシチュエーション自体が奇体で「非現実」というより、超現実的、シュールレアリスティクである。その印象づけによって我々にこのロケーションが今はその広大な景色とともに不思議に沈澱する。春生の得意な伏線配置である。

「鹿屋」大隅半島の中央部に位置する鹿屋市。旧肝属郡郡役所がここに置かれて以降、近代都市として発展したが、特に昭和一一(一九三六)年に市内(当時の鹿屋町・大姶良(おおあいら)村の境)に『日本海軍航空隊の基地が置かれ、真珠湾攻撃訓練の中核地となり、第二次世界大戦中は特攻隊の出撃基地と』して有名であった。『戦後も海上自衛隊の鹿屋航空基地が置かれ、現在でも国防の一大拠点都市としての役割が強い。防空壕も数多く残されて』いるとある。因みに最初の鹿屋市の市制施行は昭和一六(一九四一)年五月二十七日で海軍記念日に合わせてある(以上はウィキの「鹿屋市」に拠った)。この「岬」、は方崎からは東南に約三十四キロメートルほどある。

「寝棺」「ねかん・ねがん」と読む。私は「ねがん」と読みたい。見慣れた普通の死者を寝かせた状態で入れる長い棺である。明治期まで普通であった遺骸を座らせて入れるように作った「座棺・坐棺」の対語である意識を我々は最早、失ってしまっている。

「鹿児島」方崎からは凡そ真西に三・五キロメートルほどの直近である。

「暫くして待避もとへのサイレンが遠く山の下から聞えて来た」言わずもがな、空襲の警報解除のサイレンで、空襲が終わった事を告げるもの。当初は一分(後に三分に改正されたという)連続一回のもの。叙述から見て、空襲警報のサイレン(四秒鳴らして八秒休止を五回繰り返す)は発見から短時間であったことからか、鳴らされてはいないように読める(サイレンの具体はネットのQ&Aサイトの回答に拠った)。

「グラマンがよくやって来るね」これは坊津に居た頃からの村上兵曹の認識上の発言で、所謂、アメリカ軍の本土上陸を間近に感じていた主人公の謂いであると私は認識する。

「夜でも、うっかりすると鳴いているのですよ」蟬は或る温度以上(摂氏二十四度から二十六度)でよく鳴く。私は二十代の初め、鎌倉の横浜に接した端の、壮大な栗林の側の化石のように古いアパートに住んでいたが、盛夏の頃は夜中に盛大に鳴かれ、よく吃驚させられて眼が覚めたものである。

「兵隊でいるよりはいいでしょう」下士官より下位の兵卒の謂いである。

「つくつく法師」有翅昆虫亜綱カメムシ目(半翅目)ヨコバイ亜目(同翅亜目)セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opaliferaウィキの「ツクツクボウシ」に、『北海道からトカラ列島・横当島までの日本列島、日本以外では朝鮮半島、中国、台湾まで、東アジアに広く分布』し、『平地から山地まで、森林に幅広く生息する。地域によっては市街地でも比較的普通に発生する(盛岡市など)が、基本的にはヒグラシと同じく森林性(湿地性)であり、薄暗い森の中や低山帯で多くの鳴き声が聞かれる。この発生傾向は韓国や中国でも同様である。成虫は特に好む樹種はなく、シダレヤナギ、ヒノキ、クヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。警戒心が強く動きも素早く、クマゼミやアブラゼミに比べて捕獲が難しい』。成虫は七月から『発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる』八月下旬から九月上旬頃には『鳴き声が際立つようになる』。九月下旬には『さすがに数が少なくなるが、九州などの西南日本では』十月上旬に『鳴き声が聞かれることがある。なお、後述のように八丈島や岡山・長崎では』七月上旬から『鳴き始めることが知られている』とある(リンク先で二つの鳴き声を聴ける)。本作の極めて重要な伏線アイテムである。

「応召」は「おうしょう」と読み、在郷軍人(補充兵も含む)などが召集に応じて軍隊に入ることを言う。実際の梅崎春生も形の上で応召である。何故なら既に注したように、彼は昭和一七(一九四二)年卯一月に津島重砲隊に入隊するも、肺疾患により即日帰郷して、療養生活に入っていたからである。その後は実は昭和十九年三月には、軍役の徴用を恐れ、戦前より席を置いていた東京市教育局研究所を辞し、東京芝浦電気通信工業支社に転職したりしている。しかし、六月に海軍に召集されて佐世保相ノ浦海兵団に入団している(底本別巻年譜に拠る)。

「まだですよ。あれは八月十日すぎ」梅崎春生が桜島の海軍基地へ赴任した正確な日時は不明である。本作冒頭では「七月初、坊津にいた」で始まりこの台詞であるから、ここでの作品内時間としては、七月中下旬が想定されている。

「佐世保海兵団、御存じでしょう、十分隊」具体な名称あからさまに出していることに注意したい。以前に注した通り、梅崎春生は佐世保海兵団に入り、そこから防府の海軍通信学校に派遣された後、再び佐世保へ呼び返された後、佐世保通信隊に配属されている。彼が佐世保海兵団の第十分隊であったかどうかは不詳乍ら、ここ以下には春生の軍隊経験での強烈な怨念が暴露されていると読んで間違いないと私は思っている。

「烹炊所(ほうすいじょ)」兵員烹炊所。一般には軍艦の台所をこう呼称する。

「サイパンが陥(お)ちた直後」これはこの前年である昭和一九(一九四四)年六月十五日から七月九日にかけて行われたアメリカ軍と日本軍の北マリアナ諸島のサイパン島に於ける戦闘を指す。斎藤義次中将が指揮する第四十三師団を主力とした日本軍が守備したサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第二海兵師団・第四海兵師団・第二十七歩兵師団が上陸、激しい戦闘の末、日本軍は全滅している。七月九日には日本軍と在留邦人をサイパン島南端に追い詰め、日本兵や在留邦人の多くが自決したり、ガケや岸壁から身を投げて(所謂、バンザイ・クリフ(Banzai Cliff)のこと。サイパン島最北端の岬で正式名称はプンタンサバネタ(プンタン平原)という)、この日を『以ってアメリカ統合遠征軍司令リッチモンド・K・ターナー中将はサイパン占領を宣言した』。但し、『残ったわずかな日本軍地上部隊はゲリラ化し、遊撃戦に移行して各個で戦闘を継続した。日本のポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸海軍将兵は遊撃戦を継続していたが、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。タッポーチョ山を拠点としていた』歩兵第十八連隊衛生隊の『大場栄陸軍大尉以下』四十七名の部隊は昭和二〇(一九四五)年十一月二十七日(発令自体は二十五日)に独立混成第九連隊長の天羽馬八陸軍少将の正式の命を受けて、同年十二月一日に『軍歌(彼らの部隊の隊歌と「歩兵の本領」)を歌って戦没者の霊に弔意を示しながら山を降り投降した。彼らは、大本営のサイパン放棄を知らず、必ず友軍がサイパンを奪還に来ると信じていたという。大規模な投降としては最後のものである』と、ウィキの「サイパンの戦い」他にはある。

「今年も、どのような瞬間にあの虫が鳴き出すかと思うと、いやな予感がしますよ」春生の強烈な伏線である。

「秋になって、見張の講習に行ったのです。いろいろつらいこともあったのですよ」先に注したように、梅崎春生は明治十九年六月に海軍から召集令状を受け(この時、春生満二十九歳)、佐世保海兵団に入り、そこから防府の海軍通信学校に派遣されて、暗号特技兵になっている(彼はその上に下士官候補の速修を受けて通信科二等兵曹となっている)。この兵士もある意味、梅崎の――そうであったかも知れない分身――であったのだと私は思うのである。

「善行章」ウィキの「善行章」より引く。『行を表彰するための章。戦前の大日本帝国海軍に於て定められていた』。『帝国海軍の善行章は山型の臂章(ひしょう。肘から下に付ける飾線))で、入営より三年間大過なく任務を遂行した者に善行章一線の着用が許され、その後三年毎に一線ずつ追加された。さらに、戦功を挙げた者には特別善行章も授与された。善行章は特別善行章と合わせて最高で』五本まで佩用(身体に付けて用いること)することが許され、『軍服の右腕部分、階級章の上に縫いつけられた。善行章は階級社会である軍隊において畏怖される権威を有するものであり、受章本数により俸給にも相違があった。授与本数の多い下士官兵は部下の者の畏敬を集めたという。なお、善行章を受章する際、その受章を証する善行証書を附典(授与)された』。『大日本帝国陸軍や戦後の自衛隊では、同様のものとして精勤章が定められている。地域の消防機関である消防団でも精勤章または優良章という名で同様に年功や精勤による臂章の付与を行う習慣がある』とある。

「特務少尉」既注の中で述べたが再掲する。特務士官の一種特務士官は、海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても将校とはなれず、将校たる「士官」よりも下位とされた階級を指す兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった。

「精神棒」日本海軍及び陸軍に於いて、古参兵・下士官が新兵を「教育」するという名目の「しごき」、体罰に用いられた硬い樫の木で出来た太い棒のこと。鞭や、その場にあった竹刀・木刀・バット・箒の柄・杓文字等で代用することもあった。孰れも兵士の尻目がけてフルスィングで叩きつけた。元は日本海軍に於いて、入隊者から人間性を奪いとり、命令には絶対服従する兵隊に仕立てることを目的で行われた虐待行為の際に使用する木の棒で、起源は英国海軍にあり、日本海軍でも通常英語で「バッター」と呼ばれ、敵性語を廃した当時は「軍人精神注入棒」と書かれていたらしい(以上はネット上の「航空軍事用語辞典」と「ピクシブ百科事典」を参照した)。

「沖繩の戦終り、既に潰滅したこと」主な戦闘が沖繩本島で行われた沖繩戦は、昭和二〇(一九四五)年三月二十六日に始まり、組織的な戦闘は本小説内時間の前月である同年六月二十日乃至六月二十三日に終了したとされている(日付はウィキの「沖縄戦」に拠った。因みに、「蟬」同様、私は「縄」という字が生理的に許せない。引用以外では、総て「繩」とする。幸い、底本は表記通り、「繩」となっている)。

「赤痢」下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症。従来、赤痢と呼ばれていたものは、現代では赤痢菌による細菌性赤痢とアメーバ性赤痢(寄生虫症に分類)に分けられる。前者の国内患者は激減しているが、海外渡航者の帰国後発症はしばしば見れる。かくいう私の妻もかつて一緒に行ったトルコでシゲラ・ゾンネ(Shigella sonnei:D群赤痢菌・ソンネ赤痢菌)一相(いっそう)に罹患し、しっかり鎌倉の額田病院に隔離された。なお、梨(バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ヤマナシ変種ナシ(和梨・日本梨) Pyrus pyrifolia var. culta Pyrus pyrifolia)を赤痢感染源とするような説は私の知る限りでは認められない。ただ、私の親族には小さな頃に「梨を食べて亡くなった」とされる人物がおり、親戚の中には「多食すると、腹が冷えて消化も悪くなり、激しい腹下しを起すからよくない」と真顔で言う者がいることは事実である。私は、原因不明の病気や、知られたくない事故、或は赤痢(赤痢も感染力は強いのだが)もっと激しく忌み嫌われた感染症などで亡くなった子どもを、昔は――青梅や梨を食って死んだ――と誤魔化したのだ、と思っている。

「湾内で獲れるらしい細長い小さな魚」条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン科キビナゴ亜科(或いはウルメイワシ亜科)キビナゴ属キビナゴ Spratelloides gracilisウィキの「キビナゴ」によれば、成魚は全長十センチメートルほど、『体は前後に細長い円筒形で、頭部が小さく口先は前方に尖る。体側に幅広い銀色の縦帯があり、その背中側に濃い青色の細い縦帯が隣接する。鱗は円鱗で』、一縦列の鱗は三十九枚から四十四枚であるが、『剥がれ易く、漁獲後にはほとんど脱落してしまう。海中にいるときは背中側が淡青色、腹側が白色だが、鱗が剥がれた状態では体側の銀帯と露出した半透明の身が目につくようになる』。『ニシン科の分類上ではキビナゴ亜科が設定されているが、ウルメイワシに近縁のウルメイワシ亜科とする見解もある』。種小名の“gracilis”は「薄い」「細い」などの意で、同種の『細長い体型に由来する』とあり、『刺身、煮付け、塩ゆで、天ぷら、唐揚げ、南蛮漬け、干物などで食べられる』とある(下線やぶちゃん)。

「私は、応召以来、佐鎮(さちん)の各海兵団や佐世保通信隊や指宿(いぶすき)航空隊で、兵隊として過ごして来た」「指宿」は当時の鹿児島県旧揖宿(いぶすき)郡指宿村。現在は指宿市で鹿児島県薩摩半島の南端にあって、「砂蒸し」で有名な摺ヶ浜(すりがはま)を有する温泉として知られる。何度も注してきたように、梅崎春生は、召集されてまず、「佐鎮」(佐世保鎮守府)の佐世保海兵団に入った。そこから防府の海軍通信学校に派遣された後、佐世保に戻されて佐世保通信隊に配置となった後、昭和二〇(一九四五)年の初め頃には最初の実施部隊として指宿航空隊の通信科に転勤しており、同年の五月には主人公村上と同じ海軍二等兵曹に任官しているのである。

「銀河」大日本帝国海軍が開発・実用化した双発爆撃機。海軍の航空機関連技術開発を統括する航空技術廠が大型急降下爆撃機として開発した機体であったが、同海軍の一式陸上攻撃機(一式陸攻)の後継機として太平洋戦争後半の戦闘に投入された(「陸上攻撃機」とは陸上基地から発進して敵主力艦隊に対して魚雷攻撃を行うことを主たる目的として開発された雷撃機を指す)。以下、参照したウィキの「銀河航空機より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一九四二年(昭和十七年)六月から完成し始めた試作機は』、高度五千五百メートルでの最高速度時速五百六十六・七キロメートル航続距離五千三百七十一キロメートル、急降下最終速度時速七百三・八キロメートルという『海軍の要求を超える高性能を発揮した。戦況の悪化から早期の実用化が求められたため、通常は空技廠での性能試験終了後に行われる横須賀航空隊での実用試験が性能試験と平行して行われ、一九四三年(昭和十八年)八月には転換生産を行う中島飛行機製の試作機も完成、同年十一月から本格的に量産が開始された』。『一九四四年(昭和十九年)十月に陸上爆撃機銀河一一型(P1Y1)として制式採用されたが、実際には最初の実戦部隊である第五二一航空隊はその一年以上前に開隊していた。第五二一航空隊はマリアナ沖海戦とニューギニア戦線に投入されたが、アメリカ海軍の猛攻により壊滅した。その後も、台湾沖航空戦、レイテ戦、九州沖航空戦、沖縄戦等に投入された』。『銀河による戦果としては、台湾沖航空戦にて一九四四年十月十四日の夜間雷撃で、第七六二航空隊の銀河四機が軽巡ヒューストンを雷撃、三機は迎撃機に撃墜されたが残る一機の投下した魚雷が命中し、あわや撃沈という程の損傷を受けた。ヒューストンはそのまま終戦まで復帰できず、前日に一式陸攻の雷撃で大破した重巡キャンベラと台湾沖航空戦での数少ない戦果となった』。『一九四五年(昭和二十年)三月十日・十一日に実施された第二次丹作戦(ウルシー環礁のアメリカ艦隊奇襲攻撃)において、二式大艇に誘導された第五航空艦隊梓特別攻撃隊の銀河二十四機(発進後、機体不調で七機が脱落)が九州の鹿屋基地を午前九時二十五分に発進。直線距離二千三百キロメートル(実際飛行経路約二千九百三十キロメートル)を飛行した後、午後七時前後』の薄暮、『特攻攻撃を決行。福田幸悦大尉機といわれる一機がタイコンデロガ級航空母艦「ランドルフ」の艦尾を大破させた。同じく一九四五年三月の九州沖航空戦時に第五航空艦隊第七六二航空隊の銀河一機が、急降下爆撃により四国南方沖でエセックス級航空母艦「フランクリン」に二百五十キログラム爆弾二発を命中させて、同艦を沈没寸前まで追い込んだことが有名である』。『また第七六五海軍航空隊攻撃四〇一飛行隊において銀河に下向きに二〇ミリ斜め銃』(斜銃(しゃじゅう):戦闘機の機体背面に上向きに取り付けられた航空機関砲)『を一〇~一二挺を搭載し対地攻撃に使用する案が出された。高雄の第六十一航空廠で改造が行われ、おそらく合計で三機が改造された。三月二十二日夕刻銃装機三機を含む九機が台南基地を離陸』、『リンガエン周辺飛行場への空襲へ向かった。しかしリンガエン東方十数キロのダグパン飛行場を銃撃し三カ所の炎上を確認したのが銃装機唯一の確認戦果である。この後爆撃による攻撃を重視し銃装機活躍の機会は来なかった』。『高性能を追求した本機の機体や発動機の構造は複雑なものがあり、生産性・整備性はあまり芳しいものではなかった。特に誉発動機の故障が多く、稼動率の低下に拍車をかけ、搭乗員や整備員にとって大きな負担となったが、一式陸攻に代わる主力爆撃機として終戦まで戦い続け、各型合計で約千百機生産された。終戦時の残存機数は百八十二機』であった。『機体や発動機に余裕がない点を「国滅びて銀河あり」(杜甫の詩「春望」の冒頭「国破れて山河あり」のもじり)と揶揄されたという』。当時、『現用の夜間戦闘機月光(J1N1-S)より高速かつ搭載能力に優れていたことから、比較的早い段階から夜間戦闘機への転用が構想されており、月光が夜間迎撃で初戦果を挙げた一九四三年(昭和十八年)五月、川西に対して P1Y1 夜戦改修型(後の試製極光)の開発が命じられている。主な改修点は火星二五型への発動機換装と二〇ミリ斜銃の追加装備で、一九四三年七月に設計終了、昭和一九年(一九四四年)五月に試作一号機が完成している。その後、少数が部隊配備されたもののB-29の迎撃には速度や高高度性能が不足と判定され、ほとんどの機体は爆撃機型の銀河一六型に再改修されている』。『海軍正式の開発計画である試製極光とは別に、実戦部隊である第三〇二航空隊において、銀河一一型または一六型に二〇 ミリまたは三〇ミリ斜銃を追加装備した夜間戦闘機型への改修が行われている。この改造夜間型は試製極光とは異なり、斜銃の他に三号爆弾を搭載してB-29の夜間迎撃に投入され、撃墜戦果を報じている』。『アメリカ軍により戦後接収された一一型が一機だけスミソニアン博物館に分解保存されている』とある(下線やぶちゃん)。以上から、この電報の銀河も夜間出撃であった可能性が高いか。

「予科練」大日本帝国海軍に於ける志願制の航空兵養成制度の一つである海軍飛行予科練習生の略称。参照したウィキの「海軍飛行予科練習生」によれば、昭和四(一九二九)年十二月の『海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で』満十四歳以上二十歳未満、教育期間は三年(後に短縮された)、その後一年間の『飛行戦技教育が行われた。全国からの志願者』五千八百七名から七十九名が合格し、昭和五(一九三〇)年六月、『第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)』。昭和一一(一九三六)年十二月には『「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称』し、翌年には『更なる搭乗員育成の為、旧制中学校』四学年一学期修了以上(昭和一八(一九四三)年の十二期生より三学年修了程度と引き下げられた)の学力を有し、年齢は満十五歳以上二十歳未満の『志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。甲飛の募集の際、海軍兵学校並みの待遇や進級速度が喧伝され、また甲飛の応募資格が海軍兵学校の応募資格』(旧制中学校四学年修了程度)『と遜色なかったために、海軍の新設航空士官学校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。ところが、兵学校相当の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵団で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中学後輩に「予科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になった』とある。『戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては』約九十%が『戦死するという結果になっている。また』、昭和一九(一〇四四)年に『入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている』。同十九年『夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた』。『終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて「どかれん」と呼び自嘲気味にすごした。例えば三重の予科練では、朝鮮半島の人々を予科練教官が指揮して、軍艦を隠すための穴を掘らせるなどの行為が行われた』。昭和二〇(一九四五)年六月には『一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった』とある(下線やぶちゃん)。

「古ぼけた練習機」恐らくは大日本帝国海軍の練習機「赤とんぼ」、九三式中間練習機(K5Y)であろう。日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていたが、本機はその内の代表的な機体の一つで、陸軍のそれは九五式一型練習機でやはり同じく「赤とんぼ」と呼ばれた。

「水上特攻隊員」「水上」は「すいじょう」で、先に注したベニヤ板張りのモーター・ボートの船内艇首部に炸薬を搭載、搭乗員が操縦して目標たる敵艦艇に体当たり攻撃を行った「震洋」の特攻隊員を指す。

「国民学校」昭和一六(一九四一)年三月公布の国民学校令によって、同年四月よりそれ以前の小学校が国民学校という名称に改められた。初等科六年・高等科二年で、他に国民学校の高等科二年の修了者を対象とする特修科一年を置くことも出来た。

「阿弥陀」帽子を後ろ下がりに被(かぶ)る阿弥陀被り。前を上げて斜めに傾けて被り、前髪を風に曝すようにすること。語源は、阿弥陀像の頭部に顕著に見える後ろの光背(後光の表象)部が垂直に近く造形されることから、帽子を後ろに傾けて垂直に近づけることをそれに譬えたものらしい。

「設営隊」海軍設営隊。大日本帝国海軍に属した基地施設の建築や陣地・築城を任務とした部隊で、太平洋戦争中に二百隊以上が編成され、南方の最前線を含め、各地で飛行場などの建設を行った。初期には設営班と呼ばれ、当初は軍属(武官又は徴集された兵である軍人以外で軍隊に所属する者を指す)主体であったが、徐々に軍人による編制が増えた。『フィリピンを中心とした南方及び台湾や沖縄、日本本土各地へ配備された。神風特攻隊用の飛行場建設のほか、日本本土では工場の地下疎開なども任務としながら終戦まで活動を続けた』が、『主に軍属部隊であることや臨時に編成される場合が多いことから』、『史料が極端に少なく、その組織や活動地域は不明なものが多い』。詳しくは参照・引用したウィキ海軍設営隊を読まれたい。

『「呂」の厚い暗号書』「呂(ろ)」暗号書は昭和一七(一九四二)年十二月以降に大日本帝国海軍の全部隊が使用した暗号書(暗号書は複数あるがその主たるもの)。それまでは「海軍暗号書D(デイ)」(「呂」以前に使用されていた最も良く用いられた海軍『一般暗号書。単語あるいは文字を5桁の数字に変換する1次暗号書と5桁の乱数を並べた乱数表で構成される(それ以外に地点名をアルファベット2文字に変換する地点略号表があった』。昭和一五(一九四〇)年十二月一日から使用されていたが、実は『アメリカ軍はこの暗号の3割、使用頻度の高いものは9割を解読していた。ミッドウェー海戦等の敗因もこの暗号の解読だと言われる』。次の私の「乱数盤」の注も参照のこと)が使用されていたが、ミッドウェー海戦(昭和一七(一九四二)年六月五日から七日に北太平洋ハワイ諸島北西にある環礁ミッドウェー島で行われた日米海軍の戦闘)に於いて重巡洋艦「三隈」が放置され、その最後を確認した者がいなかったことから、「呂」への変更がなされた(引用部を含め、ウィキ海軍暗号書Dに拠る)。

「乱数盤」その時に使用されていた乱数表のことであろう(以下に引くように乱数表は数ヶ月で変更更新された)。「呂」暗号書以前の「海軍暗号書D」のケースであるが、吉田昭彦解読されなかった海軍暗号(雑誌『丸』の『Sep. '01』からの引用らしい)に以下のようにある(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。大日本帝国海軍の暗号は『一般暗号書で5桁の数字に変換したものを、そのまま送信しない。「乱数」、無作為に並べた5桁の数を、「非算術加減法」によって加えた数字を送信する』。『非算術加減法とは、桁の繰上げをしない加法、逆に、自動的に桁の繰り下げをする減法である。5+6=11ではなく1、1-6=-5ではなく5とする加減法である』。『これらの乱数表には「海軍D暗号第号乱数表」といった識別名があり,定期的に,通常6ヵ月ごとに更新された』。『戦記物には、一般暗号書の改訂と、乱数表の更新とが混同されている場合も多い』。『戦術暗号用の一般暗号書は,ただ一つ「替字表」である.替字表には,縦横,0から9の数字欄があり,仮名文字「い」は,縦欄の「0」と横欄の「1」とを組み合わせて「01」、「ろ」は「02」、数字「0」は「00」、「1」は「11」といった2桁の数字に置き換えるものである』。『替字表自体には秘匿性は全くない。日本海軍の電信員は、100個の文字、数字、記号など全てを暗記していた』。『筆者が若い頃、部下だった旧海軍通信員のベテラン海曹は、普通に文字を書く速さで、文字を数字に、数字を文字に置き換えることができた』。(海曹は兵曹のことであろう。主人公村上も二等兵曹である)。『秘匿性は、使用目的、通信系統別などによって区分された、2文字1組の4桁の乱数を加えることで付与された。これらの乱数表は、艦艇部隊用「甲」、陸上部隊用「乙」、航空部隊用「F」、商船運航統制用「S」などがあった。暗号強度が弱いので、2ヵ月ごとに更新されることになっていた』とある(下線やぶちゃん)。

「前へ支え」腕立て伏せの腕を伸ばした状態を維持するトレーニング。通常は主に腹筋を鍛えるために行う。参照した「2チャンネル」の投稿には、現在の自衛隊などではこの状態をを二十分ほど続けるとある。

「三尺」九〇・九センチメートル。

「膂力(りょりょく)」筋肉の力。特に腕力。「膂」は原義は背骨であるが、筋骨の力や体力、「荷(にな)う」の意も持つ。

「痼疾(こしつ)」容易に治らず、長い間、悩まされている病気。持病。「痼」は「こびりつくこと」「しこり」「永病(ながや)み」「長患(ながわずら)い」の意。]

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